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准如じゅんにょ

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准如じゅんにょ

天正てんしょう5ねん7がつ9にち - 寛永かんえい7ねん11月30にち旧暦きゅうれき

1577ねん7がつ24にちユリウスれき) / 8がつ3にちグレゴリオれき換算かんさん[* 1] - 1631ねん1がつ2にち(グレゴリオれき
幼名ようみょう おもねちゃまる(あさまろ)
院号いんごう こういん
いみな 光昭みつあき
諡号しごう 信光のぶみついん
尊称そんしょう 准如じゅんにょ上人しょうにん
宗旨しゅうし 浄土真宗じょうどしんしゅう
宗派しゅうは 浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ
寺院じいん 西本願寺にしほんがんじ
顕如けんにょ
弟子でし りょうなぞらえ
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准如じゅんにょ(じゅんにょ)[* 2]は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい浄土真宗じょうどしんしゅうそう浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじだい12せい宗主そうしゅ法主ほっしゅ門主もんしゅ)。西本願寺にしほんがんじ住職じゅうしょくいみな光昭みつあき院号いんごうこういんおくりな信光のぶみついん法印ほういん大僧正だいそうじょうちちだい11せい門主もんしゅ顕如けんにょはは如春あま三条さんじょうこうよりゆきむすめ細川ほそかわはるもと養女ようじょ)。あに真宗しんしゅう大谷おおや東本願寺ひがしほんがんじだい12だい門主もんしゅきょう真宗しんしゅうきょうせいきょうせいてらだい17せい門主もんしゅあらわとうとつまあらわみことむすめめいたる阿古あこ(慈照いん如尊)、祇園ぎおんたからひかりいんたから寿ひさしいん参照さんしょう)の息女そくじょ寿ことぶきひかりいんじゅんしょうだい13せい宗主そうしゅりょうなぞらえ

生涯しょうがい

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年齢ねんれいかぞどし日付ひづけ文献ぶんけんとの整合せいごうたもつため、いずれも旧暦きゅうれき宣明のぶあきれき表示ひょうじもちいる(なまぼつ年月日ねんがっぴのぞく)。

幼少ようしょう

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天正てんしょう5ねん7がつ9にち1577ねん8がつ3にち)、誕生たんじょう

幼少ようしょう天正てんしょう9ねん1581ねん)に越前えちぜんくだり、福井ふくい御坊ごぼうほんぎょうてら)へはいったとされるが、5さいのため実際じっさいには越前えちぜんおもむいていないともかんがえられている[1][2]。これ以後いご行動こうどうかっておらず、天正てんしょう19ねん1591ねん2がつ3にち天満てんま本願寺ほんがんじでの得度とくどまで記録きろくっていない。得度とくどちち仕切しきり、「准如じゅんにょ光昭みつあき」の法号ほうごういみなちちからあたえられ、こういん院号いんごうしょうして門跡もんぜきばれ、りゃくして「もん」ともばれたが、ちち後継こうけいしゃ長兄ちょうけいきょう如であり、よく天正てんしょう20ねん1592ねん11月24にちちちくなったのち25にちはは如春あま剃髪ていはつ12月10にちちち葬礼そうれい仕切しきったのもきょう如で、葬礼そうれい豊臣とよとみ秀吉ひでよしきょう如宛朱印しゅいんじょう門主もんしゅつぎしょくみとめられた。准如じゅんにょはは剃髪ていはつ次兄じけいあらわみこととも介錯かいしゃくやくつとめ、ちち葬礼そうれいには2人ふたりあにしたがっている。前述ぜんじゅつ秀吉ひでよし朱印しゅいんじょうでは准如じゅんにょへの言及げんきゅうがあり、あらわみこと准如じゅんにょ面倒めんどうること、ははにも孝行こうこうくすよう秀吉ひでよしきょう如にいている[3][4][5]

本願寺ほんがんじ継承けいしょう

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ところが、准如じゅんにょ立場たちば一変いっぺんする。きょう如が短期間たんきかん門主もんしゅ退しりぞき、後釜あとがまえらばれたからである。

