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一向いっこうそう

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一向いっこうそう(いっこうしゅう)とは、

  1. 鎌倉かまくら時代ときよ浄土宗じょうどしゅうそう一向いっこうしゅんきよしそうめた仏教ぶっきょう宗派しゅうは
  2. 江戸えど幕府ばくふによって時宗じしゅう強制きょうせいてき統合とうごうされ、「時宗じしゅう一向ひたぶる」と改称かいしょうさせられた。
  3. さらに江戸えど幕府ばくふによって強制きょうせいてき浄土真宗じょうどしんしゅう公式こうしき名称めいしょうとさせられた。以来いらい他者たしゃ浄土真宗じょうどしんしゅう、ことに本願寺ほんがんじ教団きょうだん呼称こしょう

仏教ぶっきょうてき観念かんねんからすれば、本来ほんらいは1.のみが「一向いっこうそう」のただしい定義ていぎであるともかんがえられるが、戦国せんごく時代じだい一向いっこう一揆いっき印象いんしょうや、江戸えど幕府ばくふによっておこなわれた強制きょうせい統合とうごう(「一向いっこうむね」の使用しよう禁止きんし)や強制きょうせい改名かいめい(「一向いっこうむね」の使用しよう強要きょうよう)にともない、今日きょうでは3.のみをすのが一般いっぱんてきである。この歴史れきしてき経緯けいいについてはそれぞれのこう参照さんしょう

一向いっこうしゅんひじりの「一向いっこうむね

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鎌倉かまくら時代ときよ僧侶そうりょ一向いっこうしゅんきよしこよみひとし2ねん1239ねん)? - 弘安ひろやす10ねん1287ねん)?、以下いか一向いっこう」と表記ひょうき)をとする宗派しゅうは

一向いっこう筑後ちくごこく草野くさの出身しゅっしんで、はじめは浄土宗じょうどしゅう鎮西ちんぜい西山にしやまという異説いせつもある)の僧侶そうりょであった。のち各地かくち遊行ゆぎょう回国かいこくし、おど念仏ねんぶつ天道てんとう念佛ねんぶつしゅうし、道場どうじょうもうけた。近江おうみこく番場ばんば蓮華寺れんげじにて往生おうじょうして最期さいごむかえたという。

以後いごどうてら本山ほんざんとして東北とうほく関東かんとう尾張おわり近江おうみ一向いっこうほうりゅうつたえる寺院じいん分布ぶんぷし、教団きょうだん形成けいせいするようになった。鎌倉かまくら時代じだい末期まっきかれた『もりきょう』にはこの教団きょうだん一向いっこうそうんで、後世こうせい浄土真宗じょうどしんしゅうとはまった無関係むかんけい宗派しゅうはとして存在そんざいしていること記録きろくされている。

一向いっこう一遍いっぺんぼう智真ちしんどう時期じき人物じんぶつであり、ともに遊行ゆぎょうおど念仏ねんぶつ行儀ぎょうぎとする念仏ねんぶつ勧進かんじんひじりであることから、一向いっこうの「一向いっこうむね」は一遍いっぺんの「どきしゅ」と混同こんどうされるようになっていく。『天狗てんぐ草子ぞうし』にしるされた「一向いっこうむね」は、一遍いっぺんしゅうしたものである(一向いっこうしゅんきよしこう参考さんこう)。たしかに一向ひたぶるいちへん同様どうよう浄土宗じょうどしゅう影響えいきょうけて自己じこ教義きょうぎ確立かくりつさせたものであるが、まった別箇べっこ教団きょうだんひらいたものである。また、いちへんちが一向いっこうおしえはおど念仏ねんぶつおこなうとはいえ、念仏ねんぶつそのものに特別とくべつ宗教しゅうきょうてき意義いぎ見出みいだことすくなかったとされている。ところが時代じだいるにつれ、一向いっこうおしえがおなおど念仏ねんぶつ一遍いっぺんおしえと混同こんどうされ、さら親鸞しんらんおこした浄土真宗じょうどしんしゅうともざりうという現象げんしょうられるようになる。とく一向ひたぶる教義きょうぎはや段階だんかい流入りゅうにゅうしていた北陸ほくりく地方ちほうではその傾向けいこう顕著けんちょであった。

浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじはちせい蓮如れんにょ北陸ほくりく地方ちほう活動かつどうもとめたときに、布教ふきょう対象たいしょうとしたのはこうした一向ひたぶるいちへん影響えいきょうけておな浄土じょうどきょう土壌どじょうゆうした僧侶そうりょ信者しんじゃであり、蓮如れんにょはこれを「一向いっこうしゅう」(「一向いっこうむね」ではない)とんだ。蓮如れんにょ布教ふきょうに、一向いっこうむね時宗じしゅう支配しはいそうとのむすびつきをつよめ、民衆みんしゅうからはなれ、一向いっこうむね民衆みんしゅう蓮如れんにょ教団きょうだんになびいた結果けっか一向いっこうむねばれるにふさわしかったともいわれる[1]本願寺ほんがんじおよ蓮如れんにょ北陸ほくりくにおける成功せいこう背景はいけいにはこうした近似きんじした宗教しゅうきょうてき価値かちかんった「一向いっこうしゅう」の存在そんざいおおきいわけであるが、同時どうじ蓮如れんにょはこれによって親鸞しんらんおしえがゆがめられてしまうことおそれた。さらにべつ事由じゆうから宗派しゅうはより「一向いっこうむね」と呼称こしょうされていたこと(後述こうじゅつ)もかれ憂慮ゆうりょふかめた。文明ぶんめい5ねん1473ねん)に蓮如れんにょによってかれた『じょうがいぶん』において「おっと一向いっこうむねうんどきしゅかためいなり、一遍いっぺん一向いっこう是也これや。其源とはしゅうばんばの道場どうじょう是則これのり一向いっこうむねなり」とし、一向いっこうむね一向いっこう教団きょうだんでもあることを明記めいきして本願寺ほんがんじ門徒もんと一向いっこうむね名前なまえ使つかったものは破門はもんするとまでかれているものの、ここでもいちへん一向いっこう宗派しゅうは混同こんどうされている。

江戸えど時代じだいはいると、江戸えど幕府ばくふ本末ほんまつ制度せいど徹底てっていはかり、系譜けいふことにするさまざまな念仏ねんぶつ勧進かんじんひじりが、清浄せいじょうこうてら総本山そうほんざんとする単一たんいつ宗派しゅうは時宗じしゅう」の管轄かんかつ編成へんせいされた。このさい一向いっこう流派りゅうは独立どくりつした宗派しゅうはとはみとめられず、「一向いっこうそう」の呼称こしょうもちいることきんじられた。『時宗じしゅう要略ようりゃく』によると、時宗じしゅうじゅうのうち、一向ひたぶる天童てんどう一向いっこうほうみゃくぐものとされている。一向ひたぶる(かつての一向ひたぶる一向いっこうむね)は再三さいさんにわたり時宗じしゅうからの独立どくりつもとめたがみのらなかった。

明治めいじ時代じだいになって、中期ちゅうき一向ひたぶるから独立どくりつてんむねとなえるもの出現しゅつげんし、一向ひたぶる浄土宗じょうどしゅう宗務しゅうむいんに「所轄しょかついれねがい」を、時宗じしゅう教務きょうむいんに「時宗じしゅう一向ひたぶる独立どくりつ認可にんかねがい」を提出ていしゅつした。しかし一向ひたぶる独立どくりつてんむねみとめてしまうと、明治めいじ以降いこう衰退すいたいいちじるしく、時宗じしゅう寺院じいんすくないうえに、さらに減少げんしょうすることになるので、時宗じしゅう当局とうきょくは、これをみとめようとしなかった[2]

大半たいはん寺院じいん時宗じしゅうはなれ、一向いっこう母体ぼたいであった浄土宗じょうどしゅう帰属きぞくするようになったのは、昭和しょうわ時代じだいはいった1943ねんことであった。

ゆかりの寺院じいん

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浄土真宗じょうどしんしゅうの「一向いっこうむね

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浄土真宗じょうどしんしゅう、ことに本願寺ほんがんじ教団きょうだん呼称こしょう教団きょうだん自身じしんはこの自称じしょうしなかったので注意ちゅうい必要ひつようである。

一向いっこう」とは「ひたすら」「一筋ひとすじ」という意味いみであり、「ひとつに専念せんねんすること」を意味いみしている。『仏説ぶっせつ無量むりょう寿ことぶきけい』に「一向いっこう専念せんねん無量むりょう寿ことぶきふつ」としるされていることから、とくに阿弥陀あみだほとけ名号みょうごうたたえることと解釈かいしゃくされ、親鸞しんらん宗祖しゅうそとする教団きょうだんほんこうでは「真宗しんしゅう教団きょうだん」とする)を宗派しゅうはから呼称こしょうとなった。とくに浄土宗じょうどしゅうは、親鸞しんらん教団きょうだんが「浄土じょうどしんそう」と自称じしょうすることをきらい、「一向いっこうむね」のしょうもちいた。

