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近衛このえ篤麿あつまろ

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近衛このえこのえ 篤麿あつまろあつまろ
きん󠄁まもる 篤麿あつまろ󠄁
生年月日せいねんがっぴ (1863-08-10) 1863ねん8がつ10日とおか文久ぶんきゅう3ねん6月26にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん山城やましろこく京都きょうと
げん京都きょうと京都きょうと
ぼつ年月日ねんがっぴ (1904-01-02) 1904ねん1がつ2にち(40さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょうゆたか多摩たまぐん落合おちあいむら下落合しもおちあい
げん東京とうきょう新宿しんじゅく
出身しゅっしんこう ライプツィヒ大学だいがく
称号しょうごう したがえいち
くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう
公爵こうしゃく
配偶はいぐうしゃ 衍(先妻せんさい前田まえだ慶寧よしやすじょ
さだ後妻ごさい前田まえだ慶寧よしやすろくじょ
子女しじょ 長男ちょうなん近衛このえ文麿ふみまろ
次男じなん近衛このえ秀麿ひでまろ
三男さんなん近衛このえただし麿まろ
四男よつおみず谷川たにがわただし麿まろ
親族しんぞく 義兄ぎけい前田まえだとし貴族きぞくいん議員ぎいん
おとうと津軽つがるえい麿まろ貴族きぞくいん議員ぎいん
義弟ぎてい徳川とくがわ家達いえさと貴族きぞくいん議長ぎちょう
むすめ婿むこ大山おおやまかしわ貴族きぞくいん議員ぎいん
おい徳川とくがわ家正いえまさ貴族きぞくいん議長ぎちょう
曾孫そうそん細川ほそかわまもる内閣ないかく総理そうり大臣だいじん

在任ざいにん期間きかん 1896ねん10月3にち - 1903ねん12月4にち
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

在任ざいにん期間きかん 1903ねん12月4にち - 1904ねん1がつ2にち

選挙せんきょ公爵こうしゃく議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1890ねん2がつ - 1904ねん1がつ2にち
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近衛このえ 篤麿あつまろ(このえ あつまろ、きゅう字体じたいきん󠄁まもる 篤麿あつまろ󠄁文久ぶんきゅう3ねん6月26にち1863ねん8がつ10日とおか) - 明治めいじ37ねん1904ねん1がつ2にち[1])は、明治めいじ時代じだい日本にっぽん政治せいじ五摂家ごせっけ筆頭ひっとう近衛このえだい29だい当主とうしゅ位階いかい勲等くんとう爵位しゃくいしたがえいちくんとう公爵こうしゃくだい3だい貴族きぞくいん議長ぎちょうだい7だい学習がくしゅういん院長いんちょう帝国ていこく教育きょういくかい初代しょだい会長かいちょうなどを歴任れきにんした。ごうかすみさん

経歴けいれき

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文久ぶんきゅう3ねん1863ねん6月26にち左大臣さだいじん近衛このえただしぼう長男ちょうなんとして京都きょうとまれた。はは島津しまつ斉彬なりあきら養女ようじょ島津しまつ久長ひさながむすめ光子こうしとされているが、島津しまつ資料しりょうでは「ひかりらん夫人ふじん光子こうし篤麿あつまろ養母ようぼ」と記載きさいされている[2]明治めいじ6ねん1873ねんちち家督かとくいだ[3]翌月よくげつに35さい病没びょうぼつしたため、祖父そふ近衛このえただしひろし養子ようしとなり家督かとく相続そうぞくした(文献ぶんけんによってはちゅうひろしきゅうなん記載きさい)。

明治めいじ12ねん1879ねん)に大学だいがく予備よびもん入学にゅうがくしたが、やまい退学たいがく余儀よぎなくされ、京都きょうともどった[4]以後いご和漢わかんくわ英語えいご独学どくがく明治めいじ17ねん1884ねん)、華族かぞくれい制定せいていともな公爵こうしゃくじょせられる。よく明治めいじ18ねん1885ねん)に伊藤いとう博文ひろぶみすすめでドイツオーストリア両国りょうこく留学りゅうがくし、ボン大学だいがくおよライプツィヒ大学だいがくまなんだ[5]

