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石山いしやま合戦かっせん

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石山いしやま合戦かっせん

石山いしやま戦争せんそう」(和歌山わかやま市立しりつ博物館はくぶつかんくら)。大阪おおさかていせんぼう所蔵しょぞう石山いしやま合戦かっせんはいじん中川なかがわねむりすけうつしたもの(きたひだり)。
戦争せんそう石山いしやま本願寺ほんがんじ一揆いっき鎮圧ちんあつせん
年月日ねんがっぴ1570ねん - 1580ねん
場所ばしょ摂津せっつこく石山いしやま大阪おおさか中央ちゅうおう
結果けっか石山いしやま本願寺ほんがんじ織田おだ信長のぶながとの講和こうわ
交戦こうせん勢力せいりょく
本願寺ほんがんじ
雑賀さいかしゅう
毛利もうり水軍すいぐん
村上むらかみ水軍すいぐん
織田おだ
織田おだ水軍すいぐん
三好みよし
指導しどうしゃ指揮しきかん
顕如けんにょ
しもあいだよりゆきれん
鈴木すずき重秀しげひで
乃美のみ宗勝むねかつ
村上むらかみ武吉たけよし
織田おだ信長のぶなが
九鬼くき嘉隆よしたか
戦力せんりょく
天王寺てんのうじやく15,000
木津きづ川口かわぐち1やく700せき
木津きづ川口かわぐち2)600せき
天王寺てんのうじやく10,000
木津川きづがわこう1)やく306せき
木津川きづがわこう2)6せき
損害そんがい
天王寺てんのうじ)2700
木津川きづがわこう1)不明ふめい
木津川きづがわこう2)不明ふめい
天王寺てんのうじ不明ふめい
木津川きづがわこう1)壊滅かいめつ
木津川きづがわこう2)不明ふめい
織田おだ信長のぶながたたか
石山いしやま本願寺ほんがんじ推定すいてい石碑せきひ

石山いしやま合戦かっせん(いしやまかっせん)は、もとかめ元年がんねん9月12にち1570ねん10月11にち)から天正てんしょう8ねん8がつ2にち1580ねん9がつ10日とおか)にかけておこなわれた、浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ勢力せいりょく織田おだ信長のぶながとのたたかい。本願寺ほんがんじ法主ほっしゅ顕如けんにょ石山いしやま本願寺ほんがんじこもってたたかった。

概要がいよう

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広義こうぎでは、もとかめ元年がんねん9がつ12にち石山いしやま挙兵きょへいから天正てんしょう8ねん8がつ2にち顕如けんにょ退去たいきょまでの10年間ねんかんすが、天正てんしょう8ねんうるう3がつ7にち(1580ねん4がつ20日はつか)に本願寺ほんがんじ大坂おおさか退去たいきょ誓紙せいし信長のぶながとどけて戦闘せんとう行為こうい休止きゅうししたことから、うるう3がつ7にちわりとすることもある。

戦国せんごく時代じだい最大さいだい宗教しゅうきょうてき武装ぶそう勢力せいりょくである本願寺ほんがんじ勢力せいりょくと、天下てんかぬの目指めざ織田おだ信長のぶながとの軍事ぐんじてき政治せいじてき決戦けっせんであり、石山いしやま合戦かっせん終結しゅうけつ同時どうじ各地かくち一向いっこう一揆いっきはそのいきおいをいちじるしくうしなった。また、江戸えど時代じだい本願寺ほんがんじ勢力せいりょく分裂ぶんれつする遠因えんいんともなった。

本願寺ほんがんじ勢力せいりょく」といういいかたは、本願寺ほんがんじとすると現在げんざい浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ西本願寺にしほんがんじけい)と混交こんこうするためである。また、浄土真宗じょうどしんしゅう全体ぜんたい本願寺ほんがんじがわについたわけではないてんにも注意ちゅういする必要ひつようがある[注釈ちゅうしゃく 1]以下いか文中ぶんちゅうにおいてはたん本願寺ほんがんじしるす。

また、「石山いしやま本願寺ほんがんじ」という呼称こしょうについても、近年きんねん石山いしやま本願寺ほんがんじ」の名称めいしょう登場とうじょうしたのは江戸えど時代じだい以降いこうで、石山いしやま合戦かっせん当時とうじには「大坂本願寺おおさかほんがんじ」とばれていたとするせつ[1]があり、これを支持しじする研究けんきゅうしゃあいだでは「石山いしやま戦争せんそう」「石山いしやま合戦かっせん」の呼称こしょう当時とうじ史実しじつ合致がっちしないとして「大坂本願寺おおさかほんがんじ戦争せんそう」などの名称めいしょうもちいるものがいる[2]

