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さとし

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さとし如(さとし[1]

ぶんひさし7ねん12月28にち[2] - かんおう2ねん[3] 1がつ19にち
1271ねん2がつ16にち - 1351ねん2がつ23にち
1271ねん2がつ9にち - 1351ねん2がつ15にち

上段じょうだん旧暦きゅうれき 中段ちゅうだんグレゴリオれき換算かんさん[4] 下段げだんユリウスれき
幼名ようみょう ひかりせん
法名ほうみょう さとし
ごう えら(ごうしょう)
いみな そうあきら
尊称そんしょう さとし如上じょじょうじん
生地きじ 京都きょうと
ぼつ 京都きょうと本願寺ほんがんじげんおんいん塔頭たっちゅうたかしたいいん
宗旨しゅうし 浄土真宗じょうどしんしゅう
宗派しゅうは 本願寺ほんがんじ浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ真宗しんしゅう大谷おおや)、真宗しんしゅう
寺院じいん 大谷おおや本願寺ほんがんじ
如信ただえん
弟子でし そんさとししたがえさとしぜんじょうせんなど
著作ちょさく報恩ほうおんこう私記しき』『本願寺ほんがんじ聖人せいじん親鸞しんらんでん
鈔』『口伝くでん鈔』『あらためよこしま鈔』など
びょう 浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ大谷本おおやほんびょう本願寺ほんがんじ西山にしやま別院べついん真宗しんしゅう大谷おおや大谷おおや祖廟そびょう
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さとし(かくにょ、さとし[1])は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての浄土真宗じょうどしんしゅうそう浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじだい3せい宗主そうしゅ真宗しんしゅう大谷おおやだい3だいもんくび真宗しんしゅうだい3だい法主ほっしゅ大谷おおや本願寺ほんがんじ住職じゅうしょく

親鸞しんらんすえむすめであるさとししんあまさとしめぐみ長男ちょうなんはは周防すおう権守ごんもり中原なかはらぼうむすめ[5]親鸞しんらん曾孫そうそんにあたる。長男ちょうなんそんさとし次男じなんしたがえさとしまごだい4せいぜん

大谷おおや廟堂びょうどう」の寺院じいん本願寺ほんがんじ成立せいりつ)に尽力じんりょくし、本願寺ほんがんじ中心ちゅうしんとする教団きょうだん基礎きそとなった。本願寺ほんがんじ実質じっしつてき開祖かいそ[6]

報恩ほうおんこう私記しき』、『本願寺ほんがんじ聖人せいじん親鸞しんらんでん』(『つて鈔』・『親鸞しんらんでん』)、『鈔』[7]、『口伝くでん鈔』[8]、『あらためよこしま鈔』[9]など多数たすう撰述せんじゅつし、法然ほうねん正統せいとう後継こうけいしゃとしての親鸞しんらん浄土真宗じょうどしんしゅうないにおける本願寺ほんがんじ教団きょうだん優位ゆういせい主張しゅちょうした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

年齢ねんれいは、かぞどし日付ひづけは、文献ぶんけんとの整合せいごうたもため旧暦きゅうれき宣明のぶあきれき表示ひょうじなま歿年ぼつねん月日つきひのぞく)とし、南北なんぼくあさ時代じだい元号げんごうは、北朝ほくちょう京都きょうと表記ひょうきする。

誕生たんじょう[編集へんしゅう]

  • ぶんひさし7ねん12月28にち1271ねん[2] 2がつ16にち[4] )、京都きょうとまれる。幼名ようみょうは、「ひかりせん」。
  • ぶんなが9ねん1272ねん)、はは死別しべつする。
  • ぶんなが11ねん1274ねん)、5さい。このころより仏門ぶつもんみちこころざすようになる。
  • 建治けんじ3ねん1277ねんごろとなりぼうの慈信ぼうきよしうみ(ちょうかい)のもと内外ないがい聖典せいてん修学しゅうがくはげみ、天台宗てんだいしゅう初心しょしんしゅう」をつて受される。
  • 弘安ひろやす5ねん1282ねん)(弘安ひろやす7ねん1284ねん〉とも)、延暦寺えんりゃくじ宰相さいしょう法印ほういんそうきよし(しゅうとう)に入門にゅうもん天台てんだいおしえをける。
  • 弘安ひろやす6ねん1283ねん)、興福寺こうふくじ一乗院いちじょういん信昭のぶあき入室にゅうしつし、法相ほうしょうおしえをける。信昭のぶあきぼつは、弟子でしさとしあきらいてまなぶ。
    • このあいだに、八宗兼学はっしゅうけんがく自性じしょうぼうりょうしかについてさんろんきょうまなぶ。

