小村 こむら 寿太郎 じゅたろう (こむら じゅたろう、旧 きゅう 字体 じたい :小村 こむら 壽太郞 じゅたろう 、1855年 ねん 10月26日 にち (安政 あんせい 2年 ねん 9月16日 にち ) - 1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )11月26日 にち )は、日本 にっぽん の外交 がいこう 官 かん 、政治 せいじ 家 か 。外務 がいむ 大臣 だいじん 、貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん (侯爵 こうしゃく 終身 しゅうしん )などを務 つと めた。イギリス ・アメリカ ・ロシア ・清国 きよくに ・朝鮮 ちょうせん (韓国 かんこく )の公使 こうし ・大使 たいし を務 つと め、特 とく に2度 ど の外相 がいしょう 時代 じだい には日 にち 英 えい 同盟 どうめい の締結 ていけつ 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご のポーツマス条約 じょうやく の締結 ていけつ 、条約 じょうやく 改正 かいせい の完成 かんせい (関税 かんぜい 自主権 じしゅけん の完全 かんぜん 回復 かいふく 。治外法権 ちがいほうけん は陸奥 むつ 宗光 むねみつ が改正 かいせい )などの業績 ぎょうせき をのこし、近代 きんだい 日本 にっぽん 外交 がいこう を体現 たいげん した人物 じんぶつ として知 し られる[ 1] 。爵位 しゃくい は侯爵 こうしゃく 。
小村 こむら 寿太郎 じゅたろう は、安政 あんせい 2年 ねん (1855年 ねん )9月16日 にち 、日向 ひなた 国 こく 飫肥 おび 藩 はん の藩士 はんし ・小村 こむら 寛 ひろし (寛平 かんぺい )(1830 - 1900)と梅 うめ (梅子 うめこ )(? - 1901)の長男 ちょうなん として生 う まれた[ 2] [ 3] [ 注釈 ちゅうしゃく 1] [ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。祖父 そふ の小村 こむら 善四郎 ぜんしろう は山田 やまだ 宗 そう 正 ただし (新 しん 右 みぎ 衛門 えもん )の子 こ で小村 こむら 善徳 ぜんとく の婿養子 むこようし となり、父 ちち の寛 ひろし は小倉 おぐら 処 しょ 平 ひらた の妻 つま ・為 ため 子 こ の従兄弟 いとこ にあたり、飫肥 おび 藩 はん 産物 さんぶつ 方 かた に属 ぞく し、町 まち 別当 べっとう の職 しょく にあり、町人 ちょうにん 町 まち に住 す んでいた[ 4] 。18石 せき 取 と りの下級 かきゅう 武士 ぶし の家 いえ の7人 にん 兄弟 きょうだい の第 だい 二子 ふたご として育 そだ った[ 3] [ 4] 。商家 しょうか 生 う まれの母 はは 、梅 うめ は寿太郎 じゅたろう を産 う んだのち体調 たいちょう をくずし、母乳 ぼにゅう を与 あた えることができなかったため、近所 きんじょ の女性 じょせい から乳 ちち を分 わ けてもらったことがあるという[ 3] 。小村 こむら が成人 せいじん ののちも骨 ほね 細 ほそ で小柄 こがら だったのはそのためだったともいわれるが、梅 うめ は健康 けんこう を取 と り戻 もど してからも日々 ひび の暮 く らしに追 お われていたため、子 こ どもの面倒 めんどう を見 み ることがなかなかできなかった[ 3] 。大 だい 家族 かぞく のなかで寿 ことぶき 太郎 たろう を厳 きび しく優 やさ しく育 そだ てたのが、寿太郎 じゅたろう の祖母 そぼ (善四郎 ぜんしろう の妻 つま )の熊 くま であった[ 2] [ 3] 。熊 くま は毎朝 まいあさ 起 お きると、寿太郎 じゅたろう に必 かなら ず本 ほん を読 よ ませた[ 3] 。また、義経 よしつね や弁慶 べんけい の故事 こじ や豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の逸話 いつわ 、源平 げんぺい 合戦 かっせん などの話 はなし を巧 たく みに寿太郎 じゅたろう に語 かた って聞 き かせ、あわせて武士 ぶし 道 どう 的 てき な教訓 きょうくん を与 あた えるのが常 つね であった[ 3] [ 4] 。
小村 こむら 寿太郎 じゅたろう 生誕 せいたん の地 ち
文久 ぶんきゅう 元年 がんねん (1861年 ねん )、6歳 さい の寿太郎 じゅたろう は平 たいら 部 ぶ 嶠南 などが師範 しはん を務 つと めた飫肥 おび 藩 はん の藩校 はんこう 、振 ふ 徳 とく 堂 どう で学 まな ぶようになった[ 3] 。熊 くま は毎朝 まいあさ 、寿太郎 じゅたろう に朝食 ちょうしょく をとらせた後 のち 、手 て を引 ひ いて校門 こうもん まで見送 みおく った。そのため、たいていは開門 かいもん 前 まえ に登校 とうこう し、最初 さいしょ に素読 そどく の指南 しなん を受 う けていたという[ 3] 。寿太郎 じゅたろう は寡黙 かもく でうつむきがちに歩 ある き、本 ほん ばかり読 よ んでいるような生徒 せいと だったが、たゆまぬ努力 どりょく と負 ま けん気 き の強 つよ さにより成績 せいせき は常 つね に優秀 ゆうしゅう で、また、子 こ どもらしからぬ自制心 じせいしん の持 も ち主 ぬし としても知 し られていた[ 5] [ 6] 。おとなしく少女 しょうじょ のようで、時 とき にいじめられることもあったが、剣術 けんじゅつ の稽古 けいこ では、どんな大柄 おおがら な強敵 きょうてき に対 たい しても臆 おく せず何 なん 度 ど も立 た ち向 む かったといわれている[ 4] [ 6] 。教師 きょうし の評判 ひょうばん は、いつも元気 げんき で思慮 しりょ 深 ふか く、何事 なにごと にもよく耐 た える精神 せいしん 力 りょく があるので、将来 しょうらい は必 かなら ずひとかどの人物 じんぶつ になるであろうというものであった[ 4] 。
師 し の言 い いつけを必 かなら ず守 まも る素行 そこう の良 よ さと抜群 ばつぐん の学業 がくぎょう 成績 せいせき により、寿太郎 じゅたろう は13歳 さい から振 ぶり 徳 とく 堂 どう の東 ひがし 寮 りょう に入 はい った[ 5] 。規定 きてい では14歳 さい 以上 いじょう に限 かぎ られていたことなので異例 いれい であった[ 5] 。また、父 ちち の寛 ひろし が願 ねが い出 で て寿太郎 じゅたろう は振 ふ 徳 とく 堂 どう の将 しょう 命 いのち を務 つと めた。将 はた 命 いのち とは、校内 こうない 外 がい の清掃 せいそう や校門 こうもん の開閉 かいへい などの雑用 ざつよう を一 いち 手 て に引 ひ き受 う ける代 か わりに学費 がくひ が免除 めんじょ されるというもので、生活 せいかつ の厳 きび しい小村 こむら 家 か の事情 じじょう によるものだが、品行 ひんこう 方正 ほうせい で成績 せいせき 優秀 ゆうしゅう な者 もの に限 かぎ られていた[ 5] 。寿太郎 じゅたろう は入学 にゅうがく 以来 いらい 8年間 ねんかん を無 む 欠席 けっせき で通 とお した[ 4] 。江戸 えど の安井 やすい 息軒 そくけん に学 まな んで飫肥 おび に帰 き 藩 はん した小倉 おぐら 処 しょ 平 たいら は振 ふ 徳 とく 堂 どう で教 おし え、寿太郎 じゅたろう の才能 さいのう を高 たか く評価 ひょうか していた[ 4] 。
長崎 ながさき 留学 りゅうがく 時代 じだい の小村 こむら 寿太郎 じゅたろう (15歳 さい )
明治 めいじ 初年 しょねん 、小倉 おぐら は洋学 ようがく を学 まな ぶ必要 ひつよう を藩 はん 上層 じょうそう 部 ぶ に説 と いて長崎 ながさき に留学生 りゅうがくせい を送 おく ることを決定 けってい させた[ 2] [ 7] 。寿太郎 じゅたろう はその留学 りゅうがく 候補 こうほ 生 せい に選 えら ばれたが、一方 いっぽう では古典 こてん の学習 がくしゅう を継続 けいぞく したい気持 きも ちも強 つよ かった[ 7] 。彼 かれ に長崎 ながさき 行 い きを熱心 ねっしん に勧 すす めたのが小倉 おぐら と父 ちち の寛 ひろし であった[ 4] [ 7] 。明治 めいじ 2年 ねん (1869年 ねん )、寿太郎 じゅたろう は長崎 ながさき に赴 おもむ いた。そこではオランダ人 じん 宣教師 せんきょうし のグイド・フルベッキ が佐賀 さが 藩 はん 設立 せつりつ の致遠館 かん で英語 えいご ・政治 せいじ 学 がく ・経済 けいざい 学 がく などの教鞭 きょうべん をとっており、寿太郎 じゅたろう はそこで学 まな ぶ予定 よてい であった[ 7] 。しかし、フルベッキはすでに新 しん 政府 せいふ の求 もと めに応 おう じて、この年 とし に創設 そうせつ された東京 とうきょう の大学南 だいがくみなみ 校 こう (現 げん 、東京大学 とうきょうだいがく )に移 うつ っており、致遠館 かん も廃校 はいこう となっていた[ 2] [ 7] 。寿太郎 じゅたろう は、「英語 えいご 独案内 ひとりあんない 」という学習 がくしゅう 書 しょ を購入 こうにゅう して読 よ んだり、居留 きょりゅう 地 ち で外国 がいこく 人 じん に片 かた っ端 ぱし から英語 えいご で話 はな しかけるなどして、数 すう か月 げつ 間 あいだ 、英語 えいご の独習 どくしゅう に努 つと めた[ 7] 。
明治 めいじ 3年 ねん (1870年 ねん )、副島 そえじま 種臣 たねおみ の推挙 すいきょ によって文部省 もんぶしょう 権 けん 大 だい 丞 すすむ の職 しょく にあった小倉 おぐら 処 しょ 平 たいら は大学南 だいがくみなみ 校 こう に貢 みつぎ 進 しん 生 せい の制度 せいど を求 もと めて国家 こっか 有為 ゆうい の人材 じんざい を全国 ぜんこく から集 あつ め、郷里 きょうり の愛弟子 まなでし である小村 こむら を藩 はん より推挙 すいきょ させた[ 2] [ 8] 。上京 じょうきょう した小村 こむら は熱病 ねつびょう にかかったものの、小倉 こくら の看病 かんびょう もあって英語 えいご を学 まな び、欠員 けついん が生 しょう じたことから、同年 どうねん 、15歳 さい で大学南 だいがくみなみ 校 こう に入学 にゅうがく した[ 8] 。これは、大学南 だいがくみなみ 校 こう の一時 いちじ 閉鎖 へいさ の後 のち に改 あらた めて入学 にゅうがく するかたちとなったものである[ 9] [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。小村 こむら は大学南 だいがくみなみ 校 こう 、また、それが改組 かいそ された開成 かいせい 学校 がっこう では法学部 ほうがくぶ に進 すす み、どの教科 きょうか でも優秀 ゆうしゅう な成績 せいせき を収 おさ め、成績 せいせき 順 じゅん は2位 い (1位 い は鳩山 はとやま 和夫 かずお )であった[ 8] 。このときの同級生 どうきゅうせい に杉浦 すぎうら 重剛 しげたけ や高 こう 平 たいら 小五郎 こごろう がいる[ 8] 。
ハーバード留学 りゅうがく 時代 じだい の小村 こむら 寿太郎 じゅたろう (22歳 さい )
小村 こむら は引 ひ き続 つづ き、東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう で学 まな んでいたが、国内 こくない での学習 がくしゅう に飽 あ き足 た らず、有志 ゆうし を募 つの って海外 かいがい 留学 りゅうがく できるよう文部省 もんぶしょう に訴 うった えた[ 2] [ 10] 。かれらの熱意 ねつい は政府 せいふ を動 うご かすところとなり、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )、第 だい 1回 かい 文部省 もんぶしょう 海外 かいがい 留学生 りゅうがくせい に選 えら ばれてハーバード大学 だいがく へ留学 りゅうがく した[ 10] 。このとき開成 かいせい 学校 がっこう から留学生 りゅうがくせい に選 えら ばれたのは11名 めい で、うち法学部 ほうがくぶ は4名 めい (鳩山 はとやま 、小村 こむら 、菊池 きくち 武夫 たけお 、斎藤 さいとう 修一郎 しゅういちろう )であった[ 2] [ 10] [ 11] [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。小村 こむら が学 まな んだハーバード・ロースクール には1年 ねん 後 ご に金子 かねこ 堅太郎 けんたろう が入学 にゅうがく し、2人 ふたり は同宿 どうしゅく した[ 10] 。小村 こむら はここで驚異 きょうい 的 てき な記憶 きおく 力 りょく を発揮 はっき しており、気 き に入 い った論文 ろんぶん はすべて暗唱 あんしょう していたといわれている[ 4] 。
東洋 とうよう からの小柄 こがら な留学生 りゅうがくせい であった小村 こむら に対 たい し、学生 がくせい たちは敬意 けいい をもって接 せっ した[ 4] 。彼 かれ に会 あ うと、いちいち帽子 ぼうし をとって挨拶 あいさつ してくれたという[ 4] 。成績 せいせき 優秀 ゆうしゅう であったばかりでなく、普段 ふだん の行動 こうどう も誠実 せいじつ でごまかしがなく、法律 ほうりつ 論 ろん でも筋道 すじみち の通 とお った議論 ぎろん を展開 てんかい していたからであった[ 4] 。
小村 こむら はハーバードを1877年 ねん に卒業 そつぎょう し、さらに1年間 ねんかん 専修 せんしゅう 科 か に進 すす んで学 まな んだのちは、アメリカで3年間 ねんかん 学 まな んできた法律 ほうりつ が社会 しゃかい でいかに活用 かつよう されているかを学 まな ぶため、ニューヨーク にあった米 べい 元 もと 司法 しほう 長官 ちょうかん エドワーズ・ピアポント の法律 ほうりつ 事務所 じむしょ に入 はい り、訴訟 そしょう 実務 じつむ 見習 みならい として勤務 きんむ した[ 2] [ 4] [ 10] 。小村 こむら は、アメリカでの学問 がくもん 水準 すいじゅん はヨーロッパ の大学 だいがく と比較 ひかく して必 かなら ずしも高 たか くないと判断 はんだん し、大学院 だいがくいん に進 すす んで学 まな ぶよりも実務 じつむ 経験 けいけん を積 つ むことを選 えら んだのである[ 10] 。1879年 ねん に大 だい 警視 けいし 川路 かわじ 利良 としよし が警察 けいさつ 制度 せいど 視察 しさつ のため訪米 ほうべい した際 さい には通訳 つうやく を務 つと めている[ 10] 。法律 ほうりつ 事務所 じむしょ で働 はたら いた年数 ねんすう を含 ふく めると、小村 こむら の米国 べいこく 滞在 たいざい は5年 ねん にわたり、そこで培 つちか った英語 えいご 力 りょく はきわめてレベルの高 たか いものであった[ 10] 。なお、この間 あいだ 、小村 こむら の師 し であった小倉 おぐら 処 しょ 平 へい が西南 せいなん 戦争 せんそう で壮絶 そうぜつ な最期 さいご を遂 と げている[ 12] 。
青年 せいねん 時代 じだい の小村 こむら 寿太郎 じゅたろう
杉浦 すぎうら 重剛 しげたけ (ジャーナリスト・思想家 しそうか ・教育 きょういく 者 しゃ ) 大学南 だいがくみなみ 校 こう の同級生 どうきゅうせい であった杉浦 すぎうら は小村 こむら の生涯 しょうがい の親友 しんゆう であった。
1880年 ねん (明治 めいじ 13年 ねん )11月18日 にち 、小村 こむら は帰国 きこく し、12月6日 にち 、司法省 しほうしょう に入省 にゅうしょう した[ 12] 。条約 じょうやく 改正 かいせい 交渉 こうしょう のために法典 ほうてん 整備 せいび を進 すす めていた日本 にっぽん 政府 せいふ が外国 がいこく の法律 ほうりつ に通 つう じた人材 じんざい を求 もと めていたからであった[ 12] 。当初 とうしょ 配属 はいぞく された刑事 けいじ 局 きょく では、当時 とうじ の日本 にっぽん の法律 ほうりつ の条文 じょうぶん が漢文 かんぶん 調 しらべ のものだったため、しばらく漢語 かんご や漢字 かんじ から遠 とお ざかっていた小村 こむら はこれに苦労 くろう した[ 2] [ 12] 。1881年 ねん 10月には大坂 おおさか 控訴 こうそ 裁判所 さいばんしょ 判事 はんじ に異動 いどう 、1882年 ねん 9月には大審院 だいしんいん 判事 はんじ となった[ 12] 。この間 あいだ 、1881年 ねん 9月 がつ には旧 きゅう 幕臣 ばくしん 朝比奈 あさひな 孝一 こういち の娘 むすめ 、マチ(町子 まちこ )(1865〜1937)と結婚 けっこん し、家庭 かてい を持 も っている[ 13] 。法務 ほうむ 官 かん 時代 じだい の小村 こむら はしかし、芝居 しばい 好 す きで家事 かじ をしない妻 つま と次第 しだい に仲 なか たがいするようになり、深酒 ふかざけ や芸妓 げいぎ 遊 あそ び に浸 ひた る放蕩 ほうとう 生活 せいかつ に溺 おぼ れていき、友人 ゆうじん や先輩 せんぱい たちを心配 しんぱい させた[ 11] [ 12] 。
こうしたとき、井上 いのうえ 馨 かおる 外務 がいむ 卿 きょう の意 い を受 う けた外務省 がいむしょう 公 おおやけ 信 しん 局長 きょくちょう の浅田 あさだ 徳則 とくのり が大学 だいがく 予備 よび 門 もん 長 ちょう となっていた杉浦 すぎうら 重剛 しげたけ に対 たい し「誰 だれ か英語 えいご が堪能 たんのう で法律 ほうりつ に詳 くわ しいものがいないか」と声 こえ をかけた[ 11] [ 14] 。杉浦 すぎうら は当初 とうしょ は教授 きょうじゅ や学生 がくせい を候補 こうほ に考 かんが えていたというが、結局 けっきょく 、東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう でともに学 まな んだ小村 こむら を推挙 すいきょ し、井上 いのうえ の秘書官 ひしょかん だった斎藤 さいとう 修一郎 しゅういちろう も彼 かれ を推 お した[ 11] [ 14] 。こうして、友情 ゆうじょう に支 ささ えられた小村 こむら は1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )6月 がつ 、外務省 がいむしょう に移 うつ った[ 2] [ 15] [ 16] 。29歳 さい であった。しかし、最初 さいしょ は公 おおやけ 信 しん 局 きょく 勤務 きんむ であり、浅田 あさだ の下 もと で、もっぱら在外 ざいがい 公館 こうかん とのあいだで交 か わされる電報 でんぽう 文書 ぶんしょ の翻訳 ほんやく を主 おも とする地味 じみ な仕事 しごと であった[ 11] [ 14] 。1885年 ねん 5月、公 おおやけ 信 しん 局 きょく が政務 せいむ 局 きょく と通信 つうしん 局 きょく に分 わ かれたとき、小村 こむら は翻訳 ほんやく 局 きょく に移 うつ った[ 14] 。これについては、上司 じょうし を批判 ひはん したために翻訳 ほんやく 局 きょく に移 うつ されたともいわれている[ 4] 。1886年 ねん 3月、小村 こむら は翻訳 ほんやく 局 きょく 次長 じちょう に昇任 しょうにん 、局長 きょくちょう は鳩山 はとやま 和夫 かずお であった[ 17] 。鳩山 はとやま が1888年 ねん 9月に辞職 じしょく すると小村 こむら は翻訳 ほんやく 局長 きょくちょう に昇進 しょうしん し、1893年 ねん 10月の廃 はい 局 きょく までの5年間 ねんかん その職 しょく にあった[ 17] 。
