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今川いまがわ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
今川いまがわ
1243ねん- 1887ねん)
家紋
今川いまがわあかとり
本姓ほんせい 清和せいわはじめよしながれよしりょうけい今川いまがわ
いえ 今川いまがわこく
種別しゅべつ 武家ぶけ
士族しぞく1887ねん絶家ぜっけ
出身しゅっしん 三河みかわこく幡豆はずぐん今川いまがわそう
おも根拠地こんきょち 駿河するがこく
遠江とおとうみこく
著名ちょめい人物じんぶつ 今川いまがわ了俊りょうしゅん
今川いまがわ範忠のりただ
今川いまがわ義忠よしただ
今川いまがわおや
今川いまがわてる
今川いまがわ義元よしもと
今川いまがわ氏真うじざね
支流しりゅう分家ぶんけ 品川しながわ武家ぶけ
堀越ほりこし瀬名せな武家ぶけ
蒲原かんばら武家ぶけ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく
今川いまがわ菩提寺ぼだいじ臨済寺りんさいじ2016ねん平成へいせい28ねん)8がつ14にち撮影さつえい

今川いまがわ(いまがわうじ、いまがわし)は、武家ぶけ士族しぞくだった日本にっぽん氏族しぞく清和せいわはじめ足利あしかが支流しりゅう嫡流ちゃくりゅうは、室町むろまち時代ときよ駿河するがこく遠江とおとうみこく守護しゅご大名だいみょうとなり、戦国せんごく時代じだい駿河するが遠江とおのえこく支配しはいする戦国せんごく大名だいみょう転化てんかすることに成功せいこうし、今川いまがわ義元よしもとだい三河みかわこく支配しはいして東海とうかい地方ちほう最大さいだい戦国せんごく大名だいみょうとなったが、1560ねんおけ狭間はざまたたか義元よしもとはいし、以降いこう徳川とくがわ武田たけだこう北条ほうじょうなどの侵略しんりゃくけて衰退すいたいした[1]江戸えど時代じだいには子孫しそん高家こうかとしてわずかに家名かめいのこ[1]維新いしんのち士族しぞくとなるも1887ねん嫡流ちゃくりゅう絶家ぜっけとなった[2]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

足利あしかが義兼よしかねまご吉良きら長氏ながうじ次男じなんくにが、三河みかわこく幡豆はずぐん今川いまがわしょうりょうして今川いまがわしょうしたことにはじまる[3]今川いまがわ足利あしかが一門いちもんにおいて名門めいもんとされ、足利あしかが将軍家しょうぐんけ親族しんぞくとしての家格かかくゆうし、室町むろまち将軍家しょうぐんけから一家いっかとしてぐうされた吉良きら分家ぶんけにあたる。「御所ごしょ足利あしかが将軍家しょうぐんけえなば吉良きらぎ、吉良きらえなば今川いまがわ」とわれていたように、足利あしかが宗家そうけ室町むろまち将軍家しょうぐんけ系統けいとう)の血脈けちみゃく断絶だんぜつした場合ばあいには吉良きら足利あしかが宗家そうけ征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょく継承けいしょうけん発生はっせいする特別とくべつ家柄いえがらであったともつたわる。吉良きらからは守護しゅごおよび管領かんりょうさむらいしょ所司しょし1人ひとりていないのはこのためである(これらの役職やくしょくは「家臣かしん仕事しごと」であり、足利あしかが宗家そうけ継承けいしょうけんいえもの管領かんりょうなどににんじられる身分みぶんではなかった)。吉良きら分家ぶんけである今川いまがわ守護しゅごさむらいしょ所司しょしつとめた。軍功ぐんこうによりふく将軍しょうぐん称号しょうごうをゆるされた今川いまがわはんせい範忠のりただは、えいとおるらん戦功せんこうによって室町むろまち将軍家しょうぐんけから本人ほんにんとその子孫しそん以外いがい今川いまがわせい使用しようきんじるとする「天下てんかいち苗字みょうじ」の待遇たいぐうけたため、日本にっぽん各地かくちさかえていた今川いまがわせい駿河するが守護しゅごのみとなったとつたえられる。しかし、範忠のりただぼつ一時期いちじき宗家そうけ地位ちいあらそ立場たちばにあった小鹿こじかには、そのまんいちさい家督かとく継承けいしょうゆう資格しかくしゃとして今川いまがわせいゆるされていたとする研究けんきゅうもある[4]