得度とくど[編集へんしゅう]

自覚じかく[編集へんしゅう]

  • えいひとし2ねん1294ねん)、親鸞しんらんの33回忌かいきに『報恩ほうおんこう私記しき』(報恩ほうおんこうしきしきぶん)を撰述せんじゅつする(報恩ほうおんこうはじまり)。このころさかいに、親鸞しんらん後継こうけいしゃであると自覚じかくするようになる。
  • えいひとし3ねん1295ねん)、『本願寺ほんがんじせい人伝ひとづて』(はつ稿本こうほん・「じゅうさんだん」)を撰述せんじゅつする。きよし法眼ほうげんえがかせる。(当時とうじものは、絵巻物えまきもの。)
  • えいひとし7ねん正安まさやす元年がんねん1299ねんごろさとしめぐみ発病はつびょうする。
  • 正安まさやす3ねん(1301ねん)、親鸞しんらん法然ほうねん後継こうけいしゃであること主眼しゅがんいた『拾遺しゅうい古徳ことくつたえ』を著作ちょさくする。

ただぜんとのあらそ[編集へんしゅう]

  • 正安まさやす4ねん1302ねん)、さとしめぐみただぜんあいだこった留守るすしょく就任しゅうにん問題もんだい勃発ぼっぱつする(ただぜん事件じけん)。
  • 徳治とくじ元年がんねん1306ねん)、さとしめぐみただぜん大谷おおや廟堂びょうどうかぎ強奪ごうだつされ、占拠せんきょされる。さとし如・さとしめぐみは、三条さんじょう朱雀すじゃくさとし如のつま実家じっか避難ひなんする。
  • 徳治とくじ2ねん1307ねん)、さとしめぐみ三条さんじょう朱雀すじゃくにて入滅にゅうめつする。
  • のべけい2ねん1309ねん)7がつあおれんいんにより大谷おおや廟堂びょうどう留守るすしょくは、さとし如に継承けいしょうされること裁定さいていされる。やぶれたただぜんは、大谷おおや廟堂びょうどう徹底的てっていてき破壊はかいし、影像えいぞう親鸞しんらん木像もくぞう)と遺骨いこつ一部いちぶうばい、鎌倉かまくら逃亡とうぼうする。(ただぜん事件じけん決着けっちゃく。)
    • しかし高田たかだ門徒もんとはじめとする東国とうごく門徒もんとは、大谷おおや廟堂びょうどう留守るすしょく継承けいしょう血縁けつえん限定げんていされるのをきらい、無条件むじょうけんにはさとし如をみとめなかった。やむなく留守るすしょく就任しゅうにん前提ぜんていとしたじゅうじょうからなる懇望こんぼうじょう同年どうねん7がつ26にちづけ)をしるす。
    • なお、大田おおた壮一そういちろうは、大谷おおや廟堂びょうどう留守るすしょく裁定さいていくだしたのは、おな天台宗てんだいしゅう門跡もんぜき妙香みょうこういんであるとする(大田おおたせつによれば、室町むろまち時代じだい妙香みょうこういんあおはちすいん吸収きゅうしゅうされるまでは本願寺ほんがんじ妙香みょうこういん影響えいきょうにあったとする。ただし、さとし如とただぜんこうそうおよびつづさとし如とそんさとしこうそうちゅうにはあおはちすいん門跡もんぜき妙香みょうこういん門跡もんぜきねていた時期じきもある)[11]
  • のべけい3ねん1310ねん)、東国とうごくへの勧進かんじん東国とうごく門徒もんと自身じしん留守るすしょく承認しょうにんしてもらうためにおもむく。半年はんとしにわたる懇願こんがんすえ承認しょうにんされ正式せいしき留守るすしょく継承けいしょうする。
  • のべけい4ねん/おうちょう元年がんねん1311ねん)、親鸞しんらんじゅう回忌かいきたり、影像えいぞうかげどう再建さいけんする。

本願寺ほんがんじ成立せいりつ[編集へんしゅう]

