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内藤ないとう

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内藤ないとう(ないとうし)は、日本にっぽん氏族しぞく中世ちゅうせいから近世きんせいまでさかえた豪族ごうぞく大名だいみょう一族いちぞく。「うち舎人とねり藤原ふじわら」に由来ゆらい[1]

  1. 信濃しなのこくひとし国人くにびと安房あわ勝山かちやまはん信濃しなの高遠こうえんはん藩主はんしゅとう
  2. 丹波たんばこく守護しゅごだい細川ほそかわつかえた。藤原ふじわらしゅうきょうりゅうしょうする。
  3. 長門ながとこく守護しゅごだい大内おおうちつかえた。藤原ふじわらしゅうきょうりゅうしょうする。
  4. 三河みかわこく内藤ないとう松平まつだいらつかえて複数ふくすういえ譜代ふだい大名だいみょうとなり、廃藩置県はいはんちけんまでのこった大名だいみょうはすべて華族かぞく子爵ししゃくいえれっす。藤原ふじわらしゅうきょうりゅうしょうする。
  5. 甲斐かいこく国人くにびと武田たけだつかえた。藤原ふじわらしゅうきょうりゅうしょうする。
  6. 相模さがみこく国人くにびと津久井つくいじょうあるじつとめた。
  7. 若狭わかさ国人くにびと若狭わかさ武田たけだつかえた。
  8. 安芸あき国人くにびと藤原ふじわらじんりゅうしょうし、厳島いつくしま神社じんじゃりょう地頭じとうつとめた。

藤原ふじわらきたしゅうきょうりゅう内藤ないとう

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鎌倉かまくら時代ときよみなもと頼朝よりともつかえた内藤ないとうもり先祖せんぞにあたるとされる。

内藤ないとう丹波たんばけい

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丹波たんば内藤ないとう
本姓ほんせい ふじせいしゅうきょうりゅう内藤ないとう
いえ 内藤ないとうこうしゅん
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 丹波たんばこく
おも根拠地こんきょち 丹波たんばこく
著名ちょめい人物じんぶつ 内藤ないとうもとさだ
内藤ないとう国貞くにさだ
内藤ないとう如安じょあん
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

藤原ふじわらしゅうきょうりゅう一族いちぞくとされるが前歴ぜんれき不明ふめいである。しかし、細川ほそかわないしゅとされていることから、細川ほそかわ直属ちょくぞく家臣かしんであったとおもわれる。えいとおる3ねん1431ねん)に丹波たんば守護しゅごだいである香西こうざいもと罷免ひめんされると、細川ほそかわきょうちょういえ被官ひかんである内藤ないとうしんうけたまわ守護しゅごだい就任しゅうにん入国にゅうこくした内藤ないとう船井ふないぐん八木はちぼく根拠こんきょかまえたことから内藤ないとう丹波たんば支配しはいはじまる。ただし、細川ほそかわ領国りょうごく支配しはい政策せいさくとしてぶんぐん守護しゅごだいせいいていることから、内藤ないとう丹波たんばいちこく支配しはいしていたかどうかは不明ふめいである。

応仁おうにん元年がんねん1467ねん)からの応仁おうにんらんさいには、但馬たじまより出撃しゅつげきした山名やまなかたしょう太田垣おおたがき丹波たんばしょごうしたが夜久野やくの交戦こうせんしている。しかし、文明ぶんめい11ねん1479ねん)に内藤ないとうもとさだ細川ほそかわ被官ひかん一宮いちのみや年貢ねんぐ免除めんじょみとめなかったため、細川ほそかわ当主とうしゅ細川ほそかわまさしもと拉致らちされる事件じけんこり、文明ぶんめい14ねん1482ねん守護しゅごだい罷免ひめんされた。わって守護しゅごだいいたのは上原うえはらけん元秀もとひで親子おやこで、丹波たんば物部もののべ豪族ごうぞくである。細川ほそかわまさしもと信任しんにんあつかったものの驕慢きょうまんいがおおかったため丹波たんばしょ豪族ごうぞくいかりをい、延徳えんとく元年がんねん1489ねん)11月に位田いでんらんこった。あかりおう2ねん1493ねん)、上原うえはら元秀もとひで死亡しぼう上原うえはらけんあかりおう4ねん1495ねん)に失脚しっきゃくし、内藤ないとうもとさだ守護しゅごだいふくまかした。その細川ほそかわ細川ほそかわだかこく細川ほそかわはるもと分裂ぶんれつすると、内藤ないとうさだただしこうこく重臣じゅうしんとして丹波たんばぜいひきい、三好みよしなが阿波あわぜいたたかった。これが等持院とうじいんたたかである。なお、さだせいおとうと内藤ないとうひさきよしがおり、ひさきよしちゅうだいから小西こにししょうした。このつぎちゅう小西こにし行正ゆきまさであり、小西こにしたかしちち小西こにし行長ゆきなが祖父そふにあたる。

