山田やまだ孝雄たかお

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山田やまだ 孝雄たかお
自宅じたく書斎しょさいにて(1953ねん
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1875-08-20) 1875ねん8がつ20日はつか
日本の旗 日本にっぽん富山とやまけん富山とやま
死没しぼつ 1958ねん11月20にち(1958-11-20)(83さい
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
配偶はいぐうしゃ 稲坂いなさかとも
両親りょうしん 山田やまだほうつよし
子供こども 山田やまだ忠雄ただお
山田やまだ英雄ひでお
山田やまだ俊雄としお
山田やまだ春雄はるお
山田やまださくら
山田やまだみづえ
山田やまださなえ
山田やまだちあき
山田やまだかをる
学問がくもん
時代じだい 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ
研究けんきゅう分野ぶんや 国学こくがく国語こくごがく国文学こくぶんがく国史こくしがく
研究けんきゅう機関きかん 日本にっぽん大学だいがく
東北とうほく帝国ていこく大学だいがく
神宮じんぐう皇學館大學こうがくかんだいがく
おも指導しどう学生がくせい 佐藤さとう喜代治きよじ[1][2][3]
学位がくい 文学ぶんがく博士はかせ
特筆とくひつすべき概念がいねん 山田やまだ文法ぶんぽう
主要しゅよう作品さくひん日本にっぽん文法ぶんぽうろん
仮名遣かなづかい歴史れきし
五十音ごじゅうおん歴史れきし
国語こくごがくよう
だい日本にっぽん国体こくたい概論がいろん
国学こくがく本義ほんぎ
きみ歴史れきし』など
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山田やまだ 孝雄たかお(やまだ よしお、1875ねん明治めいじ8ねん8がつ20日はつか[ちゅう 1] - 1958ねん昭和しょうわ33ねん11月20にち)は、日本にっぽん国語こくご学者がくしゃ国文学こくぶんがくしゃ歴史れきし学者がくしゃ東北とうほく帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ歴任れきにん文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう

独学どくがくひととしてられる。「契沖けいちゅうふち宣長のりなが以来いらい国学こくがく伝統でんとうつらなる最後さいご国学こくがくしゃ」ともひょうされる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1873ねん富山とやまけん富山とやま総曲輪そうがわ(そうがわ)に於保多おおた神社じんじゃ宮司ぐうじ山田やまだかたゆう次男じなんとしてうまれる。ちち前田まえだ利保としやすうたまなんだ連歌れんが宗匠そうしょうでもあった。くつしん小学校しょうがっこう卒業そつぎょう富山とやまけん尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう中退ちゅうたい独学どくがくしょう中学校ちゅうがっこう教員きょういん検定けんてい試験しけんぶんけん)に合格ごうかく富山とやま県内けんない小学校しょうがっこう兵庫ひょうご奈良なら高知こうちなどの中学校ちゅうがっこう教員きょういんつとめる。

1907ねん明治めいじ40ねん文部省もんぶしょう国語こくご調査ちょうさ委員いいんかい補助ほじょ委員いいん、1920ねん大正たいしょう9ねん日本にっぽん大学だいがく講師こうし、1921ねん大正たいしょう10ねん日本にっぽん大学だいがく文学部ぶんがくぶ国語こくご主任しゅにん、1925ねん大正たいしょう14ねん東北とうほく帝国ていこく大学だいがく講師こうし、1927ねん昭和しょうわ2ねんどう教授きょうじゅ[6]昇格しょうかく。1929ねん昭和しょうわ4ねん)には「日本にっぽん文法ぶんぽうろん」によって文学ぶんがく博士はかせ[7]学位がくい授与じゅよされる。1933ねん昭和しょうわ8ねん)に退官たいかん[6]。 1936ねん昭和しょうわ11ねん)に『国体こくたい本義ほんぎ編纂へんさん委員いいん国文こくぶん担当たんとう)をつとめる[8]。 1940ねん昭和しょうわ15ねん)に神宮じんぐう皇學館大學こうがくかんだいがく学長がくちょう[9]、1941ねん昭和しょうわ16ねん神祇じんぎいん参与さんよ同年どうねんはじめこく聖蹟せいせき調査ちょうさ委員いいん1942ねん昭和しょうわ17ねん日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかい理事りじ、1944ねん昭和しょうわ19ねん)に学術がくじゅつ研究けんきゅうかい会議かいぎ会員かいいん同年どうねん5がつ18にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんみことのりにん[10]文部省もんぶしょう国史こくし編修へんしゅうかん、1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつには国史こくし編修へんしゅういんちょう同年どうねん愛宕あたご神社じんじゃ名誉めいよ宮司ぐうじとなる。1946ねん昭和しょうわ21ねん)5がつ18にち貴族きぞくいん議員ぎいん辞職じしょく[11]同年どうねん公職こうしょく追放ついほうとなる[ちゅう 2]