小村 こむら が司法省 しほうしょう から外務省 がいむしょう に転 てん じた頃 ころ 、父 ちち の寛 ひろし が経営 けいえい していた飫肥 おび 商社 しょうしゃ が倒産 とうさん し、小村 こむら は莫大 ばくだい な借金 しゃっきん をかかえた[ 13] 。1883年 ねん 5月 がつ に長男 ちょうなん の欣一 きんいち 、1886年 ねん 7月 がつ に長女 ちょうじょ の文子 ふみこ 、1895年 ねん 5月には次男 じなん の捷治 しょうじ が生 う まれて家族 かぞく が増 ふ え、小村 こむら の恩人 おんじん である小倉 おぐら 処 しょ 平 ひらた の遺児 いじ 2人 にん の養育 よういく 費 ひ も払 はら っていたため、生活 せいかつ は著 いちじる しく困窮 こんきゅう した[ 13] 。自宅 じたく にも職場 しょくば にも借金取 しゃっきんと りが押 お しかけ、家 いえ にある家具 かぐ といえば動 うご かない柱時計 はしらどけい を除 のぞ くと、長火鉢 ながひばち が1つと座布団 ざぶとん が2つだけであった[ 13] 。常 つね に一張羅 いっちょうら のフロックコート をまとい、傘 かさ はささず、出勤 しゅっきん にも電車 でんしゃ ・人力車 じんりきしゃ を決 けっ して使 つか わず、必 かなら ず徒歩 とほ で職場 しょくば に向 む かったという[ 13] 。長男 ちょうなん 欣一 きんいち は栄養 えいよう 不足 ふそく のため夜盲症 やもうしょう に罹 かか っている[ 13] 。
外務省 がいむしょう 時代 じだい の小村 こむら の行動 こうどう として特筆 とくひつ すべきこととして、条約 じょうやく 改正 かいせい 交渉 こうしょう の反対 はんたい 運動 うんどう にひそかに参加 さんか していたことが挙 あ げられる[ 15] [ 17] 。具体 ぐたい 的 てき には、親友 しんゆう の杉浦 すぎうら 重剛 しげたけ らが条約 じょうやく 改正 かいせい 反対 はんたい のために結成 けっせい した乾坤 けんこん 社 しゃ 同盟 どうめい に加 くわ わっていた[ 15] 。1879年 ねん から外務 がいむ 卿 きょう 、1885年 ねん から外務 がいむ 大臣 だいじん を務 つと めた井上 いのうえ 馨 かおる は領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん 撤廃 てっぱい と関税 かんぜい 自主権 じしゅけん の一部 いちぶ 回復 かいふく のため、「鹿 しか 鳴 な 館 かん 外交 がいこう 」の名 な で知 し られる欧化 おうか 政策 せいさく を積極 せっきょく 的 てき に進 すす めており、欧米 おうべい にならった法典 ほうてん を整備 せいび すること、裁判所 さいばんしょ に外国 がいこく 人 じん 判事 はんじ を採用 さいよう すること、および内地 ないち 開放 かいほう を条件 じょうけん に交渉 こうしょう を進 すす めようとしていたが、これには政府 せいふ 内外 ないがい からの批判 ひはん や反対 はんたい があった[ 17] 。小村 こむら の場合 ばあい は、みずから外務省 がいむしょう に勤務 きんむ しながらの反対 はんたい なので、その立場 たちば はきわめて微妙 びみょう なものであったが、井上 いのうえ の改正 かいせい 案 あん はあまりに妥協 だきょう 的 てき すぎて、小村 こむら には屈辱 くつじょく 的 てき に感 かん じられたのであった[ 15] 。また、それにつづいて1888年 ねん から外相 がいしょう となった大隈 おおくま 重信 しげのぶ も従来 じゅうらい の列国 れっこく 会議 かいぎ 方式 ほうしき を単独 たんどく 交渉 こうしょう 方式 ほうしき に改 あらた めたものの、大審院 だいしんいん に外国 がいこく 人 じん 判事 はんじ を認 みと めるなど井上 いのうえ 条約 じょうやく 案 あん の一部 いちぶ を踏襲 とうしゅう して交渉 こうしょう を進 すす めようとしたので、やはり反対 はんたい 運動 うんどう が起 お こった[ 17] 。小村 こむら は、これにも参加 さんか しているが、それは政策 せいさく の実現 じつげん 性 せい を第 だい 一 いち に考 かんが えるのではなく、それよりも国益 こくえき や国家 こっか の誇 ほこ りを優先 ゆうせん させべきと考 かんが えてのことであった[ 17] [ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。
1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )5月 がつ の大津 おおつ 事件 じけん に際 さい しても、青木 あおき 周蔵 しゅうぞう 外相 がいしょう はじめ死刑 しけい 論 ろん が優勢 ゆうせい ななか、ロシアを恐 おそ れるあまり法律 ほうりつ を曲 ま げて津田 つだ 三蔵 さんぞう を死刑 しけい にしてはならないと、一貫 いっかん して死刑 しけい 反対 はんたい 論 ろん の立場 たちば に立 た った[ 19] [ 20] 。また、この件 けん について各国 かっこく の重要 じゅうよう な電信 でんしん で外務省 がいむしょう で回覧 かいらん されたものについては、小村 こむら は逐一 ちくいち 自分 じぶん の批評 ひひょう と判断 はんだん を加 くわ えて回読 かいどく に供 きょう したといわれている[ 20] 。
なお、小村 こむら はこの頃 ころ 、福本 ふくもと 一誠 いっせい 、小沢 おざわ 豁郎 、白井 しらい 新太郎 しんたろう の3名 めい が発起人 ほっきにん となって1891年 ねん 7月 がつ に創立 そうりつ されたアジア主義 しゅぎ 団体 だんたい 、東邦 とうほう 協会 きょうかい にも賛同 さんどう 者 しゃ の一人 ひとり として名 な を連 つら ねている。
小村 こむら を見出 みいだ し、駐 ちゅう 清 きよし 代理 だいり 公使 こうし に起用 きよう した陸奥 むつ 宗光 むねみつ 外相 がいしょう 「元勲 げんくん 総出 そうで 」といわれる内閣 ないかく にあって藩閥 はんばつ とは無縁 むえん であった。
「ねずみ公使 こうし 」の異名 いみょう をとった小村 こむら 寿太郎 じゅたろう
翻訳 ほんやく 局 きょく の廃止 はいし により、小村 こむら は通常 つうじょう ならば退官 たいかん というコースをたどるところであったが、「元勲 げんくん 総出 そうで 」内閣 ないかく と呼 よ ばれた第 だい 2次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく の外務 がいむ 大臣 だいじん 、陸奥 むつ 宗光 むねみつ に見出 みいだ されて、1893年 ねん 11月、清国 きよくに 公使館 こうしかん 参事官 さんじかん として北京 ぺきん に着任 ちゃくにん した[ 15] [ 18] [ 20] [ 21] 。これが、小村 こむら にとって外交 がいこう の初舞台 はつぶたい
であった[ 4] 。原 はら 敬 たかし や星 ほし 亨 とおる といった異才 いさい を見出 みいだ して登用 とうよう する独特 どくとく の眼力 がんりき をもっていた陸奥 みちのく には、原 はら 、加藤 かとう 高明 こうめい 、林 はやし 董 ただし の「三羽 さんば ガラス」と呼 よ ばれる側近 そっきん がいた[ 20] [ 22] 。陸奥 みちのく が小村 こむら のことをいつ知 し ったのかは定 さだ かではないが、ある宴席 えんせき で小村 こむら が原綿 げんめん の生産 せいさん 額 がく や貿易 ぼうえき の状況 じょうきょう 、綿花 めんか の種類 しゅるい に至 いた るまで事細 ことこま かに論 ろん じていたのを、陸奥 みちのく が感心 かんしん して聞 き いたことがあったという[ 19] [ 20] 。小村 こむら は、借財 しゃくざい 返済 へんさい のために翻訳 ほんやく の内職 ないしょく をしていて様々 さまざま な書籍 しょせき や文章 ぶんしょう を翻訳 ほんやく して原稿 げんこう 料 りょう を得 え ていたが、これによりあらゆる知識 ちしき もともに得 え ていたのである[ 19] 。ただし、体格 たいかく が小柄 こがら で身 み なりも貧相 ひんそう 、毒舌 どくぜつ で周囲 しゅうい から変 か わり者 もの 呼 よ ばわりされてきた小村 こむら が外交 がいこう 官 かん となるのを反対 はんたい する声 こえ も多 おお かった[ 20] 。
陸奥 みちのく は小村 こむら に対 たい し、アメリカ通 どおり の小村 こむら にとって清国 きよくに 行 い きは不本意 ふほんい ではないかと尋 たず ねたが、小村 こむら は喜 よろこ んで北京 ぺきん 在勤 ざいきん を申 もう し受 う ける旨 むね 、返答 へんとう している[ 20] [ 21] 。小村 こむら は北京 ぺきん 到着 とうちゃく 後 ご 、すぐに駐 ちゅう 清 きよし 臨時 りんじ 代理 だいり 公使 こうし に昇進 しょうしん した[ 20] [ 21] 。いくらかは清国 きよくに 事情 じじょう を知 し っていたつもりの小村 こむら であったが、その実 み 、北京 ぺきん では慮外 りょがい のことばかりでわずかにあった自信 じしん も喪失 そうしつ していた[ 23] 。小村 こむら は、日本語 にほんご 文献 ぶんけん のみならず、清国 きよくに について書 か かれた英語 えいご 文献 ぶんけん も可能 かのう な限 かぎ り取 と り寄 よ せ、外国 がいこく の公使 こうし とも積極 せっきょく 的 てき に交際 こうさい して情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう に奔走 ほんそう した[ 23] 。あらゆる方面 ほうめん に顔 かお を出 だ し、絶 た えず動 うご き回 まわ る小柄 こがら な小村 こむら を、欧米 おうべい の外交 がいこう 官 かん たちは "rat minister "(ねずみ公使 こうし )と呼 よ んだ[ 23] [ 24] 。
1894年 ねん 2月 がつ に朝鮮 ちょうせん 王国 おうこく で起 お こった東 ひがし 学 がく 党 とう の乱 らん への対応 たいおう が小村 こむら の初 はつ 仕事 しごと となった[ 25] 。折衝 せっしょう にあたった小村 こむら の報告 ほうこく は正確 せいかく 無比 むひ なものだったといわれている[ 24] 。寸暇 すんか を惜 お しんで大量 たいりょう の洋書 ようしょ を読 よ み、清国 きよくに の国内 こくない 視察 しさつ もおこなった小村 こむら が出 だ した結論 けつろん は「眠 ねむ れる獅子 しし 」と称 しょう される清国 きよくに は必 かなら ずしも獅子 しし ではなく、清国 きよくに 軍 ぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん の相手 あいて ではないというものであった[ 23] [ 24] 。6月7日 にち 、清国 きよくに 政府 せいふ は朝鮮 ちょうせん 政府 せいふ の要請 ようせい により朝鮮 ちょうせん 国内 こくない に派兵 はへい することを日本 にっぽん 側 がわ に通告 つうこく した[ 24] [ 25] 。小村 こむら は、陸奥 みちのく の指示 しじ により日本 にっぽん 政府 せいふ も派兵 はへい すると通知 つうち したが、清国 きよくに は、朝鮮 ちょうせん が清 きよし の属国 ぞっこく だから派兵 はへい するのであり、日本 にっぽん の派兵 はへい とはまったく性質 せいしつ の異 こと なるものであると主張 しゅちょう し、また、自 じ 国民 こくみん 保護 ほご 目的 もくてき のための派兵 はへい ならば極力 きょくりょく 少 しょう 人数 にんずう にすべきだと唱 とな えた[ 24] [ 25] 。これに対 たい して、小村 こむら は日 にち 朝 ちょう 修好 しゅうこう 条規 じょうき や天津 てんしん 条約 じょうやく の規定 きてい を持 も ち出 だ し、日本 にっぽん は朝鮮 ちょうせん が他国 たこく の属国 ぞっこく であったことを認 みと めたことはなく、出兵 しゅっぺい は相互 そうご の取 と り決 き めによるものであり、また、派兵 はへい の規模 きぼ は主権 しゅけん 国家 こっか の専権 せんけん 事項 じこう であって他国 たこく の指示 しじ を受 う けるものではないと反論 はんろん している[ 24] [ 25] 。日 にち 清 しん 関係 かんけい の極度 きょくど の悪化 あっか に対 たい し、ロシア帝国 ていこく とイギリス が調停 ちょうてい を申 もう し出 で たが、これについても仔細 しさい を陸奥 みちのく に報告 ほうこく した[ 25] 。なお、この年 とし の7月 がつ 16日 にち 、ロンドン で日 にち 英 えい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく が調印 ちょういん され、5年 ねん 後 ご の領事 りょうじ 裁判 さいばん 権 けん 撤廃 てっぱい が決定 けってい している[ 26] 。
小村 こむら は清国 きよくに に対 たい して陸奥 みちのく の開戦 かいせん 方針 ほうしん を忠実 ちゅうじつ に守 まも って行動 こうどう し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう での日 にち 清 しん 対立 たいりつ においてはあくまでも自国 じこく の正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう した[ 15] [ 27] 。小村 こむら は各国 かっこく 公使 こうし の前 まえ では日本 にっぽん があたかも戦争 せんそう を望 のぞ んでいないように振 ふ る舞 ま い、平時 へいじ と変 か わらず、泰然 たいぜん としていた[ 24] [ 27] 。また、あくまでも清国 きよくに 側 がわ に非 ひ があるように、清国 きよくに 軍 ぐん の撤退 てったい を要求 ようきゅう し、日 にち 清 しん 協同 きょうどう して朝鮮 ちょうせん の内政 ないせい 改革 かいかく を進 すす めるよう呼 よ びかけた[ 24] [ 27] 。戦闘 せんとう が始 はじ まると、7月 がつ 31日 にち には国交 こっこう 断絶 だんぜつ を清国 きよくに に伝 つた え、翌 よく 8月 がつ 1日 にち には早 はや くも北京 ぺきん 公使館 こうしかん を引 ひ き払 はら った[ 24] [ 26] 。これは、小村 こむら の独断 どくだん によるもので、自身 じしん も処罰 しょばつ を覚悟 かくご しての剛胆 ごうたん な行為 こうい であった[ 24] [ 28] 。しかし、偶然 ぐうぜん ながら、同 おな じ日 び に陸奥 みちのく は宣戦 せんせん 布告 ふこく を発 はっ し、小村 こむら の行為 こうい を不問 ふもん に付 ふ した[ 24] 。
日 にち 清 しん 戦争 せんそう 中 ちゅう は、第 だい 一軍 いちぐん 民政 みんせい 長官 ちょうかん として現地 げんち (盛 もり 京 きょう 省 しょう 安東 あんどう 県 けん )に派遣 はけん された[ 15] [ 24] 。小村 こむら が日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 地域 ちいき の民心 みんしん を安定 あんてい させるために採 と った施策 しさく も、理 り にかなったものであり、第 だい 一軍 いちぐん 司令 しれい 官 かん の山縣 やまがた 有朋 ありとも などから高 たか い評価 ひょうか を受 う け、第 だい 3師団 しだん 長 ちょう の桂 かつら 太郎 たろう とも意気投合 いきとうごう した[ 15] [ 29] [ 30] 。
戦後 せんご は外務省 がいむしょう 政務 せいむ 局長 きょくちょう として、日 にち 清 しん 講和 こうわ 交渉 こうしょう において伊藤 いとう 博文 ひろぶみ ・陸奥 むつ 宗光 むねみつ の両 りょう 全権 ぜんけん を補佐 ほさ したが、下関 しものせき 条約 じょうやく 調印 ちょういん 直後 ちょくご に腸 ちょう チフス に罹 かか って入院 にゅういん した[ 31] [ 注釈 ちゅうしゃく 6] 。1か月 げつ 後 ご には退院 たいいん したものの、頬 ほお はこけ、眼 め の周囲 しゅうい はくぼんで容貌 ようぼう が以前 いぜん とはすっかり変 か わってしまったという[ 32] 。
日 にち 清 しん 戦争 せんそう に勝利 しょうり し、朝鮮 ちょうせん では親日 しんにち 派 は の金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう 内閣 ないかく が成立 せいりつ したものの、1895年 ねん 10月 がつ 、この政権 せいけん が誕生 たんじょう するにあたって閔妃 びんび が殺害 さつがい される乙 おつ 未 み 事変 じへん が起 お こったため、日本 にっぽん の朝鮮 ちょうせん での立場 たちば は危 あや うくなった[ 33] 。日本 にっぽん 政府 せいふ は、これが国際 こくさい 問題 もんだい に発展 はってん することを恐 おそ れ、事件 じけん 調査 ちょうさ のために小村 こむら を朝鮮 ちょうせん に派遣 はけん した[ 15] [ 33] 。政府 せいふ は駐 ちゅう 朝 あさ 公使 こうし 三浦 みうら 梧楼 ごろう を解任 かいにん し、日本 にっぽん に召喚 しょうかん して逮捕 たいほ し、代 か わりに政務 せいむ 局長 きょくちょう の小村 こむら を駐 ちゅう 朝 あさ 弁理 べんり 公使 こうし に任 にん じた[ 15] [ 30] [ 33] [ 34] 。小村 こむら は、三浦 みうら らに対 たい して実 じつ は内心 ないしん では同情 どうじょう 的 てき だったというが、関与 かんよ を疑 うたが われる者 もの を国外 こくがい 退去 たいきょ にするなど事態 じたい 収拾 しゅうしゅう のために奔走 ほんそう した[ 33] [ 34] 。なお、日 にち 清 しん 戦争 せんそう 前 まえ の小村 こむら の肩書 かたがき は臨時 りんじ 代理 だいり 公使 こうし だったので、正式 せいしき な公使 こうし としては初 はじ めての赴任 ふにん であった[ 34] 。しかし、閔妃 びんび 殺害 さつがい 事件 じけん によって朝鮮半島 ちょうせんはんとう では反日 はんにち 派 は の勢 いきお いが強 つよ まりし、義兵 ぎへい 闘争 とうそう が激化 げきか していた[ 34] 。また、国王 こくおう 高 こう 宗 はじめ その人 ひと もまた強固 きょうこ な反日 はんにち 主義 しゅぎ 者 しゃ であって、小村 こむら もその対策 たいさく に難渋 なんじゅう した[ 33] 。
小村 こむら は、11月下旬 げじゅん の親 しん 露 ろ 派 は ・親米 しんべい 派 は によるクーデター 事件 じけん を未然 みぜん に防 ふせ いだ(春生 はるお 門 もん 事件 じけん )[ 34] 。しかし、1896年 ねん 2月 がつ に起 お こった「露 ろ 館 かん 播遷 (俄 にわか 館 かん 播遷)」は、国王 こくおう がロシア公使館 こうしかん にうつり、そこで政務 せいむ を執 と るという異常 いじょう 事態 じたい であり、小村 こむら にとっては痛恨 つうこん の極 きわ みであった[ 15] [ 30] [ 35] 。それまで金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう 内閣 ないかく を支 ささ えることに全力 ぜんりょく を注 そそ いできた小村 こむら であったが、金 きむ 弘 ひろし 集 しゅう 自身 じしん が日本 にっぽん への亡命 ぼうめい をあえて拒 こば んだところから、民衆 みんしゅう によって斬殺 ざんさつ されてしまった[ 34] [ 35] 。そして、親 しん 露 ろ 反日 はんにち の内閣 ないかく が誕生 たんじょう して、朝鮮半島 ちょうせんはんとう における利権 りけん の多 おお くはロシアなどにわたってしまったのである[ 35] 。露 ろ 館 かん 播遷に関 かん しては、ロシアに出 だ し抜 ぬ かれた責任 せきにん は小村 こむら にあるとして彼 かれ を批判 ひはん する声 こえ が上 あ がり、暗殺 あんさつ すると脅 おど した者 もの さえいたという[ 35] 。小村 こむら は、失地 しっち 回復 かいふく のために動 うご き、ロシアと交渉 こうしょう して高 こう 宗 むね が遷宮 せんぐう する道筋 みちすじ をつけたうえで、1896年 ねん 5月 がつ 、在 ざい 朝鮮 ちょうせん ロシア総領事 そうりょうじ のカール・ウェーバー とのあいだで小村 こむら ・ウェーバー協定 きょうてい を結 むす んだ[ 15] [ 36] 。国王 こくおう の王宮 おうきゅう 帰還 きかん を日 にち 露 ろ 両国 りょうこく が忠告 ちゅうこく するともに、朝鮮 ちょうせん に対 たい して日本 にっぽん が持 も つ権利 けんり をロシアが持 も つ権利 けんり と同等 どうとう のものとすることを相互 そうご に認 みと め合 あ う内容 ないよう であった[ 15] 。
