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あかしむなし

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あかしむなし

あかしむなし(しょうくう・あかしそらうけたまわ元年がんねん11月9にち1177ねん11月30にち)- たからおさむ元年がんねん11月26にち1247ねん12月24にち))は、西山にしやま浄土宗じょうどしゅう浄土宗じょうどしゅう西山にしやま禅林寺ぜんりんじ浄土宗じょうどしゅう西山にしやま深草ふかくさ西山にしやまさん西山にしやまよし法然ほうねん高弟こうていであり、はじめ解脱げだつぼう、のちにぜんめぐみぜんとしぼうごうした。諡号しごうわたるてんかん国師こくし一般いっぱんには西山にしやま国師こくし(せいざんこくし)あるいは西山にしやま上人しょうにんという。 はつながらないが、道元どうげん禅師ぜんじ長兄ちょうけいにあたる。最近さいきん研究けんきゅうによれば、叔父おじともされる。

略歴りゃくれき

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村上むらかみはじめ加賀かが権守ごんもりみなもとちかし長男ちょうなんとしてまれ、9さいはるに、同族どうぞく久我くがである内大臣ないだいじん久我くがとおるおや養子ようしとなる。たてひさ元年がんねん1190ねん)、14さい元服げんぷくにあたり発心ほっしんして出家しゅっけ法然ほうねん弟子でしとなった。以後いご浄土じょうどきょう奥義おうぎまなぶ。以来いらい法然ほうねん臨終りんじゅうまでの21年間ねんかん、そのもと修学しゅうがくすることとなる。

一度いちど見聞けんぶんすればすべてを理解りかいしてしまった、という秀才しゅうさいぶりで、そうしたことからか、たてひさ9ねん1198ねん)に法然ほうねんの『選択せんたく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』の撰述せんじゅつにあたっては、引用いんようぶんとのらしわせというかんぶん重要じゅうようやくにあたったとの記述きじゅつもある。翌年よくねん法然ほうねんわって九条くじょうけんやしきで『選択せんたくしゅう』をこうじた。

元久もとひさ元年がんねん1204ねん)、法然ほうねん天台座主てんだいざしゅ大僧正だいそうじょう真性しんせいたいして『なな箇条かじょう起請文きしょうもん』をあらわしたとき、そのだいよん番目ばんめ署名しょめいしていることは、門弟もんていちゅうにおけるあかしそら地位ちい如実にょじつ物語ものがたって、門弟もんていなかでも重要じゅうよう位置いちにいたとかんがえられている。

たてひさし元年がんねん1207ねん)、法然ほうねんうけたまわもと法難ほうなん配流はいるされると、吉水よしみずにあった法然ほうねんじゅうぼうから東山ひがしやま小坂こさかうつ[1]

法然ほうねんつねずいすること23ねん浄土じょうどきょうふかたっし、えんとみ菩薩戒ぼさつかい相伝そうでんした。このころより推薦すいせんによって日野ひの[よう曖昧あいまい回避かいひ]ねがいはちすについて天台てんだいがく政春まさはるについてたいみつ研鑽けんさんはじめた。

けんれき2ねん1212ねん)、法然ほうねん死去しきょい、天台座主てんだいざしゅ大僧正だいそうじょう慈円じえんゆずりをうけて、東山ひがしやま小坂こさかより、西山にしやま善峰寺ぜんほうじ北尾きたお往生おうじょういんさん鈷寺)にうつんだ。のちあかしそら流派りゅうは西山にしやまよしばれていく。

法然ほうねん死去しきょ4ねんたてたもつ3ねん1215ねん)よりよしみろく法難ほうなん直前ちょくぜんよしみろく3ねん1227ねん)にいたる12ねんあいだ往生おうじょういん本拠地ほんきょちとして京洛きょうらく内外ないがいさんじゅうすうしょ往復おうふくして、ほとんど連日れんじつかん無量むりょう寿ことぶきけい』をはじめとする善導ぜんどう著述ちょじゅつ講説こうせつにあけくれた。その講説こうせつ記録きろく現在げんざいかんもん要義ようぎ鈔』41かんとして現存げんそんする。

