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相模さがみこく

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相模さがみこく

-相模さがみこく
-東海道とうかいどう
別称べっしょう 相州あいしゅう (そうしゅう)
所属しょぞく 東海道とうかいどう
相当そうとう領域りょういき 神奈川かながわけんだい部分ぶぶん北東ほくとうのぞく)
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 8ぐん57さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
相模さがみ国府こくふ 1.(推定すいてい神奈川かながわけん海老名えびなまたは小田原おだわら
2.(推定すいてい神奈川かながわけん平塚ひらつか
3.(推定すいてい神奈川かながわけん中郡なかぐん大磯おおいそまち
相模さがみ国分寺こくぶんじ 神奈川かながわけん海老名えびな相模さがみ国分寺こくぶんじあと
相模さがみ国分こくぶ尼寺あまでら 神奈川かながわけん海老名えびな相模さがみ国分こくぶ尼寺あまでらあと
一宮いちのみや 寒川さむかわ神社じんじゃ神奈川かながわけん高座こうざぐん寒川さむかわまち
鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう神奈川かながわけん鎌倉かまくら
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相模さがみこく(さがみのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。東海道とうかいどうぞくし、現在げんざい神奈川かながわけんにあたる。

相模さがみ」の国名こくめい[編集へんしゅう]

相模さがみ」のという文字もじについて、現存げんそんする律令りつりょう時代じだい公文書こうぶんしょされているくにしるしでは「莫」のしたに「」をはいした文字もじあいさがみ」が使用しようされており、へんの「摸」によるあいとするのが本来ほんらい表記ひょうきである。

現在げんざい行政ぎょうせい区分くぶんでの領域りょういき[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういき現在げんざい以下いかのようになっている。現在げんざい行政ぎょうせい区域くいきうと、神奈川かながわけんのうち川崎かわさき横浜よこはまのぞいた地域ちいききゅう相模さがみこく該当がいとうする。ただし、きゅう武蔵むさしこく過半かはんとする横浜よこはまのうち一部いちぶ地域ちいききゅう相模さがみこく鎌倉かまくらぐんにあたる[1][2][3]

たけしょう国境こっきょう[編集へんしゅう]

境川さかいがわ上流じょうりゅうたけしょう国境こっきょう武蔵むさしこくとのさかい)だった(現在げんざい神奈川かながわけん東京とうきょうとの県境けんきょう)。

町田まちだ鶴間つるま大和やまと下鶴間しもつるま横浜よこはま瀬谷せや五貫目ごかんめまち境界きょうかいてんからは国境こっきょう境川さかいがわからはなれ、町田まちだ鶴間つるま横浜よこはま瀬谷せや卸本おろしほんまち横浜よこはまみどり長津田ながつたまち境界きょうかいてん東京とうきょうわん相模さがみわん分水嶺ぶんすいれいうつった。なおその尾根おねみちたけしょう国境こっきょうどう)は、聖マリアンナ医科大学せいまりあんないかだいがく横浜よこはま西部せいぶ病院びょういんあたりから(あさひ瀬谷せやさかい金沢かなざわ鎌倉かまくらさかいまでつづいた[3][ちゅう 5]

横浜よこはま横須賀よこすか逗子ずし境界きょうかい標識ひょうしきてんからは分岐ぶんきし、侍従じじゅうかわ横浜よこはま金沢かなざわ六浦むつうら)と鷹取たかとりがわ横須賀よこすか湘南鷹取しょうなんたかとり追浜本おっぱまほんまち)とのあいだ尾根おねとおり、横浜よこはまそうがくかん高等こうとう学校がっこうとお東京とうきょうわんたっした。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

相模さがみこく古墳こふん時代じだいなりつとむあさ成立せいりつしたあい国造くにのみやつこ(さがむ-)[ちゅう 6][6]領域りょういき相模さがみがわ流域りゅういきけん中央ちゅうおう)と師長もろなが国造くにのみやつこ(しなが-)の領域りょういき酒匂川さかわがわ流域りゅういき中村川なかむらがわ流域りゅういきけん西部せいぶ)をあわしたとされる。さらに、ヤマトタケル子孫しそんである鎌倉かまくらべつ(かまくらわけ)の支配しはいする鎌倉かまくら地域ちいき三浦みうら地域ちいきくわわる。

