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奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい

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奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい黒地くろじのものと白地しろじのものがある
会津若松あいづわかまつ祭典さいてんにて列藩れっぱん同盟どうめいかかげる旗手きしゅ

奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争ぼしんせんそうなか1868ねん慶応けいおう4ねん/明治めいじ元年がんねん5月6にち成立せいりつした同盟どうめいで、陸奥みちのくこく奥州おうしゅう)・出羽でわこくはねしゅう)および越後えちごこくこししゅう)のしょはんが、はなわ王寺おうじみやこうげん入道にゅうどう親王しんのう[1]盟主めいしゅとした、はん維新いしん政府せいふてき攻守こうしゅ同盟どうめい、または地方ちほう政権せいけん[2]

奥羽おううしょはんしん政府せいふ仙台せんだいはん派遣はけんした奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくしたがっていたが、奥羽おううしょはん会津あいづはん庄内しょうないはんの「朝敵ちょうてき赦免しゃめん嘆願たんがんおこない、その目的もくてき達成たっせいするための同志どうしてき結合けつごう形成けいせいされていた。しかし、この赦免しゃめん嘆願たんがん拒絶きょぜつされたのちは、列藩れっぱん同盟どうめいしん政府せいふぐん対抗たいこうするしょはん軍事ぐんじ同盟どうめいへと変貌へんぼうした。一説いっせつにはおおやけげん入道にゅうどう親王しんのう天皇てんのうとして擁立ようりつした東北とうほく朝廷ちょうていであったともされるが[2]同盟どうめい自体じたいがそのような表現ひょうげん公式こうしきったことはなく、「幼君ようくん明治天皇めいじてんのう)の君側くんそくの奸である薩賊(薩摩さつまはん)をのぞく」ことが目的もくてきであると主張しゅちょうしている[3]

成立せいりつあいだもない5月なかしん政府せいふぐん東北とうほくへの侵攻しんこう開始かいし同盟どうめいしょはんしん政府せいふぐんとの戦闘せんとうおこなったが、勝利しょうりをおさめることはできずに個々ここ降伏ごうぶく戊辰戦争ぼしんせんそう)。9月には中心ちゅうしんてき存在そんざい仙台せんだい会津あいづ降伏ごうぶくし、同盟どうめい消滅しょうめつした[2]

背景はいけい

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幕末ばくまつ会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり京都きょうと守護しゅごしょく庄内しょうない藩主はんしゅ酒井さかい忠篤ただあつ江戸えどちゅう取締とりしまりめいぜられていた。とく会津あいづはんいちかいくわ政権せいけん構成こうせいし、長州ちょうしゅうはんのち薩摩さつまはん対立たいりつしていた。

仙台せんだいはんは62まんせきという、奥羽おうう随一ずいいち石高こくだかち、藩主はんしゅである伊達だてけいくにしたがえよんじょうひだり近衛このえけん中将ちゅうじょうというたか位階いかいっていた。開国かいこく以来いらい政治せいじてき変化へんかたいし、奉行ぶぎょう遠藤えんどうまことしんらは朝廷ちょうてい接近せっきんし、積極せっきょくてき中央ちゅうおう介入かいにゅうしようと主張しゅちょうし、はん利益りえきのない中央ちゅうおう情勢じょうせいへの介入かいにゅうきらい、現状げんじょう維持いじ主張しゅちょうする但木ただき土佐とさらの勢力せいりょく対立たいりつしていた[4]文久ぶんきゅう3ねん1863ねん1がつには遠藤えんどうらが失脚しっきゃく[5]けいくに幕府ばくふ政事せいじ総裁そうさいしょく就任しゅうにんことわり、政局せいきょくから距離きょり方針ほうしん明確めいかくにしていた[6]

会津あいづ庄内しょうないへの降伏ごうぶく交渉こうしょう

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慶応けいおう4ねん(1868ねん1がつ9にち鳥羽とば伏見ふしみたたかきゅう幕府ばくふぐんやぶれると、松平まつだいら容保かたもり江戸えどもどった。1がつ17にちしん政府せいふ仙台せんだいはん会津あいづはん追討ついとうめいじた[7]。しかし仙台せんだいへいさなかった。

2がつ9にちしん政府せいふさわためりょう奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくにんじた[8]2がつ16にち容保かたもり隠居いんきょ表明ひょうめいし、朝廷ちょうていたいする謝罪しゃざいじょう提出ていしゅつして会津あいづもどった[9]3月2にちさわわって奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくとなった九条くじょうみちこうふく総督そうとくとなったさわらが京都きょうとをたって3月23にち仙台せんだいはいった。奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとく伊達だてけいくに米沢よねざわはんおも上杉うえすぎ斉憲なりのりたいし、容保かたもり降伏ごうぶくもとめるようめいじた[10]

会津あいづ庄内しょうないはん動向どうこう

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容保かたもり謝罪しゃざいじょう提出ていしゅつしたものの、仙台せんだい米沢よねざわからの降伏ごうぶく勧告かんこくれなかった。しん政府せいふぐん会津あいづがなお抗戦こうせんあきらめていないとていた。

会津あいづみなみ綱紀こうき庄内しょうないはん派遣はけん4がつ10日とおか庄内しょうないはん重役じゅうやく松平まつだいらちかしふところらと会合かいごうち、かいしょう同盟どうめい結成けっせいする。なお、おやふところ米沢よねざわはん同盟どうめいくわわれば仙台せんだいはん同盟どうめいくわわると意見いけんべており、この時期じきに「奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい構想こうそう萌芽ほうがあらわれていたとえる[11] 。そのころ庄内しょうないはんは、当時とうじ日本一にっぽんいちだい地主じぬしわれはん財政ざいせいてきささえた商人しょうにんほんあいだ莫大ばくだい献金けんきんもと商人しょうにんエドワード・スネルからスナイドルじゅうなど最新さいしんしき兵器へいき購入こうにゅうするなど軍備ぐんび強化きょうかすすめており、それが会津あいづはん勇気ゆうきづけることとなった。

また、りょうはんプロイセン代理だいり公使こうしマックス・フォン・ブラントつうじて、領有りょうゆうする蝦夷えぞ現在げんざい北海道ほっかいどう)の根室ねむろ留萌るもい譲渡じょうとえにプロイセンとの提携ていけい模索もさくしていた[12]。しかしプロイセン宰相さいしょうオットー・フォン・ビスマルク中立ちゅうりつ立場たちばからかいしょうりょうはんもうっている[12]一方いっぽうでプロイセン戦争せんそう大臣だいじんけん海軍かいぐん大臣だいじんアルブレヒト・フォン・ローン日本にっぽん混迷こんめいつづけば、領土りょうど確保かくほ考慮こうりょするべきではないかと意見いけんべている[12]

会津あいづへの出兵しゅっぺい

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鎮撫ちんぶ使仙台せんだいはんたい強硬きょうこう会津あいづ出兵しゅっぺいせまったため3月27にち会津あいづはんさかい出兵しゅっぺいしたが、このあいだ仙台せんだいはん米沢よねざわはんとう会津あいづはん接触せっしょくたもって謝罪しゃざい嘆願たんがん内容ないようについて検討けんとうかさねていた。4がつ29にちなな宿やど関宿せきやどにて仙台せんだい米沢よねざわ会津あいづさんはんによる談判だんぱんがもたれ、会津あいづはんはかりごとぬし首級しゅきゅう降伏ごうぶくすることで一旦いったん同意どういした[13]。しかし、数日すうじつにはそれをひるがえした内容ないよう嘆願たんがんしょ持参じさんする。これを仙台せんだいはん説得せっとくあきらめることとなる。

