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寛政重修諸家譜 - Wikipedia コンテンツにスキップ

寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政かんせい年間ねんかん1789ねん - 1801ねん)に江戸えど幕府ばくふ編修へんしゅうした大名だいみょう旗本はたもといえしゅうである。1,530かん文化ぶんか9ねん1812ねん)10がつ完成かんせいした。『寛政かんせい』・『諸家しょか』と略称りゃくしょうされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家光いえみつだい編纂へんさんされた『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』のぞくしゅうにあたり、先行せんこうする『はん翰譜続編ぞくへん』の編纂へんさん事業じぎょうめんもあった[1]寛政かんせい年間ねんかん幕政ばくせいにおいては老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶ主導しゅどうする寛政かんせい改革かいかく実施じっしされ、内政ないせいじょう問題もんだい対外たいがいてき緊張きんちょうから幕政ばくせい刷新さっしんはかっており、幕府ばくふ初期しょき精神せいしんもどるため文教ぶんきょう振興しんこうおこなわれていた。このような文教ぶんきょう振興しんこうけて、1799ねん寛政かんせい11ねん)に堀田ほったただしあつし責任せきにんしゃとして『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の編纂へんさん開始かいしされた[2]

当初とうしょ、『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』のぞくおさむ予定よていであったが、それでは不十分ふじゅうぶんということがわかり、1803ねんとおる3ねん)からは方針ほうしんが「じゅうおさむ」にあらためられ、1812ねん文化ぶんか9ねん)に完成かんせいした[2]。この『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか編纂へんさんもちいられた史料しりょうとして、『牒余ろく』『諸家しょか系譜けいふ』がある。

徳川とくがわ創業そうぎょうであった『武徳ぶとく大成たいせい編纂へんさんのための資料しりょうとして、家康いえやすから家光いえみつまでのあいだ家伝かでん系譜けいふなどの記録きろくぐんしょ大名だいみょう幕臣ばくしん庶民しょみんとうから提出ていしゅつさせた『貞享ていきょうしょじょう』があり、これを『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか編纂へんさん資料しりょうとするため、1799ねん堀田ほったただしあつし責任せきにんしゃとなって『貞享ていきょうしょじょう』はいちしょうつされて『牒余ろく』とづけられた[2]1643ねん寛永かんえい20ねん)に完成かんせいした『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』とともに、この『牒余ろく』が『じゅうおさむ』のためにもちいられた。また、大名だいみょう家伝かでんである『はん翰譜』につづく『はん翰譜続編ぞくへん』を編纂へんさんするため、1789ねん寛政かんせい元年がんねん)にしょ大名だいみょうたいして、1791ねん寛政かんせい3ねん時点じてんで「まんせき以下いか目見まみ以上いじょう」の幕臣ばくしん旗本はたもと)は『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん以降いこういえ提出ていしゅつするようにめいじた[2]1799ねんには再度さいど寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか編纂へんさんのため、提出ていしゅつしゃには提出ていしゅつを、またすでに提出ていしゅつしているものには1798ねん寛政かんせい10ねん)までの追加ついかぶん提出ていしゅつもとめた[2]。1789ねん以降いこう提出ていしゅつされたこれらのいえは『諸家しょか系譜けいふ』としてまとめられた[2]

このように、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』は、寛永かんえい以降いこうについては大名だいみょう旗本はたもとから提出ていしゅつされたいえからなる『諸家しょか系譜けいふ』をおも資料しりょうとして、それ以前いぜんについては『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』『牒余ろく』などが参照さんしょうされて編纂へんさんされた[2]

構成こうせい[編集へんしゅう]

全体ぜんたいでは1,530かんあり、うち「目録もくろく」・「ついで」・「条例じょうれい」の10かんふくまれる。体裁ていさいは『新撰しんせん姓氏せいしろく』を手本てほんとして、すめらぎべつかみべつ配列はいれつ順序じゅんじょとし、しょ大名だいみょう旗本はたもと以下いか将軍家しょうぐんけ御目見得おめみえ以上いじょうしょ医師いし同朋どうほう茶人ちゃじんとうあわせて1,114、2,132いえにのぼり、『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』をおおきく上回うわまわ規模きぼとなった。ただし、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけとその連枝れんし一門いちもん除外じょがいされている。また東海とうかい地方ちほう出身しゅっしんしゃ幕臣ばくしん系譜けいふかたよ傾向けいこうがあり、地方ちほう豪族ごうぞく関係かんけいについては系図けいずそなわらない難点なんてんがある。