ヨーロッパへの船旅ふなたび途上とじょうしんふつ戦争せんそう講和こうわ会議かいぎはじまろうとしている時期じきであったため、台湾たいわん海峡かいきょう通過つうかしたさい澎湖とう所々ところどころてられたフランス国旗こっき目撃もくげきした。篤麿あつまろはそれについて日記にっきに「くにぞこれを対岸たいがん火災かさいしてならんや。くちびるほろびかんたとえ、みるべきなり。」としるし、つぎ日本にっぽんばんだと白人はくじん帝国ていこく主義しゅぎへの恐怖きょうふねんあらわにしている。当時とうじ海外かいがい留学りゅうがくしたもの西洋せいよう心酔しんすい主義しゅぎしゃになるかぎゃく恐怖きょうふしんから国粋こくすい主義しゅぎしゃになる傾向けいこうがあったが、篤麿あつまろ後者こうしゃだった[6]

貴族きぞくいん議員ぎいん議長ぎちょうとして

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明治めいじ23ねん1890ねん)に帰国きこく同年どうねん貴族きぞくいん発足ほっそくし、公爵こうしゃくだったために選挙せんきょ議員ぎいんとなる。議長ぎちょう伊藤いとう博文ひろぶみ伯爵はくしゃくわりにかり議長ぎちょうつとめ、会期かいきだい部分ぶぶん議長ぎちょうしょく代行だいこうした[7]院内いんない会派かいはとして同志どうしかい結成けっせいよく24ねん1891ねん)にさん曜会改称かいしょう同年どうねん月曜げつようかい設立せつりつして同志どうしつのった。月曜げつようかいはしばらくして自然しぜん消滅しょうめつかったが、篤麿あつまろおなじく五摂家ごせっけ出身しゅっしん二条にじょう基弘もとひろらとともさん曜会にぞくし、たに干城かんじょうらが結成けっせいした懇話こんわかい共同きょうどう歩調ほちょう貴族きぞくいん政治せいじ活動かつどうおこなった。のちさん曜会が衰退すいたいすると朝日あさひ倶楽部くらぶ合併がっぺいおなじく活動かつどう低調ていちょうになった懇話こんわかいとも合併がっぺいし、あらたに結成けっせいした土曜会どようかいうつ活動かつどうつづけ、次第しだい政界せいかい重要じゅうよう地位ちいめるようになった[7]貴族きぞくいん様々さまざま活動かつどうおこなったが、政党せいとう政治せいじにはならず党利とうり党略とうりゃくてき活動かつどうはしなかった[8]白柳しらやなぎ秀湖しゅうこによれば、武士ぶし階級かいきゅう出身しゅっしんしゃがともすれば露骨ろこつ利己りこ主義しゅぎなのにたいし、公家くげ階級かいきゅう出身しゅっしんかれ国家こっかてき見地けんちって進退しんたいしたという[8]明治天皇めいじてんのう内命ないめいをもって侍従じじゅうちょうかい篤麿あつまろ意見いけんがあれば何事なにごと随意ずいい奏聞そうもんするようめいじていた。これは異例いれいだったが、皇室こうしつ近衛このえ特別とくべつ関係かんけいおよ篤麿あつまろ卓越たくえつした見識けんしき評価ひょうかされたことによる[8]

明治めいじ24ねん(1891ねん)の大津おおつ事件じけんロシア皇太子こうたいしニコライ襲撃しゅうげきされたさいには貴族きぞくいん代表だいひょうして皇太子こうたいし見舞みまったのち閣僚かくりょう問責もんせき運動うんどうこしている[8]

明治めいじ25ねん1892ねん)に貴族きぞくいん議長ぎちょう就任しゅうにんし、病気びょうき退任たいにんする明治めいじ36ねん1903ねん)までつとめている。明治めいじ28ねん1895ねん)には学習がくしゅういん院長いんちょうとなり、華族かぞく子弟してい教育きょういくちからそそいだ。その活発かっぱつ政治せいじ活動かつどう多額たがく資金しきんようしたが、収入しゅうにゅう貴族きぞくいん議長ぎちょう公爵こうしゃく貴族きぞくいん議員ぎいんとしては無給むきゅう)と学習がくしゅういん院長いんちょうとしての給料きゅうりょうのみであったためつね借金しゃっきんをしていた[9]