しかし、えいただし12ねん1515ねんはち上城かみしろきずいて根拠こんきょとした波多野はたの次第しだい勢力せいりょく増大ぞうだいさせ、波多はた野元のもときよし柳本やなぎもと賢治けんじ兄弟きょうだいだいなが7ねん1527ねん)にこう国政こくせいけんたおすと(かつら川原かわらたたか)、内藤ないとう勢力せいりょく後退こうたいする。天文てんもん2ねん1533ねん)に波多野はたの内藤ないとう国貞くにさだやぶって丹波たんば手中しゅちゅうにすると天文てんもん7ねん1538ねん)には三好みよしむすんだ波多野はたの秀忠ひでただによって八木はちぼくじょう陥落かんらくさせられた。その国貞くにさだ細川ほそかわこくけいむすんで細川ほそかわ氏綱うじつなようするうごきをせている。

天文てんもん22ねん1553ねん内藤ないとう国貞くにさだは、三好みよし長慶ちょうけい波多野はたのかずかけ山城やましろめたが、後援こうえんあらわれた三好みよし政勝まさかつ香西こうざい元成もとなり攻撃こうげき戦死せんししてしまう。しかし、三好みよし重臣じゅうしんであり国貞くにさだむすめ婿むこであった松永まつながちょうよりゆき内藤ないとう宗勝むねかつ)が嫡男ちゃくなん内藤ないとう貞勝さだかつ[注釈ちゅうしゃく 1]家督かとくがせみずからは後見こうけんやくとしてこれをなおし、波多野はたのくだして、丹波たんばのほぼ全土ぜんど支配しはいした、えいろく5ねん1562ねん)には、前年ぜんねんまで内藤ないとうよもぎくものき宗勝むねかつ名乗なのっていたちちちょうよりゆきが「備前びぜんもり」をしょうするようになっており、貞勝さだかつなんらかの理由りゆう(死去しきょか)で当主とうしゅでなくなっている[4]が、三好みよし長慶ちょうけい死後しごえいろく8ねん1565ねん)8がつ赤井あかい直正なおまさやぶ戦死せんしした。翌年よくねんには宗勝むねかつおい松永まつながまごろくまもはちうえじょう陥落かんらく。 その宗勝むねかつ次男じなん内藤ないとう如安じょあん家督かとくぎ、もとかめ4ねん1573ねん)の足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶなが決戦けっせんさい丹波たんば国人くにびと宇津うつよりゆきじゅうとともに京都きょうと出陣しゅつじん織田おだ信長のぶながたたかっている(槇島まきしまじょうたたか)。天正てんしょう3ねん1575ねん)6がつには織田おだ信長のぶながは、内藤ないとう宇津うつ討伐とうばつへいげ、同年どうねん10がつ黒井くろいじょうたたか今度こんど明智あけち光秀みつひで赤井あかい直正なおまさやぶれたものの、如安じょあん代官だいかんつとめていた亀岡かめおか[5]とされ(のちに1578ねん丹波たんば亀山かめやま築城ちくじょう)、内藤ないとう八木はちぼくじょう落城らくじょうしたのは天正てんしょう7ねん1579ねん)であった。これにより戦国せんごく大名だいみょう内藤ないとう滅亡めつぼうした。

