(Translated by https://www.hiragana.jp/)
佐貫藩 - Wikipedia コンテンツにスキップ

佐貫さぬきはん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐貫さぬきはん(さぬきはん)は、上総かずさこく天羽あもうぐん佐貫さぬき現在げんざい千葉ちばけん富津とみつ佐貫さぬき)の佐貫さぬきしろ居城きょじょうとしたはん徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入部にゅうぶ内藤ないとう佐貫さぬきあたえられて以降いこう幕府ばくふりょうとなった時期じきはさみつつ譜代ふだい大名だいみょう交代こうたいしておさめた。1710ねん以降いこう阿部あべ1まん6000せきはんとなり、廃藩置県はいはんちけんむかえている。

歴史れきし

[編集へんしゅう]
佐貫藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉ちば
木更津
木更津きさらづ
館山
館山たてやま
大多喜
大多喜おおたき
久留里
久留里くるり
佐貫
佐貫さぬき
勝山
勝山かつやま
関連かんれん地図ちず千葉ちばけん[注釈ちゅうしゃく 1]

前史ぜんし

[編集へんしゅう]

佐貫さぬきしろは、戦国せんごく時代じだい後期こうき戦国せんごく大名だいみょう里見さとみ義弘よしひろ居城きょじょうかまえたことでられている。小田原おだわら征伐せいばつ里見さとみには安房あわ1こくのみ安堵あんどされて上総かずさこくり、わって徳川とくがわ家康いえやす上総かずさこくた。

内藤ないとう家時いえときだい

[編集へんしゅう]

関東かんとう入部にゅうぶした家康いえやすは、譜代ふだい家臣かしん内藤ないとう家長かちょう上総かずさこく佐貫さぬきれ、2まんせきあたえた。これが佐貫さぬきはん起源きげんとなる。慶長けいちょう5ねん1600ねん)、鳥居とりい元忠もとただまつ平家ひらかただしとも伏見ふしみじょうにあった家長かちょうは、西にしぐん石田いしだ三成みつなりらの挙兵きょへいさそ役割やくわりたした。関ヶ原せきがはらたたか前哨ぜんしょうせんとなるふく見城けんじょうおさむ防戦ぼうせんで、家長かちょうもとちゅういえちゅうとも戦死せんししている。

内藤ないとう家督かとく嫡男ちゃくなん政長まさながぎ、慶長けいちょう7ねん1602ねん)11月22にちには上総かずさこく天羽あもうぐんないにおいて1まんせき加増かぞうされた。その政長まさなが里見さとみ忠義ただよし改易かいえき館山たてやましろやぶ工事こうじ大坂おおさかじんにおける功績こうせきなどを評価ひょうかされて、元和がんわ元年がんねん1615ねん)3がつ25にち安房あわこくたいらぐん勝山かつやまにおいて1まんせき加増かぞうされた。元和がんわ5ねん1619ねん)11月、徳川とくがわ秀忠ひでただ上総かずさにおける鷹狩たかがしたがったことからさらに5000せき加増かぞうされ、都合つごう4まん5000せき大名だいみょうとなった。

元和がんわ8ねん1622ねん)9がつ28にち政長まさなが陸奥みちのくこく磐城いわきひらはん加増かぞううつりふうとなった。

ふたつの松平まつだいら柳沢やなぎさわ吉保よしやす幕府ばくふりょう時代じだい

[編集へんしゅう]

内藤ないとう政長まさなが所領しょりょう分割ぶんかつされ、安房あわ勝山かちやま3まんせき内藤ないとう清政きよまさ政長まさなが同族どうぞくだがべつ系統けいとう)に、上総かずさたすくぬき1まん5000せき松平まつだいら忠重ただしげ桜井さくらい松平まつへい)にあたえられた。忠重ただしげ武蔵むさしこく深谷ふかやで8000せき知行ちぎょうしていたが、7000せき加増かぞうされて大名だいみょうれつしたものである。寛永かんえい10ねん1633ねん)8がつ9にち忠重ただしげ駿河するがこく田中たなかはん加増かぞううつりふうされ、佐貫さぬきはんはいはん幕府ばくふりょうとなった。

寛永かんえい16ねん1639ねん)1がつ28にち寺社じしゃ奉行ぶぎょうであった松平まつだいら勝隆かつたか能見のうみ松平まつへい)が1まん5000せきはいったことから、佐貫さぬきはんさいたてはんする。勝隆かつたか寛文ひろふみ6ねん1666ねん)2がつ3にち死去しきょし、あと養嗣子ようしし重治しげはるいだ。重治しげはる奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう歴任れきにんしたが、貞享ていきょう元年がんねん1684ねん)11がつ10日とおか不正ふせいつみわれて改易かいえきとなった。このため、佐貫さぬきはん再度さいどはいはんとなる。