白石しらいし列藩れっぱん会議かいぎ

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こうしたなかうるう4がつ4にち米沢よねざわはん仙台せんだいはん4家老がろう名前なまえで、奥羽おううしょはんたいして列藩れっぱん会議かいぎ召集しょうしゅう回状かいじょうまわされた。うるう4がつ11にち奥羽おうう14はん仙台せんだいはんりょう白石しらいししろにおいて列藩れっぱん会議かいぎひらき、会津あいづはん庄内しょうないはん赦免しゃめん嘆願たんがんしょ会津あいづはんひろしてん処分しょぶん嘆願たんがんしょ」などを奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとく提出ていしゅつした。しかしこれが却下きゃっかされたため、うるう4がつ19にちしょはん会津あいづ庄内しょうないしょ攻口せめぐちにおけるかいへい宣言せんげんした。

世良せら修蔵しゅうぞう暗殺あんさつ

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奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくしも参謀さんぼう世良せら修蔵しゅうぞう4がつ12にち仙台せんだい出発しゅっぱつして白河しらかわ方面ほうめんおもむき、各地かくち会津あいづはんへの進攻しんこう督促とくそくしていたが、うるう4がつ19にち福島ふくしまはい旅宿りょしゅく金沢かなざわ投宿とうしゅくしていた。ここで、おなじくしも参謀さんぼうであった薩摩さつま藩士はんし大山おおやまかくこれすけ密書みっしょいた。

内容ないようは、鎮撫ちんぶ使兵力へいりょく不足ふそくしており奥羽おうう鎮撫ちんぶ実効じっこうがらないため、奥羽おうう実情じつじょう総督そうとく京都きょうと報告ほうこくして増援ぞうえんねがうものであったが、この密書みっしょ仙台せんだい藩士はんし瀬上せのうえ主膳しゅぜん姉歯あねは武之たけゆきすすむらのわたった。姉歯あねはらは以前いぜんから世良せら修蔵しゅうぞう動向どうこう警戒けいかいしていたが、密書みっしょなかにある奥羽おううみなてき文面ぶんめん激昂げっこうしたかれらは、翌日よくじつ金沢かなざわにおいて世良せら修蔵しゅうぞう襲撃しゅうげきした。世良せらピストル応戦おうせんするが不発ふはつ、あえなくらえられ、阿武隈川あぶくまがわ河原かわらにて斬首ざんしゅされた。

奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい誕生たんじょう

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会津あいづ赦免しゃめん嘆願たんがん拒絶きょぜつ世良せら暗殺あんさつによって、奥羽おううしょはん朝廷ちょうてい直接ちょくせつ建白けんぱくおこな方針ほうしん変更へんこうすることとなった。そのためには奥羽おううしょはん結束けっそくつよめる必要ひつようがあることから、うるう4がつ23にちあらたに11はんくわえて白石しらいし盟約めいやくしょ調印ちょういんされた[14]。その仙台せんだいにおいて白石しらいし盟約めいやくしょにおける大国たいこく強権きょうけんこう修正しゅうせい同盟どうめいしょはん相互そうご協力きょうりょく関係かんけい規定きていして、5月3にちに25はんによる盟約めいやくしょ[15]調印ちょういんされ、同時どうじ会津あいづ庄内しょうないりょうはんへのひろしてん要望ようぼうした太政官だじょうかん建白けんぱくしょ作成さくせいされた。奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつ月日つきひについては諸説しょせつあるが、仙台せんだいにて白河しらかわ盟約めいやくしょ加筆かひつ修正しゅうせいし、太政官だじょうかん建白けんぱくしょ合意ごういがなった5月3にちとするのが主流しゅりゅうのようである。同盟どうめいのイデオローグ・理論りろんてき指導しどうしゃとして仙台せんだいはん漢学かんがくしゃ大槻おおつき磐渓ばんけい存在そんざいげられる。そして、おなじく仙台せんだい藩士はんし玉虫たまむしひだり太夫たゆうは、藩主はんしゅ伊達だてけいくにいのちけて東北とうほくしょはんまわ同盟どうめい成立せいりつさせた立役者たてやくしゃ一人ひとりとしてられる。

北越ほくえつしょはん加盟かめい奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつ

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よく4にちには、しん政府せいふぐんとの会談かいだん決裂けつれつした越後えちご長岡ながおかはん加盟かめい、6にちには新発田しばたはんひとし北越ほくえつ同盟どうめい加盟かめい5はん加入かにゅうし、けい31はんによる奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつした。しかし新発田しばたはんあつりょくによって渋々しぶしぶ参加さんかしたものであったため、のち寝返ねがえることになる。

列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいなでじゅん総督そうとく

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ふく総督そうとくさわためりょうひきいるしん政府せいふぐん庄内しょうない討伐とうばつのため秋田あきた滞在たいざいしており、世良せら暗殺あんさつされたのちは、きゅうじょう仙台せんだいはんにおいて軟禁なんきん状態じょうたいになっていた。5月1にち松島まつしましん政府せいふぐん佐賀さがはん小倉こくらはんへい上陸じょうりくし、きゅうじょう護衛ごえいのため仙台せんだい城下じょうかはいった。きゅうじょうは、奥羽おううしょはん実情じつじょう報告ほうこくするためにふく総督そうとくさわ合流ごうりゅうして上京じょうきょうするむね仙台せんだいはんがわつたえた。よく15にち列藩れっぱん会議かいぎひらかれてこの問題もんだい討議とうぎされ、きゅうじょう解放かいほう反対はんたいする意見いけんたが、結局けっきょくきゅうじょうてんじん内定ないていし、18にち仙台せんだいって盛岡もりおかはんかった。

同盟どうめい構成こうせい

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奥羽おううえつこう

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奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい政策せいさく機関きかんとして奥羽おううえつこうおおやけしょとも)がつくられ、しょはん代表だいひょうからなる参謀さんぼうたち白石しろいしじょう評議ひょうぎおこなった。

列藩れっぱん同盟どうめい戦略せんりゃく

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奥羽おううえつこうにおいて評議ひょうぎされた戦略せんりゃくは、「白河しらかわ処置しょちおよび「庄内しょうない処置しょち」、「北越ほくえつ処置しょち」、「総括そうかつ」であり、ぜん23項目こうもくにのぼる。おもつぎのような内容ないよう構成こうせいされる。

  • 白河しらかわ以北いほく薩長さっちょうぐんれない、おも会津あいづ担当たんとう仙台せんだい二本松にほんまつ出動しゅつどうする
  • 庄内しょうない方面ほうめん薩長さっちょうぐん米沢よねざわ排除はいじょする
  • 北越ほくえつ方面ほうめん長岡ながおか米沢よねざわ庄内しょうないたる
  • 新潟港にいがたこう列藩れっぱん同盟どうめい共同きょうどう管理かんりとする
  • 薩長さっちょうぐん排除はいじょ南下なんか関東かんとう方面ほうめん侵攻しんこうし、江戸城えどじょうさえる
  • 世論せろん喚起かんきして、しょ外国がいこく味方みかたにつける

