久保田くぼたはん

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天保てんぽうこく絵図えず』より「出羽いずはこく秋田あきたりょう

久保田くぼたはん(くぼたはん)は、江戸えど時代じだいはんひとつ。秋田あきたはん(あきたはん)ともばれる[1]久保田くぼたしろ居城いじろとし、藩主はんしゅ佐竹さたけおさめた。佐竹さたけ室町むろまち時代ときよ以来いらい常陸ひたち守護しゅご家柄いえがらであったが、関ヶ原せきがはらたたかにおける挙動きょどうとがめられて出羽でわこく羽後うごこく秋田あきたうつりふうされた。表高おもてだかやく20まんせきだかやく40まんせき家格かかく大広間おおひろまつめ国持くにもち大名だいみょう

ささえはんとして新田にったぶんされたいえが2いえあるほか、2だい義隆よしたか実家じっか亀田かめだはん岩城いわき)が事実じじつじょうささえはんとなっていた時期じきもあった。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

秋田あきた仙北せんぼく地方ちほうは、戦国せんごくには秋田あきた戸沢とざわ六郷ろくごう小野寺おのでらなどがおさめていたが、関ヶ原せきがはらたたか慶長けいちょう7ねん1602ねん)に小野寺おのでら改易かいえきおおくが常陸ひたちこくてんふうとなり、わって佐竹さたけにゅうふうすることにより近世きんせい大名だいみょう支配しはいはじまった。久保田くぼたにゅうふう以前いぜん佐竹さたけ常陸ひたちいちこく54まんせき大身たいしん大名だいみょうであったが、久保田くぼたはん表高おもてだか当初とうしょ明示めいじされず、60ねん以上いじょうった寛文ひろふみ4ねん1664ねん)にけい20まん5,800せき決定けっていされた。そのため、常陸ひたち以来いらい膨大ぼうだい家臣かしんだんかかえて財政ざいせい慢性まんせいてきくるしい状態じょうたいつづき、たかられき4ねん藩札はんさつ発行はっこう起因きいんする佐竹さたけ騒動そうどうはじめ、せい混乱こんらん領民りょうみん一揆いっき多発たはつした。

そんななかでも歴代れきだい藩主はんしゅ文教ぶんきょう事業じぎょう熱心ねっしんみ、さんだいしょによるはん編纂へんさんきょく秋田あきたかん創設そうせつ八代やしろよしあつし曙山しょざん)による「秋田あきたらん創設そうせつきゅうだい義和よしかずによる藩校はんこう明徳めいとくかん設立せつりつなどの業績ぎょうせきられている。

幕末ばくまつ東北とうほくしょはん幕府ばくふから蝦夷えぞ警備けいびめいじられ、はん安政あんせい2ねん(1855ねん)に増毛ましけでの警備けいびめいじられた[2]安政あんせい3ねん1856ねん)には増毛ましけ拠点きょてんとなるもと陣屋じんやき、宗谷そうや樺太からふとにも陣屋じんやいた[2]警備けいび開拓かいたくは12ねんにわたったが、陣屋じんや建物たてもの簡素かんそだったためおおくの凍死とうししゃ病死びょうししゃたほか、冬季とうき野菜やさい不足ふそくによる水腫すいしゅびょう壊血病かいけつびょう)もありおおとしには30にん以上いじょう病死びょうししたといわれている[2]

明治維新めいじいしんさいしては、当初とうしょ奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかしていたが、はんないでは平田ひらた篤胤あつたね思想しそうをなぞる尊皇そんのう攘夷じょうい形成けいせいされていたこともあり、仙台せんだいはん使者ししゃったうえ同盟どうめい破棄はきした。尊攘そんじょう中心ちゅうしん吉川よしかわ忠行ただゆきちゅうやす親子おやこであり、ちゅうやすかみなりかぜよしじゅくまなんでいた。ちゅうやすは『開花かいかさくろん』において尊皇そんのう思想しそうき12だい藩主はんしゅ佐竹さたけよしがこれをれたための、いちはんでの官軍かんぐん参加さんかであった。孤軍こぐん奮闘ふんとう状態じょうたい奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐん対抗たいこうしたが[3]明治めいじ政府せいふ派遣はけんした佐賀さがはんへいたすけもあってちこたえた(秋田あきた戦争せんそう)。四面楚歌しめんそか状況じょうきょうにしきはたまもったこの事実じじつ成田なりた為三ためぞう作曲さっきょくの「秋田あきた県民けんみん」のさんばんにもしるされている。