  • おうちょう2ねん1312ねん)、安積あさか門徒もんとほうさとしすすめで「大谷おおや廟堂びょうどう」(「大谷おおやかげどう」)に「専修寺せんしゅうじ」のがくかかげるが、叡山えいざん反対はんたいにより撤去てっきょする。[12]
  • 正和しょうわ3ねん1314ねん)、長男ちょうなんそんさとし留守るすしょくゆずり、一条いちじょう大宮おおみや隠居いんきょする。
  • げんとおる元年がんねん1321ねん)、「大谷おおや廟堂びょうどう」を寺院じいんし、「本願寺ほんがんじ」とごうする(本願寺ほんがんじ成立せいりつ)。寺院じいんともない「留守るすしょく」は、住持じゅうじしょくふくめた「別当べっとうしょく」となる。このさい、これまで廟堂びょうどうけられていた帰命きみょうつきじゅうぽう無碍むげこう如来にょらい十字じゅうじ名号みょうごうあらため、あらたに木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞう本尊ほんぞんにしようとしたが高田たかだ門徒もんと反対はんたいにあい、これまでとおりの十字じゅうじ名号みょうごう本尊ほんぞんとされた。

義絶ぎぜつ[編集へんしゅう]

  • げんとおる2ねん1322ねん)、留守るすしょく血脈けちみゃく継承けいしょう東国とうごく門徒もんとたいする意見いけん相違そういにより、そんさとし義絶ぎぜつし、別当べっとうしょく復職ふくしょくする。
  • よしみれき元年がんねん1326ねん)、『』を撰述せんじゅつする。

さんだいでん血脈けちみゃく[編集へんしゅう]

  • 元弘もとひろ元年がんねん/もととく3ねん1331ねん)、『口伝くでんしょう』を撰述せんじゅつし、「さんだいでん血脈けちみゃく(けちみゃく)」を表明ひょうめいし、法灯ほうとう継承けいしょう主張しゅちょうする。(ほうみゃく法然ほうねん親鸞しんらん⇒如信⇒さとし如、血統けっとう親鸞しんらんさとししんあまさとしめぐみさとし如)みずからを本願寺ほんがんじさんせい位置いちづける。(親鸞しんらん開祖かいそ宗祖しゅうそ〉、如信…本願寺ほんがんじせい
  • せいけい元年がんねん1332ねん)、如信のさんじゅうさん回忌かいきつとむおさむため陸奥みちのくこく大網おおあみげん福島ふくしまけん白川しらかわぐん古殿ふるとのまち)におもむく。同時どうじ有力ゆうりょく東国とうごく門徒もんと20にんあまりに、正統せいとう宗義しゅうぎ相伝そうでんしゃ法灯ほうとう継承けいしょうしゃであることみとめさせ署名しょめいさせる。
  • たてたけし3ねん1336ねん)、足利尊氏あしかがたかうじによる戦乱せんらんけ、そんさとし居住きょじゅうする近江おうみ瓜生津うりうづ疎開そかいする。戦火せんか影響えいきょうで「本願寺ほんがんじ全焼ぜんしょうする。『本願寺ほんがんじじょう人伝ひとづて』(はつ稿本こうほん消失しょうしつする。
  • たてたけし4ねん1337ねん)、帰洛きらく西山にしやま久遠寺くおんじ居住きょじゅうする。『本願ほんがん鈔』『あらためよこしま』を撰述せんじゅつする。
  • たてたけし5ねん/こよみおう元年がんねん1338ねん)、近江おうみ瓜生津うりうづ咄の仲裁ちゅうさいにより、そんさとし義絶ぎぜつ赦免しゃめんし、別当べっとうしょくゆずる。
  • こよみおう3ねん1340ねん)、『ねがい々鈔』を撰述せんじゅつする。

ふたたび、義絶ぎぜつ[編集へんしゅう]

  • こよみおう5ねんかんひさし元年がんねん1342ねん)、そんさとしふたた義絶ぎぜつし、別当べっとうしょく復職ふくしょくする。
  • かんひさし2ねん1343ねん)、『さいよう鈔』を撰述せんじゅつする。『本願寺ほんがんじじょう人伝ひとづて』(『つて鈔』)を増補ぞうほして、じゅうだんとする(「かんひさしほん」)。『でん』は、えんさび(えんじゅく、きよし法眼ほうげん)と門人もんじんそうしゅん(そうしゅん)にえがかせる。(拝観はいかん便びんかんがえ、を『つて鈔』、を『でん』とべつ仕立したてにした。)
  • 貞和さだかず6ねん/かんおう元年がんねん1350ねん)、そんさとし義絶ぎぜつ赦免しゃめんする。別当べっとうしょくは、さとし如の次男じなんしたがえさとしぜん継承けいしょうするむねゆずじょうしるす。

往生おうじょう[編集へんしゅう]