小村 こむら が駐 ちゅう 朝 あさ 公使 こうし だったのは、わずか半年 はんとし あまりのことであったが、その間 あいだ の経験 けいけん は強烈 きょうれつ であり、その後 ご の彼 かれ の外交 がいこう 政策 せいさく ・外交 がいこう 姿勢 しせい にあたえた影響 えいきょう はきわめて大 おお きかった[ 36] 。なお、この1か月 げつ 後 ご にはニコライ2世 せい の戴冠 たいかん 式 しき のためにサンクトペテルブルク を訪 おとず れた山縣 やまがた 有朋 ありとも がアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー 外相 がいしょう との間 あいだ で協定 きょうてい を結 むす んでいる(山縣 やまがた ・ロバノフ協定 きょうてい )[ 37] 。
駐 ちゅう 露 ろ 公使 こうし 、外相 がいしょう 、駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし を歴任 れきにん した西 にし 徳 いさお 二郎 じろう 1899年 ねん 時点 じてん で日 にち 露 ろ 戦争 せんそう とその後 ご の日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう を正確 せいかく に予言 よげん する高 たか い見識 けんしき をもっていた[ 38] 。
1896年 ねん 6月 がつ 11日 にち 、小村 こむら は日本 にっぽん に呼 よ び戻 もど されて、原 はら 敬 たかし に代 か わって外務 がいむ 次官 じかん に着任 ちゃくにん し、以降 いこう 、西園寺 さいおんじ 公望 きんもち 、大隈 おおくま 重信 しげのぶ 、西 にし 徳 いさお 二郎 じろう 3人 にん の外相 がいしょう の下 した で外務 がいむ 次官 じかん を務 つと めることになる[ 15] [ 30] [ 39] 。陸奥 むつ 宗光 むねみつ は療養 りょうよう に専念 せんねん するために5月30日 にち に外相 がいしょう を辞職 じしょく し、第 だい 2次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく の文部 もんぶ 大臣 だいじん だった西園寺 さいおんじ 公望 きんもち が兼務 けんむ して陸奥 みちのく 後任 こうにん の外相 がいしょう となっていた[ 39] 。露 ろ 館 かん 播遷を許 ゆる してしまったことは、小村 こむら としては大 だい 失態 しったい のはずであったが、陸奥 みちのく はこれを責 せ めることなく、むしろその能力 のうりょく を高 たか く評価 ひょうか し、その外相 がいしょう 辞任 じにん の直前 ちょくぜん 、小村 こむら を次官 じかん に抜擢 ばってき したのである[ 30] 。その後 ご 、この年 とし の9月 がつ に第 だい 2次 じ 松方 まつかた 内閣 ないかく が成立 せいりつ し、1897年 ねん 11月6日 にち までは大隈 おおくま 、その後 ご は西 にし が外相 がいしょう を務 つと め、西 にし は第 だい 3次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく でも留任 りゅうにん した[ 39] 。西 にし 徳 とく 二 に 郎 ろう は、サンクトペテルブルク大学 さんくとぺてるぶるくだいがく で学 まな び、ロシア公使 こうし を10年 ねん も務 つと めた当代 とうだい きってのロシア通 どおり であり、日 にち 露 ろ 関係 かんけい が難 むずか しい時期 じき を迎 むか えていたこの時期 じき 、小村 こむら からすれば、西 にし の下 した で働 はたら くのは心強 こころづよ かっただろうと考 かんが えられる[ 39] 。
結果 けっか 的 てき に小村 こむら は外務 がいむ 次官 じかん を2年 ねん 3か月 げつ 務 つと めた[ 39] 。この時期 じき の小村 こむら は、韓国 かんこく 問題 もんだい や列国 れっこく の対 たい 清 しん 活動 かつどう 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のハワイ併合 へいごう などに関 かん する諸 しょ 対策 たいさく にあたった[ 20] 。特 とく に力 ちから を入 い れたのは、大韓 たいかん 帝国 ていこく での鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 権 けん の獲得 かくとく であった[ 40] [ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。1898年 ねん 4月 がつ 25日 にち 、西 にし 外務 がいむ 大臣 だいじん と駐 ちゅう 日 にち 公使 こうし ロマン・ローゼン とのあいだで西 にし ・ローゼン協定 きょうてい が結 むす ばれたが、その内容 ないよう には、日本 にっぽん の韓国 かんこく への経済 けいざい 進出 しんしゅつ を帝政 ていせい ロシアに認 みと めさせる条文 じょうぶん が含 ふく まれており、これには小村 こむら の進言 しんげん の影響 えいきょう もうかがわれる[ 42] 。
駐米 ちゅうべい 公使 こうし ・駐 ちゅう 露 ろ 公使 こうし の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )9月13日 にち 、駐米 ちゅうべい 公使 こうし に任命 にんめい された小村 こむら は、10月22日 にち に日本 にっぽん を出発 しゅっぱつ し、11月9日 にち にサンフランシスコ に到着 とうちゃく し、ワシントンD.C. に着任 ちゃくにん したのは11月20日 にち のことであった[ 43] 。小村 こむら にとっては18年 ねん ぶりのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく である[ 43] 。当時 とうじ 、日米 にちべい 間 あいだ には大 おお きな懸案 けんあん はなく、小村 こむら の外交 がいこう 官 かん 生活 せいかつ のなかでは比較的 ひかくてき 平穏 へいおん な時期 じき であったといえる[ 43] 。ニューヨークに出向 でむ いたり、旅行 りょこう したりする余裕 よゆう もあったが、小村 こむら が熱心 ねっしん に取 と り組 く んだのはフランス語 ふらんすご の学習 がくしゅう であり、とりわけ読書 どくしょ に没頭 ぼっとう した[ 43] 。歴史 れきし 書 しょ に親 した しみ、なかでもアメリカ史 し にかかわる書籍 しょせき は大量 たいりょう に読 よ んだ[ 43] 。しかし、基本 きほん 的 てき に社交 しゃこう を好 この まない小村 こむら は人脈 じんみゃく を積極 せっきょく 的 てき に広 ひろ げるということはしなかった[ 43] 。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )2月 がつ 23日 にち 、小村 こむら はロシア勤務 きんむ を命 めい ぜられ、4月 がつ 12日 にち に離 はなれ 米 まい して、途中 とちゅう 、ロンドン に寄 よ り、ロシアに到着 とうちゃく した5月24日 にち に駐 ちゅう 露 ろ 公使 こうし に就任 しゅうにん した[ 44] 。ここでも小村 こむら はロシア語 ご の学習 がくしゅう に努 つと めるが、しかし、駐米 ちゅうべい 公使 こうし 時代 じだい とは異 こと なり、清 きよし では1898年 ねん に山東 さんとう 省 しょう に始 はじ まった義和 よしかず 団 だん の活動 かつどう が華北 かほく 一帯 いったい へと波及 はきゅう するなど、危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう がいっそう深刻 しんこく さを増 ま していた[ 44] 。1900年 ねん 6月 がつ 10日 とおか 、20万 まん 人 にん に膨 ふく れあがった義和 よしかず 団 だん の勢力 せいりょく が北京 ぺきん に入城 にゅうじょう 、6月 がつ 、日本 にっぽん 公使館 こうしかん 書記官 しょきかん 杉山 すぎやま 彬 あきら と駐 ちゅう 清 しん ドイツ公使 こうし クレメンス・フォン・ケーテラー (英語 えいご 版 ばん ) が北京 ぺきん の路上 ろじょう で殺害 さつがい され、義和 よしかず 団 だん が公使館 こうしかん 地域 ちいき を占領 せんりょう した[ 45] [ 46] 。こうした状況 じょうきょう をみて、6月21日 にち 、西 にし 太 ふとし 后 きさき を中心 ちゅうしん とする清国 きよくに 政府 せいふ が連合 れんごう 軍 ぐん に対 たい し宣戦 せんせん 布告 ふこく し、戦争 せんそう に発展 はってん した[ 30] [ 47] 。小村 こむら は、日本 にっぽん が列国 れっこく と共同 きょうどう 行動 こうどう をとり、突出 とっしゅつ しないことを保持 ほじ しながらも救援 きゅうえん 部隊 ぶたい を即刻 そっこく 派遣 はけん するよう本国 ほんごく に通告 つうこく し、ロシアとドイツの日本 にっぽん 出兵 しゅっぺい 反対 はんたい 論 ろん を封 ふう じた[ 30] 。清朝 せいちょう の宣戦 せんせん 布告 ふこく によって北京 ぺきん 籠城 ろうじょう 戦 せん が始 はじ まり、イギリスからの再三 さいさん の出兵 しゅっぺい 要請 ようせい に応 こた えて山 やま 縣内 けんない 閣 かく は清国 きよくに へ軍 ぐん を派遣 はけん した[ 46] 。駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし に転 てん じていた西 にし 徳二 とくじ 郎 ろう は福島 ふくしま 安正 やすまさ 率 ひき いる救援 きゅうえん 軍 ぐん が来 く るまで、公使館 こうしかん に日本人 にっぽんじん 居留 きょりゅう 者 しゃ をかくまい、柴 しば 五郎 ごろう らと協力 きょうりょく して敵 てき の襲撃 しゅうげき から守 まも り、救援 きゅうえん 軍 ぐん 到着 とうちゃく 後 ご は自 みずか ら陣頭 じんとう 指揮 しき にもあたったという。籠城 ろうじょう 戦 せん は8月 がつ 14日 にち まで続 つづ いた[ 47] 。
駐韓 ちゅうかん 公使 こうし として韓国 かんこく 併合 へいごう への道筋 みちすじ をつけた林 はやし 権助 ごんすけ
義和 よしかず 団 だん の乱 らん は1900年 ねん 6月 がつ 以降 いこう は北京 ぺきん をこえて満 まん 洲 しゅう 方面 ほうめん にも拡大 かくだい し、ロシアが1896年 ねん の露 ろ 清 しん 密約 みつやく で敷設 ふせつ 権 けん を得 え た東 あずま 清 きよし 鉄道 てつどう への攻撃 こうげき もなされ、未 いま だ建設 けんせつ 途上 とじょう の南 みなみ 支線 しせん (のちの南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう )も被害 ひがい を受 う けた[ 48] [ 49] [ 50] 。ロシアはこれに即座 そくざ に反応 はんのう し、皇帝 こうてい ニコライ2世 せい が進軍 しんぐん を命令 めいれい 、鉄道 てつどう を守 まも るため、15万 まん を超 こ える兵士 へいし が派遣 はけん された[ 48] [ 50] 。ロシアは7月 がつ 3日 にち 、黒竜江 こくりゅうこう に臨 のぞ むロシア領 りょう ブラゴヴェシチェンスク における軽微 けいび な発砲 はっぽう 事件 じけん を口実 こうじつ に戦闘 せんとう を開始 かいし した[ 51] 。ロシア軍 ぐん は8月 がつ 3日 にち にハルビン 、8月 がつ 27日 にち にチチハル 、9月28日 にち に遼 りょう 陽 ひ 、10月2日 にち に奉天 ほうてん を次々 つぎつぎ に占領 せんりょう し、約 やく 2か月 げつ 間 あいだ で満 まん 洲 しゅう 全土 ぜんど の要 よう 部 ぶ を制圧 せいあつ した[ 48] [ 49] 。ロシアの満 まん 洲 しゅう 占領 せんりょう に対 たい し、駐 ちゅう 露 ろ 公使 こうし の小村 こむら と駐韓 ちゅうかん 公使 こうし の林 はやし 権助 ごんすけ らは、韓国 かんこく 問題 もんだい のみをロシアと交渉 こうしょう してきた従来 じゅうらい の方針 ほうしん を転換 てんかん し、満 まん 洲 しゅう 問題 もんだい と韓国 かんこく 問題 もんだい を不可分 ふかぶん のものとして把握 はあく したうえで、相互 そうご に満 まん 洲 しゅう と韓国 かんこく の完全 かんぜん 確保 かくほ を認 みと め合 あ う「満 まん 韓 かん 交換 こうかん 」という方針 ほうしん の採用 さいよう を考 かんが えるようになった[ 52] 。
7月 がつ 19日 にち 、駐韓 ちゅうかん ロシア公使 こうし のアレクサンドル・イワノヴィッチ・パヴロフ (ロシア語 ご 版 ばん ) が、日本 にっぽん の林 はやし 駐韓 ちゅうかん 公使 こうし に対 たい し、韓国 かんこく で義和 よしかず 団 だん 事件 じけん のような騒擾 そうじょう が発生 はっせい した場合 ばあい に備 そな えて、日 にち 露 ろ 両国 りょうこく による勢力 せいりょく 範囲 はんい の画定 かくてい と、勢力 せいりょく 範囲 はんい 内 ない での秩序 ちつじょ 保全 ほぜん について互 たが いに責任 せきにん を持 も つという内容 ないよう の協定 きょうてい を提案 ていあん した[ 53] 。駐 ちゅう 日 にち ロシア公使 こうし のアレクサンドル・イズヴォリスキー も青木 あおき 周蔵 しゅうぞう 外務 がいむ 大臣 だいじん に同様 どうよう の提案 ていあん をおこなったが、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ も井上 いのうえ 馨 かおる もこの提案 ていあん に対 たい しては好意 こうい 的 てき であった[ 53] 。小村 こむら は、この提案 ていあん には反対 はんたい であり、ロシアの満 まん 洲 しゅう 占領 せんりょう が西 にし ・ローゼン協定 きょうてい で認 みと められた日本 にっぽん の韓国 かんこく における商 しょう 工業 こうぎょう の優越 ゆうえつ を脅 おびや かすものと考 かんが え、7月 がつ 22日 にち 、満 まん 韓 かん 交換 こうかん 論 ろん に基 もと づく意見 いけん 書 しょ を提出 ていしゅつ し、青木 あおき 外相 がいしょう の賛意 さんい を得 え た[ 15] [ 53] 。首相 しゅしょう の山縣 やまがた 有朋 ありとも は、ロシアの満 まん 洲 しゅう 占領 せんりょう が既成 きせい 事実 じじつ 化 か しつつある状況 じょうきょう では小村 こむら の意見 いけん はロシアの受 う け付 つ けるところにはならないだろうとの見通 みとお しを立 た て、どちらの意見 いけん も斥 しりぞ けた[ 53] 。10月2日 にち にセルゲイ・ウィッテ 蔵相 ぞうしょう と会談 かいだん した小村 こむら は、自 みずか らの満 まん 洲 しゅう ・韓国 かんこく 勢力 せいりょく 範囲 はんい 分割 ぶんかつ 案 あん を提起 ていき したが、ウィッテは韓国 かんこく の独立 どくりつ 維持 いじ を脅 おびや かすような合意 ごうい はできないとして、これに反対 はんたい した[ 53] 。同日 どうじつ 、奉天 ほうてん を占領 せんりょう したロシアにとっては、いまさら日本 にっぽん の保証 ほしょう を受 う けるまでもなかったのである[ 53] 。
1900年 ねん 10月23日 にち 、小村 こむら は駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし への転任 てんにん を命 めい じられた[ 54] 。清国 きよくに と列強 れっきょう の講和 こうわ 交渉 こうしょう は、10月15日 にち には始 はじ められていたが、混乱 こんらん の収拾 しゅうしゅう にはほど遠 とお い状況 じょうきょう であった[ 47] [ 54] 。日本 にっぽん 陸軍 りくぐん では、西 にし 徳二 とくじ 郎 ろう 公使 こうし は列強 れっきょう に対 たい し協調 きょうちょう 的 てき すぎて頼 たよ りにならないとの不平 ふへい が高 たか まっており、西 にし 自身 じしん も約 やく 2か月 げつ 続 つづ いた籠城 ろうじょう で体調 たいちょう を崩 くず していた[ 54] 。そこで、かつて代理 だいり 公使 こうし として日 にち 清 しん 開戦 かいせん にあたって交渉 こうしょう し、民政 みんせい 庁 ちょう 長官 ちょうかん の経験 けいけん もあり、押 お しの強 つよ さを期待 きたい できる小村 こむら に白羽 しらは の矢 や が立 た ったのである[ 54] 。小村 こむら は11月8日 にち にロシアを離 はな れ、ロンドン、ニューヨーク、バンクーバー を経 へ て12月19日 にち に帰国 きこく し、この日 ひ をもって駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし に就任 しゅうにん し、12月27日 にち に日本 にっぽん を出発 しゅっぱつ して1901年 ねん 1月 がつ 6日 にち に北京 ぺきん に着任 ちゃくにん した[ 54] 。
これに前後 ぜんご して駐 ちゅう 日 にち ロシア公使 こうし のイズヴォリスキーが1900年 ねん 12月 がつ 20日 はつか と1901年 ねん 1月 がつ 7日 にち の2度 ど にわたって加藤 かとう 高明 こうめい 外相 がいしょう と会談 かいだん し、日本 にっぽん に対 たい し、韓国 かんこく 中立 ちゅうりつ 化 か の提案 ていあん を申 もう し入 い れてきた[ 55] 。これは、井上 いのうえ 馨 かおる がそれを支持 しじ しているとの情報 じょうほう をつかんでいたからであったが、最 もっと も強固 きょうこ に反対 はんたい したのが小村 こむら であり、北京 ぺきん 着任 ちゃくにん 直後 ちょくご の1月 がつ 11日 にち に意見 いけん 書 しょ を送 おく っている[ 15] [ 55] 。その理由 りゆう は、韓国 かんこく における日本 にっぽん の地位 ちい は満 まん 洲 しゅう におけるロシアの行動 こうどう を多少 たしょう なりとも抑制 よくせい しており、なおかつ、すでに日本 にっぽん は韓国 かんこく において政治 せいじ 的 てき にも商 しょう 工業 こうぎょう の面 めん でも最大 さいだい の利益 りえき を保持 ほじ しようと決意 けつい し、共通 きょうつう の認識 にんしき となっているのに、これを放棄 ほうき する理由 りゆう はなく、放棄 ほうき すれば日本 にっぽん の威信 いしん にかかわるというものであった[ 55] 。小村 こむら の意見 いけん は満 まん 韓 かん の同時 どうじ 中立 ちゅうりつ 化 か ないし満 まん 韓 かん の交換 こうかん であり、満 まん 洲 しゅう 問題 もんだい と韓国 かんこく 問題 もんだい はあくまでも連関 れんかん させて解決 かいけつ を図 はか るべきというものであった[ 15] 。加藤 かとう 外相 がいしょう 自身 じしん も韓国 かんこく のみの中立 ちゅうりつ 化 か 提案 ていあん には反対 はんたい だったので、1月 がつ 17日 にち 、西 にし ・ローゼン協定 きょうてい を理由 りゆう に、イズヴォリスキーの提案 ていあん を公式 こうしき に拒否 きょひ した[ 55] 。
