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細川ほそかわまさしもと

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細川ほそかわ まさしもと
細川ほそかわまさしもとぞう龍安寺りゅうあんじくら
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき - 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 文正ふみまさ元年がんねん1466ねん
死没しぼつ えいただし4ねん6月23にち1507ねん8がつ1にち
改名かいめい 聡明そうめいまる幼名ようみょう)→せいもと
別名べつめい 九郎くろう仮名かめい)、はん将軍しょうぐん渾名あだな
諡号しごう ゆきせき
戒名かいみょう 大心院だいしんいん殿でんくもせききょうこうだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 京都きょうと京都きょうとだい雲山くもやま龍安寺りゅうあんじ
官位かんい したがえよん右京大夫うきょうのだいぶ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 管領かんりょう
丹波たんば摂津せっつ讃岐さぬき土佐とさ守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義政よしまさ義視よしみ義尚よしなお義稙よしたね義澄よしずみ
氏族しぞく 細川ほそかわきょうちょういえ
父母ちちはは ちち細川ほそかわ勝元かつもとはは山名やまな宗全そうぜん養女ようじょはる林寺はやしじ殿どの?
兄弟きょうだい ほらまついんせいもと
養子ようしきよしこれきよしもとこうこく
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細川ほそかわ まさしもと(ほそかわ まさもと)は、室町むろまち時代ときよ後期こうきから戦国せんごく時代じだいにかけての武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう室町むろまち幕府ばくふ24、26、27、28だい管領かんりょう摂津せっつこく丹波たんばこく土佐とさこく讃岐さぬきこく守護しゅご細川ほそかわ12だい当主とうしゅ日野ひの富子とみこ伊勢いせらとともに足利あしかが将軍家しょうぐんけの10代将軍しょうぐんざい追放ついほうして11だい義澄よしずみ擁立ようりつし、事実じじつじょう最高さいこう権力けんりょくしゃになり、「はん将軍しょうぐん」ともばれた[1]

修験しゅげんどう没頭ぼっとうして女性じょせいちかづけず、独身どくしんつらぬいたため、実子じっしはいなかった[2]養子ようしきよしこれきよしもとこうこくがいる。

将軍しょうぐんえ(あかりおう政変せいへん)、管領かんりょうとして幕政ばくせい牛耳ぎゅうじり(きょうちょう専制せんせい)、比叡山ひえいざんおこなったり、畿内きない周辺しゅうへんにも出兵しゅっぺいするなど、細川ほそかわきょうちょういえ全盛期ぜんせいききずき、当時とうじ日本にっぽんでの最大さいだい勢力せいりょくひろげたが、3にん養子ようしむかえたことで家督かとくあらそいがしょうじ、みずからもそのあらそいにまれるかたち家臣かしん暗殺あんさつされた(えいただし錯乱さくらん)。応仁おうにんらん混乱こんらん以来いらい実力じつりょくしゃせいもと登場とうじょうによって小康しょうこう状態じょうたいにあったきょう畿内きない周辺しゅうへんは、そのきよしもとこうこく両派りょうはあらそいによってふたた長期ちょうき混迷こんめいしていくこととなる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふにおける最高さいこう幹部かんぶである足利あしかが一門いちもんさん管領かんりょう斯波しば畠山はたけやま細川ほそかわ)のひとつ細川ほそかわ本家ほんけきょうちょういえまれ。ちち応仁おうにんらんときひがしぐんひきいた細川ほそかわ勝元かつもとはは勝元かつもと正室せいしつ山名やまな熙貴むすめ養父ようふ山名やまな宗全そうぜん)とされるが、根拠こんきょとなる史料しりょうはない。

家督かとく相続そうぞく[編集へんしゅう]

足利あしかが義尚よしなお

文正ふみまさ元年がんねん1466ねん)、室町むろまち幕府ばくふ管領かんりょうとしてつよちからっていた細川ほそかわ勝元かつもと嫡男ちゃくなんとして誕生たんじょうした。文明ぶんめい5ねん1473ねん)5がつ応仁おうにんらん最中さいちゅう病死びょうしした勝元かつもと後継こうけいとして、わずか7さいかぞどしだと8さい)で家督かとく相続そうぞくする。丹波たんば摂津せっつ土佐とさ守護しゅご就任しゅうにんする。幼少ようしょうのため、分家ぶんけてんうまや当主とうしゅ細川ほそかわまさしこく補佐ほさけた。

文明ぶんめい6ねん1474ねん4がつ3にち西にしぐんかた山名やまなまさしゆたか和睦わぼくし、応仁おうにんらん終息しゅうそくする。文明ぶんめい10ねん1478ねん)7がつに12さい元服げんぷくし、8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさへんいみなけてせいもと名乗なのる。管領かんりょうにんじられたものの、9だい将軍しょうぐん足利あしかが義尚よしなおにん大将たいしょう拝賀はいが儀礼ぎれいわると短期間たんきかん(9日間にちかん)で辞職じしょくしている。翌年よくねん文明ぶんめい11ねん(1479ねん)12月3にちないしは4にちに、丹波たんば国内こくないにおける細川ほそかわ家臣かしん同士どうしあらそいが原因げんいんで、せいもと丹波たんばこく国人くにびとであった一宮いちのみや宮内みやうち大輔だいすけ一族いちぞく拉致らちされ[3]よく3がつまで丹波たんばこく幽閉ゆうへいされた。[4][5]

