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山崎やまざきたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
天王山てんのうざんたたか
山崎合戦の地 石碑
山崎やまざき合戦かっせん 石碑せきひ京都きょうと大山崎おおやまざきまち
戦争せんそう安土あづち桃山ももやま時代じだい
年月日ねんがっぴ天正てんしょう10ねん6月13にち1582ねん7がつ2にち
場所ばしょ山崎やまざき摂津せっつこく山城やましろこくさかい)から勝龍寺しょうりゅうじじょう一帯いったい
結果けっか羽柴はしばぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
羽柴はしばぐん 明智めいちぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
羽柴はしば秀吉ひでよし
羽柴はしば秀長ひでなが
黒田くろだ孝高よしたか
織田おだ信孝のぶたか
池田いけだひさしきょう
丹羽にわ長秀ながひで
高山たかやま右近うこん
中川なかがわ清秀きよひで
明智あけち光秀みつひで  
斎藤さいとう利三としみつ 処刑
伊勢いせさだきょう 
津田つだ重久しげひさ
松田まつだまさしちか 
並河なみかわえき
おもね閉貞せい 処刑
おもね閉貞だい 処刑
溝尾みぞおしげあさ
小川おがわゆうただし
諏訪すわもりただし
御牧みまきけんあらわ
戦力せんりょく
20,000 - 40,000 10,000 - 16,000
損害そんがい
3,300 3,000
豊臣とよとみ秀吉ひでよし戦闘せんとう

山崎やまざきたたか(やまざきのたたかい)は、天正てんしょう10ねん1582ねん6月2にち本能寺ほんのうじへんけ、6月13にち西暦せいれき7がつ2にち)に摂津せっつこく山城やましろこくさかい位置いちする山崎やまざき京都きょうと乙訓おとくにぐん大山崎おおやまざきまち)から勝龍寺しょうりゅうじじょう京都きょうと長岡京ながおかきょう一帯いったいで、備中高松びっちゅうたかまつじょうおさむしろせんからかえしてきた羽柴はしば秀吉ひでよしぐんと、織田おだ信長のぶながった明智あけち光秀みつひで軍勢ぐんぜい激突げきとつしたたたかい。

古来こらい天王山てんのうざんたたかばれてきた合戦かっせん現代げんだいてき表現ひょうげんで、山崎やまざき合戦かっせんともばれる。

経緯けいい

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背景はいけい合戦かっせんまで

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天正てんしょう10ねん6がつ2にち本能寺ほんのうじへん勃発ぼっぱつ織田おだ家中かちゅう主要しゅよう武将ぶしょうならびに同盟どうめいしゃ徳川とくがわ家康いえやす動静どうせいつぎとおりであった。

羽柴はしば秀吉ひでよし高松たかまつじょうこめ毛利もうりぐん包囲ほういしていたが、守将しゅしょう清水しみず宗治むねはるもう受諾じゅだくし、近日きんじつちゅう高松たかまつじょうそうおさむ自刃じじんによって開城かいじょうされるはずであった。しかし秀吉ひでよし6月3にち本能寺ほんのうじへんほう入手にゅうしゅ[注釈ちゅうしゃく 1]、ただちに毛利もうりぐんとの和議わぎむすぶ。秀吉ひでよし4にち堀尾ほりお吉晴よしはる蜂須賀はちすか正勝まさかつ立会たちあいじんにして宗治むねはる自刃じじん検分けんぶんおこない、よく5にちから6にちにかけて撤兵てっぺいすると、6にちぬま岡山おかやまじょう東方とうほう)、7にち姫路城ひめじじょう11にちには尼崎あまがさき尼崎あまがさき)にたっし、いわゆる「中国ちゅうごくだいがえ」とわれる機敏きびんさで畿内きない急行きゅうこうした。

秀吉ひでよし懸念けねん材料ざいりょうは、京都きょうとへの進路しんろじょう勢力せいりょく摂津せっつしゅ動向どうこうであった。もしかれらが光秀みつひでかたくみ足止あしどめをければ、短期たんき決戦けっせんみたいとかんがえた羽柴はしばぐん計画けいかくくるいがしょうじる。おりしも、本能寺ほんのうじへんしらせを入手にゅうしゅした摂津せっつしゅ一人ひとり中川なかがわ清秀きよひでから書状しょじょうみ、秀吉ひでよしは「上様うえさま信長のぶなが)・殿様とのさま信忠のぶただ)は危難きなん膳所ぜぜくだる。これにしたが福富ふくとみ秀勝ひでかつ比類ひるいなき功績こうせきてた」というむね返書へんしょ清秀きよひでした(6がつ5にちづけ)。ただし、この返書へんしょ虚報きょほうであった。

