(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小鹿範満 - Wikipedia コンテンツにスキップ

小鹿こじかはんみつる

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小鹿こじかはんみつる
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ ちょうとおる元年がんねん11月9にち1487ねん11月24にち
別名べつめい 新五郎しんごろう通称つうしょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 今川いまがわ小鹿こじか
父母ちちはは ちち小鹿こじかはんよりゆき
兄弟きょうだい はんみつるはんけい
テンプレートを表示ひょうじ

小鹿こじか はんみつる(おしか のりみつ)は、室町むろまち時代ときよ後期こうき武将ぶしょう小鹿こじかはんよりゆき(のりより)の

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ちちはんよりゆき幼名ようみょう千代ちよ秋丸あきまる)は今川いまがわだい4だい当主とうしゅであった今川いまがわはんせいであり、はんせい千代ちよ秋丸あきまる家督かとく継承けいしょうのぞんだが、あに範忠のりただ家督かとくあらそいのすえに、室町むろまち幕府ばくふ裁定さいていによって範忠のりただ家督かとく相続そうぞくした。そのため、はんよりゆき駿府すんぷ静岡しずおか郊外こうがい小鹿こじかりょうしていたことから小鹿こじかせいしょうした。

はは堀越ほりこし公方くぼう執事しつじ上杉うえすぎ政憲まさのり関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ一族いちぞく)のむすめとするせつがあるが、これははんよりゆきはははんまん祖母そぼ)が扇谷おうぎや上杉うえすぎじょう[1]姉妹しまいであったものが誤解ごかいされたためであり、当時とうじ史料しりょうはんまんははについての記録きろくはない[2]

文明ぶんめい8ねん1476ねん)、従兄じゅうけい今川いまがわだい6だい当主とうしゅ今川いまがわ義忠よしただ戦死せんししたが、義忠よしただ嫡男ちゃくなんである龍王りゅうおうまる今川いまがわおや)が幼少ようしょうだったことから、譜代ふだい家臣かしんおおくがはんまん家督かとく継承けいしょう支持しじし、龍王りゅうおうまるとそのはは北川きたがわ殿どの幕臣ばくしん伊勢いせもりじょうむすめ伊勢いせ盛時せいじ北条早雲ほうじょうそううん)のあね)は小川郷おがわごう現在げんざい焼津やいづ小川おがわ)の長谷川はせがわまさしせんほう永長ながおさしゃ)のかん小川おがわしろ)へのがれた。これにより、駿河するが国内こくないは、はんまんりゅう王丸おうまるあいだすう合戦かっせんおよ内乱ないらん状態じょうたいとなった。

この内乱ないらんに、はんまん縁者えんじゃちちはんよりゆき母方ははかた従兄弟いとこ)である扇谷おうぎや上杉うえすぎ当主とうしゅ上杉うえすぎ定正さだまさが、はんまん支援しえんするためいえおさむ太田おおた道灌どうかんへいひきいさせて駿河するがこく派遣はけんして介入かいにゅうしてきた。とおるとくらん上杉うえすぎ協力きょうりょく関係かんけいにある堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとももまた、執事しつじ上杉うえすぎ政憲まさのりへい派遣はけんしてきた。

幕府ばくふはこの事態じたいに、龍王りゅうおうまる叔父おじ伊勢いせ盛時せいじ派遣はけんした、幕府ばくふ伊勢いせ両派りょうは仲介ちゅうかいし、龍王りゅうおうまる成人せいじんするまではんまん家督かとく代行だいこうすることで和談わだん成立せいりつさせ、道灌どうかん政憲まさのり撤兵てっぺいさせた[注釈ちゅうしゃく 1]はんまん駿河するがかんはいり、龍王りゅうおうまるほうすい長者ちょうじゃかんせた。なお、盛時せいじ龍王りゅうおうまる将来しょうらい家督かとく継承けいしょう確認かくにんするため、のちにではあるがまえ将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ御内おんうちしょている。はんまん家督かとく代行だいこう実態じったいについてはよくかっておらず、史料しりょうとして確認かくにんできるはんまん活動かつどうとしては、伊東いとうゆうとお忠節ちゅうせつしょうした書状しょじょうが2つうのこっている。

ところが、龍王りゅうおうまるが15さいになり成人せいじんしてもはんまん家督かとくかえそうとはしなかったため、ちょうとおる元年がんねん1487ねん)に龍王りゅうおうまるはは北川きたがわ殿どの京都きょうとで9だい将軍しょうぐん足利あしかが義尚よしなおつかえていたおとうと盛時せいじ助力じょりょく要請ようせいした。盛時せいじふたた駿河するがくだり、同志どうしあつめ、同年どうねん11がつ9にち駿河するがかん襲撃しゅうげきした。はんまん防戦ぼうせんするが、てきわず自害じがいした。はんまんおいであるまごろうとも自害じがいしたため、小鹿こじか今川いまがわ断絶だんぜつすることになったが、元服げんぷくしておや名乗なの今川いまがわ当主とうしゅとなった龍王りゅうおうまるは、まごろうの庶弟とみられるみんしょう輔(のち安房あわもり)をてた。さらにこれを今川いまがわ一家いっか筆頭ひっとうえることで、きゅうはんまんみをはかったと推測すいそくされている[4]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

