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山名やまな宗全そうぜん

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山名やまなやまな 宗全そうぜんそうぜん / 山名やまなやまな もちゆたかもちとよ
本朝ほんちょうひゃくしょうでん』より
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん おうひさし11ねん5月29にち1404ねん7がつ6にち
死没しぼつ 文明ぶんめい5ねん3月18にち1473ねん4がつ15にち
改名かいめい もちゆたかそうみね宗全そうぜん
別名べつめい 小次郎こじろうそうぜん入道にゅうどうあか入道にゅうどう
戒名かいみょう いたるあおいん殿どの最高さいこうむねみねだい居士こじ
墓所はかしょ 京都きょうと左京さきょう南禅寺なんぜんじ福地ふくちまちしんじょういん
官位かんい せいよん左衛門さえもんしたがえさんみぎ衛門えもんとく
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふさむらいしょあたまじんけん山城やましろ守護しゅご
但馬たじま備後びんご安芸あき伊賀いが播磨はりま守護しゅご
主君しゅくん 足利あしかが義持よしもち義量よしかず義教よしのり義勝よしかつ義政よしまさ義尚よしなおよしひろし義視よしみ
氏族しぞく 山名やまな
父母ちちはは ちち山名やまなはは山名やまな氏清うじきよむすめ[注釈ちゅうしゃく 1]
兄弟きょうだい まんときもちもちゆたか宗全そうぜん
きょうゆたかゆたかかつゆたかせいゆたか[注釈ちゅうしゃく 2]どきゆたか豊久とよひさ
むすめ斯波しばよしれんしつ)、むすめ六角ろっかく高頼たかよりしつ
むすめ吉良きらよしふじしつ
養女ようじょ細川ほそかわ勝元かつもとしつ山名やまな熙貴むすめ
大内おおうちきょうひろししつ山名やまな熙貴のむすめ
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山名やまな宗全そうぜんこうはか南禅寺なんぜんじざいしんじょういん京都きょうと左京さきょう

山名やまな 宗全そうぜん / 山名やまな もちゆたか(やまな そうぜん / やまな もちとよ、おうひさし11ねん5月29にち1404ねん7がつ6にち〉- 文明ぶんめい5ねん3月18にち1473ねん4がつ15にち〉)は、室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう家系かけい新田にった庶流山名やまな室町むろまち幕府ばくふよんしょく家柄いえがらさむらいしょあたまじん但馬たじま備後びんご安芸あき伊賀いが播磨はりま守護しゅご山名やまなの3なんで、はは山名やまな氏清うじきよむすめいみなもちゆたかで、宗全そうぜん出家しゅっけ法名ほうみょう

応仁おうにんらん西にしぐんそう大将たいしょうとしてられ、西にしぐんしょしょうからはそうぜん入道にゅうどうまたはあか入道にゅうどうばれていた。

生涯しょうがい

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家督かとく相続そうぞく

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おうなが11ねん(1404ねん)5がつ29にち現在げんざい兵庫ひょうごけん豊岡とよおか山名やまな熙の三男さんなんとしてまれる。どう20ねん1413ねん)、10さい元服げんぷく、4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちいちたまわり、もちゆたか[注釈ちゅうしゃく 3]名乗なのる。

おうなが28ねん1421ねん)12月、もちゆたか初陣ういじんとしてちち従弟じゅうていたる因幡いなば守護しゅご山名やまな熙高(ひろたか)ととも備後びんご国人くにびと討伐とうばつかい、翌年よくねん1422ねん)に京都きょうともどった。

おうなが27ねん1420ねん)、長兄ちょうけいまんとき死去しきょし、後継こうけい問題もんだい浮上ふじょうした。おうなが35ねん1428ねん)に山名やまな熙が重病じゅうびょうになりもちゆたか後継こうけいにしようとするが、6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり自分じぶん側近そっきんであった次兄じけいもち後継こうけいてるようにめいじた[3]あいだもなく、とき熙の病状びょうじょう回復かいふくしたためにいち先送さきおくりになったが、将軍しょうぐん意向いこうしめされたことで山名やまな動揺どうようした。

