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上杉うえすぎ政憲まさのり

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上杉うえすぎ 政憲まさのり
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ ちょうとおる元年がんねん1487ねん)?
官位かんい 治部じぶしょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが政知まさとも
氏族しぞく いぬかか上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎ教朝のりとも
兄弟きょうだい 政憲まさのり一色いっしきまさし一色いっしき義直よしなお養子ようし
やしなえ兄弟きょうだいあさじょう上杉うえすぎ朝方あさがた
小鹿こじかはんよりゆきむろ小鹿こじかはんみつるはは[ちゅう 1]
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上杉うえすぎ 政憲まさのり(うえすぎ まさのり)は、室町むろまち時代ときよ後期こうき武将ぶしょう堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとも家臣かしん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

上杉うえすぎ教朝のりともとして誕生たんじょう室町むろまち幕府ばくふ8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさよりへんいみなけ、上杉うえすぎつうの「けん」とわせて政憲まさのり名乗なのる。

ちち教朝のりともは、将軍しょうぐん義政よしまさいのちにより、関東かんとう執事しつじにんじられて渋川しぶかわよしきょうとも堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとも補佐ほさにあたっていたが、ひろしただし2ねん1461ねん)、きょう讒言ざんげんにより政知まさとも扇谷おうぎや上杉うえすぎ謀反むほんしんじ、同族どうぞくである教朝のりともうたがいをかけたため自害じがいする。この事態じたい憂慮ゆうりょした義政よしまさは、政憲まさのり後任こうにん関東かんとう執事しつじとしてきょう排除はいじょ許可きょかあたえ、政知まさとものいる伊豆いずこくくだらせた。

ひろしせい3ねん1462ねん)、政憲まさのり渋川しぶかわよしきょう弾劾だんがいしてこれを退しりぞけると、関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ房顕ふさあきむすんで古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ排除はいじょ画策かくさくする。ひろしせい6ねん1465ねん)、政憲まさのり縁戚えんせきである駿河するがこく今川いまがわ一族いちぞく小鹿こじかはんみつる支援しえんけて関東かんとう出陣しゅつじん上杉うえすぎ房顕ふさあき扇谷おうぎや上杉うえすぎ太田おおた道灌どうかんとも武蔵むさしこく太田おおたしょうしげるかたたたかうが、翌年よくねん房顕ふさあき急死きゅうししたために撤退てったいした。

文明ぶんめい8ねん1476ねん)、駿河するがこく守護しゅご今川いまがわ義忠よしただ死後しご義忠よしただ嫡男ちゃくなん龍王りゅうおうまる今川いまがわおや)と小鹿こじかはんまんあいだ後継こうけいしゃめぐ内紛ないふんこる[2]小鹿こじかはんまん扇谷おうぎや上杉うえすぎ縁者えんじゃであったため、扇谷おうぎや上杉うえすぎ定正さだまさは、太田おおた道灌どうかんへい300をひきいさせて駿府すんぷおくり、家督かとくあらそいに干渉かんしょうさせた[2]。このとき政憲まさのりも、足利あしかが政知まさともいのちにより、へい300をひきいて駿府すんぷはいった[2]政憲まさのりきつねさきに、太田おおた道灌どうかん八幡山はちまんやまにそれぞれじんかまえた[2]

ここで龍王りゅうおうまる叔父おじ伊勢いせ盛時せいじ北条早雲ほうじょうそううん)がりゅう王丸おうまる小鹿こじかはんまんあいだ周旋しゅうせんした結果けっか内紛ないふんはおさまり、政憲まさのり道灌どうかんへいいた[2][ちゅう 2]

その上杉うえすぎ古河ふるかわ公方くぼうあいだ和解わかい機運きうんがると、政憲まさのりはこれをけて、政知まさとも戦闘せんとう継続けいぞく困難こんなんとなえて和議わぎれをせまり、幕府ばくふとのりまとめの交渉こうしょうにもあたった。だが、都鄙とひ和睦わぼくによって、堀越ほりこし公方くぼう支配しはいけん伊豆いずいちこく限定げんていされることになり、政知まさとも政憲まさのりふかうらんだ。そして、政知まさとも長子ちょうし茶々ちゃちゃまる廃嫡はいちゃくしようとしたさいにこれをつよいさめたのに激怒げきどし、政憲まさのり自害じがいめいじられ、切腹せっぷくしててた。

なお、政憲まさのり自害じがいした正確せいかく年次ねんじ不明ふめいであるが、経緯けいいからみて、文明ぶんめい18ねん1486ねん)7がつ太田おおた道灌どうかん主君しゅくん上杉うえすぎ定正さだまさによって殺害さつがいされ、ちょうとおる元年がんねん1487ねん)11月に小鹿こじかはんまん伊勢いせ盛時せいじによってほろぼされた時期じきあい前後ぜんごすることから、なんらかの関連かんれんせいかんがえられるといわれている[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 黒田くろだ基樹もとき小鹿こじかはんよりゆきつまはんまんはは)が上杉うえすぎ政憲まさのりむすめであるとするせつ否定ひていし、小鹿こじかはんよりゆきはは今川いまがわはんせいしつ)が政憲まさのりおな官途かんとめい扇谷おうぎや上杉うえすぎ上杉うえすぎじょう姉妹しまいであったものが後世こうせい誤伝ごでんされたものであるとする[1]
  2. ^ 黒田くろだ基樹もとき盛時せいじ今川いまがわ家督かとくあらそいに介入かいにゅうして道灌どうかん交渉こうしょうしたというのは後世こうせい混同こんどう創作そうさくであるとしている[3]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 黒田くろだ基樹もとき今川いまがわおやしん研究けんきゅう」『今川いまがわおやえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいろくかん〉、2019ねん4がつ、13ぺーじISBN 978-4-86403-318-3 
  2. ^ a b c d e 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい 1995, p. 669.
  3. ^ 黒田くろだ基樹もとき戦国せんごく大名だいみょう伊勢いせ宗瑞そうずい』〈角川かどかわ選書せんしょ〉2019ねん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 韮山にらやままち編纂へんさん委員いいんかい へん韮山にらやままちだいじゅうかん通史つうし自然しぜんはらはじめ古代こだい中世ちゅうせい》、韮山にらやままち刊行かんこう委員いいんかい、1995ねん3がつ31にちNDLJP:9541049 (よう登録とうろく)