なお、もとは武蔵むさしこくひとつだったというせつがある。賀茂真淵かものまぶちや『やまとくんしおり』には、せま(むさ)こくがあり、のちせまじょうせまかれ、かたり欠落けつらくなどでそれぞれ相模さがみ武蔵むさしとなったとする。ほんきょ宣長のりながは『古事記こじきでん』で、斯国(さし-)を仮定かていし、斯上、斯とかれ、そののち相模さがみ武蔵むさしとなったという。近藤こんどう芳樹よしき陸路りくろ廼記』などによればそうくに(ふさ-)の一部いちぶそううえそうしたとなり、のち相模さがみ武蔵むさしとなったとされる。しかしこれらのせつは、武蔵むさしこくがかつてはもうこく群馬ぐんまけん栃木とちぎけん地域ちいき一体いったいであったとする考古学こうこがく成果せいかわない[7]

国名こくめい語源ごげん不明ふめい前身ぜんしんとされるせまじょう(むさがみ)・斯上(さしがみ)が由来ゆらいとするふち宣長のりながせつもあれば、古代こだいこの地域ちいき産物さんぶつであったカラムシからむし麻布まふなどのたね)がなまった「ムシ」に由来ゆらいするというせつや、「さか」の転訛てんか箱根はこねさかうえからえる地域ちいき)というせつなども存在そんざいし、定説ていせつ確定かくていできなくなっている[7]

12世紀せいきすえみなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら本拠地ほんきょちとし、以来いらい相模さがみこく鎌倉かまくら幕府ばくふ本拠地ほんきょちとなった。頼朝よりとも知行ちぎょう国主こくしゅであった時代じだいには、政所まんどころくにやく賦課ふかなどをおこなっていた[8]守護しゅごかんしてはたからおさむ合戦かっせんまでは三浦みうら守護しゅごであったとするせつ佐藤さとう進一しんいち鎌倉かまくら幕府ばくふ守護しゅご制度せいど研究けんきゅう』)があるが、三浦みうら元々もともと在庁ざいちょうかんじんとして相模さがみ国内こくない雑事ざつじおこなっていたことから、相模さがみこく守護しゅご設置せっち政所まんどころとその指示しじけた三浦みうら代表だいひょうとする御家人ごけにんした在庁ざいちょうかんじんがその職務しょくむおこなっていたとするせつもある[8]北条ほうじょうによる鎌倉かまくら幕府ばくふ支配しはい確立かくりつして以降いこうは、執権しっけん相模さがみもりとなり、ふく執権しっけんである連署れんしょ任官にんかんされた武蔵むさしもりともに「りょう国司こくし」(『沙汰さた未練みれんしょ』)とばれた[9]

1333ねん鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうしたが、そのたてたけし新政しんせい時期じきには鎌倉かまくら将軍しょうぐんが、室町むろまち時代ときよには鎌倉かまくらかれ関東かんとう政治せいじ中心ちゅうしんであった。1428ねんえいとおるらんによって鎌倉かまくら下総しもうさこく古河ふるかわうつり、関東かんとう政治せいじ中心ちゅうしんからはずれたが、戦国せんごく時代じだいになると小田原おだわらじょう本拠地ほんきょちとしたこう北条ほうじょう関東かんとう地方ちほう勢力せいりょくひろげ、1590ねん(天正てんしょう18ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ小田原おだわらじょう落城らくじょうするまで、ふたた相模さがみこく関東かんとう政治せいじ中心ちゅうしんとなった。

江戸えど時代じだいには小田原おだわらはんはじめとする譜代ふだいしょはん幕府ばくふりょう旗本はたもとりょうとなった。

明治めいじ以後いご沿革えんかく[編集へんしゅう]

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

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国府こくふ[編集へんしゅう]

推定すいてい相模さがみこくちょうあと平塚ひらつか四之宮しのみや
湘南しょうなん新道しんどう関連かんれん遺跡いせき歩道ほどうじょう大型おおがた建物たてものあと推定すいていこくちょう西脇にしわき殿どの)の遺構いこう標示ひょうじ

