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胆振いぶりこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
胆振いぶりこく範囲はんい(1869/08/15)

胆振いぶりこく(いぶりのくに)は、大宝たいほう律令りつりょうくにぐんさとせい踏襲とうしゅう戊辰戦争ぼしんせんそうはこかん戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくご制定せいていされた日本にっぽん地方ちほう区分くぶんくにひとつである。別称べっしょうきもしゅう(たんしゅう)。畿八どうのうち北海道ほっかいどう (れいせい)ふくまれた。制定せいてい当初とうしょ膽振いぶりこくとも表記ひょうきされた。国名こくめい由来ゆらいは、ひとし明天めいてんすめらぎのころ阿倍あべしん胆振いぶり鉏(いぶりさえ)の蝦夷えぞ(えみし)たちを饗応きょうおうしたという故事こじにちなむ。みちみなみからみちひさしにかけての地域ちいき位置いちし、現在げんざい胆振いぶり総合そうごう振興しんこうきょく管内かんない全域ぜんいき渡島ととう総合そうごう振興しんこうきょく管内かんない長万部おしゃまんべまち八雲やくもまちのうちきゅう熊石くまいしまちきゅう落部おちべむらのぞ部分ぶぶん後志しりべ総合そうごう振興しんこうきょく管内かんない虻田あぶたぐん石狩いしかり振興しんこうきょく管内かんない千歳ちとせ恵庭えにわ上川かみかわ総合そうごう振興しんこうきょく管内かんない占冠しむかっぷむらにあたる。

領域りょういき

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1869ねん明治めいじ2ねん)の制定せいてい領域りょういきは、現在げんざい北海道ほっかいどう胆振いぶり総合そうごう振興しんこうきょく管内かんない下記かきくわえた区域くいき相当そうとうする。

沿革えんかく

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ここでは、胆振いぶりこく成立せいりつまでについても記述きじゅつする。

