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千葉ちばたねけん

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千葉ちばたねけん
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 康正こうせい元年がんねん9月7にち1455ねん10月17にち
別名べつめい りょうこころ月山がっさん法名ほうみょう
官位かんい 中務なかつかさ大輔だいすけ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 足利あしかが義政よしまさ
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちば兼胤かねたねはは上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうむすめ
兄弟きょうだい たねじきたねけん
じつたねたね
テンプレートを表示ひょうじ

千葉ちば たねけん(ちば たねかた)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょう武蔵むさし千葉ちば初代しょだい当主とうしゅ千葉ちばだい15だい当主とうしゅ千葉ちば兼胤かねたね次男じなん

生涯しょうがい

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とおるとく3ねん12月27にち1455ねん1がつ15にち)、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲忠のりただ暗殺あんさつしたことからとおるとくらんきると、あにたねじきともしげる討伐とうばつ参加さんかしたことから8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさから激賞げきしょうされた。だが、これに不満ふまんいだ重臣じゅうしんはらたねぼう千葉城ちばじょう急襲きゅうしゅうされ、たねけんあにおいたねせんとも千田せんだそう現在げんざい多古たこまち)にのがれた。

そしてたねひたたねけん志摩しまじょうに、たねせん古城こじょうこも援軍えんぐんったが、康正こうせい元年がんねん(1455ねん8がつ12にちはらたねぼう加担かたんした叔父おじうまかんたね攻撃こうげきれず古城こじょう陥落かんらくたねせんしろちかくの阿弥陀堂あみだどう自殺じさつたねぼうめられていた志摩しまじょうたねじき8がつ15にち東禅寺とうぜんじはし自殺じさつした。たねけん2人ふたり息子むすこじつたねたねれてしろ脱出だっしゅつみなみ小堤こづつみしろ現在げんざい横芝よこしばひかりまち小堤こづつみ)にはいったが9がつ7にち小堤こづつみじょう陥落かんらくたねけん自殺じさつした。2人ふたり息子むすこ八幡やはたそう現在げんざい市川いちかわ)にのがれた。

そのじつたねたね市河いちかわしろ現在げんざい市川いちかわ市川いちかわ)にはいり、市河いちかわじょうへは将軍しょうぐん義政よしまさによって派遣はけんされた東常縁とうのじょうえん合流ごうりゅうしたが、古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがしげる派遣はけんしたやなすけらにやぶれ、康正こうせい2ねん1456ねん)1がつ19にち市河いちかわしろ陥落かんらくしさらに武蔵むさしまでちのびることとなった。以後いご2にん扇谷おうぎや上杉うえすぎ保護ほごけてうまかんたねはらたねぼうらに対抗たいこうしていった。

外部がいぶリンク

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