したがって「一向いっこうむね」は真宗しんしゅう教団きょうだん門徒もんとからただしい呼称こしょうではなく、また一向いっこうしゅんひじりの「一向いっこうむね」と混同こんどうされることからのぞましいかたでもなかった。だが、中世ちゅうせいにおいておな念仏ねんぶつとなえる浄土じょうどきょうけい宗派しゅうはであった両派りょうは混同こんどうされ、さらどきしゅなどとも漠然ばくぜん同一どういつのものとしてとらえられるようになっていった。蓮如れんにょ前述ぜんじゅつのように「宗派しゅうはものが(勘違かんちがいして)一向いっこうむねぶのは仕方しかたないが、我々われわれ浄土真宗じょうどしんしゅう門徒もんと一向いっこうむね自称じしょうしてはいけない」という主旨しゅし発言はつげんをして違反いはんしゃ破門はもんするとまでべているが、ぎゃくえばこれは、真宗しんしゅう教団きょうだん門徒もんとですら「一向いっこうむね」を自称じしょうするものがいたこと意味いみする。

こうした指導しどうにより、教団きょうだん内部ないぶでは「一向いっこうむね」のかたり正式せいしき使つかわれることはなくなり、「浄土真宗じょうどしんしゅう」または「真宗しんしゅう」としょうするようになった。しかし、門徒もんとたちを中心ちゅうしんとする一揆いっきが「一向いっこう一揆いっき」とばれるなど、真宗しんしゅう教団きょうだんのことを教団きょうだんがいから「一向いっこうむね」と風潮ふうちょうおさまることはなかった。

江戸えど幕府ばくふは、真宗しんしゅう教団きょうだん名称めいしょうとして「一向いっこうむね」を公式こうしきもちつづけた。この経緯けいいとしては、徳川とくがわ家康いえやす三河みかわ一向いっこう一揆いっきにより家中いえじゅう統制とうせいくるしめられたこと、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけが(真宗しんしゅう教団きょうだんが「浄土真宗じょうどしんしゅう」をしょうすることをのぞまない)浄土宗じょうどしゅう信仰しんこうしていることがげられる。これにたいして、真宗しんしゅう教団きょうだんがわ本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつなどの影響えいきょうがあり、ながらく具体ぐたいてき対応たいおうられることがなかった。

そう名論めいろんそう

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安永やすなが3ねん1774ねん)、西本願寺にしほんがんじ東本願寺ひがしほんがんじ一致いっちして幕府ばくふたいして「浄土真宗じょうどしんしゅう」のみを公式こうしき名称めいしょうとするようにもとめる意見いけんしょ提出ていしゅつし、真宗しんしゅうふつこうてら真宗しんしゅう高田たかだなど本願寺ほんがんじけい真宗しんしゅう各派かくはもこれに呼応こおうした。

寺社じしゃ奉行ぶぎょう松平まつだいら忠順ただまさは、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ菩提寺ぼだいじである寛永寺かんえいじ天台宗てんだいしゅう)と増上寺ぞうじょうじ浄土宗じょうどしゅう)に意見いけんしょたいする見解けんかいもとめた。寛永寺かんえいじ他宗たしゅう問題もんだいであること理由りゆう宗派しゅうはまかせる姿勢しせいせたのにたいして(事実じじつじょう容認ようにん)、増上寺ぞうじょうじ激怒げきどした。増上寺ぞうじょうじ法然ほうねん直系ちょっけいである浄土宗じょうどしゅうこそが「しん浄土宗じょうどしゅう」であり、異端いたんである一向いっこうむねが「しん」のもちいることをむしろきんじるべきであると回答かいとうした。

浄土宗じょうどしゅうがわ主張しゅちょう根拠こんきょのないことではない。親鸞しんらんは『高僧こうそう和讃わさん』において「智慧ちえこうのちからより、ほんげんそら法然ほうねん)あらはれて、浄土真宗じょうどしんしゅうひらきつゝ、選択せんたく本願ほんがんのべたまふ」とあらわしており、である法然ほうねんしん浄土宗じょうどしゅう指導しどうしゃとしてそのおしえを「浄土真宗じょうどしんしゅう」とひょうした。親鸞しんらんみずからを法然ほうねん継承けいしょうしゃとして「真実しんじつきょう浄土真宗じょうどしんしゅう」(『教行信証きょうぎょうしんしょう』)とべている。現在げんざい浄土じょうどしゅうとはべつ宗派しゅうはであると主張しゅちょうする親鸞しんらん門徒もんと真宗しんしゅう教団きょうだん)が「浄土真宗じょうどしんしゅう」を採用さいようするのは不当ふとうであると浄土宗じょうどしゅうがわ主張しゅちょうしたのである(なお、蓮如れんにょが「浄土真宗じょうどしんしゅう」を公式こうしきとするようにいたはん世紀せいきまえせいちょう元年がんねん1428ねん)にこう小松こまつ天皇てんのうきむ戒光明寺あけてら山門さんもんに「浄土真宗じょうどしんしゅう最初さいしょもん」の勅額ちょくがくかかげさせている)。