きょう如は門主もんしゅになったが、家老がろうしもあいだなかたかし閉門へいもん処分しょぶんにして奏者そうしゃからし、側近そっきんしもあいだよりゆきりゅう後任こうにんえるなど人間にんげんたて反対はんたい脅威きょういあたえたため、ぶんろく2ねん1593ねんうるう9月12にちはは如春あまはんきょう如派のはたらきかけにおうじたとされる秀吉ひでよしからだい坂城さかきされた。4にち16にちだい坂城さかきでの調しらべで不行跡ふぎょうせきとがめられ、顕如けんにょ准如じゅんにょ門主もんしゅゆずるといた天正てんしょう15ねん1587ねん12月6にちづけ譲状ゆずりじょう根拠こんきょに、秀吉ひでよしから10ねん門主もんしゅ准如じゅんにょゆずることをめいじられたきょう如は了承りょうしょうした。だが筆頭ひっとう家臣かしんしもあいだよりゆきれん秀吉ひでよし異議いぎもうきょう如の正当せいとうせい主張しゅちょう譲状ゆずりじょう門徒もんと主要しゅよう指導しどうしゃ披露ひろうされたうえ発効はっこうするので、譲状ゆずりじょう存在そんざいうたがわしいと主張しゅちょうして強硬きょうこう抵抗ていこうした。これにより秀吉ひでよしいかりをってしまい「いますぐ退すさかくせよ」とのいのちくだされ、17にちきょうから退すさかくれみとめる文書ぶんしょが、准如じゅんにょからつぎしょくける文書ぶんしょがそれぞれ秀吉ひでよし家臣かしん施薬せやくいんぜんむね長束ながつかただしらに提出ていしゅつ10月13にち関白かんぱく豊臣とよとみ秀次しゅうじ秀吉ひでよしおい)が、16にち秀吉ひでよし朱印しゅいんじょうした。こうして准如じゅんにょ門主もんしゅ継承けいしょうすることが決定けっていし、きょう如は退すさかくさせられた[* 3][7][8][9][10]

譲状ゆずりじょう真贋しんがんどちらか論争ろんそうがあり、つじ善之助ぜんのすけ提唱ていしょうした偽物にせものせつきむりゅうしず反論はんろんした本物ほんものせつ上場じょうじょう顕雄あきお本物ほんものせつ疑問ぎもんげるなど、現在げんざい真贋しんがん不明ふめいである。譲状ゆずりじょう日付ひづけ注目ちゅうもくしてかれた理由りゆうさぐられ、天正てんしょう15ねんまでに病気びょうき体力たいりょく限界げんかいかんじた顕如けんにょ隠居いんきょかんがえていたと推測すいそくされている(きょう如が指名しめいされなかった理由りゆうは、天正てんしょう8ねん1580ねん)に義絶ぎぜつしたきょう如とは天正てんしょう10ねん1582ねん)に和解わかいしたが、完全かんぜん修復しゅうふくいたっていなかったからとされる)[11][12]。また譲状ゆずりじょう実効じっこうせい疑問ぎもんてんされ、顕如けんにょ存命ぞんめいちゅうきょう如が後継こうけいしゃとして一般いっぱんにも本願寺ほんがんじ教団きょうだんにも認識にんしきされていたと推測すいそく譲状ゆずりじょうまわりにられておらず、きょう如が調しらべをけたぶんろく2ねんまで実効じっこうせいかった可能かのうせいがっている[13]

