勧修寺かんしゅうじはれゆたか

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勧修寺かんしゅうじはれゆたか
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん13ねん2がつ24にち1544ねん3月17にち
死没しぼつ 慶長けいちょう7ねん12月8にち1603ねん1がつ19にち
官位かんい したがえいちじゅん大臣だいじんおく内大臣ないだいじん
主君しゅくん こう奈良なら天皇てんのう正親町おおぎまち天皇てんのうこう陽成ようぜい天皇てんのう
氏族しぞく 勧修寺かんしゅうじ
父母ちちはは ちち勧修寺かんしゅうじはれみぎはは粟屋あわや元子もとこ
兄弟きょうだい はれゆたか晴子はるこまことじん親王しんのう)、万里まり小路しょうじたかしぼうにちそで正親町おおぎまち三条さんじょうこうなかしつ
つま 土御門つちみかどゆうおさむむすめ
ひかりゆたか甘露かんろてらけいとお伊達だてこうげんぼうじょう俊昌としまさ阿部あべ致康松室まつむろじゅうきよし[1]おおとりりんうけたまわあきら佐久間さくま安政あんせいしつ
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勧修寺かんしゅうじ はれゆたか(かじゅうじ はるとよ / はれとよ)は、安土あづち桃山ももやま時代じだい公家くげ公卿くぎょう)。せいは「かんじゅじ」とも。

堂上どうじょう勧修寺かんしゅうじ名家めいか藤原ふじわらきた高藤たかとうりゅう甘露かんろてら支流しりゅう)の14だい当主とうしゅぱいしょである近江おうみ高島たかしまはたたけしてら戒名かいみょうは「きよしくもいん殿どのよしどう三司孤月西円大居士」

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

13だい当主とうしゅけん大納言だいなごん勧修寺かんしゅうじはれしげるはれみぎちちおなじく室町むろまち幕府ばくふだい12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるからのへんいみなける。ははは、粟屋あわや元子もとこみぎきょうあきら粟屋あわやもとたかし女子じょし)。勧修寺かんしゅうじこうゆたか甘露かんろてらけいとお伊達だてこうげんぼうじょう俊昌としまさ阿部あべ致康おおとりりんうけたまわあきら佐久間さくま安政あんせいしつが、また兄弟きょうだい姉妹しまいには万里まり小路しょうじたかしぼう万里小路まりこうじ輔房養子ようし)・日蓮宗にちれんしゅうたて本寺ほんじ住持じゅうじにちそで正親町おおぎまち三条さんじょうこうなかしつ、そしてまことじん親王しんのうこう陽成ようぜい天皇てんのう国母こくぼとなった勧修寺かんしゅうじ晴子はるこしん上東門院じょうとうもんいんなどがいる。

きょく極官きょっかんしたがえいちけん大納言だいなごんじゅん大臣だいじん宣下せんげこうむり、薨去こうきょおく内大臣ないだいじん

武家ぶけ伝奏てんそうつとめ、織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしひとし交流こうりゅうがあった。石山いしやま合戦かっせんさいには勅使ちょくしとして信長のぶなが本願寺ほんがんじ講和こうわ斡旋あっせんした。その日記にっきはれゆたかおおやけ』(はれゆたか日々ひび)には信長のぶなが本能寺ほんのうじへんかんする記述きじゅつおおく、史料しりょう価値かちたかいちきゅう史料しりょうとみなされている。

本能寺ほんのうじへん前日ぜんじつ天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ1にち信長のぶなが上洛じょうらくいわうための勅使ちょくしとして甘露かんろてらけいもととも本能寺ほんのうじおとず信長のぶなが会見かいけんへん直後ちょくご見聞けんぶんした二条新にじょうしん御所ごしょなどの状況じょうきょう記録きろくしている。山崎やまざきたたかのちには、明智あけち光秀みつひで女子じょし一人ひとり保護ほごしている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 松室まつむろ同族どうぞくかいへんらく西にし松尾まつお月讀つきよみしゃ松室まつむろ家代いえしろこう』(松室まつむろ同族どうぞくかい、1985ねん
  2. ^ 松室まつむろ同族どうぞくかいへんらく西にし松尾まつお月讀つきよみしゃ松室まつむろ家代いえしろこう』(松室まつむろ同族どうぞくかい、1985ねん

論考ろんこう関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]