慶応けいおう4ねんうるう4がつ21にち1868ねん6月11にち発布はっぷ政体せいたいしょいてはんけんさんせいかれ、佐竹さたけ地方ちほう政権せいけん正式せいしき名称めいしょうとして「久保田くぼたはん」になった。しかしこの地方ちほう古来こらいよりの呼称こしょうは「秋田あきた」であり、「久保田くぼた」は300年来ねんらいしょうとはいえもといち小村こむら俗称ぞくしょうぎないとして、明治めいじ4ねん1がつ9にち1871ねん2がつ27にち)に政府せいふはんめい変更へんこう願書がんしょ提出ていしゅつし、同年どうねん1がつ13にち3月3にち)に秋田あきたはん改称かいしょうした[1]。これが同年どうねん7がつ14にち8がつ29にち)の廃藩置県はいはんちけんで「秋田あきたけん」がかれることにつながった。

領地りょうち石高いしたか[編集へんしゅう]

このふしでは、寛文ひろふみ4ねん(1664ねん)に石高こくだか確定かくていするまでの変遷へんせんしるす。以後いごながわらないが、幕末ばくまつには蝦夷えぞ一部いちぶあたえられ、また戊辰戦争ぼしんせんそうささえはん岩崎いわさきはん雄勝おがつぐん一部いちぶ割譲かつじょうしている。

秋田あきたろくぐん[編集へんしゅう]

関ヶ原せきがはらたたかから2ねん慶長けいちょう7ねん5がつ8にち(1602ねん6がつ27にち)、佐竹さたけ義宣よしのぶ徳川とくがわ家康いえやすから突然とつぜん国替くにがえ命令めいれいけ、与力よりき大名だいみょうであったあしめい盛重もりしげ岩城いわきさだたかし多賀たがたにせん相馬そうま義胤よしたねとも関東かんとうみなみ陸奥みちのく領地りょうちをすべて没収ぼっしゅうされた[4]相馬そうま義胤よしたねのみ同年どうねん10がつ改易かいえき撤回てっかい)。国替くにがえ命令めいれいというのは「義宣よしのぶはねしゅうおい替地かえちたまものへし」というもので、具体ぐたいてき場所ばしょ石高こくだかあきらかにされていなかった[4]てんふうさきられる収益しゅうえき規模きぼまかなえる家臣かしんかずわからないため、義宣よしのぶ家老がろう和田わだあきらためたいし、俸禄削減さくげん小禄ころく家臣かしんはなちを予告よこくする書状しょじょうしている。またこの書状しょじょうによると、この時点じてん義宣よしのぶうたてふうさきを「最上さいじょう」と推測すいそくしていたらしい。

同年どうねん7がつ27にち(1602ねん9がつ12にち)、あらためてはんぶつくだされてうたてふうさきあきらかになったが、「出羽でわ国之くにゆきない秋田あきた仙北せんぼく両所りょうしょすすこう、すべて知行ちぎょうあるべくこう也」というだけで、なお石高こくだか不明ふめいであった[4]。この「秋田あきた仙北せんぼく」は秋田あきたろくぐんのことで、秋田あきたぐん檜山ひやまぐん山本やまもとぐん)・豊島としまぐん河辺かべぐん)・山本やまもとぐん仙北せんぼくぐん)・平鹿ひらかぐん雄勝おがつぐんす。

秋田あきたろくぐん石高こくだかが20まんせき決定けっていするのは寛文ひろふみ4ねん4がつ5にち(1664ねん4がつ30にち)で、2だい藩主はんしゅ佐竹さたけ義隆よしたか治世ちせい後期こうきになってからである[5]。このとき義隆よしたか幕府ばくふ高辻たかつじちょう提出ていしゅつして、当時とうじだかである32まんせき公認こうにんもとめたものの、みとめられなかった[5]。これ以前いぜんには正式せいしき石高こくだかかったことになるが、しょやく負担ふたん大名だいみょうとの席次せきじなどから推測すいそくすると、その時々ときどきによるが15まんせきから30まんせきちょう相当そうとうするあつかいをけていたとかんがえられている[6]

薬師寺やくしじ11ヶ村かそん[編集へんしゅう]

慶長けいちょう10ねん10がつ17にち(1605ねん11月27にち)に幕府ばくふから追加ついかあたえられた土地とちで、下野げやこく河内かわちぐんの7ヶ村かそん薬師寺やくしじむら町田まちだむら田中たなかむら仁良川にらがわむら東根ひがしねむら磯部いそべむら絹板きぬいたむら)と絹板きぬいたむら枝村えだむらである花田はなたむら都賀つがぐんの3ヶ村かそん萱橋かやはしむら飯田いいだむら山田やまだむら)からなる。現在げんざい栃木とちぎけん下野したの小山おやままたが地域ちいきで、そうめいとして薬師寺やくしじばれた[7]石高こくだか最初さいしょ検地けんちで5,414せきのち新田しんでん400せきくわえて、寛文ひろふみ4ねん決定けっていに5,818せきである[8]秋田あきたろくぐんわせてやく20まん5,800せきになる。

義宣よしのぶ参勤交代さんきんこうたいさい奥州おうしゅう街道かいどう脇道わきみちにある薬師寺やくしじへよくっており、鷹狩たかがりをたのしんだり、塩原しおばら温泉おんせんからはこばせた湯治とうじおこなったりしていた[9]