日本書紀にほんしょきには、ひとし明天めいてんすめらぎ5ねん659ねん)に阿倍比羅夫あべのひらふ後方こうほう羊蹄ぎしぎし(しりべし)に政所まんどころこおりりょういたとあり、後方こうほう羊蹄ぎしぎし北海道ほっかいどうない比定ひていするのであれば、虻田あぶたぐんいき羊蹄山ようていざん付近ふきんとのせつや、古墳こふん存在そんざい出土しゅつどひんなどから千歳ちとせぐんいき恵庭えにわあるいは千歳ちとせ)とのせつ[* 1]もある(参考さんこう:奄美あまみ群島ぐんとう歴史れきし#古代こだい)。一方いっぽう胆振いぶり(いぶりさえ)について新井あらい白石はくせき勇払ゆうふつぐんいき(ユウフツ場所ばしょ)にたるとのせつとなえている(#外部がいぶリンク参照さんしょう。)。なお、後方こうほう羊蹄ぎしぎし胆振いぶり鉏ともに、比定ひてい秋田あきたけんから青森あおもりけんもしくは北海道ほっかいどうのどこかと推定すいていされているものの、それ以上いじょう地域ちいきしぼみはすすんでいない。 また、千歳ちとせぐん域内いきない現在げんざい恵庭えにわ)では蝦夷えぞ征討せいとうさかんであった飛鳥あすか時代ときよから平安へいあん時代じだい初期しょきにかけしげりょう古墳こふんぐん柏木かしわぎひがし遺跡いせき)がきずかれた。この古墳こふんぐんからは土師器はじき須恵すえのほか和同開珎わどうかいちん律令りつりょう時代じだいろく以下いか位階いかいしめおび金具かなぐなどの副葬品ふくそうひん発見はっけんされ、構造こうぞう石狩いしかりこく札幌さっぽろぐん江別えべつ古墳こふんぐんきた東北とうほく終末しゅうまつ古墳こふん同様どうよう群集ぐんしゅうふんである。その千歳ちとせぐんいきではすめらぎあさじゅうぜにのひとつで平安へいあん時代じだい流通りゅうつうしたたかし平永ひらながたから現在げんざい恵庭えにわしげりょう8遺跡いせきから、おなじくとみ寿ことぶき神宝しんぽうなどが現在げんざい千歳ちとせウサクマイ遺跡いせきぐんから出土しゅつどしている。当時とうじ胆振いぶりこくいきではこすぶん文化ぶんかさかえていたが、の10世紀せいき中葉ちゅうよう渡島ととう半島はんとう日本海にほんかいがわではこすぶん文化ぶんか本州ほんしゅう土師器はじき文化ぶんか混合こんごうてき文化ぶんかである青苗あおなえ文化ぶんか成立せいりつした。青苗あおなえ文化ぶんか人々ひとびとこす文人ぶんじんがわ帰属きぞく意識いしきをもちながら(出土しゅつどした青苗あおなえ文化ぶんかわんそこには、日本海にほんかい沿岸えんがんこす文人ぶんじん祖先そせんおなじくすることをしめ刻印こくいんがみられる[1])、北海道ほっかいどう西部せいぶ東北とうほく北部ほくぶとのあいだ交易こうえきたずさわっていた。鎌倉かまくら時代ときよ文献ぶんけん諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』から、中世ちゅうせい蝦夷えぞには日ノ本ひのもと唐子からこわたりとうというみっつの集団しゅうだんがあったことがられているが、そのうちのわたりとうは、考古こうこ学者がくしゃ瀬川せかわ拓郎たくろう推察すいさつによると古代こだい青苗あおなえ文化ぶんかじん後裔こうえいであった[2]みちみなみ住民じゅうみんであったとかんがえられるわたりとう活動かつどう範囲はんい渡島ととう半島はんとう周辺しゅうへん地域ちいきであった。また、日ノ本ひのもとについては北方ほっぽうしょ民族みんぞくとするせつもあるが[3]金田一きんだいち京助きょうすけ推定すいていによると北海道ほっかいどう太平洋たいへいようきし住民じゅうみんであった[4][* 2]鎌倉かまくら幕府ばくふ夷島えぞしまについて、当時とうじ日本にっぽんこく外部がいぶでありながら支配しはいけんおよ地域ちいきとして位置いちづけ、蝦夷えぞ子孫しそん自称じしょうする津軽つがる安藤あんどう蝦夷えぞ管領かんりょう代官だいかんとして蝦夷えぞ管轄かんかつになわせた(『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』では安藤あんどう蝦夷えぞ管領かんりょうであるかのようにしるされているが、厳密げんみつには蝦夷えぞ管領かんりょう正員せいいん北条ほうじょうで、安藤あんどうはその代官だいかんしょく家職かしょくとしていた)[5]南北なんぼくあさから室町むろまち初期しょきには、本州ほんしゅう日本海にほんかい沿岸えんがん夷島えぞしまむす交易こうえき要衝ようしょうであったじゅうさんみなとったしたこく安藤あんどうが、日本海にほんかい海運かいうん商品しょうひん流通りゅうつう多大ただい影響えいきょうりょくゆうする武装ぶそうしたうみしょうてき豪族ごうぞくとして活動かつどうし、にちほん将軍しょうぐんしょうして権勢けんせいっていた。にちほん将軍しょうぐん正式せいしきかんめいではなく通称つうしょうであるが、「にちほん」とばれた地域ちいき当時とうじ日本にっぽんにおけるひがし境界きょうかいであったきた東北とうほくよりも東方とうほうし、この場合ばあい本州ほんしゅう津軽つがるそとはまから夷島えぞしま渡島ととう半島はんとうにかけての地域ちいき)を支配しはいする権力けんりょくしゃ意味いみしていたとかんがえられる[6]