1949ねん昭和しょうわ24ねん仙台せんだいうつり、国語こくご辞典じてん編修へんしゅう専念せんねん、1951ねん昭和しょうわ26ねん)に追放ついほう解除かいじょとなる。1953ねん昭和しょうわ28ねん)に文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょう、1957ねん昭和しょうわ32ねん)、富山とやまけん出身しゅっしんしゃとしてはつ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう。また同年どうねんには富山とやま名誉めいよ市民しみんにも推薦すいせんされている[12]。1958ねん昭和しょうわ33ねん)、結腸けっちょうがんのために入院にゅういんさき東北大学とうほくだいがく附属ふぞく病院びょういん死去しきょ、85さいしたがえさんくんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう墓所はかしょ富山とやま市内しない長慶寺ちょうけいじ境内けいだいにある。富山とやま市立しりつ図書館としょかんに「山田やまだ孝雄たかお文庫ぶんこ」がある[ちゅう 3]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

山田やまだげた国語こくごがくは「山田やまだ国語こくごがく」として有名ゆうめいで、言語げんご形式けいしきではなく言語げんごあらわ内容ないよう重視じゅうしする傾向けいこうにある。これにもとづいた独自どくじ体系たいけいてき文法ぶんぽう理論りろんよんだい文法ぶんぽうひとつ「山田やまだ文法ぶんぽう」としてられている。この理論りろん堅実けんじつ実証じっしょうてきかつ独創どくそうせいあふれており、かく時代じだい語法ごほう記述きじゅつてき整理せいりし、文法ぶんぽう研究けんきゅう基礎きそをきずきあげ、敬語けいごほう訓読くんどく研究けんきゅうなど、文法ぶんぽうがくしん領域りょういき開拓かいたくし、文法ぶんぽう学界がっかい多大ただい影響えいきょうあたえた[13]

また、仮名遣かなづか五十音ごじゅうおん漢語かんごなどの研究けんきゅうつうじ、国語こくごがく研究けんきゅう分野ぶんやにもしん方面ほうめんひらいた[14]。さらに、写本しゃほん複製ふくせいほかに、厳密げんみつ語学ごがくてき注釈ちゅうしゃくによる国文学こくぶんがくや、周到しゅうとう研究けんきゅうによる国史こくしがくなどにも多大ただい尽力じんりょくをはらった。一方いっぽうで、戦前せんぜん国語こくご改革かいかく徹底的てっていてき批判ひはんするとともに、戦前せんぜん国粋こくすい主義しゅぎへの思想しそうてき裏付うらづけをあたえた可能かのうせい指摘してきされている[14]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

文法ぶんぽう研究けんきゅう原動力げんどうりょくになった出来事できごとは、兵庫ひょうごけんおおとりよしじゅく教員きょういんをしていたころ生徒せいとから「主語しゅごにつく『は』が主格しゅかくでない場合ばあいにも使つかわれている[ちゅう 4]」と質問しつもんされ、こたえにきゅうしたことであった。以来いらい国文法こくぶんぽう邁進まいしんするようになったという。

おも著書ちょしょ[編集へんしゅう]

公刊こうかんされた著書ちょしょは70さつ論文ろんぶんやく300へんのぼるという[14]

文法ぶんぽうがく[編集へんしゅう]

日本にっぽん文学ぶんがく[編集へんしゅう]

日本にっぽん史学しがく思想しそう[編集へんしゅう]

  • つちのえさる詔書しょうしょかい』(たからぶんかん、1909ねん
  • だい日本にっぽん国体こくたい概論がいろん』(たからぶんかん、1910ねん
  • 国民こくみん道徳どうとく原論げんろん』(たからぶんかん、1924ねん
  • かみすめらぎ正統せいとうじゅつよし』(みんともしゃ、1932ねん
  • 国体こくたい本義ほんぎ』(たからぶんかん、1933ねん
  • 国民こくみん精神せいしん作興さっこうかんする詔書しょうしょかい』(たからぶんかん、1933ねん
  • 典籍てんせきせつ稿こう』(西東さいとう書房しょぼう、1934ねん
  • 国体こくたい淵源えんげんきょうふる国生こつしょう物語ものがたり』(西東さいとう書房しょぼう、1935ねん
  • 古代こだい祝詞のりとあらわれたる思想しそう』(日本にっぽん文化ぶんか協會きょうかい出版しゅっぱん、1936ねん
  • 国学こくがく本義ほんぎ』(国学こくがく研究けんきゅうかい、1939ねん
  • 平田ひらた篤胤あつたね』(たからぶんかん、1940ねん
  • 国体こくたい』(神宮じんぐうつかさちょう、1940ねん
  • さくら』(さくら書房しょぼう、1941ねん
    • さくら』(山田やまだ忠雄ただお校訂こうていわけ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ1990ねん復刊ふっかん2006ねんISBN 4061589164
  • 国史こくしあらわれた日本にっぽん精神せいしん』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1941ねん
  • 神道しんとう思想しそう』(明世あきよどう書店しょてん、1943ねん
  • 年号ねんごう読方よみかた考証こうしょう稿こう』(たからぶんかん、1950ねん
  • 典籍てんせきざつ攷』(たからぶんかん、1956ねん