文明ぶんめい14ねん1482ねん)、摂津せっつこく国人くにびと蜂起ほうきしたため、畠山はたけやま義就よしなり討伐とうばつかう管領かんりょう畠山はたけやま政長まさなが協力きょうりょくして連合れんごう出陣しゅつじんしたが、せいもと三宅みやけじょう茨木いばらぎじょう吹田すいたじょうとし茨木いばらぎなど摂津せっつ国人くにびと討伐とうばつしたのちは、義就よしなり占領せんりょうされていた摂津せっつかけぐん東成ひがしなりぐん西成にしなりぐん住吉すみよしぐん)の返還へんかんえに河内かわうちじゅうなな箇所かしょ義就よしなりわた交渉こうしょうをまとめ、単独たんどく和睦わぼくして京都きょうと撤収てっしゅうした。

ちょうとおる元年がんねん1487ねん)、9だい将軍しょうぐん足利あしかが義尚よしなお六角ろっかく高頼たかより行高ゆきたか討伐とうばつ決意けついするが、それを事前じぜんらされていたのはせいもとのみで、両者りょうしゃ極秘ごくひのうちに出陣しゅつじん準備じゅんびすすめていたとつたえられている[6]。また、このとしちょうとおる改元かいげんさいおこなわれた幕府ばくふきちしょはじめ儀式ぎしきのために、1にちだけ管領かんりょう就任しゅうにんしている(2度目どめちょうとおる元年がんねん8がつ9にち)。

だが、2ねん延徳えんとく元年がんねん1489ねん)、将軍しょうぐんひろし義尚よしなおから改名かいめい)はろくかく討伐とうばつちょうとおる延徳えんとくらん)の最中さいちゅう近江おうみこく病死びょうしする。せいもと次期じき将軍しょうぐんとして、よしひろし従弟じゅうてい堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとも)で禅僧ぜんそうとなっていた天龍寺てんりゅうじこうげんいん清晃きよあき(のちの足利あしかが義澄よしずみ)を推挙すいきょするが、よしひろしはは日野ひの富子とみこ畠山はたけやま政長まさなが後押あとおしの結果けっかおなじくよしひろし従弟じゅうてい足利あしかが義視よしみざいのちよしいん、さらに義稙よしたね改名かいめい)が10代将軍しょうぐん就任しゅうにんする。この結果けっか不満ふまんであったせいもとは、延徳えんとく2ねん1490ねん)7がつ5にちざい就任しゅうにん儀式ぎしきはんはじめ)のために1にちだけ管領かんりょうつとめるが、やがて幕府ばくふ距離きょりはじめる。ざい将軍しょうぐん就任しゅうにんは、幕府ばくふない足利あしかが義視よしみ畠山はたけやま政長まさなが権勢けんせいたかまることとなり、延徳えんとく3ねん1491ねん)1がつ義視よしみ死去しきょしたのち政長まさなが幕府ばくふ権力けんりょく独占どくせんするようになる。

直後ちょくご延徳えんとく3ねん2がつ13にち九条くじょうまさしもと次男じなん聡明そうめいまる名乗なのる、のちの細川ほそかわきよしこれ)を養子ようしむかえた。あかりおう4ねん1495ねん)7がつには義澄よしずみ目通めどおりさせ、家督かとくさだめた[2]きよしこれ養子ようしむかえた意図いととして、妻帯さいたいしていない(するつもりのない)せいもとには実子じっしはもちろんおとうともいないため後継こうけいしゃておく必要ひつようせいと、きよしこれ清晃きよあき母方ははかた従兄弟いとこたるため足利あしかが政知まさともとの連携れんけいふかめるねらいがあったとされる。

さらに直後ちょくごの3がつせいもと東国とうごく旅行りょこうかけ、越後えちごこく訪問ほうもん守護しゅご上杉うえすぎぼうじょう会見かいけんした。奥州おうしゅうかう予定よていだったが、将軍しょうぐんざいから六角ろっかく高頼たかより討伐とうばつ出陣しゅつじん命令めいれいとどいたため断念だんねん、4がつ帰京ききょうした。このたび背景はいけいには、堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとも連携れんけいする意向いこうぼうじょう意図いとがあり、政知まさともとの会見かいけん計画けいかくしていたが、政知まさともくなったため帰京ききょうした。

せいもと丹波たんばこく位田いんでん荻野おぎの大槻おおつき須知しゅうちらがこしている国人くにびと一揆いっき鎮圧ちんあつ上手うまくいっていないこともあり、このとき出兵しゅっぺいには反対はんたいで、ざいいさめようとしたものの無視むしされている[7]。このときから政変せいへん計画けいかくしていたとされる。

あかりおう政変せいへんによる政権せいけん奪取だっしゅ[編集へんしゅう]

足利あしかがよしざい足利あしかが義稙よしたね

あかりおう2ねん1493ねん)、将軍しょうぐんざい畠山はたけやま政長まさながとも畠山はたけやまよしゆたか討伐とうばつのため河内かわうちこく出兵しゅっぺいする。せいもとはこの出兵しゅっぺいにも反対はんたいして従軍じゅうぐんこばんだ。4月、京都きょうと残留ざんりゅうしていたせいもと日野ひの富子とみこまえ政所まんどころ執事しつじ伊勢いせ貞宗さだむねんで周到しゅうとう根回ねまわしのもとクーデター決行けっこう以前いぜん将軍しょうぐん候補こうほに推げた清晃きよあきだい11だい将軍しょうぐんとして擁立ようりつする(あかりおう政変せいへん[8]興福寺こうふくじひろみことざいせいもと政務せいむまかせると約束やくそくしながら、その反対はんたい無視むしして近江おうみ出兵しゅっぺい河内かわうち出兵しゅっぺいと2だい規模きぼ軍事ぐんじ作戦さくせんおこなったこと、そしてざい自分じぶん政策せいさく反対はんたいするせいもととうとしたことが原因げんいんであるとしるしている[9]

