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豊臣とよとみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊臣とよとみ

太閤たいこうきり
豊臣とよとみ秀吉ひでよし定紋じょうもん

ななきり
氏姓しせい 豊臣とよとみ朝臣あそん
出自しゅつじ しょう藤原ふじわら
豊臣とよとみ秀吉ひでよし
著名ちょめい人物じんぶつ 豊臣とよとみ秀吉ひでよし
豊臣とよとみ秀長ひでなが
豊臣とよとみ秀次しゅうじ
豊臣とよとみ秀頼ひでより
後裔こうえい 羽柴はしば武家ぶけ公家くげ
木下きのした武家ぶけ華族かぞく
凡例はんれい / Category:

豊臣とよとみ(とよとみうじ、とよとみし、きゅう字体じたい豐臣とよとみ)は、日本にっぽん氏族しぞくのひとつ。せいカバネ)は朝臣あそん

天正てんしょう13ねん1585ねん)に正親町おおぎまち天皇てんのうから羽柴はしば秀吉ひでよし下賜かしされ、これにより秀吉ひでよし関白かんぱく叙任じょにんさいていた藤原ふじわら豊臣とよとみあらためた。この豊臣とよとみ政権せいけんにおける大名だいみょう統制とうせい手段しゅだんとしてもちいられ、有力ゆうりょく大名だいみょう官位かんい叙任じょにんでは家伝かでんせい無視むしされ基本きほんてき豊臣とよとみもちいられた。

豊臣とよとみ誕生たんじょう

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秀吉ひでよしどころか苗字みょうじたぬほど下層かそう階級かいきゅう出身しゅっしんかんがえられるが、立身りっしん栄達えいたつにより家系かけい公称こうしょうようするようになるとたいらしょうした。これは主君しゅくん織田おだ信長のぶなが模倣もほうしたものとかんがえられており、たとえば『公卿くぎょう補任ほにん』の天正てんしょう11ねん1583ねん)のこうに「したがえよん参議さんぎ」としてはじめて記載きさいされて以降いこう関白かんぱくになる直前ちょくぜん天正てんしょう13ねん1585ねん)の「せい内大臣ないだいじん」まで、その氏名しめい一貫いっかんして「ひらた秀吉ひでよし」としるされている。

その天正てんしょう13ねん1585ねん)7がつ関白かんぱく叙任じょにんさいぜん関白かんぱく近衛このえぜんひさ猶子ゆうしとなり、ひらたから藤原ふじわらあらためる。

そしてよく天正てんしょう14ねん、いよいよ秀吉ひでよしはそのを「豊臣とよとみ」とあらためる。秀吉ひでよしみずからの右筆ゆうひつである大村おおむらゆかりおのれ執筆しっぴつさせた『任官にんかんこと』(別名べつめい関白かんぱく任官にんかん』)では「せいぐは鹿しかうしひねあとむがごとし」と単純たんじゅん前例ぜんれい踏襲とうしゅう拒否きょひすることをべ「われ天下でんかたも末代まつだいあり。ただあらたに別姓べっせいさだ濫觴らんしょうたるべし」として、秀吉ひでよし特別とくべつ傑出けっしゅつした人物じんぶつであるからみなもとひらたふじたちばなにならぶだいあたらしい創始そうしできるのだ、とたからかに宣言せんげんしている。