なお、内藤ないとう如安じょあん松永まつながちょうよりゆきであり、キリスト教きりすときょう信仰しんこうしていた。かれ豊臣とよとみ秀吉ひでよしつかえ、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいにも参戦さんせん同族どうぞくいち世代せだいたる小西こにし行長ゆきながとともに講和こうわ交渉こうしょう活躍かつやくしている。のち、加賀かがはんつかえるもキリスト教きりすときょう禁教きんきょうれい発布はっぷされた(1614ねん)、マニラ追放ついほうされ、1626ねん同地どうち死去しきょした。

系譜けいふ

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太字ふとじかくいえ当主とうしゅ実線じっせん実子じっし点線てんせん養子ようし

内藤ないとう周防すおう長門ながとけい

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周防すおう内藤ないとう
本姓ほんせい ふじせいしゅうきょうりゅう内藤ないとう
いえ 内藤ないとうこうしゅん
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 周防すおうこく
おも根拠地こんきょち 周防すおうこく長門ながとこく
著名ちょめい人物じんぶつ 内藤ないとうひろしのり
内藤ないとうきょうもり
内藤ないとう隆春たかはる
内藤ないとうもともり
尾崎おざききょく
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

藤原ふじわらしゅうきょうりゅう一族いちぞく周防すおうこく土着どちゃくした。もりさださとしとく)のだい大内おおうちつかえ、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき以降いこうわしあたまわって長門ながとこく守護しゅごだいつとめた。大内おおうち政弘まさひろつかえたひろのり大内おおうち義興よしおき大内おおうち義隆よしたかつかえたきょうもり著名ちょめいである。きょうもり大内おおうち義興よしおき義隆よしたか補佐ほさし、大内おおうち最盛さいせいをきずきあげた。また、むすめ大内おおうち義隆よしたか側室そくしつとし、安芸あき国人くにびと当主とうしゅ毛利もうりたかしもととつがせ、縁戚えんせき関係かんけい強化きょうかしている。

とう隆房たかふさのクーデターであるだいやすしてらへんでは、きょうもり積極せっきょくてき関与かんよせず、大内おおうち義隆よしたか助命じょめい要請ようせい封殺ふうさつした。その直後ちょくごきょうもり病死びょうし嫡男ちゃくなん内藤ないとうたかしとき早世そうせいしていたので、きょうもり死後しご嫡孫ちゃくそんである内藤ないとうたかし家督かとく継承けいしょうした。しかし内藤ないとう家中かちゅうおやとう晴賢はるかたりゅうと、きょうもりなんおや毛利もうり元就もとなり内藤ないとう隆春たかはる対立たいりつ激化げきかりゅう大内おおうち義長よしながしたがって毛利もうり抵抗ていこうするも、長門ながとこく勝山かつやましろ自害じがいし、家督かとく隆春たかはるいだ。毛利もうり輝元てるもとはは内藤ないとう出身しゅっしんであったため重用じゅうようされたが、その養子ようしもともり大坂おおさかじんだい坂城さかき入城にゅうじょうしたため、もとちんらもともに切腹せっぷく没落ぼつらくした。以後いご子孫しそん小禄ころく長州ちょうしゅう藩士はんしとして存続そんぞくした。

系譜けいふ

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太字ふとじかくいえ当主とうしゅ実線じっせん実子じっし点線てんせん養子ようし

内藤ないとう三河そうごけい

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三河みかわ内藤ないとう
家紋
本姓ほんせい ふじせいしゅうきょうりゅう内藤ないとう
いえ 内藤ないとうこうしゅん
種別しゅべつ 武家ぶけ
華族かぞく(子爵ししゃく)
出身しゅっしん 三河みかわこく
おも根拠地こんきょち 三河みかわこく
東京とうきょう東京とうきょう
著名ちょめい人物じんぶつ 内藤ないとうきよしちょう
内藤ないとう正成まさしげ
内藤ないとう信成のぶなり
内藤ないとう家長かちょう
内藤ないとう政長まさなが
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