この政変せいへんにより、当初とうしょ畠山はたけやま政長まさながかたであった赤松あかまつ政則まさのりせいもと寝返ねがえり、孤立こりつ無援むえんとなった政長まさなが自害じがいし、おおきなちからっていたさん管領かんりょう畠山はたけやま勢力せいりょくとされ、らえられたざい京都きょうと龍安寺りゅうあんじ幽閉ゆうへいされ、将軍しょうぐんしょく解任かいにんされた。あかりおう3ねん1494ねん)、清晃きよあき還俗げんぞくして足利あしかが義高よしたかのち義澄よしずみ改名かいめい)と名乗なの将軍しょうぐん就任しゅうにんせいもと管領かんりょう就任しゅうにんして実権じっけんにぎ将軍しょうぐん事実じじつじょう傀儡かいらいにして幕政ばくせい掌握しょうあくし、きょうちょう専制せんせい確立かくりつするにいたった。管領かんりょう幕臣ばくしん将軍しょうぐん追放ついほうえるという実例じつれい室町むろまち幕府ばくふにおいてせいもとはつのことで、室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん権威けんい決定的けっていてき失墜しっついした政変せいへんであった(ただし、管領かんりょう政治せいじてき職権しょっけん実態じったいすでうしなわれており、せいもとの4度目どめにして最後さいご管領かんりょう在任ざいにん実際じっさいにはだか元服げんぷく儀礼ぎれいおこなわれたあきらおう3ねん12月27にちの1日間にちかんのみであった)。これよりのち足利あしかが将軍しょうぐんは、実権じっけんのないばかりの存在そんざいとなっていき、この政変せいへん応仁おうにんらんうしなわれた将軍しょうぐん権威けんい復活ふっかつ様々さまざま要因よういん衰退すいたいへとかう幕府ばくふ維持いじいられていくことになる。

ただし、以後いご幕府ばくふ権力けんりょく存続そんぞくしていたとする見方みかたもあり、伊勢いせ貞宗さだむね日野ひの富子とみこ意向いこう将軍しょうぐん義澄よしずみ後見こうけんやくつとめ、たびたびせいもと行動こうどう抑止よくししている。また、せいもといのち政変せいへん主導しゅどうしていたせいもと家臣かしんきょうちょう家内かないしゅである丹波たんば守護しゅごだい上原うえはら元秀もとひで急死きゅうしきょうちょういえうち政変せいへん消極しょうきょくてき家臣かしん多数たすうめるようになると、きょうちょういえはなるべく幕府ばくふ意向いこう容認ようにんぜん将軍しょうぐんざいかえしを用心ようじんする方向ほうこうえたため、政変せいへん幕府ばくふきょうちょういえ協調きょうちょう関係かんけいはいっていったのではないかとする意見いけんもある。

しょ勢力せいりょくとのたたか[編集へんしゅう]

足利あしかが義澄よしずみ
延暦寺えんりゃくじ 根本中堂こんぽんちゅうどう国宝こくほう

政変せいへんえつ中国ちゅうごく亡命ぼうめいし、亡命ぼうめい政権せいけん越中えっちゅう公方くぼう)を樹立じゅりつしていた足利あしかが義稙よしたねざい)は、あきらおう8ねん1499ねん)に北陸ほくりくへいひきいて近江おうみにまで侵攻しんこうし、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ味方みかたける。こうした延暦寺えんりゃくじ行動こうどう素早すばや察知さっちしたせいもと早速さっそく行動こうどううつった。赤沢あかざわちょうけいなみはくむねりょうめいじて7がつ11にち早朝そうちょう延暦寺えんりゃくじ攻撃こうげきだい規模きぼおこなわせたのである。この攻撃こうげき根本中堂こんぽんちゅうどうだい講堂こうどう常行つねゆきどう法華ほっけどう延命えんめいいんよんおういん経蔵きょうぞう鐘楼しゅろうなどの山上さんじょう主要しゅよう伽藍がらん全焼ぜんしょうした。いきおいにったあさけいつづいて9がつには河内かわち挙兵きょへいした政長まさなが畠山はたけやま尚順ひさのぶやぶり、尚順ひさのぶ大和やまとこくんだため、12月にはそのままのいきおいで大和やまとこくんだ。そして筒井つついじゅんけんじゅうとお尚順ひさのぶくみした国人くにびとしゅ追討ついとうし、喜光よしみつてら法華寺ほっけじ西大寺さいだいじがく安寺あてらなどをちして大和やまと北部ほくぶ占領せんりょうした。このあさけい一連いちれんはたらきによって細川ほそかわきょうちょういえ版図はんと大幅おおはば拡大かくだいすることとなった。義稙よしたねざい)もせいもとぐんやぶれ、西国さいごく周防すおう守護しゅご大内おおうちのもとへちのびていった。またせいもと周辺しゅうへんこく国人くにびと細川ほそかわ被官ひかんすすめ、実質じっしつてき細川ほそかわ領国りょうごくによる支配しはい勢力せいりょく強化きょうかはかった。