  1. 駿河するが今川いまがわ駿河するが守護しゅごしょく代々だいだい継承けいしょうした嫡流ちゃくりゅうほん記事きじ記述きじゅつ
  2. 遠江とおとうみ今川いまがわ:1.の分家ぶんけで、遠江とおとうみ所領しょりょうあたえられた今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅん)をとする一族いちぞく堀越ほりこし瀬名せな参照さんしょう
  3. 肥前ひぜん今川いまがわおなじく1.の分家ぶんけで、肥前ひぜん所領しょりょうあたえられた今川いまがわ仲秋なかあきとする一族いちぞく持永もちなが参照さんしょう

家伝かでん

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鎌倉かまくら時代ときよ

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今川いまがわ発祥はっしょう愛知あいちけん西尾にしお

足利あしかがよしの庶長子ちょうしとして吉良きらおこした吉良きら長氏ながうじ次男じなんであるくにが、よしりょう所領しょりょうから三河みかわこく幡豆はずぐん今川いまがわそう(いまがわのしょう、2021ねんれい3ねん現在げんざい愛知あいちけん西尾にしお今川いまがわまち周辺しゅうへん)を分与ぶんよされてほんぬきとし、今川いまがわ四郎しろうしょうしたのにはじまる(あるいはくに長氏ながうじおいで、養子ようしになったともう)。現在げんざい今川いまがわまちには愛知あいちけんによっててられた今川いまがわ発祥はっしょう石碑せきひがある。

よしりょう今川いまがわであった長氏ながうじは、足利あしかが惣領そうりょういだやすしあににあたることから、よしりょう足利あしかが一門いちもんとしておもきをなし、渋川しぶかわ石橋いしばしとともに「一家いっか」としょうされて別格べっかくあつかいをけたのも、こうした背景はいけいがあってのことであった。しかし現実げんじつには、足利あしかが将軍家しょうぐんけにはおおくの別家べっけがあり、よしりょうがそうした家系かけいしのけ足利あしかが本家ほんけげる可能かのうせいかぎりなくひくかった。

南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代じだい

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鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうからたてたけし新政しんせいころには、くにまご基氏もとうじ長男ちょうなん)である今川いまがわよりゆきこくが4にんおとうと[注釈ちゅうしゃく 1]たちをひきいて足利尊氏あしかがたかうじ北朝ほくちょうかたぞくし、各地かくち戦功せんこうげた。よりゆきこくちゅう先代せんだいらんさいしょう夜中よなかやま合戦かっせんにて北条ほうじょうぎょうかた名越なごやくにとき功績こうせきげたが、相模さがみがわ合戦かっせんさんおとうとよりゆきしゅうとも戦死せんしおとうとはんみつる小手指こてさしばらたたか戦死せんししてしまう。これらの功績こうせきにより、よりゆきこくよりゆきさだ丹後たんご但馬たじま因幡いなば守護しゅごにんぜられた。またよりゆきこく末弟ばっていで、尊氏たかうじちかくにつかえていたはんこく駿河するが遠江とおとうみ守護しゅごにんじられた。かんおう擾乱じょうらんさいして、はんこく嫡男ちゃくなんはん尊氏たかうじかたぞくしてこうて、駿河するが守護しゅごしょく継承けいしょうはん系統けいとう今川いまがわ嫡流ちゃくりゅうとして駿河するが守護しゅご世襲せしゅうした。駿河するが守護しゅごである今川いまがわは、さかいせっする関東かんとう公方くぼうりょう監視かんしする役割やくわり将軍家しょうぐんけからわされていたともいう。

今川いまがわいくにんかは室町むろまち幕府ばくふさむらいしょ長官ちょうかんにも任命にんめいされるなど、斯波しば畠山はたけやま細川ほそかわ一色いっしき山名やまな赤松あかまつ京極きょうごく土岐ときらとともに幕府ばくふ宿老しゅくろう一人ひとりつとめた。