三河みかわ松平まつだいら徳川とくがわ)の家臣かしん江戸えど時代じだい大名だいみょうとなった内藤ないとう上述じょうじゅつ丹波たんば周防すおう内藤ないとうどうとされるが、このあいだ戦国せんごくまでの事蹟じせきあきらかではなく、かりおかせ可能かのうせいつよい。戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけて、内藤ないとうきよしちょう内藤ないとう正成まさしげ内藤ないとう家長かちょう内藤ないとう信成のぶなりらが徳川とくがわ家康いえやすつか活躍かつやくし、その功績こうせきにより江戸えど幕府ばくふ成立せいりつすういえかれ、信濃しなの高遠こうえんはん陸奥みちのく長谷ながたにはん三河みかわ挙母ころもはん日向ひなた延岡のべおかはん信濃しなの岩村田いわむらたはん越後えちご村上むらかみはんなどの譜代ふだい大名だいみょうとして隆盛りゅうせいした。清政きよまさ系統けいとうは、高遠こうえんはん江戸えど屋敷やしきのあった内藤ないとう新宿しんじゅく現在げんざい新宿しんじゅく内藤ないとうまち)のにそののこしている。

明治維新めいじいしんときには大名だいみょう内藤ないとう全部ぜんぶで6いえあり、いずれも版籍はんせき奉還ほうかんでそれぞれのはんはん知事ちじてんじたのをて、廃藩置県はいはんちけんまでつとめた。明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつ17にち行政ぎょうせいかんたち公家くげ大名だいみょういえ統合とうごうされて華族かぞく制度せいど誕生たんじょうすると6いえはいずれも大名だいみょうとして華族かぞくれつした[6][7]明治めいじ17ねん(1884ねん)7がつ7にち華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると、同月どうげつ8にちに6いえともきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 2]として子爵ししゃくれっせられた[9]

昭和しょうわ前期ぜんき延岡のべおか内藤ないとう子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう渋谷しぶや緑岡みどりおかまち[10]長谷ながたにはん内藤ないとう子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう渋谷しぶや向山むかいやままち[11]挙母ころも内藤ないとう子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう品川しながわ上大崎かみおおさき[12]村上むらかみ内藤ないとう子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう中野なかの高根たかねまち[13]岩村田いわむらた内藤ないとう子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう杉並すぎなみ阿佐ヶ谷あさがや[14]にあった。

系譜けいふ宗家そうけ挙母ころも長谷ながたに

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太字ふとじかくいえ当主とうしゅ実線じっせん実子じっし点線てんせん養子ようし数字すうじ歴代れきだい藩主はんしゅ

系譜けいふ (高遠こうえん旗本はたもと)

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内藤ないとう義清よしきよ息子むすこ内藤ないとう清成きよなりと、内藤ないとう忠政ただまさ息子むすこ内藤ないとう清成きよなりがいるが、後者こうしゃ信濃しなのこく高遠こうえんはん藩主はんしゅとなるまえ常陸ひたちこく上総かずさこく下総しもうさこくいしあたえられていたり、3なん安房あわこく安房あわ勝山かちやまはん内藤ないとう正勝まさかつであるなど、いえ活動かつどう諸国しょこくはんにまたがっている。

系譜けいふ (鳥羽とっぱ岩村田いわむらた)

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内藤ないとう甲斐かいけい

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甲斐かい内藤ないとう
本姓ほんせい 藤原ふじわらみなみためけんりゅう内藤ないとう
いえ 内藤ないとうとら
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 甲斐かいこく
おも根拠地こんきょち 甲斐かいこく
著名ちょめい人物じんぶつ 内藤ないとう昌秀まさひで
内藤ないとうあきらがつ
梶原かじはらひらうま
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく
箕輪みのわしろ

内藤ないとうには甲斐かい土着どちゃくした一派いっぱ存在そんざいする。代々だいだい武田たけだつかえたとされるが内藤ないとうとら守護しゅご武田たけだ信虎のぶとら粛清しゅくせいされ、一時いちじ断絶だんぜつした。

甲斐かい内藤ないとう工藤くどう系譜けいふ一族いちぞくとしてられる[15]工藤くどう鎌倉かまくら時代ときよ甲斐かいはじめぞくした一族いちぞくであり、戦国せんごく時代じだいには、『勝山かつやま』によればえいただし5ねん1508ねん)にぐんない領主りょうしゅ小山田おやまだ弥太郎やたろう甲斐かい守護しゅご武田たけだ信虎のぶとら反抗はんこうしてやぶれる[15]。『勝山かちやま』によれば、このときぐんない小山田おやまだ一族いちぞく小山田おやまだ平三へいぞうとともに「工藤くどう殿どの」が相模さがみこく伊勢いせ宗瑞そうずい北条早雲ほうじょうそううん)をたよって亡命ぼうめいしており、これが工藤くどう下総しもうさまもるにあたるともかんがえられている[15]