内容ないようにおいては、はは生誕せいたん養子ようしはつ目見まみとく元服げんぷくたまものごう婚姻こんいん官位かんい叙爵じょしゃくはんかさねふうりょう・秩禄・入部にゅうぶ職掌しょくしょう従軍じゅうぐんれき公役こうえき恩賞おんしょう罪科つみとが慰問いもんしんけんじ嘉言かげん善行ぜんこう致仕ちし卒去そっきょ享年きょうねん法名ほうみょうそう妻室さいしつとう多岐たき項目こうもくにつき簡明かんめいしるす。ただし、旗本はたもと以下いかについては大名だいみょうして項目こうもくがかなり省略しょうりゃくされている場合ばあいがある。

なお、記述きじゅつちゅうにおける女性じょせい名前なまえはすべて「女子じょし」とのみしるされているため、女性じょせい名前なまえなま没年ぼつねん調査ちょうさする場合ばあいは、史料しりょうとの比較ひかく必要ひつようとされる。寛政かんせい江戸えど時代じだいにおける大名だいみょう旗本はたもと履歴りれき家族かぞく構成こうせい調しらべるうえでの基本きほん史料しりょうとして重要じゅうようであるものの、すべてが正確せいかく実態じったいしるしているわけではない。たとえば、幕府ばくふ出生しゅっしょうとどけられなかった子女しじょ早世そうせいしたものなど)は記載きさいされていなかったり、藩主はんしゅ旗本はたもと一族いちぞくだが陪臣ばいしん転属てんぞくしたものについては記載きさいしないか、簡略かんりゃく記載きさいするかにめている。

また、当主とうしゅ出生しゅっしょうねんは、基礎きそ資料しりょうであるてい幕府ばくふ提出ていしゅつよう系譜けいふ)において幕府ばくふへのとど年次ねんじかんねん)がしるされているが、元々もともと幕府ばくふへのとど年次ねんじ末期まっき養子ようし規定きてい抵触ていしょくによる相続そうぞくにおけるげんふうなどの処罰しょばつけるために、実際じっさい出生しゅっしょうねんとずらして提出ていしゅつしていることもすくなくなく、このていもとづいた寛政かんせい記述きじゅつ実際じっさい出生しゅっしょうねんとがことなる場合ばあいおおい。

寛永かんえい諸家しょか系図けいずでんとの比較ひかく[編集へんしゅう]

寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』では、記録きろく提出ていしゅつしたいえによって兄弟きょうだい姉妹しまい配列はいれつじゅん統一とういつであるが、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』においては兄弟きょうだい姉妹しまい長幼ちょうようじゅんならなお方針ほうしんがとられた。しかし、『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』の編纂へんさんから歳月さいげつていることもあり、完全かんぜんには修正しゅうせいされていない。

また、日本にっぽん大学だいがく教授きょうじゅ北原きたはら章男あきお解説かいせつによれば、江戸えど幕府ばくふ当初とうしょ計画けいかくでは寛政かんせい系譜けいふ編纂へんさんは『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』のぎを目的もくてきとしていたが、あらたに諸家しょかからていつのると寛永かんえいていとは加除かじょ部分ぶぶん記述きじゅつ疑義ぎぎしょうじ、たんなるぎにおさまらず、もと寛永かんえい自体じたい校閲こうえつふでじゅうおさむ)をれざるをなくなったものとする。書名しょめいはこのことによって「じゅうおさむ」のかたりけられている[3]

一方いっぽうで、今川いまがわおや義元よしもとちち)の子女しじょ出生しゅっしょう順序じゅんじょ確定かくていさせようとした駿河台大学するがだいだいがく教授きょうじゅ黒田くろだ基樹もときは、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の今川いまがわ系譜けいふには戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょき作成さくせいされた今川いまがわ系図けいずどう時代じだい記録きろくならびに『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』から実在じつざい確認かくにんできない人物じんぶつふくまれており、とく関口せきぐちひろしつ小笠原おがさわら春義はるよししつ松平まつだいら親善しんぜんむろのち鵜殿うどの長持ながもち再婚さいこん)については『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん完成かんせい創作そうさくされた可能かのうせいがあるとしている[4]。これはじゅうおさむ過程かてい後世こうせい創作そうさく挿入そうにゅうされる可能かのうせい指摘してきしたものとえる。