改姓かいせい厳密げんみつ時期じきについては明確めいかくでない。きょくつとむ押小路おしこうじ伝来でんらいした『押小路おしこうじ文書ぶんしょ』には「う、藤原ふじわらせいもっ豊臣とよとみせいあらためんことを」云々うんぬんしる秀吉ひでよし上奏じょうそうぶんと、これにこたえた天正てんしょう13ねん(1585ねん)9がつ9にちづけ改姓かいせい許可きょかする宣旨せんじのこされている。一方いっぽう公卿くぎょう補任ほにん』では、天正てんしょう14ねん1586ねん)のこうに、秀吉ひでよしについて「ふじ秀吉ひでよし」(藤原ふじわら秀吉ひでよし)と記載きさいしたうえで「ーー藤原ふじわらせいあらた豊臣とよとみせいとなすと云々うんぬん」としている。「ーー」とは「月日つきひ不明ふめい」という意味いみである。これによれば、改姓かいせい天正てんしょう14ねん(1586ねん)になってからおこなわれたことになる。『公卿くぎょう補任ほにん』で秀吉ひでよしが「ゆたか秀吉ひでよし」(豊臣とよとみ秀吉ひでよし)となるのは天正てんしょう15ねん1587ねん)からである。じつは、秀吉ひでよし官位かんい叙任じょにんについては、天正てんしょう10ねん1582ねん)10がつ3にちにんひだり近衛このえ少将しょうしょう天正てんしょう11ねん1583ねん)5がつ22にちにん参議さんぎなど、そのことをしめ文書ぶんしょのこっているものの、あとから日付ひづけ仮構かこうして偽作ぎさくしたとされているものがすくなくない。当時とうじ秀吉ひでよしにとっては日付ひづけ操作そうさして文書ぶんしょ偽作ぎさくすることは常套じょうとう手段しゅだんであった。また公家くげたちにとっても、天皇てんのう日付ひづけをさかのぼった文書ぶんしょ発給はっきゅうもとめることはなか日常にちじょうてきなことであった。『押小路おしこうじ文書ぶんしょ』の上奏じょうそうぶん宣旨せんじ同様どうよう性質せいしつのものとみなされている。実際じっさい秀吉ひでよし藤原ふじわらから豊臣とよとみあらためたのは、天正てんしょう14ねん1586ねん)12月19にち太政大臣だじょうだいじん任官にんかん契機けいきとしているものとみるのが通説つうせつである[1]

豊臣とよとみせい特権とっけんてき地位ちい

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藤原ふじわらわるあらたな摂関せっかんとして創始そうしされた豊臣とよとみせいは、この政権せいけんにおける官位かんい叙任じょにんではまさしく特権とっけんてきあつかわれた。秀吉ひでよし機会きかいあるごとに、家臣かしんだけでなく陪臣ばいしんにまで広範囲こうはんい豊臣とよとみあたえていった。豊臣とよとみ政権せいけんにおける官位かんい叙任じょにん秀吉ひでよし意志いしがすべてである。秀吉ひでよしから口頭こうとう官位かんい叙任じょにんげられれば、そのですぐにその官位かんい正式せいしき名乗なのることもできた。秀吉ひでよし戦争せんそうのために京都きょうとはなれている時期じきに、そのようなれいがしきりにられる。朝廷ちょうていたんにそれを追認ついにんして事後じご宣旨せんじくちせんあんなどの官位かんい叙任じょにん文書ぶんしょ作成さくせいするにすぎなかったが、その文書ぶんしょには、本人ほんにん本姓ほんせいみなもとであろうと藤原ふじわらであろうと、一律いちりつにすべて「豊臣とよとみ朝臣あそんぼう」という記載きさいされることになっていたのである。豊臣とよとみはこうして膨大ぼうだいかず構成こうせいいん獲得かくとくしていくことになった。

