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角館かくのだて

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武家ぶけ屋敷やしきどお

角館かくのだて(かくのだて、秋田あきたべん:かぐんだで、かぐだで[1])は、秋田あきたけん仙北せんぼく地名ちめい、およびくに重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく名称めいしょう現在げんざい藩政はんせい時代じだい地割じわり踏襲とうしゅうされ、武家ぶけ屋敷やしきひとし建造けんぞうぶつ数多かずおおのこされており、「みちのくのしょう京都きょうと」ともばれる[2]

歴史れきし

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前史ぜんし

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角館かくのだて戦国せんごく時代じだいには戸沢とざわ本拠地ほんきょちであった。関ヶ原せきがはら合戦かっせん1602ねん慶長けいちょう7ねん)、戸沢とざわ常陸多賀ひたちたがぐんうたてふうじ佐竹さたけ秋田あきた入部にゅうぶ久保田くぼたはんりょうとなる。よく1603ねん慶長けいちょう8ねん)、佐竹さたけ義宣よしのぶ実弟じっていにあたるあし名義めいぎしょうところあずか(ところあずかり)として角館かくのだてはいった。

角館かくのだて城下町じょうかまち建設けんせつ

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角館かくのだて空中くうちゅう写真しゃしん画像がぞう中央ちゅうおう上部じょうぶ小山こやま角館かくのだてしろきずかれていた古城山こじょうさんきたからみなみながれるのが桧木ひのき内川うちかわかわ東岸とうがん左岸さがん)のみどりゆたかまち武家ぶけ屋敷やしき一帯いったい画像がぞう下方かほう東側ひがしがわよりながれるかわ玉川たまがわ強酸きょうさんせいのため水色みずいろあおえる。1975ねん撮影さつえいの6まい合成ごうせい作成さくせい
国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

あしめい入部にゅうぶ当時とうじ角館かくのだて城下町じょうかまち角館かくのだてしろきずかれていた小松山こまつやまげん古城山こじょうさん)の北側きたがわふもとにあったが、狭隘きょうあいうえに、水害すいがい火災かさいにしばしば見舞みまわれたことから、1620ねん元和がんわ6ねん)、現在げんざい位置いちである古城山こじょうさんみなみふもとまち移転いてんさせた。現在地げんざいちは、西にし檜木内川ひきないかわ自然しぜんほりとなっており、きた丘陵きゅうりょうとなり、ひがしにはしょうざんおか点在てんざいして、みなみにひらけ、南西なんせいがわ檜木内川ひきないかわ玉川たまがわ合流ごうりゅうてんがあって天然てんねん要害ようがいをなしている。

あたらしい城下町じょうかまちでは、道路どうろ幅員ふくいんひろげるとともに見通みとおしをける工夫くふうをこらし、下水げすい整備せいびし、火事かじ対策たいさくほどこして武家ぶけ町人ちょうにん寺社じしゃ配置はいちした。火事かじ対策たいさくとしては、南北なんぼく細長ほそながまち東西とうざいつらぬかたち中央ちゅうおうるいきずいた「火除ひよ」をつくり、その北側きたがわ武士ぶし居住きょじゅうであるうちまち南側みなみがわ町人ちょうにん居住きょじゅうであるそとまちとした。同年どうねん一国一城いっこくいちじょうれいにより、角館かくのだてじょうやぶ却された。なお、あし名義めいぎしょうは、当初とうしょ小松山こまつやま中腹ちゅうふくかんかまえたが、義勝よしかつ夫人ふじん城中じょうちゅう妖怪ようかいたため居館きょかんふもとうつしたという伝承でんしょうがある。

あしめい支配しはいは3だいつづいたが、1653ねんうけたまわおう2ねん)のあしめいせん鶴丸つるまるによりあしめい断絶だんぜつわって1656ねんあかりれき2ねん)に佐竹さたけ分家ぶんけである佐竹さたけきた佐竹さたけよしとなり角館かくのだてはいり、以降いこう明治めいじまで11だいつづいた。

しょう京都きょうと

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佐竹さたけよしとなり実父じっぷきょう公家くげ高倉たかくら高倉たかくらひさしけいであり、よしとなり高倉たかくらからの養子ようしである(はは佐竹さたけむすめ)。また、2だい佐竹さたけ義明よしあき公家くげ三条西さんじょうにし一門いちもんである西にし郊家西にし郊実ごうむすめ正室せいしつむかえたことから角館かくのだてにはおおくのきょう文化ぶんか移入いにゅうされた。高倉たかくら衣紋えもんどう家元いえもとであり、西にし郊家の本家ほんけにあたる三条西さんじょうにし歌道かどう香道こうどう家元いえもとであった。西にし郊家自体じたい歌道かどう代々だいだい伝承でんしょうする家柄いえがらである。角館かくのだてには小倉こくらさんなどのきょうにちなんだ地名ちめいられるが、公家くげだしであるよしとなりきょうなつかしんでけたものだといわれている。