史料しりょう価値かち[編集へんしゅう]

吉川弘文館よしかわこうぶんかんの『国史こくしだい辞典じてん』では、山本やまもと武夫たけおによる「寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか解説かいせつにおいてその評価ひょうかつぎのようにべている。

  1. 「この系譜けいふ近世きんせい最大さいだい系譜けいふであり、大名だいみょう幕臣ばくしん経歴けいれき詳細しょうさいであって、『徳川とくがわ実紀みき』とともに重要じゅうよう研究けんきゅう資料しりょうである。」
  2. 文章ぶんしょう平易へいい簡明かんめいである。また編者へんしゃ諸家しょかていをよく吟味ぎんみし、疑問ぎもんのある場合ばあいは、一応いちおうそのままに採録さいろくしてあるが、そのむねしるして慎重しんちょう態度たいどしめしている。ただし、出典しゅってん一々いちいち明記めいきしていない[5]。」

また系譜けいふ研究けんきゅう豊田とよだたけしはそのちょ日本にっぽんしょう百科ひゃっか家系かけい』においてつぎのようにひょうしている。

  1. 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の慶長けいちょう(1596ねん - 1614ねん以前いぜんかんする記述きじゅつ幕臣ばくしん木村きむらこうあつしちょの『武徳ぶとくへんねん集成しゅうせい』にたよっているが、このしょ徳川とくがわ家康いえやす一代記いちだいきであるところから、信用度しんようど諸家しょかてい忠実ちゅうじつな『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』にして問題もんだいてんがあるとする。
  2. しかし、1603ねん慶長けいちょう8ねん)の江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ以後いご記述きじゅつについては正確せいかくであるとする。『寛政かんせい』の編者へんしゃ事実じじつ検討けんとうには注力ちゅうりょくしており、とく寛永かんえいていとそのかくいえていとを比較ひかくし、それらの所説しょせつ異同いどうをもかかげているてんでは評価ひょうかされる[6]

に『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の編纂へんさん姿勢しせいについての論文ろんぶんいた平野ひらのひとし也は、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』を近世きんせい研究けんきゅうしゃにとって必須ひっす史料しりょうとしたうえで、

  1. 幕府ばくふ諸家しょか同士どうし記録きろく相互そうご矛盾むじゅんがないか、確認かくにん作業さぎょう極力きょくりょくっている。こうした姿勢しせいは『寛永かんえい諸家しょか系図けいずでん』や『貞享ていきょうしょじょう』にはられず『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の特徴とくちょうとしてい。
  2. 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の記述きじゅつあやまりがおおいとはいえないが、資料しりょう収集しゅうしゅう叙述じょじゅつ段階だんかい幕府ばくふによって選択せんたくがなされ、過去かこかたよりなくありのままにえがいているとはえない。とく徳川とくがわ将軍家しょうぐんけたい合戦かっせんなどで忠誠ちゅうせいくした先祖せんぞ姿すがた詳細しょうさい記述きじゅつすることで、武家ぶけ頂点ちょうてん君臨くんりんする徳川とくがわと、身命しんめいしてそれにつかえる家々いえいえという両者りょうしゃにとってこのましい関係かんけいさい認識にんしきさせる目的もくてきがあったとられる[1]

所蔵しょぞう出版しゅっぱん[編集へんしゅう]

献上けんじょうほん副本ふくほん写本しゃほん[編集へんしゅう]

完成かんせい幕府ばくふへの献上けんじょうほん紅葉山もみじやま文庫ぶんこおさめられた。これは現在げんざい内閣ないかく文庫ぶんこ国立こくりつ公文書こうぶんしょかん)に収蔵しゅうぞうされている(ぜん1,530さつ[7]。また、完成かんせい副本ふくほんが2作製さくせいされ、1紅葉山もみじやま文庫ぶんこに、1日光にっこう東照宮とうしょうぐうおさめられた[7][8]紅葉山もみじやま文庫ぶんこ副本ふくほん明治めいじ初年しょねん火災かさいにより1/3程度ていど(597さつ[7])がのこっている[8]