発端ほったん

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大坂石山本願寺おおさかいしやまほんがんじは、もと本願寺ほんがんじだい8せい法主ほっしゅ蓮如れんにょ隠居いんきょさきとしてえらんだ場所ばしょであり大坂おおさか御坊ごぼうばれていた。畿内きないでは本願寺ほんがんじ京都きょうと山科やましな本拠ほんきょとしていたが、一向いっこう一揆いっき背景はいけいとして本願寺ほんがんじ影響えいきょうりょくつよくなると、その武力ぶりょくおそれた細川ほそかわはるもと日蓮宗にちれんしゅう法華ほっけ一揆いっきらと結託けったくし、天文てんもん元年がんねん1532ねん)8がつ山科やましな本願寺ほんがんじちした(山科やましな本願寺ほんがんじたたか天文てんもん錯乱さくらん)。これにより山科やましな廃墟はいきょとなり、本願寺ほんがんじ本拠ほんきょあらたにさだめなければならなくなった。本願寺ほんがんじ当時とうじ加賀かがおおきな勢力せいりょくっていたが、加賀かが信者しんじゃ往来おうらいには不便ふべんであり、京都きょうとからもとおかった。また、山科やましな焼失しょうしつ前年ぜんねん大小だいしょう一揆いっきばれる本願寺ほんがんじ一門いちもんない内戦ないせん加賀かがこしており、現地げんち門徒もんとあいだには本願寺ほんがんじへの不信ふしんかんがあった。そこで10せい法主ほっしゅあかし京都きょうとちかく、交通こうつう便びん大坂おおさか御坊ごぼう本拠ほんきょとし、すでに礎石そせきがあってまもりやすい石山いしやま防戦ぼうせんようとした。こうして、石山いしやま本願寺ほんがんじ本願寺ほんがんじ本拠ほんきょとして発展はってんした。

細川ほそかわはるもと大坂おおさか御坊ごぼう発展はってんおそれ、たびたび石山いしやま攻撃こうげきしたが、石山いしやま小高こだかさんかわおおまもりにてきした場所ばしょであり、山科やましな教訓きょうくんとして本願寺ほんがんじ軍備ぐんびすすめていたために、まったく戦果せんかげられなかった。はれもと以外いがいとき権力けんりょくしゃ石山いしやま武力ぶりょくおそれ、同盟どうめいむすぶなどして本願寺ほんがんじとの戦火せんかけた結果けっか本願寺ほんがんじ勢力せいりょく年々ねんねん増大ぞうだいし、11せい法主ほっしゅ顕如けんにょ門跡もんぜき門跡もんぜき皇族こうぞく貴族きぞく僧籍そうせきはい住職じゅうしょくとなるさい呼称こしょう)になるなど、中央ちゅうおう権力けんりょくとのむすびつきがつよくなった。

そんななかえいろく11ねん1568ねん)に織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきようして上洛じょうらく成功せいこうした。足利あしかが義昭よしあき室町むろまち幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるおとうとであり、義昭よしあき信長のぶなが武力ぶりょくとも京都きょうとはいったことで、将軍しょうぐん地位ちいだい14だい将軍しょうぐん足利あしかが義栄よしひでから義昭よしあきわたることが確実かくじつになった。信長のぶなが上洛じょうらくしてすぐに畿内きないをほぼ制圧せいあつした。信長のぶなが将軍家しょうぐんけ名目めいもくきょうぎょうてらなど畿内きない本願寺ほんがんじけい末寺まつじぜに要求ようきゅうし、おうじない場合ばあいにはつぶしなどの措置そちをおこなった。本願寺ほんがんじには「京都きょうと御所ごしょ再建さいけん費用ひよう」の名目めいもくぜに5000かん請求せいきゅうし、顕如けんにょはこれを支払しはらった。

えいろく12ねん1569ねんなかばから、信長のぶなが義昭よしあきとのなかはだんだんと険悪けんあくになってった。このとしの9がつ信長のぶなが三好みよし征伐せいばつ決行けっこうする。当時とうじ義昭よしあきによって京都きょうとわれ、石山いしやま本願寺ほんがんじたよっていた近衛このえぜんひさは、顕如けんにょ三好みよし支援しえん進言しんげんした。ただし、ぜんひさ朝廷ちょうていない幕府ばくふないでの対立たいりつ関係かんけいからくる義昭よしあき排除はいじょ目的もくてきであり、織田おだ直接ちょくせつ利害りがい関係かんけいはなかったようである。その証拠しょうこ信長のぶなが義昭よしあき追放ついほうしたのち近衛このえ京都きょうと帰還きかんし、一転いってんして信長のぶなが中心ちゅうしん人物じんぶつとなっている。

合戦かっせんなが

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淀川よどがわつつみたたか

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もとかめ元年がんねん(1570ねん)9がつ12にち顕如けんにょは「信長のぶなが本願寺ほんがんじやぶ却するとってきた」として本願寺ほんがんじ門徒もんとげきばし、三好みよしさんにんしゅ攻略こうりゃくのために摂津せっつ福島ふくしまじんいていた織田おだぐん突如とつじょ攻撃こうげきした。そのまま本願寺ほんがんじぐん石山いしやまて、14にち淀川よどがわつつみ信長のぶながぐん直接ちょくせつ激突げきとつした。このたたかいは織田おだぐん優勢ゆうせいのうちにわり、本願寺ほんがんじぐん石山いしやまもど籠城ろうじょうかまえをせた。織田おだぐん志賀しがじんすで四面楚歌しめんそか状態じょうたいであるため、石山いしやま監視かんしのためのぐんくと、朝廷ちょうていはたらきかけて本願寺ほんがんじぐんほこおさめるよう勅書ちょくしょすなど、本願寺ほんがんじとの戦闘せんとうけた。そのため、石山いしやま本願寺ほんがんじだいいち挙兵きょへいは、じつは1がつもたたないうちに実質じっしつてきにはわったのである。