一方いっぽう摂津せっつだいさかでは、四国しこく長宗我部ちょうそかべ征伐せいばつのためにだいさか集結しゅうけつしていた神戸かんべ信孝のぶたか織田おだ信孝のぶたか)・丹羽にわ長秀ながひで徳川とくがわ家康いえやす接待せったいのためにぐんはなれており、本能寺ほんのうじへんうわさつたいた雑兵ぞうひょうおおくは逃亡とうぼうしてしまった。しかし、光秀みつひで安土あづち近江おうみ方面ほうめん平定へいてい優先ゆうせんしたために大坂おおさか摂津せっつ方面ほうめんへの対応たいおう後回あとまわしとなり、5にちになって長秀ながひで信孝のぶたか光秀みつひで内通ないつううたがいがあった光秀みつひで女婿じょせい津田つだしんきよし自刃じじんむなどして体勢たいせいなおして光秀みつひで対峙たいじする姿勢しせいせた(ただし、しんきよし光秀みつひで同調どうちょうしていた証拠しょうこはない)。その結果けっか中川なかがわ清秀きよひで高山たかやま右近うこんはじめとする摂津せっつしゅおおくが秀吉ひでよしぐん味方みかたし、信孝のぶたか長秀ながひでも4せんへいをまとめて合流ごうりゅうし、最終さいしゅうてき秀吉ひでよしぐんは2まんえた。

羽柴はしばぐん12にち富田とみたぐんひらき、秀吉ひでよしそう大将たいしょう長秀ながひでいで信孝のぶたかしたが、ぎゃく両者りょうしゃからのぞまれて自身じしん事実じじつじょう盟主めいしゅとなり(名目めいもくじょうそう大将たいしょう信孝のぶたか)、山崎やまざき主戦しゅせんじょう想定そうていした作戦さくせん部署ぶしょ決定けっていした。

一方いっぽう光秀みつひでへんきょう治安ちあん維持いじたったのち武田たけだ元明もとあき京極きょうごく高次こうじらのぐん近江おうみ派遣はけんし、きょう以東いとう地盤じばんかためをいそいだ。これは光秀みつひで居城きょじょうであるさか本城ほんじょう織田おだ本拠地ほんきょちであった安土あづちじょう周辺しゅうへんさえるとともに、当時とうじ織田おだ家中かちゅう最大さいだいちからっていた柴田しばた勝家かついえへのそなえをさい優先ゆうせんしたためとかんがえられる。数日すうじつない近江おうみ瀬田せたじょう山岡やまおかけいたかしけい兄弟きょうだい居城きょじょう山岡やまおか兄弟きょうだい光秀みつひでさそいを拒絶きょぜつし、瀬田せたきょうとして抵抗ていこうかまえをせたのち一時いちじ甲賀こうが方面ほうめん退避たいひ)、日野ひのしろ蒲生がもうけんしゅうしゅう父子ふし居城きょじょう)などをのこ平定へいていされた。そのかたわら、有力ゆうりょく組下くみした大名だいみょう加勢かせいびかけたが、縁戚えんせきであった細川ほそかわ藤孝ふじたか忠興ただおき父子ふしは3にちに「ふくす」として剃髪ていはつ中立ちゅうりつかまえをせることで婉曲えんきょくてきにこれをこばんだ。おく丹後たんご領主りょうしゅ一色いっしきは、明智あけち光秀みつひで味方みかたしたので、みなみ丹後たんご細川ほそかわ軍勢ぐんぜいうごかせない状態じょうたいだった。また、筒井つつい順慶じゅんけいはこれにおう配下はいか山城やましろ派遣はけんしていたが、秘密裏ひみつり秀吉ひでよしがわ加担かたんすることにし9にちまでに居城きょじょう大和やまとぐん山城やましろ籠城ろうじょう支度したく開始かいしした( →「成句せいくほらとうげ」)。