相模さがみ国府こくふ所在地しょざいちは、史料しりょうでは『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』(931ねん938ねん編纂へんさん)と『ひろえあくたしょう』では「大住おおずみぐん」(平塚ひらつか)、『伊呂波いろはるいしょう』(平安へいあん時代じだいすえ鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき成立せいりつ)では「あやぐん」(中郡なかぐん大磯おおいそまち)にあったとえることから、所在地しょざいち変遷へんせんがあったとしてなが論争ろんそうおこなわれてきた[10]。いずれも国分寺こくぶんじ所在地しょざいちである高座こうざぐん海老名えびな)とことなるため、江戸えどすえ明治めいじ時代じだいに「高座こうざぐん海老名えびな)→大住おおずみぐん平塚ひらつか)→あまりあやぐん大磯おおいそ)」という「国府こくふさん遷説A」が提唱ていしょうされた[11][12]。また大正たいしょう昭和しょうわ初期しょきには「大住おおずみぐん平塚ひらつかまたは伊勢原いせはら)→あまりあやぐん大磯おおいそ)」の「国府こくふ遷説」も浮上ふじょうした[11]。さらに1950ねんだい以降いこう小田原おだわら足下あしもとぐん)で発見はっけんされた「千代ちよ寺院じいん千代ちよ廃寺はいじあと[13]」を初期しょき相模さがみ国分寺こくぶんじて、その付近ふきん初期しょき国府こくふもあったとし、「足下あしもとぐん小田原おだわら)→大住おおずみぐん平塚ひらつか)→あまりあやぐん大磯おおいそ)」という「さん遷説B」(足柄あしがら国府こくふせつ)が提唱ていしょうされた[12][11]

高座こうざぐん国府こくふせつ
相模さがみ国分寺こくぶんじ初期しょき国府こくふ所在しょざいもとめるせつ[14][12]推定すいてい現在げんざい海老名えびな付近ふきん江戸えど時代じだいの『新編しんぺん相模さがみこく風土記ふどき稿こう』に高座こうざぐん国分こくぶむらえる一帯いったい推定すいていされる[12]
大住おおずみぐん国府こくふせつ
平安へいあん時代じだい中期ちゅうき成立せいりつの『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』の記載きさいもとづくせつべつからうつったとせつでは、もとけい2ねん878ねん)の関東かんとうだい地震じしん契機けいきとしてあらたにてられたと推測すいそくする[12]平塚ひらつか四之宮しのみやにおいて関連かんれん遺跡いせき発掘はっくつされている[ちゅう 7][12]。ただし比定ひていについては、平塚ひらつか四宮しのみやせつ以外いがいにも伊勢原いせはらせつ秦野はだの御門ごもんせつがある[12]
あやぐん国府こくふせつ
平安へいあん時代じだい末期まっき成立せいりつの『伊呂波いろはるいしょう』の記載きさいもとづくせつ推定すいてい相模さがみこく総社そうしゃろくしょ神社じんじゃ鎮座ちんざする大磯おおいそまち国府本郷こくふほんごう付近ふきん

現代げんだい考古学こうこがく発掘はっくつ調査ちょうさ成果せいかでは、1989ねん平成へいせい元年がんねん)に平塚ひらつか四之宮しのみや稲荷前いなりまえA遺跡いせきで「くにくりや」「大住おおすみくりやめいのある墨書ぼくしょ土器どき出土しゅつどしたことや[15]、2004ねん平成へいせい16ねん)の湘南しょうなん新道しんどう建設けんせつ事業じぎょうともな調査ちょうさ同市どうし四之宮しのみやろくいき坪ノ内つぼのうち遺跡いせきから国府こくぶわき殿どのられる8世紀せいきぜん大型おおがた掘立柱ほったてばしら建物たてもの検出けんしゅつされたことで[16]相模さがみ国府こくふ成立せいりつ当初とうしょから平塚ひらつか大住おおずみぐん)にあり、のちあや移転いてんしたとする「遷説」が有力ゆうりょくしてきている[10][11]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら[編集へんしゅう]