戊辰戦争ぼしんせんそう

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戊辰戦争ぼしんせんそうでは久保田くぼたはんしん政府せいふがわったことから、奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかした周辺しゅうへんしょはん侵攻しんこうけることとなった。1868ねん明治めいじ元年がんねん)8がつ28にちには列藩れっぱん同盟どうめいがわ角館かくのだて目前もくぜんまでせまる。角館かくのだてがわ西国さいごくしょはん応援おうえんまちみなみながれる玉川たまがわたて防戦ぼうせんし、日間にちかんにわたる攻撃こうげきしのいだ。その戦局せんきょく好転こうてんせず、周辺しゅうへん久保田くぼたはんがわ拠点きょてん次々つぎつぎうばわれ角館かくのだて次第しだい孤立こりつ武器ぶき弾薬だんやく生活せいかつ物資ぶっし不足ふそくもはなはだしく、角館かくのだて放棄ほうきりざたされるほどであったが、9月17にち-18にち東北とうほくしょはん続々ぞくぞくしん政府せいふ降伏ごうぶくしていくのを列藩れっぱん同盟どうめいがわ久保田くぼたはんりょうからの撤退てったい開始かいしした。戊辰戦争ぼしんせんそうでははんない各地かくち戦場せんじょうとなったが、角館かくのだて戦禍せんかをまぬがれた。

明治めいじ以降いこう

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角館かくのだて藩政はんせい時代じだいつうじて仙北せんぼくぐん政治せいじ経済けいざい中心ちゅうしんであったが、1871ねん明治めいじ4ねん)の廃藩置県はいはんちけん以降いこうはその地位ちい喪失そうしつしてゆく。だいせいした区役所くやくしょこおり町村ちょうそん編制へんせいほうしたぐん役所やくしょ大曲おおまがりかれ、ぐん中心ちゅうしん大曲おおまがりうつった。

角館かくのだて転機てんきおとずれるのは1976ねん昭和しょうわ51ねん)のことである。明治めいじ近代きんだい影響えいきょうけずのこされてきた武家ぶけ屋敷やしき地区ちく一帯いったい6.9ヘクタールが「重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく」として選定せんていされ、それをきっかけにおおくの観光かんこうきゃくおとずれるようになった。1997ねん平成へいせい9ねん)の秋田あきた新幹線しんかんせん開業かいぎょう観光かんこうきゃくはさらに増加ぞうかし、年間ねんかん200まんにんえた。

りゃく年表ねんぴょう

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観光かんこう

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角館かくのだてかば細工ざいく伝承でんしょうかん

角館かくのだてさくら名所めいしょとしてられる。武家ぶけシダレザクラが「角館かくのだてのシダレザクラ」としてくに天然記念物てんねんきねんぶつに、檜木内川ひきないかわ左岸さがん堤防ていぼうさくら並木なみきは「檜木内川ひきないかわつつみ(サクラ)」としてくに名勝めいしょう指定していされており、また、「桧木ひのき内川うちかわつつみ武家ぶけ屋敷やしき」として日本にっぽんさくら名所めいしょ100せんにもえらばれている。シダレザクラは角館かくのだてきた2代目だいめ佐竹さたけ義明よしあきつま嫁入よめい道具どうぐひとつとしてってきたのがはじまりとされ、樹齢じゅれい300ねん以上いじょう老樹ろうじゅなどやく400ほんふる町並まちなみのなかならんでいる。また、檜木内川ひきないかわつつみのソメイヨシノは1934ねん昭和しょうわ9ねん)に当時とうじ皇太子こうたいし明仁あきひと上皇じょうこう)の誕生たんじょういわってえられたもので、やく2キロメートルにわたるさくらのトンネル形作かたちづくられている。

角館かくのだてではさくら見頃みごろゴールデンウィークかさなっていたこともあって、全国ぜんこくからおおくの観光かんこうきゃくあつめてきた。 しかし、近年きんねんさくら開花かいか時期じきはやまっており、観光かんこうきゃく減少げんしょう懸念けねんされている。