石山いしやま挙兵きょへいとほぼ同時どうじ長島ながしまねがいしょうてら一向いっこう一揆いっき発生はっせい長島ながしま一向いっこう一揆いっき)し、尾張おわり古木ふるきこうしろとしてまもっていた信長のぶながおとうとしんきょう自害じがいむなど、公然こうぜん信長のぶなが敵対てきたいするようになった。もとかめ2ねん1571ねん)5がつ信長のぶなが長島ながしま殲滅せんめつはかるが失敗しっぱいし、多数たすうへいうしなった。このとし一向いっこう一揆いっきたいする戦果せんかは、9月に一向いっこう一揆いっきこも志村しむらしろきむもりじょう降伏ごうぶくさせたにまる。また、もとかめ3ねん1572ねん)に信長のぶなが京都きょうと自身じしん屋敷やしきてたさいには、3月に顕如けんにょからまん江山えやま一軸いちじくしろ天目てんもく茶碗ちゃわん贈呈ぞうていされている。7月には家臣かしん一向いっこうそう禁令きんれいすなど緊迫きんぱくしたが、これは武田たけだ信玄しんげん仲介ちゅうかいというかたち和議わぎむすんでいる(信玄しんげんつま顕如けんにょつま姉妹しまいである)。もとかめ4ねん/天正てんしょう元年がんねん1573ねん)に信長のぶなが再度さいど長島ながしまめたがまたも失敗しっぱいした。11月にはしろ天目てんもく茶碗ちゃわんおくられたことにたいしての謝礼しゃれいをしている。

ただし、兵力へいりょくして戦火せんかまじえてはいないものの、いわゆる情報じょうほうせん非常ひじょうさかんであった。顕如けんにょおそくとももとかめ3ねんまつごろまでには武田たけだ信玄しんげん毛利もうり輝元てるもとなどとひそかに同盟どうめいむすんでおり、信長のぶなが東西とうざいから挟撃きょうげきしようと画策かくさくしている。足利あしかが義昭よしあきもこのながれにって信玄しんげん上洛じょうらくうながすなどしている。当然とうぜん信長のぶながもそれを牽制けんせいするために、朝廷ちょうてい外交がいこう上杉うえすぎ謙信けんしんへの友好ゆうこう工作こうさくなどをおこなっている。したがって天正てんしょう元年がんねんまつまでは、石山いしやま本願寺ほんがんじ信長のぶながたがいに牽制けんせいしつつも戦火せんかまじえない、いわば冷戦れいせんよりややましな程度ていど推移すいいしていたとおもわれる。

長島ながしま越前えちぜん一揆いっき殲滅せんめつ

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天正てんしょう元年がんねん信長のぶなが朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ相次あいついでほろぼし、義景よしかげ領国りょうごくであった越前えちぜんには義景よしかげもと家臣かしん前波まえばきちままし守護しゅごだいにんじて統治とうちさせた。しかし、よしつぎ粗暴そぼういがおおくなり、よく天正てんしょう2ねん1574ねん)の1がつ富田とみたちょうしげる国人くにびと領主りょうしゅむすんだ一向いっこう一揆いっきによってころされた。さらに一向いっこう一揆いっきむすんだ国人くにびと領主りょうしゅ次々つぎつぎ一揆いっきにより織田おだかた役人やくにん排斥はいせきし、越前えちぜん加賀かが一向いっこう一揆いっきおなじく一向いっこう一揆いっきのもちたるくにとなった(越前えちぜん一向いっこう一揆いっき)。これにより、信長のぶながはせっかく越前えちぜん一向いっこうむねうばわれることになった。

これをった顕如けんにょは、はじめ七里しちりよりゆきしゅう派遣はけんし、そのしもあいだ頼照よりてる越前えちぜん守護しゅごにんじた。こうして本願寺ほんがんじ信長のぶなが和議わぎ決裂けつれつし、4がつ2にち石山いしやま本願寺ほんがんじ織田おだたいさい挙兵きょへいした。

本願寺ほんがんじ長島ながしま越前えちぜん石山いしやまの3拠点きょてん信長のぶながたたかっていたが、それぞれが政治せいじてきなか独立どくりつしているという弱点じゃくてんがあった。信長のぶながはそれを最大限さいだいげん活用かつようして各個かっこ撃破げきはにでた。7月、信長のぶながだい動員どういんれいはっして長島ながしま陸上りくじょう海上かいじょうから包囲ほういし、散発さんぱつてき攻撃こうげきくわえるとともに補給ほきゅう封鎖ふうさして兵糧ひょうろうめにした。長島ながしま長島ながしま中江なかえの3しょこもった一揆いっきぜいはこれにれず、9月29にちには降伏ごうぶく開城かいじょうした。しかし、信長のぶながはこれをゆるさず長島ながしまからものせつしょした。このとき降伏ごうぶくゆるされなかった長島ながしま一揆いっきぜいから反撃はんげきけたため、のこ長島ながしま中江なかえの2しょしがらみかこんで一揆いっきぜいころした。指導しどうしゃであったねがいしょうてらあらわにん堯)は自害じがいした。