こうした状況じょうきょう光秀みつひで10日とおか秀吉ひでよし接近せっきんほうけ、いそいでよどみじょう勝龍寺しょうりゅうじじょう修築しゅうちくかり、男山おとこやま布陣ふじんしていたへい撤収てっしゅうさせた。しかし、光秀みつひで予想よそうえる秀吉ひでよしぐん進軍しんぐん態勢たいせい十分じゅうぶんととのえられず、2ばいから3ばいとされる兵力へいりょくのまま決戦けっせんのぞむこととなった。

合戦かっせん経過けいか

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りょうぐんは12にちごろから円明寺えんみょうじがわげん小泉こいずみがわ)をはさんで対陣たいじんする。羽柴はしばぐん前夜ぜんや中川なかがわ高山たかやま摂津せっつしゅ山崎やまざき集落しゅうらく占拠せんきょ最前線さいぜんせん着陣ちゃくじん池田いけだひさしきょうらが右翼うよくに、黒田くろだ孝高よしたか羽柴はしば秀長ひでなが神子田みこだ正治しょうじらが天王山てんのうざん標高ひょうこう270m)山裾やますそきゅう西国さいこく街道かいどう沿って布陣ふじんし、秀吉ひでよし本陣ほんじんはさらに後方こうほう宝積寺ほうしゃくじかれた。これにたいして明智めいちぐん御坊ごぼうづか光秀みつひで本陣ほんじん[注釈ちゅうしゃく 2]前面ぜんめん斎藤さいとう利三としみつおもね閉貞せい貞秀さだひで)、河内かわうちしゅうきゅう幕府ばくふしゅらが東西とうざいわたって防衛ぼうえいせんるように布陣ふじんし、むかかまえをった。当時とうじ山崎やまざきには沼地ぬまちひろがっていたため大軍たいぐん通過つうかできるのは天王山てんのうざんぬまあいだせま空間くうかんかぎられ、明智めいちぐんがその出口でぐちぶたをしたかたちとなっている。

局地きょくちてき戦闘せんとうはあったものの、よく13にち雨天うてんだったとわれる)も対峙たいじつづく。同日どうじつ午後ごご4ごろ天王山てんのうざん山裾やますそ横切よこぎって高山こうざんたいよこ陣取じんどろうと移動いどうしていた中川なかがわたい斎藤さいとうたい右側みぎがわ布陣ふじんしていた伊勢いせさだきょうたいおそかり( →「成句せいく天王山てんのうざん」)、それに呼応こおうして斎藤さいとうたい高山たかやまたい攻撃こうげき開始かいし戦端せんたんひらかれた。斎藤さいとう伊勢いせたい攻撃こうげきけた中川なかがわ高山たかやまりょうたい窮地きゅうちおちいるが、秀吉ひでよし本隊ほんたいからほり秀政ひでまさ手勢てぜい後詰ごづめ到着とうちゃくしたことでちこたえる。天王山てんのうざんふもと布陣ふじんしていた黒田くろだ秀長ひでなが神子田みこだらの部隊ぶたい前方ぜんぽう展開てんかいし、中川なかがわ高山たかやまりょうたい側面そくめんくべく天王山てんのうざん中腹ちゅうふく進撃しんげきしてきた松田まつだまさしちか並河なみかわえきりょうたい交戦こうせんし、攻防こうぼうつづいた。

戦局せんきょくおおきくうごいたのは一刻いっこく淀川よどがわきゅう流域りゅういき沿いを北上ほくじょうした池田いけだひさしきょう元助もとすけ父子ふし加藤かとうひかりやすしひきいる手勢てぜいが、ひそかに円明寺えんみょうじがわ渡河とかして津田つだ信春のぶはる奇襲きしゅう津田つだたいさんぽうからてられ、雑兵ぞうひょうしたこともあり混乱こんらんをきたす。また、池田いけだたいつづくように丹羽たんばたい信孝のぶたかたい右翼うよくから一斉いっせいせ、光秀みつひで本隊ほんたい側面そくめんくようなかたちとなった。これをけて苦戦くせんしていた中川なかがわ高山たかやまりょうたい斎藤さいとう伊勢いせりょうたいかえし、動揺どうようぜんぐんひろがった明智めいちぐんはやがて総崩そうくずれとなった。御牧みまきけんあらわたいは「わが討死うちじにあいだたまえ」と光秀みつひで使者ししゃおくったのちいきおいづく羽柴はしばぐんまえ壊滅かいめつ光秀みつひで戦線せんせん後方こうほう勝龍寺しょうりゅうじじょう退却たいきゃく余儀よぎなくされるが、主力しゅりょく斎藤さいとうたいが壊走し戦線せんせん離脱りだつ黒田くろだ孝高よしたからのたい交戦こうせんしていた松田まつだまさしきん殿しんがりけた伊勢いせさだきょうらが乱戦らんせんなか討死うちじにするなど打撃だげきけた。