ところが、えいとおる3ねん1431ねん)5がつにはもち熙が義教よしのり勘気かんきけて廃嫡はいちゃくされたため、えいとおる5ねん1433ねん8がつ9にち家督かとく相続そうぞく但馬たじま備後びんご安芸あき伊賀いが4ヶ国かこく守護しゅご大名だいみょうになった。病気びょうきがちのちちわって義教よしのりつかえ、えいとおる7ねん1435ねん)にはちち死去しきょどう9ねん1437ねん)にはもちゆたか家督かとく相続そうぞく不満ふまんったもち熙が備後びんご挙兵きょへいしたが、これを鎮圧ちんあつする。

えいとおる11ねん1439ねん)、もちゆたかせいよん左衛門さえもん任官にんかんし、翌年よくねん1440ねん)には幕府ばくふさむらいしょあたまじんけん山城やましろ守護しゅごとなる[4][5][6]

嘉吉よしきちらんから隠居いんきょまで

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嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん6月24にちもちゆたか足利あしかが義教よしのりとも播磨はりま備前びぜん美作みさく守護しゅご赤松あかまつ満祐みつすけ屋敷やしき訪問ほうもんしたが、満祐みつすけ義教よしのり殺害さつがいすると抵抗ていこうせずに脱出だっしゅつした[注釈ちゅうしゃく 4]

もちゆたか領国りょうごく播磨はりま挙兵きょへいした満祐みつすけつため、7がつ28にちさむらいしょあたまじんかれたのち同族どうぞく山名やまなきょうきよし山名やまな教之のりゆき嫡男ちゃくなんきょうゆたかとも討伐とうばつぐんひきいて但馬たじまから播磨はりま侵攻しんこう満祐みつすけ城山しろやまじょう陥落かんらくさせて鎮圧ちんあつ貢献こうけんし、赤松あかまつ領国りょうごくくわえて播磨はりま獲得かくとく、5ヶ国かこく守護しゅごとなり(きょうきよし石見いわみ美作みさく教之のりゆき伯耆ほうき備前びぜん領有りょうゆう)、山名やまな熙高の因幡いなばわせて10ヶ国かこく守護しゅごしょく回復かいふくして権勢けんせいた(嘉吉よしきちらん[8][9][10]。だが、一方いっぽう赤松あかまつ満祐みつすけまえからもちゆたか勝手かってみずからの守護しゅごだいらを播磨はりまおくみ、どう国内こくない所領しょりょう横領おうりょうするなど、幕命ばくめい無視むしする行動こうどうつづけており、公家くげ万里小路まりこうじぼうもちゆたか守護しゅごにんじられれば「いちこく滅亡めつぼう[11]になるとなげいている[12]

嘉吉よしきち2ねん1442ねん)、もちゆたか出家しゅっけしてそうみねごうし、長禄ちょうろく年間ねんかん宗全そうぜんあらためた[注釈ちゅうしゃく 5]

ひがし播磨はりま明石あかしぐん美嚢みのうぐん加東かとうぐん3ぐん満祐みつすけ従弟じゅうてい赤松あかまつみつるせい代官だいかんになっていたが、幕府ばくふもうぶんやす元年がんねん1444ねん)にこの3ぐん領有りょうゆうした。同年どうねん10がつ不満ふまんいたまんせい播磨はりま下向げこうしたが、翌年よくねん1445ねん)1がつから4がつにかけてまんせい討伐とうばつひがし播磨はりま実力じつりょく領有りょうゆうした。しかし、こののち赤松あかまつ領国りょうごく奪還だっかん運動うんどうつづいていくこととなる。