ひゃくさんだん3ヶ村かそん[編集へんしゅう]

山形やまがたはんあるじ最上もがみよししゅん改易かいえきされた直後ちょくごもと8ねん10がつ12にち(1622ねん11月14にち)、きゅう最上さいじょうりょう一部いちぶであった由利ゆりぐんひゃくさんだん(ももさだ)を、久保田くぼたはんりょう一部いちぶ交換こうかんしている[10]由利ゆりぐん北端ほくたんにあるひゃくさんだん新屋あたらしやむらひゃくさんだん浜田はまだむらひゃくさんだん石田いしだ坂村さかむらの3ヶ村かそんで、久保田くぼたじょう非常ひじょう近接きんせつしており軍事ぐんじてき脅威きょういとなっていたことから、最上もがみ改易かいえきともな由利ゆりぐん接収せっしゅうめいじられたのを絶好ぜっこう機会きかいとして義宣よしのぶ幕府ばくふはたらきかけたものである[11]石高こくだかは、正保しょうほう4ねん(1647ねん)の「出羽でわ国一くにいちこく絵図えず」によると3ヶ村かそんわせて688せきである[11]

ひゃくさんだん3ヶ村かそんはこれ以降いこう由利ゆりぐんから河辺かべぐんうつることになるが、えにした久保田くぼたはんりょう土地とちがどこであったかは、明確めいかく史料しりょう判明はんめいしていない[11]一説いっせつとして、由利ゆりぐん接収せっしゅうさい久保田くぼたはん軍勢ぐんぜい待機たいきさせた「由利ゆりりょう境目さかいめ」のむらきみ野村のむらめい沢村さわむら桂根かつらねむら大沢おおさわさとのうち木売きうり沢村さわむら)がのち亀田かめだはんりょうとなっていることから、これらのむらもと久保田くぼたはんりょうで、河辺かべぐん豊島としまぐん)などから由利ゆりぐんうつったのではないかとかんがえられている[12]

財政ざいせい[編集へんしゅう]

藩政はんせい初期しょきやまからの収入しゅうにゅうおおきなはしらとされていた。鉱山こうざんとしては院内銀山いんないぎんざん阿仁あに銅山どうざんなどが稼働かどうしていたが、17世紀せいきには産出さんしゅつりょう激減げきげんし、銅山どうざんのみの稼働かどうとなる。林業りんぎょうでは軍艦ぐんかんしろよう木材もくざいとして秋田あきたすぎ有名ゆうめいで、家老がろう渋江しぶえ内膳ないぜんの「くにたからやまなり」との言葉ことばのこされている。だが乱伐らんばつによって林業りんぎょう一時いちじ衰退すいたいし、林政りんせい改革かいかく必要ひつようになった。

久保田くぼたはんにとってもうひとつの財源ざいげんこめであり、すうわた検地けんち実行じっこうし、年貢ねんぐりつさだめた「くろしるしじょうしょ」をかくむらはいした。天明てんめい3ねんだい飢饉ききん荒廃こうはいした耕地こうち再生さいせいのため、荒廃こうはいであれば直轄ちょっかつ家臣かしん知行ちぎょうわず耕作こうさくみとめた。さらには藩政はんせいつうじて新田にった開発かいはつ注力ちゅうりょくし、家臣かしんだん開発かいはつした新田にったすべ家臣かしんだん知行ちぎょうとすることで開発かいはつへの意欲いよくたかめた。はん財政ざいせい逼迫ひっぱくするにつれ、それはさんぶんいち辛労しんろうめんだかとなる注進ちゅうしんひらき制度せいどあらためられるものの、その努力どりょく結果けっかとおる14ねん1729ねん)にはだかが38まんせきえた。ただし、知行ちぎょうのほぼ7わり家臣かしんだん地方ちほう知行ちぎょうであり、また農村のうそん投機とうきした富農ふのう商人しょうにん貧農ひんのうとの格差かくさひろがった。

殖産しょくさん興業こうぎょうにもつとめ、能代のしろ春慶塗しゅんけいぬり川連かわつら漆器しっきなどの特産とくさんひん育成いくせい同時どうじに、すぎうるし煙草たばこ菜種なたねはじめとする換金かんきん作物さくもつ奨励しょうれいした。しかし、同時どうじ農民のうみんらが稲作いなさくおろかにすることをあんじ、農民のうみん売買ばいばいには重税じゅうぜいした。これにより農民のうみん商人しょうにんすことをふせいだが、商業しょうぎょうにおいて目覚めざましい発展はってんげることはできなかった。養蚕ようさん産業さんぎょうはん主導しゅどうし、3,000りょう借財しゃくざいのこして撤退てったいしたこともある。