せいもと同年どうねんたたかいでとしていた槇島まきしまじょう宇治川うじがわかこまれ交通こうつう要衝ようしょうでもある立地りっちったようで、しろ改修かいしゅう強化きょうかして一時期いちじき居城きょじょうしており、たびたび将軍しょうぐん義澄よしずみ槇島まきしまじょうまねいて饗応きょうおうしたり鷹狩たかがりなどしている。

せいもと将軍しょうぐん義澄よしずみ政治せいじめん対立たいりつすることも多々たたあった。ぶんかめ2ねん1502ねん)8がつ4にち突如とつじょとして義澄よしずみきむりゅうてらこもるという事件じけん発生はっせいした。そして、義澄よしずみ説得せっとくしにったところ、御所ごしょもど交換こうかん条件じょうけんとしてされた5つの条件じょうけんのうちにぜん将軍しょうぐんざいおとうとである実相院じっそういん義忠よしただ処刑しょけいせよ、というものがあり、よく5にちせいもと義澄よしずみ見舞みまいに義忠よしただをとらえて殺害さつがいした。これにより、義澄よしずみせいもとによって自身じしん将軍しょうぐん解任かいにんされて追放ついほうされ、わりに義忠よしただあらたな将軍しょうぐんになるという可能かのうせいがなくなったためおおいに安堵あんどする一方いっぽうせいもと義忠よしただ殺害さつがいによって次期じき将軍しょうぐん候補こうほうしない、かつぜん将軍しょうぐんざいからは完全かんぜん敵視てきしされる状況じょうきょうとなった。義澄よしずみはいしてあらたな将軍しょうぐんてることもざい和解わかいすることも出来できなくなったせいもとは、その政治せいじてき選択肢せんたくし大幅おおはばせばまった。

後継こうけいしゃ問題もんだい[編集へんしゅう]

せいもと気分きぶんてき傾向けいこう、そして実子じっしかったことは細川ほそかわきょうちょういえ家督かとく相続そうぞく問題もんだい直撃ちょくげきした。

ぶんかめ元年がんねん1501ねん)5がつまつ家督かとく聡明そうめいまるきよしこれ)にゆずり、隠居いんきょした[2]ぶんかめ3ねん1503ねん)には、細川ほそかわ一門いちもん細川ほそかわ成之しげゆきまご六郎ろくろう(のちのきよしもと)を後嗣こうしとした[2](これよりもなく聡明そうめいまる元服げんぷくしてきよしこれ名乗なのる)。「もと」の細川ほそかわきょうちょういえ家督かとく継承けいしょうしゃもちいるつうであり、これが養嗣子ようししとしてむかえた六郎ろくろうきよしもと)に早速さっそくあたえられたことから、最終さいしゅうてきにはきよしもと嫡子ちゃくしとみていたことがうかがえる。ぎゃくにそれまで養嗣子ようししとなっていた聡明そうめいまる当時とうじまだ元服げんぷくまえきよしこれ)にこのあたえることはなかった。

養子ようし2にんむかえたことにより、せいもと後継こうけいしゃ候補こうほは、きよしもときよしこれとなった[2]せいもとは、摂津せっつこく丹波たんばこくをそれぞれ2にん分与ぶんよする方針ほうしんであったともされるようだが、細川ほそかわきょうちょうとしての総領そうりょうをいずれにするかで、うちしゅ家臣かしんだん)はかれてあらそうことになる[10]

また、分家ぶんけしゅうからもこうこく養子ようしとしてむかえていたとされるが、のちにこれがさらなる混乱こんらんへとつながることになる。なおこうこくについては養子ようしとなった時期じき不明ふめいであり、じつせいもと後継こうけい養子ようしにしておらず、せいもと死後しごこうこくきよしもととの対立たいりつのなか自分じぶん養子ようしになったとしたというせつ最初さいしょから実家じっかしゅうぐことを前提ぜんていとする養子ようし縁組えんぐみであったとするせつこうこく実父じっぷ細川ほそかわ政春まさはるには男子だんしがいなかった)もある。

えいただし元年がんねん1504ねん)9がつ4にちうちしゅ摂津せっつ守護しゅごだい薬師寺やくしじ元一げんいちよどみじょうてこもり、謀反むほんおこした[11]せいもととの関係かんけい悪化あっかしていた赤沢あかざわちょうけいもこれにくわわった[11]同月どうげつ19にちせいもとぜいにより、よどみじょう落城らくじょうし、薬師寺やくしじ元一げんいち刑死けいし赤沢あかざわちょうけいゆるされ、謀反むほん鎮圧ちんあつされた[11]摂津せっつ守護しゅごだいは、もといちおとうと薬師寺やくしじちょうただしいだ[12]

えいただし錯乱さくらん最期さいご・その[編集へんしゅう]

細川ほそかわきよしこれ

えいただし2ねん1505ねん)、河内かわうち畠山はたけやま義英よしひで畠山はたけやま尚順ひさのぶ和睦わぼくしたことから、せいもと義英よしひで関係かんけい悪化あっかし、同年どうねん11がつせいもと赤沢あかざわちょうけいめいじて義英よしひで誉田ほんだじょう攻撃こうげきさせた[12]