天正てんしょう3ねん1575ねん)には、信長のぶなが本願寺ほんがんじ結託けったくした高屋たかやしろあるじ三好みよし康長やすなが降伏ごうぶくさせ、甲斐かい信濃しなの武田たけだ勝頼かつより長篠ながしのたたかやぶり、へい十分じゅうぶんやすめたのち動員どういんれいはっし、8がつ12にち越前えちぜんけて進発しんぱつした。一方いっぽう越前えちぜんでは、しもあいだ頼照よりてる本願寺ほんがんじから派遣はけんされたぼうかんらが重税じゅうぜいしたことなどにより、越前えちぜん一揆いっきをおこした民衆みんしゅうとの関係かんけい悪化あっかし、ぼうかん専横せんおう反発はんぱつ一揆いっきこるという一揆いっきない一揆いっきまできた。

こうした一向いっこうそう内部ないぶ混乱こんらんじょう織田おだぐん連戦れんせん連勝れんしょうまたた越前えちぜん制圧せいあつし、さらに加賀かが南部なんぶまでんだ。9月には信長のぶながきたしょうもどり、さらに岐阜ぎふへともどって石山いしやま牽制けんせいした。

本願寺ほんがんじ3拠点きょてんの2つが撃破げきはされ、とく長島ながしまでは徹底的てっていてききりおこなったことをった石山いしやま本願寺ほんがんじは、顕如けんにょ信長のぶながたいしてみずからの行為こういび、さらにじょうしょ誓紙せいしおさめることで信長のぶなが再度さいど和議わぎむすんだ。しかし、前回ぜんかい和議わぎとはことなり、信長のぶながが「今後こんご対応たいおう赦免しゃめんするかをめる」とするなど、いちじるしく信長のぶなが有利ゆうり状態じょうたいでの和議わぎとなった(実際じっさいには信長のぶながはまだ上杉うえすぎ武田たけだ毛利もうりはさまれており、信長のぶながにとっても和議わぎ軍事ぐんじじょうわるはなしではなかった)。

一方いっぽう中国ちゅうごく地方ちほうではこのとし毛利もうり織田おだかたへと寝返ねがえった備中びっちゅう三村みつむら備中びっちゅう兵乱へいらんほろぼし、備前びぜん美作みさくでも宇喜多うきた直家なおいえ同盟どうめいして天神山てんじんやまじょうたたか後援こうえん浦上うらかみ宗景むねかげ三浦みうら貞広さだひろしつりょうさせ、おおきくひがしへと勢力せいりょくけん拡大かくだいした。これによって毛利もうり軍勢ぐんぜい陸路りくろ播磨はりままで侵攻しんこうすること可能かのうになり、海路かいろでも瀬戸内海せとないかい制海権せいかいけん確保かくほしてたい織田おだ視野しやれた大坂おおさか本願寺ほんがんじとの連携れんけい模索もさくされはじめる。

天王寺てんのうじ合戦かっせんだいいち木津きづ川口かわぐち海戦かいせん

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江戸えど時代じだい中期ちゅうき作成さくせいされたとかんがえられるだいさん石山いしやま合戦かっせんはいじんきたひだり)。

天正てんしょう4ねん1576ねんはる顕如けんにょ毛利もうり輝元てるもと庇護ひごされていた将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきくみしてさんたび挙兵きょへいした。信長のぶながは4がつ14にち明智あけち光秀みつひでらにめいじて石山いしやま本願寺ほんがんじさんぽうから包囲ほういした。しかし、包囲ほうい本願寺ほんがんじろうがんげん大阪おおさか中央ちゅうおう)や木津きづどう浪速なにわ)から海上かいじょう経由けいゆして弾薬だんやく兵糧ひょうろう補給ほきゅうしており、織田おだぐん木津きづめると、本願寺ほんがんじぐんぎゃくに1まんえる軍勢ぐんぜいをもって木津きづ織田おだぐんらし、天王寺てんのうじとりで付近ふきんまではいった(このとき包囲ほういぐん主将しゅしょうであったはなわ直政なおまさ戦死せんししている)。危機ききおちいった光秀みつひでとりでもり、信長のぶなが救援きゅうえん要請ようせいした。

この敗報はいほういた信長のぶながは、すぐさま諸国しょこくじんれをはっしたが、突然とつぜんのことであるためにへい集結しゅうけつおそかった。そのため信長のぶながしびれをらし、3000ばかりのへいれて天王寺てんのうじ包囲ほういしている15000あまり本願寺ほんがんじぐんめかかった。また、包囲ほうい突破とっぱしてとりではいると、すぐさま光秀みつひではじめとするとりでないへいとう合流ごうりゅうしてってた。そのため、篭城ろうじょうさくるものとおもんでいた本願寺ほんがんじぐん足立あしだって敗走はいそうし、石山いしやま本願寺ほんがんじ退却たいきゃくした(天王寺てんのうじ合戦かっせん)。その信長のぶなが石山いしやま本願寺ほんがんじ四方しほうづけじょう住吉すみよし浜手はまて要害ようがいもうけ、はなわ直政なおまさ後任こうにん司令しれいかん佐久間さくましんもり任命にんめいして本願寺ほんがんじ完全かんぜん包囲ほういいた。