室町むろまち時代ときよはいると、応仁おうにんらんのちょうど10ねんまえ康正こうせい3ねん / 長禄ちょうろく元年がんねん1457ねん)にコシャマインのたたか勃発ぼっぱつ胆振いぶりこくいきのほぼ全域ぜんいきでも和人わじん東夷あずまえびすによるたたかいがひろげられた。このとき、平安へいあん時代じだい創建そうけんされた有珠うすぐんいき善光寺ぜんこうじ幌別ほろべつぐんいき刈田かりた神社じんじゃなども荒廃こうはいした。後代こうだい成立せいりつした松前まさきはん史書ししょしん記録きろく』によると、コシャマインのたたかいのきっかけとなった事件じけんこった1456ねんから、1525ねんいたるまで断続だんぞくてきかえされた一連いちれん争乱そうらんによって、それまでひがしは陬川(げんむかわまち鵡川むかわ)、西にしあずかげん余市よいちまち)までの範囲はんい居住きょじゅうしていた和人わじんたちの多数たすうころされ、のこった人々ひとびと松前まさきてんかわしゅうじゅうするようになったという[7]。これらのたたかいの一方いっぽう当事とうじしゃであるみちみなみ館主かんしゅ後世こうせい松前まさきはん文献ぶんけんではわたりとうばれており[8]もと北海道ほっかいどう開拓かいたく記念きねんかん学芸がくげいいん海保かいほ嶺夫みねおは、コシャマインのたたかいは蝦夷えぞ一派いっぱであるわたりとうの2集団しゅうだん唐子からこおよび日ノ本ひのもと)とのたたかいであったと解釈かいしゃくしている[9]海保かいほは、中世ちゅうせいにおける蝦夷えぞとはあたりみん意味いみするものであってかならずしも大和やまと民族みんぞくにとっての民族みんぞくだけをしていたのではなかったとの立場たちばる)。ただし『しん記録きろく』では、わたりとうみなもと頼朝よりとも奥州おうしゅう合戦かっせんさいきた東北とうほくから夷島えぞしまわたった人々ひとびと鎌倉かまくら時代じだい夷島えぞしま流刑りゅうけいされた強盗ごうとうなどの子孫しそんであるとしるされているが[10]入間田いりまだ宣夫のりおは、この時代じだいみちみなみ館主かんしゅそう構成こうせいいんとしておも活躍かつやくしたのは、もとは15世紀せいきなかごろまでに夷島えぞしまわたったきた東北とうほく土豪どごう浪人ろうにんしゅであったと指摘してきしている[11]菊池きくち勇夫いさおは、わたりとう日本人にっぽんじん中国人ちゅうごくじん混在こんざいしていた東シナ海ひがししなかいやまとして、当時とうじみちみなみでは和人わじんとアイヌのあいだに「やまと寇的状況じょうきょう」が成立せいりつしており[12]わたりとうはアイヌとも和人わじんともつかぬマージナルな存在そんざいであったとろんじた[13]。このような和人わじんけい・アイヌけいりょうぞくてき集団しゅうだんであったわたりとうは、コシャマインのたたかいに代表だいひょうされるこの戦乱せんらん時代じだいに、和人わじんかアイヌのいずれかの勢力せいりょくまれていったと想定そうていされる[14]。また、15世紀せいき本州ほんしゅうから夷島えぞしま進出しんしゅつしてみちみなみ交易こうえき体制たいせい浸食しんしょくした和人わじん商人しょうにんてき武装ぶそう集団しゅうだんのちみずかわたりとう名乗なのるようになり[15]、その一方いっぽう元来がんらいわたりとう青苗あおなえ文化ぶんかじん後裔こうえい)は最終さいしゅうてき和人わじん同化どうかした[16]、とする旭川あさひかわ博物館はくぶつかんもと館長かんちょう瀬川せかわ拓郎たくろう意見いけんもある。