だい1松方まつかた内閣ないかく樺山かばやま海軍かいぐん大臣だいじんの「蛮勇ばんゆう演説えんぜつ」をめぐり紛糾ふんきゅう空転くうてんした衆議院しゅうぎいん解散かいさんそう選挙せんきょでは、品川しながわ弥二郎やじろう内務ないむ大臣だいじん主導しゅどうした選挙せんきょ干渉かんしょうみんとうがわ死者ししゃ25めい負傷ふしょうしゃ388めい惨事さんじになり、篤麿あつまろはこれについて政府せいふ姿勢しせい追及ついきゅうした。さらに政党せいとうについても猟官りょうかん主義しゅぎはしればそれはたんなる徒党ととうにすぎないと批判ひはんした。以後いご松方まつかた正義まさよし内閣ないかく大隈おおくま重信しげのぶ内閣ないかく山縣やまがた有朋ありとも内閣ないかく伊藤いとう博文ひろぶみ内閣ないかくなどから入閣にゅうかくさそいがあったがことわっている[10]

アジア主義しゅぎ盟主めいしゅとして活躍かつやく

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篤麿あつまろ外交がいこう政策せいさくは、中国ちゅうごく当時とうじきよし)を重視じゅうししたもので、とくにちしん戦争せんそうこう積極せっきょくてき中国ちゅうごくをめぐる国際こくさい問題もんだいかかわった。

明治めいじ26ねん1893ねん)に東邦とうほう協会きょうかいふく会頭かいとう就任しゅうにん[11]にちしん戦争せんそう西欧せいおう列強れっきょう租借そしゃくけんひとしによる中国ちゅうごく分割ぶんかつうごきをはげしくしていくなか危機ききかんいだく。明治めいじ31ねん1898ねん)1がつ雑誌ざっし太陽たいようだい4かんだい1ごうせた論文ろんぶんどう人種じんしゅ同盟どうめいささえ問題もんだい研究けんきゅう必要ひつよう」で「最後さいご運命うんめい黄色おうしょく人種じんしゅ白色はくしょく人種じんしゅ競争きょうそうにして此競そうしたにはささえじん日本人にっぽんじんとも白色はくしょく人種じんしゅ仇敵きゅうてきとしてみとめられる位地いちたむ」と日本にっぽん中国ちゅうごく同文どうぶん同種どうしゅ主張しゅちょうして同年どうねん同文どうぶんかい設立せつりつしたが、同文どうぶんかいは、アジア主義しゅぎたる興亜こうあかいやアジア主義しゅぎ巨頭きょとういぬやしなえあつし東亜とうあかい、さらに東邦とうほう協会きょうかい善隣ぜんりん協会きょうかい一部いちぶなどを吸収きゅうしゅうして東亜とうあ同文どうぶんかいとなり篤麿あつまろどうかい会長かいちょう就任しゅうにんする。かくて民間みんかんしょ団体だんたい糾合きゅうごう国家こっか主義しゅぎ、アジア主義しゅぎ大同団結だいどうだんけつ運動うんどうたくらみ、康有為こうゆういとの会談かいだんではアジア・モンロー主義しゅぎ主張しゅちょうした。

東亜とうあ同文どうぶんかいはアジア主義しゅぎてき色彩しきさいつよ立場たちば立脚りっきゃくし、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん保護ほご日本にっぽん権益けんえき保護ほごのため、外務省がいむしょう軍部ぐんぶ密接みっせつ提携ていけいしながら、明治めいじ33ねん1900ねん)に南京なんきんどう文書ぶんしょいん東亜とうあどう文書ぶんしょいん、その後身こうしん愛知大学あいちだいがく)を設立せつりつするなどたいちゅう政治せいじ文化ぶんか活動かつどう推進すいしんはかっていく。また、清朝せいちょうないつよ権力けんりょく地方ちほう長官ちょうかんりゅうひつじさるいちりょうこう総督そうとく)やちょうほらみずうみこう総督そうとく)などにも独自どくじ接近せっきんにちしん連携れんけいをもちかけた。