また、はんおとうと肥前ひぜん守護しゅご貞世さだよ了俊りょうしゅん管領かんりょう細川ほそかわよりゆきこれにより九州きゅうしゅう探題たんだいにんじられると、南朝なんちょう勢力せいりょくつよかった九州きゅうしゅう平定へいていすることに成功せいこうしたが、足利あしかが義満よしみつからは了俊りょうしゅん勢力せいりょく名声めいせいたかまりをこころよおもわれていなかったようである。やがて大内おおうち義弘よしひろ挙兵きょへいするおうながらん勃発ぼっぱつするが、一時いちじこれに加担かたんするうごきをせた鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが氏満うじみつうらけたのが了俊りょうしゅんである、との疑念ぎねんをかけられた。討伐とうばつ対象たいしょうになるところを上杉うえすぎけんじょうたちの助命じょめい活動かつどうむすび、義満よしみつへの上洛じょうらく謝罪しゃざいゆるされた。しかし中央ちゅうおう政界せいかいからわれたれたうえに、遠江とおとうみなかばこく守護しゅごとなってしまった(のこりのはんこく守護しゅごおとうと今川いまがわ仲秋なかあき)。その子孫しそん守護しゅごしょく斯波しばゆずったのち駿河するが土着どちゃくし、駿河するが今川いまがわつかえた。

戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく時代じだい15世紀せいきすえいたり、伯父おじ伊勢いせ盛時せいじ北条早雲ほうじょうそううんたすけで家督かとくあらそいに勝利しょうりしたおやは、亡父ぼうふ義忠よしただだい頓挫とんざしていた遠江とおとうみへのさい侵攻しんこうこころみた。その結果けっか敵対てきたいする斯波しばはいすることに成功せいこうして遠江とおとうみ守護しゅごしょく獲得かくとくする。また、三河みかわから遠江とおとうみ進出しんしゅつしていたよしりょう一連いちれんたたかいで斯波しば味方みかたしたとして、遠江とおとうみ所領しょりょううばって屈服くっぷくさせた。しかし、戦国せんごく時代じだいといえども分家ぶんけである今川いまがわ本家ほんけであるよしりょう屈服くっぷくさせることは、今川いまがわ権威けんい裏付うらづけてきた足利あしかが一門いちもん内部ないぶ秩序ちつじょるがしかねないため、最終さいしゅうてきにはおやむすめ吉良きらよしとつがせてよしりょう面目めんぼくたもかたちにした。

そのおや甲斐かいこくらんこく状態じょうたい介入かいにゅうし、甲斐かい西郡にしごおりくにしゅ大井おおい従属じゅうぞくさせている。領国りょうごく統治とうちにおいてはぶん国法こくほう今川いまがわ仮名がな目録もくろく」をさだめて、今川いまがわ戦国せんごく大名だいみょう発展はってんさせた。駿府すんぷには冷泉れいせんためなど戦乱せんらんけた公家くげ下向げこうし、文化ぶんかてきにも円熟えんじゅくした時代じだいむかえるようになった。

おや没後ぼつご正室せいしつ寿ことぶきかつら嫡男ちゃくなんてる後見こうけんした。天文てんもん5ねん1536ねん)3がつ17にちてる彦五ろう死去しきょすると、てるおとうと出家しゅっけしていたげん広恵ひろえさがせ栴岳うけたまわかおるあいだ家督かとくあらそい「花倉はなぐららん」が勃発ぼっぱつする。花倉はなぐららんは栴岳うけたまわよしせいし、今川いまがわ義元よしもと改名かいめいして今川いまがわ当主とうしゅとなる。義元よしもとにはそれまで敵対てきたいしていた甲斐かい武田たけだ和睦わぼくしてきのえ駿しゅん同盟どうめいむすばれ、これにより今川いまがわ相模さがみこう北条ほうじょうとの関係かんけい悪化あっかさせ、「河東かわとうらん」をこす。河東かわとうらん武田たけだ当主とうしゅ武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん仲介ちゅうかいもあり今川いまがわこう北条ほうじょうあいだでは同盟どうめいむすばれ、さらに武田たけだ北条ほうじょうあいだでもかぶとしょう同盟どうめいむすばれており、さんしゃ関係かんけいは、かぶとしょう駿しゅんさんこく同盟どうめい発展はってんする。

義元よしもとさんこく同盟どうめい背景はいけい三河みかわ進出しんしゅつちからそそぎ、弱体じゃくたいした松平まつだいら従属じゅうぞくさせたほか、おなじく尾張おわり織田おだと「安城あき合戦かっせん」「小豆あずきざかたたか」などをたたかい、三河みかわから織田おだすことに成功せいこうした。松平まつだいら当主とうしゅである松平まつだいら元康もとやす徳川とくがわ家康いえやす幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ駿河するが今川いまがわ重臣じゅうしんでもあった今川いまがわ関口せきぐちから正室せいしつむかえた。こうして、駿河するが遠江とおとうみ三河みかわの3かこく支配しはいするうえ尾張おわり一部いちぶゆうしたが、1560ねんえいろく3ねん)5がつ19にちおけ狭間はざまたたか織田おだ信長のぶなが本陣ほんじん襲撃しゅうげきされ、はいした。