えいただし3ねん1506ねん)4がつ下旬げじゅん丹後たんごこく守護しゅご一色いっしきよしゆうあらそっていた若狭わかさこく守護しゅご武田たけだ元信もとのぶからたすけをもとめられたため、せいもときよしこれ丹後たんご派遣はけんした[12]せいもとは、きよしこれきよしもと円滑えんかつ家督かとく継承けいしょうするため、きよしこれ丹波たんばこく守護しゅごにんじて下向げこうさせていた[12]河内かわちこくでは、畠山はたけやま尚順ひさのぶ畠山はたけやま義英よしひでが、はんせいもと立場たちば鮮明せんめいにして、大和やまとこくへいあつめたため、幕府ばくふ同年どうねん8がつごろ赤沢あかざわちょうけいめいじて大和やまとこく侵攻しんこうさせた[12]。9月7にち山城やましろこく守護しゅごだい香西こうさい元長もとながせいもとそむき、京都きょうと蜂起ほうきした[12]幕府ばくふは、大和やまとこくにいた三好みよしながもどし、元長もとながめにかわせた[12]香西こうさい元長もとなが背後はいごには、摂津せっつこく守護しゅごだい薬師寺やくしじちょうただしもいた[12]きよしこれは、丹後たんごこく宮津みやづしろめていたが、9がつまつになってもしろちなかった[13]

はんせいもとうごきに嫌気いやけがさしたのかせいもと同年どうねん11がつ3にち阿波あわこくわたろうとして和泉いずみこく商業しょうぎょう都市としさかい移動いどうした[13]。このときは、将軍しょうぐん義澄よしずみ養子ようしとなっていたとされる細川ほそかわだかこく説得せっとくされ、中止ちゅうしした[13]。しかし、よくえいただし4ねん1507ねん)4がつせいもと修験しゅげんどう霊地れいちである出羽でわこく羽黒山はぐろさん巡礼じゅんれいするとって、丹波たんばこく経由けいゆして若狭わかさこくはいった[13]一色いっしょく交戦こうせんちゅうだった武田たけだ元信もとのぶおどろき、これをめた[13]結局けっきょく武田たけだ一色いっしょくめは成功せいこうせず、丹後たんご国賀こくか屋城やしろ加悦かやじょう)をめていたきよしこれも、5月28にち帰京ききょうした[13]。このとききよしこれは、てきかた一色いっしょく被官ひかんじょうすすむ石川いしかわただしけい共謀きょうぼうし、世上せじょうへはしろ陥落かんらくしたとれたうえで、ぐんげていた[13]

せいもと武田たけだ元信もとのぶ救援きゅうえんのために一色いっしきよしゆうめている最中さいちゅう帰京ききょうめいじる勅旨ちょくしがありそれをけて5がつ29にち帰京ききょうする[14]。そして6がつ23にち香西こうざい元長もとなが間諜かんちょう竹田たけだ孫七まごしちによって、自邸じてい暗殺あんさつされた[13]えいただし錯乱さくらん)。行水ぎょうずい最中さいちゅう襲撃しゅうげきされたという。享年きょうねん42。

はん将軍しょうぐんばれるほどちからったせいもと死亡しぼうすると、混迷こんめいした中央ちゅうおう政界せいかいさら不安定ふあんていして全国ぜんこく各地かくち戦国せんごくすすみ、細川ほそかわきょうちょういえ家督かとくをめぐる内紛ないふんかさねて政権せいけん体制たいせい領国りょうごく家臣かしんだんともに急速きゅうそくちからうしなっていくことになるが、せいもときずいた細川ほそかわいちきょうきょうちょう専制せんせいはそのつづき、幕府ばくふきょう周辺しゅうへん細川ほそかわきょうちょういえがなおも実質じっしつてき支配しはいしていく。せいもと暗殺あんさつ後継こうけいしゃについては、まず細川ほそかわかないきよしこれ排除はいじょかんしては一族いちぞく一致いっちをみることができたが、きよしこれはい死後しごきよしもとにはそのはれはじめ)・こうこく両派りょうは対立たいりつは、幕府ばくふ将軍しょうぐん義澄よしずみ義稙よしたね両派りょうはあらそいともからんで、20ねん以上いじょうながきにわたり細川ほそかわ二分にぶん畿内きない争乱そうらんをもたらすものとなった(りょう細川ほそかわらん)。せいもとはじまる細川ほそかわ政権せいけん自体じたいは、せいもとからやく40ねん三好みよし長慶ちょうけいによる主君しゅくん細川ほそかわはるもと(と将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる)への下克上げこくじょうによって崩壊ほうかいするまでつづいた。

また、せいもとをもってきょうちょういえ嫡流ちゃくりゅうである細川ほそかわ頼元よりもと血筋ちすじえ、頼元よりもとおとうとである細川ほそかわ満之まんし細川ほそかわかいはる子孫しそん細川ほそかわきょうちょういえ家督かとく地位ちいあらそうこととなる[ちゅう 1]

暗殺あんさつ理由りゆう[編集へんしゅう]

せいもと暗殺あんさつかんしては家臣かしん香西こうざい元長もとなが首謀しゅぼうしゃだったという。理由りゆうかんしては元々もともと嗣子ししとしてむかえたきよしこれであるにもかかわらず、細川ほそかわ一族いちぞくまった関係かんけいきよしこれ後継こうけいにすることに一族いちぞく反対はんたいろん根強ねづよみずからも次第しだい後悔こうかいして、庶家のきよしもと阿波あわから嗣子ししとしてむかえた。だがこのためにきよしこれ補佐ほさやくだった香西こうざい元長もとなが権力けんりょく失墜しっついし、きよしもと補佐ほさやくでありせいもとにその軍事ぐんじざい見込みこまれ重用じゅうようされるようにもなったきょうちょういえ家臣かしんとしては新参しんざんしゃ三好みよしこれちょう権力けんりょく細川ほそかわ家中かちゅう増大ぞうだいした。きよしもとしたがって阿波あわから三好みよしこれちょう讃岐さぬき政治せいじにも介入かいにゅうしだしたため、讃岐さぬき出身しゅっしんである香西こうざい元長もとながにくしみをいた。また主君しゅくんせいもと問題もんだいおお性向せいこう将来しょうらいへの不安ふあんとなり、きよしこれ擁立ようりつしてみずからが権力けんりょくにぎるために暗殺あんさつ事件じけんこしたという[14]