そうしたなか明治めいじ33ねん(1900ねん)6がつ中国ちゅうごく華北かほく満州まんしゅう現在げんざい中国ちゅうごく東北とうほく)を中心ちゅうしん義和よしかずだんらん勃発ぼっぱつ、これにじょうじたロシア満州まんしゅう占領せんりょういた。篤麿あつまろ伊藤いとう博文ひろぶみ政府せいふ高官こうかんにロシアにたいして開戦かいせんさない強硬きょうこう姿勢しせいるようちかけたが、たいロシア融和ゆうわ伊藤いとうおうじず戦争せんそう回避かいひうごいていたため、篤麿あつまろいぬよう頭山とうやまみつるりく羯南かつなん中江なかえ兆民ちょうみん同志どうし糾合きゅうごうして9がつ国民こくみん同盟どうめいかい結成けっせいしてたいロシア主戦しゅせんろんとなえ、ロシアとの開戦かいせんらない日本にっぽん政府せいふ批判ひはんした[12]

さらに長岡ながおかまもる書簡しょかんたくし、満州まんしゅう列国れっこく開放かいほうすることで領土りょうど保全ほぜんはかるよう、りゅうひつじさるいちちょうほらはたらきかけた。ちょうとくにこれにおおきく触発しょくはつされ、りゅうとともにこの篤麿あつまろあん根津ねづはじめなどがゴーストライターとしてかんがえられるが)をしん中央ちゅうおう上奏じょうそうし、採用さいようもとめている。当時とうじ却下きゃっかされたものの、満州まんしゅう開放かいほうあんはその袁世凱採用さいようし、にち戦争せんそうのちにはむしろ権益けんえき独占どくせんはか日本にっぽんたいする障害しょうがいとなった。また、明治めいじ36ねん1903ねん)にはげんようしゃ頭山とうやま平岡ひらおか浩太郎こうたろうくろりゅうかい内田うちだ良平りょうへいつらねるたい同志どうしかい結成けっせい貴族きぞくいん議長ぎちょう辞任じにん枢密すうみつ顧問こもんかん任命にんめいされた。戸水とみず寛人ひろとらのなな博士はかせ意見いけんしょにも関与かんよしていた[13]

小川おがわ平吉へいきち頭山つむりやまらが篤麿あつまろ首班しゅはんとする内閣ないかくつくらんとする最中さいちゅう[14]明治めいじ37ねん1904ねん)1がつ2にち死去しきょ[1]享年きょうねん42(まん40さい)。中国ちゅうごく渡航とこう感染かんせんした伝染でんせんびょうアクチノミコーゼ(放線ほうせんきんしょう)が原因げんいんであった[15]。6にち葬送そうそうき、前日ぜんじつ勅使ちょくしとして侍従じじゅう子爵ししゃく北条ほうじょうきょう差遣さしつかわされ、幣帛へいはくまつりしとぎりょう5せんえん下賜かしされた[16][17]近衛このえ菩提寺ぼだいじである大徳寺だいとくじ京都きょうときた)にほうむられた。

篤麿あつまろの2かげつかれ希望きぼうどおにち戦争せんそう発生はっせいすることになる[9]死後しご多額たがく借財しゃくざいのこされたが、頭山とうやま五百木いおき良三りょうぞう国民こくみん同盟どうめいかいのメンバーが債権さいけんしゃ退散たいさんさせたという[18]

栄典えいてん

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外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

家族かぞく親族しんぞく

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系譜けいふ

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近衛このえ

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近衛このえは、藤原ふじわらただしどおりである近衛このえはじめ始祖しそとし、五摂家ごせっけひとつであった。

皇室こうしつとの関係かんけい

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こう陽成ようぜい天皇てんのう
 
後水尾天皇ごみずのおてんのう
 
明正めいせい天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう光明こうみょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう西にし天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
れいもと天皇てんのう
 