義元よしもとあといだ氏真うじざねだいには、三河みかわ岡崎おかざきしろ松平まつだいら元康もとやす自立じりつするなど支配しはい領国りょうごく動揺どうようまねき、臣従しんじゅう国人くにびとたちの今川いまがわ離反りはん誘発ゆうはつする。氏真うじざねみずか出陣しゅつじんした造反ぞうはんぐん征伐せいばつせんでは、三河みかわ宝飯ほいぐんにおいて松平まつだいらぐん大敗たいはいする。やがて吉田よしだしろ失陥しっかんし、三河みかわ支配しはいけん喪失そうしつする。

甲斐かい武田たけださんこく同盟どうめい背景はいけい越後えちごこく長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん川中島かわなかじまたたかひろげていたが、川中島かわなかじまたたかいはえいろく4ねん1561ねん)の契機けいき終息しゅうそくする。氏真うじざねいもうとであるみねまついん信玄しんげん嫡男ちゃくなん武田たけだ義信よしのぶとつぎ、この婚姻こんいんによりきのえ駿しゅん同盟どうめい成立せいりつしていたが、武田たけだではえいろく8ねん1565ねん)に義信よしのぶ謀反むほん発覚はっかく幽閉ゆうへいされる。えいろく10ねん今川いまがわ氏真うじざね武田たけだりょうないへのしおめ(食塩しょくえん禁輸きんゆ政策せいさく)をおこなった。同年どうねん10がつ19にち義信よしのぶ病死びょうしする[5][6][7][8]あにである氏真うじざね北条ほうじょうつうじてみねまついん帰国きこくさせるよう要請ようせいした[9]信玄しんげん難色なんしょくしめしている[10]、のちにみねまついん駿河するが帰国きこくした[9]今川いまがわもどったみねまついん出家しゅっけし、貞春さだはるあましょう[11]。(その貞春さだはるあま徳川とくがわ秀忠ひでただ介錯かいしゃく上臈じょうろう武家ぶけ嫡男ちゃくなん教育きょういく仕切しき女性じょせい家老がろう)として徳川とくがわつかえている[12][13][14])。

えいろく10ねん12月、氏真うじざね謙信けんしん秘密裏ひみつり同盟どうめい交渉こうしょうはじめたとされる[10]

えいろく11ねん(1568ねん)に謙信けんしんたいして、なんかの交渉こうしょう過程かていで、氏真うじざね北条ほうじょう武田たけだとの協議きょうぎ事項じこう機密きみつ事項じこう上杉うえすぎかたらしており重大じゅうだい同盟どうめい違反いはんをしている[10]同年どうねん信玄しんげんが、今川いまがわ上杉うえすぎ交渉こうしょうかんする情報じょうほうつかんでいたとされる[10]きのえ駿しゅん関係かんけい緊張きんちょう関係かんけいとなっていき、さらに武田たけだでは信玄しんげんよんなん諏訪すわ武田たけだ勝頼かつより世子せいしとなり、勝頼かつせしつ織田おだ信長のぶなが養女ようじょむか関係かんけいつようになるなど、次第しだい今川いまがわとの敵対てきたいてき姿勢しせいせるようになる。

えいろく11ねん1568ねんまつ信玄しんげん徳川とくがわ松平まつだいらあらため)と同盟どうめいし、今川いまがわ領国りょうごくへの侵攻しんこう開始かいしする(駿河するが侵攻しんこう)。武田たけだ駿河するが侵攻しんこうたいしてのち北条ほうじょう今川いまがわ加勢かせいし、これによりかぶとしょう同盟どうめい破綻はたんした。今川いまがわすうねんあいだ領国りょうごく駿河するが三河みかわ武田たけだ徳川とくがわによって東西とうざいからまたたられた[注釈ちゅうしゃく 2]えいろく11ねん(1568ねん)、遠江とおとうみてられた氏真うじざねは、最後さいご拠点きょてん掛川かけがわしろ徳川とくがわぐん石川いしかわなりわたし、掛川かけがわ城主じょうしゅ朝比奈あさひなやすしあさらととものち北条ほうじょうたよって小田原おだわら退去たいきょする。戦国せんごく大名だいみょうとしての今川いまがわおけ狭間はざまたたかいから8ねん滅亡めつぼうし、駿河するが武田たけだ領国りょうごくされる。このとき武田たけだ交戦こうせんちゅうであったのち北条ほうじょう徳川とくがわは、氏真うじざね駿河するが国主こくしゅかえくことを保証ほしょうしたが、のち北条ほうじょう武田たけだ和睦わぼくし、氏真うじざね徳川とくがわ客将かくしょうのような立場たちばとなる。その徳川とくがわも、武田たけだ滅亡めつぼうのち駿河するがりょうし、氏真うじざね駿河するが国主こくしゅ復帰ふっきさせるという約束やくそく反故ほごとなった。