また、きよし自身じしん黒幕くろまくとして計画けいかくくわわっていたとされている。廃嫡はいちゃく元服げんぷくえいただし3ねん(1506ねん)には前述ぜんじゅつとおり、養父ようふせいもと命令めいれいしたがって丹後たんご一色いっしきよしゆう討伐とうばつおもむいてえつめたが、命令めいれいしたがったのは表向おもてむきの行動こうどうぎず、てき一色いっしょくかた内通ないつうして落城らくじょうよそおい、へい退しりぞくという行動こうどうこしている。さききよしこれ落城らくじょうよそおったえつじょう石川いしかわただしけいが、せいもと暗殺あんさつって京都きょうとへの撤退てったいこころみた赤沢あかざわちょうけい首尾しゅびよくおそってはいさせるなどしており、事件じけん以前いぜんからきよしこれ通謀つうぼうし、周到しゅうとう準備じゅんびされた計画けいかくせいがうかがえる。理由りゆう廃嫡はいちゃくされたことにたいするうらみがおもなものであったとかんがえられる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

せいもと修験しゅげんどう(山伏やまぶし信仰しんこう)にって、その女人にょにん禁制きんせい不犯ふぼん)のいましめを厳守げんしゅしていたため、女性じょせいちかづけることなく生涯しょうがい独身どくしんとおした。そら天狗てんぐじゅつようとあやしげな修行しゅぎょう熱中ねっちゅうし「空中くうちゅうった」「ちょうつねてき言語げんごはっした」など様々さまざま不思議ふしぎあらわしたとうわさされたり、突然とつぜん諸国しょこく放浪ほうろうたびてしまうなどの奇行きこうがあり、『 足利あしかが』では「きょう管領かんりょう細川ほそかわ右京大夫うきょうのだいぶせいもとよんじゅうさいマデ女人にょにん禁制きんせいニテ 魔法まほう 飯綱いいづなほう アタコ(愛宕あたご)ノほうくだりヒ サナカラ出家しゅっけノ如ク山伏やまぶしノ如シ あるときけいヲヨミ陀羅尼だらにヲヘンシケレハ 人身じんしんもうモヨタチケル」とある。

ただし、せいもと修験しゅげんどうたん趣味しゅみとしてだけでなく、山伏やまぶしたちを諜報ちょうほういんのように使つかい、各地かくち情報じょうほう動向どうこうさぐるなどの手段しゅだんともしており[15]とおくの情報じょうほうをいちはやるため狼煙のろし中継ちゅうけい地点ちてん整備せいびなどもしていた。なお中世ちゅうせい当時とうじ大名だいみょう武将ぶしょうたちにもひろまっていた衆道しゅどう(男色なんしょく)は、せいもとたしなんだようであり家臣かしん薬師寺やくしじ元一げんいちとその関係かんけいにあったとする見方みかたもある。

また当時とうじ武家ぶけにおいても一般いっぱん教養きょうようであった和歌わかでは、せいもととりかんするばかりをあつめており、そらぶものに興味きょうみっていた。天狗てんぐ扮装ふんそうをしてたかところのぼることもあったという。

肉体にくたい精神せいしんきたえる修験しゅげんどう修行しゅぎょうこのんでいたせいもとであるが、頭脳ずのう使つか囲碁いごきでもあった。戦略せんりゃくみがかれる囲碁いごは、ちち勝元かつもとこのんでおり親子おやこ共通きょうつう趣味しゅみであった。

枯山水かれさんすいられる龍安寺りゅうあんじ石庭いしにわさくにわしゃせいもとであるというせつもある。龍安寺りゅうあんじ元々もともとちち勝元かつもとてたが応仁おうにんらんでいったん焼失しょうしつしており、現在げんざい枯山水かれさんすい石庭いしにわせいもと龍安寺りゅうあんじ再建さいけんしたときあらためてさくにわされたものであるという。

せいもと当時とうじ武家ぶけならわしであったあたまこうむ烏帽子えぼしきらい、普段ふだんからかぶらなかった。近衛このえまさしの『こうほうきょう院政いんせいあきらおう3ねん12月21にちじょうによれば、このつき20日はつか予定よていされていたしん将軍しょうぐん義澄よしずみ元服げんぷく将軍しょうぐん宣下せんげが、烏帽子えぼしおやであるせいもと烏帽子えぼし着用ちゃくよういやがったために27にち延期えんきされている[16]

せいもと朝廷ちょうてい幕府ばくふ儀式ぎしきについても、実際じっさい威信いしんともなわなければどんな立派りっぱ儀式ぎしきでも意味いみがないとかんがえていたとみられ、こう柏原かしわばら天皇てんのう即位そくいしき開催かいさい無益むえきであるとして開催かいさいみとめなかった。

このようにせいもと血筋ちすじ一族いちぞく身分みぶんといったむかしからの前例ぜんれい伝統でんとうしばりにもこだわりはない合理ごうり主義しゅぎてきめんがあったようで、細川ほそかわ出身しゅっしんではない家臣かしん上原うえはら元秀もとひで功績こうせきがあったからと、家人かじんから細川ほそかわ一門いちもんへと抜擢ばってきしようとしたり、みずからの後継こうけいしゃ候補こうほとして細川ほそかわかないきよしこれ養子ようしにしたりしている。

