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京都きょうと五山ごさん

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南禅寺なんぜんじ三門さんもん
天龍寺てんりゅうじだい方丈ほうじょう
相国寺しょうこくじほうどう

京都きょうと五山ごさん(きょうとござん)とは、臨済宗りんざいしゅう寺院じいん寺格じかくで、別格べっかくとされる南禅寺なんぜんじとともにさだめられた京都きょうとにあるいつつの禅宗ぜんしゅう寺院じいん鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき創設そうせつされたが、その内訳うちわけ確定かくていしたのは室町むろまち時代ときよ足利あしかが義満よしみつだいになってからである。

歴史れきし

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起源きげん

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五山ごさん制度せいどはもとはみなみそうやすしむねのころにインド精舎しょうじゃじゅうとうしょにならって創設そうせつされたものである[1][2]

鎌倉かまくら幕府ばくふ既存きそん宗門しゅうもんなどの既存きそん勢力せいりょく対抗たいこうするため新興しんこう臨済宗りんざいしゅう保護ほごする政策せいさくをとり、政争せいそう戦乱せんらんによって勢力せいりょくはいった荘園しょうえん領地りょうち御家人ごけにんあたえる一方いっぽう一部いちぶ寺社じしゃりょうとし、幕府ばくふ領地りょうちふくめてその管理かんりぜんてらゆだねていた[3]

鎌倉かまくら末期まっきはじまる五山ごさん制度せいどにはあきらかでないてんもあり最初さいしょ五山ごさんしょうされていた寺院じいん諸説しょせつある。

今枝いまえだあいしんせつによると最初さいしょ鎌倉かまくら幕府ばくふによって五山ごさんしょうせられていたのは鎌倉かまくらしょ禅刹ぜんさつで「当初とうしょ五山ごさん鎌倉かまくらのみに限定げんていされていた」としている[1]今枝いまえだによるとたてたけし新政しんせいのもとで京都きょうと大徳寺だいとくじ南禅寺なんぜんじ五山ごさんだいいち寺格じかくとされ、さらに建仁寺けんにんじ東福寺とうふくじなどのしょてら五山ごさんくわえられるようになったとしている[1]こよみおう4ねん(1341ねん)、足利あしかが直義ただよし評定ひょうじょうにより、だいいち建長寺けんちょうじ鎌倉かまくら)と南禅寺なんぜんじ京都きょうと)、だい円覚寺えんかくじ鎌倉かまくら)と天龍寺てんりゅうじ京都きょうと)、だいさん寿ことぶきぶくてら鎌倉かまくら)、だいよん建仁寺けんにんじ京都きょうと)、だい東福寺とうふくじ京都きょうと)とし、じゅん五山ごさん浄智寺じょうちじ鎌倉かまくら)をふくめたとする[1]

ただし、鎌倉かまくら時代じだい創設そうせつ当初とうしょ鎌倉かまくら京都きょうと一緒いっしょいつつのてら五山ごさんさだめていたとするせつもある(室町むろまち時代じだい京都きょうと鎌倉かまくらけて五山ごさんさだめられたとみる)[2]小此木おこのぎ輝之てるゆき鎌倉かまくら時代じだい五山ごさんを、建長寺けんちょうじ円覚寺えんかくじ寿ことぶきぶくてら建仁寺けんにんじ京都きょうと)、浄智寺じょうちじ推定すいていしている[4]

なお、足利あしかが義詮よしあきら将軍しょうぐんしょくのときにも五山ごさん変動へんどうがみられた[1]

五山ごさん確定かくてい幕府ばくふ

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室町むろまち時代じだい足利あしかが義満よしみつ将軍しょうぐんしょく至徳しとく3ねん1386ねん)、南禅寺なんぜんじ別格べっかくとして山之上やまのうえとし、京都きょうと天竜寺てんりゅうじ相国寺しょうこくじ建仁寺けんにんじ東福寺とうふくじ万寿寺まんじゅうじ鎌倉かまくら建長寺けんちょうじ円覚寺えんかくじ寿ことぶきぶくてら浄智寺じょうちじ浄妙寺じょうみょうじをそれぞれやま決定けっていしその五山ごさん制度せいど根幹こんかんとなった[1][2][3]

五山ごさんじゅう刹」という場合ばあい別格べっかくてらたる南禅寺なんぜんじ筆頭ひっとうに、天竜寺てんりゅうじ相国寺しょうこくじ建仁寺けんにんじ東福寺とうふくじ万寿寺まんじゅうじの「五山ごさん」と、ひとしときてら臨川りんせんてら真如寺しんにょうじ安国寺あんこくじたから幢寺、ひろしもんてらこう覚寺かくじ妙光寺みょうこうじ大徳寺だいとくじりゅうしょうてらの「じゅう刹」の総称そうしょうをいう[3]