海老名えびな中央ちゅうおう公園こうえん国分寺こくぶんじななじゅうとう模型もけい(3ぶんの1スケールでの復元ふくげん

なお、小田原おだわら千代ちよでは古代こだい寺院じいんあとつかっており、これを初期しょき国分寺こくぶんじせつがある。ただし近年きんねんでは、その寺院じいんあと地元じもと豪族ごうぞくによる8世紀せいき初頭しょとう建立こんりゅうせつ有力ゆうりょくされる[18]。また、どう寺院じいんあと国分寺こくぶんじあととするせつ根拠こんきょの1つは、その伽藍がらん配置はいち諸国しょこく国分寺こくぶんじ採用さいようされる東大寺とうだいじしき推測すいそくされたためであったが、近年きんねんでは法隆寺ほうりゅうじしき可能かのうせい指摘してきされている[18]

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ11しゃ小社しょうしゃ1212しゃけい1313しゃ記載きさいされている(詳細しょうさいは「相模さがみこく式内しきないしゃ一覧いちらん」を参照さんしょう)。大社たいしゃ1しゃ以下いかしめすもので、名神めいしん大社たいしゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[19]

寒川さむかわ神社じんじゃふるくから現代げんだいいたるまで一宮いちのみやとされている。一方いっぽう鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう鎌倉かまくら雪ノ下ゆきのした)も全国ぜんこくいちみやかい加盟かめいしており、一宮いちのみやとしてあつかわれることがある。どうみや鎌倉かまくら時代ときよ創建そうけんで、式内しきないしゃではないにもかかわらず一宮いちのみや同格どうかくあつかいをけた。これは、当時とうじ将軍しょうぐんであるみなもと氏神うじがみ京都きょうと石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうから勧請かんじょうしたみやであり、鎌倉かまくら幕府ばくふ特別とくべつあつかいしたためとかんがえられる。

また、一宮いちのみやから四宮しのみやまでの4しゃとも国司こくし巡拝じゅんぱい神社じんじゃで「いちこくいちしゃ八幡宮はちまんぐう」として平塚ひらつか八幡宮はちまんぐう平塚ひらつか浅間あさままち)があるが、どうみや四宮しのみや以上いじょうの4しゃちがって式内しきないしゃではない。平塚ひらつか八幡宮はちまんぐうを「五宮ごのみや」とぶことはなく神社じんじゃがわ五宮ごのみやとは名乗なのっていないが、5月5にち国府こくふさい(こうのまち)では一宮いちのみやから四宮しのみや平塚ひらつか八幡宮はちまんぐうしゃかみそろいさん(かみそろいやま)にあつまる神事しんじがあることから、五宮ごのみやかくかんがえられている。一方いっぽう室町むろまち時代ときよ兵火へいかうまで権勢けんせいほこったゆう鹿しか神社じんじゃ五宮ごのみやとされることもある(諸説しょせつあり)が、国府こくふさいには参加さんかしていない。

安国寺あんこくじ利生りしょうとう[編集へんしゅう]

  • 安国寺あんこくじ - 鎌倉かまくら山之内やまのうち存在そんざいしたといわれるが廃寺はいじ
  • 利生りしょうとう - しょう

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいこう北条ほうじょうは、相模さがみこく西郡にしごおり足柄上あしがらかみぐん足柄下あしがらしもぐん)、中郡なかぐんあやぐん大住おおずみぐん愛甲あいこうぐん)、ひがしぐん高座こうざぐん鎌倉かまくらぐん)とし、近世きんせい初頭しょとうまでもちいられたようである。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

国司こくし[編集へんしゅう]

相模さがみもり[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき在任ざいにん期間きかんちゅう、「 」ないは、史書ししょ在任ざいにん確認かくにんできる最後さいご年月日ねんがっぴす。


相模さがみかい[編集へんしゅう]

相模さがみじょう[編集へんしゅう]

守護しゅご[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ[編集へんしゅう]

国人くにびと[編集へんしゅう]

