(Translated by https://www.hiragana.jp/)
上杉憲忠 - Wikipedia コンテンツにスキップ

上杉うえすぎ憲忠のりただ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上杉うえすぎ憲忠のりただ
時代じだい 室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん えいとおる5ねん1433ねん
死没しぼつ とおるとく3ねん12月27にち1455ねん1がつ15にち
改名かいめい りゅうただし[1]幼名ようみょう)→憲忠のりただ
戒名かいみょう きょうくも院長いんちょうつりどうひろし
官位かんい みぎきょうあきら
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ 関東かんとう管領かんりょう
主君しゅくん 足利あしかが成氏しげうじ
氏族しぞく 山内やまうち上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎ憲実のりざね
兄弟きょうだい 憲忠のりただ房顕ふさあきしゅうきよし[ちゅう 1]ほうきょうしゅうやすし
つま 上杉うえすぎ持朝もちともむすめ
テンプレートを表示ひょうじ

上杉うえすぎ 憲忠のりただ(うえすぎ のりただ)は、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうき武士ぶし守護しゅご大名だいみょう山内やまうち上杉うえすぎ9だい当主とうしゅ関東かんとう管領かんりょう。5だい鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ謀殺ぼうさつされて、とおるとくらんのきっかけとなる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

えいとおる5ねん1433ねん)、上杉うえすぎ憲実のりざね長男ちょうなんとして誕生たんじょうえいとおる11ねん1439ねん)、ちち憲実のりざねえいとおるらんでかつての主君しゅくん足利あしかが持氏もちうじほろぼしたことにたいしての自責じせきねんにかられて出家しゅっけしたとき、とも出家しゅっけした。このため山内やまうち上杉うえすぎ当主とうしゅ不在ふざいとなったため[ちゅう 2]いえおさむ長尾ながお景仲かげなかこまててぶんやす3ねん1446ねん)、憲実のりざね復帰ふっき要請ようせいした。憲実のりざね次男じなん房顕ふさあきのみを京都きょうと出仕しゅっしさせてそれ以外いがい息子むすこすべ僧侶そうりょとするつもりであったため、従兄弟いとこである常陸ひたちこく佐竹さたけ実定さねさだ[ちゅう 3]後継こうけいしゃ指名しめいして文書ぶんしょなどをゆずわたした。これに反発はんぱつした景仲かげなか実定じってい排除はいじょして憲実のりざね長男ちょうなんであるりゅうただし擁立ようりつ、やがて元服げんぷくして憲忠のりただ名乗なの山内やまうち上杉うえすぎ家督かとくいだのである。

なお、通説つうせつによれば、憲忠のりただ還俗げんぞくしたことになっているが、「りゅうただし」は法号ほうごうではなく、出家しゅっけしなかった房顕ふさあきりゅうはる)もふくめた憲実のりざね共通きょうつうする幼名ようみょうであるとかんがえられるため、実際じっさいには出家しゅっけするまえ擁立ようりつされたとみられている[2]。また、当時とうじ将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさおさなかったことから幕府ばくふ意向いこうけてこう花園天皇はなぞのてんのうから憲忠のりただたいして直接ちょくせつ関東かんとう管領かんりょうにんじる綸旨りんじされたことが『けん内記ないきぶんやす4ねん7がつ10日とおかじょうしるされている[3]ちち憲実のりざね意向いこうはんした行動こうどうであったため、憲実のりざねから憲忠のりただ義絶ぎぜつされることとなった。ぶんやす4ねん1447ねん)11月の憲実のりざね書状しょじょうに、憲実のりざね憲忠のりただ義絶ぎぜつしたと記載きさいされている[4]

ところがたからいさお元年がんねん1449ねん)、持氏もちうじ遺児いじ足利あしかがしげる永寿えいじゅおう)が鎌倉かまくら公方くぼうとして復帰ふっきする。しげるえいとおるらんちちころされた経緯けいいから憲実のりざねとそのはげしくうらんでおり、憲忠のりただとは犬猿けんえんなかにあった。このため宝徳ほうとく2ねん1450ねん)、長尾ながお景仲かげなか憲忠のりただしゅうと扇谷おうぎや上杉うえすぎ当主とうしゅ上杉うえすぎ持朝もちとも共謀きょうぼうしてしげるほろぼそうとしたが失敗しっぱいし、ぎゃく反撃はんげきけてしまう(しま合戦かっせん)。憲忠のりただ直接ちょくせつこの事件じけんには関与かんよしていなかったが、家臣かしん責任せきにんかたち相模さがみこく七沢ななさわ蟄居ちっきょ余儀よぎなくされた。

復興ふっこう鎌倉かまくら公方くぼうは、政治せいじてき基盤きばん以前いぜんにもして脆弱ぜいじゃくになっていた。しげる幕府ばくふもうれをする場合ばあい憲忠のりただふくじょう必須ひっすであり、憲忠のりただふくじょうがない場合ばあい幕府ばくふわなかった。そうした状況じょうきょうもあって、しげるつよ焦燥しょうそうにとらわれ、憲忠のりただへの殺意さつい一層いっそうつのらせていった[5]