小村 こむら は、駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし 赴任 ふにん 当初 とうしょ より義和 よしかず 団 だん 事件 じけん の講和 こうわ 会議 かいぎ 全権 ぜんけん として事後 じご 処理 しょり にあたった[ 30] [ 54] 。ただし、和平 わへい 交渉 こうしょう そのものは1900年 ねん 12月30日 にち には既 すで に大枠 おおわく が定 さだ まり、一定 いってい の妥結 だけつ をみていた[ 49] [ 56] 。10か国 こく 以上 いじょう が関 かか わる国際 こくさい 会議 かいぎ で清国 きよくに との個別 こべつ 交渉 こうしょう は不可能 ふかのう と判断 はんだん した露 ろ 仏 ふつ 両国 りょうこく の見解 けんかい に日本 にっぽん も賛成 さんせい し、清国 きよくに もまた合同 ごうどう 協定 きょうてい の内容 ないよう に同意 どうい していたからであった[ 56] 。とはいえ、処罰 しょばつ の程度 ていど や賠償金 ばいしょうきん の額 がく など議論 ぎろん しなければならない議題 ぎだい は多岐 たき にわたり、諸国 しょこく の利害 りがい 関係 かんけい は多様 たよう で複雑 ふくざつ に絡 から み合 あ っていたため、会議 かいぎ は長期 ちょうき 化 か した[ 56] 。1901年 ねん 3月 がつ 、小村 こむら は英 えい 仏 ふつ 独 どく の公使 こうし とともに清国 きよくに の財源 ざいげん 調査 ちょうさ のための委員 いいん 会 かい の委員 いいん となり、清国 きよくに の関税 かんぜい 収入 しゅうにゅう を詳細 しょうさい に調査 ちょうさ して緻密 ちみつ な覚書 おぼえがき を提出 ていしゅつ し、賠償 ばいしょう 額 がく 交渉 こうしょう の進展 しんてん に寄与 きよ した[ 56] 。さらに小村 こむら はアメリカのウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル 駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし とともに清国 きよくに の外交 がいこう 改革 かいかく に尽力 じんりょく した[ 56] 。ここでの小村 こむら 駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし の活躍 かつやく はめざましく、「日本 にっぽん 外交 がいこう に小村 こむら あり」の声 こえ が世界 せかい でもささやかれるようになった[ 30] 。
北 きた 清 きよし 事変 じへん 最終 さいしゅう 議定 ぎてい 書 しょ の調印 ちょういん 式 しき 左 ひだり から2番目 ばんめ に小村 こむら 寿太郎 じゅたろう 、右 みぎ から2番目 ばんめ に李 り 鴻章 こうしう
一方 いっぽう 、ロシアの満 まん 洲 しゅう 占領 せんりょう という事態 じたい については、露 ろ 清 しん 両国 りょうこく の満 まん 洲 しゅう 現地 げんち 軍 ぐん 相互 そうご の密約 みつやく があり、本 ほん 調印 ちょういん はなされなかったものの清国 きよくに の主権 しゅけん はおおいに損 そこ なわれたままであった[ 51] 。小村 こむら は加藤 かとう 外相 がいしょう に逐一 ちくいち 清国 きよくに の情報 じょうほう を提供 ていきょう したほか、3月には李 り 鴻章 こうしう と会談 かいだん して密約 みつやく には日本 にっぽん は断固 だんこ として反対 はんたい であると圧力 あつりょく をかけた[ 51] [ 56] 。加藤 かとう 外相 がいしょう もイギリス・ドイツの両国 りょうこく に協力 きょうりょく を要請 ようせい し、その賛意 さんい を得 え たうえで、1901年 ねん 3月 がつ 20日 はつか に駐 ちゅう 日 にち 清 しん 国 こく 公使 こうし の李 り 盛 もり 鐸 を招 まね いて会談 かいだん を開 ひら き、日 にち ・英 えい ・独 どく の意向 いこう も伝 つた えてロシア側 がわ 要求 ようきゅう を拒絶 きょぜつ するよう勧告 かんこく し、ロシアに対 たい しても、珍田 ちんだ 捨巳 すてみ 駐 ちゅう 露 ろ 公使 こうし に電 でん 訓 くん し、ロシアの対 たい 清 しん 要求 ようきゅう は満 まん 洲 しゅう に保有 ほゆう するロシアの権利 けんり 防衛 ぼうえい に必要 ひつよう な限度 げんど を超 こ えたものであり、列国 れっこく 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ に提案 ていあん して協定 きょうてい すべき問題 もんだい であると通告 つうこく した[ 51] 。ところがロシアは、4月 がつ 5日 にち 付 づけ 官報 かんぽう において露 ろ 清 しん 交渉 こうしょう 打 う ち切 き りを宣言 せんげん し、同 どう 内容 ないよう の通牒 つうちょう を関係 かんけい 各国 かっこく に示 しめ した[ 51] 。加藤 かとう 外相 がいしょう は4月 がつ 16日 にち の公使 こうし 宛 あて 書簡 しょかん で小村 こむら の尽力 じんりょく について感謝 かんしゃ し、その労 ろう を厚 あつ くねぎらったが、ロシアの満 まん 洲 しゅう 撤兵 てっぺい 問題 もんだい は宙 ちゅう に浮 う いたままとなった[ 51] 。小村 こむら は講和 こうわ 会議 かいぎ の席上 せきじょう でもロシア全権 ぜんけん のウラジーミル・ラムスドルフ 外相 がいしょう に満 まん 洲 しゅう 撤兵 てっぺい を強 つよ く要求 ようきゅう している[ 56] 。
1901年 ねん 9月7日 にち 、清国 きよくに および11か国 こく との間 あいだ でようやく北京 ぺきん 議定 ぎてい 書 しょ (辛 からし 丑 うし 条約 じょうやく )が調印 ちょういん され、義和 よしかず 団 だん 戦争 せんそう の戦後 せんご 処理 しょり は本 ほん 議定 ぎてい 書 しょ によってなされることとなった[ 46] [ 49] [ 57] [ 58] [ 59] 。小村 こむら にとっては、満 まん 洲 しゅう 占領 せんりょう 問題 もんだい こそ解決 かいけつ できなかったものの、賠償金 ばいしょうきん も得 え られ、北京 ぺきん に駐在 ちゅうざい する自 じ 国民 こくみん の生命 せいめい ・財産 ざいさん を守 まも るための駐兵 ちゅうへい 権 けん が認 みと められたことは、とりあえず満足 まんぞく すべき結果 けっか だったろうと考 かんが えられる[ 57] 。なお、議定 ぎてい 書 しょ の内容 ないよう は清国 きよくに にとって苛酷 かこく なものとなったが、窮地 きゅうち に陥 おちい った清国 きよくに の内情 ないじょう が知 し られるにつけ、列強 れっきょう の側 がわ も清国 きよくに に対 たい する圧迫 あっぱく を手控 てびか え、清国 きよくに 政府 せいふ の主権 しゅけん と領土 りょうど を支持 しじ するなかで自国 じこく の権益 けんえき を守 まも る姿勢 しせい へと態度 たいど を修正 しゅうせい していった[ 60] 。小村 こむら は、講和 こうわ 会議 かいぎ の交渉 こうしょう 中 ちゅう の6月 がつ 、日本 にっぽん から思 おも わぬ知 し らせを受 う けていた。それは、新 しん 首相 しゅしょう 桂 かつら 太郎 たろう からの外務 がいむ 大臣 だいじん 就任 しゅうにん 要請 ようせい であった[ 57] 。
1901年 ねん 6月 がつ 、小村 こむら は日 にち 清 しん 戦争 せんそう 以来 いらい 小村 こむら を高 たか く買 か っていた桂 かつら 太郎 たろう に招 まね かれ、第 だい 1次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく の外務 がいむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん することとなった[ 61] 。彼 かれ の友人 ゆうじん たちは、桂 かつら 内閣 ないかく 発足 ほっそく 時 じ には3か月 げつ の短命 たんめい 政権 せいけん で終 お わるだろうとの憶測 おくそく が飛 と び交 か ったので、入閣 にゅうかく は損 そん だからやめた方 ほう がよいと小村 こむら に忠告 ちゅうこく している[ 62] 。しかし、小村 こむら は3か月 げつ もあればイギリスとの同盟 どうめい もまとめられるし、これは何 なに としてもやらなければならないとして周囲 しゅうい の忠告 ちゅうこく は聞 き かずに入閣 にゅうかく した[ 62] 。
ただ、小村 こむら は北京 ぺきん 議定 ぎてい 書 しょ 調印 ちょういん のため清国 きよくに を離 はな れることができなかったため、その間 あいだ 、曾禰荒 あら 助 すけ 蔵相 ぞうしょう が外相 がいしょう を兼 か ねた[ 61] 。一方 いっぽう 、1901年 ねん 7月 がつ 15日 にち 、イギリスに帰国 きこく 中 ちゅう のクロード・マクドナルド 駐 ちゅう 日 にち 公使 こうし が日本 にっぽん の林 はやし 董 ただし 駐 ちゅう 英 えい 公使 こうし に対 たい し、恒久 こうきゅう 的 てき な日 にち 英 えい 同盟 どうめい について打診 だしん したことから日 にち 英 えい 提携 ていけい の動 うご きが活発 かっぱつ 化 か し、7月 がつ 31日 にち 、林 はやし はイギリス外相 がいしょう ランズダウン侯爵 こうしゃく と協議 きょうぎ に入 はい った[ 63] [ 64] 。
日 にち 清 しん 戦争 せんそう のとき以来 いらい 、小村 こむら を高 たか く評価 ひょうか してきた首相 しゅしょう 桂 かつら 太郎 たろう
日 にち 英 えい 同盟 どうめい 交渉 こうしょう を推進 すいしん した林 はやし 董 ただし
日 にち 英 えい 交渉 こうしょう がなされているさなか、日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう を模索 もさく していた伊藤 いとう 博文 ひろぶみ がヨーロッパに旅立 たびだ ったのと入 い れ違 ちが いに小村 こむら が帰国 きこく し、9月21日 にち に正式 せいしき に外相 がいしょう に任命 にんめい された[ 61] 。したがって、イギリスとは同盟 どうめい 交渉 こうしょう を、ロシアとは将来 しょうらい の連携 れんけい を見据 みす えての意見 いけん 交換 こうかん を、それぞれ併行 へいこう して進 すす めるという9月11日 にち の会合 かいごう に小村 こむら は出席 しゅっせき していなかった[ 61] 。10月8日 にち 、小村 こむら は林 はやし 公使 こうし に同盟 どうめい 交渉 こうしょう 開始 かいし を訓令 くんれい し、交渉 こうしょう のための正式 せいしき な権限 けんげん を与 あた えた[ 63] 。
11月に入 はい り、イギリス側 がわ から具体 ぐたい 的 てき な同盟 どうめい 条約 じょうやく の草案 そうあん が示 しめ されたが、同時 どうじ にイギリスからはダブル·ディーリング、すなわち二股 ふたまた 交渉 こうしょう への警告 けいこく が思 おも いかけずも発 はっ せられた[ 61] [ 65] 。日本 にっぽん 政府 せいふ 部 ぶ 内 ない では日 にち 英 えい 同盟 どうめい と日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう は相互 そうご に対立 たいりつ するものではなかった[ 65] 。しかし、イギリスからの警告 けいこく は、山縣 やまがた や桂 かつら を9月 がつ 時点 じてん での二兎 にと を追 お う発想 はっそう から日 にち 英 えい 同盟 どうめい 最 さい 優先 ゆうせん の発想 はっそう へと傾斜 けいしゃ させた[ 61] 。
12月7日 にち 、桂 かつら の葉山 はやま 別邸 べってい で、伊藤 いとう と大山 おおやま 巌 いわお を除 のぞ く、山縣 やまがた ・井上 いのうえ ・西郷 さいごう 従道 つぐみち ・松方 まつかた 正義 まさよし の4人 にん の元老 げんろう に桂 かつら ・小村 こむら を加 くわ えた元老 げんろう 会議 かいぎ が開 ひら かれた[ 66] 。ここで小村 こむら は「日 にち 英 えい 協約 きょうやく に関 かん する意見 いけん 」を提出 ていしゅつ し、韓国 かんこく 問題 もんだい を日本 にっぽん の希望 きぼう 通 どお りに解決 かいけつ するためにはロシアとの間 あいだ の単純 たんじゅん な二 に 国 こく 間 あいだ 交渉 こうしょう だけでは到底 とうてい 無理 むり であり、交戦 こうせん も辞 じ さずの決心 けっしん を示 しめ すか、さもなくば第三国 だいさんごく と結 むす び、その共同 きょうどう の勢力 せいりょく を利用 りよう して、ロシアにやむを得 え ず日本 にっぽん の要求 ようきゅう に応 おう じさせるかのどちらかしかないと論 ろん じた[ 66] 。そして小村 こむら は、日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう は仮 かり に成功 せいこう しても利点 りてん が少 すく ないと主張 しゅちょう した[ 67] 。その理由 りゆう として、日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう は東洋 とうよう 平和 へいわ を維持 いじ しても一時 いちじ 的 てき なものにとどまってしまうこと、経済 けいざい 上 じょう の利益 りえき が少 すく ないこと、清国 きよくに 人 じん の感情 かんじょう を害 がい すること、イギリスの感情 かんじょう を害 がい し、結果 けっか として同国 どうこく と海軍 かいぐん 力 りょく で拮抗 きっこう する必要 ひつよう が生 しょう じることの4点 てん を挙 あ げた[ 67] 。これは、小村 こむら 自身 じしん のロシアへの不信 ふしん 感 かん を表 あらわ したものではあったが、一方 いっぽう で日 にち 英 えい 同盟 どうめい のメリットとして、恒久 こうきゅう 的 てき な東洋 とうよう 平和 へいわ 、清国 きよくに における門戸 もんこ 開放 かいほう 、韓国 かんこく 問題 もんだい の解決 かいけつ 、財政 ざいせい 上 じょう の便益 べんえき 、通商 つうしょう 上 じょう の利益 りえき 、防衛 ぼうえい 負担 ふたん の軽減 けいげん など7点 てん を挙 あ げている[ 61] [ 67] 。小村 こむら がこのような二者択一 にしゃたくいつ 的 てき な問題 もんだい 設定 せってい を行 おこな ったのは、9月11日 にち の決定 けってい に縛 しば られず自由 じゆう な立場 たちば にあったうえに、イギリスからの警告 けいこく を重 おも くみたためと考 かんが えられる[ 61] 。ただし、小村 こむら はこのとき、むしろロシアとの戦争 せんそう を避 さ けるために日 にち 英 えい 同盟 どうめい 論 ろん を展開 てんかい していた[ 67] 。桂 かつら は元老 げんろう 会議 かいぎ に先立 さきだ って根回 ねまわ しをしており、11月30日 にち に山縣 やまがた 、12月2日 にち に西郷 さいごう 、12月5日 にち に松方 まつかた の同意 どうい を得 え ていた[ 67] 。これに小村 こむら の意見 いけん 書 しょ が奏功 そうこう して、伊藤 いとう による日 にち 英 えい 同盟 どうめい 締結 ていけつ 延期 えんき の具申 ぐしん があったにもかかわらず、結果 けっか 的 てき には元老 げんろう 会議 かいぎ では全会 ぜんかい 一致 いっち というかたちで日 にち 英 えい 同盟 どうめい 締結 ていけつ 案 あん を可決 かけつ したのであった[ 61] [ 67] 。
元老 げんろう 会議 かいぎ 終了 しゅうりょう 後 ご 、小村 こむら は反対 はんたい なしで日 にち 英 えい 同盟 どうめい 推進 すいしん 路線 ろせん が可決 かけつ されたことを林 はやし 董 ただし 駐 ちゅう 英 えい 公使 こうし に報告 ほうこく し、続 つづ いて閣議 かくぎ 決定 けってい された日本 にっぽん 側 がわ による協約 きょうやく 修正 しゅうせい 案 あん を伝 つた えた[ 68] 。12月12日 にち と16日 にち 、林 はやし ・ランズダウン会談 かいだん が開 ひら かれ、その都度 つど 小村 こむら も林 はやし 公使 こうし に指示 しじ をあたえたが、現地 げんち 交渉 こうしょう は必 かなら ずしも順調 じゅんちょう とはいえなかった[ 68] 。しかし、その間 あいだ 、ロシアとの交渉 こうしょう を行 おこな っていた伊藤 いとう 博文 ひろぶみ が、あまりに非 ひ 妥協 だきょう 的 てき なロシアの態度 たいど に業 ごう を煮 に やして日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう そのものを断念 だんねん してしまった[ 69] 。1902年 ねん に入 はい るとイギリスの姿勢 しせい も軟化 なんか してランズダウン侯爵 こうしゃく が林 はやし 公使 こうし に修正 しゅうせい 案 あん が示 しめ され、1月 がつ 18日 にち の林 はやし ・ランズダウン会談 かいだん ののち、イギリス側 がわ の閣議 かくぎ を経 へ た修正 しゅうせい 案 あん が1月 がつ 24日 にち に林 はやし 公使 こうし に提出 ていしゅつ され、それを受 う けて1月 がつ 29日 にち 、日本 にっぽん 側 がわ も閣議 かくぎ 決定 けってい を行 おこな って同 どう 修正 しゅうせい 案 あん を受諾 じゅだく 、翌 よく 1月 がつ 30日 にち に日 にち 英 えい 同盟 どうめい 条約 じょうやく がロンドン で調印 ちょういん されたのである[ 61] [ 69] 。
小村 こむら は日 にち 英 えい 同盟 どうめい 締結 ていけつ の功 こう により男爵 だんしゃく 位 い を授与 じゅよ され華族 かぞく に列 れっ し[ 70] [ 71] 、勲一等 くんいっとう と賜金 しきん 1万 まん 円 えん も与 あた えられた[ 70] [ 72] 。各地 かくち で開 ひら かれた日 にち 英 えい 同盟 どうめい 祝賀 しゅくが 会 かい に小村 こむら も何 なん 度 ど か招 まね かれており、政権 せいけん 内 ない での桂 かつら 、小村 こむら の威信 いしん は高 たか まった[ 71] [ 72] 。
一方 いっぽう 、義和 よしかず 団 だん 事件 じけん の外交 がいこう 決着 けっちゃく として北京 ぺきん 議定 ぎてい 書 しょ が調印 ちょういん されたことにより、ロシアとしても満 まん 洲 しゅう 占領 せんりょう 問題 もんだい について何 なん らかの決着 けっちゃく を図 はか らなければならなくなった[ 73] 。1901年 ねん 10月5日 にち 、駐 ちゅう 清 しん ロシア公使 こうし のパーヴェル・ミハイロヴィチ・レサール (ロシア語 ご 版 ばん ) は清国 きよくに に対 たい し、3年間 ねんかん で完全 かんぜん に全 ぜん 満 まん 洲 しゅう から兵 へい を引 ひ き揚 あ げるという内容 ないよう に付帯 ふたい 条件 じょうけん を付 つ けた新 しん 提案 ていあん をおこなったが、条件 じょうけん は以前 いぜん よりいくらか緩和 かんわ されていた[ 73] 。しかし、これらの条件 じょうけん によって満 まん 洲 しゅう が軍事 ぐんじ 的 てき にロシアの統制 とうせい を受 う けることは明白 めいはく であった[ 73] 。
ロシアのウラジーミル・ラムスドルフ 外相 がいしょう