西本願寺にしほんがんじ主張しゅちょうによると、もともときょう如は天正てんしょう8ねん石山いしやま本願寺ほんがんじ退去たいきょおり織田おだ信長のぶながへの抗戦こうせん継続けいぞく石山いしやま合戦かっせん)を断念だんねんしたちちそむいて石山いしやま本願寺ほんがんじこめるなどちち不仲ふなかで、信長のぶながあと継承けいしょうした秀吉ひでよしにも警戒けいかいされており、自然しぜん准如じゅんにょてられるようになったという。あらわみこと准如じゅんにょ後見人こうけんにんとして自分じぶんむすめ正室せいしつとしてむかえさせるなど准如じゅんにょ支持しじにまわっており、最終さいしゅうてきに如春あま秀吉ひでよしたのんで准如じゅんにょ相続そうぞく実現じつげんする。

基盤きばんかためと家康いえやすとの接触せっしょく

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退すさかくしたはずのきょう如だが、本願寺ほんがんじ境内けいだいきた広大こうだい屋敷やしきててうつんだ。「きた御所ごしょ」としょうされたこの屋敷やしき門徒もんとたちへちち親鸞しんらんかげ下付かふしたり、支持しじしゃたちをあつめたり本願寺ほんがんじ再興さいこう画策かくさくするなど、隠居いんきょ生活せいかつおくらず門主もんしゅ同然どうぜんいをつづけた。これに対抗たいこうするため准如じゅんにょかげ下付かふしたり、家臣かしんから誓詞せいし提出ていしゅつさせて基盤きばんがために奔走ほんそうした[14][15][16][17]誓詞せいし提出ていしゅつさむらいしゅ絵師えし尊像そんぞう表装ひょうそう担当たんとうする表具ひょうぐにまでおよび、しもあいだよりゆきかどぶんろく2ねん10月5にちづけ誓詞せいし提出ていしゅつはじまり、ぶんろく4ねん1595ねん10月23にちづけさむらいしゅ18にん連判れんばん誓詞せいし提出ていしゅつ一段落いちだんらく提出ていしゅつよくぶんろく5ねん1596ねん)3がつまでつづいた)、奏者そうしゃしもあいだからしもあいだよりゆきれんしもあいだよりゆきじゅんしもあいだよりゆきにぎわい任命にんめいして体制たいせいととのえた。とはいえほか家臣かしん門徒もんとたちはきょう如と准如じゅんにょあいだ去就きょしゅうまよい、両方りょうほう分裂ぶんれつするいえすくなくなかった[18][19]

同年どうねんうるう7がつ13にち発生はっせいした慶長けいちょう伏見ふしみ地震じしん本願寺ほんがんじ本山ほんざんおおきな被害ひがいこうむり、阿弥陀堂あみだどう無事ぶじだが御影堂ごえどうしょどう倒壊とうかい寺内てらうちまちにも被害ひがいがおよぶ災難さいなん見舞みまわれ、よく慶長けいちょう2ねん1597ねん)に再建さいけんした御影堂ごえどう移徙わたましした。同年どうねん大坂おおさかろうきしにあったぼうしゃ移転いてん津村つむら別院べついん創設そうせつした。ほかにも福井ふくい別院べついん岐阜ぎふ別院べついんさかい別院べついん尾崎おざき別院べついん御所ごせ御坊ごぼうなどおおくの別院べついん創設そうせつ整備せいび地方ちほう教団きょうだん統制とうせい重要じゅうよう役割やくわりたす別院べついん准如じゅんにょころ基礎きそ形成けいせいされた[1][20]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、徳川とくがわ家康いえやす会津あいづ征伐せいばつかうと、きょう如と准如じゅんにょ家康いえやすとの面会めんかいはかるが、石田いしだ三成みつなり制止せいしされ途中とちゅうかえした准如じゅんにょ対照たいしょうてききょう如は関東かんとう下向げこうたして家康いえやす面会めんかい関ヶ原せきがはらたたか9がつ20日はつかでも家康いえやす大津おおつじょう再会さいかいした。しかし准如じゅんにょしもあいだなかこう息子むすこしもあいだなか大垣おおがきさんじんしたことが西にしぐん加担かたんしたと家康いえやす讒言ざんげんされ、すぐに面会めんかい出来できなかったばかりか、本願寺ほんがんじ関係かんけいしゃはしぼうあかりしょう西にしぐん主要しゅよう部将ぶしょう安国寺あんこくじ恵瓊えけいかくまったつみ捕縛ほばく処刑しょけいされ立場たちば悪化あっか家康いえやす家臣かしん本多ほんだ正純まさずみやなぎ原資げんししゅんつまなどにはたらきかけて11月17にちころにやっと家康いえやす面会めんかいたした。しかしきょう如が家康いえやすとの親密しんみつさをしていくのとくら待遇たいぐうわるく、慶長けいちょう6ねん1601ねん8がつ16にち家康いえやす献上けんじょうしたおりだい家臣かしんつぶされるという仕打しうちをけ、家康いえやすとの関係かんけいきょう如におくれをっていた[21]

