阿倍比羅夫
| |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
|
出自 [編集 ]
なお、『
経歴 [編集 ]
蝦夷 征討 ・粛慎討伐 [編集 ]
斉 明天 皇 4年 (658年 )4月 に船軍 180隻 を率 いて蝦夷 を討 ち、飽田 ・渟代二 郡 の蝦夷 を降伏 させる。降伏 した蝦夷 の酋長 ・恩 荷 に小 乙 上 の冠 位 を与 えるとともに、渟代・津軽 二 郡 の郡 領 に定 めた。また、有間 浜 で渡島 の蝦夷 を饗応 している[6]。同年 7月 には蝦夷 200人 余 りが朝廷 に参上 して物資 を献上 するとともに、饗応 を受 けた[7]。同年 、比羅夫 は粛慎(みしはせ)を平 らげ、生 きているヒグマ2匹 とヒグマの皮 70枚 を献上 する[8]。粛慎(みしはせ)の出自 については諸説 ある。詳細 は粛慎 (みしはせ)の項 を参照 。
斉 明天 皇 5年 (659年 )3月 には船軍 180艘 を率 いて再 び蝦夷 を討 つ。比羅夫 は飽田 ・渟代二 郡 の蝦夷 241人 とその虜 31人 、津軽 郡 の蝦夷 112人 とその虜 4人 、胆振 鉏の蝦夷 20人 を一 ヶ所 に集 めて饗応 し禄 を与 える。また、後方 羊蹄 (シリベシ)に至 り、蝦夷 の要請 を受 けて当地 に政所 を置 き郡 領 を任命 して帰 った[9]。「後方 羊蹄 」の具体 的 な場所 は明 らかでないが、余市 説 [10][11](後志 国 余市 郡 )、末期 古墳 のある札幌 ・江別 説 (石狩 国 札幌 郡 )や恵庭 ・千歳 説 (胆振 国 千歳 郡 )があるほか[注釈 1]、江戸 時代 末期 の探検 家 ・松浦 武四郎 は北海道 の尻別川 流域 と比定 し、同地 を後志 国 (しりべしのくに)、同地 の山 を後方 羊蹄山 (しりべしやま)と名付 けた。- この
頃 、再 び粛慎と戦 って帰還 し、虜 49人 を朝廷 に献 じたともいう[12]。
斉 明天 皇 6年 (660年 )3月 に船軍 200艘 を率 いて粛慎を討 つ。比羅夫 は大河 (石狩川 あるいは後志利別川 と考 える説 がある)のほとりで、粛慎に攻 められた渡島 の蝦夷 に助 けを求 められる。比羅夫 は粛慎を幣 賄 弁 島 (へろべのしま。粛慎の本拠地 を樺太 や[13]、奥尻 島 とする説 などがある)まで追 って戦 い、能登 馬身 龍 が戦死 するもこれを破 る[14]。同年 5月 に蝦夷 50人 余 りを献 じ、粛慎の47人 を饗応 した[15]。
白村 江 の戦 い[編集 ]
系譜 [編集 ]
阿倍比羅夫 が登場 する作品 [編集 ]
火 の鳥 (漫画 ) -太陽 編 に登場
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
出典 [編集 ]
- ^
新野 直吉 『古代 東北 史 のひとびと』19頁 。 - ^ (「
阿倍 家系 」(『備後 福山 阿倍 家 譜 』所収 ) - ^
太田 亮 『姓氏 家系 大 辞典 』角川書店 、1963年 - ^
坂本 太郎 「日本書紀 と蝦夷 」189-193頁 。 - ^ a b c
坂本 ,平野 [1990: 34] - ^ 『
日本書紀 』斉 明天 皇 4年 4月 条 - ^ 『
日本書紀 』斉 明天 皇 4年 7月 4日 条 - ^ 『
日本書紀 』斉 明天 皇 4年 条 - ^
苫小牧 駒澤大学 :駒大 在 学生 応援 :インターネット講座 ■第 4回 北海道 と胆振 地方 の古代 史 (アーカイブ) - ^
地方 史 研究所 編 「余市 」に瀧川 政次郎 「後方 羊蹄 」=余市 説 - ^
余市 町 でおこったこんな話 その158「『余市 』の刊行 と阿倍比羅夫 (その2)」|まちの紹介 |北海道 余市 町 ホームページ - ^ 『
日本書紀 』斉 明天 皇 5年 条 - ^
西鶴 定 嘉 「樺太 史 の栞 」 - ^ 『
日本書紀 』斉 明天 皇 6年 3月 条 - ^ 『
日本書紀 』斉 明天 皇 6年 5月 8日 条 - ^ 『
続 日本 紀 』養老 4年 正月 27日 条 - ^ 『
続 日本 紀 』養老 4年 正月 27日 条
参考 文献 [編集 ]
西鶴 定 嘉 「樺太 史 の栞 」坂本 太郎 「日本書紀 と蝦夷 」『日本 古代 史 の基礎 的 研究 』(上 )(東京大学 出版 会 、1964年 。初出 は古代 史 談話 会 『蝦夷 』、1956年 )宝 賀 寿男 『古代 氏族 系譜 集成 』(古代 氏族 研究 会 、1986年 )新野 直吉 『古代 東北 史 の人々 』(吉川弘文館 、1978年 )坂本 太郎 、平野 邦雄 監修 『日本 古代 氏族 人名 辞典 』吉川弘文館 、1990年