経済けいざいてき封鎖ふうさされた本願寺ほんがんじは、毛利もうり輝元てるもと援助えんじょ要請ようせいした。輝元てるもと要請ようせいおうじ、7がつ15にち村上むらかみ水軍すいぐんなど毛利もうり水軍すいぐんふね700から800そう実際じっさいは600そう程度ていどわれる)が兵糧ひょうろう弾薬だんやくはこぶために大坂おおさか海上かいじょうあらわれた。織田おだぐんはすぐさま、配下はいか真鍋まなべ沼野ぬまの宮崎みやざきなどで構成こうせいする水軍すいぐん300そう木津川きづがわ河口かこうふうじたが、毛利もうり水軍すいぐんかずかして焙烙ほうろく火矢ひや織田おだぐんふねはらい、大勝たいしょうして本願寺ほんがんじ兵糧ひょうろう弾薬だんやくとどけた(だいいち木津きづ川口かわぐち海戦かいせん)。信長のぶなが仕方しかたなく、さんぽうかんのみを強化きょうかして一旦いったんへいいた。

紀州きしゅう征伐せいばつ

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よく5ねん1577ねん)2がつ2にち紀伊きい雑賀さいかしゅうなかでも本願寺ほんがんじ協力きょうりょくてき[注釈ちゅうしゃく 2]であった雑賀さいかさん緘衆[3]根来寺ねごろじすぎぼう信長のぶながぐん内応ないおうした。これをけて、信長のぶなが準備じゅんびととのえたうえで2がつ13にち京都きょうとて、対抗たいこうする雑賀さいかぜいこも和泉いずみ紀伊きいはいった(紀州きしゅう征伐せいばつ)。織田おだ信長のぶながぐん貝塚かいづかにいた雑賀さいかしゅう攻撃こうげきしたのち佐野さのすすみ、自軍じぐん信達しんだち山手やまて浜手はまてけ、紀伊きいはいった。3月1にち雑賀さいかしゅう頭目とうもく1人ひとり有力ゆうりょく門徒もんとでもある鈴木すずき孫一まごいち居城きょじょう包囲ほういてた。しかし、この攻勢こうせい周辺しゅうへん一帯いったいて、戦線せんせん膠着こうちゃく状態じょうたいおちいったことから、事態じたい憂慮ゆうりょした雑賀さいかしゅう翌日よくじつだいさかでのこと配慮はいりょくわえることを条件じょうけん降伏ごうぶくもうれたため、信長のぶながはこれをれてへいいた。

だい木津きづ川口かわぐち海戦かいせん

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木津川きづがわでの敗戦はいせん信長のぶなが九鬼くき水軍すいぐんちょうである九鬼くき嘉隆よしたかに、大砲たいほう装備そうびした黒船くろふね建造けんぞうするようめいじ、滝川たきがわ一益かずますにもしろせんいちそう建造けんぞうさせた。九鬼くき嘉隆よしたからの船団せんだん伊勢大いせおおみなと出発しゅっぱつし、大坂おおさかかった。雑賀さいかしゅうはこれをむかつべく、淡輪たんのわげん大阪おおさかみさきまち周辺しゅうへん海上かいじょうでこの船団せんだんかこみ、鉄砲てっぽう火矢ひや攻撃こうげきした。しかし、嘉隆よしたかはこれに応戦おうせんし、大砲たいほう使つかっててきせんおおくを撃沈げきちんし、船団せんだんは7がつ17にちさかい着岸ちゃくがんし、翌日よくじつから石山いしやま本願寺ほんがんじへの海路かいろ封鎖ふうさした。

11月6にち毛利もうり水軍すいぐんは600そうしてふたた木津川きづがわ河口かこうあらわれた。信長のぶながぐん九鬼くき嘉隆よしたか大船おおぶね中心ちゅうしんとしてかったが、毛利もうり水軍すいぐんはまたも焙烙ほうろく火矢ひや攻撃こうげきかえした。しかし、嘉隆よしたか淡輪たんのわでのたたかいと同様どうように、大船おおぶね相手あいて大将たいしょうっているとおもわれるふねちかづけては大砲たいほうんで撃沈げきちんするという方法ほうほう相手あいてくずし、ついには毛利もうり水軍すいぐんふねすうひゃくそう木津きづおきかえすことに成功せいこうした(だい木津きづ川口かわぐち海戦かいせん)。

講和こうわ

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天正てんしょう6ねん10がつ摂津せっつにおける石山いしやま本願寺ほんがんじ討伐とうばつようであった荒木あらき村重むらしげ離反りはんによって(有岡ありおかじょうたたか)、信長のぶながたい石山いしやま本願寺ほんがんじ戦略せんりゃく重大じゅうだいくるいをせた。同時どうじに、三木みき合戦かっせん羽柴はしば秀吉ひでよし三木みきしろめていたが、毛利もうり摂津せっつ上陸じょうりくして三木みきじょう兵糧ひょうろうはこおそれもてきた。これを信長のぶなが朝廷ちょうていうごかして、本願寺ほんがんじ毛利もうりとの和解わかいこころみた。