こうしたにが体験たいけん積極せっきょくてき大名だいみょうとの交際こうさいひろげ、慶長けいちょう8ねん1603ねん)に家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんいわうため江戸えど下向げこうした(2がつ伏見ふしみじょうでも家康いえやす対面たいめんしたが、きょう如と対面たいめんする順番じゅんばんあらそきょう如がさき対面たいめんした)[22][23]以降いこうもたびたび江戸えど下向げこう慶長けいちょう19ねん1614ねん)の大坂おおさかじん家康いえやす訪問ほうもん2人ふたり息子むすこ結城ゆうき秀康ひでやす徳川とくがわ秀忠ひでただともそれぞれ慶長けいちょう8ねん元和がんわ3ねん1617ねん)に面会めんかいしている。大名だいみょうともおりれて接触せっしょく浅野あさの幸長よしなが藤堂とうどう高虎たかとらもり忠政ただまさ田中たなか吉政よしまさとは面会めんかい親族しんぞく葬儀そうぎつうじて交際こうさい本人ほんにん葬儀そうぎ仕切しき場合ばあいもあった[24]

本願寺ほんがんじ東西とうざい分立ぶんりつ

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慶長けいちょう7ねん1602ねん)、家康いえやすきょう如にななじょう烏丸からすまよんまち四方しほう寺地てらち寄進きしんし、東本願寺ひがしほんがんじ分立ぶんりつする。このため准如じゅんにょ継承けいしょうしたななじょう堀川ほりかわ本願寺ほんがんじ西本願寺にしほんがんじばれるようになる。本願寺ほんがんじ分立ぶんりつにともない、本願寺ほんがんじ教団きょうだん東西とうざい分裂ぶんれつする。

一説いっせつによると、わか三河みかわ一向いっこう一揆いっきくるしめられた家康いえやすが、本願寺ほんがんじ勢力せいりょく弱体じゃくたいさせるために、きょう如をそそのかして本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつさせたとわれているが、明確めいかくにその意図いとしるされた史料しりょうがないため断定だんていはできない。

現在げんざい真宗しんしゅう大谷おおやは、このとき経緯けいいについて、「きょう如は法主ほっしゅ退すさかくしてからも各地かくち門徒もんと名号みょうごう本尊ほんぞん消息しょうそく手紙てがみ)の配布はいふといった法主ほっしゅとしての活動かつどうつづけており、本願寺ほんがんじ教団きょうだん関ヶ原せきがはらたたかいよりもまえから准如じゅんにょ法主ほっしゅとするグループときょう如を法主ほっしゅとするグループに分裂ぶんれつしていた。家康いえやす寺領じりょう寄進きしん本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつさせるためというより、元々もともと分裂ぶんれつ状態じょうたいにあった本願寺ほんがんじ教団きょうだん現状げんじょう追認ついにんしたにぎない」という見解けんかいしめしている[25]

