(Translated by https://www.hiragana.jp/)
千葉兼胤 - Wikipedia コンテンツにスキップ

千葉ちば兼胤かねたね

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
千葉ちば兼胤かねたね
時代じだい 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん もとなか9ねん/明徳めいとく3ねん7がつ21にち1392ねん8がつ10日とおか
死没しぼつ えいとおる2ねん6月17にち1430ねん7がつ7にち
別名べつめい 千葉ちばかい
官位かんい 修理しゅうり大夫たいふ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばみつるたね
兄弟きょうだい 兼胤かねたねうまかんたね
つま 上杉うえすぎ氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう)のむすめ
たねじきたねけん
テンプレートを表示ひょうじ

千葉ちば 兼胤かねたね(ちば かねたね)は、室町むろまち時代ときよ前期ぜんき武将ぶしょう千葉ちばだい15だい当主とうしゅだい14だい当主とうしゅ千葉ちばみつるたねつま上杉うえすぎ氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう)のむすめ

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ちちまんたねとともに鎌倉かまくらつかえ、元服げんぷくときだい3だい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが満兼みつかねよりへんいみな(「けん」の)をたまわって兼胤かねたね名乗なのる。満兼みつかねのもとで、鎌倉かまくらさむらいしょ役人やくにんつとめた。

おうひさし16ねん1409ねん)に満兼みつかね死去しきょしたとき、それにじょうじて親戚しんせき関係かんけいにある新田にった貞方さだかた新田にったさだくに父子ふし[1]による謀反むほんきたが、これを事前じぜん鎮圧ちんあつするという武功ぶこうげた。同年どうねんだい4だい鎌倉かまくら公方くぼう就任しゅうにんした満兼みつかね嫡男ちゃくなん足利あしかが持氏もちうじつづつかえることとなる。

おうなが23ねん1416ねん)、しゅうともと関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ氏憲うじのり禅秀ぜんしゅう)が反乱はんらんこすと(上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらん)、これにくみしてちちとも主君しゅくん持氏もちうじ追放ついほう一役ひとやくった。しかし翌年よくねん幕府ばくふぐん反攻はんこうけて禅秀ぜんしゅう自害じがいすると、ちちとも幕府ばくふぐん降伏ごうぶくした。おうなが33ねん1426ねん)、ちちにより家督かとくいだといわれているが、降伏ごうぶくちち処罰しょばつとして隠居いんきょさせられているにひとしい状況じょうきょうだったので、おそらくはこの前後ぜんごいだとおもわれる[2]

えいとおる2ねん(1430ねん)6がつ17にち、39さい死去しきょし、あと長男ちょうなんたねじきいだ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ けんたね祖母そぼ新田にった義貞よしさだむすめである関係かんけいで、貞方さだかたちちまんたね従兄弟いとこさだくに兼胤かねたねがはとこの関係かんけいにある。
  2. ^ だい慈恩寺じおんじ寺領じりょう安堵あんどおうなが33ねんっている。『史料しりょう総覧そうらんだい7へん907さつ528ぺーじ。「だい慈恩寺じおんじ文書ぶんしょ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]