改姓かいせいにおける豊臣とよとみ羽柴はしばせいへの誤解ごかい

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しばしば誤解ごかいされるが、秀吉ひでよしは「羽柴はしば」という苗字みょうじを「豊臣とよとみ」にあらためたのではない。これは現代げんだいじん苗字みょうじ区別くべつする習慣しゅうかんうしない、両者りょうしゃ混同こんどうすることからくる錯誤さくごである。当時とうじ苗字みょうじ併用へいようするのが社会しゃかい習慣しゅうかんであり、そのなかで豊臣とよとみ羽柴はしば併用へいようされた。そもそも「羽柴はしば」はたんなる私的してき名乗なのりである名字みょうじ苗字みょうじ)にぎないが、「豊臣とよとみ」は天皇てんのう創始そうし朝廷ちょうてい手続てつづきをんで公式こうしき下賜かしされたである。苗字みょうじ厳密げんみつことなる存在そんざいであり、れっきとしたである豊臣とよとみ苗字みょうじぎない羽柴はしばはそもそも互換ごかん対象たいしょうにはならない。秀吉ひでよしが「豊臣とよとみ」にあらためたのはあくまで関白かんぱく叙任じょにんさいていた「藤原ふじわら」のであり、苗字みょうじあらためた記録きろく見当みあたらずしたがって羽柴はしばのままであったとかんがえられる[2]。つまり秀吉ひでよし関白かんぱく羽柴はしば内大臣ないだいじん藤原ふじわら朝臣あそん秀吉ひでよし殿どの藤原ふじわら秀吉ひでよし)から関白かんぱく羽柴はしば内大臣ないだいじん豊臣とよとみ朝臣あそん秀吉ひでよし殿どの豊臣とよとみ秀吉ひでよし)となったはずである。それゆえ江戸えど時代じだいいたるも豊臣とよとみ子孫しそんらは、豊臣とよとみ並行へいこうして羽柴はしば旧姓きゅうせい木下きのした」をしょうつづけている(秀吉ひでよし血縁けつえんしゃ大阪おおさかはいじん以降いこう徳川とくがわをはばかり秀吉ひでよし旧姓きゅうせいである木下きのしたせい使用しようした)。しかしながら羽柴はしば豊臣とよとみになったという錯誤さくご一般いっぱんひろ浸透しんとうしており、たとえば国民こくみんてき歴史れきし作家さっかとされる司馬しばりょう太郎たろう著書ちょしょ豊臣とよとみ人々ひとびと』のなかで「羽柴はしばせい豊臣とよとみあらため」などと記述きじゅつしている(ただしこの表現ひょうげんはあくまで読者どくしゃ知識ちしき水準すいじゅんまえた文学ぶんがくてき表現ひょうげんであり、当然とうぜん司馬しば学術がくじゅつてき錯誤さくごなどではない)。

秀吉ひでよし豊臣とよとみ

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豊臣とよとみ拡大かくだいは、秀吉ひでよし個人こじんてき権力けんりょくにより官位かんい叙任じょにんけん独占どくせんし、同時どうじ官位かんい叙任じょにん文書ぶんしょ内容ないようのままに改変かいへんできたことにもとづくものであり、慶長けいちょう3ねん1598ねん)に秀吉ひでよし死去しきょすると当然とうぜんその拡大かくだい停止ていしぎゃく縮小しゅくしょうかった。徳川とくがわ家康いえやすとその一門いちもんが「羽柴はしば」の名字みょうじと「豊臣とよとみ」の使用しようをやめ、慶長けいちょう8ねん1603ねん)には家康いえやすが「新田にった」・「徳川とくがわ」などの名字みょうじしょうし「みなもと朝臣あそん家康いえやす」として征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなったのは周知しゅうちのとおりである。しかし、家康いえやすは、この段階だんかいではまだ、生前せいぜん秀吉ひでよしのように官位かんい叙任じょにんけん排他はいたてき独占どくせんするにはいたっていない。秀吉ひでよし後継こうけいしゃ羽柴はしば宗家そうけ当主とうしゅである秀頼ひでよりは、大坂おおさかじょうによりながら、みずからの直属ちょくぞく家臣かしんたいする官位かんい叙任じょにん相変あいかわらず独自どくじつづけていた。また、しょ大名だいみょう羽柴はしば名字みょうじ豊臣とよとみ使用しようするかしないかは、基本きほんてき本人ほんにん判断はんだんにゆだねられたままであった。

たとえば、家康いえやす将軍しょうぐん任官にんかんおな慶長けいちょう8ねん1603ねん)、池田いけだ輝政てるまさみぎ近衛このえけん少将しょうしょうにんじられているが、これは「豊臣とよとみ朝臣あそん輝政てるまさ」としての任官にんかんである。またどう慶長けいちょう8ねん(1603ねん山内やまうち一豊かずとよしたがえよんじょせられ、土佐とさもりにんじられているが、これも「豊臣とよとみ朝臣あそん一豊かずとよ」としての叙任じょにんである。また、これも慶長けいちょう8ねん(1603ねん)のこと、加藤かとう清正きよまさ関ヶ原せきがはらたたか恩賞おんしょうとして肥後ひごいちこくいちえん領有りょうゆうするにたり、主計しゅけいあたまから肥後守ひごのかみあらためただけでなく、同時どうじにそれまでの「ひら朝臣あそん清正きよまさ」から「豊臣とよとみ朝臣あそん清正きよまさ」にあらためている。いわゆる“豊臣とよとみ恩顧おんこ”の大名だいみょう代表だいひょうかくでもあり、秀吉ひでよし親戚しんせきである清正きよまさべつとして、輝政てるまさ家康いえやす女婿じょせいであり、一豊かずとよは「小山こやま評定ひょうじょう」の逸話いつわ著名ちょめいおや徳川とくがわであるが、このけんではとく家康いえやすへの遠慮えんりょのようなものはいだせない。