元禄げんろく元年がんねん1688ねん)、将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし寵臣ちょうしん側用人そばようにん就任しゅうにんした柳沢やなぎさわ保明やすあき(のち吉保よしやす)が、加増かぞうけて1まん2000せき大名だいみょうとなり、佐貫さぬきしろあたえられた。柳沢やなぎさわ保明やすあきはその2にわたって加増かぞうけ、元禄げんろく5ねん(1691ねん)に石高こくだかは3まんせきになっている。元禄げんろく7ねん(1694ねん)、保明やすあき武蔵むさしこく川越かわごえはん加増かぞうてんふうされ、佐貫さぬきはんさんたびはいはんとなる。

阿部あべ家時いえときだい

[編集へんしゅう]

宝永ほうえい7ねん1710ねん)5がつ23にち三河みかわこく刈谷かりやはんから阿部あべただしが1まん6000せきはいり、ふたた佐貫さぬきはんたてはんする。寛政かんせい8ねん1796ねん)に藩校はんこう誠道せいどうかん設立せつりつ天保てんぽう13ねん1842ねん)に領内りょうない天羽あもうぐん大坪おおつぼさん現在げんざい東京湾とうきょうわん観音かんのん付近ふきん)に砲台ほうだいきずいて江戸えどわん警備けいびにあたった。

8だいやく150ねんつづいた阿部あべ家時いえときだいについては比較的ひかくてき史料しりょうのこされており、天羽あもうもち市原いちはらの3ぐん分散ぶんさんされていたことや、天保てんぽう14ねん1843ねん作成さくせい分限ぶげんちょうには年寄としより家老がろう以下いか藩士はんし総数そうすうが213めいであったこと、財政難ざいせいなんのために役職やくしょく増加ぞうかしても人員じんいんやせずに重臣じゅうしんきゅうでも複数ふくすう役職やくしょくねたなど、当時とうじ譜代ふだいはんきびしい状況じょうきょうられている。また、江戸城えどじょうかりあいだつめ譜代ふだい大名だいみょうとしておおくの幕府ばくふ将軍家しょうぐんけ関係かんけい儀式ぎしき参加さんかしており、そのさい記録きろくおお現存げんそんしている(国立こくりつ史料しりょうかん所蔵しょぞう阿部あべ文書ぶんしょ」)。

最後さいご藩主はんしゅとなった阿部あべ正恒まさつねは、慶応けいおう4ねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそう幕府ばくふがわくみしたことからつみわれて謹慎きんしん処分しょぶんとなったが、同年どうねん10がつゆるされた。翌年よくねん版籍はんせき奉還ほうかんはんごととなり、明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん佐貫さぬきはんはいはんとなった。その佐貫さぬきけんとなったが同年どうねん11がつはいされて木更津きさらづけんとなり、のち千葉ちばけん編入へんにゅうされた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

[編集へんしゅう]

内藤ないとう

[編集へんしゅう]

譜代ふだい 2まんせき→3まんせき→4まんせき→4まん5000せき

  1. 内藤ないとう家長かちょう
  2. 内藤ないとう政長まさなが

松平まつだいら桜井さくらい

[編集へんしゅう]

譜代ふだい 1まん5000せき

  1. 松平まつだいら忠重ただしげ
はいはん

松平まつだいら能見のうみ

[編集へんしゅう]

譜代ふだい 1まん5000せき

  1. 松平まつだいら勝隆かつたか
  2. 松平まつだいら重治しげはる
はいはん

柳沢やなぎさわ

[編集へんしゅう]

譜代ふだい 1まん2000せき→2まんせき→3まんせき

  1. 柳沢やなぎさわ保明やすあき
はいはん

阿部あべ

[編集へんしゅう]

譜代ふだい 1まん6000せき

  1. 阿部あべただし
  2. 阿部あべただしきょう
  3. 阿部あべただし
  4. 阿部あべ正実まさみ
  5. 阿部あべただし
  6. 阿部あべただし
  7. 阿部あべただし
  8. 阿部あべ正恒まさつね

幕末ばくまつ領地りょうち

[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしんのちに、天羽あもうぐん19むらきゅう前橋まえばしはんりょう5むらきゅう安房あわ上総かずさともけんごとりょう19むら内訳うちわけきゅうはた本領ほんりょう3むらきゅう佐貫さぬきはんりょう12むらきゅう前橋まえばしはんりょう4むら】)がくわわった。なおあいきゅう存在そんざいするため、むらすう合計ごうけい一致いっちしない。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい

出典しゅってん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
先代せんだい
上総かずさこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1710ねん - 1871ねん 佐貫さぬきはん佐貫さぬきけん
次代じだい
木更津きさらづけん