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秋田あきたぐん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
出羽でわこく秋田あきたぐん範囲はんい

秋田あきたぐん(あきたぐん)は、秋田あきたけん出羽でわこく羽後うごこく)にあったぐん[1]

ぐんいき

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おおむ上記じょうき区域くいきわせたものだが、行政ぎょうせい区画くかくとして画定かくていされたものではない。 出羽でわこくおよび羽後うごこく最大さいだい面積めんせきゆうするぐんであった。

歴史れきし

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733ねん天平てんぺい5ねん)に出羽でわしがらみ最上川もがみがわ河口かこう付近ふきんから、秋田あきたむら高清こうせ水岡みずおかげん秋田あきたけん秋田あきた)にうつされたことにより、従来じゅうらい出羽いずはこく管轄かんかつながらくにぐんせいおよんでいなかった出羽でわ北部ほくぶ恒常こうじょうてき機関きかん設置せっちされた。そのこの機関きかん秋田あきたじょう改称かいしょうし、760ねん天平てんぴょうたから4ねん)には、出羽でわ国府こくふ秋田あきたじょううつされたことにより国衙こくが機能きのうゆうするようになった。780ねんたからひさし11ねん)には、秋田あきたじょうかいせいはじまり、国府こくふ移転いてんしたのちほん地域ちいき管轄かんかつした。

804ねんのべれき23ねん)、秋田あきたじょうせい停止ていしされ、わりに秋田あきたぐんかれた[1]秋田あきたじょう自体じたい存続そんぞくしたが、結果けっかほん地域ちいきくにぐんせい施行しこうされることとなった。当時とうじは、その管轄かんかつ範囲はんいみなみひがし河辺かべぐんせっし、北端ほくたん馬場目川ばばめかわ流域りゅういき付近ふきんまでではなかったかと推測すいそくされており、そのさらきた蝦夷えぞとして秋田あきたじょう管轄かんかつないぐんせい施行しこうされていない地域ちいきであったとられている。

倭名わみょう類聚るいじゅうしょう (934ねんころ成立せいりつ)以前いぜん設置せっちされたぐんきょうは、添川そえかわさとりつ浦郷うらごう方上かたがみきょうなりしょうきょうこう泉郷いずみごうの5さとである。

そのぐんいききた拡大かくだいしたと推察すいさつされる[1]が、中世ちゅうせい一時期いちじき男鹿半島おがはんとうしょう鹿島かしまぐんかれたことが神社じんじゃむねさつとうから確認かくにんされているほか、きた隣接りんせつして河北かほくぐん(かわきたぐん)が陸奥みちのくこく出羽でわこっ議論ぎろんがあるものの設置せっちされたともられている。1590ねん天正てんしょう18ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし朱印しゅいんじょうにより、陸奥みちのくこく比内ひないぐんおおむ北秋田きたあきたぐんにあたる)が秋田あきたぐん編入へんにゅうされたことにより、近世きんせい秋田あきたぐん成立せいりつした。おな領主りょうしゅになったとはいえ、地域ちいきせいことなるきゅう比内ひないぐん一体いったいあつかわれることになった理由りゆう不明ふめいである。

近代きんだい以降いこう沿革えんかく

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所属しょぞく町村ちょうそん変遷へんせん北秋田きたあきたぐん#ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかく南秋田みなみあきたぐん#ぐん発足ほっそくまでの沿革えんかくをそれぞれ参照さんしょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 竹内たけうちいちついたち秋田あきたぐん」『秋田大あきただい百科ひゃっか事典じてん』 秋田魁新報社あきたさきがけしんぽうしゃ、1981ねんISBN 4870200074

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』 5 秋田あきたけん角川書店かどかわしょてん、1980ねん3がつ1にちISBN 4040010507 
  • きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
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行政ぎょうせい変遷へんせん
- 1879ねん
次代じだい
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