そのも、池田いけだ輝政てるまさ長男ちょうなんてるじき利隆としたか)、加藤かとう清正きよまさ次男じなん清孝きよたか忠正ただまさ)、福島ふくしま正則まさのり次男じなん忠清ただきよ忠勝ただかつ)など、豊臣とよとみさい生産せいさんつづいている。福島ふくしま忠勝ただかつれいでは、いみなでは将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただへんいみなあたえられており、あきらかに江戸えど幕府ばくふつうじての官位かんい叙任じょにんであるにもかかわらず、幕府ばくふ豊臣とよとみ使用しよう阻止そしできないでいる。秀頼ひでよりがなお健在けんざいであるという前提ぜんていがあるとはいえ、秀吉ひでよし達成たっせいした既成きせい事実じじつおおきくおもいものとして幕府ばくふにのしかかっていた。

江戸えど時代じだい豊臣とよとみ

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慶長けいちょう20ねん1615ねん)7がつ大坂おおさかじんだい坂城さかき羽柴はしば宗家そうけ豊臣とよとみ)が滅亡めつぼうすると、それまで羽柴はしば名字みょうじ豊臣とよとみ公称こうしょうつづけていた大名だいみょうたちは一斉いっせいにその使用しようをやめている。たとえば福島ふくしま正則せいそく福島ふくしまでは、羽柴はしばから福島ふくしま名字みょうじあらためるとともに、旧姓きゅうせいたいらではなくあらたに藤原ふじわらあらためている。これはとく幕府ばくふから禁止きんしされたということではなく、宗家そうけ滅亡めつぼうにともなって自然しぜん消滅しょうめつとみなされたものらしい。

ただし、秀吉ひでよし正妻せいさい高台院こうだいいん兄弟きょうだいたちおよびその子孫しそんたちは、羽柴はしばから木下きのした名字みょうじあらためたものの、豊臣とよとみはそのまま名乗なのつづけている。『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』には、豊臣とよとみ本姓ほんせいとする大名だいみょういえとして、備中びっちゅう足守あしもり25,000せき木下きのした豊後ぶんご日出ひので25,000せき木下きのしたの2けんおなじく旗本はたもととして、足守あしもり木下きのした分家ぶんけ1けん日出ひので木下きのした分家ぶんけ2けん掲載けいさいする。このうち木下きのした利次としつぐは、高台院こうだいいん養子ようしとなり、豊臣とよとみ羽柴はしば)の祭祀さいし継承けいしょうすることがゆるされている[3]

また、朝廷ちょうてい地下ちかかんじんのうち、かつての滝口たきぐち武者むしゃ再興さいこうした「滝口たきぐち」36けんがあったが、そのうちの1けんである木下きのした本姓ほんせい豊臣とよとみしょうしていた。このいえは、明和めいわ5ねん1768ねん)に木下きのしたしげるみね滝口たきぐちせられたのを創始そうしとする。しゅうみね当初とうしょ「しげみね」と名乗なのっていたが、安永やすなが7ねん1778ねん)に「ひでみね」とあらためた。あきらかに「秀吉ひでよし」を意識いしきしたいみなであるが、しゅうみね前歴ぜんれき系譜けいふ関係かんけいなどは不明ふめいである。しゅうみねしゅうしゅうけい秀邦ひでくにしゅうみきしゅうゆう相承そうしょうして幕末ばくまついたる。まもるこころざし(さかん)からじょう(じょう)を諸国しょこく国司こくし(おおよそかいまで)となるのを極官きょっかんとした。ごくくらいせいろくであった。さらに、「滝口たきぐち豊臣とよとみしげるしゅうみね)」の佐野さの秀孝ひでたかきょく極官きょっかん文政ぶんせい8ねん1826ねん)12月19にち時点じてんせいろく雅楽ががくしょうまこと)が、秀孝ひでたかには佐野さの秀富ひでとみきょく極官きょっかんひろし3ねん1846ねん)4がつ18にち時点じてんせいろく雅楽ががくしょうまこと)がいた。