一方いっぽう羽柴はしばぐん前線ぜんせん部隊ぶたい消耗しょうもうはげしく、日没にちぼつせまったこともあり追撃ついげき散発さんぱつてきなものにとどまったが、それ以上いじょう明智めいちぐんでは士気しき低下ていかいちじるしく、勝龍寺しょうりゅうじじょう大軍たいぐん収容しゅうようできない平城ひらじろだったこともあってへい脱走だっそう離散りさん相次あいつぎ、そのかずは700あまりにまで減衰げんすいした。光秀みつひで勝龍寺しょうりゅうじじょう北門きたもんひそかに脱出だっしゅつして居城きょじょうさか本城ほんじょう目指めざしてびる途中とちゅう小栗栖おぐりすやぶ京都きょうと伏見ふしみ現在げんざいは「明智あけちやぶ」とばれる)で農民のうみん武者むしゃ竹槍たけやりされて殺害さつがいされた[3]とも、そのなにとかのがれたものの致命傷ちめいしょうったことで、力尽ちからつきて家臣かしん介錯かいしゃくにより自害じがいしたともつたえられる( →「成句せいく三日天下みっかてんか)。光秀みつひでくび翌日よくじつには羽柴はしばぐんとどき、京都きょうと本能寺ほんのうじいで粟田口あわだぐちさらされた。

はた立松たてまつ(6代目だいめ

戦後せんご経過けいか

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翌日よくじつ勝龍寺しょうりゅうじじょうはい体勢たいせいととのえた秀吉ひでよしほり秀政ひでまさ近江おうみへの交通こうつう遮断しゃだん光秀みつひで捜索そうさく派遣はけんし、ほりたい14にち光秀みつひで後詰ごづめのために急遽きゅうきょ出兵しゅっぺいした明智あけち秀満ひでみつぐん打出うちではまむか撃破げきはした。300あまりへいられ敗走はいそうした秀満ひでみつさか本城ほんじょう相手方あいてがた家宝かほう贈呈ぞうていしたのち光秀みつひで妻子さいし殺害さつがいし、溝尾みぞおしげあさ明智あけち光忠みつただとも自刃じじんした。中川なかがわ高山たかやまりょうたい丹波たんば亀山かめやましろかい、光秀みつひで息子むすこ明智あけちひかりけい自刃じじんさせしろ占拠せんきょ。ここに明智あけち僧籍そうせきにいたものなどをのぞいてほろんだ。きょうはいった羽柴はしばぐんはさらに16にち長浜ながはまじょう妻木つまきはんけん佐和さわ山城やましろ荒木あらき行重ゆきしげ山本山やまもとやまじょうおもね閉貞せいさだだい父子ふし山崎やまざきへんらの逃亡とうぼうまたは降伏ごうぶくによって近江おうみ平定へいてい17にちには斎藤さいとう利三としみつ潜伏せんぷくさき堅田かただりにされ、ろくじょう河原かわはら斬首ざんしゅあるいは磔刑たっけいしょされた。

秀吉ひでよしは、この信長のぶながとむら合戦がっせん勝利しょうりした結果けっか清洲きよす会議かいぎ信長のぶなが後継こうけいしゃとしての地位ちいかため、天下てんかじんへのみちあゆはじめる。清洲きよす会議かいぎの7がつ19にちには、最後さいごのこった光秀みつひでかたしょうである武田たけだ元明もとあき丹羽にわ長秀ながひでめられ自刃じじん京極きょうごく高次こうじいもうとまたはあね竜子りゅうこまつまる殿どの)を秀吉ひでよしして降伏ごうぶくした。