江戸えど時代じだい

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かん泉寺いずみでら東京とうきょう杉並すぎなみ

今川いまがわ氏真うじざね曲折きょくせつ徳川とくがわ家康いえやす庇護ひごけるようになり、近江おうみこく野洲やすぐんげん滋賀しがけん野洲やす)に500せき知行ちぎょう安堵あんどされた。氏真うじざね嫡孫ちゃくそんちょくぼう江戸えど幕府ばくふ出仕しゅっしして高家こうかしょくおくだか)にき、秀忠ひでただ家光いえみつ家綱いえつなの3だいにわたって朝廷ちょうていとの交渉こうしょうなどに奔走ほんそうした。1645ねん正保まさやす2ねん)、京都きょうとへの使者ししゃつとめて家康いえやすへの「東照宮とうしょうぐうごう宣下せんげこうにより、家光いえみつから武蔵むさしこく多摩たまぐん井草いぐさむらげん東京とうきょう杉並すぎなみ)など500せき知行ちぎょう加増かぞうされ、いえろく都合つごう1000せきとなっている。ちょくぼう官位かんい今川いまがわ歴代れきだいもっとたかひだり近衛このえ少将しょうしょうまでのぼり、子孫しそんからは中興ちゅうこうあおがれた。

高家こうか旗本はたもととして存続そんぞくした江戸えど時代じだい今川いまがわでは、11にん当主とうしゅのうち、ちょくぼうあつしよしやすし義彰よしあきようはんじょの6にんこう家職かしょくいている。幕末ばくまつ当主とうしゅはんじょは、高家こうか出身しゅっしんしゃとして唯一ゆいいつ若年寄わかどしより就任しゅうにんし、官軍かんぐんとの講和こうわ江戸城えどじょう開城かいじょうさいして尽力じんりょくした。その朝廷ちょうてい帰順きじゅんして領地りょうち安堵あんどされ、幕臣ばくしんから朝臣あそんてんじ、ちゅう大夫たいふせきあたえられた[2]

江戸えど時代じだいにおける今川いまがわ菩提寺ぼだいじは、杉並すぎなみ今川いまがわ宝珠山ほうしゅやまかん泉寺いずみでら曹洞宗そうとうしゅう)、杉並すぎなみ和田わだまんあきらさん長延ちょうえんてら曹洞宗そうとうしゅう)である。かん泉寺いずみでらにある今川いまがわ累代るいだいはか東京とうきょう指定してい旧跡きゅうせきとなっている。なお、かん泉寺いずみでら住所じゅうしょである「今川いまがわ」は、この今川いまがわ知行ちぎょうだったことにちなんでいる。

なお、氏真うじざね次男じなん高久たかく徳川とくがわ秀忠ひでただ出仕しゅっしし、品川しながわしょうして[注釈ちゅうしゃく 3]本家ほんけとともにこうれつした。

明治めいじ以降いこう

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明治めいじ2ねん(1869ねん)12月に今川いまがわ士族しぞく編入へんにゅうされた[2]

明治めいじ17ねん(1884ねん)に施行しこうされた華族かぞくれい華族かぞく爵制になったさいさだめられた『叙爵じょしゃく内規ないき』のまえあんである『華族かぞくれいあんや『叙爵じょしゃく規則きそくあんでは元高もとだかもと交代こうたい寄合よりあいとともに男爵だんしゃくふくまれており、今川いまがわ男爵だんしゃく候補こうほとしてげられていたが、最終さいしゅうてきな『叙爵じょしゃく内規ないき』ではこう交代こうたい寄合よりあい対象たいしょうがいとなったため、結局けっきょく今川いまがわ士族しぞくのままだった[15]