くわえて、『地下ちか家伝かでん』によれば、山本やまもとただしつな内蔵ないぞうりょうかんじん豊臣とよとみしんえき長井ながいそうしんおんなとのあいだまれたであり、豊臣とよとみ大江おおえであったとされる。せいつなは、のべたから7ねん1679ねん)9がつ20日はつかまれ、ひろし3ねん1744ねん)にかんするさいにはしたがえろく修理しゅうりだいぞくであった。先祖せんぞについては、「いえ焼失しょうしつ先祖せんぞねんじょ相知おうちこう」とあり、いえ火災かさいによってえたために不明ふめいであったという。せいつな子孫しそんぼうせいきょう正芳まさよし正安まさやすつづき、正安まさやす垣内かきうち改姓かいせいしたうえ正武まさたけただしただしこうただしひさただしもりつづいた(参考さんこう : 地下ちか一覧いちらん)。

寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』によれば、伏屋ふしや江戸えど時代じだい豊臣とよとみ名乗なのっている[4]

その明治めいじ時代じだい制度せいど廃止はいしされるまで、あらたな創設そうせつされることはなかった。華族かぞく宗族そうぞくせいでは、足守あしもり日出にっしゅつりょう木下きのしたが「豊臣とよとみ朝臣あそん肥後守ひごのかみしゅんてい裔」としてだい75るい分類ぶんるいされている。豊臣とよとみ朝臣あそんすめらぎべつかみべつそとべつのいずれのカテゴリーにもふくまれておらず、同様どうようあつかいをけたのは琉球りゅうきゅうこくおうであったなおいえだけであった。

豊臣とよとみ組織そしき

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すでに平安へいあん時代じだいには解体かいたい形骸けいがいしていたであるが、ふじ長者ちょうじゃ源氏げんじ長者ちょうじゃなどの役職やくしょくなどの慣習かんしゅう儀礼ぎれいてき存続そんぞくしていた。秀吉ひでよしも、関白かんぱく就任しゅうにんするにあたり、それに付随ふずいするものとしてふじ長者ちょうじゃねている。豊臣とよとみもこれをぐかたちで長者ちょうじゃ設置せっちしている。「ゆたか長者ちょうじゃ」(ほうしのちょうじゃ)である。天正てんしょう19ねん1591ねん)12月、秀吉ひでよし養子ようし羽柴はしば秀次しゅうじ関白かんぱくゆずったさいに、関白かんぱくしょく任命にんめいにともなって作成さくせいされた各種かくしゅ官位かんい叙任じょにん文書ぶんしょが『足守あしもり木下きのした文書ぶんしょ』に伝来でんらいしているが、そのなかに「関白かんぱく内大臣ないだいじん、よろしくゆたか長者ちょうじゃたるべし」云々うんぬん秀次しゅうじゆたか長者ちょうじゃ補任ほにんする内容ないよう宣旨せんじふくまれている。秀吉ひでよし関係かんけい文書ぶんしょには同様どうようのものは見当みあたらないが、当然とうぜん秀吉ひでよしゆたか長者ちょうじゃ地位ちいにあったものとかんがえられる[よう出典しゅってん]

