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とおるとくらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
とおるとくらん
戦争せんそうとおるとくらん
年月日ねんがっぴとおるとく3ねん(1454ねん)‐文明ぶんめい14ねん(1482ねん
場所ばしょ関東かんとう地方ちほう
結果けっか幕府ばくふ関東かんとう公方くぼう和睦わぼく
交戦こうせん勢力せいりょく
堀越ほりこし公方くぼう
関東かんとう管領かんりょう
鎌倉かまくら公方くぼう
結城ゆうき
関東かんとう武士ぶしだん
指導しどうしゃ指揮しきかん
足利あしかが政知まさとも
上杉うえすぎ憲忠のりただ
くわしくは#堀越ほりこし公方くぼうがわ
足利あしかが成氏しげうじ
結城ゆうきしげるあさ
くわしくは#古河ふるかわ公方くぼうがわ
とおるとくらん

とおるとくらん(きょうとくのらん、とおるとく3ねん12月27にち(1455ねん1がつ15にち) - 文明ぶんめい14ねん11月27にち(1483ねん1がつ6にち))は、室町むろまち幕府ばくふ8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさときこり、28年間ねんかん断続だんぞくてきつづいた内乱ないらん[1][2]だい5だい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲忠のりただ暗殺あんさつしたことはしはっし、室町むろまち幕府ばくふ足利あしかが将軍家しょうぐんけむすんだ山内やまうち上杉うえすぎ扇谷おうぎや上杉うえすぎが、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじあらそい、関東かんとう地方ちほういちえん拡大かくだいした。

現代げんだい歴史れきし研究けんきゅうにおいて、とおるとくらんは、関東かんとう地方ちほうにおける戦国せんごく時代じだいはじまりと位置付いちづけられている[3]

前史ぜんし

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鎌倉かまくら再興さいこう問題もんだい

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かんおう擾乱じょうらんけて足利尊氏あしかがたかうじ設置せっちした鎌倉かまくらは、たかし次男じなんである基氏もとうじ子孫しそん世襲せしゅうした鎌倉かまくら公方くぼうもとはこちらを関東かんとう管領かんりょうった)を筆頭ひっとうに、上杉うえすぎ代々だいだいつとめた関東かんとう管領かんりょうもと関東かんとう執事しつじった)が補佐ほさする体制たいせいであったが、次第しだい鎌倉かまくら公方くぼう幕府ばくふ対立たいりつし、関東かんとう管領かんりょうとも対立たいりつしていた(上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんなど)。これを打開だかいするため、だい6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりは、ぜん関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲実のりざね討伐とうばつしようとぐんこしただい4だい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじを、ぎゃく憲実のりざねともほろぼした(えいとおるらん)。

その義教よしのり実子じっしつぎ鎌倉かまくら公方くぼうとして下向げこうさせようとすると、結城ゆうき氏朝うじともなどがもち遺児いじ春王丸はるおうまる安王丸やすおうまるほうじて挙兵きょへいする結城ゆうき合戦かっせんこるが、これも鎮圧ちんあつされ、関東かんとう幕府ばくふつよ影響えいきょうした上杉うえすぎ専制せんせい統治とうちがなされた。

しかし、嘉吉よしきちらんにより将軍しょうぐん義教よしのり赤松あかまつ満祐みつすけ殺害さつがいされると、幕府ばくふ関東かんとう地方ちほう安定あんていはかるため、上杉うえすぎ専制せんせい対抗たいこうして鎌倉かまくら再興さいこうねがていた越後えちご守護しゅご上杉うえすぎぼうあさ関東かんとう地方ちほう武士ぶしだん要求ようきゅうこたえ、持氏もちうじ永寿えいじゅ王丸おうまる足利あしかが成氏しげうじ)をてることをゆるし、ここに鎌倉かまくら再興さいこうされた[2]

足利あしかがしげる上杉うえすぎ憲忠のりただ対立たいりつ

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再興さいこう鎌倉かまくらでは、持氏もちうじほろぼされる原因げんいんとなった憲実のりざね息子むすこである上杉うえすぎ憲忠のりただちち反対はんたい関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにんし、しげる補佐ほさはじめたが、しげるもちであった結城ゆうき里見さとみ小田おだひとし重用じゅうようし、上杉うえすぎとおざけはじめた。当然とうぜん憲忠のりただかれしげるはん上杉うえすぎ)に反発はんぱつした。