これらの税収ぜいしゅうがあった久保田くぼたはんだが、実情じつじょう以上いじょう家臣かしんだんかれらのめる知行ちぎょうにより、財政ざいせいつね圧迫あっぱくされていた。とおる6ねん1721ねん)には家老がろう今宮いまみや大学だいがく組織そしき簡略かんりゃく家臣かしんからの知行ちぎょうじょう畑作はたさく奨励しょうれいなどの実施じっしし、一部いちぶ成功せいこうした部分ぶぶんはあるものの、財政難ざいせいなん根本こんぽんてき解決かいけつすることができなかった。たかられき4ねん1753ねん)にぎんさつ仕法しほう制定せいてい。これははん発行はっこうするぎんさつぎんげようとする制度せいどだったが、結果けっかとしてぎんさつだい暴落ぼうらくし、それともんめ連動れんどうしていたため物価ぶっか高騰こうとうまねいた。翌年よくねんだい凶作きょうさくはそれに拍車はくしゃをかけ、たかられき7ねんはんないぎんさつ推進すいしん反対はんたい内紛ないふんこした。紆余曲折うよきょくせつすえ推進すいしん死罪しざいしょすなどしてようやく解決かいけつされた。(秋田あきた騒動そうどう)

久保田くぼたはんではよんねんいち頻度ひんど凶作きょうさく見舞みまわれて飢饉ききん発生はっせいした。そのたびはん財政ざいせい打撃だげきけ、荒廃こうはいした土地とちした。とく天保てんぽう4ねん1833ねん)のだい凶作きょうさくは「ねんのケカチ」とわれ、はん人口じんこうのうち4ぶんの1が餓死がししたとの記録きろくがある。

戊辰戦争ぼしんせんそうでは周囲しゅうい奥羽おうう列藩れっぱんてきとしたことで領地りょうちの2/3におよ広範囲こうはんい戦火せんかさらされ、しかもしん政府せいふぐんくみして列藩れっぱん同盟どうめいぐん攻撃こうげきされた周辺しゅうへんしょはん藩主はんしゅ藩士はんし西国さいこくからの援軍えんぐんまかないをすべて久保田くぼたはん負担ふたんしたため、軍事ぐんじめんでもはん財政ざいせいげた。戦後せんご政府せいふからあたえられたしょうてん戦費せんぴ戦災せんさいにまったく見合みあわない少額しょうがくぎず、借財しゃくざいえかねた久保田くぼたはん加護かごやませいところでの貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしのごうとしたが、はこかん戦争せんそう終結しゅうけつした明治めいじ2ねん5がつ(1869ねん6がつ)に政府せいふかくはん独自どくじ藩札はんさつ発行はっこう貨幣かへい鋳造ちゅうぞう禁止きんしした。久保田くぼたはん禁止きんし以後いごみつつづけていたとして政府せいふ問題もんだいされ(はん内紛ないふんから密告みっこくおこなわれたとわれている)、明治めいじ4ねんまつもと勘定かんじょう奉行ぶぎょう佐藤さとうすけ大山おおやま茂治しげはるみぎ衛門えもんら11にん大量たいりょう処罰しょばつおこなわれた(秋田あきた贋金にせがね事件じけん[13]。このほかにも八坂やさかまる外債がいさい事件じけんはつおかたかし事件じけんなどもあり、政府せいふからきびしいられることになった久保田くぼたはんは、廃藩置県はいはんちけん直前ちょくぜんきゅう藩主はんしゅ佐竹さたけよしが「つちのえたつこう殆んどあわかげぞくこうさまいたこう」となげ事態じたいおちいっていた[14]

せん売品ばいひん[編集へんしゅう]

かいこうるしろう木材もくざい久保田くぼたはんせん売品ばいひんであった[15]

しろ[編集へんしゅう]

にゅうふう当初とうしょは、秋田あきた居城きょじょうであった土崎つちざきみなとじょうはいり、初代しょだい義宣よしのぶちち義重よししげ六郷ろくごうじょう秋田あきたけん美郷みさとまち六郷ろくごう)にはいするなど、横手よこて大館おおだて能代のしろじゅうしょおよ角館かくのだてなどの要所ようしょにそれぞれに佐竹さたけ一族いちぞく有力ゆうりょく家臣かしん配置はいちした。これははん佐竹さたけ一揆いっき各地かくち勃発ぼっぱつしていたからである。

その佐竹さたけ義宣よしのぶ秋田あきたぐん保戸野ほどの新城しんじょう築城ちくじょう本拠ほんきょとした。この北東ほくとうひがしやまさえぎり、旭川あさひかわえて西側にしがわ外堀そとぼりとした。はねしゅう街道かいどう西にしはいしたことからよんかみ相応そうおうちかしいものとした。本丸ほんまるふくしろいき現在げんざい千秋せんしゅう地区ちくがそれに相応そうおうする。

