(Translated by https://www.hiragana.jp/)
千葉邦胤 - Wikipedia コンテンツにスキップ

千葉ちばくにたね

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
千葉ちばくにたね
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 弘治こうじ3ねん3月22にち1557ねん4がつ21にち
死没しぼつ 天正てんしょう13ねん5月7にち1585ねん6月4にち
別名べつめい 千葉ちばかい
官位かんい 中務なかつかさ大輔だいすけ
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばたねとみ はは海上かいじょう山城やましろまもるむすめ
兄弟きょうだい りょうたねくにたね
つま 正室せいしつ北条ほうじょう氏直うじなお養女ようじょ北条ほうじょう氏政うじまさむすめ氏直うじなおいもうと
継室けいしつ岩松いわまつ守純もりずみむすめ
千葉ちばただしじゅうしつ重胤しげたね
テンプレートを表示ひょうじ

千葉ちば くにたね(ちば くにたね)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう千葉ちばだい29だい当主とうしゅだい27だい当主とうしゅ千葉ちばたねとみ次男じなん三男さんなんとも)。ほう阿弥あみ[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

あに先代せんだい当主とうしゅ千葉ちばりょうたねはんこう北条ほうじょう姿勢しせいせたため、家臣かしんによって追放ついほうされたことをけて家督かとくいだ。1571ねんもとかめ2ねん)11月もち里見さとみ義弘よしひろ圧迫あっぱくけるために佐倉さくら妙見みょうけんみやにおいて元服げんぷくおこなわれた(『せんがくしゅうしょう』)。1582ねん天正てんしょう10ねん)に織田おだ信長のぶなが重臣じゅうしん滝川たきがわ一益かずます関東かんとう進出しんしゅつしてくにたねにも信長のぶながへの使者ししゃ派遣はけんうなが使者ししゃおくられたさいには拒絶きょぜつしている。 北条ほうじょう婚姻こんいんむすぶと、北条ほうじょうもとめにおうじて幾度いくど出陣しゅつじんし、隣国りんごくはその武勇ぶゆうおそれ、千葉ちば一族いちぞく家臣かしんはそのめぐみをしたったという(千葉大ちばだい系図けいず)。

1585ねん天正てんしょう13ねん新年しんねん祝賀しゅくがせきにて、近習きんじゅ桑田くわた一鍬田ひとくわだとも)まごろう放屁ほうひ叱責しっせきしたところ、うらみをたれ、5月1にちよる就寝しゅうしんちゅう短刀たんとうされ、6にち死亡しぼうした(『千葉ちばでんこう』)。享年きょうねん29。嫡男ちゃくなんには千葉ちば重胤しげたねがいたが、幼少ようしょうであることを理由りゆう北条ほうじょう干渉かんしょうけて北条ほうじょう氏政うじまさ実子じっしである千葉ちばただしじゅういだ。

佐倉さくら海隣寺かいりんじにある海隣寺かいりんじ中世ちゅうせい石塔せきとうぐん石塔せきとうには、きざまれた銘文めいぶんからくにたね菩提ぼだいとむらったものもふくまれる[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 佐倉さくら文化財ぶんかざい史跡しせき(2)「はかいしぶみ など」”. 佐倉さくら. 2020ねん3がつ15にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]