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千葉ちばみのるたね

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千葉ちばみのるたね
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん 嘉吉よしきち2ねん1442ねん
別名べつめい 七郎しちろう通称つうしょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義政よしまさ
氏族しぞく 武蔵むさし千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばたねけん
兄弟きょうだい じつたねたね
つま 正室せいしつ上杉うえすぎ顕房あきふさむすめ
まもりたねもりたね)?
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千葉ちば みのるたね(ちば さねたね)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょう武蔵むさし千葉ちばだい2だい当主とうしゅちち武蔵むさし千葉ちば初代しょだい当主とうしゅ千葉ちばたねけん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

康正こうせい元年がんねん1455ねん)、上杉うえすぎ古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ対立たいりつしてとおるとくらん発生はっせい千葉ちば上杉うえすぎくみしたが、しげる重臣じゅうしんはらたねぼう同族どうぞくうまかんたね千葉城ちばじょう急襲きゅうしゅうされ、千田せんだそうのが援軍えんぐんった伯父おじ千葉ちばたねじき従兄じゅうけいたねせん父子ふしげんたねぼうらに古城こじょう志摩しまじょうめられ落城らくじょう自刃じじんした。しかしじつたねおとうとたねちちたねけんれられ志摩しまじょう脱出だっしゅつちち9月7にち小堤こづつみしろ自刃じじんしててたが、じつたねらは八幡やはたそう市河いちかわじょう現在げんざい市川いちかわ市川いちかわ)へのがれた。 室町むろまち幕府ばくふ8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ派遣はけんした同族どうぞく奉公ほうこうしゅ東常縁とうのじょうえん支援しえんはあったが、しげる派遣はけんしたやなすけやぶれ、康正こうせい2ねん1456ねん1がつ19にち市河いちかわしろ陥落かんらくじつたねらは武蔵むさしへ、つねえん東庄とうのしょうちか下総しもうさ匝瑳そうさぐんへとのがれた。

その体制たいせいなおしたつねえんは、2がつ7にちろう尾神おかみしゃ戦勝せんしょう祈願きがんをしたのちうまじょう現在げんざい千葉ちば花見川はなみがわ幕張まくはりまち)をとし、6月12にちうまかんたねたねを、11月1にちには上総かずさ八幡はちまん現在げんざい市原いちはら八幡やはた)の村田川むらたがわにまでのがれたかんたね11月24にちげんたねぼう追放ついほううまほろぼした。さらに康正こうせい3ねん1457ねん)4がつにはじつたねらの外戚がいせきである扇谷おうぎや上杉うえすぎいえおさむ太田おおた道灌どうかん江戸城えどじょう築城ちくじょうするとう古河ふるかわ公方くぼうがわ圧力あつりょくをかけつづけた。しかし、分家ぶんけしるし東庄とうのしょう岩橋いわせむら現在げんざい酒々井しすいまち岩橋いわはし)の領主りょうしゅ岩橋いわはし輔胤ひとし本佐倉もとさくらじょう築城ちくじょうするなどし反抗はんこうつづけた。

そのため武蔵むさしのがれたじつたねらの下総しもふさへの帰還きかんかなわず、じつたねひろしただし3ねん1462ねん)に隠遁いんとんしたとつたえられる。一説いっせつによれば病弱びょうじゃくであったともわれているが、近年きんねんでは堀越ほりこし公方くぼう足利あしかが政知まさとも側近そっきん渋川しぶかわよしきょうによる讒言ざんげんによる失脚しっきゃく三浦みうらだか大森おおもり氏頼うじよりじつよりゆき父子ふしきょう讒言ざんげんされたとも)とするせつもある。

おとうとたねこういだが、東常縁とうのじょうえん応仁おうにんらん本拠地ほんきょち美濃みの所領しょりょう横領おうりょうされたため帰京ききょう岩橋いわはし輔胤の息子むすこ下総しもうさ千葉ちば当主とうしゅとなった千葉ちばたかしたね支配しはいくずせず、文明ぶんめい14ねん11月27にち1483ねん1がつ6にち)にしげる上杉うえすぎ和睦わぼく成立せいりつして千葉ちばしげるがわこうたね下総しもうさ支配しはい確定かくていたね帰還きかん実現じつげんせず、子孫しそん武蔵むさし国人くにびと転落てんらくした。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]