嘉吉よしきち3ねん1443ねん)には嘉吉よしきちらんころされた山名やまな熙貴むすめ猶子ゆうしむかえて大内おおうちきょうひろしとつがせ、ぶんやす4ねん1447ねん)にはおなじく熙貴のむすめ幕府ばくふ管領かんりょう細川ほそかわ勝元かつもととつがせて、大内おおうち細川ほそかわ縁戚えんせき関係かんけいむす勝元かつもととも畠山はたけやま持国もちくに対抗たいこうした。結果けっかとおるとく3ねん1454ねん)にいえ騒動そうどう足元あしもとらいだ持国もちくに失脚しっきゃくさせることに成功せいこう勝元かつもととも幕政ばくせい頂点ちょうてんった[14][15][16]

とおるとく3ねん(1454ねん11月2にち赤松あかまつ出仕しゅっしめぐり8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ対立たいりつそうぜん退治たいじめいじられたしょ大名だいみょう軍勢ぐんぜい京都きょうと集結しゅうけつしたが、細川ほそかわ勝元かつもとしでそうぜん退治たいじ中止ちゅうしされ、宗全そうぜん家督かとく守護しゅごしょく嫡男ちゃくなんきょうゆたかゆずり、但馬たじましたこく同年どうねん赤松あかまつ満祐みつすけおいのりひさし播磨はりま挙兵きょへいして、きょうゆたか宗全そうぜんまごたる山名やまなまさしゆたか攻撃こうげきした。宗全そうぜん但馬たじまから出兵しゅっぺいしてのりなおぐんやぶり、のりひさし自害じがいんだ。結局けっきょく但馬たじまで4年間ねんかんごし、長禄ちょうろく2ねん1458ねん)に赦免しゃめんされてふたた上洛じょうらく幕政ばくせい復帰ふっきした。

ひろしせい元年がんねん1460ねん)、きょうゆたか対立たいりつして、きょうゆたか播磨はりまのがれる事件じけん発生はっせいほどなく和解わかいしている。

ひろしただし3ねん1462ねん)、次男じなんゆたか備後びんご安芸あき守護しゅご任命にんめいされ、ひろしせい5ねん1464ねん)に山城やましろ守護しゅごねたが、勝元かつもとてがあったとされる。元々もともと明徳めいとくらん厳罰げんばつけた山名やまなおうながらん功績こうせき備後びんご安芸あき石見いわみあたえられたのは大内おおうち牽制けんせいさせる意図いとであったのに、山名やまな大内おおうちむすぶことはその戦略せんりゃくおおきくくるわせるものであったから、このうごきに対抗たいこうするために宗全そうぜんゆたか父子ふし関係かんけいくさびとうとかんがえたとみられる[注釈ちゅうしゃく 6]さん管領かんりょう畠山はたけやま家督かとくあらそいでは、勝元かつもと畠山はたけやま政長まさなが支持しじするのにたいして畠山はたけやま義就よしなり支持しじ斯波しば家督かとくあらそいでは、斯波しば義敏よしとし支持しじする勝元かつもとたい斯波しばよしれん支持しじ幕政ばくせいめぐ婿むこである勝元かつもと対立たいりつするようになった[17][18][19][20]斯波しばよしかどのみならず、大内おおうち一色いっしょくなど「はん細川ほそかわ勢力せいりょく」とぶべきしょ大名だいみょう次第しだい宗全そうぜん関係かんけいふかめ、宗全そうぜんかれらの盟主めいしゅてき存在そんざい(「大名だいみょうあたま[21])へとなっていった[22]

応仁おうにんらん最期さいご

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ひろしただし6ねん1465ねん)、男子だんし出産しゅっさんした足利あしかが義政よしまさ正室せいしつ日野ひの富子とみこは、実子じっし足利あしかが義尚よしなお将軍しょうぐんしょくのぞ宗全そうぜん接近せっきんする。文正ふみまさ元年がんねん1466ねん)には勝元かつもと共謀きょうぼうして、政所まんどころ執事しつじ伊勢いせさだおや瓊真しべらを失脚しっきゃくさせる文正ふみまさ政変せいへんおこなう。同年どうねん12がつには畠山はたけやま義就よしなり上洛じょうらくさせ、将軍しょうぐん対面たいめんさせる。