工藤くどう下総しもうさまもるかんがえられている兄弟きょうだい工藤くどう長門ながとまもる内藤ないとう昌秀まさひであきらゆたか工藤くどうゆうちょう)がいる[15]内藤ないとう昌秀まさひではれしん信玄しんげん)につかえた譜代ふだい家老がろうしゅう側近そっきんで、えいろく2ねん1559ねん時点じてんで「工藤くどうみなもと左衛門尉さえもんのじょう」をしょうしている[15]えいろく6ねん1563ねんごろからえいろく13ねん(1570ねんごろまで、信濃しなの深志ふかしじょう長野ながのけん松本まつもと)にざいしろしており、武田たけだ信濃しなの侵攻しんこうや、越後えちごこく長尾ながお上杉うえすぎ)との川中島かわなかじまたたか活躍かつやくしている[15]

昌秀まさひでえいろく9ねん1566ねんごろから西上野にしうえのこくしゅうとの取次とりつぎつとめており、浅利あさり信種のぶたね後任こうにんとしてもとかめ元年がんねん1570ねん)には西上野にしうえの箕輪みのわしろ群馬ぐんまけん高崎たかさき箕郷みさとまち)の城代しろだいとなる[15]内藤ないとうせいへの改姓かいせいはこの時点じてんである可能かのうせい指摘してきされる[15]昌秀まさひで信玄しんげん武田たけだ勝頼かつより時代じだい西上野にしうえのこくしゅ指南しなん箕輪みのわりょう支配しはいにない、天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ21にち長篠ながしのたたかにおいて討死うちじにする[15]

昌秀まさひでには実子じっしがなく、信濃しなのこくしゅ保科ほしな正俊まさとし三男さんなんせん次郎じろう内藤ないとうあきらがつ)を養子ようしむかえる[15]

昌秀まさひであに長門ながとまもる箕輪みのわじょうざいしろして城代じょうだい代行だいこうつとめており、昌秀まさひで戦死せんし箕輪みのわ城代じょうだい代行だいこう立場たちばであることが確認かくにんされる[16]天正てんしょう7ねん1579ねん)にあきらがつ箕輪みのわ城代じょうだいとして赴任ふにんすると、これを補佐ほさしていたとられ、天正てんしょう9ねん1581ねん)までの活動かつどう確認かくにんされる[16]。その動向どうこう不明ふめいで、『武田たけださんだい軍記ぐんき』によれば武田たけだ滅亡めつぼう徳川とくがわよん奉行ぶぎょう一人ひとり工藤くどうもり玄随げんずいときもり)とどう一人物いちじんぶつとするせつもある[16]。なお、長門ながとまもるむすめ朝比奈あさひな藤太郎ふじたろうあきらこれ養子ようし新九郎しんくろうあきらおやしつとなっている[16]

武田たけだ滅亡めつぼう内藤ないとうあきらがつ滝川たきがわ一益かずますいで北条ほうじょう氏直うじなおり、保科ほしな高遠こうえんじょう奪還だっかん支援しえんしている。あきらがつ死後しごこう北条ほうじょう豊臣とよとみ秀吉ひでよしほろぼされると内藤ないとう所領しょりょううしなった。あきらがつ子孫しそん会津あいづ保科ほしな(のちの会津あいづ松平まつへい)につかえ、保科ほしな本家ほんけ一族いちぞくということで会津あいづはん家老がろうつとめる「さんいえ」の1つとされた。江戸えど時代じだい末期まっき家老がろう梶原かじはらひらうまはこの内藤ないとう出身しゅっしんである。

系譜けいふ

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太字ふとじかくいえ当主とうしゅ実線じっせん実子じっし点線てんせん養子ようし