これに対 たい し、小村 こむら 外相 がいしょう は積極 せっきょく 的 てき に動 うご いた。小村 こむら はまず、駐 ちゅう 清 きよし 代理 だいり 公使 こうし の日置 ひおき 益 えき に電 でん 訓 くん を発令 はつれい し、清国 きよくに に対 たい し、重要 じゅうよう な交渉 こうしょう を開始 かいし する場合 ばあい は日本 にっぽん 政府 せいふ に相談 そうだん すべきことを、外交 がいこう 担当 たんとう 者 しゃ である慶 けい 親王 しんのう 奕劻 に伝 つた えた[ 51] 。10月21日 にち には、慶 けい 親王 しんのう に対 たい し、今回 こんかい は以前 いぜん より改善 かいぜん されているとはいえ、なお清国 きよくに の主権 しゅけん を損 そこ ねる条項 じょうこう を含 ふく み、改変 かいへん を要 よう するとして、10月31日 にち 、慶 けい 親王 しんのう は調印 ちょういん 前 まえ に必 かなら ず日本 にっぽん 側 がわ と協議 きょうぎ することを確約 かくやく した[ 51] 。小村 こむら は、これをただちに英 えい 米 べい 両 りょう 政府 せいふ にも伝 つた え、日 にち ・英 えい ・米 べい の三 さん 国 こく でその成立 せいりつ を阻止 そし しようとした[ 73] 。さらに小村 こむら は、駐 ちゅう 露 ろ 代理 だいり 公使 こうし を通 つう じてラムスドルフ外相 がいしょう に日本 にっぽん 政府 せいふ を見解 けんかい を伝 つた え、11月8日 にち 、満 まん 洲 しゅう 駐屯 ちゅうとん の清 しん 軍 ぐん の兵 へい 数 すう を前 まえ もってロシア側 がわ に知 し らせることは予防 よぼう 的 てき 措置 そち としては認 みと められるものであっても、清国 きよくに が負 お うべき生命 せいめい ・財産 ざいさん の保護 ほご や秩序 ちつじょ 維持 いじ による国際 こくさい 的 てき 義務 ぎむ の履行 りこう を妨 さまた げることにつながる条件 じょうけん は一切 いっさい 付 つ けるべきではないと申 もう し入 い れた[ 51] 。これに対 たい し、ラムスドルフは「ロシアの必要 ひつよう と清国 きよくに の事情 じじょう 」を熟考 じゅっこう して決 き めた中庸 ちゅうよう を得 え た条件 じょうけん であり、独 どく ・仏 ふつ 両国 りょうこく 首脳 しゅのう も同意 どうい したものであると答 こた え、日本 にっぽん 国内 こくない の新聞 しんぶん の論調 ろんちょう があまりに反 はん 露 ろ 的 てき なので緩和 かんわ してもらいたいとの希望 きぼう を添 そ えた[ 51] 。小村 こむら は新聞 しんぶん 報道 ほうどう は日 にち 露 ろ 関係 かんけい には影響 えいきょう を及 およ ぼさないと通告 つうこく した[ 51] 。
のちに通算 つうさん 在職 ざいしょく 期間 きかん 最長 さいちょう の外相 がいしょう となる内田 うちだ 康哉 こうさい
11月7日 にち の李 り 鴻章 こうしう の死去 しきょ 後 ご 、清国 きよくに では慶 けい 親王 しんのう が専 もっぱ らレサール公使 こうし との折衝 せっしょう にあたることとなった[ 51] 。12月9日 にち 、慶 けい 親王 しんのう は新任 しんにん の内田 うちだ 康哉 こうさい 駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし と会談 かいだん し、ロシア側 がわ 提示 ていじ の協約 きょうやく 案 あん と慶 けい 親王 しんのう による修正 しゅうせい 案 あん とを内示 ないじ して日本 にっぽん 側 がわ の意向 いこう を求 もと めた[ 51] 。露 ろ 清 しん 双方 そうほう の協約 きょうやく 案 あん について内田 うちだ より報告 ほうこく を受 う けた小村 こむら は、それが調印 ちょういん された場合 ばあい 、清国 きよくに の主権 しゅけん が侵害 しんがい される怖 こわ れがあるとし、逐一 ちくいち 日本 にっぽん 側 がわ の考 かんが えを示 しめ してこれにアドバイスした[ 51] 。しかし、その過程 かてい の質疑 しつぎ 応答 おうとう で、清国 きよくに 政府 せいふ と露 ろ 清 しん 銀行 ぎんこう との間 あいだ で鉱山 こうざん などの企業 きぎょう に対 たい する重大 じゅうだい な特権 とっけん 譲与 じょうよ 事項 じこう が懸案 けんあん となっており、12月14日 にち には露 ろ 清 しん 銀行 ぎんこう に優先 ゆうせん 権 けん を与 あた える一 いち 契約 けいやく を同 どう 銀行 ぎんこう の支配人 しはいにん との間 あいだ で折衝 せっしょう 中 ちゅう であることも露見 ろけん した[ 51] [ 73] 。小村 こむら は1902年 ねん 1月 がつ 25日 にち 、露 ろ 清 しん 銀行 ぎんこう の特権 とっけん に関 かん する条項 じょうこう は、諸国 しょこく の条約 じょうやく 上 じょう の権利 けんり を侵害 しんがい するものであり、満 まん 洲 しゅう 撤兵 てっぺい 問題 もんだい とは無関係 むかんけい のものであるから拒絶 きょぜつ すべきであると内田 うちだ 公使 こうし を介 かい して慶 けい 親王 しんのう に伝 つた えた[ 51] 。これに対 たい して慶 けい 親王 しんのう は、満 まん 洲 しゅう を回復 かいふく する機会 きかい を逃 のが さないためには、多少 たしょう の利権 りけん をロシアに譲与 じょうよ しても速 すみ やかな撤兵 てっぺい を優先 ゆうせん すべきとの考 かんが えを示 しめ し、小村 こむら に理解 りかい を求 もと めた[ 51] 。しかし、小村 こむら はあくまでも従来 じゅうらい の方針 ほうしん を堅持 けんじ し、露 ろ 清 しん 銀行 ぎんこう の件 けん は撤兵 てっぺい の先決 せんけつ 要件 ようけん にはなりえず、これを今 いま 持 も ち出 だ すのは新 あら たに補償 ほしょう の性質 せいしつ を条件 じょうけん に加 くわ えるものになると訴 うった えた[ 51] 。そして、ここで妥協 だきょう することは、清国 きよくに の貴重 きちょう な特権 とっけん をロシアに一方 いっぽう 的 てき に付与 ふよ するものであるのみならず、明 あき らかに他国 たこく の条約 じょうやく 上 じょう の権利 けんり を無視 むし しており、機会 きかい 均等 きんとう の原則 げんそく にも反 はん するとの見解 けんかい を内田 うちだ 公使 こうし を通 つう じて清国 きよくに 側 がわ に伝 つた え、そのうえで、英 えい ・米 べい 両国 りょうこく にもこの件 けん を連絡 れんらく した[ 51] [ 73] 。イギリス政府 せいふ はこれを受 う けて、ロシアが北京 ぺきん 議定 ぎてい 書 しょ で定 さだ めた賠償金 ばいしょうきん 以上 いじょう の額 がく を清国 きよくに から得 え ようとするのは、諸国 しょこく 協定 きょうてい の趣旨 しゅし に背 そむ くとしてロシアを批判 ひはん し、清国 きよくに には、清 きよし が露 ろ 清 しん 銀行 ぎんこう に特権 とっけん を与 あた えるならば、イギリスとしても同等 どうとう の利権 りけん を要求 ようきゅう する旨 むね 通告 つうこく した[ 73] 。アメリカも露 ろ 清 しん 交渉 こうしょう には憂慮 ゆうりょ の念 ねん をいだいているとして両国 りょうこく 政府 せいふ に対 たい し強 つよ い抗議 こうぎ の意思 いし を表明 ひょうめい した[ 73] 。
列国 れっこく の反響 はんきょう に背中 せなか を押 お された慶 けい 親王 しんのう は内田 うちだ 公使 こうし に対 たい し日本 にっぽん の好意 こうい に謝意 しゃい を示 しめ し、毅然 きぜん としてロシアの要求 ようきゅう を受 う け入 い れない態度 たいど に転 てん じた[ 51] 。レサールもこれにはなすすべがなく、2月 がつ 8日 にち 、あらためて提案 ていあん しなおした[ 51] 。日 にち 英 えい 同盟 どうめい の締結 ていけつ 後 ご は、慶 けい 親王 しんのう はこれに大 おお きな力 ちから を得 え て、露 ろ 清 しん 銀行 ぎんこう 契約 けいやく 案 あん には調印 ちょういん しないことを再 ふたた び明言 めいげん した[ 51] 。以後 いご 、レサールと慶 けい 親王 しんのう は数次 すうじ にわたって交渉 こうしょう を重 かさ ねたが、ロシア側 がわ は徐々 じょじょ に軟化 なんか の姿勢 しせい をみせ、1902年 ねん 4月 がつ 8日 にち 、北京 ぺきん において満 まん 洲 しゅう 還付 かんぷ 条約 じょうやく が締結 ていけつ された[ 74] 。満 まん 洲 しゅう 進駐 しんちゅう のロシア軍 ぐん を第 だい 1次 じ から第 だい 3次 じ までの3回 かい に分 わ け、それぞれ半年 はんとし ずつの期間 きかん を設 もう けて計 けい 1年 ねん 半 はん かけて南 みなみ から順 じゅん に満 まん 洲 しゅう 全土 ぜんど から撤兵 てっぺい し、最終 さいしゅう 的 てき には同地 どうち を清国 きよくに の主権 しゅけん に返還 へんかん することが決定 けってい したのである[ 74] 。
ハーバードに留学 りゅうがく して法学 ほうがく を学 まな んだ栗野 くりの 慎一郎 しんいちろう
日 にち 英 えい 同盟 どうめい が締結 ていけつ される前 まえ の1902年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 、小村 こむら 外相 がいしょう は栗野 くりの 慎一郎 しんいちろう 駐 ちゅう 露 ろ 公使 こうし に対 たい し、将来 しょうらい の日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう に向 む けた予備 よび 交渉 こうしょう を訓令 くんれい した[ 75] 。イギリスの警告 けいこく によってダブル·ディーリングは放棄 ほうき したものの、日 にち 英 えい 同盟 どうめい 交渉 こうしょう と日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう 予備 よび 交渉 こうしょう を並行 へいこう して進 すす めるのは政府 せいふ の既定 きてい 方針 ほうしん だったからである[ 75] 。逆 ぎゃく に、日 にち 英 えい 同盟 どうめい の調印 ちょういん は日本 にっぽん の立場 たちば を強 つよ め、日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう 締結 ていけつ の機会 きかい をもたらすことさえ期待 きたい された[ 75] 。事実 じじつ 、ロシアは清国 きよくに と満 まん 洲 しゅう 還付 かんぷ 条約 じょうやく を結 むす んで、満 まん 洲 しゅう からの撤退 てったい を決 き めたのであり、小村 こむら はこれをロシア政府 せいふ 内 ない での穏健 おんけん 派 は 勢力 せいりょく の回復 かいふく ととらえていたのである[ 76] 。
1902年 ねん 7月 がつ 7日 にち 、小村 こむら は栗野 くりの 公使 こうし に対 たい し、清国 きよくに と韓国 かんこく における日 にち 露 ろ の勢力 せいりょく 範囲 はんい を定 さだ める新 あら たな日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう を締結 ていけつ するための秘密 ひみつ 交渉 こうしょう を打診 だしん するよう指示 しじ した[ 76] 。栗野 くりの は一個人 いっこじん の資格 しかく で7月 がつ 23日 にち と9月 がつ 14日 にち の2回 かい 、ラムスドルフと会談 かいだん の機会 きかい を得 え た[ 76] 。小村 こむら は11月1日 にち 、協商 きょうしょう の骨子 こっし として5条 じょう から成 な る案 あん を内示 ないじ したが、実 じつ は栗野 くりの が9月時点 じてん で独自 どくじ の協商 きょうしょう 私案 しあん をロシア側 がわ に提出 ていしゅつ していた[ 76] 。栗野 くりの の案 あん は小村 こむら の案 あん に比 くら べるとロシア側 がわ に譲歩 じょうほ したものであったが、小村 こむら は出 だ してしまった栗野 くりの 案 あん を撤回 てっかい させることはせず、ロシア側 がわ の出方 でかた を待 ま つ一方 いっぽう 、以後 いご 、独断 どくだん での妥協 だきょう をおこなわないよう命 めい じた[ 77] 。ロシアではこののち1903年 ねん 2月 がつ 7日 にち 、会議 かいぎ が開 ひら かれ、栗野 くりの 案 あん を受 う け入 い れる方向 ほうこう 性 せい が示 しめ されたが、協商 きょうしょう を結 むす びたがっていることを日本 にっぽん 側 がわ に悟 さと らせないために、次 つぎ の日本 にっぽん 側 がわ 提案 ていあん を待 ま った[ 77] 。一方 いっぽう の栗野 くりの は先年 せんねん の9月 がつ 以来 いらい 、ずっとロシア政府 せいふ からの回答 かいとう がないことを悲観 ひかん し、彼 かれ 自身 じしん も交渉 こうしょう 再開 さいかい を希望 きぼう しなかったので、この交渉 こうしょう は自然 しぜん に立 た ち消 ぎ えとなった[ 77] 。実 みの らなかったものの、この時期 じき の小村 こむら が日 にち 露 ろ 関係 かんけい の改善 かいぜん を望 のぞ んでいたことは間違 まちが いない[ 77] 。
ところが、ロシアは満 まん 洲 しゅう 還付 かんぷ 条約 じょうやく に定 さだ められた1903年 ねん 4月 がつ 8日 にち の第 だい 二 に 次 じ 撤兵 てっぺい 期限 きげん を守 まも らず、逆 ぎゃく に増派 ぞうは したうえで7箇条 かじょう の撤兵 てっぺい 条件 じょうけん を清国 きよくに にせまったことにより、事態 じたい が急変 きゅうへん する[ 75] [ 78] 。日本 にっぽん 国民 こくみん の反 はん ロシア感情 かんじょう は急速 きゅうそく に高 たか まり、軍部 ぐんぶ が警戒 けいかい 感 かん をいだいて、龍 りゅう 岩 いわ 浦 うら 事件 じけん がそれに拍車 はくしゃ をかけた[ 75] [ 79] 。
4月 がつ 21日 にち 、京都 きょうと の無 む 鄰菴 (山縣 やまがた 別邸 べってい )に伊藤 いとう ·山縣 やまがた ·桂 かつら ·小村 こむら の4人 にん が集 あつ まり、「日本 にっぽん に有利 ゆうり な満 まん 韓 かん 交換 こうかん 」を最終 さいしゅう 的 てき に提議 ていぎ し、最低 さいてい でも「対等 たいとう な満 まん 韓 かん 交換 こうかん 」という交渉 こうしょう 方針 ほうしん 、い換 いか えれば「朝鮮 ちょうせん は如何 いか なる困難 こんなん に逢着 ほうちゃく するとも断 だん じて手 て 離 はな さざる事 こと 」をロシアに認 みと めさせる方針 ほうしん を確認 かくにん し、元老 げんろう ·内 ない 閣 かく の意思 いし 統一 とういつ を図 はか った[ 78] 。ここに至 いた っても小村 こむら には開戦 かいせん の意思 いし はなかった[ 78] 。しかし、撤兵 てっぺい の違約 いやく から2か月 げつ 以上 いじょう 経過 けいか しても事態 じたい がいっこうに進展 しんてん しなかったことを心配 しんぱい した明治天皇 めいじてんのう は、6月 がつ 20日 はつか 、桂 かつら と小村 こむら に対 たい して御前 ごぜん 会議 かいぎ の召集 しょうしゅう を命 めい じた[ 80] 。
1903年 ねん 6月23日 にち 、これを受 う けて御前 ごぜん 会議 かいぎ が開催 かいさい された[ 80] 。内閣 ないかく からは桂 かつら 、小村 こむら 、山本 やまもと 権兵衛 ごんべえ 海 うみ 相 しょう 、寺内 てらうち 正毅 まさき 陸相 りくしょう 、元老 げんろう からは伊藤 いとう 、山縣 やまがた 、井上 いのうえ 、松方 まつかた 、大山 おおやま 巌 いわお が参加 さんか した[ 75] [ 80] 。この御前 ごぜん 会議 かいぎ で小村 こむら は「対 たい 露 ろ 交渉 こうしょう に関 かん する件 けん 」と題 だい する4点 てん から成 な る意見 いけん 書 しょ を提出 ていしゅつ した[ 80] 。その基本 きほん は、あらためて韓国 かんこく が日本 にっぽん の安全 あんぜん 保障 ほしょう にとってきわめて重要 じゅうよう であるとの認識 にんしき に立 た つものであり、井上 いのうえ が若干 じゃっかん の異議 いぎ を呈 てい しただけで終始 しゅうし 小村 こむら の意見 いけん が会議 かいぎ をリードし、「日本 にっぽん に有利 ゆうり な満 まん 韓 かん 交換 こうかん 」をめざし、最終 さいしゅう 的 てき に譲歩 じょうほ するとしても「対等 たいとう な満 まん 韓 かん 交換 こうかん 」をくずさないという小村 こむら 意見 いけん 書 しょ をもとに日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう 案 あん 要領 ようりょう が策定 さくてい された[ 75] [ 80] 。この決定 けってい にもとづき、7月 がつ 28日 にち 、小村 こむら は栗野 くりの にロシアとの交渉 こうしょう を再開 さいかい するよう訓令 くんれい を送 おく り、栗野 くりの は8月 がつ 5日 にち 、このことをロシア側 がわ に報告 ほうこく し、8月 がつ 12日 にち 、栗野 くりの はロシア側 がわ へ交渉 こうしょう 基礎 きそ 案 あん を提出 ていしゅつ して日 にち 露 ろ 交渉 こうしょう が再 ふたた び開始 かいし された[ 81] 。
駐 ちゅう 日 にち 公使 こうし ロマン・ローゼン
8月 がつ に始 はじ まった日 にち 露 ろ 交渉 こうしょう は、9月7日 にち 、場所 ばしょ を東京 とうきょう に移 うつ して小村 こむら と駐 ちゅう 日 にち ロシア公使 こうし ロマン・ローゼン が全権 ぜんけん 委員 いいん に選 えら ばれた[ 82] 。9月末 まつ から10月 がつ にかけて小村 こむら とローゼンは4度 ど にわたって会談 かいだん を開 ひら いたが、ローゼンは、満 まん 洲 しゅう 問題 もんだい は露 ろ 清 しん 二 に 国 こく 間 あいだ 関係 かんけい の事案 じあん であるとして日本 にっぽん の介入 かいにゅう を決 けっ して許 ゆる さない一方 いっぽう 、韓国 かんこく 問題 もんだい についてはロシアの権利 けんり を主張 しゅちょう するので、満 まん 韓 かん 交換 こうかん という線 せん で事態 じたい を打開 だかい させたい小村 こむら とはかみ合 あ わず、議論 ぎろん は平行 へいこう 線 せん をたどるばかりであった[ 75] 。ローゼンはまた、新 あら たに大韓 たいかん 帝国 ていこく における北緯 ほくい 39度 ど 以北 いほく を中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい とする提案 ていあん もおこない、小村 こむら を驚 おどろ かせている[ 82] 。会談 かいだん によってむしろ日 にち 露 ろ 双方 そうほう の対立 たいりつ 点 てん は明瞭 めいりょう になった[ 82] 。
交渉 こうしょう 開始 かいし 前 まえ の8月 がつ 時点 じてん ではロシア側 がわ も開戦 かいせん の意思 いし はなかったが、10月にはむしろ日本 にっぽん との対決 たいけつ も辞 じ さずという強硬 きょうこう なものとなっていた[ 82] 。これは、ロシア側 がわ からすれば日本 にっぽん 案 あん が協商 きょうしょう 準備 じゅんび 交渉 こうしょう での日本 にっぽん 案 あん とくらべても敵対 てきたい 的 てき とみられたからでもあった[ 82] 。当初 とうしょ はロシアに宥和 ゆうわ 的 てき な栗野 くりの 案 あん だっただけに強硬 きょうこう な小村 こむら 案 あん に対 たい するロシア側 がわ の怒 いか りも募 つの っていたのであり、日本 にっぽん との対立 たいりつ を極力 きょくりょく 避 さ けようとしてきたセルゲイ・ウィッテ が蔵相 ぞうしょう を解任 かいにん されていたことも少 すく なからず影響 えいきょう していた[ 82] 。10月30日 にち には小村 こむら がローゼンにロシアの修正 しゅうせい 案 あん への対案 たいあん を提出 ていしゅつ したが、その内容 ないよう は、日本 にっぽん が韓国 かんこく に対 たい し依然 いぜん として軍事 ぐんじ 上 じょう の助言 じょげん ・指導 しどう をおこなうとしながらも軍事 ぐんじ 施設 しせつ は設 もう けないこと、中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい は韓国 かんこく ・満 まん 洲 しゅう 国境 こっきょう の両側 りょうがわ に設定 せってい することなど、ロシアに対 たい して相当 そうとう に妥協 だきょう したものであった[ 82] 。12月11日 にち 、ロシア側 がわ の回答 かいとう が寄 よ せられたが、北緯 ほくい 39度 ど 以北 いほく の中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい の件 けん や日本 にっぽん の韓国 かんこく での「優越 ゆうえつ なる利益 りえき 」も民政 みんせい 上 じょう に限 かぎ るなど、10月提出 ていしゅつ のロシア案 あん と大 おお きな変更 へんこう はなく、返事 へんじ も遅 おそ かったこともあって日本 にっぽん 側 がわ を失望 しつぼう させた[ 82] 。実 じつ は、ロシア側 がわ は満 まん 洲 しゅう が日本 にっぽん の利益 りえき 範囲 はんい 内 ない であることをわずかに認 みと める譲歩 じょうほ を行 おこな っており、それにイギリスが気 き づいて日本 にっぽん に指摘 してき したのだったが、日本 にっぽん はこれを重視 じゅうし しなかった[ 82] 。12月20日 にち 、小村 こむら らは交渉 こうしょう そのものが無意味 むいみ ではないかと考 かんが えるようになっており、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ でさえ開戦 かいせん を意識 いしき するようになっていた[ 82] 。12月23日 にち 、ロシアに再考 さいこう を促 うなが す日本 にっぽん 案 あん が提出 ていしゅつ されたが、1904年 ねん 1月 がつ 6日 にち のロシア側 がわ 回答 かいとう は前回 ぜんかい とほぼ変 か わらなかった[ 82] 。