久保田くぼた城下町じょうかまちそとまち(とまち)とばれる町人ちょうにんまち現在げんざい大町おおまち旭北あさひきたおよ旭南きょくなん地域ちいきはいされた。しかしさむらいまちおよ足軽あしがるまち城下じょうか周辺しゅうへん中通なかとおりみなみどおり楢山ならやま保戸野ほどの手形てがた川口かわぐち配置はいちされ、その範囲はんい町人ちょうにんまちよりひろい。久保田くぼた城下じょうかさむらいまちである証左しょうさであろう。1885ねん明治めいじ18ねん)におこなわれた人口じんこう調査ちょうさによると、当時とうじ秋田あきたまち久保田くぼたまちから改称かいしょう)のそう人口じんこう30,254にんのうち士族しぞくは13,444にん(44.4%)で、秋田あきたけん全体ぜんたいそう人口じんこう642,930にんのうち士族しぞくは34,947にん(5.4%)であったことくらべてあきらかに士族しぞく集中しゅうちゅうしていることわか[16]。これは一般いっぱん士族しぞく生活せいかつ困窮こんきゅう城下町じょうかまちから離散りさんはじめた時期じき調査ちょうさであるため、廃藩置県はいはんちけん時点じてんでの士族しぞく人口じんこうさらたか半々はんはん程度ていどであったとかんがえられている[16]

その幕府ばくふより一国一城いっこくいちじょうれいはっせられおおくのしろつぶされるが、久保田くぼたはん久保田くぼた本城ほんじょう以外いがいに、横手よこて大館おおだての2しろ存続そんぞくゆるされる。これらは久保田くぼたはん地方ちほう統制とうせい一環いっかん貢献こうけんした。このしろかんはいされた重臣じゅうしんところあずか(ところあずかり)とばれ、かれらも各自かくじ家臣かしんだんひきいていたため、しろしょう城下町じょうかまちとしてさかえた。

なお、佐竹さたけ一族いちぞくには本家ほんけほか有力ゆうりょくな4いえがあり、常陸ひたち時代じだい拠点きょてん位置いち由来ゆらいしてそれぞれ東家あずまや西家にしいえみなみきたばれる。西家にしいえ小場おばのち佐竹さたけせいゆるされる)は大館おおだてみなみ湯沢ゆざわきた角館かくのだてはいされ、東家あずまやは4いえ筆頭ひっとうとして久保田くぼた城下じょうか常住じょうじゅうした。このように久保田くぼたはんでは近世きんせいはいっても地方ちほう知行ちぎょうせいつよおこなわれており、藩政はんせい中期ちゅうき以降いこう藩主はんしゅ権限けんげん強化きょうかうごきにたい内紛ないふんもととなることもあった。なお、佐竹さたけ4いえ藩主はんしゅ相続そうぞくけんはなかったが、ささえはん養子ようし藩主はんしゅ相続そうぞくしたケースはある。4いえ子孫しそんとしては、東洋製作所とうようせいさくしょもと社長しゃちょう佐竹さたけ義利よしとし東家あずまやだい18だい当主とうしゅ秋田あきた県知事けんちじ佐竹さたけ敬久たかひさきた21だい当主とうしゅである。

本城ほんじょう[編集へんしゅう]

しろ[編集へんしゅう]

たて[編集へんしゅう]

家老がろう[編集へんしゅう]

以下いか家老がろうになりうるいえ家格かかくじゅんしるす。ただし、まわり本家ほんけのみ記載きさいし、引渡分家ぶんけ割愛かつあいした。

引渡いちばん[編集へんしゅう]

佐竹さたけよしとなり - 義明よしあき - いのち - よりどころ義邦よしくに -  - 義文よしふみ - じゅつもとりん義尚よしなお
  • 佐竹さたけ西家にしいえ出羽でわ大館おおだてしょあずか藩主はんしゅ一門いちもん維新いしん男爵だんしゃく もとは小場おばであり、万治まんじ元年がんねん(1658ねんごろ、3だいよしぼうとき佐竹さたけせいゆるされた。
小場おば義成よしなり - えき佐竹さたけよしぼう - 義武よしたけ義方よしえよしむらつま石塚いしづかよしけいむすめ) - きゅうつま石塚いしづかよしひねむすめ)- しゅ - みき - 義茂よしもち -  - 正一しょういち
  • 石塚いしづか藩主はんしゅ一門いちもん秋田あきた国替くにがえ家老がろうしょくとなる)
石塚いしづかよしたつ小場おば義成よしなりおとうと)- よしぜんさと佐竹さたけ義章よしあき三男さんなん) - よしよりどころけい佐竹さたけ義秀よしひで) - よしひね - よしさとし - よし - 義貞よしさだ
戸村とむら義国よしくに - 義宗よしむね - よしれん - よし輔(義寛よしひろ) - 義見よしみ - よしまこと - よしたかし - どおり - こう - よしとく
  • 今宮いまみや藩主はんしゅ一門いちもん初期しょき修験しゅげん社人しゃにん頭領とうりょう世襲せしゅう

今宮いまみや道義みちよし - 義賢よしかた - 義教よしのり - えいきょうよしとおるおとうと) - よしじき義栄よしひでおとうと) - 義雄よしお

  • 小野岡おのおか藩主はんしゅ一門いちもん
  • 岡本おかもと藩主はんしゅ一門いちもんかく
  • 古内ふるうち藩主はんしゅ一門いちもん

引渡ばん[編集へんしゅう]