このほか、プロイセン領事りょうじアメリカ公使こうし使者ししゃ派遣はけんし、貿易ぼうえきおこなうことを要請ようせいしている。

盟主めいしゅりん王寺おうじみや

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最後さいごはなわ王寺おうじみやにして奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい盟主めいしゅとなったおおやけげん入道にゅうどう親王しんのう(のちの北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう

上野うえの戦争せんそうからのがれ、6月6にち会津あいづはいっていた寛永寺かんえいじ門跡もんぜきはなわ王寺おうじみやこうげん入道にゅうどう親王しんのう同盟どうめい盟主めいしゅいただこうとする構想こうそう浮上ふじょうした。王寺おうじみやは「会稽かいけいはじはずかしめそそぎ、そく仏敵ぶってき朝敵ちょうてき退治たいじせんとほっす」とべるなど、しん政府せいふぐんたいしてつよ反感はんかんっていた[16]同盟どうめいがわ王寺おうじみやたいし、軍事ぐんじてき要素ようそふく同盟どうめい総裁そうさいへの就任しゅうにん要請ようせいした。しかし王寺おうじみやは「君側くんそくの奸」をのぞくことには同意どういし、政治せいじめんでの盟主めいしゅにはなるが、出家しゅっけであるために軍事ぐんじめんでは指導しどうできないとした[17]結局けっきょく6月16にち盟主めいしゅのみの就任しゅうにん決着けっちゃく7がつ12にちには白石しらいしじょうはい列藩れっぱん会議かいぎ出席しゅっせきした。

このさい王寺おうじみや同盟どうめいの「天皇てんのう」として推戴すいたいされたというせつ存在そんざいする。瀧川たきがわ政次郎まさじろうがその可能かのうせいがあると指摘してきし、遠藤えんどう進之しんのすけかめ掛川かけがわ博正ひろまさらも追随ついずいしている。藤井ふじい徳行のりゆきはこのせつをさらにすすめ、当時とうじ日本にっぽんをアメリカ公使こうし本国ほんごくたいして、「いま日本にっぽんにはにんみかど(ミカド)がいる。現在げんざい北方ほっぽう政権せいけんのほうが優勢ゆうせいである。」とつたえており、新聞しんぶんにも同様どうよう記事きじ掲載けいさいされている[18] ことや、この「朝廷ちょうてい」が「東武とうぶ皇帝こうてい」を擁立ようりつし、元号げんごうを「大政たいせい」とあらため、政府せいふ布陣ふじんさだめた名簿めいぼ史料しりょうとしてのこっている[19] ことなどから、「東北とうほく朝廷ちょうてい」の存在そんざいはほぼ確定かくていてきになったと主張しゅちょうした[16]ほし亮一りょういち小田部おたべ雄次ゆうじなどがこのせつ支持しじしている[16]一方いっぽう石井いしいたかし工藤くどうたけし現実げんじつせいをもたない、構想こうそうのみのものであったと批判ひはんしている[16]

上野うえの戦争せんそうころから王寺おうじみや天皇てんのうとして擁立ようりつされるといううわさながれており[14]はなわ王寺おうじみや江戸えど脱出だっしゅつした榎本えのもと武揚ぶようも「南北なんぼくあさむかしごとこと御勤おつともうものゆうこうとも同意どういあそばすな」と忠告ちゅうこくしている[16]王寺おうじみや列藩れっぱん会議かいぎ出席しゅっせき先立さきだ7がつ9にち秋田あきたはん10日とおかには仙台せんだいはんたいし「幼君ようくん」のため、「ひさ壊凶あく」な「薩賊」をのぞくとした「王寺おうじみや令旨れいし」をくだしている[3]。さらに10日とおかには動座どうざについて説明せつめいし、「薩賊」をのぞくために王寺おうじみや決起けっきしたというぬの告文こくぶんおおやけからされている[3]。このぬの告文こくぶんには目的もくてき達成たっせいしたあと王寺おうじみやひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじ)にもどるとされたうえ、「南北なんぼくあさ故事こじ附会ふかいシテ、みやさま神意しんいわきまえヘス、誣罔ノせつナサンコトヲおそれル」と説明せつめいされている[3]石井いしいたかしはこのぬの告文こくぶんから東北とうほく朝廷ちょうてい存在そんざいりたないとしている[17]。また「東北とうほく朝廷ちょうてい」の構成こうせいとされる史料しりょうについても作成さくせいされた経緯けいい明確めいかくであり、はなわ王寺おうじみや還俗げんぞく即位そくい改元かいげんについても公表こうひょうされた形跡けいせきはない[17]

皇族こうぞくであり、明治天皇めいじてんのう叔父おじ[20] でもある王寺おうじみや擁立ようりつ同盟どうめいにとっては統合とうごうのシンボルてき価値かちった[17]。しかし秋田あきたはんなどからは「足利尊氏あしかがたかうじ悪例あくれい」として批判ひはんされている[17]。いわばおかざてき存在そんざいであった王寺おうじみやだったが、のち同盟どうめい敗勢はいせいかうと、軍事ぐんじめんにも積極せっきょくてき言動げんどうおこなうようになり、抗戦こうせん継続けいぞくうったえるようになった[21]

組織そしき構造こうぞう

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奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいは、まず列藩れっぱん会議かいぎがあり、そのした白石しろいし奥羽おううえつこうかれた。その王寺おうじみや盟主めいしゅ就任しゅうにんし、きゅう幕府ばくふ閣老かくろうである板倉いたくらかつしず小笠原おがさわら長行おさゆきにも協力きょうりょくあおぎ、つぎのような組織そしき構造こうぞう成立せいりつした。

  • 盟主めいしゅ : はなわ王寺おうじみや
  • 総督そうとく : 伊達だてけいくに上杉うえすぎ斉憲なりのり
  • 参謀さんぼう : 小笠原おがさわら長行おさゆき板倉いたくらかつしず
  • 政策せいさく機関きかん : 奥羽おううえつこう白石はくせき
  • 大本営だいほんえい : 軍事ぐんじきょく福島ふくしま
  • 最高さいこう機関きかん : 奥羽おううえつ列藩れっぱん会議かいぎ

この結果けっか形式けいしきてきには京都きょうとしん政府せいふ対抗たいこうする権力けんりょく構造こうぞうととのえられたとする評価ひょうかもあるが、すでにしん政府せいふぐんとの戦闘せんとう最中さいちゅうであり、指揮しき系統けいとう統一とういつされることもなかった。降伏ごうぶくさいしても同盟どうめいとしての降伏ごうぶくおこなわれず、かくはん個々ここ降伏ごうぶくしている。

構成こうせいはん

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()ないは、同盟どうめい当時とうじ藩主はんしゅ

*はしん政府せいふぐん寝返ねがえったはん進退しんたいきわまっての降伏ごうぶくのぞく、なお下手渡しもてどはん当初とうしょからしん政府せいふぐんつうじたうえでの加入かにゅうであった)

うるう4がつ11にち白石しらいしじょうでの会議かいぎ参加さんかした14はん

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うるう4がつ23にち白石しらいしじょうでの会議かいぎ参加さんかした11はん

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奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかした北越ほくえつ6はん

