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うまかんたね

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うまかんたね / 千葉ちばやすしたね
時代じだい 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 文中ぶんちゅう3ねん/おうやす7ねん2がつ9にち1374ねん3月22にち)?[1]
またはおうひさし5ねん1398ねん)?[2]
死没しぼつ 康正こうせい2ねん11月1にち1456ねん11月28にち
別名べつめい 常義つねよし
官位かんい 陸奥むつまもる
氏族しぞく 千葉ちばうま
父母ちちはは ちち千葉ちばみつるたね
兄弟きょうだい 千葉ちば兼胤かねたねかんたね
千葉ちば輔胤異説いせつあり)、うまたね稲毛いなげたねめい
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うま かんたね(まくわり やすたね)は、室町むろまち時代ときよ前期ぜんき武将ぶしょう千葉ちば やすしたね(ちば やすたね)とも。だい14だい当主とうしゅ千葉ちばみつるたね次男じなん

とおるとくらんじょうじて、千葉ちば宗家そうけほろぼして19だい当主とうしゅとなる。下総しもうさ千葉ちばぐんうまむら現在げんざい千葉ちばけん千葉ちば花見川はなみがわ幕張まくはりまち)にきょかまえたことから「うま」としょうした。また、『せんがくしゅう抜粋ばっすい』によれば、常陸ひたちこくだいじょうまんみき養子ようしになったという[3]

生涯しょうがい

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とおるとくらんにおいて、鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ対立たいりつする。その結果けっか京都きょうと室町むろまち幕府ばくふから支持しじされた上杉うえすぎ追討ついとうけたしげる鎌倉かまくらわれて下総しもうさ古河ふるかわしろはいり、古河ふるかわ公方くぼうしょうした。そのため、下総しもうさ守護しゅごであった千葉ちばもとには、幕府ばくふしげる双方そうほうから支援しえん依頼いらいせられるようになる。おい千葉ちば当主とうしゅたねじき幕府ばくふ依頼いらいけてしげる討伐とうばつすが、かんたねしげる支援しえん主張しゅちょうして対立たいりつする。これに筆頭ひっとう重臣じゅうしん地位ちいめぐはら円城寺えんじょうじ対立たいりつからんで家中いえじゅうは2ふんされることになった。

とおるとく4ねん1455ねん)、はらたねぼう千葉ちばたねただしたねせん父子ふし亥鼻いのはなじょうめ、千田せんだしょう現在げんざい千葉ちばけん香取かとりぐん多古たこまち付近ふきん)へいやった。その出家しゅっけしていたかんたねもこれに合流ごうりゅうし、千田せんだしょう古城こじょうしまじょうにたてこもるたねちょく父子ふし円城寺えんじょうじなおにん援軍えんぐんにかけつけただいじょうよりゆきみきみょうたかしまんみき次男じなんまたおい[3]ほろぼした。

これにたいして、室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさは、このらんおさめるため歌人かじん千葉ちば一族いちぞくでもある美濃みの郡上こおりかみぐんしのわきじょうあるじ東常縁とうのじょうえん派遣はけんした。つねえんかんたね本拠ほんきょたるうまり、かんたねしょうゆみたねぼう千葉ちばへそれぞれのがれた。かんたね最期さいごについては、上総かずさ八幡はちまん現在げんざい千葉ちばけん市原いちはら八幡やはたまち)の村田川むらたがわつねえんたれた[4]とされるがしょうである。

墓所はかしょ

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うまかんたねくびづか

村田川むらたがわちか市原いちはら八幡やはた無量寺むりょうじかんたねたね父子ふしはかつたわる五輪ごりんとうのこされているほか、花見川はなみがわ幕張まくはりまちいち丁目ちょうめ大須賀おおすかさんかんたねくびづかがある[5]

参照さんしょうもと

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  1. ^ 千葉大ちばだい系図けいず
  2. ^ せんがくしゅうしょう
  3. ^ a b 中根なかね正人まさと室町むろまち中期ちゅうき常陸ひたちだいじょう」(初出しょしゅつ:『千葉ちば史学しがく』62ごう(2013ねん)/所収しょしゅう:高橋たかはしおさむ 編著へんちょ『シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいいちろくかん 常陸ひたちたいら』(戒光さち出版しゅっぱん、2015ねんISBN 978-4-86403-167-7
  4. ^ まつたてほん千葉ちば系図けいず
  5. ^ 千葉ちば日報にっぽう 2017ねん8がつ30にち

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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