  • 佐竹さたけ東家あずまや久保田くぼた城下じょうか佐竹さたけよんいえ筆頭ひっとう維新いしん男爵だんしゃく
  • 佐竹さたけみなみ出羽でわ湯沢ゆざわしょあずか藩主はんしゅ一門いちもん維新いしん男爵だんしゃく
佐竹さたけ義章よしあき - よしちょ - よしたかし - やす - よしはく義持よしもちやす)=よし舒(よしはく)=(※早川はやかわしょひさし) - 義良のりなが - めずらし - よしはじめ - まこととなり(※早川はやかわあつしとも)=義雄よしお(※早川はやかわちん) - しつしつおとうと

 (※早川はやかわ佐竹さたけよししゅ次男じなんせんじきとする佐竹さたけ一門いちもん。なお、早川はやかわちんめずらしよしはじめ実弟じっていである。)

宇都宮うつのみや宗安むねやす結城ゆうきちょうしょうひかりつな真壁まかべみきおいじゅうみき次男じなん) - あきらつなてんつな - たかしつなたけつな佐竹さたけよしさとし次男じなん、のちの佐竹さたけよし)=あきらつなまごつな - じゅうつな - はじめつな
多賀たがたにせんいえたかしけい彦太郎ひこたろう)=たかしいえたかしけい実弟じってい) - たかしけい将監しょうげん)=かくじゅう戸村とむらしょふう)=みねけいかくじゅう実弟じってい)=みねあきら戸村とむら義見よしみ三男さんなん) - あつしたかしあつしこう佐竹さたけよしさとし三男さんなん) - けい - あつこう - あつしさだあつしあきらあつしさだおとうと、のち
伊達だて盛重もりしげせんそう佐竹さたけ義久よしひさ) - たかしそう - しょときしょそう佐竹さたけ義秀よしひで) - みねそう - あつしそうあつしおもあつしむね実弟じってい) - そう

まわり一部いちぶ[編集へんしゅう]

渋江しぶえ政光まさみつ - せんひかり光久みつひさたかしひかり佐竹さたけ義章よしあき)=しょひかりかくひかり - みねひかり - きょくひかりあきらひかり - あつしひかりひかり - あつひかり
  • 須田すだ(引渡ばんより)
  • 松野まつの(引渡ばんより)
  • 疋田ひきた
疋田ひきたじょうもり - ていせい - 定常ていじょう - 定綱さだつなあつつな) - てい - ていけい
  • 佐藤さとう
  • 梅津うめづ出羽いずは角間川かくまがわ組下くみした支配しはい) - 梅津うめづ忠昭ただあき俳人はいじん梅津うめづ其雫としても有名ゆうめい吉良きら義央よしなか交流こうりゅうがあった)がられる[17]
  • 黒澤くろさわ

藩邸はんてい[編集へんしゅう]

菩提寺ぼだいじ[編集へんしゅう]

本国ほんごくにおける菩提寺ぼだいじ万国ばんこくやま天徳寺てんとくじである。藩主はんしゅ藩士はんし江戸えど死去しきょした場合ばあいには、橋場はしばみょう亀山かめやま総泉寺そうせんじ菩提寺ぼだいじとした。

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

  1. 義宣よしのぶ 1602-1633
  2. 義隆よしたか 1633-1672
  3. しょ 1672-1703
  4. かく 1703-1715
  5. みね 1715-1749
  6. しん 1749-1753
  7. 義明よしあき 1753-1758
  8. よしあつし 1758-1785
  9. 義和よしかず 1785-1815
  10. あつ 1815-1846
  11. よしあつし 1846-1857
  12. 1857-1869

ささえはん[編集へんしゅう]

岩崎いわさきはん[編集へんしゅう]

岩崎いわさきはん(いわさきはん)は久保田くぼたはんささえはん明治維新めいじいしん以前いぜん久保田新田くぼたしんでんはん(くぼたしんでんはん)あるいは秋田あきた新田にったはん(あきたしんでんはん)といった。元禄げんろく14ねん(1701ねん)に久保田くぼたはんだい3だい藩主はんしゅ佐竹さたけよししょおとうと義長よしなが新田にった2まんせき蔵米くらまいぶんしたことにはじまる。以後いご義長よしなが官位かんい佐竹さたけ壱岐いきもりおさめた。

特定とくてい領地りょうちたず、久保田くぼたはん蔵米くらまい支給しきゅうする完全かんぜんささえはんであり、ほんはんとのむすびつきはつよかった。藩主はんしゅ江戸えど定府じょうふで、浅草あさくさ鳥越とりこし上屋敷かみやしきかまえて居住きょじゅうしていたため、鳥越とりこしさまばれた。公家くげしゅ御馳走ごちそうやく駿府すんぷばんつとめたさいには久保田くぼたはんから援助えんじょけていたが、久保田くぼたはん財政ざいせい悪化あっかともなって蔵米くらまい支給しきゅうとどこおることがあった。