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5月4にち加盟かめい

以下いか、5月6にち加盟かめい

その

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戦闘せんとう

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戦闘せんとうおおまかに庄内しょうない秋田あきた戦線せんせん北越ほくえつ戦線せんせん白河しらかわ戦線せんせん平潟ひらかた戦線せんせんけることができる。このうち、秋田あきた戦線せんせんについては久保田くぼたはんしん政府せいふへの恭順きょうじゅんによりくわわったものである。なお、同様どうようしん政府せいふがわとなった弘前ひろさきはんとのあいだでは野辺地のへじ盛岡もりおか八戸はちのへりょうはん戦闘せんとうとなっている(野辺地のへじ戦争せんそう)。

庄内しょうない秋田あきた戦線せんせん

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きよし川口かわぐちたたか

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庄内しょうないはんは、江戸えどちゅう警備けいびおこなっていたしんちょうぐみげるのにたって、その褒賞ほうしょうとして最上川もがみがわ西岸せいがん天領てんりょうきゅう幕府ばくふよりあたえられていた。しかし、住民じゅうみんはこれを不服ふふくとして仙台せんだい奥羽おうう鎮撫ちんぶもうたため、4がつ10日とおかにこのもう口実こうじつ庄内しょうない征伐せいばつめ、秋田あきたはん弘前ひろさきはんりょうはんりをめいじた。14にちにはふく総督そうとくさわためりょうら討庄ぐん仙台せんだい出発しゅっぱつして庄内しょうないはん討伐とうばつかい、奥羽おううしょはんへいとともに新庄しんじょうしろ拠点きょてん庄内しょうないはん侵攻しんこうした。24にちきよし川口かわぐち最初さいしょ戦闘せんとう発生はっせいしたが、庄内しょうないぐん薩長さっちょうぐん撃退げきたいする。この段階だんかいではかくはんとも戦闘せんとう消極しょうきょくてきであった。

天童てんどうたたか

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4がつ24にちきよし川口かわぐちたたかいで奥羽おうう鎮撫ちんぶぐん撃退げきたいした庄内しょうないぐんは、勝勢しょうせいじょうじてろくじゅうこしとお最上川もがみがわ左岸さがん寒河江さがえ河北かほくまち)に布陣ふじんする。うるう4がつ4にち最上川もがみがわえて天童てんどう襲撃しゅうげき市街地しがいち半分はんぶんく。朝敵ちょうてきそしりをおそれた庄内しょうない藩主はんしゅ酒井さかい忠篤ただあつ撤退てったいいのちくだうるう4がつ12にち撤退てったいするが、官位かんい剥奪はくだつされ庄内しょうないはん正式せいしき討伐とうばつ対象たいしょうになってしまう。

秋田あきた戦線せんせん

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5月18にち仙台せんだい九条くじょう総督そうとくいちぎょう6月3にち盛岡もりおかはいったが、盛岡もりおかはんはいまだはんろん統一とういつをみない、しん政府せいふがわ家老がろう暗殺あんさつうごきすらある状態じょうたいであったことからこれをあきらめ、盛岡もりおかはん金銭きんせん支払しはらかたち領内りょうない退去たいきょねがい、総督そうとく6月24にち秋田あきた出発しゅっぱつした。7がつ1にちきゅうじょういちぎょう秋田あきたにてさわふく総督そうとく再会さいかいし、東北とうほく地方ちほうしん政府せいふぐん秋田あきた集結しゅうけつすることになった。

どうはん出身しゅっしんである平田ひらた篤胤あつたね影響えいきょう尊王そんのうろんつよかった秋田あきたはんにおいては、列藩れっぱん同盟どうめい朝廷ちょうていかではんろん二分にぶんされたが、平田ひらたがく影響えいきょうけたわか武士ぶし仙台せんだいはんからの使者ししゃ斬殺ざんさつするにいたって、しん政府せいふぐんへの参加さんか庄内しょうないはんへの進攻しんこう決定けっていした。仙台せんだいはんはこれにおこって久保田くぼたりょうない侵攻しんこうし、庄内しょうないはん共同きょうどう作戦さくせんをとりつつ横手よこてじょう陥落かんらくさせ、久保田くぼたしろせまった。

庄内しょうないはんしん政府せいふぐんがわについた新庄しんじょうはん本荘ほんじょうはん久保田くぼたはんへと侵攻しんこうする。はんろん統一とういつされていなかった盛岡もりおかはん仙台せんだいはん恫喝どうかつされるかたちぐんはっし、久保田くぼたはん領内りょうない北部ほくぶから進入しんにゅう、かねてより仙台せんだいはんしたしかった家老がろう楢山ならやま佐渡さど指揮しきのもと、町村ちょうそんはらいながら侵攻しんこうし、大館おおだてじょう陥落かんらくさせ、さらに久保田くぼたじょう方向ほうこうはいった。

秋田あきた南部なんぶでのたたかいでは、薩長さっちょうへい新庄しんじょうへいまも新庄しんじょうじょうかずおと庄内しょうないはん激戦げきせんすえ撃破げきはし、秋田あきたはいったのちも、列藩れっぱん同盟どうめいがわきわめて優勢ゆうせいたたかいをすすめていた。とくに、庄内しょうないはんおに玄蕃げんばばれた家老がろう酒井さかい吉之丞きちのじょうばん大隊だいたいひき奮戦ふんせんした。かれは、最初さいしょから最後さいごまでいくさらしい戦闘せんとう経験けいけんせず、同盟どうめいがわおおくが降伏ごうぶくし、庄内しょうない領内りょうないにもてき出没しゅつぼつするという情勢じょうせいけて、現在げんざい秋田空港あきたくうこうちかくから庄内しょうないはんりょうまで無事ぶじ撤退てったい完了かんりょうさせて、その手腕しゅわん評価ひょうかされた。

秋田あきた北部ほくぶたたかいでは盛岡もりおかはん大館おおだてじょう攻略こうりゃくしたのちきみまちざか付近ふきんまで接近せっきんするものの、しん政府せいふぐんがわ最新さいしん兵器へいきったへい応援おうえんけつけると形勢けいせい逆転ぎゃくてんし、おおくの戦闘せんとうかえしながらもとはんさかいまでされてしまう。盛岡もりおかはん領内りょうないもどった楢山ならやま佐渡さど以下いか秋田あきた侵攻しんこうぐんは、留守るすちゅうはん掌握しょうあくした朝廷ちょうていがわ勢力せいりょくによって捕縛ほばくされ、盛岡もりおかはん朝廷ちょうていがわへと態度たいど変更へんこうしはじめた。

結果けっかとして、久保田くぼたりょうないはほぼ全土ぜんど戦火せんかにさらされることになった。

北越ほくえつ戦線せんせん

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長岡ながおか米沢よねざわはん中心ちゅうしんとした列藩れっぱん同盟どうめいぐんしん政府せいふぐんとの長岡ながおかはん周辺しゅうへんおよ新潟にいがた攻防こうぼうせん中心ちゅうしんとした一連いちれん戦闘せんとう

北越ほくえつにおいては、5月2にち小千谷おじや談判だんぱん決裂けつれつ長岡ながおかはん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい正式せいしき参加さんかし、新発田しばたはんなど越後えちご5はんもこれにつづいて同盟どうめいくわわった。これにより長岡ながおかはんしん政府せいふぐんあいだ戦端せんたんひらかれた。