東西とうざい本願寺ほんがんじ分立ぶんりつ後世こうせいあたえた影響えいきょうについては、「戦国せんごく時代じだいには大名だいみょう匹敵ひってきする勢力せいりょくほこった本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつし、弱体じゃくたい余儀よぎなくされた」という見方みかた存在そんざいするが、前述ぜんじゅつとお本願寺ほんがんじ武装ぶそう解除かいじょ顕如けんにょ准如じゅんにょきょう如派の対立たいりつ信長のぶなが秀吉ひでよし存命ぞんめいころからはじまっており、江戸えど時代じだいどういち宗派しゅうはない本山ほんざんわき門跡もんぜきという関係かんけいだった西本願寺にしほんがんじきょうせいてらが、寺格じかくめぐってながらく対立たいりつして幕府ばくふ介入かいにゅうまねいたことをかんがみれば、きょう如派が平和へいわてき公然こうぜん独立どくりつたしたことは、むしろりょう本願寺ほんがんじそうまさし安定あんていさせた可能かのうせい否定ひてい出来できない。

東西とうざい分立ぶんりつ

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東本願寺ひがしほんがんじ分立ぶんりつした慶長けいちょう7ねん西本願寺にしほんがんじ東本願寺ひがしほんがんじはしったものこうたなかった。誓詞せいし提出ていしゅつしゃ例外れいがいではなく親族しんぞくきょう如の御供ごくうくわわっており、対象たいしょう奏者そうしゃにもおよびしもあいだよりゆきにぎわい慶長けいちょう9ねん1604ねん)に閑居かんきょしていたところきょう如にされた。こうした事態じたいけて西本願寺にしほんがんじ家臣かしんたちは相次あいついで准如じゅんにょ誓詞せいし提出ていしゅつ同年どうねん1がつ23にちづけ誓詞せいし小姓こしょうら15にん連名れんめい准如じゅんにょ食事しょくじ毒見どくみなどの用心ようじん機密きみつ事項じこう親類しんるいはおろか連名れんめいしゃあいだでもらさないことをちかった。また奏者そうしゃしもあいだなかたかししもあいだよりゆきげいはそれぞれ9月8にち11にちづけ誓詞せいし准如じゅんにょへの忠誠ちゅうせいきょう如と接触せっしょくしないことをちかい、11月26にちづけ誓詞せいししもあいだよりゆきりょうさむらいしゅ16にん連名れんめい情報じょうほう漏洩ろうえいをしないことをちかうなど、准如じゅんにょ周辺しゅうへん不安定ふあんてい毒殺どくさつ心配しんぱいされるほどの状況じょうきょうで、きょう如方の工作こうさくにも警戒けいかいしなくてはいけない緊張きんちょう状態じょうたいかれていた[26]

慶長けいちょう11ねん1606ねん)になると、4がつ年寄としより6にん勝手かって出仕しゅっしめる事件じけんこり、このうち3にん年寄としよりであるしたあいだよりゆきりょう2人ふたり叔父おじしもあいだそうきよしなかげん兄弟きょうだいしたあいだよりゆきげいよりゆきけん)が10がつ准如じゅんにょ誓詞せいし提出ていしゅつして謝罪しゃざいしたが、そうきよしよく慶長けいちょう12ねん1607ねん以降いこう推定すいていされる准如じゅんにょあて誓詞せいし勝手かってきょう如のところ出向でむいたことをあらためて謝罪しゃざいしている。慶長けいちょう9ねん誓詞せいし提出ていしゅつしゃだったよりゆきりょう東本願寺ひがしほんがんじうつり、准如じゅんにょおいきょうせいてらじゅんみことあらわみこと息子むすこつまおとうとでもある)が独立どくりつはかるなど、西本願寺にしほんがんじはこのとき東本願寺ひがしほんがんじ工作こうさく家臣かしん一門いちもん不穏ふおん態度たいど動揺どうようしていた[27]

慶長けいちょう13ねん1608ねん12月27にち勅命ちょくめいにより大僧正だいそうじょうとなった[28]慶長けいちょう16ねん1611ねん3月18にちから28にちまでの10日間にちかんにわたり親鸞しんらんさんひゃくじゅう回忌かいき法要ほうようおこなわれたが、東西とうざいどちらに所属しょぞくするかまよっていた門徒もんとたちはにちちゅう西本願寺にしほんがんじへ、よる東本願寺ひがしほんがんじ出仕しゅっししていたとされ、法要ほうようでも東西とうざいそれぞれがおこない、東本願寺ひがしほんがんじ西本願寺にしほんがんじ終了しゅうりょう法要ほうよう開始かいしのう料理りょうりべつったが、参詣さんけいしゃ東本願寺ひがしほんがんじおおかったという[1][29][30]