ここに至 いた って小村 こむら は交渉 こうしょう による解決 かいけつ の望 のぞ みを完全 かんぜん に捨 す て、海軍 かいぐん の準備 じゅんび が整 ととの い次第 しだい 、正式 せいしき な交渉 こうしょう 断絶 だんぜつ を経 へ て対 たい 露 ろ 開戦 かいせん すべしとの意見 いけん 書 しょ を提出 ていしゅつ し、これは1月 がつ 12日 にち の元老 げんろう 会議 かいぎ ・御前 ごぜん 会議 かいぎ に原案 げんあん とされたが、結局 けっきょく 、小村 こむら 起草 きそう の修正 しゅうせい 案 あん が決定 けってい された[ 75] 。これを受 う けて小村 こむら は1月 がつ 16日 にち 、韓国 かんこく 全土 ぜんど を日本 にっぽん の勢力 せいりょく 圏 けん に置 お く提案 ていあん を行 おこな い、他 た の参加 さんか 者 しゃ の賛意 さんい を得 え た[ 82] 。伊藤 いとう 博文 ひろぶみ と山縣 やまがた 有朋 ありとも はこの席 せき で、韓国 かんこく へ2個 こ 師団 しだん 程度 ていど を派遣 はけん して高 こう 宗 むね の身柄 みがら を確保 かくほ し、そのうえで日 にち 露 ろ 交渉 こうしょう を継続 けいぞく して満 まん 韓 かん 交換 こうかん を実現 じつげん していく案 あん を示 しめ したが、桂 かつら ・小村 こむら ・山本 やまもと 海 うみ 相 しょう は、韓国 かんこく 出兵 しゅっぺい は戦争 せんそう につながり、しかも宣戦 せんせん 布告 ふこく 前 まえ の韓国 かんこく 占領 せんりょう は列国 れっこく の支持 しじ を失 うしな い、なおかつ、日本 にっぽん が制海権 せいかいけん を得 え ていないために危険 きけん な策 さく であるとして反対 はんたい した[ 83] 。これについては、内閣 ないかく 側 がわ の主張 しゅちょう が通 とお った[ 83] 。2月 がつ 3日 にち 、ロシア旅順 りょじゅん 艦隊 かんたい が出港 しゅっこう したとの情報 じょうほう が芝 しば 罘領事 りょうじ からもたらされた[ 75] 。小村 こむら は2月 がつ 4日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で他 た の閣僚 かくりょう や元老 げんろう とともに対 たい 露 ろ 開戦 かいせん を決定 けってい 、5日 にち は動員 どういん が下 くだ され、2月 がつ 10日 とおか には宣戦 せんせん 布告 ふこく が発 はっ せられた[ 82] [ 注釈 ちゅうしゃく 8] 。
開戦 かいせん 後 ご の2月 がつ 8日 にち 、日本 にっぽん 軍 ぐん は仁川 にがわ を、9日 にち には漢 かん 城 じょう (現 げん 、ソウル特別 とくべつ 市 し )を占領 せんりょう した[ 84] 。2月 がつ 12日 にち 、ロシア公使館 こうしかん は韓国 かんこく より撤収 てっしゅう 、日本 にっぽん はこれを接収 せっしゅう した[ 84] 。対 たい 韓 かん 政策 せいさく を何 なに よりも重視 じゅうし する小村 こむら は、すでに秘密 ひみつ 交渉 こうしょう を進 すす めていた林 はやし 権助 ごんすけ に命 めい じて2月 がつ 13日 にち に議定 ぎてい 書 しょ 案 あん を大韓 たいかん 帝国 ていこく の李 り 址 し 鎔外部 がいぶ 大臣 だいじん 署 しょ 理 り に提出 ていしゅつ 、2月 がつ 23日 にち 、韓国 かんこく の協力 きょうりょく を最大限 さいだいげん 引 ひ き出 だ す、圧倒的 あっとうてき に日本 にっぽん に有利 ゆうり なかたちで日 にち 韓 かん 議定 ぎてい 書 しょ を結 むす んだ[ 84] 。
米国 べいこく 留学 りゅうがく 時代 じだい 以来 いらい の親友 しんゆう 、金子 かねこ 堅太郎 けんたろう
小村 こむら はまた、国内外 こくないがい の広報 こうほう 活動 かつどう にも力 ちから を入 い れた。日本 にっぽん はやむなく戦争 せんそう に突入 とつにゅう したことを訴 うった えるべく、ロシアとの交渉 こうしょう 経緯 けいい を公表 こうひょう し、それが『東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん 』などの新聞 しんぶん メディアが連載 れんさい されることによって、国民 こくみん の一致 いっち 団結 だんけつ と国民 こくみん からの戦争 せんそう 協力 きょうりょく に役立 やくだ てようとしたのである[ 85] 。英 えい 米 べい 両国 りょうこく に対 たい しては特使 とくし を派遣 はけん して広報 こうほう 外交 がいこう を展開 てんかい した[ 85] 。特使 とくし に選 えら ばれたのは、「伊藤 いとう (博文 ひろぶみ )門下 もんか の四天王 してんのう 」といわれた末松 すえまつ 謙澄 けんちょう と金子 かねこ 堅太郎 けんたろう であった[ 85] [ 注釈 ちゅうしゃく 9] 。伊藤 いとう の女婿 じょせい でもある末松 すえまつ はケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく 卒業 そつぎょう の経歴 けいれき を買 か われて2月 がつ 10日 とおか にイギリスに、留学 りゅうがく 時代 じだい 以来 いらい の小村 こむら の親友 しんゆう である金子 かねこ はセオドア・ルーズベルト とも旧知 きゅうち の仲 なか であることも考慮 こうりょ されて2月 がつ 24日 にち にアメリカに、それぞれ出発 しゅっぱつ した[ 85] 。それに先立 さきだ ち、小村 こむら は、2人 ふたり にロシア側 がわ の非 ひ 妥協 だきょう 的 てき な交渉 こうしょう 態度 たいど が今次 こんじ 戦争 せんそう を招 まね いたことを訴 うった えることと、英 えい 米 べい 両国 りょうこく における黄禍 こうか 論 ろん の広 ひろ がりを食 く い止 と めることを訓令 くんれい した[ 85] 。
日本 にっぽん は満 まん 韓 かん 交換 こうかん を求 もと めて交渉 こうしょう に失敗 しっぱい した結果 けっか 、日 にち 露 ろ 開戦 かいせん に踏 ふ み切 き ったため、開戦 かいせん 直後 ちょくご の満 まん 洲 しゅう に対 たい する構想 こうそう は白紙 はくし に近 ちか かった[ 86] 。満 まん 洲 しゅう からロシア軍 ぐん を駆逐 くちく したとして、戦後 せんご の満 まん 洲 しゅう 保全 ほぜん を担保 たんぽ する手立 てだ てとしてまず考 かんが えられたのは満 まん 洲 しゅう 中立 ちゅうりつ 化 か 構想 こうそう であった[ 86] 。ところが、日本 にっぽん 軍 ぐん が予想 よそう 以上 いじょう に勝利 しょうり を続 つづ け、日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 地 ち が北 きた へ拡大 かくだい するという展開 てんかい に小村 こむら は敏感 びんかん に反応 はんのう していった[ 86] 。小村 こむら が7月 がつ に桂 かつら 太郎 たろう 首相 しゅしょう に提出 ていしゅつ した意見 いけん 書 しょ では、戦争 せんそう の結果 けっか 、韓国 かんこく を事実 じじつ 上 じょう 日本 にっぽん の主権 しゅけん 範囲 はんい にすることにともない、満 まん 洲 しゅう もある程度 ていど まで日本 にっぽん の勢力 せいりょく 範囲 はんい とすべきことを主張 しゅちょう している[ 86] 。
韓国 かんこく 支配 しはい の強化 きょうか は、こうした動 うご きと併行 へいこう して進 すす められた[ 87] 。5月末 まつ には「対 たい 韓 かん 方針 ほうしん に関 かん する決定 けってい 」と「対 たい 韓 かん 施設 しせつ 要領 ようりょう 」が閣議 かくぎ 決定 けってい されると、小村 こむら は林 はやし 駐韓 ちゅうかん 公使 こうし に一時 いちじ 帰国 きこく を命 めい じ、6月 がつ 中旬 ちゅうじゅん から7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん にかけて対 たい 韓 かん 政策 せいさく を林 はやし と協議 きょうぎ ・検討 けんとう し、それを踏 ふ まえて林 はやし を韓国 かんこく 側 がわ の外交 がいこう 担当 たんとう 者 しゃ と交渉 こうしょう させた[ 87] 。その結果 けっか 、8月 がつ 22日 にち 、林 はやし 権助 ごんすけ 駐韓 ちゅうかん 公使 こうし と外部 がいぶ 大臣 だいじん 尹 いん 致昊 の間 あいだ で第 だい 一 いち 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく が調印 ちょういん された[ 88] 。これを受 う けて、大韓 たいかん 帝国 ていこく 財務 ざいむ 顧問 こもん に目 め 賀田 よした 種太郎 たねたろう が、外交 がいこう 顧問 こもん にはアメリカ人 じん ダーハム・W・スティーブンス がそれぞれ日本 にっぽん 政府 せいふ の推薦 すいせん を受 う けて就任 しゅうにん した[ 88] 。小村 こむら はさらに1905年 ねん 2月 がつ に丸山 まるやま 重俊 しげとし を警務 けいむ 顧問 こもん として韓国 かんこく に派遣 はけん した[ 88] 。1905年 ねん 4月 がつ 8日 にち に閣議 かくぎ 決定 けってい された「韓国 かんこく 保護 ほご 権 けん 確立 かくりつ の件 けん 」は、小村 こむら が原案 げんあん 作成 さくせい に大 おお きく関与 かんよ していたものであり、これにより韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か が日本 にっぽん 政府 せいふ の外交 がいこう 目標 もくひょう にすえられた[ 89] 。ただし、これは欧米 おうべい 諸国 しょこく からの承認 しょうにん が必要 ひつよう であった[ 89] 。
第 だい 二 に 次 じ 日 にち 英 えい 同盟 どうめい 調印 ちょういん 記念 きねん はがき(三越 みつこし 百貨店 ひゃっかてん )
このような理由 りゆう から、日本 にっぽん 側 がわ は日 にち 英 えい 同盟 どうめい のいっそうの強化 きょうか を願 ねが い、小村 こむら も1905年 ねん 2月 がつ 12日 にち の日 にち 英 えい 同盟 どうめい 3周年 しゅうねん 記念 きねん 式典 しきてん で同盟 どうめい を高 たか く評価 ひょうか し、強化 きょうか を望 のぞ む演説 えんぜつ をおこなった[ 90] 。一方 いっぽう のイギリスは、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご の極東 きょくとう で日 にち 露 ろ が和解 わかい した結果 けっか 、イギリスが孤立 こりつ することを危惧 きぐ して同盟 どうめい 強化 きょうか を願 ねが っていた[ 90] 。チャールズ・ハーディング 駐 ちゅう 露 ろ 大使 たいし とマグドナルド駐日 ちゅうにち 公使 こうし の報告 ほうこく を受 う け取 と ったイギリス外相 がいしょう のランズダウン侯 こう は同盟 どうめい 改定 かいてい の必要 ひつよう を感 かん じ、3月24日 にち に林 はやし 董 ただし 公使 こうし を呼 よ んで改定 かいてい 交渉 こうしょう を打診 だしん した[ 90] 。3月16日 にち の奉天 ほうてん の会戦 かいせん で日本 にっぽん が勝利 しょうり したことからランズダウンは日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 力 りょく に期待 きたい をいだき、アーサー・バルフォア 英 えい 首相 しゅしょう も渡 わたり 英 えい 中 ちゅう の末松 すえまつ に同盟 どうめい 強化 きょうか に意欲 いよく 的 てき な発言 はつげん をおこなった[ 90] 。しかし、イギリスは同盟 どうめい 強化 きょうか を同盟 どうめい 適用 てきよう 範囲 はんい の拡張 かくちょう ととらえており、それに気 き づいた小村 こむら は3月 がつ 27日 にち 、林 はやし 公使 こうし に対 たい し、イギリス側 がわ との意見 いけん 交換 こうかん を許可 きょか しながらも日本 にっぽん 側 がわ には同盟 どうめい 拡張 かくちょう の意図 いと はないとし、イギリスに主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ られないよう注意 ちゅうい を促 うなが した[ 90] 。
4月 がつ 8日 にち の日 にち 英 えい 同盟 どうめい 継続 けいぞく 交渉 こうしょう 開始 かいし に関 かん する閣議 かくぎ 決定 けってい を経 へ て、4月 がつ 16日 にち に小村 こむら は同盟 どうめい 交渉 こうしょう 方針 ほうしん を林 はやし 公使 こうし に訓令 くんれい したが、その要点 ようてん は韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か の承認 しょうにん を英国 えいこく には求 もと めながらもイギリスが期待 きたい する同盟 どうめい 範囲 はんい の拡張 かくちょう にはあくまで同意 どうい しないというものであった[ 90] 。4月 がつ 19日 にち の林 はやし ・ランズダウン会談 かいだん は友好 ゆうこう 的 てき な雰囲気 ふんいき のなかでおこなわれたが、慎重 しんちょう な林 はやし は韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か の要求 ようきゅう は時期 じき 尚早 しょうそう として持 も ち出 だ さず、有効 ゆうこう 期限 きげん は7年 ねん にしたいという希望 きぼう を伝 つた え、ただし、改定 かいてい のポイントは同盟 どうめい 範囲 はんい の拡張 かくちょう ではないとイギリス側 がわ に釘 くぎ を刺 さ した[ 90] 。5月17日 にち の正式 せいしき 会談 かいだん では、ランズダウンの側 がわ から、純粋 じゅんすい な軍事 ぐんじ 同盟 どうめい への強化 きょうか と同盟 どうめい 範囲 はんい をインドまで拡張 かくちょう することの2点 てん がイギリス案 あん として提起 ていき された[ 90] 。林 はやし はその場 ば では返答 へんとう しなかったが、小村 こむら に対 たい してイギリス案 あん を受 う け入 い れるよう要請 ようせい した[ 90] 。5月24日 にち 、小村 こむら の意見 いけん 書 しょ にもとづいて日 にち 英 えい 同盟 どうめい 継続 けいぞく に関 かん する閣議 かくぎ が開 ひら かれたが、ここで小村 こむら は従来 じゅうらい 方針 ほうしん を転換 てんかん して基本 きほん 的 てき にイギリス政府 せいふ の意向 いこう に沿 そ うものを骨子 こっし とした[ 91] 。すなわち、同盟 どうめい 範囲 はんい をインド 以東 いとう に拡張 かくちょう し、一 いち 国 こく からの攻撃 こうげき によっても同盟 どうめい が発動 はつどう されることを認 みと めたのである[ 91] 。ただし、韓国 かんこく とインドをめぐっては日 にち 英 えい 双方 そうほう の見解 けんかい はなかなか一致 いっち せず、ここで小村 こむら は林 はやし 公使 こうし の意見 いけん もしりぞけて強硬 きょうこう な姿勢 しせい をくずさなかった[ 91] (途中 とちゅう から、小村 こむら はポーツマス講和 こうわ 会議 かいぎ に出席 しゅっせき するために離日 りにち し、桂 かつら 首相 しゅしょう が臨時 りんじ 外相 がいしょう を兼任 けんにん している)。8月 がつ 12日 にち 、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 英 えい 同盟 どうめい 条約 じょうやく はロンドン にて調印 ちょういん された[ 91] 。これにより、日本 にっぽん の韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か はイギリスによって承認 しょうにん され、清国 きよくに における機会 きかい 均等 きんとう ・門戸 もんこ 開放 かいほう は維持 いじ され、また、同盟 どうめい の有効 ゆうこう 期限 きげん は10年間 ねんかん とされた[ 91] 。
日本 にっぽん の対 たい 韓 かん 政策 せいさく に関 かん しては、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、とりわけルーズベルト大統領 だいとうりょう は常 つね に好意 こうい 的 てき であり、1905年 ねん 1月 がつ 23日 にち の高平 たかひら ・ルーズベルト会談 かいだん でも韓国 かんこく を日本 にっぽん の勢力 せいりょく 圏 けん 下 か に置 お くことに賛意 さんい を示 しめ した[ 92] 。5月28日 にち の日本海 にほんかい 海戦 かいせん での日本 にっぽん の勝利 しょうり によってアメリカの支持 しじ は決定的 けっていてき となり、ルーズベルトはフィリピン 行 い きの用事 ようじ があったウィリアム・タフト 陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん に対 たい し、日本 にっぽん に立 た ち寄 よ って韓国 かんこく 支配 しはい を認 みと めるよう指示 しじ した[ 92] 。7月 がつ 25日 にち に日本 にっぽん に着 つ いたタフトは27日 にち に桂 かつら 首相 しゅしょう 兼 けん 臨時 りんじ 外相 がいしょう と会談 かいだん し、その内容 ないよう を29日 にち にエリフ・ルート 国務 こくむ 長官 ちょうかん に打電 だでん 、7月 がつ 31日 にち 、ルーズベルトはタフトに合意 ごうい の意思 いし を伝 つた えた[ 92] 。8月 がつ 7日 にち にはタフトから桂 かつら へ大統領 だいとうりょう の同意 どうい を伝 つた え、桂 かつら ・タフト協定 きょうてい が成立 せいりつ した[ 92] 。これは日本 にっぽん の韓国 かんこく 支配 しはい とアメリカのフィリピン支配 しはい を相互 そうご に認 みと めあう内容 ないよう であった[ 92] 。ただ、この同意 どうい だけでアメリカが日本 にっぽん の韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か を認 みと めるかどうかに、日本 にっぽん 側 がわ はやや不安 ふあん を残 のこ していた[ 92] 。そこで、ポーツマス条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご 、小村 こむら はルート国務 こくむ 長官 ちょうかん と、また、高平 たかひら 駐米 ちゅうべい 大使 たいし を同席 どうせき させてルーズベルト大統領 だいとうりょう とも会談 かいだん し、彼 かれ らの同意 どうい を得 え て、日本 にっぽん は完全 かんぜん に韓国 かんこく 保護 ほご 化 か についてのアメリカの承認 しょうにん を取 と り付 つ けたのであった[ 92] 。