そのしげるつみゆるされて復帰ふっきしたが、しげる憲忠のりただ対立たいりつはさらにふかまり、とおるとく3ねん12月27にち(1455ねん1がつ15にち)に鎌倉かまくらにあるしげる西御門にしごもんていまねかれた憲忠のりただは、しげるいのちけた結城ゆうきしげるあさ家臣かしん多賀たがたに高経たかつね兄弟きょうだいによって謀殺ぼうさつされた。享年きょうねん22。直後ちょくご岩松いわまつ持国もちくにひきいる別働隊べつどうたい管領かんりょう屋敷やしき襲撃しゅうげきし、長尾ながお実景じっけいけいじゅう父子ふし殺害さつがいした。憲忠のりただ殺害さつがいについて、『かんとみ』は、しげるちち死因しいん憲実のりざねにあるとみなし、かれたいしていていた憎悪ぞうお憲忠のりただ発露はつろさせたと記述きじゅつしている[5]田辺たなべ久子ひさこは、『かんとみ』が言及げんきゅうする怨恨えんこんくわえて、しげる自分じぶん政治せいじてき基盤きばん挽回ばんかいしようとしてこしたという側面そくめんもある謀殺ぼうさつであると解釈かいしゃくしている[6]久保くぼ賢治けんじ憲忠のりただがあっさりしげる殺害さつがいされた理由りゆうとして、鎌倉かまくら公方くぼう関東かんとう管領かんりょう主従しゅうじゅう関係かんけいにあり参上さんじょう命令めいれい拒否きょひしづらかったこと、御所ごしょかぎらず武家ぶけ屋敷やしき来訪らいほうしゃ太刀たちなどの武器ぶきあづけてはい慣習かんしゅうであったこと[ちゅう 4]、そしておそらくは軍事ぐんじりょく劣勢れっせいにあったしげる重臣じゅうしんなどの代理だいり参上さんじょうふせぐためにしげる病気びょうきなど緊急きんきゅうようする内容ないようふくにせ情報じょうほう憲忠のりただ御所ごしょしたうえでの謀殺ぼうさつであったと推測すいそくしている[7]

憲忠のりただ殺害さつがい翌年よくねん康正こうせい2ねん1456ねん)、しげる憲忠のりただ殺害さつがいたいする弁明べんめい書状しょじょう幕府ばくふたいして提出ていしゅつしている。しかし、その内容ないよう謝罪しゃざいではなくひらなおりにちかいものであった。この弁明べんめいしょほかにも、しげるなんかい幕府ばくふ弁明べんめいしょおくったが、幕府ばくふはそれを黙殺もくさつした[8]

憲忠のりただ契機けいきとして、憲忠のりただ遺臣いしん上杉うえすぎ持朝もちとも連合れんごうぐん結成けっせい足利あしかがしげる合戦かっせんはじめ、泥沼どろぬまこうそうまくひらくこととなる[8]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 上杉うえすぎけんぼうちち
  2. ^ 憲実のりざね一旦いったん実弟じってい上条かみじょう上杉うえすぎ当主とうしゅであった上杉うえすぎ清方きよかた後継こうけいしゃ指名しめいして室町むろまち幕府ばくふ承認しょうにんているが、ぶんやす年間ねんかんくなっている(死亡しぼう時期じき死因しいん諸説しょせつあり)。
  3. ^ ちち佐竹さたけ義人よしひと山内やまうち上杉うえすぎ出身しゅっしん
  4. ^ 邸宅ていたく主人しゅじん来訪らいほうしゃがいされるのをふせぐためであったが、反面はんめん嘉吉よしきちらんのように来訪らいほうしゃ主人しゅじん殺害さつがいされるリスクもある。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 田辺たなべ 1999, p. 112.
  2. ^ 黒田くろだ 2014, 「関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ研究けんきゅう」「上杉うえすぎ清方きよかた基礎きそてき研究けんきゅう」.
  3. ^ 木下きのしたさとし山内やまうち上杉うえすぎにおける官途かんと関東かんとう管領かんりょうしょく問題もんだい」『日本にっぽん歴史れきしだい685ごう、2005ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ 2014
  4. ^ 田辺たなべ 1999, p. 115.
  5. ^ a b 田辺たなべ 1999, p. 141.
  6. ^ 田辺たなべ 1999, pp. 141–142.
  7. ^ 久保くぼ賢司けんじ上杉うえすぎ憲忠のりただ西御門にしごもん御所ごしょ参上さんじょうをめぐって」『古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん紀要きよう 泉石せんせきだい6ごう、2002ねん /所収しょしゅう:黒田くろだ 2014
  8. ^ a b 田辺たなべ 1999, p. 142.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 田辺たなべ久子ひさこ上杉うえすぎ憲実のりざね吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1999ねんISBN 4-642-05215-1 
  • 黒田くろだ基樹もとき へん山内やまうち上杉うえすぎ』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいいちかん〉、2014ねんISBN 978-4-86403-108-0