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千葉ちば重胤しげたね

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千葉ちば 重胤しげたね
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 天正てんしょう4ねん1がつ1にち1576ねん1がつ31にち
死没しぼつ 寛永かんえい10ねん6月16にち1633ねん7がつ21にち
改名かいめい せん鶴丸つるまるもしくはかめ王丸おうまる幼名ようみょう)→重胤しげたね長胤ながたね法名ほうみょう
戒名かいみょう じんせいいん殿どのこうつねしんさとしだい禅定ぜんじょうもん
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばくにたねはは岩松いわまつ守純もりずみむすめ
ていたね
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千葉ちば 重胤しげたね(ちば しげたね)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう千葉ちばだい31だい当主とうしゅだい29だい当主とうしゅ千葉ちばくにたねはは岩松いわまつ守純もりずみむすめ。ただし、天正てんしょう11ねん1583ねんまれとする異説いせつもある(国立こくりつ公文書こうぶんしょかんほんせんがくしゅうしょう』)[1]法名ほうみょう長胤ながたね(ちょういん)。

生涯しょうがい

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1585ねんちち家臣かしんによって暗殺あんさつされたのち千葉ちば家督かとく北条ほうじょう氏政うじまさ千葉ちばただしじゅうぐこととなり、まだおさなせん鶴丸つるまる重胤しげたね)はこう北条ほうじょう人質ひとじちとしてははとともに小田原おだわらむこととなった。ただし、ははとも上野うえのこくおくられて母方ははかた岩松いわまつ監督かんとくかれたとするせつもある[2]こまかい時期じき不明ふめいだが、のちにちょくじゅうから1あたえられて重胤しげたね名乗なのり、千葉ちばいだものとみられる。

1590ねんこう北条ほうじょう滅亡めつぼうすると、千葉ちばこう北条ほうじょう与党よとうなされて所領しょりょう没収ぼっしゅうされた。その重胤しげたね各地かくち流浪るろうし、一時いちじはは崇源院すうげんいんつかえていたえん徳川とくがわ幕府ばくふより領地りょうちあたえられた(一説いっせつにはははえん土井どい利勝としかつされたとも)こともあったが、やがて領地りょうち返上へんじょうして浪人ろうにんとなり、最終さいしゅうてきには1633ねん江戸えど死去しきょしたとわれている。享年きょうねん58。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 千野ちのはらやすしかた戦国せんごく房総ぼうそう人名じんめい辞典じてん』崙書房しょぼう、2009ねん ISBN 978-4-8455-1153-2
  2. ^ 黒田くろだ基樹もとき千葉ちばたねとみ千葉ちばくにたね政治せいじてき動向どうこう初出しょしゅつ:『風媒花ふうばいか』25ごう(2012ねん)/所収しょしゅう:黒田くろだ戦国せんごく関東かんとう動乱どうらん大名だいみょうこくしゅ』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2021ねんISBN 978-4-86403-366-4 P63.

外部がいぶリンク

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