関東かんとう管領かんりょうつとめた山内やまうち上杉うえすぎいえおさむである長尾ながお景仲かげなか扇谷おうぎや上杉うえすぎいえおさむ太田おおた資清すけきよ太田おおた道灌どうかんちち)らは、結城ゆうきとう進出しんしゅつ阻止そしするため、たからいさお2ねん1450ねん)にしげるめた(江ノ島えのしま合戦かっせん)。この合戦かっせんもなく和議わぎ成立せいりつしたが、これにより鎌倉かまくら公方くぼう上杉うえすぎとの対立たいりつ容易ようい解消かいしょうない状態じょうたいとなった。鎌倉かまくらしていた憲忠のりただもなくゆるされ鎌倉かまくらもどったが、しげるにより景仲かげなかかた武士ぶし所領しょりょう没収ぼっしゅうされたことを契機けいきに、しげる景仲かげなか憲忠のりただ家臣かしんだんとの対立たいりつ所領しょりょう問題もんだい発展はってんしたとされている。

経過けいか

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前期ぜんき(1455ねん - 1458ねん

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とおるとく3ねん12月27にち(1455ねん1がつ15にち)、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじは、長尾ながお景仲かげなか鎌倉かまくら不在ふざいすき関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲忠のりただ謀殺ぼうさつ里見さとみ武田たけだとう成氏しげうじ側近そっきん長尾ながお実景じっけいけんけい父子ふし殺害さつがいした。在京ざいきょうしていた憲忠のりただおとうと上杉うえすぎ房顕ふさあきあにのちいで関東かんとう管領かんりょう就任しゅうにん従弟じゅうてい越後えちご守護しゅご上杉うえすぎぼうじょうぼうあさ従弟じゅうてい養子ようし)と合流ごうりゅうして上野うえの平井ひらいしろり、「とおるとくらん」が勃発ぼっぱつした。

景仲かげなからはただちにへいあつめたものの、越後えちごぐん関東かんとう下向げこうまえ武蔵むさし分倍河原ぶばいがわらたたかしげるぐんまえ大敗たいはいきっして武蔵むさしわれ常陸ひたち小栗ささぐりじょう逃走とうそうしたが、事前じぜん憲忠のりただ謀殺ぼうさつ幕府ばくふほうじ、しげる征討せいとう要請ようせいしていた。しげる討伐とうばつ決定けっていした幕府ばくふ駿河するが守護しゅご今川いまがわ範忠のりただ出陣しゅつじんめいじたがわず、小栗ささぐりじょうしげるによりとされた。しげる宇都宮うつのみやひとしつなくだすなど各地かくち転戦てんせんしていたが、北関東きたかんとう上杉うえすぎかた攻略こうりゃく手間取てまどっているあいだ留守るすにしていた本拠地ほんきょち鎌倉かまくら今川いまがわ範忠のりただにより占拠せんきょされ、鎌倉かまくら勝長かつなが寿ひさしいんにいたしげる兄弟きょうだいであるなりじゅん日光にっこうさんに奔って上杉うえすぎかたつうじた。このため、しげる鎌倉かまくらもどるのを断念だんねんして下総しもうさ古河ふるかわはいった。以後いごしげる古河ふるかわしろ本拠地ほんきょちとし、古河ふるかわ公方くぼうばれた。

この戦乱せんらん各地かくち波紋はもんひろげた。このとし康正こうせい元年がんねん)、千葉ちばではしげるつうじた分家ぶんけうまかんたね重臣じゅうしんはらたねぼう挙兵きょへいして本家ほんけ千葉ちばたねじきたねせん父子ふしたおして家督かとくうばっている。このとき千葉ちば援軍えんぐんけつけただいじょうよりゆきみき自害じがいしている。よく康正こうせい2ねん1456ねん)には上杉うえすぎ宇都宮うつのみやひとしつなしげる居城きょじょう宇都うと宮城みやぎ包囲ほういされ、しげる寝返ねがえった重臣じゅうしんたち追放ついほうされ流浪るろう息子むすこあかりつな降伏ごうぶくしてしげるしたがった。同年どうねん関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ房顕ふさあき南下なんか武蔵むさしはいしげる交戦こうせんつづけた。

一連いちれんたたかいの結果けっか関東かんとう地方ちほう当時とうじ江戸えどわんかってながれていた利根川とねがわ境界きょうかい東側ひがしがわ古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ陣営じんえいが、西側にしがわ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ陣営じんえい支配しはいすることとなり、関東かんとう地方ちほう事実じじつじょう東西とうざい分断ぶんだんされることになる(上杉うえすぎ領国りょうごくだった上総かずさ安房あわしげる武田たけだ信長のぶなが里見さとみ義実よしざねめられ、占領せんりょうされた)。

