明智あけち光忠みつただ

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明智あけち光忠みつただ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん9ねん1540ねん
死没しぼつ 天正てんしょう10ねん6月15にち1582ねん7がつ4にち)?
改名かいめい 光忠みつただ長閒ちょうまとき[1]ごう
別名べつめい みぎ衛門えもん[1][2]二郎じろう[3][2]二郎じろう四郎しろう[4]通称つうしょう
主君しゅくん 明智あけち光秀みつひで
氏族しぞく 明智あけち
父母ちちはは 明智あけち光久みつひさ
つま 明智あけち光秀みつひで二女じじょ[2][5]
ひかりちか[2]
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明智あけち 光忠みつただ(あけち みつただ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう明智あけち光秀みつひで家臣かしん丹波たんばこくはち上城かみしろおも剃髪ていはつして長閒ちょうまとき(ちょうけんさい)とごうした[1]通称つうしょうみぎ衛門えもんまたは二郎じろう二郎にろうよんろう明智めいち宿老しゅくろう一人ひとり

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

明智あけち光秀みつひで叔父おじにあたる明智あけち光久みつひさ[7][1][2]で、光秀みつひで従兄弟いとこ[1]光秀みつひで重臣じゅうしん1人ひとりのようであるが、事績じせき登場とうじょうするのはおもに『明智あけち軍記ぐんき』で、たしかな史料しりょうとぼしい[4]ちち光久みつひさ伯父おじ光安みつやすとも弘治こうじ2ねん1556ねん)の明智めいちじょう陥落かんらく死亡しぼうしたとされる[5]

天正てんしょう5ねん1577ねん)に丹波たんばじょう篠山しのやまじょうとしたのち光秀みつひで亀山かめやましろ光忠みつただ留守居るすいとしてれた[8]天正てんしょう7ねん1579ねん)、兵糧ひょうろうめにしていたはちうえじょうちると、このしろ城代じょうだいとして光忠みつただ入城にゅうじょうさせた[9][10]

天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ1にち光秀みつひで明智めいちひだりすけみぎ衛門えもん藤田ふじたつたえ斎藤さいとう内蔵助くらのすけはかって、光秀みつひで主君しゅくん織田おだ信長のぶなが襲撃しゅうげきする本能寺ほんのうじへんこした[5]つぎみぎ衛門えもん光忠みつただは、『 惟任これとう退治たいじ』によれば、本能寺ほんのうじへのしゅ一方いっぽうつとめた[5]。『野史やし』によれば、信長のぶなが信忠のぶただらが籠城ろうじょうするじょう御新造ごしんぞう攻撃こうげきしたが、そのさい鉄砲てっぽうたれ重傷じゅうしょうう。おんいん療養りょうようしていたが、2週間しゅうかん山崎やまざきたたか光秀みつひで羽柴はしば秀吉ひでよしやぶにしたといて、近江おうみこくさか本城ほんじょうかい、15にち明智あけち光春みつはる秀満ひでみつ)および明智めいち一族いちぞくとも自害じがいしててた[1]享年きょうねん43[1][2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g だい日本人にっぽんじんめい辞書じしょ刊行かんこうかい 1926, p. 27.
  2. ^ a b c d e f 系図けいず纂要』の明智めいち系図けいずによる[6]
  3. ^ 高柳たかやなぎ & 松平まつだいら 1981, p. 275
  4. ^ a b 阿部あべ 1990, p. 22
  5. ^ a b c d 田端たばた泰子やすこ 2010, p. 1-23
  6. ^ 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ へん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 系図けいず纂要」『だい日本にっぽん史料しりょう. だい11へん1』東京大学とうきょうだいがく、1927ねん、521ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450624/290 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 
  7. ^ "明智あけち光忠みつただ". デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん. コトバンクより2020ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  8. ^ 参謀さんぼう本部ほんぶ 1893, p. 41.
  9. ^ 参謀さんぼう本部ほんぶ 1893, p. 42.
  10. ^ はち上城かみしろ」『兵庫ひょうごけん中世ちゅうせいじょうかん荘園しょうえん遺構いこう兵庫ひょうごけん教育きょういく委員いいんかい、1982ねん、64ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]