江戸えど時代じだいころになると、松前まさきはんによって松前まさきはん家臣かしん蝦夷えぞ人々ひとびと交易こうえきおこなじゅうヶ所かしょ場所ばしょとよばれる知行ちぎょうひらかれ、各地かくち交易こうえき中心ちゅうしん松前まさきはん出先でさき機関きかんであるうん上屋うわやかれた。アイヌの人々ひとびと百姓ひゃくしょう身分みぶん位置付いちづけられ、撫育ぶいく政策せいさくオムシャさいおきてしょ伝達でんたつのほかおつめい小使こづかい土産みやげなどやく蝦夷えぞ任命にんめい扶持ふちまい支給しきゅう介抱かいほう)などもおこなわれた。制度せいどてき詳細しょうさいしょうじょう場所ばしょ知行ちぎょうせいおよび場所ばしょ請負うけおいせいを、漁場ぎょじょうについては北海道ほっかいどうにおけるニシンりょう参照さんしょうされたい。のちかれたぐんとの相対そうたい下記かきのとおりである。

千歳ちとせぐん南部なんぶは、ユウフツ場所ばしょ編入へんにゅうされたかつてのシコツ場所ばしょ相当そうとうする。
※ シュママップ場所ばしょ石狩いしかりじゅうさん場所ばしょのひとつで、石狩いしかりこく札幌さっぽろぐん南部なんぶ北広島きたひろしま)もふくんだ

江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだい初頭しょとうにかけての胆振いぶりこくいき交通こうつうについて、陸上りくじょう交通こうつう[17]では、沿岸えんがん一部いちぶ地形ちけいけわしくみち途絶とだえる箇所かしょがあり、ふねえる区間くかんがあった。寛政かんせい年間ねんかんになり山越やまぐいぐん虻田あぶたぐんさかいえる長万部おしゃまんべ - 虻田あぶたあいだみち国道こくどう37ごう静狩しずかりとうげ前身ぜんしん)や室蘭むろらん - 幌別ほろべつあいだみちなどが開削かいさくされ、渡島ととうこくはこかんから道東どうとうせん島国しまぐに方面ほうめんいた陸路りくろ室蘭むろらん以西いせい国道こくどう37ごう室蘭むろらん - 苫小牧とまこまいあいだ札幌さっぽろ本道ほんどう国道こくどう36ごう苫小牧とまこまい以東いとう国道こくどう235ごう前身ぜんしん)がつながっている。また、文化ぶんか年間ねんかんには勇払ゆうふつから千歳ちとせいた千歳ちとせえつが、安政あんせい4ねん1857ねん)には後志しりべこく小樽おたるぐんぜにはこから石狩いしかりこく札幌さっぽろぐんせんさいいた札幌さっぽろえつ新道しんどう千歳ちとせ新道しんどう)などが勇払ゆうふつ場所ばしょ請負人うけおいにん山田やまだぶんみぎ衛門えもんらによって開削かいさくされ太平洋たいへいようきし日本海にほんかいきし陸路りくろむすんだ。千歳ちとせえつ札幌さっぽろえつ新道しんどう札幌さっぽろ本道ほんどう国道こくどう36ごう前身ぜんしんにあたる。また、胆振いぶり国内こくない河川かせんには藩政はんせい時代じだいからはい使おけけんまでのあいだ10箇所かしょ渡船場とせんばすうがあり、わたぶねなども運行うんこうされていた。 海上かいじょう交通こうつう畿内きない奥羽おうう日本海にほんかいがわなど道外みちそと方面ほうめんとのあいだ北前きたまえせん航路こうろひらかれ、室蘭むろらん苫小牧とまこまいなどにもよせこうしていた。