光秀みつひで敗因はいいんはまず兵力へいりょくげられる。これには秀吉ひでよしうごきが予想よそうはるかに上回うわまわ迅速じんそくさだったこと、中国ちゅうごく平定へいていのために秀吉ひでよし信長のぶながぐん主力しゅりょくまかされていたこと、周辺しゅうへん勢力せいりょく助力じょりょくられなかったこと(とく畿内きない有力ゆうりょく大名だいみょうであった細川ほそかわ筒井つつい両氏りょうし)、へい近江おうみ方面ほうめんいていたこと(ただし、安土あづちじょう織田おだ政権せいけん本拠地ほんきょちである以上いじょう、その掌握しょうあくたさなければ信長のぶなが父子ふしった意味いみうしなわれる)、など様々さまざま要因よういんからんでおり、結果けっかてき光秀みつひで十分じゅうぶん兵力へいりょくそろえられないままきょう西国さいこくむす最後さいご要所ようしょである山崎やまざきでの決戦けっせんいどまざるをない状況じょうきょうたされた。羽柴はしばかたにも強行きょうこうぐんによる将兵しょうへい疲弊ひへいという不安ふあん要素ようそはあったが、そうじて戦略せんりゃく段階だんかいすで大勢おおぜいけっしていたとえる。

現在げんざい天王山てんのうざん山中さんちゅうには「秀吉ひでよしはたてのまつ」がのこっているほか合戦かっせん経過けいか解説かいせつする石板せきばんなどが設置せっちされている。

りょうぐん参戦さんせん武将ぶしょう

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  • 羽柴はしばぐんやく4まん0000)
    • 高山たかやま右近うこん木村きむらしげる:2000
    • 中川なかがわ清秀きよひで:2500
    • 池田いけだひさしきょう池田いけだ元助もとすけ加藤かとうひかりやすし:5000
    • 丹羽にわ長秀ながひで:3000(秀吉ひでよし本隊ほんたいなかれる資料しりょうもある)
    • 織田おだ信孝のぶたか:4000(秀吉ひでよし本隊ほんたいなかれる資料しりょうもある)
    • 秀吉ひでよし本隊ほんたい羽柴はしば秀長ひでなが黒田くろだ孝高よしたか蜂須賀はちすか正勝まさかつほり秀政ひでまさ中村なかむら一氏かずうじ堀尾ほりお吉晴よしはる神子田みこだ正治しょうじ蜂屋はちやよりゆきたかし伊東いとうゆうへいなど):20000

秀吉ひでよし本隊ほんたいちゅうにはちょくばんしゅとして加藤かとう清正きよまさ福島ふくしま正則まさのり大谷おおやきちままし山内やまうち一豊かずとよ増田ますだちょうもり仙石せんごく秀久ひでひさ田中たなか吉政よしまさといったかおぶれもいた。

太閤たいこう』による光秀みつひでぐん構成こうせいは、以下いかとおりである。

その小川おがわゆうただし進士しんしさだれん可児かに吉長よしながよんおうたかし政孝まさたか津田つだ信春のぶはる(=津田つだ平蔵へいぞうとするせつあり)妻木つまきひろただし、などが参加さんかしていた。なお、明智めいち宿老しゅくろうのうち、光秀みつひで従兄弟いとこ明智あけち光忠みつただのみが、二条城にじょうじょう攻撃こうげき負傷ふしょうのため合戦かっせん参加さんかできなかった。

天王山てんのうざんから見下みおろす山崎やまざき合戦かっせん現在げんざい大山崎おおやまざきJCT写真しゃしん中央ちゅうおうひだり)あたりをはさんでりょうぐん対陣たいじんしたとわれている。