その[編集へんしゅう]

  • 古京ふるきょう遺文いぶん』(たからぶんかん1912ねん
  • 一切経いっさいきょう音義おんぎ索引さくいん』(西東さいとう書房しょぼう1923ねん
  • 国語こくご政策せいさく根本こんぽん問題もんだい』(たからぶんかん1932ねん
  • 国語こくご尊重そんちょう根本ねもとよし』(白水しろみずしゃ、1938ねん
  • 国語こくご国民こくみんせい』〔「日本にっぽん文化ぶんかだいじゅうよんさつ〕(日本にっぽん文化ぶんか協会きょうかい、1938ねん
  • 本邦ほんぽう教育きょういくみなもと』(東京とうきょうやしなえせいかん、1938ねん
  • 日本にっぽん文化ぶんか日本にっぽん精神せいしん』(日本にっぽん文化ぶんか中央ちゅうおう連盟れんめい、1939ねん
  • 教育きょういくかんする勅語ちょくごかい』(たからぶんかん、1940ねん
  • はじめこく精神せいしん』〔「日本にっぽん文化ぶんかだいじゅうさつ〕(日本にっぽん文化ぶんか協会きょうかい、1940ねん
  • 教育きょういく神髄しんずい』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1941ねん
  • 国民こくみん教育きょういく敬神けいしん』(宮城みやぎけん学務がくむ社寺しゃじ兵事へいじ1942ねん
  • 国語こくご本質ほんしつ』(白水しろみずしゃ、1943ねん
  • 敬神けいしん本義ほんぎ』(石川いしかわけん、1943ねん
  • 敬神けいしん』(香川かがわけん、1943ねん
  • わたしの欽仰する近代きんだいじん』(たからぶんかん1954ねん
  • きみ歴史れきし』(たからぶんかん1958ねん

著作ちょさくきん年刊ねんかん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 小学校しょうがっこう授業じゅぎょうせい検定けんてい受験じゅけんさい年齢ねんれいすこわかすぎたため、誕生たんじょうを2ねんはや1873ねん明治めいじ6ねん5がつ10日とおかとして願書がんしょ提出ていしゅつし、それにしたがって58さい定年ていねん退官たいかんした[4][5]
  2. ^ 生活せいかつきびしくて忠雄ただおの『しん明解めいかい国語こくご辞典じてん』には「ながら」のこうに「薄給はっきゅうながらななにん子供こども大学だいがくまでやった」という用例ようれいがある。
  3. ^ 遺族いぞくからきゅう蔵書ぞうしょ寄贈きぞうけ、1999ねん平成へいせい11ねん)11月「山田やまだ孝雄たかお文庫ぶんこ」として専用せんよう文庫ぶんこしつ開設かいせつし、一般いっぱん公開こうかいしている。蔵書ぞうしょやく1まん8せんてん洋装ようそう和書わしょ8800さつ洋書ようしょ167さつ雑誌ざっし445さつ著作ちょさく840てん和装わそうほん6,600てん)。
  4. ^ たとえば「この帽子ぼうしはおとうさんがってくれました」という表現ひょうげんにおいて、「は」は主格しゅかくあらわしていない。
  5. ^ 俳諧はいかいだんしょう)を収録しゅうろく