応仁おうにん元年がんねん1467ねん)には畠山はたけやま政長まさなが失脚しっきゃくして、管領かんりょう山名やまな斯波しばよしかどとなる。さらに御霊みたま合戦かっせんでは義就よしなり加勢かせいし、政長まさなが駆逐くちくさせる。勝元かつもとかえしをはかり、5月には宗全そうぜん対立たいりつする赤松あかまつ政則まさのり播磨はりま侵攻しんこうしたのをはじめゆたか備後びんご侵攻しんこう双方そうほう散発さんぱつてき衝突しょうとつこり、5月26にち上京じょうきょうたたかをきっかけに応仁おうにんらんはじまった[23][24][25]

宗全そうぜん出石いずし此隅山城やましろ各国かっこくから集結しゅうけつした西にしぐんひきいて挙兵きょへいし、京都きょうと進軍しんぐんする。当初とうしょ室町むろまちてい将軍しょうぐんらを確保かくほした勝元かつもとひきいるひがしぐんたいして劣勢れっせいであったが、8がつには周防すおうから上洛じょうらくした大内おおうち政弘まさひろ合流ごうりゅうし、一進一退いっしんいったい状況じょうきょうになる。

文明ぶんめい3ねん1471ねん)、小倉おぐらみや西陣にしじんみなみみかど擁立ようりつしたが、ほどなく放逐ほうちくされた[26][27][28]

文明ぶんめい4ねん1472ねん)、和平わへい交渉こうしょうおこなわれたが、赤松あかまつ政則まさのり抵抗ていこうなどで失敗しっぱい、5月には宗全そうぜん自害じがいこころみている[注釈ちゅうしゃく 7]

応仁おうにんらんころ宗全そうぜんは60をえる老齢ろうれいのためか、わかころ剛毅ごうき性格せいかくはあまりられなくなった。文明ぶんめい2ねん1470ねん)6がつには宗全そうぜんひがしぐん降参こうさんする、あるいは副将ふくしょうかく大内おおうち政弘まさひろ赦免しゃめんのぞんでいるという奇妙きみょううわさなが[32]西にしぐん結束けっそくりょくみだれがこった。西にしぐん擁立ようりつした足利あしかが義視よしみ畠山はたけやま義就よしなり不和ふわしょうじ、8がつには山名やまな一族いちぞく山名やまな教之のりゆきひがしぐんてんじたといううわさながれたという[33]

このような事態じたいのためか、文明ぶんめい4ねん(1472ねん)8がつ宗全そうぜん家督かとくせいゆたかゆずっている[34][35]。これは嫡子ちゃくしきょうゆたか応仁おうにん元年がんねん死去しきょしていたためである。

応仁おうにん3ねん1469ねん)、ひがしぐん西にしぐん本陣ほんじんんできたときには、66さい老齢ろうれいながら具足ぐそくをつけがたなをとってにわて、てきへいはらったという記録きろくがある(『応仁おうにん別記べっき』)[36][35]。しかし、年齢ねんれいによるおとろえはかくしようもなく、文明ぶんめい2ねんには重度じゅうど中風ちゅうぶおかされて自筆じひつもできずにはな押印おういん使用しようしていた。またこのころ宗全そうぜん和平わへいのぞんでいるといううわさ頻繁ひんぱんながれたという。

文明ぶんめい5ねん(1473ねん)1がつ一族いちぞくさい重鎮じゅうちんだった教之のりゆき死去しきょうように2ヵ月かげつの3がつ18にち宗全そうぜん病死びょうしした。享年きょうねん70。先年せんねん切腹せっぷく未遂みすいこしたとききず悪化あっかしたのが原因げんいんともいわれているが、詳細しょうさい不明ふめい[注釈ちゅうしゃく 8]