家老がろう河井かわい継之助つぐのすけひきいる長岡ながおかはんへいは、ガトリングほうなどをもちいた強力きょうりょく力戦りきせんにより善戦ぜんせんするが、5月19にちには長岡ながおかしろ陥落かんらくした。しかし、その長岡ながおかはん奮闘ふんとうし、7がつまつには長岡ながおかじょう一時いちじてき奪還だっかんしたが、このさい負傷ふしょう原因げんいん河井かわい継之助つぐのすけ死亡しぼうした。結局けっきょく長岡ながおかじょうしん政府せいふぐんうばわれ、会津あいづ敗走はいそうした。

新潟にいがた列藩れっぱん同盟どうめいがわ武器ぶき調達ちょうたつ拠点きょてんであるとともに、阿賀野川あがのがわせいすることにより庄内しょうない会津あいづ方面ほうめん防衛ぼうえいせんとしても重要じゅうよう拠点きょてんであった。

新潟にいがた米沢よねざわはん中心ちゅうしんまもりをかためていたが、7がつ25にちしん政府せいふぐん寝返ねがえった新発田しばたはん手引てびきによってしん政府せいふぐん上陸じょうりく同月どうげつ29にちには新潟にいがた制圧せいあつされ、米沢よねざわはん敗走はいそうした。

白河しらかわ戦線せんせん平潟ひらかた戦線せんせん

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会津あいづはんおよ奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐん北上ほくじょうしてきた明治めいじしん政府せいふぐんとの白河しらかわこう二本松にほんまつ日光にっこうこう母成峠ぼなりとうげから若松わかまつ城下じょうかたたかいにいた一連いちれん戦闘せんとう同様どうように、太平洋たいへいようがんはんである磐城いわきひらはん中村なかむらはん仙台せんだいはんによる列藩れっぱん同盟どうめいぐんと、明治めいじしん政府せいふぐんとの一連いちれん戦闘せんとう

同盟どうめい結成けっせいただちに白河しらかわじょう制圧せいあつした列藩れっぱん同盟どうめいぐんであったが、5月1にち薩摩さつま藩士はんし伊地知いじち正治しょうじひきいるしん政府せいふぐん列藩れっぱん同盟どうめいぐんから白河しらかわじょう奪還だっかんする。以後いご白河しらかわじょうをめぐり3かげつあまりも攻防こうぼうせん白河しらかわこうたたか)がおこなわれた。5月1にち仙台せんだいはん会津あいづはんとう連合れんごうぐんは2500以上いじょう大兵だいひょうようしながら白河しらかわこうたたかいでしん政府せいふぐん700に大敗たいはいし、白河しらかわじょう陥落かんらくする。6月12にちには仙台せんだいはん会津あいづはん二本松にほんまつはん連合れんごうぐんが、白河しらかわじょう攻撃こうげきしたものの、失敗しっぱいわった。6月26にちには列藩れっぱん同盟どうめいぐん白河しらかわから撤退てったい須賀川すかがわのがれることとなる。

一方いっぽう太平洋たいへいようがわでは、6月16にち土佐とさ藩士はんし板垣いたがき退助たいすけひきいるしん政府せいふぐんが、海路かいろ常陸ひたちこく平潟ひらかた上陸じょうりくした。6月24にち仙台せんだいはんへい主力しゅりょくとする列藩れっぱん同盟どうめいぐんは、しん政府せいふぐん棚倉たなぐら激突げきとつした。6月24にちには棚倉たなぐらしろ陥落かんらく、さらに7がつ13にちには、しん政府せいふぐん列藩れっぱん同盟どうめいぐん磐城いわきたいら激突げきとつした。列藩れっぱん同盟どうめいじゅん盟主めいしゅかく米沢よねざわはんはこの戦闘せんとう参加さんかせず、列藩れっぱん同盟どうめいぐん磐城いわき平城ひらじろたたかいにやぶれ、磐城いわきたいら藩主はんしゅわり指揮しきっていたまえ藩主はんしゅ安藤あんどう信正のぶまさ仙台せんだい退しりぞいた。中村なかむらはんへい仙台せんだいはんへい退却たいきゃくすると、しん政府せいふぐん中村なかむらはんへい仙台せんだいはんへい追撃ついげき。7月26にち列藩れっぱん同盟どうめいぐんしん政府せいふぐん広野ひろのふたたたたかい、しん政府せいふぐん列藩れっぱん同盟どうめいぐんやぶった。その8がつ6にちには中村なかむらはん降伏ごうぶくにより、太平洋たいへいようがん完全かんぜんしん政府せいふぐん制圧せいあつした。

7がつ26にちには勤皇きんのう実権じっけん三春みはるはんしん政府せいふぐん恭順きょうじゅんし、二本松にほんまつ方面ほうめん攻撃こうげき準備じゅんびくわわり、7がつ29にち二本松にほんまつじょう陥落かんらくした。二本松にほんまつりょう占領せんりょうしたしん政府せいふぐんでは、つぎ攻撃こうげき目標もくひょう会津あいづにするか仙台せんだい米沢よねざわにするかで意見いけんかれたが、会津あいづ攻撃こうげきすることとなった。会津あいづ戦争せんそうはじまりである。

会津あいづはん江戸えど占領せんりょう意図いとし、南方なんぽう日光にっこうこう中心ちゅうしん会津あいづからとおはなれた各所かくしょ部隊ぶたいおくっていたが、二本松にほんまつまで北上ほくじょうしていたしん政府せいふぐん若松わかまつひがし母成峠ぼなりとうげからめ、敏速びんそく前進ぜんしんし8がつ23にちには若松わかまつしろした突入とつにゅうした。遠方えんぽう兵力へいりょくがあった会津あいづはんしん政府せいふぐん前進ぜんしん阻止そしできず、各地かくち戦線せんせん崩壊ほうかいし、各地かくち部隊ぶたいしん政府せいふ前進ぜんしん阻止そしするでもなく若松わかまつへの帰還きかん志向しこうし、城下じょうかでは予備よび部隊ぶたいである白虎隊びゃっこたいまで投入とうにゅうするがあえなくやぶれた。

瓦解がかい

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7がつ26にちまず三春みはるはん降伏ごうぶく、28にちには松前まさきはん尊王そんのうせいたいによる政変せいへんせいたい事件じけん)がきて降伏ごうぶくした。つづいて、29にち二本松にほんまつはん本拠ほんきょ二本松にほんまつじょう落城らくじょうした。いで8がつ6にち相馬そうま中村なかむらはん降伏ごうぶく一方いっぽう同盟どうめいであったはずの下手渡しもてどはんが、列藩れっぱん同盟どうめい参加さんか時点じてんすで藩主はんしゅ京都きょうとりしてしん政府せいふぐんくわわっていた事実じじつ[30]判明はんめいし、仙台せんだいはん8がつ14にちどうはんり、下手渡しもてどはんおよび援兵えんぺい筑後ちくごこく柳川やながわはん[31]交戦こうせんとなり、下手渡しもてどはんはんちょう下手渡しもてど陣屋じんや焼失しょうしつした。

日本海にほんかいがわ戦線せんせんにおいては、しん政府せいふぐん新潟にいがた上陸じょうりくしたのち、8がつちゅう下越しもごえ戦場せんじょう米沢よねざわはんたたかっていたが、劣勢れっせいとなり羽越うえつ国境こっきょうせまられた米沢よねざわはんが9月4にち降伏ごうぶくし、いで12にちには仙台せんだいはん降伏ごうぶくし、すなわち同盟どうめい盟主めいしゅかく大藩たいはん相次あいついで降伏ごうぶくした。その、15にち福島ふくしまはん上山うえやまはん、17にち山形やまがたはん、18にち天童てんどうはん、19にち会津あいづはん20日はつか盛岡もりおかはん、23にち庄内しょうないはんおもだったはん続々ぞくぞく降伏ごうぶくし、奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい完全かんぜん崩壊ほうかいした。盟主めいしゅであった王寺おうじみやは9月18にち降伏ごうぶくし、翌年よくねんまで京都きょうと謹慎きんしんとなった[32]