室町むろまち幕府ばくふ五山ごさんぜんてらたいして不入ふにゅうけんしょやく免除めんじょなどをみとめる一方いっぽう五山ごさんぜんてら幕府ばくふ事務じむ代行だいこう上納じょうのうきんなどの財務ざいむ支援しえんおこな関係かんけいにあった[3]五山ごさん禅僧ぜんそうには宗教しゅうきょう活動かつどうおこな西にしはんしゅ寺院じいん経理けいり荘園しょうえん管理かんりにな職能しょくのう集団しゅうだんひがしはんしゅがいた[3]

室町むろまち時代ときよ幕府ばくふとの関係かんけいちか五山ごさんぜんてら朝廷ちょうていとの関係かんけいちか比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ南都なんと興福寺こうふくじ対立たいりつ関係かんけいにあった[3]大和やまとこく支配しはいする興福寺こうふくじ奈良ならへのぜんてら進出しんしゅつ臨済宗りんざいしゅうそう入国にゅうこくみとめなかった[3]。また、天龍寺てんりゅうじ落慶らっけい法要ほうようへの天皇てんのう行幸ぎょうこうでは延暦寺えんりゃくじから異議いぎとなえられ(1345ねん)、南禅寺なんぜんじせきぜにをめぐる園城寺おんじょうじとの対立たいりつ(1367ねん南禅寺なんぜんじ楼門ろうもん事件じけん)では延暦寺えんりゃくじ全面ぜんめんてき園城寺おんじょうじ支援しえんした[3]

五山ごさんぜんてら幕府ばくふ訴訟そしょう制度せいどたいちゅう貿易ぼうえきなどをつうじて勢力せいりょく伸長しんちょうしていった[3]

しかし、応仁おうにんらんかくてら壊滅かいめつてき被害ひがいけ、ひがしはんしゅ基盤きばんうしなわれた一方いっぽう各地かくちでは守護しゅご大名だいみょうちからつよまって五山ごさん荘園しょうえん管理かんりむずかしくなり関所せきしょ自由じゆう通過つうかけんなどもうしなわれた[3]ひがしはんしゅった荘園しょうえんでは守護しゅご大名だいみょう国人くにびと管理かんりさせる守護しゅごおおくなった[3]。また、五山ごさん勢力せいりょくって空白くうはくとなった北陸ほくりく地方ちほうには一向いっこうそう勢力せいりょく進出しんしゅつあらたな拠点きょてんきずいた[3]

京都きょうと五山ごさん寺格じかく

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※…なお、足利あしかが義満よしみつ意向いこうにより、おうひさし8ねん1401ねん3月5にち相国寺しょうこくじだいいち天龍寺てんりゅうじだいとする順位じゅんい変更へんこうおこなわれたが、義満よしみつぼつおうなが17ねん1410ねん2がつ28にちもともどされた。

今日きょうでは京都きょうと五山ごさん京都きょうとぜんてら格付かくづけ一般いっぱん勘違かんちがいされやすいが、それはけっしてただしい解釈かいしゃくではない。京都きょうと五山ごさんはあくまで足利あしかが政治せいじ政略せいりゃくてき格付かくづけであり、大徳寺だいとくじ同様どうよう理由りゆうからかくげられ、のち五山ごさん制度せいどから脱却だっきゃくしている(くわしくは大徳寺だいとくじ項目こうもく参照さんしょう)。また、妙心寺みょうしんじ大内おおうち義弘よしひろ肩入かたいれしたことが原因げんいん義満よしみついかりをい、寺領じりょうすらも没収ぼっしゅうされていた。再興さいこうたすのは江戸えど時代じだいからである。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f 今枝いまえだあいしん禅宗ぜんしゅうかんてら機構きこう : 五山ごさんじゅう諸山しょざんくにべつ分布ぶんぷについて (昭和しょうわさんじゅうろくねんがつじゅうさんにち 会員かいいん 坂本さかもと太郎たろう紹介しょうかい)」『日本學士院にほんがくしいん紀要きようだい19かんだい3ごう日本学士院にほんがくしいん、89-122ぺーじdoi:10.2183/tja1948.19.89NAID 130003422266 
  2. ^ a b c 鎌倉かまくら時代ときよ”. 鎌倉かまくら. 2020ねん7がつ23にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 細野ほその哲弘てつひろ中世ちゅうせい寺社じしゃ勢力せいりょく実力じつりょく室町むろまち幕府ばくふぜんてら関係かんけい中心ちゅうしんに─」『特技とくぎこんだい296かん特許庁とっきょちょう技術ぎじゅつ懇話こんわかい会報かいほう、120-127ぺーじ 
  4. ^ 小此木おこのぎ輝之てるゆき日本にっぽん五山ごさん制度せいど淵源えんげんについて」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい25かんだい2ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1977ねん、836-838ぺーじdoi:10.4259/ibk.25.836ISSN 0019-4344NAID 130004023835 

関連かんれん項目こうもく

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