なお、ゆたか長者ちょうじゃは、同時どうじふじ長者ちょうじゃ地位ちい権限けんげんをも掌握しょうあくしていた。秀吉ひでよし関白かんぱく就任しゅうにんするさい近衛このえたいして、将来しょうらいてきにはぜんひさ子息しそくしん関白かんぱくしょくかえ約束やくそくをしたというが、秀吉ひでよしはこれを反故ほごにしただけでなく、それまで摂家せっけのものであったふじ長者ちょうじゃまでもうばったのである。そのことを誇示こじするように[よう出典しゅってん]秀吉ひでよし豊臣とよとみ改姓かいせいしたあとの天正てんしょう16ねん1588ねん)1がつに、藤原ふじわら氏神うじがみ春日しゅんじつしゃ最高さいこう責任せきにんしゃ一人ひとりであるせいあずかしょく任命にんめいけん行使こうししている。また、どう天正てんしょう16ねん(1588ねん)12月には、藤原ふじわら始祖しそ藤原鎌足ふじわらのかまたりまつみねてらに、おとうと羽柴はしば秀長ひでなが居城きょじょうのある郡山こおりやまへの遷宮せんぐうめいじ、実行じっこううつしている。このときもちいられた命令めいれい文書ぶんしょは、本来ほんらい藤原ふじわら大学だいがくべつである勧学かんがくいん別当べっとうべんかんつとめることから弁別べんべつとうといい、また「みなみ曹弁」ともいう)が長者ちょうじゃ意志いしほうじて発給はっきゅうする奉書ほうしょである長者ちょうじゃせんふじ長者ちょうじゃせん)であり、ときみなみ曹弁は、藤原ふじわらきた勧修寺かんしゅうじりゅうぞくするみぎちゅうべん中御門なかみかどたねであった。秀次しゅうじ関白かんぱく就任しゅうにんにあたっても、上述じょうじゅつゆたか長者ちょうじゃする宣旨せんじのほか、ふじ長者ちょうじゃ意味いみする「長者ちょうじゃ」にむね宣旨せんじ別途べっと作成さくせいされている。

豊臣とよとみせいしょうしたもののリスト(暫定ざんてい

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村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし[5]の「豊臣とよとみせい一覧いちらんひょう」、どう天正てんしょうぶんろく慶長けいちょう武家ぶけ叙任じょにん豊臣とよとみせい下賜かし[6]より下賜かししゃ年代ねんだいじゅんならべた。なお、豊臣とよとみ長者ちょうじゃおよびそれにじゅんじる立場たちば豊臣とよとみ秀吉ひでよし豊臣とよとみ吉子よしこ高台院こうだいいん)・豊臣とよとみ秀頼ひでよりの3めい村川むらかわ作成さくせいひょうにはふくまれていない。また、豊臣とよとみせい名乗なのったとされることがおお佐竹さたけ義宣よしのぶ里見さとみ義康よしやす鳥居とりい忠政ただまさ山口やまぐち正弘まさひろについては、村川むらかわ信憑しんぴょうせいひくいとしてひょうからのぞいている。