1887ねん明治めいじ20ねん)の今川いまがわはんじょをもって今川いまがわ嫡流ちゃくりゅうえたが、その関口せきぐち直太郎なおたろうもと亀山かめやまはん[よう曖昧あいまい回避かいひ]京都きょうと士族しぞく)が今川いまがわ義元よしもと末裔まつえい名乗なのって叙爵じょしゃく運動うんどうおこなっている。関口せきぐち明治めいじ41ねん(1908ねん)に宮内みやうち大臣だいじん田中たなかひかりあきらへ、大正たいしょう2ねん(1913ねん)に宮内くない大臣だいじん渡辺わたなべ千秋ちあきてて2にわたって叙爵じょしゃく請願せいがんしょ提出ていしゅつしているが、いずれも許可きょかわっている[16]

系譜けいふ

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凡例はんれい
実線じっせん実子じっし点線てんせん養子ようし婚姻こんいん婚姻こんいん関係かんけい正室せいしつのみ記載きさい
1 = 宗家そうけ歴代れきだいまる数字すうじ駿河するが守護しゅご歴任れきにん、13から23は江戸えど幕府ばくふ高家こうか
ⅰ= 遠江とおとうみ今川いまがわ歴代れきだい

以前いぜん河内かわうちはじめこう参照さんしょう

 
 
 
 
源義家みなもとのよしいえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みなもと義国よしくに
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
足利あしかが義康よしやす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義兼よしかね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よし
 
北条ほうじょう時政ときまさむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉良きら長氏ながうじ
 
足利あしかがやすし
 
吉良きら義継よしつぎ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉良きらみつる
 
今川いまがわこく1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
基氏もとうじ2
 
経国けいこく
今川いまがわ関口せきぐち
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はんこく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はん
駿河するが
 
 
 
 
 
貞世さだよ
遠江とおのえ
 
けん
蒲原かんばら
 
仲秋ちゅうしゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氏家うじいえ[注釈ちゅうしゃく 4]
 
泰範やすのり
 
 
 
 
 
さだしん
 
蒲原かんばら?)よりゆきはる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上杉うえすぎちょうあらわむすめ
 
はんせい
 
 
 
 
 
さだしょう
 
蒲原かんばら氏頼うじより
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上杉うえすぎじょうむすめ
 
範忠のりただ[注釈ちゅうしゃく 5]
 
はんよりゆき
 
はんしょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊勢いせもりじょうむすめ
 
義忠よしただ
 
小鹿こじかはんみつる
 
さだのべ[注釈ちゅうしゃく 6]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中御門なかみかどせんたねむすめ
 
おや
 
 
 
 
 
瀬名せな一秀かずひで
 
堀越ほりこし貞基さだとも
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
てる
 
彦五ろう
 
げん広恵ひろえさがせ
 
武田たけだ信虎のぶとらむすめ
 
義元よしもと
 
ゆたか[注釈ちゅうしゃく 7]
 
北条ほうじょう氏康うじやすしつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北条ほうじょう氏康うじやすむすめ
 
氏真うじざね[注釈ちゅうしゃく 8]
 
武田たけだ義信よしのぶしつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国王こくおうまる[注釈ちゅうしゃく 8]
 
吉良きらよしやすむすめ
 
はん
 
 
 
 
 
品川しながわ高久たかひさ
品川しながわ
 
吉良きらよしじょうしつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょくぼう13
 
吉良きらよしわたるしつ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14[注釈ちゅうしゃく 9]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北条ほうじょうひらたむすめ
 
あつし15[注釈ちゅうしゃく 10]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はんだか16[注釈ちゅうしゃく 11]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はんぬし17[注釈ちゅうしゃく 12]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
範彦のりひこ18
 
松平まつだいら勝文かつふみ
 
よしやすし19
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義彰よしあき20
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よう21
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
じゅん22
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はんじょ23
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
淑人よしと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

戦国せんごく駿河するが今川いまがわ

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主要しゅよう家臣かしん義元よしもと氏真うじざね時代じだい

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駿河するがしゅう

主要しゅようしろ義元よしもと氏真うじざね時代じだい

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主要しゅようせん義元よしもと氏真うじざね時代じだい

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義元よしもと時代じだい
花倉はなぐららん - 河東かわとうらん - 狐橋きつねばしたたか - 三河みかわ侵攻しんこう - 田原たはらしろたたかい - 小豆あずきざかたたか - 安城あき合戦かっせん - 尾張おわり侵攻しんこう - 村木むらきとりでたたか - 三河みかわ忩劇 - おけ狭間はざまたたか
氏真うじざね時代じだい
さんしゅう錯乱さくらん - とおしゅう忩劇 - 武田たけだ信玄しんげん駿河するが侵攻しんこう - 薩埵とうげたたか - 掛川かけがわしろたたか