  • かんおう2ねん1がつ19にち(1351ねん2がつ23にち[4]、82さいかぞどし)にてさとし入滅にゅうめつする。 のべじんてらおくそうされる。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • さとし撰述せんじゅつ
    • 報恩ほうおんこう私記しき
    • 本願寺ほんがんじせい人伝ひとづて』(『つて鈔』・『親鸞しんらんでん』)
    • 拾遺しゅうい古徳ことくつたえ
    • 鈔』
    • 口伝くでん
    • 本願ほんがん鈔』
    • あらためよこしま鈔』
    • ねがい々鈔』
    • さいよう鈔』
    • 出世しゅっせもと
    • 教行信証きょうぎょうしんしょう大意たいい』 - 『教行信証きょうぎょうしんしょう』の大要たいようべたしょ
  • 関連かんれん書籍しょせき
    • 『慕帰絵詞えことば』10かん - したがえさとし著作ちょさく
    • さい敬重けいちょう絵詞えことば』(さいしゅきょうじゅうえし)7かんじょうせん著作ちょさく


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b さとし如…しん字体じたいもちいられる以前いぜん文献ぶんけんもちいられたきゅう字体じたい
  2. ^ a b ぶんなが7ねん12月28にちは、西暦せいれきユリウスれき、グレゴリオれき換算かんさんともに)では1271ねんだが、ぶんなが7ねんは、としけていないので「1270ねん」とかんがえる。文献ぶんけんさとし如の生年せいねん」のとし西暦せいれきを、れきもとづいて1270ねん表記ひょうきする場合ばあい西暦せいれきもとづいて1271ねん表記ひょうきする場合ばあいがあるので注意ちゅうい必要ひつようである。
  3. ^ かんおう2ねんは、北朝ほくちょう元号げんごう南朝なんちょう元号げんごうは、正平しょうへい6ねん
  4. ^ a b c グレゴリオれき換算かんさん本願寺ほんがんじでは、グレゴリオれき換算かんさんしたなま没年ぼつねんもちいる。
  5. ^ さとし如のであるしたがえさとし慈俊がしるしたさとし如の伝記でんき『慕帰絵詞えことば』のだいいちかんに「はは周防すおう権守ごんもり中原なかはらのなにがしとかやごうしける其母なり」とある。(参考さんこう文献ぶんけん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 慈俊『慕帰巻一けんいち ・ 『真宗しんしゅう聖教せいきょう全書ぜんしょさん 歴代れきだいしたがえさとし『慕歸繪詞えことば巻一けんいち、P.773。)
  6. ^ 当然とうぜんであるが真宗しんしゅうじゅううち高田たかだふつこうてらおきせい山元やまもとまこと照寺しょうじさん門徒もんと出雲いずもは、本願寺ほんがんじ大谷おおやながれにあるさとし如とはべつながれにあるためそれぞれの歴代れきだいにはふくまれない。
  7. ^ 鈔』(しゅうじしょう)
  8. ^ 口伝くでん鈔』(くでんしょう)
  9. ^ あらためよこしま鈔』(がいじゃしょう)
  10. ^ a b c 上田うえだりょうじゅんおもねぼうあきらそら樋口ひぐち安養寺あんようじ』、印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅう 9(1)、1961ねん、p. 306
  11. ^ 大田おおたたけし一郎いちろう初期しょき本願寺ほんがんじ天台てんだい門跡もんぜき寺院じいん大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい へん真宗しんしゅう教団きょうだん構造こうぞう地域ちいき社会しゃかい』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん) ISBN 4-7924-0589-0 P19-26
  12. ^ このがくほうさとしが、高田たかだ如来にょらいどうかかげたのが、「高田たかだ専修寺せんしゅうじ本寺ほんじ」の寺号じごう起源きげんとするせつがある

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 高松たかまつ信英のぶひで野田のだすすむ親鸞しんらんせい人伝ひとづてつて鈔にまなぶ、真宗しんしゅう大谷おおや宗務しゅうむしょ出版しゅっぱん、1987ねんISBN 978-4-8341-0164-5 
  • 真宗しんしゅう聖教せいきょう全書ぜんしょ編纂へんさんしょ へん真宗しんしゅう聖教せいきょう全書ぜんしょさん 歴代れきだい重版じゅうはん)、大八木おおやぎきょうぶんどう、2010ねん4がつ 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
如信
本願寺ほんがんじ
だいさんせい
次代じだい
本願寺ほんがんじ
浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ
真宗しんしゅう大谷おおや
浄土真宗じょうどしんしゅう東本願寺ひがしほんがんじ
ぜん

錦織にしきおりてら
真宗しんしゅう
そんさとし