幕末ばくまつ王政おうせい復古ふっこにより江戸えど定府じょうふ必要ひつようがなくなると、8だい藩主はんしゅくにりし、慶応けいおう4ねん(1868ねん)3がつ河辺かべぐん椿台つばきだい現在げんざい秋田あきた雄和ゆうわ椿川つばきかわ)に独自どくじ椿台つばきだい陣屋じんやかまえることになった。このため藩士はんしは「椿台つばきだいはん」を自称じしょうした。しかし同年どうねん7がつ戊辰戦争ぼしんせんそう秋田あきた戦争せんそう)が勃発ぼっぱつしたため、実際じっさいには陣屋じんや建設けんせつするひまはなく、久保田くぼたはんとともに奥羽おうう鎮撫ちんぶたいしん政府せいふぐんがわって庄内しょうないぐん交戦こうせんし、椿台つばきだい激戦げきせんとなった(椿台つばきだいだい会戦かいせん)。明治めいじ2ねん(1869ねん)6がつあらためて雄勝おがつぐん岩崎いわさき現在げんざい湯沢ゆざわ岩崎いわさき)へ移転いてんして「岩崎いわさきはん」と改称かいしょうし、周辺しゅうへん土地とち久保田くぼたはんから割譲かつじょうされ、はじめて所領しょりょうった。明治めいじ4ねん4がつ岩崎いわさきはん陣屋じんやかまえたが、同年どうねん7がつ廃藩置県はいはんちけんのため、わずか3ヶ月かげつしか存続そんぞくしなかった。

歴代れきだい藩主はんしゅ以下いかとおり。

  1. 義長よしなが
  2. 義道よしみち
  3. 義忠よしただ
  4. 義知よしとも
  5. よしじゅん
  6. かく
  7. 義理ぎり

江戸えど藩邸はんてい浅草あさくさ鳥越とりごえ上屋敷かみやしきのほか、池之端いけのはた中屋敷なかやしきが、小石川こいしかわ大塚おおつか下屋敷しもやしきがあった。

久保田新田くぼたしんでんはん[編集へんしゅう]

久保田新田くぼたしんでんはん(くぼたしんでんはん)は、久保田くぼたはんささえはん元禄げんろく14ねん(1701ねん)に久保田くぼたはん3だい藩主はんしゅ佐竹さたけよししょおい式部しきぶしょう輔義新田しんでん1まんせき分与ぶんよしたことにはじまる。とおる17ねん(1732ねん)に豊前ぶぜん守義もりよしけん宗家そうけ養子ようしとなったためはいはんする。定府じょうふ大名だいみょう歴代れきだい藩主はんしゅ以下いかとおり。

  1. よし
  2. けん

江戸えど藩邸はんていは、上屋敷かみやしき深川ふかがわ高橋たかはし下屋敷しもやしき深川ふかがわもと木場きばにあった。

亀田かめだはん[編集へんしゅう]

亀田かめだはん(かめだはん)は、出羽いずはこく由利ゆりぐん亀田かめだ政庁せいちょういたはん久保田くぼたはんささえはんではないが、一時いちじてきささえはん同然どうぜんあつかいをされたことがあるため、久保田くぼたはんとの関係かんけいしゅとして概要がいようをここに記載きさいする。

元和がんわ8ねん(1622ねん)に山形やまがたはんあるじ最上もがみ改易かいえきされ、よく元和がんわ9ねん(1623ねん)にきゅう最上さいじょうりょうのうち亀田かめだ岩城いわき信濃しなの中村なかむらはんから2まんせきうたてふうされたことにより成立せいりつした。初代しょだい藩主はんしゅ岩城いわき吉隆よしたか久保田くぼたはん初代はつよ藩主はんしゅである佐竹さたけ義宣よしのぶおいであり、のち嫡子ちゃくしがいなかった義宣よしのぶ養子ようしになって佐竹さたけ義隆よしたか改名かいめい久保田くぼたはんいだ。わって2だい亀田かめだ藩主はんしゅとなったせんたかし義宣よしのぶおとうと義隆よしたか叔父おじ)であり、4だい藩主はんしゅ秀隆ひでたかまでは佐竹さたけ親族しんぞくであった。そのため検地けんち城下じょうか建設けんせつなど初期しょき藩政はんせいへ、久保田くぼたはんから全面ぜんめんてき支援しえんけた。

しかし、領国りょうごく経営けいえい安定あんていしてからも久保田くぼたはん度々たびたび藩政はんせい干渉かんしょうし、独立どくりつした大名だいみょうであるにもかかわらず亀田かめだはんささえはん同然どうぜんあつかいをされた。また、雄物川おものがわ舟運しゅううんめぐっての対立たいりつもあり(雄物川おものがわいちけん)、りょうはん関係かんけい次第しだい悪化あっかしていった。5だい藩主はんしゅりゅう以降いこう仙台せんだいはんあるじ伊達だてから養子ようしっており、佐竹さたけとの血縁けつえん関係かんけいくなった。

