戊 申 詔書
詔書 の概要 [編集 ]
その
名称 [編集 ]
この
勤倹 詔書 当初 の代表 的 な呼称 。詔書 文中 「勤倹 産 ヲ治 メ」を本質 と見 る立場 。1909年 1月 まで出 された衍義書 12冊 のうち6冊 が「勤倹 詔書 」と題 されている[4]。皇 猷恢弘 詔書 詔書 文中 「維新 ノ皇 猷ヲ恢弘シ」を最 重要 事項 と見 て、未 だ完成 していない維新 の理想 の完成 を呼 びかけていると理解 する立場 からの名称 [4]。国運 発展 詔書 - この
詔書 を日 露 戦争 後 に一等国 となった日本 のさらなる発展 への激励 と理解 する立場 からの名称 [5]。 戊 申 詔書 建部 遯吾がその衍義書 『戊 申 詔書 衍義』(同文 館 、1908年 )で用 いた名称 。『東京 朝日新聞 』(1908年 10月 31日 )は「当局 者 は此詔書 を『戊 申 の詔書 』と称 へ奉 る事 に為 したり」と報 じている[5]。
本文 [編集 ]
朕 󠄂惟 フニ方今 人文 󠄁日 ニ就リ月 ニ將 ミ東西 相 倚リ彼此 相 濟 シ以テ其ノ福 󠄁利 ヲ共 ニス朕 󠄂ハ爰ニ益 󠄁〻國交 󠄁ヲ修 メ友義 ヲ惇 シ列國 ト與 ニ永 ク其ノ慶 ニ賴 ラムコトヲ期 ス顧󠄁ミルニ日進 󠄁ノ大勢 ニ伴 󠄁ヒ文 󠄁明 ノ惠澤 ヲ共 ニセムトスル固 ヨリ內國運 󠄁ノ發展 ニ須ツ戰後 日 尙淺ク庶政 益 󠄁〻更 󠄁張 ヲ要 󠄁ス宜 ク上下 心 ヲ一 ニシ忠實 業 ニ服 󠄁シ勤 󠄁儉產ヲ治 メ惟 レ信 惟 レ義 醇 厚 俗 ヲ成 シ華 ヲ去 リ實 ニ就キ荒 怠 相 誡メ自彊 息 マサルヘシ
抑 〻我 カ神 󠄀聖 󠄁ナル祖 󠄁宗 ノ遺 󠄁訓 ト我 カ光輝 アル國史 󠄁ノ成 跡 トハ炳トシテ日 星 ノ如シ寔 ニ克 ク恪 守 シ淬礦ノ誠 ヲ輸󠄁サハ國運 󠄁發展 ノ本 近 󠄁ク斯ニ在 リ朕 󠄂ハ方今 ノ世 局 ニ處 シ我 カ忠良 ナル臣民 ノ協 翼 󠄂ニ倚藉シテ維新 ノ皇 猷ヲ恢弘シ祖 󠄁宗 ノ威德 ヲ對 揚 セムコトヲ庶幾 フ爾 臣民 其レ克 ク朕 󠄂力 旨 ヲ體 セヨ
大意 [編集 ]
わが
脚注 [編集 ]
参考 文献 [編集 ]
新 教育 研究 会 『三 大 詔勅 謹解』三共 出版 社 、1925年 3月 25日 。宮地 正人 『日 露 戦後 政治 史 の研究 』東京大学 出版 会 、1973年 。見城 悌治 著 「近代 詔勅 の中 の戊 申 詔書 」、馬 原 鉄男 他 編 『天皇 制 国家 の統合 と支配 』文理 閣 、1992年 。
関連 項目 [編集 ]
学校 法人 就実学園 -本文 中 の「華 ヲ去 り實 ニ就キ」の漢文 表現 である「去 華 就実」を建 学 の精神 としている。
外部 リンク[編集 ]
戊 申 詔書 (明治 四 十 一 年 十 月 十 三 日 ) -文部 科学 省 |学制 百 年 史 資料 編 - 『
戊 申 詔書 』 - コトバンク - 「
御 署名 原本 ・明治 四 十 一 年 ・詔書 十 月 十 三 日 ・上下 一 心 忠実 勤倹 自彊 タルヘキノ件 」 アジア歴史 資料 センター Ref.A03020740200 (インターネットの環境 によっては見 られません。)