足柄上あしがらかみぐん
  • 松田まつだ - 松田まつだきょう波多野はたのぞくほんむね頼朝よりとも敵対てきたいして衰退すいたいしたため惣領そうりょうしていた。こう北条ほうじょう進出しんしゅつ協力きょうりょくして重臣じゅうしんとなっている。
  • 大友おおとも - 大友おおともきょう本姓ほんせい近藤こんどうのうじきはは生家せいか波多野はたの大友おおともそう所有しょゆうしていたことから大友おおとも名乗なのる。豊後ぶんご筑後ちくご守護しゅごしょくまご頼康よりやす西にしうつして基盤きばんうつし、以後いご目立めだった活動かつどうられない。
足柄下あしがらしもぐん
あやぐん
大住おおずみぐん
  • 波多野はたの - 波多野はたのそう本姓ほんせい佐伯さえき秦野盆地はだのぼんち一体いったいり、松田まつだなどが派生はせいしている。きょう武者むしゃとして官位かんいみなもと頼朝よりともちちあさとも縁戚えんせき関係かんけいになるなどおおきな勢力せいりょくほこったが、頼朝よりとも敵対てきたいして没落ぼつらくした。御家人ごけにんとしてはのこっている。
愛甲あいこうぐん
高座こうざぐん
鎌倉かまくらぐん
  • 鎌倉かまくら - 大庭おおば梶原かじはら長尾ながおなどが派生はせい鎌倉かまくらとうしたが、源平げんぺいたたかいのなか二分にぶんされ解消かいしょうしていった。
うらぐん
  • 三浦みうら - 三浦みうらそうふるくから三浦半島みうらはんとう盤踞ばんきょした。岡崎おかざき城主じょうしゅ鎌倉かまくら幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにんだった三浦みうら北条ほうじょうほろぼされ、再興さいこうした三浦みうらのち北条ほうじょうしょうする伊勢いせほろぼされた。

戦国せんごく大名だいみょう[編集へんしゅう]

  • こう北条ほうじょう - 室町むろまち幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじ世襲せしゅうする伊勢いせ氏族しぞく備中びっちゅうりょうするいえまれた伊勢いせ盛時せいじ伊豆いず相模さがみり、つな北条ほうじょうしょうした。

ゆたか大名だいみょう[編集へんしゅう]

  • 徳川とくがわ家康いえやす - 豊臣とよとみ秀吉ひでよしによるのち北条ほうじょうの討滅徳川とくがわ本拠地ほんきょちさんかわ獲得かくとくしていた信濃しなのなどからきゅう北條ほうじょうりょううつりふうした。