翌年よくねん松平まつだいら忠順ただまさ寺社じしゃ奉行ぶぎょう辞任じにんし、太田おおたあい後任こうにんとなった。太田おおたあい老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐ協議きょうぎし、増上寺ぞうじょうじをはじめとする浄土宗じょうどしゅう寺院じいん幕府ばくふへの貢献こうけん格別かくべつであるとして浄土宗じょうどしゅう主張しゅちょうれ、真宗しんしゅう教団きょうだん宗派しゅうはめい正式せいしきに「一向いっこうむね」とすること決定けっていした。これにたいして真宗しんしゅう教団きょうだん各派かくははげしく抗議こうぎしたため、その審議しんぎのやりなおしを決定けっていしたものの、実際じっさいにはたんなる先送さきおくりにならなかった。

そのあいだ増上寺ぞうじょうじ浄土宗じょうどしゅう各派かくはたいして「浄土真宗じょうどしんしゅう」の名称めいしょうもちいること出来できるのは浄土宗じょうどしゅう寺院じいんだけであるという見解けんかいし、増上寺ぞうじょうじに「浄土真宗じょうどしんしゅう」のがくかかげるなどの圧迫あっぱくくわえた。真宗しんしゅうがわめられ、天明てんめい8ねん1788ねん)には上洛じょうらく帰途きと箱根山はこねやま通過つうかした老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶたいして浅草あさくさ本願寺ほんがんじそう直訴じきそするさわぎとなった。

これに苦慮くりょした定信さだのぶは、寛永寺かんえいじはなわ王寺おうじみやおおやけのべ入道にゅうどう親王しんのう仲裁ちゅうさいねがた。おおやけのべよく寛政かんせい元年がんねん1789ねん)に仲裁ちゅうさいあんしたが、それは「3まんにち」のあいだ寛永寺かんえいじでこの問題もんだいあずかりそのあらためて議論ぎろんするというものであり、真宗しんしゅうがわもこれにしたがわざるをなかった。これを「そう名論めいろんそう(しゅうめいろんそう)」という。以後いご真宗しんしゅう教団きょうだんはあくまでも「一向いっこうむね」の呼称こしょう拒否きょひして門徒宗もんとしゅう(もんとしゅう)などのいいかえをおこなった。

明治めいじ政府せいふ成立せいりつすると、神道しんとう国教こっきょう過程かてい仏教ぶっきょう統制とうせい必要ひつようせいかんじたしん政府せいふは、宗教しゅうきょうだんたいして「浄土真宗じょうどしんしゅう」・「門徒宗もんとしゅう」など「一向いっこうむね以外いがい呼称こしょうあらためてきんじようとした。ところが廃仏毀釈はいぶつきしゃく問題もんだい相俟あいまって真宗しんしゅう教団きょうだんがわもう反発はんぱつった。

真宗しんしゅう教団きょうだんがわではこの裁定さいていくだした江戸えど幕府ばくふ滅亡めつぼうしたこと、そしてなによりもすで約束やくそくの「3まんにち」が到来とうらいしていることを理由りゆうに、あらためて「浄土真宗じょうどしんしゅう」の呼称こしょうみとめるようにせまった。明治めいじ5ねん1872ねん)、明治めいじ政府せいふ浄土宗じょうどしゅう手前てまえ浄土真宗じょうどしんしゅう」をみとめることはできないが、略称りゃくしょうの「真宗しんしゅう」であればみとめるとする見解けんかいした。これにしたがい、真宗しんしゅう教団きょうだん寺院じいん以後いご真宗しんしゅう」を公式こうしき名称めいしょうとする。

国家こっかによる宗教しゅうきょう統制とうせいかれただい世界せかい大戦たいせん西本願寺にしほんがんじちょうとする浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ正式せいしき名乗なのるようになった。本願寺ほんがんじ以外いがいの9つの真宗しんしゅうけい宗派しゅうはは、現在げんざいもそれぞれ「真宗しんしゅう○○」の呼称こしょうもちいている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大橋おおはし俊夫としおいちへん時宗じしゅう教団きょうだん』(教育きょういくしゃ、1978ねん)178ぺーじ
  2. ^ 大橋おおはし俊雄としおいちへん時宗じしゅう教団きょうだん』(教育きょういくしゃ、1978ねん)247ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大橋おおはし俊雄としおいちへん時宗じしゅう教団きょうだん』(教育きょういくしゃ、1978ねん
  • 辻川つじかわ達雄たつお蓮如れんにょななにん息子むすこ』(まことぶんどう新光しんこうしゃ、1996ねんISBN 4-416-89620-4