慶応けいおう4ねん(1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうでは、当初とうしょ奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい加盟かめいしたものの、12だい藩主はんしゅりゅうくに朝廷ちょうてい上洛じょうらく命令めいれい奥羽おううしょ大名だいみょうなか唯一ゆいいつしたが明治天皇めいじてんのう拝謁はいえつしたほどの勤王きんのうであったことから、久保田くぼたはんなどとともに同盟どうめい離脱りだつ奥羽おうう鎮撫ちんぶたいしん政府せいふぐんがわについた。しかし、先鋒せんぽうとして最前線さいぜんせん酷使こくしされたこと、かんぐん山本やまもとのぼる雲助くもすけ山口やまぐちはん)の横暴おうぼう振舞ふるまいにえかねたこと、庄内しょうないぐん猛攻もうこう怖気おじけづいた山本やまもと本荘ほんじょう亀田かめだ見捨みすてて秋田あきた退却たいきゃくしたことにより、亀田かめだはん庄内しょうないはん和議わぎむすんで再度さいど列藩れっぱん同盟どうめい加入かにゅうし、久保田くぼたはん攻撃こうげきした。結果けっかてき朝敵ちょうてきとなったため、山本やまもとめいじられた久保田くぼたはんへい放火ほうかによって亀田かめだじょう焼失しょうしつしたが、降伏ごうぶく嘆願たんがんしょ受領じゅりょうした黒田くろだ清隆きよたかによって難儀なんぎ事情じじょう考慮こうりょされ、りゅうくに隠居いんきょと2,000せきげんふうという寛大かんだい処分しょぶんまされた。

幕末ばくまつ領地りょうち[編集へんしゅう]

久保田くぼたはん[編集へんしゅう]

上記じょうきのほか、明治維新めいじいしんのちせん島国しまぐに国後くなしりぐんの2まんせきくわわった。

岩崎いわさきはん[編集へんしゅう]

  • 出羽でわこく羽後うごこく
    • 雄勝おがつぐんのうち - 34むら

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 秋田あきた だいよんかん」7ぺーじ
  2. ^ a b c るもい風土ふうど資産しさんカード 北海道開発ほっかいどうかいはつきょく留萌るもい開発かいはつ建設けんせつ、2021ねん10がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『秋田あきたはん』 - コトバンク
  4. ^ a b c 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』p.35。
  5. ^ a b 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』p.38。
  6. ^ 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』pp.38-43。
  7. ^ 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』p.47。
  8. ^ 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』p.54。
  9. ^ 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』pp.54-56。
  10. ^ 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』p.317。
  11. ^ a b c 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』p.318。
  12. ^ 『「梅津うめづ政景まさかげ日記にっき読本とくほん』pp.318-323。
  13. ^ あきた(通巻つうかん69ごう) 1968ねん昭和しょうわ43ねん)2がつ1にち発行はっこう p.38
  14. ^ はやしただしたかし角館かくのだて城下町じょうかまち歴史れきしISBN 978-4-89544-633-4無明むみょうしゃ出版しゅっぱん、1982ねん12月、p.171。
  15. ^ 鬼頭おにがしらひろし文明ぶんめいとしての江戸えどシステム』(2002)p.182
  16. ^ a b 秋田あきた だいよんかん」20ぺーじ
  17. ^ 梅津うめづ忠昭ただあき日記にっき秋田あきたけん公文書こうぶんしょかん
  18. ^ しゃには「おうぎまる」の佐竹さたけ家紋かもんがある。稲荷いなり神社じんじゃかみ使であるきつねぞうい。
  19. ^ くぼたきゅう町名ちょうめい物語ものがたり・まちのち ④江戸えど屋敷やしきあと へん 東京とうきょういまのこる“佐竹さたけ”の紋章もんしょう」『広報こうほうあきた』No.1583、秋田あきた、2004ねん8がつ13にち、2-3ぺーじ2014ねん6がつ14にち閲覧えつらん 
  20. ^ 商店しょうてんがい歴史れきし”. 佐竹さたけ商店しょうてんがい振興しんこう組合くみあい. 2014ねん6がつ14にち閲覧えつらん
  21. ^ 一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん千秋せんしゅう文庫ぶんこ千代田ちよだ)が所蔵しょぞうする「梅田うめだ屋敷やしき絵図えず」や登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい「千住花又瀬崎辺之図」に「佐竹さたけ大膳だいぜん佐竹さたけよしかく屋敷やしき」とえがかれている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

久保田くぼたはん題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
出羽でわこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1602ねん - 1871ねん 久保田くぼたはん秋田あきたはん秋田あきたけん /
岩崎いわさきはん岩崎いわさきけん
次代じだい
秋田あきたけん