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立花たちばなたねきょう

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立花たちばな たねきょう
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ) - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 天保てんぽう7ねん2がつ28にち1836ねん4がつ13にち
死没しぼつ 明治めいじ38ねん1905ねん1がつ30にち
改名かいめい かねすけ幼名ようみょう)、たねきょう
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん
官位かんい したがえ出雲いずももり子爵ししゃく
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 若年寄わかどしより老中ろうじゅう
はん 陸奥みちのく下手渡しもてどはんおも筑後ちくご三池みいけはんあるじ
氏族しぞく 立花たちばな
父母ちちはは ちち立花たちばなたねどう養父ようふ立花たちばなたねあつし
つま 牧野まきのたかしなりむすめ
たねせい長男ちょうなん)、たねただしむすめ渡辺わたなべひろしつなつま
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立花たちばなたねきょう
たちばな たねゆき
生年月日せいねんがっぴ 1836ねん4がつ13にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1905-01-30) 1905ねん1がつ30にち(68さいぼつ
称号しょうごう したがえ
紋付もんつきはい
配偶はいぐうしゃ 立花たちばな辰子たつこ
子女しじょ 次男じなん立花たちばなたねただし

在任ざいにん期間きかん 1890ねん7がつ10日とおか - 1905ねん1がつ30にち
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立花たちばなたねきょう

立花たちばな たねきょう(たちばな たねゆき)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう陸奥みちのくこく下手渡しもてどはんだい3だい藩主はんしゅ。のち筑後ちくごこく三池みいけはんおもとなりはいはんむかえた。通称つうしょうかねすけ(しょうのすけ)、官位かんい出雲いずもまもるれんとき(れんさい)とごうした[1]明治めいじ時代じだい子爵ししゃく授爵じゅしゃくする。貴族きぞくいん議員ぎいん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

天保てんぽう7ねん1836ねん)、2だい藩主はんしゅ立花たちばなたねあつし叔父おじ立花たちばなたねどう立花たちばなたねしゅうなん)の長男ちょうなんとして誕生たんじょうした。よしみひさし2ねん1849ねん)にたねゆたか死去しきょしたため、その養子ようしとしてあといだ。その翌年よくねん所領しょりょうのうち伊達だてぐんうちの3078せきあまりえて筑後ちくご三池みいけぐんうちで5071せきあたえられた。

幕末ばくまつには佐幕さばくとして行動こうどうし、14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち側近そっきんとして文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)6がつだい番頭ばんがしらとなり[1]長州ちょうしゅう征討せいとうでも幕府ばくふぐんとして参加さんかした。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)には若年寄わかどしより慶応けいおう3ねん1867ねん)には老中ろうじゅうかくけん会計かいけい総裁そうさいとなるが、翌年よくねん3がつ罷免ひめんされた。戊辰戦争ぼしんせんそうでは下手渡しもてどがわ藩士はんし奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい参加さんかする。だが、すで三池みいけがわ藩士はんし意向いこうはんろんしん政府せいふへの恭順きょうじゅん決定けっていされ、藩主はんしゅであるしゅきょう京都きょうとはいっていた。この矛盾むじゅんした行動こうどうは、8がつたねきょう奥羽おうう鎮撫ちんぶいのちけたことで同盟どうめいがわることとなり、仙台せんだいはんによって攻撃こうげきされはんちょう下手渡しもてど陣屋じんや焼失しょうしつした。9月にはしん政府せいふいのちて、きょさんいけうつした。

明治めいじ2ねん1869ねん)、版籍はんせき奉還ほうかんによりはんごととなった。明治めいじ4ねん1871ねん)、廃藩置県はいはんちけんにより退任たいにんした。明治めいじ10ねん1877ねん)10がつ17にちから明治めいじ17ねん1884ねん)5がつ24にちあいだ学習がくしゅういん初代しょだい院長いんちょうつとめる。同年どうねん7がつ8にち子爵ししゃくとなる。明治めいじ23ねん1890ねん)7がつ10がつ貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいん選出せんしゅつされ、死去しきょするまで在任ざいにんした[2]。その華族かぞく会館かいかんふく幹事かんじどう学務がくむ局長きょくちょうみや内省ないせい御用ごようかけ同省どうしょう爵位しゃくいきょく主事しゅじなどをつとめた。

柔道じゅうどう講道館こうどうかん創始そうししゃ嘉納かのう治五郎じごろう学習がくしゅういん時代じだい部下ぶかであり、立花たちばな揮毫きごうした『講道館こうどうかん』の扁額へんがく小石川こいしかわ下富しもとみさかまちにあった当時とうじ講道館こうどうかん道場どうじょうかかげられていたとつたわる[3]

明治めいじ38ねん1905ねん)に死去しきょした。享年きょうねん70。

家族かぞく[編集へんしゅう]

父母ちちはは

つま

子女しじょ

栄典えいてん[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 幕末ばくまつ維新いしん人物じんぶつ事典じてん.
  2. ^ 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』47ぺーじ
  3. ^ 講道館こうどうかん柔道じゅうどう資料しりょうかん図書館としょかん”. 講道館こうどうかん. 2019ねん1がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ みはときこ。
  5. ^ つま立花たちばな寛治かんじ長女ちょうじょ理子さとこのち離縁りえん)。
  6. ^ 官報かんぽうだい308ごう、1884ねん7がつ9にち
  7. ^ 官報かんぽうだい6466ごう宮廷きゅうていろくごと - 恩賜おんし」1905ねん1がつ21にち
  8. ^ 官報かんぽうだい6474ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん2がつ1にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』1990ねん
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう へん全国ぜんこくばん幕末ばくまつ維新いしん人物じんぶつ事典じてん学研がっけんパブリッシング、2010ねん、250ぺーじISBN 9784054044630 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]


日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
下手渡しもてど立花りっか初代しょだい
1884ねん - 1905ねん
次代じだい
立花たちばなたねただし