野辺地のへじ戦争せんそう

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盛岡もりおかはん降伏ごうぶくの9がつ23にち未明みめい突如とつじょとして弘前ひろさき黒石くろいしりょうはん盛岡もりおか八戸はちのへりょうはん守備しゅびする野辺地のへじ侵攻しんこうしたもの。一旦いったん盛岡もりおか八戸はちのへはん退却たいきゃくするも、反撃はんげきてん弘前ひろさき黒石くろいしぐん撃破げきはする。

双方そうほう戦死せんししゃ盛岡もりおか八戸はちのへりょうはんが8めいなのにたいし、弘前ひろさき黒石くろいしりょうはんが29めいあるいは43めいとされる)であり津軽つがるがわ大敗たいはいであった。

この戦闘せんとう原因げんいん津軽つがるがわ実績じっせきづくりといわれるが不明ふめいである。同様どうよう小競こぜいは鹿角かづのぐん濁川にごりかわでもこっている(濁川にごりかわ焼討やきう事件じけん)が、いずれも戦後せんご処理しょりにおいては私闘しとうとされた。

戦後せんご処理しょり

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しん政府せいふ敵対てきたいしたはん

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げんふう

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石高こくだか維持いじてんふう

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  • 山形やまがたはん
    近江おうみこく朝日あさひさん石高こくだか5まんせきのままでうたてふうじ朝日山あさひやまはんだてはん
    藩主はんしゅ水野みずの忠弘ただひろは13さいおさなく、また、同盟どうめい加入かにゅう当時とうじ隠居いんきょしていたちちちゅうせいとともに上洛じょうらくしており、同盟どうめい加入かにゅうにはかかわっておらず、ちちちゅうせいとともに謹慎きんしんしょされたのみ。
    藩主はんしゅ不在ふざい国元くにもとにあった筆頭ひっとう家老がろう水野みずのもとせんせめ一身いっしん背負せお処刑しょけいされた。

しん政府せいふ献納けんのう所領しょりょう安堵あんど

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  • 磐城いわきひらはん
    当初とうしょ、6まん7せんせきから3まん4せんせきげんふうのうえ、りく中国ちゅうごく磐井いわいぐんてんふう措置そちくだされたが、しん政府せいふに7まんりょう献納けんのうし、所領しょりょう安堵あんど
    藩主はんしゅ安藤あんどうしんいさむは、一時いちじ謹慎きんしん戊辰戦争ぼしんせんそうあいだ京都きょうとにいて恭順きょうじゅんしめしていた)。国元くにもと指揮しきったまえ藩主はんしゅ安藤あんどう信正のぶまさにはえい蟄居ちっきょ処分しょぶんくだった(明治めいじ2ねん1869ねん)に解除かいじょ)。
  • 相馬そうま中村なかむらはん
    しん政府せいふに1まんりょう献納けんのうし、所領しょりょう安堵あんど
    藩主はんしゅ相馬そうままことたねは、一時いちじ謹慎きんしん

所領しょりょう安堵あんど

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  • 八戸はちのへはん
    藩主はんしゅ南部なんぶしんじゅんは、薩摩さつまはん8だい藩主はんしゅ島津しまつ重豪しげひで実子じっしであったため、同盟どうめい当初とうしょから警戒けいかいされており、はん本格ほんかくてき戦闘せんとう参加さんかすることなく終戦しゅうせんむかえ、はんおよ藩主はんしゅへの処分しょぶんはなかった。
  • 村上むらかみはん
    藩主はんしゅ内藤ないとうしんみん戦中せんちゅう自殺じさつ抗戦こうせん家老がろう鳥居とりい三十郎さんじゅうろう援軍えんぐんとして庄内しょうないはんかった一方いっぽうで、久永ひさなが惣右衛門そうえもんこうさか与兵衛よへえ帰順きじゅん藩士はんしらは村上むらかみ進駐しんちゅうしたしん政府せいふぐん詰所つめしょ出頭しゅっとうして降伏ごうぶく先代せんだい藩主はんしゅしんじおもえ謹慎きんしん処分しょぶんとなったが、翌年よくねん赦免しゃめんされ信美のぶよし養子ようしむか家督かとくがせた。
    鳥居とりい三十郎さんじゅうろうには死罪しざいめいぜられ、切腹せっぷく
  • 村松むらまつはん
    はんろんかれ、佐幕さばくである藩主はんしゅほりただし家門かもん筆頭ひっとう家老がろうほりみぎ衛門えもん三郎さぶろうらをひきいて長岡ながおか出兵しゅっぺいやぶれて米沢よねざわはん敗走はいそう、その機会きかいしん政府せいふ先代せんだい藩主はんしゅちょくきゅうおとうと直弘なおひろしん藩主はんしゅ擁立ようりつするクーデターをこししん政府せいふぐん降伏ごうぶく村松むらまつはん所領しょりょう安堵あんどされた。
    藩主はんしゅほりただしは、謹慎きんしん隠居いんきょ直弘なおひろへのかさねふうみとめられた。
    ほりみぎ衛門えもん三郎さぶろうらがめをって死罪しざい

同盟どうめいがい構成こうせいしゃ処分しょぶん

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  • 請西じょうざいはん
    藩主はんしゅはやしただしたかし脱藩だっぱんうえでの参加さんかであったが、しん政府せいふへの反逆はんぎゃくとみなされ、1まんせきすべてをじょふう
    ちゅうたかしは、唐津からつはん江戸えど屋敷やしき一時いちじ幽閉ゆうへい明治めいじ5ねん(1872ねん)1がつ赦免しゃめんされるまでおい忠弘ただひろあずかりとなる。明治めいじ26ねん(1893ねん)に授爵じゅしゃくされるまで、士族しぞくとされ、きゅう諸侯しょこう礼遇れいぐうけることはなかった。
    重臣じゅうしん死罪しざいめいじられる。
  • 水戸みとはんしょなまとう市川いちかわぜい
    水戸みとはん天狗てんぐとうぐん水戸みと交戦こうせん壊滅かいめつ
    主導しゅどうしゃである市川いちかわ弘美ひろみさん左衛門さえもん)は、江戸えど逃亡とうぼう潜伏せんぷくしていたところをらえられ、水戸みとにて処刑しょけい