東山ひがしやま天皇てんのう
 
中御門天皇なかみかどてんのう
 
さくらまち天皇てんのう
 
桃園ももぞの天皇てんのう
 
こう桃園ももぞの天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょくじん親王しんのう
 
てんじん親王しんのう
 
ひかりかく天皇てんのう
 
仁孝天皇にんこうてんのう
 
孝明天皇こうめいてんのう
 
明治天皇めいじてんのう
 
大正天皇たいしょうてんのう
 
昭和しょうわ天皇てんのう
 
明仁あきひと上皇じょうこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近衛このえしんひろ
 
近衛このえしょう
 
近衛このえはじめ
 
近衛このえ
 
近衛このえ家久いえひさ
 
近衛このえないまえ
 
近衛このえけい
 
近衛このえはじめまえ
 
近衛このえただし
 
近衛このえただしぼう
 
近衛このえ篤麿あつまろ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  • 係累けいるい縁者えんじゃ多数たすうのぼるため、こう陽成ようぜい天皇てんのう以降いこう歴代れきだい天皇てんのうおよび関連かんれんする男系だんけい男子だんし人物じんぶつ記載きさいした。そのため、母方ははかた系図けいず省略しょうりゃくしている。
  • 遠祖えんそ近衛このえしんひろは、こう陽成ようぜい天皇てんのうだいよん皇子おうじとしてまれ、近衛このえしんいん養子ようしとなり、近衛このえ継承けいしょうした。

著作ちょさく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 官報かんぽう』1904ねん1がつ6にち彙報いほう華族かぞく薨去こうきょ」。
  2. ^ 薩藩維新いしん秘史ひし
  3. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせいじょうp605
  4. ^ 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 16.
  5. ^ 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 17-21.
  6. ^ 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 23.
  7. ^ a b 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 21.
  8. ^ a b c d 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 31.
  9. ^ a b 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 51.
  10. ^ 山田やまだ孝雄たかお近衞このえ篤麿あつまろのこと : わたしの欽仰する近世きんせいじん
  11. ^ 安岡やすおか昭男あきお東邦とうほう協会きょうかいについての基礎きそてき研究けんきゅう」67ぺーじ
  12. ^ 杉森すぎもりひさえい 1987, p. 31/51.
  13. ^ ほおひつじしんじ『「なな博士はかせ」 とにち開戦かいせんろん』1998
  14. ^ 信州しんしゅう人脈じんみゃくうえ)』15ぺーじ
  15. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)12ぺーじ
  16. ^ a b c d e f g h i j 近衛このえ篤麿あつまろ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06051169000 
  17. ^ 官報かんぽう』1904ねん1がつ6にち宮廷きゅうていろくごと勅使ちょくし差遣さけん」。
  18. ^ 工藤くどう美代子みよこ『われ巣鴨すがも出頭しゅっとうせず』49ぺーじ
  19. ^ 官報かんぽうだい307ごう叙任じょにん及辞れい」1884ねん7がつ8にち
  20. ^ 官報かんぽうだい6149ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん12月29にち
  21. ^ 官報かんぽう』1900ねん6がつ11にち叙任じょにん及辞れい」。
  22. ^ 官報かんぽう』1903ねん5がつ6にち叙任じょにん及辞れい」。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 工藤くどう武重たけしげちょ近衛このえ篤麿あつまろおおやけ大日だいにちしゃ、1938ねん3がつ
    • 工藤くどう武重たけしげちょ栗田くりた尚弥なおや解説かいせつ近衛このえ篤麿あつまろおおやけ大空おおぞらしゃ伝記でんき叢書そうしょ〉、1997ねん5がつISBN 4756804691
  • 山本やまもと茂樹しげきちょ近衛このえ篤麿あつまろ : その明治めいじ国家こっかかんとアジアかんミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈MINERVA日本にっぽんライブラリー〉、2001ねん4がつISBN 4623033473
  • 衞藤えとう瀋吉監修かんしゅう廷江編著へんちょ近衛このえ篤麿あつまろ清末きよすえ要人ようじん : 近衛このえ篤麿あつまろあてらい集成しゅうせいはら書房しょぼう明治めいじひゃくねん叢書そうしょ〉、2004ねん3がつISBN 4562037377
  • 杉森すぎもりひさえい近衛このえ文麿ふみまろ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1987ねん昭和しょうわ62ねん)。ISBN 978-4309004877 

関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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その役職やくしょく
先代せんだい
新設しんせつ
北海道ほっかいどう協会きょうかい会頭かいとう
1893ねん - 1904ねん
次代じだい
二条にじょう基弘もとひろ
先代せんだい
だい日本にっぽん教育きょういく会長かいちょう
つじ新次しんじ
帝国ていこく教育きょういく会長かいちょう
1896ねん - 1898ねん
だい日本にっぽん教育きょういく会長かいちょう
1896ねん
次代じだい
つじ新次しんじ
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
公爵こうしゃく
近衛このえ初代しょだい
1884ねん - 1904ねん
次代じだい
近衛このえ文麿ふみまろ