人事じんじにおいては、父祖ふそ代々だいだい家臣かしんだんくわえ、あらたな登用とうようもしており、信濃しなのこくからゆみ師範しはんであった赤沢あかざわちょうけい分家ぶんけ阿波あわ守護しゅご家臣かしんであった三好みよしこれちょうざい見出みだしだして重用じゅうようし、軍事ぐんじとう活躍かつやくさせた。四国しこく領国りょうごく土佐とさこくでは、国人くにびと領主りょうしゅのひとりにぎなかった長宗我部ちょうそかべ元秀もとひで土佐とさこく有力ゆうりょくしゃてており、後年こうねん三好みよし長宗我部ちょうそかべ畿内きない覇者はしゃ四国しこく覇者はしゃ飛躍ひやくする下地したじともなった。

たび鷹狩たかがりをこのみ、この時代じだいのしかもだい大名だいみょうにしては異例いれい長旅ながたびもしており、手紙てがみのやりとりより実際じっさいって直接ちょくせつ協議きょうぎするという名目めいもくで、越後えちごこくげん新潟にいがたけん)までっている。奥州おうしゅう東北とうほく地方ちほう)へもいち修験しゅげんしゃとして修行しゅぎょうたびようとしたという。ほかにもたびたび畿内きない近辺きんぺん船旅ふなたびなどしている。

せいもと政務せいむ家臣かしんまかせにして修行しゅぎょうたびたり、出奔しゅっぽんにより幕政ばくせい混乱こんらんさせることもあり、将軍しょうぐん義澄よしずみみずか説得せっとく出向でむくこともあった[ちゅう 2]。やがて実際じっさい政務せいむは、「うちしゅ」とばれたきょうちょういえ重臣じゅうしんたち守護しゅごだいなど)による合議ごうぎおもきがかれるようになったが、ぶんかめ元年がんねん(1501ねん)、せいもとうちしゅ合議ごうぎ規定きていうちしゅ統制とうせいするしきじょう制定せいていする[ちゅう 3]

貿易ぼうえきにも関心かんしんがあり、おおきな経済けいざいてき利益りえきをもたらすあかりこくとの日明ひあがり貿易ぼうえき細川ほそかわ主導しゅどうおこなった。せいもと貿易ぼうえき利権りけんをめぐり対立たいりつ関係かんけいにあった大内おおうち(応仁おうにんらん西にしぐん主力しゅりょく)をして利権りけん独占どくせんするため、九州きゅうしゅうしょうまわしてあかりせん通過つうかルートの博多はかた平戸ひらどみなとをおさえている[17]

せいもとせんもたびたびおこなったが、将軍しょうぐん義尚よしなおろくかく討伐とうばつかぎじん)や管領かんりょう畠山はたけやま政長まさなが義就よしなり討伐とうばつ同行どうこうして出陣しゅつじんしたさいには、一定いってい目的もくてきはもうたしたからと早期そうき撤収てっしゅうもとめ、自軍じぐん素早すばやげるなど、長引ながびいて泥沼どろぬまするのをきら実利じつりてき傾向けいこうがあり、丹波たんばこくだい規模きぼ国人くにびと一揆いっき当初とうしょ現地げんち家臣かしん対応たいおうまかせていたがいっこうにおさまらずせいもとみずか出陣しゅつじんして指揮しきをとったさいには、反乱はんらん首謀しゅぼうしゃたちを根絶ねだやしにする苛烈かれつさで鎮圧ちんあつしている。

幸田こうだ露伴ろはん著書ちょしょ魔法まほう修行しゅぎょうしゃ』にて、せいもと修験しゅげんどうったのは、なかなか男子だんし出来できなかったちち勝元かつもと天狗てんぐ修験しゅげんとしてもられた愛宕山あたごやまだい権現ごんげん願掛がんかけしてまれたのがせいもとだったためという出生しゅっしょう因縁いんねんからくるものだったと指摘してきしており、せいもとを「なに不自由ふじゆうなき大名だいみょうでありながら、葷腥をとおざけて滋味じみらわず、する謹厳きんげんで、ちょう人間にんげん境界きょうかいたいのぞみに現世げんせいよくらくることをあえてしなかった」「(せいもとが)空中くうちゅう飛上とびあがったのは、西洋せいよう魔法使まほうつかいもすることで、それだけながあいだ修行しゅぎょうしたのだからそのくらいこと出来できたとておこう」などとひょうしている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

主要しゅよう家臣かしん[編集へんしゅう]

へんいみなけた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ちゅう前項ぜんこう#主要しゅよう家臣かしん」のうち、こちらの項目こうもく掲載けいさいされていない「もと」のものは、先代せんだい細川ほそかわ勝元かつもとより「もと」のけた人物じんぶつである。

建立こんりゅうした寺院じいん[編集へんしゅう]

現在げんざい京都きょうと京都きょうと上京かみぎょう大心院だいしんいんまち大心院だいしんいん建立こんりゅうした。いま妙心寺みょうしんじ塔頭たっちゅうである大心院だいしんいんとしてうつされている。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