墓所はかしょ京都きょうと左京さきょう南禅寺なんぜんじ京都きょうと五山ごさん塔頭たっちゅうしんじょういん(〒606-8435 福地ふくちまち86-11)。

死後しご

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そうぜん死去しきょから2ヶ月かげつの5がつ11にち勝元かつもと死去しきょ文明ぶんめい6ねん4がつ3にち1474ねん4がつ19にち)、せいゆたか勝元かつもとせいもとあいだ和睦わぼく成立せいりつ細川ほそかわ山名やまな和解わかい実現じつげんした。東西とうざいりょうぐん残存ざんそん勢力せいりょくはなおもたたかったが、最終さいしゅうてき文明ぶんめい9ねん1477ねん)に終結しゅうけつした。

せいゆたか和睦わぼく播磨はりま備前びぜん美作みさくめぐって赤松あかまつ政則まさのり衝突しょうとつ文明ぶんめい15ねん1483ねん)に政則まさのり勝利しょうりして一時いちじは3ヶ国かこく大半たいはん制圧せいあつしたが、政則まさのり家臣かしんだん団結だんけつして反撃はんげき文明ぶんめい17ねん1485ねん)から劣勢れっせいかたむき、ちょうとおる2ねん1488ねん)に播磨はりまから撤退てったい、3ヶ国かこく政則まさのり領有りょうゆうした。また、播磨はりま奪還だっかん失敗しっぱいから次男じなんしゅんゆたか(としとよ)を擁立ようりつした備後びんご国人くにびとしゅ対立たいりつせいゆたかしゅんゆたか廃嫡はいちゃくして事態じたい収拾しゅうしゅうさせたが、国人くにびとちからをつけるようになり、領国りょうごく支配しはいらいでいった。因幡いなば伯耆ほうきそれぞれの山名やまなこうそうこし、没落ぼつらく端緒たんしょとなっていった[38][39][40]

経歴けいれき

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月日つきひ旧暦きゅうれき

南禅寺なんぜんじ
  • 1413ねんおうひさし20ねん):元服げんぷくし、4だい将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちいちたまわり、もちゆたか名乗なのる。
  • 1439ねんえいとおる11ねん)1がつせいよん左衛門さえもん叙任じょにん
  • 1440ねんえいとおる12ねん)6がつ13にち幕府ばくふさむらいしょ所司しょし就任しゅうにん
  • 1441ねん嘉吉よしきち元年がんねん)7がつ12にち幕府ばくふさむらいしょ所司しょし辞任じにん
  • 1442ねん嘉吉よしきち2ねん)1がつしたがえさんみぎ衛門えもん昇叙しょうじょ遷任。同年どうねん出家しゅっけし、そうみねごうする。のち宗全そうぜんあらためる。
  • 1444ねんぶんやす元年がんねん以降いこうみぎ衛門えもんとく転任てんにん
  • 1454ねんとおるとく3ねん)11月:隠居いんきょし、家督かとくきょうゆたかゆずる。

人物じんぶつ逸話いつわ

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あか入道にゅうどう性格せいかく

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市川いちかわ裕士ひろしは、将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり意向いこうによって次兄じけい山名やまな熙が後継こうけいしゃてられかけ、それを実力じつりょく排除はいじょすることで家督かとく継承けいしょうするというもちゆたか体験たいけんが、室町むろまち殿どの将軍しょうぐん)や幕府ばくふ影響えいきょうりょく排除はいじょして実力じつりょく勢力せいりょく拡大かくだいすることを志向しこうするきっかけになったとする[41]。また、市川いちかわべつ著作ちょさくで、細川ほそかわ管領かんりょうしょくなど公的こうてき権力けんりょく利用りようして勢力せいりょく拡大かくだいにつなげることが出来できたが山名やまなにはそれがなく、もちゆたかしょ大名だいみょうとの関係かんけい形成けいせいぶんくににおける所領しょりょうの押領など私的してき部分ぶぶんもちいた拡大かくだいさくらざるをなかった。それは公的こうてき権力けんりょく干渉かんしょうされない山名やまなおよもちゆたかの「つよみ」であったが、それは反対はんたい足利あしかが義政よしまさ細川ほそかわ畠山はたけやま赤松あかまつしょ大名だいみょう警戒けいかいしんまねき、応仁おうにんらんをきっかけに一族いちぞく分裂ぶんれつ画策かくさくなどの弱体じゃくたいさくおこなわれた結果けっかもちゆたか死後しご山名やまな急激きゅうげき衰退すいたいしていった。すなわち、「つよみ」と「限界げんかい」は表裏一体ひょうりいったいであったとろんじている[42]