中期ちゅうき(1458ねん - 1476ねん

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長禄ちょうろく元年がんねん1457ねん)12月、将軍しょうぐん義政よしまさしげるへの対抗たいこうさくとして、還俗げんぞくさせた異母いぼけい政知まさとも正式せいしき鎌倉かまくら公方くぼうとして、関東かんとうかわせた。政知まさとも近江おうみ園城寺おんじょうじ一旦いったんまり、よく長禄ちょうろく2ねん1458ねん)5がつ25にち(6がつ8にちとも)にせいわたされ、関東かんとう出発しゅっぱつした[4]政知まさとも伊豆いず到着とうちゃくしたのは、5月25にち以降いこうから8がつ13にちまでのあいだかんがえられている[4]

政知まさともには山内やまうち上杉うえすぎほか渋川しぶかわよしきょう上杉うえすぎ教朝のりともなどが配下はいかとしてけられていたが、実権じっけんすべ幕府ばくふにぎられており、関東かんとう地方ちほう在住ざいじゅう武士ぶしたちの支持しじ協力きょうりょくことができなかった。そのため、鎌倉かまくらはいることが出来できず、手前てまえ伊豆いず堀越ほりこしはいり、堀越ほりこし公方くぼうしょうした。

義政よしまさつづいて征討せいとうぐん派遣はけんするも、任務にんむいて自分じぶん領国りょうごく越前えちぜん出兵しゅっぺいした(長禄ちょうろく合戦かっせん参照さんしょうそう大将たいしょう斯波しば義敏よしとし追放ついほうすることになり、征討せいとうどころではなくなってしまった。

一方いっぽう房顕ふさあき長禄ちょうろく3ねん1459ねん)、太田おおたしょうたたかにおいて大敗たいはいきっした。以後いごりょう陣営じんえい付近ふきん五十子いかごじんはさんで長期ちょうきにわたってにらった(じゅうたたか)。房顕ふさあきひろしただし7ねん1466ねん)にじゅうやまいたおれて陣没じんぼつ。これにたいして幕府ばくふ上杉うえすぎぼうじょう房顕ふさあき養子ようしとしてのちがせるようにめいじた。これをけてぼうじょう次男じなん上杉うえすぎ顕定あきさだ後継こうけいしゃとなった。

だが、ひろしせい2ねん1461ねん)に、足利あしかが政知まさとも下向げこう幕府ばくふ上杉うえすぎがわ寝返ねがえったばかりの岩松いわまつ持国もちくに次郎じろう父子ふし一貫いっかんして幕府ばくふがわであった従兄じゅうけい岩松いわまつじゅん謀殺ぼうさつされ、ひろしせい6ねん1465ねん)には長尾ながおけいじん房顕ふさあき推挙すいきょけて幕府ばくふから足利あしかが発祥はっしょう下野げや足利あしかがしょう代官だいかんしょく補任ほにんされ、翌年よくねんあきけいじんどうしょうすすむのうじょう入部にゅうぶして下野げや上杉うえすぎかた拠点きょてんきずいた。応仁おうにん2ねん1468ねん)、上野うえの綱取つなとりげん合戦かっせん勃発ぼっぱつ上杉うえすぎぐん勝利しょうりして、文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)にしげるについた持国もちくに次男じなんなりけん上杉うえすぎかたいえじゅん追放ついほうされ、岩松いわまついえじゅん統一とういつするひとし徐々じょじょ上杉うえすぎがわ反撃はんげきってた。

文明ぶんめい3ねん1471ねん)、しげるかた千葉ちば小山こやま結城ゆうきらが伊豆いず侵攻しんこうし、政知まさとも三島みしま敗退はいたいした。顕定あきさだ上杉うえすぎかたしげるかた主力しゅりょく伊豆いず出陣しゅつじんしている留守るすねらい、古河ふるかわ出陣しゅつじん小山こやませい離反りはんさせて下野げや国内こくないしょしろくだした。だが、翌年よくねんにはしげる古河ふるかわしろ奪還だっかんして勢力せいりょくかえしにた。