武家ぶけ官位かんいとしての相模さがみもり[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1980ねん昭和しょうわ55ねん)に起立きりつした卸本おろしほんまちまちいきだい部分ぶぶん瀬谷せや瀬谷せやまちであったが、一部いちぶきゅう武蔵むさしこく都筑つづきぐん田奈たなむらであったみどり長津田ながつたまちと、おなじく都筑つづきぐん都岡つおかまちであったあさひ上川井かみかわいまちふくまれている。
  2. ^ きゅう鎌倉かまくらぐん永野ながのむらのうち港南こうなん相当そうとう部分ぶぶん範囲はんい現在げんざいつぎまちひのとにあたる。
  3. ^ 鎌倉かまくらぐん鎌倉かまくらまち1894ねんまではひがし鎌倉かまくらむらであったが、1897ねん明治めいじ30ねん)に当該とうがい地区ちく大字だいじとうげ武蔵むさしこく久良ひさよし岐郡六浦むつうらしょうむら編入へんにゅうされているので、通常つうじょうきゅう武蔵むさしこくふくまれる。
  4. ^ 1878ねん明治めいじ11ねん)に千歳ちとせがわ県境けんきょうさだめ、神奈川かながわけん足柄下あしがらしもぐん宮上みやうえむら湯河原ゆがわらまち)のうち1700ねん元禄げんろく13ねん以来いらい国境こっきょう論争ろんそうつづいていた伊豆山いずさん権現ごんげんりょういずみ稲村いなむら年貢ねんぐ小田原おだわらはん上納じょうのう)が分立ぶんりつして静岡しずおかけん賀茂かもぐんいずみむらとなったため。
  5. ^ 現在げんざいでも相鉄そうてつ本線ほんせん三ツ境みつざかいえき方面ほうめんよりつづいているどう病院びょういんまえ道路どうろは「さかい道路どうろ」(のざかいどうろ)とばれている[5]
  6. ^ あいは、やまのない荒野あらの
  7. ^ くにちょう建物たてものおもわれる多数たすう掘立柱ほったてばしら建物たてものあとくにちょう部局ぶきょくの「政所まんどころ」(まんどころ)・「曹司ぞうし」(そうじ)・「くにくりや」(くにのくりや)と墨書ぼくしょされた土器どきなどが出土しゅつどした。
  8. ^ 上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんじょうじた三浦みうら高明こうめい相模さがみ守護しゅご更迭こうてつとその上杉うえすぎ定頼さだより一色いっしょく持家もちいえ守護しゅご就任しゅうにん鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ最終さいしゅう任命にんめいけん室町むろまち幕府ばくふ無視むしして任命にんめいしたもので、事実じじつじょう鎌倉かまくら御料ごりょうこくであった(風間かざまひろし足利あしかが持氏もちうじ専制せんせい周辺しゅうへん」『国史こくしがくだい163ごう(1997ねん))。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ みなみ横浜よこはまのグレートディバイディング・きゅうしょう国境こっきょう全容ぜんよう
  2. ^ たけしょう国境こっきょう位置いち当時とうじ生活せいかつかんはどうだった?はまれぽ.com 2012ねん1がつ25にち
  3. ^ a b いずみいまむかし―いずみ小史しょうし > だい3しょうみちかわ > さかいみちたけしょう国境こっきょうどう横浜よこはまいずみ公式こうしきウェブサイト)
  4. ^ 港南こうなんむかしひがし西にしちがう「くに」だった! たけしょう国境こっきょう (PDF)広報こうほうよこはま港南こうなんばん「こうなん」 No.114 / 2007ねん4がつごうバックナンバー:索引さくいん
  5. ^ たけしょう国境こっきょうみどりもりコース > たけしょう国境こっきょう (さかい道路どうろ)アーカイブ〉(横浜よこはま瀬谷せや公式こうしきウェブサイト)
  6. ^ たけひかりまこと県民けんみんせい日本にっぽん地図ちず文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん新書しんしょ〉、2001ねん、86-87ぺーじISBN 4-16-660166-0 
  7. ^ a b 神奈川かながわけん県民けんみんけん編集へんしゅうしつ へん神奈川かながわけん 通史つうしへん1 原始げんし古代こだい中世ちゅうせい神奈川かながわけん、1981ねん3がつ25にち、147ぺーじdoi:10.11501/9522771 
  8. ^ a b 大澤おおさわいずみ相模さがみこく知行ちぎょう体制たいせい地域ちいき秩序ちつじょ形成けいせい」『三浦みうら一族いちぞく研究けんきゅう』19ごう(2015ねん)/真鍋まなべ淳哉じゅんや へんきゅうくに中世ちゅうせい重要じゅうよう論文ろんぶん集成しゅうせい 相模さがみこく』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2020ねん)、2020ねん、P52-55.
  9. ^ 日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかいへん将軍しょうぐん執権しっけん連署れんしょ 鎌倉かまくら幕府ばくふ権力けんりょくかんがえる』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2018ねん)P133
  10. ^ a b 平塚ひらつか博物館はくぶつかん 2005, pp. 42–43.
  11. ^ a b c d 神奈川かながわ考古こうこ学会がっかい 2015, p. 44.
  12. ^ a b c d e f g 『あなたのらない神奈川かながわけん歴史れきし』(よういずみしゃ、2012ねん)Q.2。
  13. ^ 小田原おだわら文化ぶんか文化財ぶんかざい. “千代ちよ寺院じいんあと千代ちよ廃寺はいじ”. 小田原おだわら. 2022ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  14. ^ 小島こじまいさお相模さがみ国府こくふ所在しょざいについて」 表現ひょうげん学部がくぶ紀要きよう9 (2008)
  15. ^ 平塚ひらつか社会しゃかい教育きょういく. “くにくりや墨書ぼくしょ土器どき 稲荷前いなりまえA遺跡いせきだい1地点ちてん 1ごう竪穴たてあな住居じゅうきょ出土しゅつど資料しりょう一括いっかつ”. 平塚ひらつか. 2022ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  16. ^ かながわ考古学こうこがく財団ざいだん 2010, pp. 66–67.
  17. ^ a b 海老名えびな教育きょういく委員いいんかい作成さくせい史跡しせき相模さがみ国分寺こくぶんじあと相模さがみ国分こくぶ尼寺あまでらあと」(2013ねん)。
  18. ^ a b 千代ちよ寺院じいんあと小田原おだわらホームページ)。
  19. ^ 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい研究けんきゅうかいへん岩田いわた書院しょいん、2000ねん、pp. 181-185。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]