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千葉ちばたねせん

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千葉ちばたねせん
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん ぶんやす元年がんねん12月1にち1445ねん1がつ8にち
死没しぼつ 康正こうせい元年がんねん8がつ12にち1455ねん9月23にち
別名べつめい 五郎ごろう通称つうしょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 千葉ちば
父母ちちはは ちち千葉ちばたねじき
兄弟きょうだい たねしょうたねせん
かんたね
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千葉ちば たねせん(ちば たねのぶ)は室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武将ぶしょう千葉ちばだい18だい当主とうしゅ。16だい当主とうしゅ千葉ちばたねじき。17だい当主とうしゅ千葉ちばたねしょうおとうと

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

千葉ちばだい17だい当主とうしゅだったあにたねしょうとおるとく3ねん6月23にち1454ねん7がつ18にち)に病死びょうししたため、ちち後見こうけんもとだい18だい当主とうしゅとなる。しかしこのときすで鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲忠のりただ房顕ふさあき内紛ないふんまれていた(とおるとくらん)。

とおるとく4ねん/康正こうせい元年がんねん1455ねん)、しげるについた重臣じゅうしんはらたねぼう千葉城ちばじょう急襲きゅうしゅうされ、ちち叔父おじたねけんとも千田せんだそうのがれ、ちち叔父おじ志摩しましろに、たねせん古城こじょうこもったが上杉うえすぎ援軍えんぐんく、8がつ12にちはらたねぼう加担かたんした大叔父おおおじうまかんたね攻撃こうげきれず古城こじょう陥落かんらくたねせんしろちかくの阿弥陀堂あみだどう自刃じじんした。

はらたねぼうめられていた志摩しまじょうちちも、8がつ15にち東禅寺とうぜんじはし一族郎党いちぞくろうとう自刃じじんして千葉ちば宗家そうけ嫡流ちゃくりゅう滅亡めつぼうした。

叔父おじたねけん2人ふたりじつたねたね志摩しまじょう脱出だっしゅつたねけん9月7にち小堤こづつみしろ現在げんざい横芝よこしばひかりまち小堤こづつみ)で自刃じじんしててたが、2人ふたり八幡やはたそうまでとさせ、そのじつたねたね武蔵むさし千葉ちばとなった。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]