性格せいかく激情げきじょう横暴おうぼう傲慢ごうまんとされ、嘉吉よしきちらん赤松あかまつ討伐とうばつかうまで部下ぶか兵士へいし洛中らくちゅう土倉つちくら質屋しちや襲撃しゅうげきした事件じけん管領かんりょう細川ほそかわから抗議こうぎされたことがある。しかし宗全そうぜんはのらりくらりとした態度たいどをしたため、激怒げきどしたこれ宗全そうぜんをもめようと強硬きょうこう態度たいどせたため、ようやく陳謝ちんしゃした。このときのことを『けん内記ないき』の嘉吉よしきち元年がんねん7がつ12にちじょうには「近日きんじつ無道むどう・濫吹はただ山名やまなるなり」と記録きろくされている[43][44]領国りょうごくでも荘園しょうえん寺社じしゃりょう横領おうりょうえず発生はっせいし、とくきゅう赤松あかまつりょうにおける横領おうりょうはひどかったという[45][46]義政よしまさから討伐とうばつ命令めいれいされたことなどもあるが、宗全そうぜん反省はんせいいろせずにかえって義政よしまさののしって隠居いんきょ命令めいれいまでされている。また息子むすこきょうゆたかとも衝突しょうとつ長禄ちょうろく4ねんには1年間ねんかんに2対立たいりつしてきょうゆたか播磨はりま下向げこうしているほどである(『長禄ちょうろくよんねん』)[47]

しんやさしいいちめんもあり、病気びょうき家臣かしんろうわったり、死去しきょした家臣かしんいたんだりしている。ぶんやす元年がんねん1444ねん)2がつ17にちから23にちにかけて宗全そうぜん太秦うずまさ薬師くすし参籠さんろうして家臣かしんこう入道にゅうどう病気びょうき平癒へいゆをした(『かんとみ同年どうねん2がつ23にちじょう[47]ひろしただし元年がんねん1460ねん)にはちち命日めいにち僧侶そうりょあつめて冥福めいふくいのらせていた家臣かしん死去しきょしたことをかんってその家臣かしんいたんで読経どきょう法会ほうえひらいている(『あおやまろく同年どうねん7がつ4にちじょう[48]。また家臣かしん八木はちぼくとおしげる文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)に死去しきょしたとき、わたる陀の6をしたためている(『禿かぶろ尾長おなががらほうき』)[49]。また『応仁おうにん』の信憑しんぴょうせいはどうあれ、将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさとの対立たいりつ決意けついしてぶんこく兵力へいりょく動員どういんしたとき、垣屋かきや太田垣おおたがきら13にん家臣かしん上意じょういそむくことのいて諫め、それでもたたかうならわれらは出家しゅっけして高野山こうのやまのぼるとした。それにたいして宗全そうぜんむすめ婿むこ斯波しばよしれんとも切腹せっぷくするが、おまえたちはまれとべた。宗全そうぜん家臣かしん道連みちづれにすることをおそれてったのだが、この発言はつげんぎゃく家臣かしんらは宗全そうぜん行動こうどうともにすることを決意けついしたという[50][49]