このほか、おおくの写本しゃほん制作せいさくされており、写本しゃほんぜんさつ所蔵しょぞうする機関きかんとしては、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん静嘉堂文庫せいかどうぶんこがある[9]。1917ねん大正たいしょう6ねん)の時点じてんで、徳川とくがわいたるこう田安たやす)が天保てんぽう年間ねんかん写本しゃほんを、徳川とくがわいたるどういちきょう)がまたべつ写本しゃほんゆうしていたという[8]岩崎いわさき弥之助やのすけ内閣ないかく文庫ぶんこしょ蔵本ぞうほんをもとに写本しゃほんつくらせており、これが静嘉堂文庫せいかどうぶんこ収蔵しゅうぞうのものである[8]

活字かつじほん[編集へんしゅう]

寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』の最初さいしょ活字かつじほんぜん9かん)は、1917ねん大正たいしょう6ねん)から1918ねん大正たいしょう7ねん)にかけて栄進えいしんしゃ出版しゅっぱんより刊行かんこうされ、1922ねん大正たいしょう11ねん)から1923ねん大正たいしょう12ねん)にかけてどう紙型しけい国民こくみん図書としょ株式会社かぶしきがいしゃから刊行かんこうされて普及ふきゅうした[7][10]。この大正たいしょう活字かつじほんは、静嘉堂文庫せいかどうぶんこ所蔵しょぞうの「しん写本しゃほん」を底本ていほんとしたとされ、誤字ごじ脱漏だつろうや、底本ていほん用字ようじ忠実ちゅうじつでないところ(ひらがなきと漢字かんじきを置換ちかんすること、漢字かんじ字体じたい原則げんそくてきえるてんなど)もおおいとされる[10]

  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』(榮進えいしんしゃ出版しゅっぱん、1917ねん7がつ - 1918ねん6がつ)→(国民こくみん図書としょ、1922ねん - 1923ねん

この大正たいしょう刊本かんぽんの「復刊ふっかん」として、1964ねんから1967ねんぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかいが『しんてい 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』(ぜん22さつ索引さくいん4さつ)を刊行かんこうしている。「復刊ふっかん」にさいしては内閣ないかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう幕府ばくふ献呈けんていほんをもととして全巻ぜんかん校訂こうていおこなわれている[10]

閲覧えつらん利用りよう[編集へんしゅう]

該本を利用りようするには『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか順次じゅんじ』または『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか索引さくいん』でだいなんかんなん記述きじゅつがあるかをあらかじめ調しらべると便利べんりである。

デジタルアーカイブ[編集へんしゅう]

写本しゃほん[編集へんしゅう]

活字かつじほん[編集へんしゅう]

国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクションでは、国民こくみん図書としょばん閲覧えつらん可能かのうである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 平野ひらのひとし也 「『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』のてい幕府ばくふ編纂へんさん姿勢しせい」『日本にっぽん歴史れきしだい803ごう、2015ねん4がつごう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、pp.21-38。
  2. ^ a b c d e f g 福井ふくい 1980, p. 354-362.
  3. ^ 日本にっぽん歴史れきししょ120せん』/歴史れきしたび臨時りんじ増刊ぞうかんごう だい20かんだい12ごう/1993ねん秋田あきた書店しょてん、pp.216-218。
  4. ^ 黒田くろだ基樹もとき北条ほうじょう氏康うじやすつま みずけいいん平凡社へいぼんしゃ、2017ねん12月。ISBN 978-4-582-47736-8 P40-63.
  5. ^ 日本にっぽん歴史れきししょ120せん』/歴史れきしたび臨時りんじ増刊ぞうかんごうだい20かんだい12ごう/1993ねん秋田あきた書店しょてん以上いじょう「」ない引用いんようぶん同書どうしょp.219より。
  6. ^ 日本にっぽんしょう百科ひゃっか家系かけい』/近藤こんどう出版しゅっぱん、1983ねん/pp.232-235。
  7. ^ a b c d 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか”. 国史こくしだい辞典じてん. 2021ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  8. ^ a b c d 三上みかみさん活字かつじほん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかじょ」、『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいいち輯』(国民こくみん図書としょ、1922ねん
  9. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか”. 日本にっぽん古典こてんせき総合そうごう目録もくろくデータベース. 国文学研究資料館こくぶんがくけんきゅうしりょうかん. 2021ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  10. ^ a b c しんてい 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』「まえがき」

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]