駐米 ちゅうべい 公使 こうし で日 にち 露 ろ 講和 こうわ 会議 かいぎ では次席 じせき 全権 ぜんけん を務 つと めた高 こう 平 たいら 小五郎 こごろう
1905年 ねん 5月27日 にち から28日 にち にかけての日本海 にほんかい 海戦 かいせん での完全 かんぜん 勝利 しょうり は、日本 にっぽん にとって講和 こうわ への絶好 ぜっこう の機会 きかい となった[ 93] 。5月31日 にち 、小村 こむら は、開成 かいせい 学校 がっこう 時代 じだい の同級生 どうきゅうせい でもある高 こう 平 たいら 小五郎 こごろう 駐米 ちゅうべい 公使 こうし にあてて訓電 くんでん を発 はっ し、中立 ちゅうりつ 国 こく アメリカのセオドア・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう に「直接 ちょくせつ かつ全然 ぜんぜん 一己 いっこ の発意 はつい により」日 にち 露 ろ 両国 りょうこく 間 あいだ の講和 こうわ を斡旋 あっせん するよう求 もと め、命 いのち を受 う けた高平 たかひら は翌日 よくじつ 「中立 ちゅうりつ の友誼 ゆうぎ 的 てき 斡旋 あっせん 」を大統領 だいとうりょう に申 もう し入 い れた[ 93] [ 94] 。桂 かつら 首相 しゅしょう が日本 にっぽん の全権 ぜんけん 代表 だいひょう として最初 さいしょ に打診 だしん したのは伊藤 いとう 博文 ひろぶみ であったが、側近 そっきん が反対 はんたい して伊藤 いとう は辞退 じたい した[ 95] 。結局 けっきょく 、日 にち 露 ろ 講和 こうわ 会議 かいぎ の全権 ぜんけん 委員 いいん には小村 こむら と高平 たかひら 駐米 ちゅうべい 大使 たいし が選 えら ばれ、7月 がつ 4日 にち 、2人 ふたり に全権 ぜんけん 委任 いにん 状 じょう が手渡 てわた された[ 93] 。小村 こむら が全権 ぜんけん を引 ひ き受 う けたのは、外相 がいしょう 就任 しゅうにん のときと同 おな じで、自分 じぶん にとって損 そん か得 とく かについては一顧 いっこ だにしなかった[ 62] 。ロシア側 がわ 全権 ぜんけん は、元 もと 蔵相 ぞうしょう のセルゲイ・ウィッテ と駐米 ちゅうべい 大使 たいし (前 ぜん 駐日 ちゅうにち 公使 こうし )のロマン・ローゼン であった[ 93] 。
日本 にっぽん は日 にち 露 ろ 戦争 せんそう に勝利 しょうり したものの、この戦争 せんそう に約 やく 180万 まん の将兵 しょうへい を動員 どういん し、死傷 ししょう 者 しゃ は約 やく 20万 まん 人 にん 、戦費 せんぴ は約 やく 20億 おく 円 えん に達 たっ していた。満州 まんしゅう 軍 ぐん 総 そう 参謀 さんぼう 長 ちょう の児玉 こだま 源太郎 げんたろう は、1年間 ねんかん の戦争 せんそう 継続 けいぞく を想定 そうてい した場合 ばあい 、さらに25万 まん 人 にん の兵 へい と15億 おく 円 えん の戦費 せんぴ を要 よう するとして、続行 ぞっこう は不可能 ふかのう と結論 けつろん づけていた[ 96] 。とくに専門 せんもん 的 てき 教育 きょういく に年月 としつき を要 よう する下級 かきゅう 将校 しょうこう クラスが勇敢 ゆうかん に前線 ぜんせん を率 ひき いて戦死 せんし した結果 けっか 、既 すで にその補充 ほじゅう は容易 ようい でなくなっていた[ 97] 。一方 いっぽう 、ロシアは、海軍 かいぐん は失 うしな ったもののシベリア鉄道 てつどう を利用 りよう して陸軍 りくぐん を増強 ぞうきょう することが可能 かのう であり、新 あら たに増援 ぞうえん 部隊 ぶたい が加 くわ わって、日本 にっぽん 軍 ぐん を圧倒 あっとう する兵力 へいりょく を集 あつ めつつあった[ 96] 。
1905年 ねん 6月30日 にち 、桂 かつら 内閣 ないかく は閣議 かくぎ において小村 こむら ・高平 たかひら 両全 りょうぜん 権 けん に対 たい して与 あた える訓令 くんれい 案 あん を決定 けってい した[ 98] 。その内容 ないよう は、「甲 かぶと ・絶対 ぜったい 的 てき 必要 ひつよう 条件 じょうけん 」として(1)韓国 かんこく を日本 にっぽん の自由 じゆう 処分 しょぶん にゆだねること、(2)日 にち 露 ろ 両 りょう 軍 ぐん の満州 まんしゅう 撤兵 てっぺい 、(3)遼東 りゃおとん 半島 はんとう 租借 そしゃく 権 けん とハルビン ・旅順 りょじゅん 間 あいだ の鉄道 てつどう の譲渡 じょうと の3点 てん 、そして、「乙 おつ ・比較的 ひかくてき 必要 ひつよう 条件 じょうけん 」として(1)軍費 ぐんぴ の賠償 ばいしょう 、(2)中立 ちゅうりつ 港 こう に逃 に げ込 こ んだロシア艦艇 かんてい の引渡 ひきわた し、(3)樺太 からふと および付属 ふぞく 諸島 しょとう の割譲 かつじょう 、(4)沿海州 えんかいしゅう 沿岸 えんがん の漁業 ぎょぎょう 権 けん 獲得 かくとく の4点 てん 、さらに、「丙 へい ・付加 ふか 条件 じょうけん 」として(1)ロシア海軍 かいぐん 力 りょく の制限 せいげん 、(2)ウラジオストク港 こう の武装 ぶそう 解除 かいじょ の2点 てん であった[ 98] 。7月 がつ 5日 にち 、訓令 くんれい 案 あん は裁可 さいか された[ 93] 。
当時 とうじ の日本 にっぽん の世論 せろん は、連戦 れんせん 連勝 れんしょう の報道 ほうどう を得 え て、多額 たがく の賠償金 ばいしょうきん や領土 りょうど の割譲 かつじょう を熱狂 ねっきょう 的 てき に叫 さけ んでおり、7月 がつ 8日 にち 、小村 こむら が日本 にっぽん を出発 しゅっぱつ する際 さい 、新橋 しんばし 停車場 ていしゃじょう に集 たか った群衆 ぐんしゅう は大 だい 歓声 かんせい を上 あ げてこれを送 おく ったが、小村 こむら はそばを歩 ある く桂 かつら 首相 しゅしょう に「帰国 きこく する時 とき には、人気 にんき は全 まった く逆 ぎゃく でしょうね」と語 かた ったといわれる[ 86] [ 96] [ 97] 。井上 いのうえ 馨 かおる は、小村 こむら に対 たい し涙 なみだ を流 なが して「君 きみ は実 じつ に気 き の毒 どく な境遇 きょうぐう に立 た った。いままでの名誉 めいよ も今度 こんど で台 だい なしになるかもしれない」と語 かた ったといわれている[ 99] 。小村 こむら は、戦勝 せんしょう の興奮 こうふん に支 ささ えられた世論 せろん を納得 なっとく させることがいかに難 むずか しいことなのかをよく知 し っていた[ 86] 。7月 がつ 20日 はつか 、シアトル に上陸 じょうりく した小村 こむら は東部 とうぶ へ向 む かい、ニューヨーク には7月 がつ 25日 にち に到着 とうちゃく 、ワシントンD.C. でルーズベルト大統領 だいとうりょう を表敬 ひょうけい 訪問 ほうもん して、仲介 ちゅうかい を引 ひ き受 う けてくれたことに謝意 しゃい を表明 ひょうめい した[ 97] [ 100] 。講和 こうわ 交渉 こうしょう のおこなわれるポーツマスには8月 がつ 8日 にち に到着 とうちゃく した[ 100] 。
ニューヨークに着 つ いたウィッテはジャーナリスト に対 たい しては愛想 あいそ 良 よ く対応 たいおう して、洗練 せんれん された話術 わじゅつ とユーモア により、米国 べいこく 世論 せろん を巧 たく みに味方 みかた につけていったのに対 たい し、小村 こむら は「われわれはポーツマスへ新聞 しんぶん の種 たね をつくるために来 き たのではない。談判 だんぱん をするために来 き たのである」とそっけなく答 こた えた[ 97] [ 101] 。小村 こむら はまた、マスメディア に対 たい し秘密 ひみつ 主義 しゅぎ を採 と ったため、現地 げんち の新聞 しんぶん にはロシア側 がわ が提供 ていきょう した情報 じょうほう のみが掲載 けいさい されることとなった[ 101] [ 注釈 ちゅうしゃく 10] 。
ポーツマス会議 かいぎ のようす。 向 む こう側 がわ 左 ひだり からコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテ 、ローゼン 、プランソン、手前 てまえ 左 ひだり から安達 あだち 、落合 おちあい 、小村 こむら 、高平 たかひら 、佐藤 さとう 。
講和 こうわ 会議 かいぎ は8月 がつ 10日 とおか から始 はじ まったが、8月 がつ 12日 にち の第 だい 2回 かい 本 ほん 会議 かいぎ においてロシアのウィッテ全権 ぜんけん は、韓国 かんこく を日本 にっぽん の勢力 せいりょく 下 か に置 お くことについて、日 にち 露 ろ 両国 りょうこく の盟約 めいやく によって一 いち 独立 どくりつ 国 こく を滅 ほろ ぼしては他 た の列強 れっきょう からの誹 そし りを受 う けるとして反対 はんたい した[ 102] 。しかし、強気 つよき の小村 こむら はこれに対 たい し、今後 こんご 、日本 にっぽん の行為 こうい によって列国 れっこく から何 なに を言 い われようと、それは日本 にっぽん の問題 もんだい であると述 の べ、国際 こくさい 的 てき 批判 ひはん は意 い に介 かい せずとの姿勢 しせい を示 しめ した[ 102] 。ウィッテも頑 がん として譲 ゆず らず、交渉 こうしょう は初手 しょて から暗礁 あんしょう に乗 の り上 あ げた[ 97] [ 102] 。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論 ぎろん の一部始終 いちぶしじゅう を議事 ぎじ 録 ろく にとどめ、ロシアが日本 にっぽん に抵抗 ていこう した記録 きろく を残 のこ し、韓国 かんこく の同意 どうい を得 え たならば、日本 にっぽん の保護 ほご 権 けん 確立 かくりつ を進 すす めてもよいのではないかという妥協 だきょう 案 あん をウィッテに示 しめ した[ 102] 。小村 こむら もまた、韓国 かんこく は日本 にっぽん の承諾 しょうだく がなければ、他国 たこく と条約 じょうやく を結 むす ぶことができない状態 じょうたい であり、すでに韓国 かんこく の主権 しゅけん は完全 かんぜん なものではないと述 の べた[ 102] 。ウィッテは小村 こむら の主張 しゅちょう を聞 き いて、ローゼンの妥協 だきょう 案 あん を受 う け入 い れた[ 102] 。
ウィッテらはその後 ご も賠償金 ばいしょうきん 支払 しはら いや領土 りょうど 割譲 かつじょう については論外 ろんがい であるとの強硬 きょうこう な姿勢 しせい をくずさず、交渉 こうしょう は難航 なんこう した[ 86] 。一時 いちじ は双方 そうほう 交渉 こうしょう を打 う ち切 き って帰国 きこく することまで覚悟 かくご したが、最終 さいしゅう 段階 だんかい で南 みなみ 樺太 からふと のみの割譲 かつじょう で妥結 だけつ した[ 86] 。ルーズベルトの助言 じょげん もあって日本 にっぽん 軍 ぐん は樺太 からふと 全島 ぜんとう を占領 せんりょう していたが、そのうち北緯 ほくい 50度 ど 線 せん 以北 いほく については無償 むしょう で返還 へんかん するかたちになったので、これは小村 こむら にとっても失敗 しっぱい と感 かん じられるものであっただろうと考 かんが えられる[ 86] 。外務省 がいむしょう の後輩 こうはい にあたる石井 いしい 菊次郎 きくじろう によれば、その後 ご の小村 こむら は樺太 からふと について口 くち にすることを嫌 いや がったという[ 86] 。
とはいえ、樺太 からふと と賠償金 ばいしょうきん 以外 いがい については、絶対 ぜったい 的 てき 必要 ひつよう 条件 じょうけん はすべて満 み たし、比較的 ひかくてき 必要 ひつよう 条件 じょうけん の(2)(4)についても盛 も り込 こ まれており、これらは日本 にっぽん 軍 ぐん が朝鮮半島 ちょうせんはんとう と満 まん 洲 しゅう 南部 なんぶ を占領 せんりょう したうえで休戦 きゅうせん したという状況 じょうきょう の上 うえ に立 た ったものではあった[ 86] [ 103] 。現実 げんじつ 的 てき にみて、日本 にっぽん 政府 せいふ の立場 たちば からは講和 こうわ 交渉 こうしょう の結果 けっか は成功 せいこう を収 おさ めたといえたが、日本 にっぽん の民衆 みんしゅう には条約 じょうやく 内容 ないよう に不満 ふまん をもつ者 もの も多 おお かった[ 103] 。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で多 おお くの負担 ふたん を強 し いられてきた民衆 みんしゅう の怒 いか りは日比谷 ひびや 焼 や き討 う ち事件 じけん として爆発 ばくはつ し、当日 とうじつ の参加 さんか 者 しゃ のなかには「小村 こむら を斬首 ざんしゅ せよ」と叫 さけ ぶ者 もの もあったという[ 86] [ 103] 。条約 じょうやく に不満 ふまん をいだく人 ひと びとのなかには、小村 こむら の家族 かぞく を脅迫 きょうはく したり、襲撃 しゅうげき しようとしたりする者 もの さえあった[ 103] 。
小村 こむら は条約 じょうやく を調印 ちょういん した翌日 よくじつ の9月6日 にち 、ニューヨークで体調 たいちょう をくずし、肺尖 はいせん カタル に罹 かか って治療 ちりょう に専念 せんねん した[ 103] 。健康 けんこう がある程度 ていど 回復 かいふく したとみられた9月27日 にち 、アメリカを発 た ち、バンクーバー を経由 けいゆ して日本 にっぽん に帰国 きこく した[ 103] 。船 ふね 中 ちゅう で小村 こむら は、「韓 かん 満 みつる 施設 しせつ 綱領 こうりょう 」を書 か き、韓国 かんこく は日本 にっぽん の主権 しゅけん 範囲 はんい 、満 まん 洲 しゅう 南部 なんぶ は日本 にっぽん の勢力 せいりょく 範囲 はんい に帰 かえ したという情勢 じょうせい 判断 はんだん にもとづき、その後 ご の韓国 かんこく ・満 まん 洲 しゅう 政策 せいさく の指針 ししん とした[ 86] 。
10月16日 にち に横浜 よこはま 港 こう に到着 とうちゃく した小村 こむら は、さっそく韓国 かんこく での支配 しはい 権 けん の確立 かくりつ を進 すす めた[ 104] 。韓国 かんこく 保護 ほご 国 こく 化 か については、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 英 えい 同盟 どうめい によりイギリスの、桂 かつら ・タフト協定 きょうてい によりアメリカの、ポーツマス条約 じょうやく によりロシアの承認 しょうにん を得 え たこの時期 じき が好機 こうき とみられた[ 104] 。10月27日 にち の韓国 かんこく 保護 ほご 権 けん 確立 かくりつ 実行 じっこう に関 かん する閣議 かくぎ 決定 けってい にもとづき、4か条 じょう より成 な る協約 きょうやく 文 ぶん がつくられ、11月18日 にち 深夜 しんや 、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく が結 むす ばれた[ 104] 。韓国 かんこく は外交 がいこう 権 けん が剥奪 はくだつ されて日本 にっぽん の保護 ほご 国 こく となった[ 86] 。漢 かん 城 じょう には韓国 かんこく 統監 とうかん 府 ふ が置 お かれることとなり、初代 しょだい 統監 とうかん には伊藤 いとう 博文 ひろぶみ が就任 しゅうにん した[ 104] 。
李 り 鴻章 こうしう 亡 な き後 あと の清国 きよくに 外交 がいこう を担 にな った慶 けい 親王 しんのう 奕劻
小村 こむら は、韓国 かんこく だけでなく、満 まん 洲 しゅう でも日本 にっぽん の権益 けんえき を守 まも ることに熱意 ねつい を傾 かたむ けた[ 105] 。小村 こむら 滞米 たいべい 中 ちゅう の8月 がつ 3日 にち 、アメリカの鉄道 てつどう 王 おう エドワード・ヘンリー・ハリマン が来日 らいにち し、9月12日 にち 、日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい し韓国 かんこく の鉄道 てつどう と南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう を連結 れんけつ させ、そこでの鉄道 てつどう ・炭坑 たんこう などに対 たい する共同 きょうどう 出資 しゅっし ・経営 けいえい 参加 さんか を提案 ていあん した[ 105] 。ハリマンの提案 ていあん を、日本 にっぽん 政府 せいふ は好意 こうい 的 てき に受 う け止 と め、元老 げんろう の伊藤 いとう 、井上 いのうえ 、山縣 やまがた はこの案 あん を承認 しょうにん 、桂 かつら 太郎 たろう 首相 しゅしょう は南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 共同 きょうどう 経営 けいえい 案 あん に限 かぎ って賛成 さんせい し、仮 かり 契約 けいやく のかたちで予備 よび 協定 きょうてい 覚書 おぼえがき を結 むす んだ(「桂 かつら ・ハリマン協定 きょうてい 」)[ 105] 。しかし、帰国 きこく した小村 こむら はこれに反対 はんたい 、桂 かつら や元老 げんろう たちを説得 せっとく して10月23日 にち 、これを破棄 はき した[ 105] [ 106] 。小村 こむら がハリマン提案 ていあん に反対 はんたい した理由 りゆう の一 ひと つは、小村 こむら が井上 いのうえ 馨 かおる などと違 ちが って満 まん 洲 しゅう での鉄道 てつどう 経営 けいえい は日本 にっぽん の国益 こくえき につながると考 かんが えていたためであり、もう一 ひと つは、金子 かねこ 堅太郎 けんたろう の情報 じょうほう によって、ハリマンのライバルであるモルガン 系 けい の企業 きぎょう から多額 たがく の融資 ゆうし を受 う ける目途 もくと が立 た っていたためである[ 105] 。
さらに小村 こむら は、清国 きよくに にポーツマス条約 じょうやく の決定 けってい 事項 じこう を認 みと めさせるために、11月12日 にち 、自 みずか ら特派 とくは 全権 ぜんけん 大使 たいし となって北京 ぺきん に乗 の り込 こ んだ[ 86] [ 107] [ 108] 。11月17日 にち から内田 うちだ 康哉 こうさい とともに北京 ぺきん 会議 かいぎ に臨 のぞ んだ小村 こむら であったが、対 たい する清国 きよくに 側 がわ 全権 ぜんけん は慶 けい 親王 しんのう 奕劻 、瞿鴻禨 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、袁世凱 であった[ 107] 。ロシアがいなくなった満 まん 洲 しゅう の地 ち に日本 にっぽん の勢力 せいりょく が新 あら たに入 はい ってくることについて、清国 きよくに 側 がわ は頑強 がんきょう に抵抗 ていこう した[ 107] 。清国 きよくに は、ロシアの満 まん 洲 しゅう 利権 りけん を日本 にっぽん に引 ひ き渡 わた すことについては同意 どうい したものの、日本 にっぽん 側 がわ の新 あら たな要求 ようきゅう に対 たい しては容易 ようい に納得 なっとく せず、交渉 こうしょう はポーツマス講和 こうわ 会議 かいぎ 以上 いじょう に難航 なんこう した[ 86] [ 107] [ 108] 。ロシアの介入 かいにゅう を防 ふせ ぐために日 にち 清 しん 両国 りょうこく は会議 かいぎ の内容 ないよう を極秘 ごくひ として一切 いっさい 公開 こうかい しなかったが、そのため、日本 にっぽん は譲歩 じょうほ を迫 せま られているのではないかとの憶測 おくそく をまねき、小村 こむら はまたも国内 こくない からの強 つよ いバッシングを受 う けた[ 108] 。