11月4にち朝廷ちょうてい信長のぶなが希望きぼうれて、正親町おおぎまち天皇てんのう本願寺ほんがんじ顕如けんにょ毛利もうり輝元てるもとたいし、信長のぶなが講和こうわするよう勅命ちょくめいくだした[4]朝廷ちょうていから本願寺ほんがんじ勅使ちょくし派遣はけんされたが、顕如けんにょ毛利もうり賛同さんどうがないとおうじられないとして勅命ちょくめい拒否きょひしたため、交渉こうしょう決裂けつれつした[5]。これをけて、信長のぶなが毛利もうりへの勅使ちょくし派遣はけん検討けんとうした[5]

しかし、その直後ちょくご織田おだ水軍すいぐんだい木津きづ川口かわぐち海戦かいせんにおいて毛利もうり水軍すいぐん大勝たいしょうし、11月24にち茨木いばらぎじょう開城かいじょうすると、信長のぶなが急遽きゅうきょ朝廷ちょうていへと使者ししゃばし、毛利もうりへの勅使ちょくし派遣はけん中止ちゅうしさせ、和平わへい交渉こうしょうりやめた[6]。その信長のぶなが村重むらしげ攻略こうりゃくすすめ、また村重むらしげ反乱はんらん自体じたい周辺しゅうへん織田おだかた武将ぶしょう呼応こおうともなわなかったため、反乱はんらん自体じたい長期ちょうきにわたったものの、石山いしやま本願寺ほんがんじ攻略こうりゃくへの影響えいきょう最小限さいしょうげんとどまった。

だい木津きづ川口かわぐち海戦かいせんでの毛利もうり水軍すいぐん敗退はいたいけて、本願寺ほんがんじ将来しょうらい弾薬だんやく食料しょくりょう欠乏けつぼうおそはじめたほか天正てんしょう7ねん1579ねん)10がつには有岡ありおかしろ陥落かんらくし、三木みきじょう情勢じょうせいもすこぶるわるくなっていたこともあり、12月、ついに恒久こうきゅうてき和議わぎ検討けんとうするようになり、ひそかに朝廷ちょうてい先年せんねん和解わかいはなしのやりなおしの希望きぼうつたえた。そのうごきを期待きたいしていた信長のぶなががわでも再度さいど朝廷ちょうてい講和こうわ仲介ちゅうかいはたらきかけていた。

そして、よく天正てんしょう8ねん(1580ねん)1がつ三木みきじょう落城らくじょうした。そのような状況じょうきょうなかで3がつ1にち朝廷ちょうてい本願寺ほんがんじ勧修寺かんしゅうじはれゆたか庭田にわた重保しげやす[注釈ちゅうしゃく 3]勅使ちょくしとしてつかわして年寄としよりしゅ意向いこうただし、本願寺ほんがんじ和議わぎすすめることで合意ごういした。また、信長のぶなが別箇べっこ開戦かいせん経緯けいい近衛このえぜんひさ派遣はけんして本願寺ほんがんじがわとの妥協だきょうてんさぐった。以上いじょう経緯けいいから「勅命ちょくめい講和こうわ」という方式ほうしきでの和議わぎ提案ていあんしたのは信長のぶなががわであったが、実際じっさい講和こうわもうれは本願寺ほんがんじがわからあったものとえる。

うるう3がつ7にち本願寺ほんがんじ信長のぶなが誓紙せいしふでほん提出ていしゅつし、信長のぶなが本願寺ほんがんじは3度目どめ講和こうわたした。条件じょうけん顕如けんにょ門徒もんと大坂おおさか退城たいじょうなど以下いかとおり。

  さとし

いち そう赦免しゃめんごと
いち 天王寺てんのうじ北城ほくじょうさき近衛このえ殿どの人数にんずう入替いれかわ大坂おおさか退城たいじょうこうこく大子だいごづかをも引取ひきと今度こんど使つかいしゅいれおけごと
いち 人質ひとじちためつかまつこれごと
いち 往還おうかん末寺まつじ如先々こと
いち 加州かしゅうぐん江沼えぬま能美のみ)、大坂おおさか退城たいじょう以後いご、於無如在しゃ返付へんぷごと
いち 月切つきぎりしゃ七月盆前可究事
いち 花熊はなぐま尼崎あまがさき大坂おおさか退城たいじょうこくわたりごと
  さんがつじゅうななにち 朱印しゅいん信長のぶなが
(「本願寺ほんがんじ本願寺ほんがんじ史料しりょう研究所けんきゅうじょ編纂へんさん 浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ西本願寺にしほんがんじ発行はっこう

このほか信長のぶながこう』には退城たいじょう期限きげんは7がつ20にちだったとかれている。また、講和こうわ条約じょうやく署名しょめいしたのは顕如けんにょの3にん側近そっきんしもあいだよりゆきれんしもあいだよりゆきりゅうしもあいだなかたかしだった。