よしみろく3ねん(1227ねん)のよしみろく法難ほうなんさいして法然ほうねん高弟こうていしんむなしとともに流罪るざいまぬかれがれている。ひろし元年がんねん1229ねん)、奈良なら當麻寺たいまでら参詣さんけいして『当麻とうま曼荼羅まんだら』を拝観はいかんする。このとき、この曼荼羅まんだら無量むりょう寿ことぶきけい疏を図画ずがしていることを見抜みぬき、以後いごその流通りゅうつうつとめた。

ひろしもと元年がんねん1243ねん)2がつ1にち京都きょうと西山にしやまにおいて門弟もんていとともにさんけいなどを書写しょしゃ供養くようし、来迎らいこうふつ胎内たいないおさめた(山崎やまざき大念寺だいねんじ来迎らいごうふつ胎内たいない文書ぶんしょ)。また同年どうねんこう嵯峨天皇さがてんのうみことのりにより歓喜かんきしんいん創建そうけんし、たびたび宮中きゅうちゅう参内さんだいして西山にしやまよし小坂こさかよし[2]こう菩薩戒ぼさつかいさづけた。たからおさむ元年がんねん(1247ねん)、みちさとし法親王ほうしんのうのために『鎮勧用心ようじん』を、また大宮おおみやいんのために仮名かめい法語ほうご(『女院にょいんしょ』)をあらわした。

たからおさむ元年がんねん11がつ22にち往生おうじょう間近まぢかいことをさとり、門弟もんていたいして菩薩戒ぼさつかいおよび『かん無量むりょう寿ことぶきけい』の要義ようぎしめし、11月24にち天台てんだい大師だいしこうおこない、翌日よくじつ泉涌寺せんにゅうじあかりかんのために『菩薩戒ぼさつかい疏』の要義ようぎだんじ、11月26にちだいころもきゅうじょう袈裟けさ)をちゃくし、『阿弥陀あみだけい』を読誦とくしょうし、念仏ねんぶつ合掌がっしょうして白河しらかわむかえいんにおいて71さい死去しきょした。門弟もんていのこ西山にしやまさん鈷寺ほうむり、とうをたててはなだいびょうしょうした。

寛政かんせい8ねん1796ねん)にはかん国師こくし諡号しごうひかりかく天皇てんのうよりおくられた。

あかしそら建立こんりゅうしたおも寺院じいんには、西山にしやま往生おうじょういんはじめ、歓喜かんきしんいんきよしきょうてらむかえいんなどがある。あかしそら画像がぞう、いわゆる「思惟しいぞう」はその浄土じょうど教学きょうがくがきわめて哲学てつがくてきであることを暗示あんじしている。

死後しご弟子でしきよしおん西谷にしたにりゅうとなえて現在げんざい西山にしやま浄土宗じょうどしゅう浄土宗じょうどしゅう西山にしやま禅林寺ぜんりんじ母体ぼたいつくり、たてしん円空えんくう)は深草ふかくさりゅうとなえて現在げんざい浄土宗じょうどしゅう西山にしやま深草ふかくさ基礎きそつくった。

著作ちょさく

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あかしそらじゅつしょには大別たいべつしてきょうしょう事相じそうとがある。前者ぜんしゃには『かんもん要義ようぎ鈔』41かん、『かんけい疏他ひつ鈔』14かん、『かんけい大意たいい』1かん、『かんかどよし草案そうあん』2かん、『さん経論きょうろん』1かん、『さんえんよし』1かん、『てい料簡りょうけん』1かん、『だん鈔』1かん、『安心あんしん鈔附りゃく安心あんしん鈔』1かん、『ぜんとし上人しょうにん御法みのり』1かん、『白木しらき念仏ねんぶつ法語ほうご』1かん、『じゅつまこと』1かん、『鎮勧用心ようじん』1かん、『女院にょいんしょ』2かんなどがある。