しょしょううご

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柴田しばた勝家かついえ
上杉うえすぎ対策たいさく前田まえだ利家としいえ佐々ささしげるせいらにたくきょうかったが、越前えちぜん近江おうみ国境こっきょうやなぎとうげ到達とうたつしたところで合戦かっせんほうはいり、そのまま清洲きよすしろかった。
滝川たきがわ一益かずます
織田おだ信長のぶなが信忠のぶただじょうじて北条ほうじょうぐん上野うえの侵攻しんこう一説いっせつには北条ほうじょう氏政うじまさからへんについての情報じょうほうがもたらされ、「北条ほうじょう手出てだししない」という声明せいめいもあったがいちえきはこれを偽計ぎけい判断はんだん)し、神流川かんながわたたかいたる。だいいち合戦かっせん北条ほうじょうぜい退しりぞけるもののだい合戦かっせん大敗たいはいし、碓氷峠うすいとうげから本拠地ほんきょち伊勢いせに7がつ帰還きかん清洲きよす会議かいぎにも参加さんかできず、以後いご零落れいらく一途いっとをたどる。
徳川とくがわ家康いえやす
いわゆる神君しんくん伊賀越いがごえ岡崎おかざきしろから光秀みつひで討伐とうばつかったが、鳴海なるみ一説いっせつ熱田あつた酒井さかい忠次ただつぐきた伊勢いせまで進出しんしゅつしていた)に到達とうたつしたところで合戦かっせん情報じょうほうはい反転はんてん以後いご空白くうはく地帯ちたいとなった甲斐かい信濃しなの領土りょうど目指めざし、おなじく甲斐かい信濃しなの領土りょうど目指めざした北条ほうじょう天正てんしょうみずのえうまらんたたかう。

成句せいく

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だい勢力せいりょくあらそっているときに、有利ゆうりほう味方みかたしようと日和見ひよりみすることを「ほらとうげ(ほらがとうげ)」という。ものごとの勝敗しょうはいめる正念場しょうねんば運命うんめいかれのことを「天王山てんのうざん(てんのうざん)」という(「天下分てんかわ天王山てんのうざん」とばれる場合ばあいおおいが、ただしい使つかかたでない)。権力けんりょくきわめてみじか期間きかんのみにぎることを「三日天下みっかてんか(みっかてんが/みっかでんか)」という。これらはいずれもこの山崎やまざきたたかいに由来ゆらいする成句せいくである。ただしかならずしも史実しじつそくしたものではなく、むしろその伝説でんせつ由来ゆらいしている。

ほらとうげ
筒井つつい順慶じゅんけいほらとうげ布陣ふじんしたということについては、良質りょうしつ史料しりょうではまった確認かくにんすることができない[5]。『太閤たいこう』のような俗書ぞくしょでも光秀みつひで布陣ふじんして順慶じゅんけいったとかれている。『増補ぞうほ筒井つつい』には、順慶じゅんけいしま左近さこんすすめでほらとうげ布陣ふじんしたとかれているが[5]、このほん誤謬ごびゅう充満じゅうまんあくほんであり、このせつあやまりである[6]。ただ日和見ひよりみ順慶じゅんけいという言葉ことば相当そうとうふるくからあったようで、それはこのさいにおける順慶じゅんけい態度たいど表現ひょうげんしている[6]
天王山てんのうざん
山崎やまざきたたかいは、天王山てんのうざん占拠せんきょ勝敗しょうはいめたとされ、『太閤たいこう』や『川角かわすみ太閤たいこう』にかれていることで、『竹森たけのもり』ではこのせつ過剰かじょう主張しゅちょうし、黒田くろだ孝高よしたか天王山てんのうざんはや占拠せんきょしたほう勝利しょうりるに相違そういないと主張しゅちょうしたとか[7]、『えいはじめまゆみ紀年きねんろく』には細川ほそかわ忠興ただおき天王山てんのうざん西にし尾崎おざき占領せんりょうしたとか、戦闘せんとう参加さんかしていない人名じんめいまでもかれている。この天王山てんのうざん争奪そうだつせん良質りょうしつ史料しりょうではまった確認かくにんできないものである[8]。つまり天王山てんのうざん争奪そうだつせん勝敗しょうはいめたというのはつくばなしであって、事実じじつではない[8]天王山てんのうざんでの戦闘せんとうがあったことが具体ぐたいてきしるされたいち資料しりょう確認かくにんされず、かつてひろ使つかわれた「天王山てんのうざんたたかい」は現在げんざいでは「山崎やまざきたたかい(山崎やまざき合戦かっせん)」とばれるようになっている。
三日天下みっかてんか
肥後ひご細川ほそかわつたわる『明智あけち光秀みつひで公家くげ覚書おぼえがき』には、本能寺ほんのうじへん後光ごこうしゅう細川ほそかわ藤孝ふじたか忠興ただこう父子ふし味方みかたになることを説得せっとくした書状しょじょう所収しょしゅうされており、そのなか光秀みつひでへんのち参内さんだいし、したがえさん中将ちゅうじょう叙任じょにんされたうえ征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげけたとかれている。この史料しりょう信憑しんぴょうせいには疑問ぎもん余地よちがあるものの、へん政局せいきょく光秀みつひで中心ちゅうしんとして展開てんかいしたことは間違まちがいない。光秀みつひで天下てんかは「三日天下みっかてんか」と比喩ひゆされるが、実際じっさいには本能寺ほんのうじへん天正てんしょう10ねん6がつ2にちから山崎やまざきたたかいの同月どうげつ13にちであり、11にちないし12日間にちかん期間きかんであった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ はら平内へいないなるもの秀吉ひでよしぐんなか毛利もうりぐん間違まちがんできたさいかれからだかくしていた手紙てがみから信長のぶなが情報じょうほう入手にゅうしゅした[1]
  2. ^ 光秀みつひで本陣ほんじん従来じゅうらい大山崎おおやまざきまち下植野しもうえの境野さかいの古墳こふんぐんにあったとかんがえられており、現地げんちには大山崎おおやまざきまち設置せっちした「光秀みつひで本陣ほんじんあと」の説明せつめいばんもある。しかし、2011ねん大山崎おおやまざきまち隣接りんせつする長岡京ながおかきょう大阪おおさか成蹊大学せいけいだいがく構内こうない発掘はっくつだい規模きぼほりあとつかり、同市どうし埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンターは、光秀みつひで本陣ほんじんあとであることがほぼ確実かくじつになったとしている[2]
  3. ^ 柴田しばたまさるじょう柴田しばた勝家かついえ重臣じゅうしん[4]