江戸えど時代じだい初期しょき寛永かんえい17ねん1640ねん)、内浦湾うちうらわん対岸たいがんにあたる渡島ととうこくいき駒ヶ岳こまがたけやまたい崩壊ほうかいだい津波つなみ発生はっせい胆振いぶりこくいき多数たすう犠牲ぎせいしゃている。このとき駒ヶ岳こまがだけだい噴火ふんか寛永かんえいだい飢饉ききんにも影響えいきょうあたえている。正保まさやす元年がんねん1644ねん)には、胆振いぶりこくいきふくむ「正保しょうほう御国みくに絵図えず」が作成さくせいされた。寛文ひろふみ9ねん1669ねん)6がつ日高ひだかこくいき中心ちゅうしんこったシャクシャインのたたかにより、胆振いぶりこく域内いきないでも多数たすう和人わじん殺害さつがいされた。蝦夷えぞ軍勢ぐんぜいアイヌ)は松前まさきかったが、山越やまぐいぐんいきクンヌイ(げん長万部おしゃまんべまち国縫くんぬい)での合戦かっせん鉄砲てっぽう主力しゅりょくとする松前まさきはん敗北はいぼく形成けいせい逆転ぎゃくてんのち平定へいていされている。元禄げんろく13ねん松前まさきはん蝦夷えぞ地名ちめいしるした松前まさきとうごうちょう幕府ばくふ提出ていしゅつし、正徳まさのり5ねん(1715ねん)には、「じゅうしゅうとうからふとしチュプカ諸島しょとうかん察加」ははんりょう報告ほうこく


その胆振いぶりこくいきではふるくから火山かざん活動かつどうさかんである。虻田あぶたぐんいき有珠山うすざん寛文ひろふみ3ねん1663ねん)、明和めいわ6ねん1769ねん)、文政ぶんせい5ねん1822ねん)、よしみひさし6ねん1853ねん)の噴火ふんかられ、とく文政ぶんせい5ねん噴火ふんかでは火砕流かさいりゅうのため虻田あぶた集落しゅうらく全滅ぜんめつ甚大じんだい被害ひがい多数たすう犠牲ぎせいしゃしている。勇払ゆうふつぐんいき千歳ちとせぐんいきまたが樽前山たるまえやま寛文ひろふみ7ねん1667ねん)、もとぶん4ねん1739ねん)、文化ぶんか元年がんねん1804ねん)の噴火ふんか記録きろくのこる。また、蟠渓ばんけい温泉おんせん最上もがみ徳内とくないの『蝦夷えぞ草紙ぞうし』にもしるされた登別温泉のぼりべつおんせんなどがふるくからられている。

江戸えど時代じだい後期こうき胆振いぶりこくいきひがし蝦夷えぞぞくしていた(山越やまぐいぐんいき和人わじん)。国防こくぼうのため寛政かんせい11ねん1799ねんひがし蝦夷えぞおおやけ御料ごりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)とされ、よく12ねん1800ねん)には八王子はちおうじせんにん同心どうしんせん人頭じんとうはこかん奉行ぶぎょう支配しはい調ちょうやくはらたねあつしおとうとしんすけいちぎょう移住いじゅうし、現在げんざい苫小牧とまこまい基礎きそきずいた。またとおる元年がんねん1801ねん)には山越やまごえない関所せきしょもうけられた。これは渡島ととうこく亀田かめだぐんから移転いてんしたもので、蝦夷えぞへの武器ぶきみなどをまる国内こくないさいきた関所せきしょであった。同年どうねん伊能いのう忠敬ちゅうけい沿岸えんがん測量そくりょうし、のちだい日本にっぽん沿海えんかい輿地よちぜん作成さくせいされた。文化ぶんか4ねん以降いこうぜん蝦夷えぞのアイヌじん宗門しゅうもん人別にんべつあらためちょう戸籍こせき)が作成さくせいされるようになる(江戸えど時代じだい日本にっぽん人口じんこう統計とうけい参照さんしょう)。文化ぶんか10ねんはこかんかう高田屋たかだや嘉兵衛かへえせたディアナごう室蘭むろらん寄港きこう。(1813ねん文政ぶんせい4ねん1821ねん)には一旦いったん松前まさきはんりょうふくし、ひろし2ねんと3ねん松浦まつうら武四郎たけしろうおとずれた。安政あんせい2ねん1855ねんふたたおおやけ御料ごりょうとなり、ホロベツ以西いせい南部なんぶはんが、シラヲイ以東いとう仙台せんだいはん警固けいご担当たんとうした。このとき南部なんぶはん室蘭むろらんぐんいきもとじん)とヤムクシナイのヲシャマンベ(ぶん屯所とんしょ)に、仙台せんだいはんはシラヲイにそれぞれ陣屋じんやもうけている。安政あんせい3ねんからどう5ねんにかけ、はこかん奉行ぶぎょうしょ役人やくにんとなった松浦まつうら武四郎たけしろう調査ちょうさのためふたた胆振いぶり足跡あしあとのこした。安政あんせい6ねん1859ねん)の6はんぶんりょう以降いこう一部いちぶ南部なんぶはんりょう虻田あぶたぐん南西なんせい絵鞆えとも幌別ほろべつぐん)と仙台せんだいはんりょう白老しらおいぐん)であったが、かくはん警固けいごおおやけ御料ごりょうのままであった。戊辰戦争ぼしんせんそうとき江戸えど開城かいじょうこう成立せいりつした蝦夷えぞ共和きょうわこく開拓かいたく奉行ぶぎょう室蘭むろらん奉行ぶぎょう)がもうけられ、室蘭むろらんに250めい移住いじゅうはこかん戦争せんそう終結しゅうけつまで開拓かいたく守備しゅびおこなった。慶応けいおう4ねん4がつ12にちはこかん裁判所さいばんしょ(うるう4がつ24にちはこかん改称かいしょう)の管轄かんかつとなった。

国内こくない施設しせつ

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寺院じいん

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寺院じいん比叡山ひえいざんそう円仁えんにん平安へいあん時代じだいてんちょう3ねん826ねん)に開山かいさんしたとつたわり、江戸えど時代じだいには蝦夷えぞさんかんてらのひとつとされた有珠うす善光よしみつてらがかつて有珠うすぐん一部いちぶだった伊達だてにある。このほか文政ぶんせい年間ねんかん山越やまごえない建立こんりゅうされた阿弥陀堂あみだどう起源きげんとする山越やまぐいぐん八雲やくもまち)の円融寺えんゆうじや、室蘭むろらんぐん室蘭むろらん)のつね照山てるやままん冏寺(まんけいじ)、山越やまぐいぐん長万部おしゃまんべまち)の光明山こうみょうさん善導寺ぜんどうじなどが江戸えど時代じだい建立こんりゅうされている。

神社じんじゃ

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神社じんじゃ神仏しんぶつ混合こんごう平安朝へいあんちょう時代じだい往来おうらいした和人わじん地元じもとじんとともにたてまつときしたとつたわる刈田かりた神社じんじゃ江戸えど時代じだい初期しょき建立こんりゅうされた弁天べんてんどう起源きげんとする千歳ちとせ神社じんじゃや、寛政かんせい年間ねんかんにはすでに存在そんざいしていただいうす山神さんじんしゃなど、下記かきのものはいずれも江戸えど時代じだい以前いぜん創建そうけんである。

きゅう社格しゃかくは、千歳ちとせ神社じんじゃ郷社ごうしゃである。

地域ちいき

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胆振いぶりこく以下いかの8ぐん構成こうせいされた。

江戸えど時代じだいはん

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  • 松前まさきはんりょう松前まさき(1まんせきかく)1599ねん-1799ねん・1821ねん-1855ねん胆振いぶり全域ぜんいき
  • 南部なんぶはんモロラン陣屋じんや、1859ねん-1868ねん虻田あぶた場所ばしょ南西なんせい絵鞆えとも場所ばしょ幌別ほろべつ場所ばしょ
  • 仙台せんだいはん白老しらおいもと陣屋じんや、1859ねん-1868ねん(アヨロ場所ばしょ白老しらおい場所ばしょ
ぶんりょう支配しはいはん

ぶんりょう支配しはい有珠うすぐん室蘭むろらんぐん幌別ほろべつぐんさんぐん(のち虻田あぶたぐんも)は仙台せんだいはんりょう

人口じんこう

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明治めいじ5ねん(1872ねん)の調査ちょうさでは、人口じんこう6251にんかぞえた。

胆振いぶりこく合戦かっせん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 北海道ほっかいどう歴史れきし協議きょうぎかいへん歴史れきしだいよんごう河野こうの廣道ひろみち というさぎ苫小牧とまこまいちかくの竹浦たけうら胆振いぶり鉏=勇払ゆうふつまた江別えべつ後方こうほう羊蹄ぎしぎし江別えべつ苫小牧とまこまいあいだ比定ひていするせつなど
  2. ^ かれらはシュムクル祖先そせんにあたる。

出典しゅってん

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  • 函館はこだて通説つうせつへんだい1かん
  • 北海道ほっかいどうしん北海道ほっかいどう だいさんかん通説つうせつ
  1. ^ 瀬川せかわ拓郎たくろう 『アイヌと縄文じょうもん』〈ちくま新書しんしょ〉、筑摩書房ちくましょぼう、2016ねん、202ぺーじ
  2. ^ 瀬川せかわ拓郎たくろう 『アイヌの歴史れきし - うみたからのノマド』 講談社こうだんしゃ、2007ねん、215-227ぺーじ
  3. ^ なみがわ健治けんじ 『アイヌ民族みんぞく軌跡きせき山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2004ねん、27ぺーじ
  4. ^ 瀬川せかわ拓郎たくろう 『アイヌの歴史れきし - うみたからのノマド』 講談社こうだんしゃ、2007ねん、226ぺーじ
  5. ^ 榎森えのもりすすむ 『アイヌ民族みんぞく歴史れきしくさふうかん、2015ねん、44-45ぺーじ
  6. ^ 榎森えのもりすすむ 『アイヌ民族みんぞく歴史れきしくさふうかん、2015ねん、120-121ぺーじ
  7. ^ 榎森えのもりすすむ 『アイヌ民族みんぞく歴史れきしくさふうかん、2015ねん、116ぺーじ
  8. ^ 海保かいほ嶺夫みねお 『エゾの歴史れきし』 〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、講談社こうだんしゃ、2006ねん、156-157ぺーじ
  9. ^ 海保かいほ嶺夫みねお 『エゾの歴史れきし』 〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ、2006ねん、152-153ぺーじ、168ぺーじ
  10. ^ 海保かいほ嶺夫みねお 『エゾの歴史れきし』 〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ、2006ねん、148-149ぺーじ
  11. ^ 入間田いりまだ宣夫のりお小林こばやし真人まさと斉藤さいとう利男としおへんきた内海うつみ世界せかい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねん、68-71ぺーじ
  12. ^ 入間田いりまだ宣夫のりお小林こばやし真人まさと斉藤さいとう利男としおへんきた内海うつみ世界せかい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねん、178-179ぺーじ
  13. ^ 瀬川せかわ拓郎たくろう 『アイヌの歴史れきし - うみたからのノマド』 講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉、2007ねん、227ぺーじ
  14. ^ 関口せきぐちあきら田端たばたひろし桑原くわばら真人まさと瀧澤たきざわただしへん 『アイヌ民族みんぞく歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2015ねん、65ぺーじ
  15. ^ 瀬川せかわ拓郎たくろう 『アイヌと縄文じょうもん』〈ちくま新書しんしょ〉、筑摩書房ちくましょぼう、2016ねん、210-211ぺーじ
  16. ^ 瀬川せかわ拓郎たくろう 『アイヌの歴史れきし - うみたからのノマド』 講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉、2007ねん、227-230ぺーじ
  17. ^ 北海道ほっかいどう道路どうろ北海道庁ほっかいどうちょう 大正たいしょう14ねん(1925ねん)6がつ10日とおか出版しゅっぱん

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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