安芸あき内藤ないとう

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藤原ふじわらとしひとしながれを一族いちぞくで、正安まさやす3ねん1301ねん)に内藤ないとうけいれん安芸あきこく長田ながた領主りょうしゅとして下向げこうのち厳島いつくしま神主かんぬし家臣かしんとして安芸あきこく田屋たやしろ拠点きょてんとして活動かつどうのち毛利もうり臣従しんじゅうし、長州ちょうしゅう藩士はんしとしてつづいた。庶流である内藤ないとうもとさかえ子孫しそん明治維新めいじいしんむかえ、内藤ないとう俊太郎しゅんたろう小野田おのだセメント創業そうぎょうしゃ笠井かさいじゅんはちむすめうめと結婚けっこんしている。

その内藤ないとう

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相模さがみこくにも内藤ないとうせい名乗なのった一族いちぞく存在そんざいし(相模さがみ内藤ないとう)、この内藤ないとうしゅうきょうりゅうしょうするがさだかではない。また、織田おだ信長のぶながつかえた内藤ないとうまさるかいなる人物じんぶつもおり、こちらの出自しゅつじ不明ふめいである。若狭わかさ武田たけだ被官ひかんにも内藤ないとう一族いちぞく存在そんざいする。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 従来じゅうらい貞勝さだかつちょうよりゆきでなく国貞くにさだとされてきたが、このときされた文書ぶんしょからちょうよりゆき国貞くにさだまご)であることがかる(「野間のまたてあきら文書ぶんしょ細川ほそかわ氏綱うじつな奉行ぶぎょうじん奉書ほうしょ[2][3]
  2. ^ きゅう延岡のべおかはんげんこめ2まん8906せき表高おもてだか7まんせき)、きゅう長谷ながたにはんげんこめ3260せき表高おもてだか1まん4000せき)、きゅう挙母ころもはんげんこめ6710せき表高おもてだか2まんせき)、きゅう村上むらかみはんげんこめ2まん9480せき表高おもてだか5まん9せき)、きゅう高遠こうえんはんげんこめ1まん5330せき表高おもてだか3まん3300せき)、きゅう岩村田いわむらたはんげんこめ4300せき表高おもてだか1まん5000せき)で、いずれもげんこめ5まんせき未満みまんきゅうしょうはん該当がいとう[8]

参照さんしょう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 平山ひらやまゆう内藤ないとう昌秀まさひで」『新編しんぺん 武田たけだ信玄しんげんのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん 
  • 福島ふくしま克彦かつひこ ちょ丹波たんば内藤ないとう内藤ないとう如安じょあん」、中西なかにし裕樹ゆうき へん高山たかやま右近うこん キリシタン大名だいみょうへのしん視点してんみやたい出版しゅっぱんしゃ、2014ねんISBN 978-4-86366-926-0 
  • 丸島まるしま和洋わよう ちょ内藤ないとう昌秀まさひで」「内藤ないとうあきらがつ」「工藤くどう長門ながとまもる」「工藤くどうもり」、しばつじ俊六しゅんろく; 平山ひらやまゆう; 黒田くろだ基樹もとき ほか へん武田たけだ家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2015ねん 
  • 高橋たかはししげるけい ちょ松永まつながちょうよりゆき内藤ないとう宗勝むねかつ)と丹波たんば」、天野あまの忠幸ただゆき へん松永まつなが久秀ひさひで ゆがめられた戦国せんごくの“梟雄きょうゆう”の実像じつぞうみやたい出版しゅっぱんしゃ、2017ねんISBN 978-4-8016-0057-7 
  • 浅見あさみ雅男まさお華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ体面たいめん明治めいじリブロポート、1994ねん平成へいせい6ねん)。 
  • 小田部おたべ雄次ゆうじ華族かぞく 近代きんだい日本にっぽん貴族きぞく虚像きょぞう実像じつぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ1836〉、2006ねん平成へいせい18ねん)。ISBN 978-4121018366 
  • 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい華族かぞく大鑑たいかん日本にっぽん図書としょセンター日本人にっぽんじんぶつ叢書そうしょ7〉、1990ねん平成へいせい2ねん)。ISBN 978-4820540342 
  • 新田にったかんさん内閣ないかく文庫ぶんこぞう諸侯しょこう年表ねんぴょう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1984ねん昭和しょうわ59ねん)。