小村 こむら は、盛 もり 京 きょう 省 しょう 沿岸 えんがん の漁業 ぎょぎょう 権 けん を要求 ようきゅう していたがこれを放棄 ほうき し、一方 いっぽう では、吉林 きつりん 省 しょう では日本 にっぽん 以外 いがい の国 くに に対 たい して鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 権 けん を与 あた えないと約束 やくそく させた[ 107] 。また、南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう に並行 へいこう する線路 せんろ の敷設 ふせつ も禁止 きんし させた[ 107] 。交渉 こうしょう は1か月 げつ 以上 いじょう におよび、12月22日 にち 、満 まん 洲 しゅう 善後 ぜんご 条約 じょうやく (北京 ぺきん 条約 じょうやく )が結 むす ばれた[ 107] 。これにより、遼東 りゃおとん 半島 はんとう 先端 せんたん の旅順 りょじゅん ・大連 たいれん は25年間 ねんかん の期限 きげん で日本 にっぽん の租借 そしゃく 地 ち となり、のちに「関東 かんとう 州 しゅう 」と呼 よ ばれた[ 107] 。小村 こむら は、北京 ぺきん でも脳貧血 のうひんけつ で倒 たお れた[ 107] [ 108] 。清国 きよくに を離 はな れた小村 こむら は1906年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、横浜 よこはま に到着 とうちゃく した[ 107] 。それに先立 さきだ つ12月20日 にち 、首相 しゅしょう の桂 かつら は辞表 じひょう を提出 ていしゅつ していた[ 107] 。これにともない第 だい 1次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく し、1月 がつ 7日 にち 、第 だい 1次 じ 西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく が成立 せいりつ 、小村 こむら も外相 がいしょう を退任 たいにん した[ 107] 。
枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん ・駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし [ 編集 へんしゅう ]
その治世 ちせい の10年間 ねんかん で日 にち 英 えい 同盟 どうめい 、英 えい 仏 ふつ 協商 きょうしょう 、英 えい 露 ろ 協商 きょうしょう を結 むす んだことで「ピースメーカー」といわれたエドワード7世 せい
第 だい 1次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく の総 そう 辞職 じしょく にともない、外相 がいしょう を辞 や めた小村 こむら は、1906年 ねん 1月 がつ 9日 にち 、枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん に任 にん じられた[ 86] [ 109] 。これにより久 ひさ しぶりに外交 がいこう の第 だい 一線 いっせん より退 しりぞ くこととなったが、それも長 なが くはなかった[ 109] 。駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし だった林 はやし 董 ただし の外相 がいしょう 就任 しゅうにん にともない、6月6日 にち 、小村 こむら が後任 こうにん 大使 たいし としてイギリスに赴任 ふにん するよう指示 しじ を受 う けたのである[ 109] 。7月18日 にち に日本 にっぽん を発 た ち、アメリカを経由 けいゆ して8月 がつ 16日 にち にロンドンに着任 ちゃくにん した[ 109] 。
西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく は、日 にち 仏 ふつ 協約 きょうやく や日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう など、強国 きょうこく となった日本 にっぽん の地盤 じばん 固 かた めと日 にち 露 ろ 戦 せん 後 ご の外交 がいこう 関係 かんけい の充実 じゅうじつ に努 つと め、小村 こむら も林 はやし 外相 がいしょう に自 みずか らの意見 いけん を一度 いちど ならず具申 ぐしん した[ 110] 。日 にち 仏 ふつ 協商 きょうしょう に関 かん しては、フランスはロシアとの露 ろ 仏 ふつ 同盟 どうめい を最 さい 優先 ゆうせん し、そのためにはすべてを犠牲 ぎせい にすることは明 あき らかで、また、日 にち 仏 ふつ 間 あいだ には特 とく に懸案 けんあん もないことから、その締結 ていけつ には消極 しょうきょく 的 てき な見解 けんかい を述 の べた[ 86] [ 110] 。一方 いっぽう 、日 にち 露 ろ 協商 きょうしょう は、将来 しょうらい 的 てき に満 まん 洲 しゅう での日本 にっぽん の利権 りけん の進展 しんてん に資 し するものとなり、ロシアの関心 かんしん が東欧 とうおう やバルカン半島 ばるかんはんとう 方面 ほうめん に向 む けば日本 にっぽん がそれによって享受 きょうじゅ する利益 りえき も少 すく なくないという見地 けんち にもとづいて積極 せっきょく 論 ろん に立 た った[ 86] [ 110] 。ただし、韓国 かんこく ・満 まん 洲 しゅう にかかわる具体 ぐたい 的 てき な取 と り決 き めを盛 も り込 こ むことには反対 はんたい で、ごくだいたいの内容 ないよう にとどめるべきとの意見 いけん であった[ 86] [ 110] 。
とはいえ、全体 ぜんたい 的 てき にみれば、小村 こむら の影響 えいきょう 力 りょく は日本 にっぽん 政府 せいふ 部 ぶ 内 ない にとどまり、イギリスの世論 せろん や政府 せいふ を動 うご かすには至 いた らなかった[ 110] 。駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし としての小村 こむら は、イギリスでは人気 にんき のない外交 がいこう 官 かん であった[ 110] 。一 ひと つには彼 かれ の非 ひ 社交 しゃこう 性 せい があり、エドワード7世 せい 時代 じだい のイギリスが派手 はで なパーティー や舞踏 ぶとう 会 かい がさかんであったため、派手 はで なものを嫌 きら う小村 こむら はいっそう社交 しゃこう を疎 うと んじるようになった[ 110] 。もう一 ひと つは、彼 かれ の秘密 ひみつ 主義 しゅぎ であり、『タイムズ 』紙 し の記者 きしゃ も「コムラの秘密 ひみつ 主義 しゅぎ には耐 た え難 がた いものがあった」と嘆 なげ いている[ 110] 。小村 こむら はまたしても読書 どくしょ に熱中 ねっちゅう し、今回 こんかい はイギリスの外交 がいこう 政策 せいさく に関 かん する書籍 しょせき を中心 ちゅうしん に、必要 ひつよう に応 おう じて経済 けいざい 問題 もんだい や社会 しゃかい 問題 もんだい に関 かん する著述 ちょじゅつ も読 よ んだ[ 110] 。
なお、駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし 時代 じだい の1907年 ねん 9月、小村 こむら は、ポーツマス条約 じょうやく 締結 ていけつ など一連 いちれん の功績 こうせき が認 みと められて伯爵 はくしゃく に陞爵している[ 111] 。
セルゲイ・ウィッテ
1908年 ねん 6月 がつ 、西園寺 さいおんじ 公望 きんもち 首相 しゅしょう が辞意 じい を表明 ひょうめい し、7月 がつ 14日 にち 、内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく し、桂 かつら 太郎 たろう が第 だい 2次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく を組織 そしき 、小村 こむら は再 ふたた び外務 がいむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した[ 112] 。小村 こむら はロンドンからウィーン とサンクトペテルブルク を経 へ て、シベリア鉄道 てつどう を用 もち いて日本 にっぽん に帰国 きこく した[ 112] 。ウィーンではバルカン半島 ばるかんはんとう 情勢 じょうせい を理解 りかい するために見聞 けんぶん を広 ひろ めることに努 つと め、サンクトペテルブルクではかつての好敵手 こうてきしゅ であったセルゲイ・ウィッテ に再会 さいかい した[ 112] 。小村 こむら はウィッテに、敵対 てきたい した日 にち 露 ろ 両国 りょうこく はいまや友好国 ゆうこうこく であり、ポーツマス会議 かいぎ のことも振 ふ り返 かえ れば夢 ゆめ のようであると述 の べたのに対 たい し、ウィッテは、会議 かいぎ 当時 とうじ 、自分 じぶん の交渉 こうしょう は大 だい 成功 せいこう ともてはやされ、小村 こむら は国民 こくみん から大 おお きな批判 ひはん を受 う けたが、しかし、いまや評価 ひょうか は逆転 ぎゃくてん していると述 の べた[ 112] 。
帰国 きこく した小村 こむら は、桂 かつら 首相 しゅしょう に具申 ぐしん して「帝国 ていこく ノ対外 たいがい 政策 せいさく 方針 ほうしん 」を提出 ていしゅつ 、9月25日 にち 、これにもとづいて閣議 かくぎ 決定 けってい がなされた[ 112] [ 113] 。それは、ドイツ帝国 ていこく を除 のぞ く列国 れっこく との多角 たかく 的 てき 同盟 どうめい ・協商 きょうしょう 網 もう の維持 いじ を目指 めざ すというものであった[ 113] 。小村 こむら は、日 にち 英 えい 同盟 どうめい こそ「帝国 ていこく 外交 がいこう の骨髄 こつづい 」としながらも、アメリカとの関係 かんけい を良好 りょうこう たらしめる必要 ひつよう があり、排日 はいにち 移民 いみん 問題 もんだい を緩和 かんわ しつつ、協商 きょうしょう 関係 かんけい を結 むす ぶ必要 ひつよう ありとした[ 112] 。対 たい 清 しん 外交 がいこう については従来 じゅうらい 、利権 りけん 関係 かんけい が複雑 ふくざつ で必 かなら ずしも進展 しんてん しなかったこともあったが、小村 こむら は間島 まじま 問題 もんだい など未 み 解決 かいけつ の6案件 あんけん を一括 いっかつ 化 か してパッケージ・ディールを行 おこな うべしとの方針 ほうしん を明確 めいかく に打 う ち出 だ した[ 112] [ 113] 。
1908年 ねん 10月18日 にち 、世界 せかい 周航 しゅうこう 中 ちゅう のアメリカ艦隊 かんたい が横浜 よこはま に到着 とうちゃく すると、民衆 みんしゅう も提灯 ちょうちん 行列 ぎょうれつ でこれを迎 むか え、25日 にち までの滞在 たいざい 中 ちゅう 、日本 にっぽん では政府 せいふ や民間 みんかん 主催 しゅさい の式典 しきてん が数多 かずおお く開 ひら かれ、メディアも大々的 だいだいてき に報道 ほうどう して親米 しんべい 的 てき な雰囲気 ふんいき が醸 かも し出 だ された[ 114] [ 114] 。小村 こむら は、この機 き に対 たい 米 べい 関係 かんけい の調整 ちょうせい を図 はか るべく、艦隊 かんたい 離日 りにち の25日 にち 、高平 たかひら 小五郎 こごろう 駐米 ちゅうべい 大使 たいし に日米 にちべい 協商 きょうしょう 交渉 こうしょう を指示 しじ し、それを受 う け、高平 たかひら は翌 よく 26日 にち にルーズベルトに小村 こむら の協商 きょうしょう 案 あん を提出 ていしゅつ した[ 114] 。大統領 だいとうりょう はこれに賛意 さんい を示 しめ し、11月7日 にち より高平 たかひら とルート国務 こくむ 長官 ちょうかん により交渉 こうしょう が始 はじ まった[ 114] 。11月30日 にち 、日米 にちべい 両国 りょうこく は高平 たかひら ・ルート協定 きょうてい に調印 ちょういん した[ 113] [ 114] 。条約 じょうやく の形 かたち をとらなかったのは、孤立 こりつ 主義 しゅぎ の伝統 でんとう の強 つよ いアメリカ上院 じょういん の反対 はんたい を恐 おそ れたアメリカ側 がわ の事情 じじょう によるものであった[ 114] 。内容 ないよう は、太平洋 たいへいよう の現状 げんじょう 維持 いじ と日米 にちべい の領土 りょうど に対 たい する相互 そうご 不可侵 ふかしん と通商 つうしょう の自由 じゆう 、清国 きよくに の領土 りょうど 保全 ほぜん と門戸 もんこ 開放 かいほう 、機会 きかい 均等 きんとう であり、その文言 もんごん だけをみると、桂 かつら ・タフト協定 きょうてい や門戸 もんこ 開放 かいほう 原則 げんそく を再 ふたた び確認 かくにん したにすぎないようにもみえるが、悪化 あっか しつつあったアメリカとの間 あいだ で新 あら たな協定 きょうてい を成立 せいりつ させた意義 いぎ は大 おお きかった[ 113] [ 114] 、この頃 ころ 、小村 こむら は外交 がいこう 官 かん の堀口 ほりぐち 九萬一 くまいち に対 たい し、「今 こん 当分 とうぶん の間 あいだ 自分 じぶん は英 えい 米 べい との関係 かんけい を穏 おだ やかにして行 い くということを基準 きじゅん にして、日本 にっぽん の外交 がいこう をやるつもりだ」と語 かた っている[ 113] 。小村 こむら はまた、渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち ら実業 じつぎょう 界 かい の主要 しゅよう 人物 じんぶつ に協力 きょうりょく を求 もと め、日米 にちべい 実業 じつぎょう 団 だん の相互 そうご 訪問 ほうもん を実現 じつげん させた[ 113] 。
満 まん 洲 しゅう 協約 きょうやく と間島 まじま 協約 きょうやく [ 編集 へんしゅう ]
日 にち 清 しん 関係 かんけい については、小村 こむら は、新 あたら しく駐 ちゅう 清 きよし 公使 こうし に任 にん じられた伊集院 いじゅういん 彦吉 に対 たい し、懸案 けんあん 事項 じこう の協議 きょうぎ に入 はい るよう命 めい じ、パッケージ・ディールの方針 ほうしん を伝 つた えたが、清国 きよくに にとっては主権 しゅけん にかかわる問題 もんだい として絶対 ぜったい に譲 ゆず れない間島 まじま 問題 もんだい が含 ふく まれていたため、交渉 こうしょう は暗礁 あんしょう に乗 の り上 あ げた[ 113] 。これには、1909年 ねん 5月 がつ に小村 こむら 自身 じしん が肋膜 ろくまく 肺炎 はいえん に罹 かか り、一時 いちじ は職務 しょくむ を遂行 すいこう できないほど病状 びょうじょう が悪化 あっか していたこととも深 ふか くかかわっていた[ 113] [ 115] 。一時 いちじ は清国 きよくに 側 がわ が紛争 ふんそう の常設 じょうせつ 仲裁 ちゅうさい 裁判所 さいばんしょ への付託 ふたく を提議 ていぎ し、日本 にっぽん 側 がわ が強 つよ く反発 はんぱつ する場面 ばめん もあったが、最終 さいしゅう 的 てき には間島 まじま 協約 きょうやく と満 まん 洲 しゅう 協約 きょうやく (満 まん 洲 しゅう 五 ご 案件 あんけん に関 かん する日 にち 清 しん 協約 きょうやく )が1909年 ねん 9月4日 にち に締結 ていけつ されて当面 とうめん の決着 けっちゃく をみた[ 113] [ 115] 。
アメリカでは、2期 き 大統領 だいとうりょう を務 つと めたセオドア・ルーズベルトに代 か わって同 おな じ共和党 きょうわとう のウィリアム・タフト が大統領 だいとうりょう となり、従来 じゅうらい とは異 こと なり、「ドル外交 がいこう 」と呼 よ ばれるアメリカの経済 けいざい 力 りょく を背景 はいけい とする政策 せいさく に転換 てんかん した[ 115] 。タフト政権 せいけん の国務 こくむ 長官 ちょうかん フィランダー・ノックス (英語 えいご 版 ばん ) は、1909年 ねん 11月と12月に「満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 中立 ちゅうりつ 化 か 案 あん 」をヨーロッパ諸国 しょこく と日本 にっぽん に対 たい し、提案 ていあん した[ 113] [ 115] 。それは、満 まん 洲 しゅう の鉄道 てつどう を列強 れっきょう が買収 ばいしゅう して共同 きょうどう 管理 かんり するか、満 まん 鉄 てつ 並行 へいこう 線 せん となる錦 にしき 州 しゅう ・璦琿 (現 げん 、黒河 くろかわ 市 し )間 あいだ 鉄道 てつどう の建設 けんせつ を支持 しじ するかを求 もと めるというもので、英 えい 露 ろ 仏 ふつ 独 どく に打診 だしん されたのち、日本 にっぽん には12月20日 にち 、トーマス・オブライエン (英語 えいご 版 ばん ) 駐 ちゅう 日 にち 大使 たいし を通 つう じて伝 つた えられた[ 115] 。
もとより小村 こむら は、この提案 ていあん には大 だい 反対 はんたい であり、1910年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、小村 こむら 主導 しゅどう で中立 ちゅうりつ 化 か 案 あん 拒否 きょひ の閣議 かくぎ 決定 けってい がなされた[ 116] 。1月 がつ 21日 にち には日本 にっぽん とロシアが共同 きょうどう で拒否 きょひ 通告 つうこく を発 はっ した[ 113] [ 116] 。イギリスとフランスも、それぞれの同盟 どうめい 国 こく にならって反対 はんたい を表明 ひょうめい し、アメリカの試 こころ みは失敗 しっぱい に帰 かえ した[ 115] 。そして、これにより、日本 にっぽん にはロシア・フランスとの親密 しんみつ 化 か がもたらされた[ 113] [ 116] 。1909年 ねん 12月24日 にち 、ニコライ・マレフスキー=マレーヴィチ (ロシア語 ご 版 ばん ) 駐 ちゅう 日 にち ロシア大使 たいし に対 たい し、小村 こむら は日 にち 露 ろ 協約 きょうやく を一 いち 歩 ほ 進 すす めるべきと提案 ていあん したのに対 たい し、1月 がつ 21日 にち にはイズヴォリスキー外相 がいしょう が賛意 さんい を示 しめ し、3月2日 にち 、閣議 かくぎ 決定 けってい を経 へ て新 しん 協約 きょうやく 交渉 こうしょう が始 はじ まった[ 116] 。交渉 こうしょう は順調 じゅんちょう に進 すす み、7月 がつ 4日 にち 、サンクトペテルブルクで第 だい 二 に 次 じ 日 にち 露 ろ 協約 きょうやく が成立 せいりつ した[ 116] 。
小村 こむら 寿太郎 じゅたろう
前 ぜん 内閣 ないかく の結 むす んだ第 だい 三 さん 次 じ 日 にち 韓 かん 協約 きょうやく によって日本 にっぽん の韓国 かんこく 支配 しはい はさらに強化 きょうか されたが、小村 こむら はさらにそれを進 すす めて韓国 かんこく を日本 にっぽん の領土 りょうど に組 く み込 こ む方針 ほうしん であった[ 114] 。1909年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 、小村 こむら は桂 かつら 首相 しゅしょう とともに、一時 いちじ 帰国 きこく 中 ちゅう の伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 韓国 かんこく 統監 とうかん のもとを訪 たず ね、併合 へいごう 方針 ほうしん を示 しめ した[ 114] 。伊藤 いとう は併合 へいごう 反対 はんたい 派 は として知 し られていたので、当然 とうