阿倍比羅夫あべのひらふ

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阿倍比羅夫あべのひらふ
だい日本にっぽん名将めいしょうかん 阿部あべ比羅夫ひらふ』(月岡つきおか芳年よしとし
時代じだい 飛鳥あすか時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
官位かんい だい錦上きんじょう筑紫つくしだいおさむそち
主君しゅくん すめらぎごく天皇てんのう孝徳天皇こうとくてんのうひとし明天めいてんすめらぎ
氏族しぞく 阿倍あべ引田ひきたしん
父母ちちはは ちち不明ふめい阿倍あべ
宿やど麻呂まろやす麻呂まろ船守ふなもり
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阿倍あべ 比羅夫ひらふ(あべ の ひらふ、なま没年ぼつねんしょう)は、7世紀せいき中期ちゅうき飛鳥あすか時代ときよ)の日本にっぽん将軍しょうぐん氏姓しせい阿倍あべ引田ひきたしんかんむりだい錦上きんじょうえつこくもりこう将軍しょうぐんだいおさむそち歴任れきにんした。ひとし明天めいてんすめらぎ4ねん658ねん)から3年間ねんかんをかけて日本海にほんかいがわきた航海こうかいして蝦夷えぞ服属ふくぞくさせ、東北とうほく以北いほくにて粛慎交戦こうせんした。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

阿倍あべふるくからこし北陸ほくりくどう方面ほうめん計略けいりゃく活躍かつやくした氏族しぞくである。ふくせいおおられ、阿倍あべ引田ひきたしんもそのひとつ。引田ひきたしん性格せいかくについては、比羅夫ひらふ活動かつどうにも関連かんれんしてせつある。ひとつは中央ちゅうおう豪族ごうぞくである阿倍あべいち支族しぞくとするもの、もうひとつはえつこく地方ちほう豪族ごうぞくとするものである。

中央ちゅうおう出身しゅっしんせつは、当時とうじ国司こくし中央ちゅうおう豪族ごうぞくから派遣はけんされていたことを根拠こんきょとする[1]

比羅夫ひらふ父親ちちおやかならずしもはっきりしないが、各種かくしゅ系図けいず[2]では、阿倍あべ宗族そうぞくである阿倍あべとするものがおおい。

一方いっぽう太田おおたあきらえつ国守こくしゅであることを根拠こんきょえつ国造くにのみやつこいえ一族いちぞく可能かのうせい指摘してきしている[3]

なお、『日本書紀にほんしょき』で比羅夫ひらふ活動かつどうしる部分ぶぶんは、当時とうじ阿倍あべ宗家そうけ阿倍あべ主人しゅじんぬのぜい)が提出ていしゅつしたいえによると推定すいていされているが、「阿倍あべしんく)」と人名じんめいしるされていない。歴史れきし学者がくしゃ坂本さかもと太郎たろうは、しょ編纂へんさん阿倍あべ宗家そうけ引田ひきたこころよおもわなかったために、えてかくして阿倍あべ活躍かつやくとだけしるした史料しりょう提出ていしゅつしたのではないかと推定すいていしている[4]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

大化たいか5ねん649ねん左大臣さだいじん阿倍内麻呂あべのうちまろぼっして阿倍あべ宗家そうけえたため、比羅夫ひらふ傍系ぼうけい出身しゅっしんながら阿倍あべ一族いちぞくさい有力ゆうりょくしゃとして、じょうてき地位ちいいたと想定そうていされる[5]

蝦夷えぞ征討せいとう・粛慎討伐とうばつ[編集へんしゅう]

ひとし明天めいてんすめらぎ4ねん658ねん)4がつからひとし明天めいてんすめらぎ6ねん660ねん)5がつにかけて、えつ国守こくしゅであった比羅夫ひらふ蝦夷えぞ粛慎征討せいとうおこなったことが『日本書紀にほんしょき』にしるされている。これらには重複じゅうふく指摘してきする意見いけんのほか、いつから30ねんほどまえには一部いちぶ事象じしょうのみを史実しじつとする著書ちょしょもあった[5]。また、渡島ととうをはじめ、日本書紀にほんしょきかれている地名ちめいもと明治めいじ制定せいていされた地名ちめいがあるため、同定どうていには慎重しんちょう判断はんだんようする。

  • ひとし明天めいてんすめらぎ4ねん658ねん)4がつ船軍ふないくさ180せきひきいて蝦夷えぞち、飽田あきた渟代ぐん蝦夷えぞ降伏ごうぶくさせる。降伏ごうぶくした蝦夷えぞ酋長しゅうちょうおんしょうおつじょうかんむりあたえるとともに、渟代津軽つがるぐんぐんりょうさだめた。また、有間あんまはま渡島ととう蝦夷えぞ饗応きょうおうしている[6]同年どうねん7がつには蝦夷えぞ200にんあまりが朝廷ちょうてい参上さんじょうして物資ぶっし献上けんじょうするとともに、饗応きょうおうけた[7]
  • 同年どうねん比羅夫ひらふ粛慎(みしはせ)たいらげ、きているヒグマ2ひきとヒグマのかわ70まい献上けんじょうする[8]。粛慎(みしはせ)の出自しゅつじについては諸説しょせつある。詳細しょうさい粛慎 (みしはせ)こう参照さんしょう
  • ひとし明天めいてんすめらぎ6ねん660ねん)3がつ船軍ふないくさ200そうひきいて粛慎をつ。比羅夫ひらふ大河たいが石狩川いしかりがわあるいは後志利別川しりべしとしべつがわかんがえるせつがある)のほとりで、粛慎にめられた渡島ととう蝦夷えぞたすけをもとめられる。比羅夫ひらふは粛慎をぬさまかないべんとう(へろべのしま。粛慎の本拠地ほんきょち樺太からふと[13]奥尻おくしりとうとするせつなどがある)までってたたかい、能登のと馬身ばしんりゅう戦死せんしするもこれをやぶ[14]同年どうねん5がつ蝦夷えぞ50にんあまりをけんじ、粛慎の47にん饗応きょうおうした[15]

白村はくそんこうたたか[編集へんしゅう]

天智天皇てんぢてんのう元年がんねん662ねん)8がつ中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんぢてんのう)のいのちにより、しん征討せいとうぐんのち将軍しょうぐんとして百済くだら救援きゅうえんのために朝鮮半島ちょうせんはんとうかい、武器ぶき食糧しょくりょうおくった(このときかんむり大花おおはな)。しかし、よく天智天皇てんぢてんのう2ねん663ねんしんとう連合れんごうぐんやぶれる(白村はくそんこうたたか)。この敗北はいぼくにより百済くだら再興さいこうはならなかった。

天智天皇てんぢてんのう3ねん664ねん新冠にいかっぷ制度せいどかんむりじゅうろくかい)の制定せいていともなってだい錦上きんじょうじょせられる。またこのころ筑紫つくしだいおさむそちにんぜられている(『ぞく日本にっぽん』)[16]白村はくそんこうたたかいののち、とうしん来襲らいしゅうそなえ、軍事ぐんじ経験けいけんゆたかな比羅夫ひらふ九州きゅうしゅう地方ちほう防衛ぼうえい責任せきにんしゃにんじたものと想定そうていされる[5]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

阿倍比羅夫あべのひらふ登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく [編集へんしゅう]

  1. ^ 北海道ほっかいどう歴史れきし協議きょうぎかいへん歴史れきしだいよんごう河野こうの廣道ひろみち 胆振いぶり鉏=勇払ゆうふつまた江別えべつ後方こうほう羊蹄ぎしぎし江別えべつ苫小牧とまこまいあいだとするせつなど。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 新野しんの直吉なおきち古代こだい東北とうほくのひとびと』19ぺーじ
  2. ^ (「阿倍あべ家系かけい」(『備後びんご福山ふくやま 阿倍あべ所収しょしゅう
  3. ^ 太田おおたあきら姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん角川書店かどかわしょてん、1963ねん
  4. ^ 坂本さかもと太郎たろう日本書紀にほんしょき蝦夷えぞ」189-193ぺーじ
  5. ^ a b c 坂本さかもと,平野ひらの[1990: 34]
  6. ^ 日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ4ねん4がつじょう
  7. ^ 日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ4ねん7がつ4にちじょう
  8. ^ 日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ4ねんじょう
  9. ^ 苫小牧とまこまい駒澤大学こまざわだいがく駒大こまだいざい学生がくせい応援おうえん:インターネット講座こうざだい4かい 北海道ほっかいどう胆振いぶり地方ちほう古代こだいアーカイブ
  10. ^ 地方ちほう研究所けんきゅうじょへん余市よいち」に瀧川たきがわ政次郎まさじろう後方こうほう羊蹄ぎしぎし」=余市よいちせつ
  11. ^ 余市よいちまちでおこったこんなばなし その158「『余市よいち』の刊行かんこう阿倍比羅夫あべのひらふ(その2)」|まちの紹介しょうかい北海道ほっかいどう余市よいちまちホームページ
  12. ^ 日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ5ねんじょう
  13. ^ 西鶴さいかくていよしみ樺太からふとしおり
  14. ^ 日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ6ねん3がつじょう
  15. ^ 日本書紀にほんしょきひとし明天めいてんすめらぎ6ねん5がつ8にちじょう
  16. ^ ぞく日本にっぽん養老ようろう4ねん正月しょうがつ27にちじょう
  17. ^ ぞく日本にっぽん養老ようろう4ねん正月しょうがつ27にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]