4がつ9にち顕如けんにょ石山いしやま本願寺ほんがんじ嫡子ちゃくししん門跡もんぜききょうわたし、紀伊きいさぎもり御坊ごぼう退去たいきょした。しかし雑賀さいか淡路あわじ門徒もんと石山いしやまとどけられる兵糧ひょうろう妻子さいしやしなっていたため、このはなれるとたちまち窮乏きゅうぼうしてしまうと不安ふあんつのらせ、信長のぶなが抵抗ていこうつづけるべきときょう如に具申ぐしんし、きょう如もこれに同調どうちょうした。ゆえに、顕如けんにょ石山いしやまったのち石山いしやま信長のぶなが抵抗ていこうするきょう如勢が占拠せんきょつづけた。

7がつ2にち顕如けんにょは3にん使者ししゃつかわして信長のぶなが御礼おれいおこない、信長のぶながもそれにわせて顕如けんにょ御礼おれいおこなった。これと前後ぜんごして荒木あらき村重むらしげ花隈はなくまじょうたたかやぶるなどの情勢じょうせい悪化あっか近衛このえぜんひさ再度さいど説得せっとく工作こうさくによって石山いしやまわたしをきょう如派もれて雑賀さいか退去たいきょし、8がつ2にち石山いしやま信長のぶながのものとなった。

が、わた直後ちょくご石山いしやま本願寺ほんがんじ出火しゅっかし、三日みっかさんばんつづけた石山いしやま本願寺ほんがんじ完全かんぜんくした。『信長のぶながこう』では松明たいまつかぜうつったとされている。『多門院たもんいん日記にっき』には、「退去たいきょこころよしとしなかったきょう如方がけた」とうわさされたとある。8月、佐久間さくましんもり信長のぶながから折檻せっかんじょうきつけられて織田おだから追放ついほうされたが、理由りゆうの1つに石山いしやま本願寺ほんがんじ包囲ほういするだけで積極せっきょくてきせん仕掛しかけなかったことをげている。

また信長のぶなが石山いしやま本願寺ほんがんじ交渉こうしょうかげにはもりしげるもり蘭丸らんまる)のははみょうむかいがいた。みょうこうあま和睦わぼく成立せいりつ奔走ほんそうし、本願寺ほんがんじ危機ききすくった。もりしげるつうじて情報じょうほうみょうこうあま信長のぶなが直接ちょくせつ面会めんかいし、直談判じかだんぱんをして信長のぶなが石山いしやま本願寺ほんがんじ追撃ついげき断念だんねんさせた。信長のぶなが当時とうじ本願寺ほんがんじとの和睦わぼくさいして「金山かなやまじょうした浄土真宗じょうどしんしゅう寺院じいん建立こんりゅう子息しそくみょうこうあま)の一人ひとり出家しゅっけ」させることを条件じょうけん和睦わぼく提示ていじした[8]

戦後せんご影響えいきょう

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顕如けんにょ退去たいきょきょう如が講和こうわはんして石山いしやま占拠せんきょしたため、本願寺ほんがんじ顕如けんにょきょう如の2かれ、顕如けんにょ誓約せいやく違反いはんわれることになってしまった。結局けっきょくきょう如も石山いしやまることで内紛ないふんには決着けっちゃくがつき、天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ本能寺ほんのうじへん信長のぶなが直後ちょくご顕如けんにょきょう如は朝廷ちょうてい仲介ちゅうかいにより和解わかいするが、顕如けんにょ内紛ないふんかくとなったきょう如を廃嫡はいちゃくし3なん准如じゅんにょ嫡子ちゃくしさだめた。ぶんろく元年がんねん1592ねん)11月、顕如けんにょ死没しぼつすると豊臣とよとみ秀吉ひでよしいのちきょう如が本願寺ほんがんじぐが、如春顕如けんにょつまきょう如・准如じゅんにょらのはは)らが顕如けんにょ遺志いしにもとづき秀吉ひでよしはたらきかけたため、翌年よくねんきょう如は隠居いんきょさせられおとうと准如じゅんにょあといだ。しかしそのきょう如は大坂おおさか大谷おおや本願寺ほんがんじ難波なんば御堂みどう現在げんざい真宗しんしゅう大谷おおや難波なんば別院べついん)を本拠地ほんきょちとして、各地かくち門徒もんと本尊ほんぞん下付かふなどの法主ほっしゅとしての活動かつどうつづけたため、この時点じてん本願寺ほんがんじ准如じゅんにょ支持しじするきょう如を支持しじする事実じじつじょう分裂ぶんれつした。慶長けいちょう7ねん1602ねん)、きょう如は以前いぜんより昵懇じっこんだった徳川とくがわ家康いえやすによる土地とち寄進きしんけ、京都きょうとななじょう烏丸からすま東本願寺ひがしほんがんじてたために、本願寺ほんがんじ東西とうざいかれることとなった。

序文じょぶんべているが、石山いしやま合戦かっせん当時とうじ最大さいだい宗教しゅうきょう一揆いっきでもあったため、それが終結しゅうけつしたことで各地かくち宗教しゅうきょう一揆いっき激減げきげんすることになった。