元和がんわ3ねん江戸えど浅草あさくさ御坊ごぼう浅草あさくさ御坊ごぼうあかりれき大火たいかあかりれき3ねん1657ねん1がつ18にちから20日はつか)により消失しょうしつのべたから7ねん1679ねん)に移転いてん再建さいけんし、平成へいせい20ねん2008ねん現在げんざい築地つきじ本願寺ほんがんじになっている)を建立こんりゅうして教団きょうだん拡大かくだいつとめる[31]。だが同年どうねん12月20にち本山もとやま火災かさいふたたおおきな被害ひがいし、阿弥陀堂あみだどう御影堂ごえどう対面たいめんしょその類焼るいしょうした。よく元和がんわ4ねん1618ねん)に対面たいめんしょ阿弥陀堂あみだどう再建さいけんみずかえがいた聖徳太子しょうとくたいしぞう画工がこう徳力とくりきよしさんえがかせたさんこくろく高僧こうそうぞう阿弥陀堂あみだどう安置あんちしたが、御影堂ごえどう再建さいけんまではならず次代じだいされた[1][32]

示寂じじゃく

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寛永かんえい7ねん11月30にち1631ねん1がつ2にち)、享年きょうねん54(まん53さいぼつ)にて示寂じじゃく長男ちょうなんおもねちゃ慶長けいちょう14ねん1609ねん7がつ5にちに6さい夭折ようせつ次男じなんりょうだい13せい門主もんしゅとなる[28]

学問がくもん文芸ぶんげい振興しんこう

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学問がくもんきで慶長けいちょう2ねんに『愚禿ぐとく』を加点かてん校合きょうごう慶長けいちょう7ねんに『浄土じょうどぶんるい聚鈔』を刊行かんこうしたほか公卿くぎょう学僧がくそう交流こうりゅうった。また古式こしき催事さいじ復興ふっこうにも熱心ねっしんで、慶長けいちょう17ねん1612ねん7がつ30にち盆踊ぼんおどりを開催かいさい慶長けいちょう18ねん1613ねん1がつ1にちぞうへの献盃けんぱいしきさけうみしき)を、1がつ3にちまつ囃子ばやし再興さいこう11月20にちには報恩ほうおんこうまえ御真影ごしんえいを浣洗するしき行水ぎょうずい)などをさだめた。姻戚いんせき関係かんけいにある公家くげ山科やましなげんけい次兄じけいあらわみことげんけいたがいのつま姉妹しまい)から10さいときしょうふえほどきをけたことで芸能げいのうへの関心かんしんたかく、1がつ2にち舞台ぶたいをしつらえてうたいはじめをすることを年中ねんじゅう行事ぎょうじにしたり、御堂みどう法事ほうじ奏楽そうがくをする習慣しゅうかんをつけたりしている。和歌わか連歌れんがたしなんだ[33]

またほういた消息しょうそく門徒もんとくばって教化きょうかはかり、めた消息しょうそくすうさつまとめられ本山ほんざん保管ほかんされている。この教化きょうか目的もくてき消息しょうそく消息しょうそく)は准如じゅんにょ消息しょうそく源流げんりゅうとされている[1][34]

