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千葉ちば輔胤

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千葉ちば輔胤
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき戦国せんごく時代じだい初期しょき
生誕せいたん おうひさし28ねん6月7にち1421ねん7がつ6にち
死没しぼつ 延徳えんとく4ねん2がつ15にち1492ねん3月13にち
別名べつめい 岩橋いわはし輔胤、千葉ちばかい異説いせつあり)
官位かんい したがえ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 下総しもうさ馬場ばば岩橋いわはし千葉ちば
父母ちちはは 馬場ばばたね?
うまかんたね異説いせつあり)
こうたね椎崎しいざきたねただし
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千葉ちば 輔胤(ちば すけたね / 岩橋いわはし 輔胤、いわはし - )は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきから戦国せんごく時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう千葉ちばだい21だい当主とうしゅ

系譜けいふ

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千葉大ちばだい系図けいず』によれば、だい19だい当主とうしゅ千葉ちばやすしたねうまかんたね)の庶子しょしとされ、はじめは所領しょりょうのあった印旛いんばぐんしるし東庄とうのしょう岩橋いわせむら現在げんざい千葉ちばけん印旛いんばぐん酒々井しすいまち岩橋いわはし)より、「岩橋いわはし名乗なのったとされる。

ところが、『せんがくしゅうしょう』によれば、千葉ちばの庶流である馬場ばばたね三男さんなんで、だい13だい当主とうしゅ千葉ちばたね曾孫そうそんにあたるとされている。下総しもうさ馬場ばばたね馬場ばば重胤しげたねはじまる印旛いんばぐん馬場うまばむら現在げんざい成田なりた付近ふきん)を拠点きょてんとした千葉ちば一族いちぞくで、輔胤の所領しょりょうである岩橋いわはし下総しもうさ馬場ばば一族いちぞく拠点きょてんの1つであったという。

せんがくしゅうしょう』による系図けいず千葉ちばたね馬場ばば重胤しげたね馬場ばばたね岩橋いわはし千葉ちば)輔胤

輔胤の時代じだい千葉ちば周辺しゅうへん状況じょうきょうについて詳細しょうさい史料しりょう存在そんざいしないため、輔胤の実像じつぞうについては様々さまざませつがある(千葉ちばせい名乗なのったかどうか、佐倉さくらじょうへの移転いてん時期じきがいつかなど)。

千葉ちば当主とうしゅせつ

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ちちかんたねは、とおるとくらん関東かんとう混乱こんらんするなか1455ねん当時とうじ千葉ちば正統せいとうである千葉ちばたねじき父子ふし殺害さつがいし、みずかせんよう当主とうしゅ僭称せんしょうしたが、幕府ばくふ追討ついとうされる立場たちばとなる。1457ねんちちとするかんたね兄弟きょうだいとする千葉ちばたねだい20だい当主とうしゅ)が戦死せんししたため、輔胤がそのいで当主とうしゅとなる。

馬場ばばたねとするせつった場合ばあいには、たね戦死せんしあるいはその4かげつかんたね戦死せんしによってかんたね系統けいとうえたのち後継こうけいむかえられたことになる(かんたね養子ようし関係かんけいむすんでいたかどうかは不明ふめい)。

ところが同年どうねん東常縁とうのじょうえん攻撃こうげきけて居城きょじょう千葉城ちばじょう)からわれ、佐倉さくらのがれ、そこを拠点きょてんとした。

1471ねん上杉うえすぎ顕定あきさだわれた古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ庇護ひごし、翌年よくねんにはしげる古河ふるかわ帰還きかんさせた。1478ねん長尾ながお景春かげはるらん勃発ぼっぱつすると、千葉ちばたかしたね派遣はけんして、上杉うえすぎ反抗はんこうする景春かげはるたすけた。1492ねん死去しきょし、あとこうたねいだ。

千葉ちば当主とうしゅせつ

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それ以前いぜん居城きょじょうについてはさだかではないが、とおるとくらんじょうせんよう宗家そうけほろぼしたはらたねぼうが、東常縁とうのじょうえんわれ逐電ちくでんしたのち文明ぶんめい年間ねんかん1469ねん - 1486ねん)に本佐倉もとさくらじょう現在げんざい酒々井しすいまち本佐倉もとさくら)を築城ちくじょうしたとつたえられている。

こうたねだい重臣じゅうしんだん後押あとおしをけて千葉ちば当主とうしゅ自称じしょうして以降いこう、輔胤の系統けいとう下総しもうさ千葉ちば当主とうしゅとなるが、輔胤自身じしん岩橋いわはしせいのままであった。

外部がいぶリンク

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