あか入道にゅうどう[注釈ちゅうしゃく 9]渾名あだな当時とうじからひろまっていたようで、一休宗純いっきゅうそうじゅんかおあかいことと好戦こうせんてき性格せいかくから毘沙門天びしゃもんてんまれわりといている[注釈ちゅうしゃく 10]。ただし実際じっさい宗全そうぜん肖像しょうぞうがどのようなものかはつたわっておらず、不明ふめいである。なお、そうぜん自身じしん毘沙門天びしゃもんてん特別とくべつおもいがあったのか、兵庫ひょうごけん朝来あさく鷲原わしばらてら宗全そうぜん寄進きしんした毘沙門天びしゃもんてんぞうがある。

宗全そうぜんには政治せいじよくとぼしく、もっぱ軍人ぐんじんとしての性格せいかくつよかったという。そうぜん時代じだい山名やまなぐん兵力へいりょくおおくて能力のうりょくつよく、幕府ばくふがたびたび横暴おうぼうのあった山名やまなぐんをそれでも幕府ばくふ体制たいせいなかんでいったのは強大きょうだい軍事ぐんじりょく大名だいみょう圧倒あっとうしていたためという。『嘉吉よしきち[注釈ちゅうしゃく 11]では宗全そうぜん公式こうしき政務せいむ関与かんよすることはすくなく、軍事ぐんじ方面ほうめんかかわるのみだったとしている。実際じっさいさむらいしょあたまじんしょくにあったのも1年余ねんよほどで、以後いご幕府ばくふ宿老しゅくろうとして権勢けんせいをふるった。宗全そうぜんのやりかた数多かずおお子女しじょ他家たけとつぎあるいはむかえて人脈じんみゃくひろげて勢力せいりょく拡大かくだいするというものだった[53]

その

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室町むろまち時代じだい末期まっきかれた『 塵塚ちりづか物語ものがたり』では、応仁おうにんらん最中さいちゅう訪問ほうもんした公家くげ先例せんれいいにして諫めたところ、「これからはれいというときえたらどうか」「先例せんれいというが、あなたが没落ぼつらくしてわたし対面たいめんしているいまこそとき重視じゅうしすべきではないか」とったとするエピソードがかれ、時勢じせい重視じゅうしする宗全そうぜんあらわ逸話いつわとして引用いんようされている。このはなし史実しじつかどうかは不明ふめいだが、宗全そうぜん形式けいしきより実力じつりょく重要じゅうようしたのは事実じじつで、荘園しょうえん横領おうりょうするなどの行為こういなど戦国せんごく大名だいみょう実力じつりょく本位ほんい行動こうどう宗全そうぜんには多々たたえる[54][55]

かつて応仁おうにんらん原因げんいん勝元かつもととの対立たいりつ主流しゅりゅうだったが、対立たいりつひろしせい6ねんからであり、それまでは協調きょうちょうして幕政ばくせい勢力せいりょくあらそいに対処たいしょしていったことと、文明ぶんめい4ねん和睦わぼく交渉こうしょうまでかぞえると対立たいりつ時期じきが7ねんしかなかったこと、宗全そうぜん勝元かつもと死去しきょしたのち文明ぶんめい6ねんにそれぞれの後継こうけいしゃ和睦わぼくしたことから近年きんねん異説いせつもある[注釈ちゅうしゃく 12]

寺社じしゃ保護ほご熱心ねっしんいちめんもあり、本領ほんりょう但馬たじまをはじめきょう寺社じしゃ庇護ひごしている。

浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶき作品さくひん伽羅きゃら先代せんだいはぎ』において、山名やまな宗全そうぜん逆臣ぎゃくしん仁木にき弾正だんじょううしたてとしてえがかれる。また、江戸えど時代じだい後期こうきのベストセラー『偐紫田舎いなか源氏げんじ』では、将軍しょうぐんねら悪役あくやくとしてえがかれている。

