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千葉ちば胤綱たねつな

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千葉ちば胤綱たねつな
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん たてひさ9ねん10月5にち1198ねん11月5にち)?またはうけたまわもと2ねん10月5にち1208ねん11月14にち)?
死没しぼつ 安貞やすさだ2ねん5月28にち1228ねん7がつ1にち
別名べつめい 千葉ちばかい通称つうしょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 源実朝みなもとのさねとも藤原ふじわらよりゆきけい
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばしげるたね
兄弟きょうだい 胤綱たねつなどきたね?、たいたね?
どきたね?、たいたね?
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千葉ちば 胤綱たねつな(ちば たねつな)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん千葉ちばだい6だい当主とうしゅだい5だい当主とうしゅ千葉ちばしげるたね鎌倉かまくらあまなわ本拠地ほんきょちいた[1]

略歴りゃくれき

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たてたもつ6ねん1218ねん)、ちちあといで当主とうしゅとなる。うけたまわひさし元年がんねん1219ねん)7がつよんだい将軍しょうぐんとしてむかえられた藤原ふじわらよりゆきけい鎌倉かまくら下向げこう供奉ぐぶ

うけたまわひさし3ねん1221ねん)の承久じょうきゅうらんでは北条ほうじょうやすしときとも東海道とうかいどう西にしじょうし、こうげた。戦後せんご上皇じょうこう加担かたんした坊門ぼうもん忠信ちゅうしん身柄みがらあずかり、途中とちゅうまで連行れんこうしている。なお、忠信ちゅうしん途中とちゅう身柄みがら釈放しゃくほうされている[1]

安貞やすさだ2ねん1228ねん)5がつ28にち、21さい死去しきょし、あとおとうと千葉ちばたねまましいだとされている(『吾妻あづまきょう』・『千葉大ちばだい系図けいず』)。

ただし、本土ほんどてら過去かこちょうせられている「千葉ちばかいだい先祖せんぞ次第しだい」には、「だいよん 胤綱たねつな 卅いちさい安貞やすさだねんつちのえうまがつ廿にじゅうはちにち」としるされており、また九州きゅうしゅう千葉ちば子孫しそんつたえられた『ひら朝臣あそんとくしま系図けいず』も享年きょうねんを31さいとする[2]さら承久じょうきゅうらんで14さい若武者わかむしゃ一軍いちぐんひきいるという年齢ねんれいてき問題もんだいもあることから、享年きょうねん31を採用さいようしてたてひさ9ねん1198ねんまれとし、『千葉大ちばだい系図けいず』ではなりたね胤綱たねつなおとうと)とされているときたねたいたね兄弟きょうだい胤綱たねつな実子じっしとするせつ[2][3]もある。

逸話いつわ

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古今ここん著聞ちょぶんしゅう』によると、としわか胤綱たねつな将軍しょうぐん御所ごしょさむらいあいだで、当時とうじ権勢けんせいるっていた重鎮じゅうちん三浦みうらよしむら上座かみざすわり、よしむらが「下総しもうさいぬ臥所ふしどらぬぞとよ」と皮肉ひにくると、胤綱たねつなは「三浦みうらいぬともをくらふ也」とかえし、和田わだ合戦かっせんでのむら裏切うらぎりを批判ひはんしたという[4][5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん 
  2. ^ a b 丸井まるいたかし千葉ちば妙見みょうけん信仰しんこう岩田いわた書院しょいん、2013ねん、33ぺーじISBN 9784872947946 
  3. ^ 千葉ちばけん史料しりょう研究けんきゅう財団ざいだん へん千葉ちばけん歴史れきし 通史つうしへん 中世ちゅうせい千葉ちばけん、2007ねん、130-133ぺーじ 
  4. ^ 佐藤さとう和彦かずひこ; 谷口たにぐちさかえ へん吾妻あづまきょう事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2007ねん、255ぺーじISBN 978-4-490-10723-4 
  5. ^ 塚本つかもと哲三てつぞう へん古今ここん著聞ちょぶんしゅう有朋ありともどう、1926ねん、464ぺーじ オープンアクセスNDLJP:1018126/240