このあいだしげる幕府ばくふ主導しゅどう改元かいげんしたがわず、「とおるとく」の年号ねんごう使つかつづけた。

後期こうき(1476ねん - 1483ねん

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文明ぶんめい8ねん1476ねん)、上杉うえすぎ有力ゆうりょく家臣かしん長尾ながお景春かげはる関東かんとう管領かんりょう執事しつじいえおさむいえつとむ)になれなかった不満ふまんのため、鉢形はちがたじょうにて挙兵きょへいし、文明ぶんめい9ねん1がつ1477ねん2がつ)にはじゅう陥落かんらくさせた(長尾ながお景春かげはるらん)。危機ききかんいた顕定あきさだは、文明ぶんめい10ねん1478ねん)1がつ4にちしげる和睦わぼく成立せいりつさせた(このとし最後さいごしげるがわ文書ぶんしょから「とおるとく」の元号げんごうえることになる)。そして、なお反抗はんこうをつづける千葉ちばたかしたねさかい根原ねばら合戦かっせんやぶった。

文明ぶんめい12ねん1480ねん)3がつ細川ほそかわまさしもと和睦わぼく提起ていきし、文明ぶんめい14ねん11月27にち(1483ねん1がつ6にち)にいたり、ようやく幕府ばくふしげるとの和睦わぼく成立せいりつした(都鄙とひ和睦わぼく、または都鄙とひ合体がったい)。これによって、しげる関東かんとうつづ統治とうちする一方いっぽうで、伊豆いず支配しはいけんについては政知まさともゆずることになった。

しげるによるはん幕府ばくふてき行動こうどう停止ていしされたが、配下はいかしょしょうおお古河ふるかわしげると、幕府ばくふ公認こうにん公方くぼうとして権限けんげんちながら関東かんとうれない堀越ほりこし政知まさとも2人ふたり公方くぼう並存へいそんする状態じょうたい依然いぜんとしてつづくこととなった。

応仁おうにんらんへの影響えいきょう

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将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ関東かんとう管領かんりょうがわってしばしば介入かいにゅうしたにもかかわらず、とおるとくらんは28ねんおよび、このあいだ応仁おうにんらんはじまりかつ終了しゅうりょうしている。とおるとくらん応仁おうにんらん波及はきゅうした、すくなくともとおるとくらんおさめられなかった将軍しょうぐんおよ管領かんりょう細川ほそかわ勝元かつもとたいする不満ふまん応仁おうにんらん遠因えんいんひとつとなったとされる[5]

一方いっぽう足利あしかがしげる山名やまな宗全そうぜん畠山はたけやま義就よしなり西にしぐんしょしょう足利あしかが義視よしみ擁立ようりつして所謂いわゆる西にし幕府ばくふ」をてると、西にしぐんがわ勝利しょうり期待きたいして西にし幕府ばくふとの和睦わぼく交渉こうしょううごいている。しかし、戦況せんきょう次第しだいひがしぐん優勢ゆうせいとなり、最終さいしゅうてき応仁おうにんらんひがしぐん勝利しょうりわったためにしげるてははずれることになる。しかし、った幕府ばくふひがしぐんがわ西にしぐんしょしょう行動こうどうしげるとの交渉こうしょうふくめて)の責任せきにんわないことにしたうえに、ながすぎた空白くうはくあいだ発生はっせいした上杉うえすぎ内紛ないふんによって関東かんとうへの介入かいにゅう再開さいかいできる状況じょうきょうではなくなっており、しげるとの和睦わぼく交渉こうしょうおうじる背景はいけいになったとかんがえられている[6]

参戦さんせん武将ぶしょう

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古河ふるかわ公方くぼうがわ

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堀越ほりこし公方くぼうがわ

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幕府ばくふ奥州おうしゅう探題たんだい大崎おおさき教兼のりかね結城ゆうきただしあさ小笠原おがさわら光康みつやすにも出陣しゅつじん要請ようせいをしたが、奥羽おうう国人くにびとたがいにこうそうかえしており、大崎おおさき結城ゆうき2人ふたりもそれにまれていて出陣しゅつじんすることはなかった。小笠原おがさわら一族いちぞく内訌ないこうまれて同様どうようであった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ とおるとくらん コトバンク 百科ひゃっか事典じてんマイペディア(2020ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ a b とおるとくらん コトバンク 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん(2020ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ 久保くぼ健一郎けんいちろう 2020.
  4. ^ a b 石田いしだ 2008, p. 145.
  5. ^ 峰岸みねぎし純夫すみお 2017, p. 107.
  6. ^ 家永いえなが遵嗣「応仁おうにんねんの「都鄙とひ合体がったい」について」『日本にっぽん研究けんきゅう』581ごう、2011ねん /所収しょしゅう:長塚ながつかたかし へん足利あしかが成氏しげうじ』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいさんさんかん〉、2022ねん、189-211ぺーじISBN 978-4-86403-421-0 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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