下賜かしねん 下賜かしされた人物じんぶつ
1586ねん 豊臣とよとみ秀長ひでなが豊臣とよとみ秀次しゅうじ宮部みやべちょうひろしすずめ重政しげまさ溝口みぞぐち秀勝ひでかつ井伊いい直政なおまさ榊原さかきばら康政やすまさ高力こうりききよしちょう大久保おおくぼ忠隣ただちか
1587ねん 宇喜多うきた秀家ひでいえもり忠政ただまさ
1588ねん 羽柴はしば秀勝ひでかつ木下きのした勝俊かつとし結城ゆうき秀康ひでやす稲葉いなば貞通さだみち池田いけだ輝政てるまさ織田おだちょうえき織田おだ信秀のぶひで蒲生がもうきょう京極きょうごく高次こうじ筒井つつい定次さだじ丹羽にわ長重ながしげ長谷川はせがわ秀一ひでかず蜂屋はちやよりゆきたかし細川ほそかわ忠興ただおきほり秀政ひでまさ前田まえだ利家としいえ前田まえだ利長としなが毛利もうり秀頼ひでより波多はたちかし大友おおとも義統よしむね最上もがみ義康よしやす上杉うえすぎ景勝かげかつ立花たちばな宗茂むねしげ龍造寺りゅうぞうじせい吉川よしかわひろ小早川こばやかわ隆景たかかげ毛利もうり輝元てるもと粟屋あわやもとさだ堅田かただもとけいくちはるちょう国司こくしもとぞう島津しまつ義弘よしひろはやし就長福原ふくはらもとしゅんもときよし三浦みうら元忠もとただ渡辺わたなべおさむ直江なおえけんつづけ赤川あかがわもとぼういろ部長ぶちょうしん萩田はぎたちょうしげる
1589ねん 鍋島なべしまただししげる内藤ないとう政長まさなが大友おおともよしじゅつ大宝寺だいほうじ義勝よしかつ小早川こばやかわしげるつつみ粟屋あわや元吉もとよし児玉こだま元次もとつぐ出羽でわもとぞう平佐ひらさもとさだ鍋島なべしま勝茂かつしげ須田すだみつるおや
1590ねん 富田とみたともしん朽木くちきもとつなほり秀治しゅうじ之孝ゆきたか忠長ただなが
1591ねん 小早川こばやかわ秀秋ひであき豊臣とよとみ秀保ひでやす駒井こまい重勝しげかつほりちかしりょうあずま義久よしひさせん吉勝よしかつ
1592ねん 浅野あさの長政ながまさぶくさとし政直まさなお柴田しばた勝政かつまさ松野まつの重元しげもと毛利もうりしげるもと佐野さの信吉のぶよしなりじき
1593ねん 石田いしだただしきよし前田まえだ利政としまさ山中やまなか長俊ながとし柳沢やなぎさわもとせい
1594ねん 長束ながつか直吉なおきち今枝いまえだしげるただし戸田とだ重治しげはる津田つだ重久しげひさ加藤かとうさだやすし中川なかがわ秀成ひでなり生駒いこまただしかち上田うえだ重安しげやす宇都宮うつのみや国綱くにつな真田さなだ信繁のぶしげ政春まさはる直正なおまさまんいち
1595ねん 小笠原おがさわら秀政ひでまさおく平家ひらかあきら内藤ないとう清成きよなり松井まついかんしげる三浦みうら重成しげなり二宮にのみや就辰毛利もうり元康もとやす宍戸ししど元次もとつぐ
1596ねん 小出こいで秀政ひでまさ宮城みやぎ定勝さだかつ田丸たまるただしあきら富田とみた景政かげまさ山高やまたかちかしじゅう永井ながいただしかち伊達だてしげるむね阿部あべ正勝まさかつ毛利もうりもとせい平賀ひらがはじめしょう榎本えのもと元吉もとよし熊谷くまがいもとじき益田ますだもとさちせき一政かずまさそうしん土佐とさまもる政長まさなが
1597ねん 福原ふくはら長成ちょうせい吉田よしだ忠文ただふみ佐久間さくま政実まさみ寺西てらにしただしなり分部わけべこうよしみ水野みずの忠重ただしげ徳川とくがわ秀忠ひでただ五島ごしまげんみやび宇喜多うきた秀徳ひでのり石川いしかわさんちょう伊賀いがまもる政長まさなが長治ながはるけんちゅうそうたもつもりよし長則ながのり
1598ねん 平野ひらのちょうやすし武吉たけよし村上むらかみ武吉たけよしヵ)
1599ねん 伊東いとうゆうへい大村おおむらまえ相良さがら頼房よりふさ大須賀おおすが忠政ただまさ毛利もうりしげる元次もとつぐ重成しげなり
1600ねん 有馬ありまけい忠能ただやす
1602ねん 福島ふくしま正則まさのり吉田よしだ保三やすぞう
1603ねん 加藤かとう清正きよまさ蜂須賀はちすかいたる生駒いこま一政かずまさ山内やまうち一豊かずとよ
1604ねん 堀尾ほりお吉晴よしはる
1605ねん 片桐かたぎり且清津田つだ正勝まさかつ佐々ささただしじゅう池田いけだ利隆としたか吉元よしもと
1606ねん 加藤かとう清孝きよたか
1612ねん 寺沢てらさわ忠晴ただはる松浦まつうら隆信たかのぶ
1614ねん 片桐かたぎり孝利たかとし速見はやみのりもり大野おおのよりゆきただし土橋どばし景明かげあき
年代ねんだい不明ふめい 青山あおやま宗勝むねかつ生駒いこまとしゆたか稲葉いなばのりどおり奥村おくむら永福えいふく片桐かたぎり且元木下きのした家定いえさだ来島らいとうどおりそう前田まえだ秀則ひでのり