名所めいしょ旧跡きゅうせき

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  • 地割じわり
角館かくのだてでは現在げんざい藩政はんせい時代じだい地割じわり踏襲とうしゅうされ、防衛ぼうえい考慮こうりょしたクランクがた道路どうろなどがられる。武家ぶけ町人ちょうにんけた火除ひよけそのものは現存げんそんしないが、火除ひよあとがのこっており、その一部いちぶには仙北せんぼく角館かくのだて庁舎ちょうしゃっている。
  • 武家ぶけ屋敷やしき
武家ぶけ屋敷やしき 青柳あおやぎ
武家ぶけ屋敷やしき 石黒いしぐろ
武家ぶけ屋敷やしき 岩橋いわせ
かつての角館かくのだてしろ武家ぶけまちうちまち)を南北なんぼく方向ほうこうにつらぬく武家ぶけ屋敷やしきどおめんして、石黒いしぐろ青柳あおやぎはじめおおくの武家ぶけ屋敷やしき現存げんそんする。きた上級じょうきゅう家臣かしん屋敷やしきがあり、道路どうろめんして「うまつなぎのいし」などの遺構いこうがのこる。NHK連続れんぞくテレビ小説しょうせつくものじゅうたん[3]映画えいがかくけんおにつめ」「たそがれせい兵衛ひょうえ」などのロケとなった。
  • そとまち商家しょうか
安藤あんどう醸造じょうぞうもと
武士ぶし以外いがいひとびとがんだそとまち(とまち)には老舗しにせおおい。味噌みそ醤油じょうゆ醸造じょうぞうする安藤あんどう醸造じょうぞうもとよしみひさし6ねん1853ねん)の創業そうぎょう明治めいじてられた座敷ざしきぞうにはみごとなふすまがのこる。
  • 古城山こじょうさん城跡じょうせき古城山こじょうさん公園こうえん
  • 天寧寺てんねいじ
あしめい菩提所ぼだいしょ
佐竹さたけきた菩提所ぼだいしょ

特産とくさんひん

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ヤマザクラかわ使つかった工芸こうげいひん天明てんめい年間ねんかんきた家臣かしん藤村ふじむら彦六が技術ぎじゅつ習得しゅうとくし、下級かきゅう武士ぶし手内職てないしょくとして定着ていちゃく明治維新めいじいしん士族しぞく授産じゅさん一環いっかんとして発達はったつした。「かば細工ざいく」ともく。
  • イタヤ細工ざいく
イタヤカエデみきほそき、かごなどをんだ工芸こうげいひん

祭事さいじ

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重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちくデータ

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  • 地区ちく名称めいしょう仙北せんぼく角館かくのだて
  • 種別しゅべつ武家ぶけまち
  • 選定せんてい年月日ねんがっぴ昭和しょうわ51ねん9がつ4にち
  • 選定せんてい基準きじゅん伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐんおよ地割じわりがよく旧態きゅうたい保持ほじしているもの
  • 面積めんせきやく6.9ha

交通こうつう

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JR田沢湖線たざわこせん秋田あきた新幹線しんかんせん)・秋田あきた内陸ないりく縦貫じゅうかん鉄道てつどう秋田内陸線あきたないりくせん角館かくのだてえき下車げしゃ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 田中たなかせんひろ (2015ねん11月14にち). “地域ちいき経済けいざい社会しゃかい方言ほうげんみやげ・グッズとその周辺しゅうへんだい341かい 田中たなかせんひろさん:手作てづくりの方言ほうげんしょう辞典じてん”. 三省堂さんせいどう. 2024ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ さくらいろど武家ぶけ屋敷やしきどおり  秋田あきた仙北せんぼく”. 産経さんけいニュース (2022ねん4がつ25にち). 2022ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ 東西とうざい南北なんぼく 観光かんこうはドラマとともに『朝日新聞あさひしんぶん』1976ねん(昭和しょうわ51ねん)5がつ10日とおか朝刊ちょうかん、9めん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 富木とみきたいいち監修かんしゅう大仙だいせん仙北せんぼく美郷みさと歴史れきし株式会社かぶしきがいしゃ郷土きょうど出版しゅっぱんしゃ、2006ねん8がつ4にち発行はっこう
  • たび よんひゃくねん 佐竹さたけ入部にゅうぶ秋田魁新報社あきたさきがけしんぽうしゃ、2004ねん4がつ30にち発行はっこう
  • 角館かくのだて編纂へんさん委員いいんかいへん角館かくのだて. だい4かん』「角館かくのだて刊行かんこうかい、1969ねん3がつ30にち発行はっこう
  • 角館かくのだて編纂へんさん委員いいんかいへん角館かくのだて. だい5かん』「角館かくのだて刊行かんこうかい、1973ねん11がつ10日とおか発行はっこう
  • [あの・Xとしまえ]31ねんまえ1976ねん9がつ4にち 角館かくのだて武家ぶけ屋敷やしき読売新聞よみうりしんぶん』2007ねん9がつ12にち 東京とうきょう夕刊ゆうかん 秋田あきた2 30めん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3936ふん1.83びょう 東経とうけい14033ふん41.13びょう / 北緯ほくい39.6005083 東経とうけい140.5614250 / 39.6005083; 140.5614250