関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 但馬たじまむら岡山おかやま名家めいか』では山名やまなよしむすめとされているが、康正こうせい2ねん1456ねん)に宗全そうぜん但馬たじまははじゅうなな回忌かいきおこなったさいまねかれた僧侶そうりょしるした『せみあん稿こう』では『安清やすきよ開基かいきしみ大姉だいし 山名やまな金吾きんごはは 奥州おうしゅうおんな』と宗全そうぜん氏清うじきよ官位かんいしるしていることから氏清うじきよむすめとされる[1]
  2. ^ せいゆたかかんしては4なんとも嫡孫ちゃくそんきょうゆたか)ともいわれる。きょうゆたかもちゆたか先立さきだってくなっているため、いずれにせよ、もちゆたか後継こうけいしゃであったことは間違まちがいない[2]
  3. ^ ゆたか」の由来ゆらい不明ふめいだが、もちゆたか子孫しそんにはこのもちいるもの多数たすうられ、山名やまなつうの1つとしている。
  4. ^ 斎藤さいとうはじめつね日記にっき』では「手負ておい人数にんずう」として宗全そうぜんがあるが、記録きろくにはえないため軽傷けいしょうだったと推測すいそくされる[7]
  5. ^ 但馬たじまむら岡山おかやま名家めいか』では宝徳ほうとく2ねん1450ねん)となっているが、嘉吉よしきち2ねん小早川こばやかわ文書ぶんしょ出家しゅっけしたことがかれている[13]
  6. ^ 実際じっさい応仁おうにんらんちゅう勝元かつもと宗全そうぜんしたが山名やまなまさしきよしわってゆたか石見いわみ守護しゅごとしている。
  7. ^ ただし自害じがいこころみたというのはうわさとしてながれたとされている(『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ文明ぶんめい4ねん5がつ14にちじょう[29][30][31]
  8. ^ 東寺とうじ執行しっこう日記にっき』には「死去しきょは18にちなり。16にち大事だいじにて、18にち治定じじょうか」とある[37]
  9. ^ あか入道にゅうどう記録きろくは『応仁おうにん』にえる。
  10. ^ きょう雲集うんしゅう』に「山名やまな金吾きんご鞍馬あんば毘沙門びしゃもん化身けしん鞍馬あんばもん赤面せきめんがお利生りしょうぶつせっ人間にんげんげんず、方便ほうべんもんけば真実しんじつあいあり、ごう修羅しゅらぞくめいやまぞくす」とある[51][52]
  11. ^ 山名やまな金吾きんごおさむるとしてならずとうんことなく、せんとしてたずとうんことなし、其上大国たいこく数多すうたりょうし、一族いちぞく子供こども沢山だくさんて、しょ大名だいみょうをむこにとり、その政務せいむにかかはらずありければ、将軍しょうぐんはじしょ大名だいみょうたちかれしんそむかんことほっせず、いまかたそうぶるひとなくぞへし」
  12. ^ ひろしせい6ねん勝元かつもと命令めいれい大内おおうちきょうひろし政弘まさひろ父子ふし守護しゅご河野こうのきょうどおり合流ごうりゅうして河野こうのとおるはる手筈てはずだったが、きょうひろ父子ふしぎゃくつうはるんで勝元かつもと対立たいりつした。どう時期じき斯波しばよしかど畠山はたけやま義就よしなり宗全そうぜん連携れんけいしており、大内おおうち離反りはんそうあきらはかったとされ、細川ほそかわ山名やまな対立たいりつはこのとしからはじまったとされる。また、文明ぶんめい4ねん和睦わぼく交渉こうしょう理由りゆうについて、よしかど地位ちい保全ほぜん幕政ばくせいにおける山名やまな存続そんぞくにかかっていたが、そのかぎとなる関東かんとう政策せいさく現地げんち幕府ばくふかた単独たんどくはん幕府ばくふかた古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじやぶって優位ゆういったため、幕府ばくふ優位ゆういしげるとの和睦わぼく征伐せいばつのぞんでいたよしかど存在そんざい無意味むいみとなり、勝元かつもととの和睦わぼくうごいたと推定すいていされる[56]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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