しん政府せいふくみしたはん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ はなわ王寺おうじみやたいして親王しんのう宣下せんげおこなわれたのは得度とくど以前いぜんであるため、厳密げんみつには入道にゅうどう親王しんのうにあたり太政官だじょうかんるいてんでは「入道にゅうどうこうげん親王しんのう」との表記ひょうきがなされているが、法親王ほうしんのうばれることもおおい(かつ海舟かいしゅう海舟かいしゅう日記にっき山崎やまざき有信ありのぶあきらたい戦史せんし』など)
  2. ^ a b c 奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい(おううえつれっぱんどうめい)とは - コトバンク 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ井上いのうえいさお執筆しっぴつこう
  3. ^ a b c d 熊野くまの秀一ひでかず 2013, p. 41.
  4. ^ たけはら康祐こうすけ 2018, p. 6-7.
  5. ^ たけはら康祐こうすけ 2018, p. 6.
  6. ^ たけはら康祐こうすけ 2018, p. 11.
  7. ^ 会津あいづ容保かたもり征討せいとう仙台せんだい中将ちゅうじょういのち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15071518800 
  8. ^ さわためりょうさん・ヲ奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくため醍醐だいご忠敬ちゅうけい少将しょうしょう忠順ただまさこれふく」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15071519300 
  9. ^ 松平まつだいら容保かたもり謝状しゃじょう松平まつだいら慶永よしながたくとがめヲ引キせめ退すさかくれへいきょシ以テ徳川とくがわ慶喜よしのぶつみなだめセンコトヲ請フ江戸えどリテ会津あいづ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15071475800 
  10. ^ 上杉うえすぎ斉憲なりのり伊達だてけいくに使会津あいづ松平まつだいら容保かたもりすすむルニ降伏ごうぶくことヲ以テスひろ仙台せんだい米沢よねざわ二本松にほんまつさんはん使者ししゃ会津あいづかいぜんさる」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15071475800 
  11. ^ みなみつな筆記ひっき 復古ふっこじゅうかん権十郎ごんじゅうろう曰、かいしょう一致いっち、而後米沢よねざわ説諭せつゆセン、べい同盟どうめいセハ、せんちょく同盟どうめいセン、せんべいかいしょう同盟どうめいセハ、奥羽おううしょはん一言ひとことニシテ同盟どうめいスヘシ、しかはやへい江戸えどシ、江戸城えどじょうヲ以テぐん本営ほんえいトシ、しょはんへいごうシテ凶徒きょうとヲ掃ヒ、君側くんそくきよしムヘシ、如此ナレハ、のりつばしゅシテ天下でんかことなりシ、寡君江戸えどざいヨリノ持論じろんナルニ、密使みっしヲ以テはんはかりごとラント、やめかん本多ほんだひとしいのちシタレトモ、やまいシテはつスルコトのうワス、遅延ちえん今日きょうニ及ヒタリ、こんきょうとうらいテ此約なりル、なにこうわかンヤト、しょうりょうこうはちすすむひらかい城内きうちニ召テ、懇篤こんとくめんいのちアリ、また賜物たまものはずかしめフス、ひらかいしょうはん戸田とだぶんじょどもまいはんニ赴キ、同盟どうめいはかりごとル、はちすすむかん本多ほんだどもよんがつ廿にじゅうろくにち会津あいづ帰結きけつシ、いち両人りょうにんせん彼此ひし互ニ交まんシ、密議みつぎあずかリ聞クコトヲやくス、しょうヨリハぶつあたま戸田とだぶんじょ軍事ぐんじかけ吉野よしのゆうひら穉松ニらいまんス、わがはんヨリハ佐久間さくまひらかい鶴岡つるおかニ往テ寓居ぐうきょス、後平うしろだいちかいアリテ帰国きこく上島うえしま良蔵りょうぞうこれだいル、同盟どうめい濫觴らんしょうナリ
  12. ^ a b c 維新いしん会津あいづ庄内しょうないはん外交がいこう活路かつろ ドイツの文書ぶんしょかん確認かくにん”. 朝日新聞あさひしんぶん. www.asahi.com (2011ねん2がつ7にち). 2011ねん2がつ9にち閲覧えつらん
  13. ^ 仙台せんだいはん土佐とさうん 謝罪しゃざい嘆願たんがん致ニテ開城かいじょうぼうぬし首級しゅきゅう差出さしでこうたいらこたえ よう保城ほうしろがい謹慎きんしん勿論もちろんこうとくども首級しゅきゅう差出さしでけんこう伏見ふしみニテ大概たいがい戦死せんしせいざんしゃいちりょうやからとうみな国家こっかつき尽忠じんちゅうしゃニテ斬首ざんしゅニ及候ハバこくちゅう同様どうようごと却てさる全体ぜんたい徳川とくがわ慶喜よしのぶ一身いっしん引受ひきうけいちじんつみにて将卒しょうそつあやまニハ趣意しゅいを以謝罪しゃざい嘆願たんがん採用さいよううえかいはんひとしノ如キハおのれ罪状ざいじょう消滅しょうめつ今更いまさら征討せいとうこうむいいテハ首級しゅきゅうまで差出さしでけんさるこう 土佐とさうん 其趣ニテハ執達しったつ致兼こうゆう受取うけとりニハ相成あいなじき其節ハ何様なにさましょおけ致候哉 たいらうん いちこくヲ以守さるこう 土佐とさうん いちこくこぶし覚悟かくごならは僅いちりょうやからヲ以一藩助命相成候ハバいちツノ首級しゅきゅうやすごとゆうさるこう其折はた居候いそうろう
  14. ^ a b 慶応けいおう4ねんうるう4がつ29にち(1868ねん6月19にち)、かつ海舟かいしゅう日記にっきに「此頃あきらたいものとうしきり遊説ゆうぜいし、其とうばいおおく、一時いちじの浮噪軽挙けいきょこころよとし、かんへい殺害さつがいし、東臺とうだいたむろしゅうほとんよんせんひとおよぶ、其しかるべからざるもって、頭取とうどりやめ説諭せつゆすれども、敢てもちいひず、虚勢きょせいはりて、もっ群衆ぐんしゅう惑動す、あるい陸奥みちのく同盟どうめい一致いっちして、大挙たいきょまちと唱へ、あるい法親王ほうしんのう奉戴ほうたいして、義挙ぎきょあらむとうん無稽むけいにしてちゃく落をおもはず、有司ゆうしもまたひそかどうずるものあり、甚敷は きみじょう内意ないいなりとしょうして、加入かにゅうすすむむるものあり、といふものは、虚勢きょせいしめしてこうさむとす。」としるし、この時点じてんあきらたいは「陸奥みちのく同盟どうめい」と一緒いっしょしん政府せいふ反乱はんらんこすことや、はなわ王寺おうじみや奉戴ほうたいして政権せいけん奪取だっしゅすることを企図きとしていたことがかる。また慶応けいおう4ねんうるう4がつ29にち時点じてん江戸えどかつ海舟かいしゅうはすでに「陸奥みちのく同盟どうめい」という言葉ことばもちいており、はなわ王寺おうじみや奉戴ほうたいしてのクーデター構想こうそうもすでにあきらたい江戸えど喧伝けんでんしていたことがかる。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション『海舟かいしゅう全集ぜんしゅう だいきゅうかん (海舟かいしゅう日記にっき其他)』144~145ぺーじ海舟かいしゅう日記にっきうるう4がつ29にち (著者ちょしゃ勝安かつやすかおる 出版しゅっぱんしゃ改造かいぞうしゃ 発行はっこう昭和しょうわ3ねん(1928ねん)11月5にち) (2018ねん10がつ8にち閲覧えつらん。)