みずか報恩ほうおんこう日記にっききし、慶長けいちょう元年がんねん(1596ねん)・2ねん(1597ねん)・6ねん(1601ねん)・9ねん(1604ねん)・13ねん(1608ねん)・14ねん(1609ねん)・18ねん(1613ねん)の7ねんぶん現存げんそんしている。これは准如じゅんにょ個人こじん記録きろくで、かれ報恩ほうおんこう主催しゅさいしゃとしての責任せきにんかんからいたこの日記にっき所々ところどころくわえとあらためた部分ぶぶんられ、准如じゅんにょ直筆じきひつであることがかるだけでなく、関係かんけいしゃ動向どうこう報恩ほうおんこう経過けいか確認かくにん出来できるため近世きんせい本願寺ほんがんじ様子ようすうかが重要じゅうよう史料しりょうとなっている[35]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 本願寺ほんがんじでは、グレゴリオれき換算かんさんした生年せいねんもちいる。
  2. ^ 法主ほっしゅつとめた寺号じごう本願寺ほんがんじ」にいみなして本願寺ほんがんじ光昭みつあき(ほんがんじ みつあき)ともしょうされる。この「本願寺ほんがんじ」は便宜べんぎてきされたものであって、せいではない。
  3. ^ 秀吉ひでよし本願寺ほんがんじ後継こうけいしゃ問題もんだい介入かいにゅうした理由りゆうは、本願寺ほんがんじ門跡もんぜきとして天皇てんのう権威けんい内包ないほうされたことがげられ、本願寺ほんがんじ後継こうけいしゃ問題もんだい天皇てんのうやそれにじゅんずる権力けんりょく関白かんぱく太閤たいこう)が介入かいにゅうする余地よち出来上できあがっていた。なお、10月13にち秀次しゅうじくだした准如じゅんにょ継承けいしょう承認しょうにんした朱印しゅいんじょうと、16にち秀吉ひでよし朱印しゅいんじょうではこう陽成ようぜい天皇てんのう意向いこうけて決定けってい追認ついにんしたという形式けいしきり、天皇てんのう補佐ほさ代行だいこうする関白かんぱく秀次しゅうじ天皇てんのう意向いこうけて決定けってい太閤たいこう秀吉ひでよし保障ほしょうするという形式けいしきっている[6]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e 柏原かしわばらゆういずみ & 薗田そのだかおりとおる 1999, p. 166.
  2. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 106.
  3. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 106-112.
  4. ^ きむりゅうしず & 木越きごしゆうかおる 2016, p. 254-259.
  5. ^ 神田かんだ千里せんり 2020, p. 235,249.
  6. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 113-115.
  7. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 16-17,102-104.
  8. ^ きむりゅうしず & 木越きごしゆうかおる 2016, p. 184-186,262-264.
  9. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 5-12.
  10. ^ 神田かんだ千里せんり 2020, p. 236,240-241.
  11. ^ きむりゅうしず & 木越きごしゆうかおる 2016, p. 260-262.
  12. ^ 神田かんだ千里せんり 2020, p. 236-238.
  13. ^ 神田かんだ千里せんり 2020, p. 238-240.
  14. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 168-170.
  15. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 12-13.
  16. ^ きむりゅうしず & 木越きごしゆうかおる 2016, p. 181,264-265.
  17. ^ 青木あおき忠夫ただお 2003, p. 224.
  18. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 12.
  19. ^ 青木あおき忠夫ただお 2003, p. 191-203,224-229.
  20. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 20,139,143-144.
  21. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 13-15.
  22. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 29.
  23. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 18.
  24. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 18-20.
  25. ^ 上場じょうじょう顕雄あきおきょう如上じょじょうじん-その生涯しょうがい事績じせき-』東本願寺ひがしほんがんじ出版しゅっぱん
  26. ^ 青木あおき忠夫ただお 2003, p. 203-207,229-231.
  27. ^ 青木あおき忠夫ただお 2003, p. 208-214,231-233.
  28. ^ a b 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 17.
  29. ^ 同朋大学どうほうだいがく仏教ぶっきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ 2013, p. 43,138-140.
  30. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 21-22.
  31. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 139-143.
  32. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 20-22.
  33. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 23-26.
  34. ^ 本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ 2015, p. 22-23.
  35. ^ 青木あおき忠夫ただお 2003, p. 331-334.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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