仮名かめい草子ぞうし
小説しょうせつ
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ただし、満之まんしけいこうこくちち政春まさはる頼元よりもと玄孫げんそんであり、かいはるけいきよしもと高祖父こうそふ満久まく満之まんしである。
  2. ^ 度々たびたび出奔しゅっぽんした背景はいけいには成長せいちょうして政務せいむるようになった将軍しょうぐん義澄よしずみとの衝突しょうとつがあり、将軍しょうぐん独自どくじ政治せいじ目論もくろんだ義澄よしずみ憤慨ふんがいしたせいもと抗議こうぎ意味いみでも放浪ほうろうかけていった。義澄よしずみきょうちょういえ軍事ぐんじりょく命令めいれいじょう手続てつづきできょうちょういえの遵行手続てつづきが必要ひつようであるためせいもと帰京ききょううながし、せいもと権威けんい保障ほしょうしてくれる存在そんざい必要ひつようなため義澄よしずみ帰京ききょう命令めいれいおうじた。この事情じじょう両者りょうしゃ相互そうご依存いぞん余儀よぎなくされていた。
  3. ^ ただし、うちしゅ合議ごうぎせい細川ほそかわ実質じっしつじょう最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんになったのは、せいもと幼少ようしょう細川ほそかわきょうちょういえいだとき以来いらいのもので、せいもとの「上意じょうい」は終始しゅうしうちしゅ意向いこうによって制約せいやくされていたとする見方みかたもある。また、さき上原うえはら元秀もとひで急死きゅうしうちしゅうとのいざこざによる相討あいうち)もうちしゅはん上原うえはらうごきと関連かんれんしているともされている(古野ふるのみつぐ室町むろまち幕府ばくふ守護しゅご体制たいせい細川ほそかわ権力けんりょく」(初出しょしゅつ:『日本にっぽん研究けんきゅう』510ごう(2005ねん)/改題かいだい所収しょしゅう:「きょうちょういえ-うちしゅ体制たいせい古野ふるの中世ちゅうせい後期こうき細川ほそかわ政治せいじ構造こうぞう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2008ねんだいだいよんしょう)。
  4. ^ もと」の細川ほそかわきょうちょういえ家督かとく継承けいしょうしゃもちいるつうであり、これが養嗣子ようししとしてむかえた六郎ろくろうきよしもと)に早速さっそくあたえられたことから、最終さいしゅうてききよしもと嫡子ちゃくしとみていたことがうかがえる。ぎゃくにそれまで養嗣子ようししとなっていた聡明そうめいまる当時とうじまだ元服げんぷくまえきよしこれ)にはこのあたえることはなかった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2013ねん11月14にち). “関西かんさい歴史れきし事件じけん簿魔法まほうはん将軍しょうぐん暗殺あんさつした信長のぶなが上回うわまわる「非道ひどうぶり」発揮はっき下克上げこくじょう戦乱せんらんげた細川ほそかわまさしもと(1/3ページ)”. 産経新聞さんけいしんぶん産経さんけいニュース. 2024ねん5がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 300.
  3. ^ 丹波たんばこく守護しゅごだい内藤ないとう元長もとなが一宮いちのみやの、一宮いちのみや租税そぜい減免げんめん権利けんりめぐあらそいであり、内藤ないとうあらそったすえに30めいたれた一宮いちのみやがわが、守護しゅごだいよりうえ丹波たんばこく守護しゅごしょくであるせいもと拉致らち手元てもとくことで優勢ゆうせいはなしすすめようとしたとかんがえられる。これにたい細川ほそかわきょうちょういえは、幕府ばくふなどの介入かいにゅうことわり、内々うちうちはなしすすめようとした。一時いちじせいもとわる細川ほそかわ当主とうしゅとして、将軍しょうぐん足利あしかが義尚よしなおおとうと僧籍そうせきであった足利あしかがよしさとし当主とうしゅえる、というあんかんがえられたが見送みおくられた。2月にはせいもと安否あんぴ不明ふめいであったため、もしもすでものであった場合ばあいないしはこうそうあいだ殺害さつがいされた場合ばあい出家しゅっけしていた細川ほそかわ勝之かつゆき当主とうしゅえるはなした。そのうえで2がつから細川ほそかわかた一宮いちのみやあいだ戦闘せんとうはじまったが、戦闘せんとう自体じたい膠着こうちゃくした。3月22にち一宮いちのみや一族いちぞく一宮いちのみやけんちょう親子おやこ裏切うらぎり、せいもとれて脱出だっしゅつせいもと帰京ききょうした。一宮いちのみや内藤ないとうおよび安富やすとみもといえしょうもと細川ほそかわきょうちょういえ追討ついとうけて敗北はいぼくした。
  4. ^ こうほうきょういん
  5. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ
  6. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじちょうとおる元年がんねん8がつ11にちじょう
  7. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ延徳えんとく3ねん8がつ7にちじょう
  8. ^ 三好みよし長慶ちょうけい』〈人物じんぶつ叢書そうしょ〉13ぺーじ
  9. ^ 大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじあきらおう2ねんうるう4がつ10日とおかじょう
  10. ^ 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, pp. 300–301.
  11. ^ a b c 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 302.
  12. ^ a b c d e f g h 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 303.
  13. ^ a b c d e f g h 大阪おおさか編集へんしゅう専門せんもん委員いいんかい 1981, p. 304.
  14. ^ a b 三好みよし長慶ちょうけい』〈人物じんぶつ叢書そうしょ〉16ぺーじ
  15. ^ 細川ほそかわまさしもと修験しゅげんどう - 東京大学とうきょうだいがく
  16. ^ こうほうきょう院政いんせいあきらおう3ねん12月21にちじょう
  17. ^ 平戸ひらど振興しんこう公社こうしゃ平戸ひらど再考さいこう011 勘合かんごう貿易ぼうえき

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]