  15. ^ 東北とうほく征討せいとう始末しまつ奥羽おうう征討せいとう 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ』今度こんど奥羽おうう列藩れっぱん会議かいぎ仙台せんだいひょうつげ 鎮撫ちんぶ総督そうとくほっ以修盟約めいやく公平こうへい正大せいだいみち同心どうしん協力きょうりょくじょう尊王そんのうしつなで人民じんみん維持いじ皇国こうこく而安宸襟しんきん仍条れい如左 いち 以伸大義たいぎ于天ため目的もくてき不可ふか拘泥こうでい小節しょうせつほそ行事ぎょうじ いち 如同ぶねわたるうみ以信きょ以義どうごと いち わかゆう不義ふぎ危急ききゅうこと比隣ひりんかくはんそく援救報告ほうこく総督そうとくごと いち 勿負きょうしのげじゃく勿営わたしけい漏洩ろうえいごと勿離あいだ同盟どうめい いち 築造ちくぞうじょうるい運搬うんぱん食糧しょくりょうとくとめ勿漫れい百姓労役不勝愁苦 いち だい事件じけんれつしゅう公平こうへいむね細微さいびそくずい其宣ごと いち 通謀つうぼう他国たこくある出兵しゅっぺいとなりさかいほう同盟どうめいごと いち殺戮さつりく無辜むこ、勿掠奪りゃくだつきんこく、凡事わたる不義ふぎしゃ厳罰げんばつごと みぎ条々じょうじょう於有違背いはいしゃのり列藩れっぱんしゅうげん譴者也、慶応けいおうよんねんうるうよんがつ
  16. ^ a b c d e 熊野くまの秀一ひでかず 2013, p. 40.
  17. ^ a b c d e 熊野くまの秀一ひでかず 2013, p. 42.
  18. ^ ニューヨーク・タイムズ 1868ねん10がつ18にちごうに「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部ほくぶ日本にっぽんあらたなミカドを擁立ようりつした)」とある。
  19. ^ 菊池きくち容斎ようさい史料しりょう」「蜂須賀はちすか史料しりょう」 「日光にっこう史料しりょう鶴ヶ島つるがしま」 「きゅう仙台せんだい藩士はんし資料しりょう」 これらを藤井ふじい徳行のりゆき東北とうほく朝廷ちょうてい閣僚かくりょう名簿めいぼ表現ひょうげんしている(熊野くまの秀一ひでかず 2013, p. 40)
  20. ^ はなわ王寺おうじみや明治天皇めいじてんのう祖父そふ仁孝天皇にんこうてんのう猶子ゆうし
  21. ^ 熊野くまの秀一ひでかず 2013, p. 43.
  22. ^ 先代せんだい水野みずのただしせいは、老中ろうじゅう首座しゅざであったが慶応けいおう2ねん1866ねん)に当時とうじかぞじゅういちさいであった長男ちょうなん忠弘ただひろ家督かとくゆず隠居いんきょしている。
  23. ^ 同盟どうめい加入かにゅう当時とうじ藩主はんしゅ水野みずの忠弘ただひろぜん藩主はんしゅちゅうせい上洛じょうらくしており国元くにもとには不在ふざい筆頭ひっとう家老がろう水野みずのもとせん重臣じゅうしんはかって同盟どうめい加入かにゅうめた。
  24. ^ そもそもしん政府せいふかたであったが、孤立こりつ孤軍こぐんおそれて同盟どうめい参加さんかし、のちに脱退だったいした。
  25. ^ 圧迫あっぱく参加さんかはしたが、同盟どうめい出兵しゅっぺい依頼いらいたいして順延じゅんえんつづけ、しん政府せいふぐんせまると恭順きょうじゅんした。
  26. ^ 元々もともとしん政府せいふがわであったが、庄内しょうないはん圧倒あっとうされて同盟どうめい参加さんかした。のち新庄しんじょうはん勝手かって戦線せんせん離脱りだつし、これにおこった庄内しょうないはん新庄しんじょうめ、しろ市街しがい灰燼かいじんした。新庄しんじょうはん一同いちどう秋田あきたはん保護ほごされしん政府せいふかたとなっている。なお、藩主はんしゅ正実まさみ実母じつぼももれいいん薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ重豪しげひでむすめであり、おさなくして家督かとくいだ正実まさみ補佐ほさしており、この時期じき存命ぞんめいである。
  27. ^ しんいさみ京都きょうとにおりしん政府せいふ恭順きょうじゅん意思いししめしていたが、国元くにもとにいたまえ藩主はんしゅ安藤あんどう信正のぶまさ指揮しきって同盟どうめいくわわった。
  28. ^ 日和見ひよりみ政策せいさくおこなっていたが、はんないこうそうすえしん政府せいふかた勝利しょうりした。直後ちょくご榎本えのもと武揚ぶようらのきゅう幕府ばくふぐん来襲らいしゅうし、はん陥落かんらく藩主はんしゅらは本土ほんど津軽つがる弘前ひろさきはん庇護ひごけた。
  29. ^ 陸奥みちのくこく下手渡しもてどりょう国家老くにがろうらが参加さんかしたが、この時点じてんはんであり飛地とびちであった筑後ちくご国三くにぞういけりょうがわ藩士はんしらの意向いこうにより、藩主はんしゅ京都きょうとはいり、しん政府せいふかた恭順きょうじゅんしていた(国家老くにがろう江戸えどまで藩主はんしゅ見送みおくっている)。
  30. ^ 下手渡しもてどはん下手渡しもてど旧領きゅうりょうである筑後ちくご国三くにぞう半分はんぶんずつ所領しょりょうっており、戊辰戦争ぼしんせんそうさいしては三池みいけがわ藩士はんし主張しゅちょう藩主はんしゅ下手渡しもてどにいる重臣じゅうしんたちも同意どういするかたちしん政府せいふへの恭順きょうじゅん決定けっていされ、3月には藩主はんしゅ下手渡しもてどから京都きょうとはいり、どうはんしん政府せいふぐん参加さんかしていた。列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかはそののことであり、8がつになってしん政府せいふから下手渡しもてどはんたいし、奥羽おうう鎮撫ちんぶめいじられたことで同盟どうめいがわるところとになった(水谷みずたに憲二けんじ戊辰戦争ぼしんせんそうと「朝敵ちょうてきはん-敗者はいしゃ維新いしん-』(八木はちぼく書店しょてん、2011ねん)P264-266)。
  31. ^ 藩主はんしゅ立花たちばな本家ほんけ
  32. ^ 熊野くまの秀一ひでかず 2013, p. 39-40.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 原口はらぐちきよし戊辰戦争ぼしんせんそう』(はなわ書房しょぼう、1963ねん) ASIN: B000JAIUTO
  • 工藤くどうたけし奥羽おうう列藩れっぱん同盟どうめい基礎きそてき研究けんきゅう (近代きんだい研究けんきゅう叢書そうしょ (5)) 』(岩田いわた書院しょいん、2002ねんISBN 4872942612
  • ほし亮一りょういち奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい 東日本ひがしにっぽん政府せいふ樹立じゅりつゆめ』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1995ねんISBN 4-12-101235-6
  • 熊野くまの秀一ひでかずおおやけげん法親王ほうしんのう奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいにおける役割やくわりについて」『大正大学たいしょうだいがく大学院だいがくいん研究けんきゅう論集ろんしゅうだい37ごう大正大学たいしょうだいがく、2013ねん、39-46ぺーじISSN 0385-7816NAID 120005536266 
  • たけはらかんたすく文久ぶんきゅうにおける仙台せんだいはん内政ないせいそう争点そうてんと「割拠かっきょさくへの展開てんかい」『駿台すんだい史學しがくだい162ごう駿台すんだい学会がっかい、2018ねん2がつ、1-23ぺーじISSN 0562-5955NAID 120006471724 

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