系図けいず

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 国史こくしだい辞典じてん[ようページ番号ばんごう]など
  2. ^ 岡野おかの友彦ともひこ源氏げんじ日本にっぽん国王こくおう』〈講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉2003ねん、28ぺーじ 
  3. ^ 池田いけだ洋子ようこ名古屋なごや秀吉ひでよし清正きよまさ記念きねんかんぞう高台院こうだいいん(おね)画像がぞう》にかんする考察こうさつノート」(PDF)『名古屋なごや造形ぞうけい大学だいがく紀要きようだい18ごう、2012ねん 
  4. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だい2輯[1]』(国民こくみん図書としょ、1923ねん
  5. ^ 村川むらかわ浩平こうへい羽柴はしば下賜かし豊臣とよとみせい下賜かし」『駒沢こまざわ史学しがく』49ごう、1996ねん /所収しょしゅう:村川むらかわ浩平こうへい日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん日本にっぽん図書としょ刊行かんこうかい、2000ねん 
  6. ^ 村川むらかわ浩平こうへい天正てんしょうぶんろく慶長けいちょう武家ぶけ叙任じょにん豊臣とよとみせい下賜かし」『駒沢こまざわ史学しがく』80ごう、2013ねん 

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 三上みかみけいぶんちょ正宗まさむね敦夫あつお校訂こうてい地下ちか家伝かでん自治じち新報しんぽうしゃ、1968ねん
  • 大村おおむらゆかりおのれ任官にんかんことはなわ保己一ほきいちぞくぐんしょ類従るいじゅうだい20輯下 つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1979ねん
  • 下橋しもはしたかしちょうじゅつ羽倉はぐらたかしなおちゅう幕末ばくまつ朝廷ちょうてい平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ〉、1979ねん
  • 人見ひとみ彰彦あきひこ足守あしもり木下きのした文書ぶんしょ山陽新聞社さんようしんぶんしゃへん『ねねと木下きのした文書ぶんしょ山陽新聞社さんようしんぶんしゃ、1982ねん
  • 下村しもむらこうてん正文せいぶんろく慶長けいちょう年間ねんかん公家くげなりしょ大夫たいふなり一覧いちらん」『栃木とちぎ史学しがく』7ごう國學院大學栃木短期大學こくがくいんだいがくとちぎたんきだいがく学会がっかい、1993ねん/所収しょしゅう:『中世ちゅうせいほう経済けいざいぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1998ねん
  • 下村しもむらこう豊臣とよとみ官位かんい制度せいど成立せいりつ発展はってん-公家くげなりしょ大夫たいふなり豊臣とよとみ授姓-」『日本にっぽん研究けんきゅう』337ごう、1994ねん/所収しょしゅう:『中世ちゅうせいほう経済けいざいぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1998ねん
  • 米田よねだ雄介ゆうすけ徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ叙位じょい任官にんかん文書ぶんしょについて」『栃木とちぎ史学しがく』8ごう國學院大學栃木短期大學こくがくいんだいがくとちぎたんきだいがく学会がっかい、1994ねん 
  • 山口やまぐち和夫かずお ちょ統一とういつ政権せいけん成立せいりつ朝廷ちょうてい近世きんせい」、山本やまもと博文ひろぶみ へんあたらしい近世きんせい1 国家こっか秩序ちつじょ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1996ねん 
  • 黒田くろだ基樹もとき慶長けいちょう大名だいみょう氏姓しせい官位かんい」『日本にっぽん研究けんきゅう』414ごう日本にっぽん研究けんきゅうかい、1997ねん 
  • りゅうたに和比古かずひこせきはら合戦かっせん近世きんせいくにせい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2000ねん 
  • いけとおる戦国せんごくゆたか武家ぶけ天皇てんのう校倉あぜくら書房しょぼう、2003ねん