講和こうわ条件じょうけんの「如在無じょさいなきにいては(=従順じゅうじゅんでいるならば)加賀かが江沼えぬま能美のみ2ぐん本願寺ほんがんじ返付へんぷする」という条項じょうこうについては、実現じつげんされることはなかった。というのはきょう如が抗戦こうせんびかけたため、加賀かが一向いっこう一揆いっき信長のぶなが重臣じゅうしん柴田しばた勝家かついえ交戦こうせんつづいたからである。信長のぶなが顕如けんにょ停戦ていせんめいじたものの戦闘せんとうつづき、天正てんしょう8ねん11月17にち柴田しばた勝家かついえしょしょうられ、天正てんしょう10ねん(1582ねん)3がつには白山しろやまふもと鳥越とりこししろ一揆いっき鎮圧ちんあつされて「百姓ひゃくしょうちたるくに」は終焉しゅうえんむかえた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 真宗しんしゅう高田たかだ真宗しんしゅうさん門徒もんとのように浄土真宗じょうどしんしゅうなかでもはん本願寺ほんがんじ勢力せいりょく諸派しょは本願寺ほんがんじ勢力せいりょく呼応こおうしなかった。また、本願寺ほんがんじ勢力せいりょく傘下さんかでも富田林とんだばやし寺内てらうちまちのように信長のぶなががわによる安全あんぜん保証ほしょう条件じょうけん中立ちゅうりつもしくは信長のぶながかたについたものもあった。
  2. ^ 雑賀さいかには浄土真宗じょうどしんしゅうさぎもり御坊ごぼうほか浄土宗じょうどしゅう西山にしやま本山ほんざんである総持寺そうじじがあるため浄土宗じょうどしゅう信者しんじゃおおく、石山いしやま合戦かっせん対応たいおうについても真宗しんしゅう門徒もんと信長のぶなが反発はんぱつする門徒もんと国人くにびとおお本願寺ほんがんじ支援しえん積極せっきょくてきな「雑賀さいかそう」「じゅうきょう」と消極しょうきょくてきな「中郷なかごう中川なかがわさと)」「南郷なんごうさん上郷かみごう)」「宮郷みやごう社家しゃけきょう)」にかれていた。
  3. ^ 庭田にわた重保しげやす顕如けんにょ母方ははかた叔父おじであると同時どうじ門跡もんぜき寺院じいんとしての本願寺ほんがんじとの取次とりつぎながつとめ、勧修寺かんしゅうじはれゆたか本人ほんにん本願寺ほんがんじとのつながりはないが実弟じってい万里まり小路しょうじたかしぼういだ万里小路まりこうじ能登のと畠山はたけやまかいして本願寺ほんがんじ婚姻こんいん関係かんけいっており、はれゆたかたかしぼう後見人こうけんにんとして万里小路まりこうじつパイプを活用かつようできる立場たちばにあったとみられている[7]

出典しゅってん

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  1. ^ 吉井よしい克信かつのぶ戦国せんごくちゅう近世きんせい移行いこうにおける大坂本願寺おおさかほんがんじ呼称こしょう-『石山いしやま表現ひょうげんをめぐって-」『ヒストリア』だい153ごう大阪おおさか歴史れきし学会がっかい、1996ねん /所収しょしゅう:吉井よしい克信かつのぶ寺内てらうちまち研究けんきゅう さん法蔵館ほうぞうかん、1998ねん 
  2. ^ 大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい 2005, 川端かわばた泰幸やすゆき大坂本願寺おおさかほんがんじ戦争せんそうをめぐる一揆いっき地域ちいき社会しゃかい」.
  3. ^ 大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい 2005, pp. 317–322, 武内たけうち善信よしのぶ雑賀さいか一揆いっき雑賀さいか一向いっこう一揆いっき」.
  4. ^ 奥野おくの 1996, p. 261.
  5. ^ a b 谷口たにぐち克広かつひろ 2006, p. 194.
  6. ^ 谷口たにぐち克広かつひろ 2006, p. 197.
  7. ^ 永村ながむら 2017, 太田おおた光俊みつとし本願寺ほんがんじ門跡もんぜきなり〉と〈じゅん門跡もんぜき本願寺ほんがんじ」.
  8. ^ もりかさみただしもり蘭丸らんまるははとそのながれ~みょうねがいてら沿って』近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、1996ねんISBN 978-4773357240

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 太田おおた牛一ごいちへん信長のぶながこうまきさんからまき十三じゅうざ
  • 武田たけだ鏡村かがみむら織田おだ信長のぶなが 石山いしやま本願寺ほんがんじ 合戦かっせんぜん』〈ベスト新書しんしょ〉、2002ねんISBN 978-4584120521
  • 小和田こわだ哲男てつお戦国せんごく合戦かっせん事典じてん』〈PHP文庫ぶんこ〉、1996ねんISBN 978-4569568621
  • 谷口たにぐち克広かつひろ信長のぶなが天下てんかぬのへのみち吉川弘文館よしかわこうぶんかん戦争せんそう日本にっぽん13〉、2006ねん12月、93-97ぺーじ 
  • 奥野おくの高広たかひろ足利あしかが義昭よしあき』(新装しんそうばん吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1996ねんISBN 4-642-05182-1 
  • 永村ながむらしん へん中世ちゅうせい門跡もんぜき公武こうぶ権力けんりょくえびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねんISBN 978-4-86403-251-3 
  • 大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい へん真宗しんしゅう教団きょうだん構造こうぞう地域ちいき社会しゃかい清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねんISBN 4-7924-0589-0 

関連かんれん項目こうもく

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