出典しゅってん

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  1. ^ 織田おだ信長のぶなが 天下てんか一統いっとうなぞ学研がっけん歴史れきしぐんぞうシリーズ〉、1989ねん、134ぺーじ 
  2. ^ “「光秀みつひで本陣ほんじんあと決定的けっていてきに 秀吉ひでよしぐん防御ぼうぎょ?のほりあと発見はっけん. 朝日新聞あさひしんぶん. (2011ねん8がつ4にち). http://www.asahi.com/culture/update/0804/OSK201108040109.html 2011ねん9がつ16にち閲覧えつらん 
  3. ^ 松永まつなが 1989, p. 123.
  4. ^ 藤田ふじた 2003, p. 170.
  5. ^ a b 高柳たかやなぎ 1958, p. 247.
  6. ^ a b 高柳たかやなぎ 1958, p. 248.
  7. ^ 高柳たかやなぎ 1958, p. 249.
  8. ^ a b 高柳たかやなぎ 1958, p. 250.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 帝国ていこく陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶへん日本にっぽん戦史せんし 山崎やまざきやく村田むらた書店しょてん、1920ねん/1979ねん
  • 高柳たかやなぎひかり寿ことぶき明智あけち光秀みつひで吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1958ねん 
  • 河野こうのゆたか疾風しっぷう怒濤どとうだいかえし―山崎やまざき合戦かっせん」『羽柴はしば秀吉ひでよし怒濤どとう天下取てんかとり』学研がっけん歴史れきしぐんぞうシリーズ〉、1987ねん 
  • 桐野きりのさくじん大軍たいぐんせいした天下取てんかとりの起点きてん山崎やまざきたたかい」『豪壮ごうそう秀吉ひでよし軍団ぐんだん学研がっけん歴史れきしぐんぞうシリーズ〉、1992ねん 
  • 谷口たにぐち克広かつひろ中川なかがわ清秀きよひで 野心やしん最後さいご秀吉ひでよしおとりとさる」『豪壮ごうそう秀吉ひでよし軍団ぐんだん学研がっけん歴史れきしぐんぞうシリーズ〉、1992ねん 
  • 藤田ふじた達生たつおなぞとき 本能寺ほんのうじへん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2003ねん10がつISBN 4-06-149685-9 
  • 松永まつなが義弘よしひろ合戦かっせん -歴史れきしながれをえたじゅうのドラマ-』PHP文庫ぶんこ、1989ねんISBN 4-569-56218-3 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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