遠江とおとうみ今川いまがわ今川いまがわ堀越ほりこし

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肥前ひぜん今川いまがわ今川いまがわ佐賀さが

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今川いまがわ刑部おさかべ大輔だいすけ今川いまがわ関口せきぐち

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今川いまがわこく今川いまがわ経国けいこくはじまるいえ代々だいだい刑部おさかべ大輔だいすけにんじられ幕府ばくふ奉公ほうこうしゅつとめた。はししゅうにもれっせられ将軍家しょうぐんけ近侍きんじした。また三河みかわこくうちにある将軍家しょうぐんけ御領ごりょうしょ管理かんりもしていたとされる。

尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』はつぎ系図けいずかかげる。当主とうしゅおおくは彦三郎ひこさぶろう通称つうしょうとし、刑部おさかべ大輔だいすけ越後えちごもり名乗なのった。

今川いまがわこく - 経国けいこく - あらわ - けん - 満幸みつゆき - まんきょう - 教兼のりかね - せいきょう - えん

えん後継こうけい井伊谷いいのや徳政とくせいかかわった関口せきぐちけい刑部おさかべ大輔だいすけ越後えちごもり)とされる。またべつけいとして関口せきぐち刑部おさかべしょう輔家があり、けんじゅんらがられる。じゅん瀬名せなさだ次男じなん刑部おさかべしょう輔家に養子ようしはいったとされ、むすめ一人ひとり徳川とくがわ家康いえやす正室せいしつ築山殿ちくやまどのである。いみなおやながともつたわる。

今川いまがわよりゆき国家こっか

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今川いまがわはじめ長男ちょうなん今川いまがわよりゆきこくはじまるいえ。2だい今川いまがわよりゆきさだ足利尊氏あしかがたかうじしたがい、新田にった義貞よしさだこも金ヶ崎かねがさきしろとすなど活躍かつやくをし、丹後たんご但馬たじま因幡いなば守護しゅご任命にんめいされた。だがのべぶん3ねん1358ねん)を最後さいご活動かつどうえなくなった[18]

今川いまがわ那古野なごの

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代々だいだい室町むろまち幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ一番いちばんしゅぞくする今川いまがわ今川いまがわ基氏もとうじ長男ちょうなんである今川いまがわよりゆきこく北条ほうじょう名越なごしだか名越なごしだかはん養子ようしとしたことにはじまる。こうはんはは今川いまがわこくむすめであり、母方ははかた今川いまがわというえんであった。

有力ゆうりょく配下はいか

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 5兄弟きょうだいであったが、よんなん僧籍そうせき
  2. ^ 武田たけだ今川いまがわ領国りょうごくへの侵攻しんこうたいしてのち北条ほうじょう上杉うえすぎとのえつしょう同盟どうめい締結ていけつして対抗たいこうし、事態じたい上杉うえすぎ織田おだらの動向どうこうとも関係かんけいして複雑ふくざつ推移すいいする。
  3. ^ 徳川とくがわ幕府ばくふが嫡家以外いがい今川いまがわせいしょうすることをゆるさなかったため、庶流品川しながわせいしょうした。
  4. ^ 足利あしかが義詮よしあきらから正式せいしき駿河するが守護しゅごにんじられたのちくなっているため、駿河するが今川いまがわ歴代れきだいかぞえるべきとする大石おおいし泰史やすしせつがある[17]
  5. ^ はんせいおいとも。
  6. ^ さだしょうとも。
  7. ^ おや実子じっしではないとするせつもある。
  8. ^ a b 北条ほうじょう庇護ひごはいった氏真うじざねは、正室せいしつおい今川いまがわしたがえおい伯母おばみずけいいんまご)でもある北条ほうじょうこく王丸おうまる北条ほうじょう氏直うじなお)を猶子ゆうしとして駿河するが今川いまがわ当主とうしゅゆずったが、のち縁組えんぐみ解消かいしょうして氏真うじざね当主とうしゅ復帰ふっきしている。
  9. ^ 品川しながわ高久たかひさ外孫そとまご
  10. ^ 堯の従兄弟いとこ品川しながわ高久たかひさまご
  11. ^ 品川しながわ長男ちょうなん高久たかく直系ちょっけい玄孫げんそん
  12. ^ はんだか実弟じってい