今川いまがわ』は、はんまんを「武勇ぶゆうすぐれたり」とひょうしている。

学説がくせつ[編集へんしゅう]

みんしょう輔(小鹿おしか)は「今川いまがわ」をしょうすることをとくゆるされていたが[注釈ちゅうしゃく 2]今川いまがわ範忠のりただ時代じだい室町むろまち幕府ばくふから今川いまがわ宗家そうけ以外いがいが「今川いまがわ」の名乗なのりをきんじられた(「天下てんかいち苗字みょうじ」)とされるなかで、小鹿こじかはんまんとその一族いちぞくは「まんいちさい今川いまがわ家督かとくげるいえとして宗家そうけから特別とくべつ地位ちいみとめられていた」、もしくはそもそも禁令きんれい自体じたい実際じっさい存在そんざいしたか疑問ぎもんする、など後世こうせいからは様々さまざま見解けんかいがある[5]

家永いえなが遵嗣は、はんまん家督かとく継承けいしょうぜん当主とうしゅである今川いまがわ義忠よしただ幕府ばくふへの反逆はんぎゃく行為こういとみなされる行為こうい結果けっかによるものであり、龍王りゅうおうまる追討ついとうされる可能かのうせいがあったこと(伊勢いせ盛時せいじ下向げこうも、反逆はんぎゃくしゃ家族かぞくとなった龍王りゅうおうまる幕府ばくふ保護ほごする目的もくてきがあったとされる)[7]と、太田おおた道灌どうかん支持しじによって成立せいりつしていたが、文明ぶんめい18ねん1486ねん)に道灌どうかん暗殺あんさつされたため、うしたてうしなったはんまん権力けんりょく基盤きばん弱体じゃくたいし、その情勢じょうせいまえたうえ伊勢いせ盛時せいじ駿河するが国人くにびとしゅう支持しじけ、龍王りゅうおうまる家督かとく継承けいしょう成功せいこうさせた、と論考ろんこうしている[8]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 黒田くろだ基樹もとき盛時せいじがこの家督かとくあらそいで道灌どうかんらと交渉こうしょうしたというのは後世こうせいにおける混同こんどう創作そうさくで、このときはんまん家督かとく継承けいしょうしたとしている[3]
  2. ^ えいただし10ねん(1513ねん)に駿府すんぷくだった冷泉れいせんため日記にっき今川いまがわ一家いっかひょうがあり、その筆頭ひっとうに「今川いまがわみんしょう輔」のがある[5][6]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ もちじょう政憲まさのりおなじ「治部じぶしょう輔」を名乗なのっていた。
  2. ^ 黒田くろだ 2019, p. 13, 「今川いまがわおやしん研究けんきゅう」.
  3. ^ 黒田くろだ基樹もとき伊勢いせ宗瑞そうずい誕生たんじょう」『戦国せんごく大名だいみょう伊勢いせ宗瑞そうずい』KADOKAWA〈角川かどかわ選書せんしょ〉、2019ねん 
  4. ^ 黒田くろだ 2019, pp. 22–25, 「今川いまがわおやしん研究けんきゅう」.
  5. ^ a b 遠藤えんどう英弥ひでや今川いまがわおや家督かとく相続そうぞく前後ぜんこう小鹿こじか」『戦国せんごく遺文いぶん今川いまがわへん月報げっぽう5ごう東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2015ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ 2019
  6. ^ 黒田くろだ 2019, pp. 21–22, 「今川いまがわおやしん研究けんきゅう」.
  7. ^ 家永いえなが遵嗣「伊勢いせ宗瑞そうずい北条早雲ほうじょうそううん)の出自しゅつじについて」『成蹊大学せいけいだいがく短期大学たんきだいがく紀要きよう』29ごう、1998ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ基樹もとき へん伊勢いせ宗瑞そうずい』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいいちかん〉、2013ねんISBN 978-4-86403-071-7 
  8. ^ 家永いえなが遵嗣「初代しょだい 北条早雲ほうじょうそううん」『戦国せんごくさきがけくも北条ほうじょう一族いちぞく北条ほうじょうだいひゃくねん興亡こうぼう軌跡きせき新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねん、46-47ぺーじISBN 4404033168 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 黒田くろだ基樹もとき へん今川いまがわおやえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいろくかん〉、2019ねん4がつISBN 978-4-86403-318-3