後者こうしゃには『當麻とうま曼荼羅まんだら註記ちゅうき』10かん、『かんけいけつしゅう』20かん、『選択せんたくみつようけつ』5かん、『四十八願要釈鈔』2かん、『修業しゅうぎょうようけつ』1かん、『當麻とうま曼荼羅まんだらきょうしき』1かん、『當麻とうま曼荼羅まんだら八講論義鈔』1かんなどがある。この後者こうしゃ事相じそう著述ちょじゅつについては真偽しんぎりょうせつがある。

あかしそら門弟もんてい非常ひじょうおおく、とくにきよしおん西谷にしたにりゅう)、たてしんじ深草ふかくさりゅう)、あかしいれ東山ひがしやまりゅう)、あかしとし嵯峨さがりゅう)のよんにんは、それぞれ流派りゅうはひらいたため「西山にしやまよんりゅう」といわれる。このほか、はちすせい宇都宮うつのみやみのる信房のぶふさ)はつねずい40ねんといわれ、講説こうせつ聞書ききがき(『せきがくぼう鈔』2かん)をのこしている。

詠歌えいか

きてを はちすのうえにやどさずば 念仏ねんぶつまうす 甲斐かいやなからん

宗門しゅうもんでの文献ぶんけん

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  • あかしそら 上田うえだりょうじゅん 浄土じょうど仏教ぶっきょう思想しそう だい11かん講談社こうだんしゃ、1992ねん著者ちょしゃ西山にしやま浄土宗じょうどしゅうだい81せい法主ほっしゅは「一遍いっぺん大橋おおはし俊雄としお
  • 中西なかにしずいこうあかしそら浄土じょうどきょう研究けんきゅう法蔵館ほうぞうかん、2009ねん3がつ著者ちょしゃどうだい87せい法主ほっしゅ
  • あかしそら辞典じてん中西なかにしずいこう監修かんしゅう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2011ねん7がつ
  • 鷲津わしづきよしせいだん鈔講せつ 西山にしやま上人しょうにん念仏ねんぶつ白馬はくばしゃ、1994ねん著者ちょしゃ僧侶そうりょ  
  • 菅田すげたゆうじゅん西山にしやましょうそら上人しょうにんとその思想しそう思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2022ねん著者ちょしゃ僧侶そうりょ

伝記でんき

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本山もとやま寺院じいん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 高橋たかはし慎一しんいちろうによれば、あかしそらどう時代じだい妙法みょうほういん門跡もんぜきみことせい実弟じっていこう堀河ほりかわ天皇てんのう即位そくいともなって法親王ほうしんのうとされ、同院どういんも「綾小路あやのこうじ小坂こさか殿どの」としょうされていることから当時とうじ妙法みょうほういんがあったとされる祇園ぎおん神幸しんこうどうちかくにあかしそらぼうがあったとする(高橋たかはしまき一朗いちろうあかしそら小坂こさかじゅうぼうをめぐるいち考察こうさつ」(初出しょしゅつ:『日本にっぽん歴史れきし』553ごう(1998ねん)/所収しょしゅう:高橋たかはし日本にっぽん中世ちゅうせい権力けんりょく寺院じいん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2016ねんISBN 978-4-642-02932-2))。
  2. ^ なお、あかしそら西山にしやまうつったのち東山ひがしやま小坂こさかぼうつづ存続そんぞくしていたため、かれおしえは鎌倉かまくら時代じだいには「小坂こさかよし」もしくは「西山にしやまよし」としょうされるのが一般いっぱんてきであった。「西山にしやまよし」の呼称こしょう定着ていちゃくするのはあかしそら没後ぼつご小坂こさかぼう継承けいしょうしたとみられるあかしいれ東山ひがしやまりゅう衰退すいたいしてじんむなしじつしるべ活躍かつやくさん鈷寺が西山にしやま拠点きょてんとして確立かくりつされた南北なんぼくあさ以降いこうことである(高橋たかはしまき一朗いちろうあかしそら小坂こさかじゅうぼうをめぐるいち考察こうさつ」(初出しょしゅつ:『日本にっぽん歴史れきし』553ごう(1998ねん)/所収しょしゅう:高橋たかはし日本にっぽん中世ちゅうせい権力けんりょく寺院じいん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2016ねんISBN 978-4-642-02932-2))。

関連かんれん項目こうもく

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