出典しゅってん

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  1. ^ a b 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん今川いまがわ』 - コトバンク
  2. ^ a b c 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 127.
  3. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『今川いまがわ』 - コトバンク
  4. ^ 今川いまがわおや家督かとく相続そうぞく前後ぜんこう小鹿こじか」『戦国せんごく遺文いぶん今川いまがわへん 月報げっぽう』5ごう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2015ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ基樹もとき へん今川いまがわおやえびすひかりさち出版しゅっぱん中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいろくかん〉、2019ねん4がつ、338-341ぺーじISBN 978-4-86403-318-3 
  5. ^ 黒田くろだ基樹もとき武田たけだ信玄しんげんつま三条さんじょう殿どの東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2022ねん ISBN 978-4-490-21069-9 P50-51.
  6. ^ 平山ひらやまゆう大河たいがドラマ『真田さなだまる』でも時代じだい考証こうしょう担当たんとうされていた黒田くろだ基樹もときによりしん史料しりょう発掘はっくつされまして病死びょうしだということあきらかになりました」 NHK大河たいがドラマ「どうする家康いえやす」コラム 大河たいが歴史れきし裏話うらばなし文化ぶんかじんとしての 武田たけだ信玄しんげん今川いまがわ義元よしもとえがく』2023ねん6がつ25にち『「時代じだいけた戦国せんごく武将ぶしょうたち~武田たけだ信玄しんげんしん研究けんきゅう義信よしのぶ事件じけんかんがえる」講師こうしは、2016ねんNHK大河たいがドラマ「真田さなだまる」の時代じだい考証こうしょう担当たんとうされた駿河台大学するがだいだいがく教授きょうじゅ黒田くろだ基樹もとき先生せんせい重要じゅうよう史料しりょうによれば、義信よしのぶ病死びょうしであった。これにより事件じけん背景はいけい事件じけんへの信玄しんげん処置しょちについての理解りかいは、おおきくかんがなおさなければならない。事件じけんについてあらたな見解けんかい提示ていじし、真実しんじつせまる。』武田たけだ信玄しんげんしん研究けんきゅう【NHKカルチャーオンデマンド講座こうざ】2022ねん4がつ22にち
  7. ^ えいろく10ねんというと、甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげん嫡男ちゃくなん義信よしのぶ病死びょうししたとしでもありました。」【豊臣とよとみ秀頼ひでより出馬しゅつばしていれば家康いえやすれたかもしれない家康いえやす切腹せっぷく覚悟かくごさせた真田さなだ信繁のぶしげのツワモノぶり…大坂おおさかなつじん家康いえやす本陣ほんじんくずしたラストサムライの最期さいご】2023.12.04 濱田はまだひろし一郎いちろう
  8. ^ えいろく10ねん(1567ねん)に病死びょうし。」【徳川とくがわ家康いえやすが「武田たけだ信玄しんげん」にしんひらかなかった複雑ふくざつ事情じじょう】2023/02/26 濱田はまだひろし一郎いちろう
  9. ^ a b 大石おおいし泰史やすし今川いまがわ滅亡めつぼうKADOKAWA角川かどかわ選書せんしょ604〉、2018ねん5がつ18にち、271–272ぺーじISBN 978-4-04-703633-8
  10. ^ a b c d 平山ひらやまゆう ちょ武田たけだ信玄しんげん勝頼かつせたい北条ほうじょう外交がいこう戦略せんりゃく」、小田原おだわら観光かんこう協会きょうかい へん戦国せんごく北条ほうじょうフェスオフィシャルブック vol.1』えびすひかりさち出版しゅっぱん、2024ねん、27ぺーじ 
  11. ^ 甲斐かいこくこころざし
  12. ^ かつてのこうそう相手あいていもうと徳川とくがわ秀忠ひでただの「そだてのおや」に 家康いえやす今川いまがわたよりにしていたのか”. AERA dot. (2023ねん8がつ27にち). 2023ねん9がつ5にち閲覧えつらん
  13. ^ 信長のぶながでも秀吉ひでよしでも信玄しんげんでもない…「徳川とくがわ家康いえやすにもっとも影響えいきょうあたえた戦国せんごく大名だいみょう」の数奇すうき生涯しょうがい”. PRESIDENT Online (2023ねん5がつ4にち). 2023ねん12月14にち閲覧えつらん
  14. ^ 今川いまがわ瀬名せな
  15. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 128.
  16. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 128/392.
  17. ^ 大石おおいし泰史やすししろ政治せいじ戦略せんりゃく角川かどかわ選書せんしょ、2020ねん、34-35ぺーじ
  18. ^ 大塚おおつかいさお 2017, pp. 21–23.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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