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 佐藤さとう喜代治きよじ 1983.
  2. ^ 佐藤さとう喜代治きよじ 1984a.
  3. ^ 佐藤さとう喜代治きよじ 1984b.
  4. ^ 大田おおた栄太郎えいたろう 1985, p. 22.
  5. ^ 仲井なかいぶん 2018, p. 33.
  6. ^ a b 東北とうほく帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん 昭和しょうわ8ねんいたり昭和しょうわ9ねん東北とうほく帝国ていこく大学だいがく、1934ねん、345ぺーじ 
  7. ^ だい日本にっぽん博士はかせろく編輯へんしゅう へん学位がくい大系たいけい博士はかせ氏名しめいろく 昭和しょうわ10年版ねんばん発展はってんしゃ出版しゅっぱん、1935ねん、8ぺーじ 
  8. ^ 国体こくたい本義ほんぎ編纂へんさん委員いいんまる『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ11ねん6がつ2にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp712 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  9. ^ 神宮じんぐうすめらぎがくかん一覧いちらん 昭和しょうわ15年度ねんど神宮じんぐうすめらぎがくかん、1941ねん、28ぺーじ 
  10. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、52ぺーじ
  11. ^ 官報かんぽうだい5804ごう昭和しょうわ21ねん5がつ23にち
  12. ^ 富山とやま名誉めいよ市民しみん” (PDF). 富山とやま. 2022ねん8がつ2にち閲覧えつらん
  13. ^ 斎藤さいとう倫明みちあき 2016, pp. 114–115.
  14. ^ a b c 斎藤さいとう倫明みちあき 2016, p. 113.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

書籍しょせき
  • 大田おおた栄太郎えいたろう山田やまだ孝雄たかおおも富山とやま市民しみん文化ぶんか事業じぎょうだん、1985ねん3がつ 
  • 山田やまだ俊雄としお へん山田やまだ孝雄たかお博士はかせ著作ちょさく年譜ねんぷたからぶんかん、1954ねん7がつ 
論文ろんぶん
  • 大岩おおいわただしなか山田やまだ孝雄たかおでん(その1)」『文法ぶんぽうだい1かんだい1ごう明治めいじ書院しょいん、1968ねん11月。 
  • 大岩おおいわただしなか山田やまだ孝雄たかおでん(その2)」『文法ぶんぽうだい1かんだい2ごう明治めいじ書院しょいん、1968ねん12月。 
  • 大岩おおいわただしなか山田やまだ孝雄たかおでん(その3)」『文法ぶんぽうだい1かんだい3ごう明治めいじ書院しょいん、1969ねん1がつ 
  • 大岩おおいわただしなか山田やまだ孝雄たかおでん(その4)」『文法ぶんぽうだい1かんだい4ごう明治めいじ書院しょいん、1969ねん2がつ 
  • 大岩おおいわただしなか山田やまだ孝雄たかおでん(その5)」『文法ぶんぽうだい1かんだい5ごう明治めいじ書院しょいん、1969ねん3がつ 
  • 斎藤さいとう倫明みちあき山田やまだ孝雄たかお」『日本語にほんごがくだい35かんだい4ごう明治めいじ書院しょいん、2016ねん4がつ 
  • 佐藤さとう喜代治きよじ「〈日本語にほんご学者がくしゃ列伝れつでん山田やまだ孝雄たかおいち)」『日本語にほんごがくだい2かんだい12ごう明治めいじ書院しょいん、1983ねん12月。 
  • 佐藤さとう喜代治きよじ「〈日本語にほんご学者がくしゃ列伝れつでん山田やまだ孝雄たかお)」『日本語にほんごがくだい3かんだい1ごう明治めいじ書院しょいん、1984ねん1がつ 
  • 佐藤さとう喜代治きよじ「〈日本語にほんご学者がくしゃ列伝れつでん山田やまだ孝雄たかおさん)」『日本語にほんごがくだい3かんだい2ごう明治めいじ書院しょいん、1984ねん2がつ 
  • 仲井なかいぶん山田やまだ孝雄たかおにとっての篠山しのやまかんするいち考察こうさつ」『富山国際大学とやまこくさいだいがくども育成いくせい学部がくぶ紀要きようだい9かんだい2ごう富山国際大学とやまこくさいだいがくども育成いくせい学部がくぶ、2018ねん3がつ 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 神島かみしま達郎たつお山田やまだ孝雄たかお熱血ねっけつあるものゝ黙視もくししうべきあきならむや』みぎ文書ぶんしょいん、2019ねん4がつISBN 9784842108018 
  • 神島かみしま達郎たつお山田やまだ孝雄たかお谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうひゃくせんかへしても読毎にことしんなりいにしえてんみぎ文書ぶんしょいん、2021ねん5がつISBN 9784842108148 
  • 斎藤さいとう倫明みちあき大木おおき一夫かずお へん山田やまだ文法ぶんぽう現代げんだいてき意義いぎひつじ書房しょぼう、2010ねん12月。ISBN 9784894765344 
  • たきうら真人まさと山田やまだ孝雄たかお共同きょうどうたい国学こくがくゆめ講談社こうだんしゃ、2009ねん9がつISBN 9784062787604 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 国史こくし編修へんしゅういんなが
1945ねん
次代じだい
関口せきぐちやすし
院長いんちょう事務じむ取扱とりあつかい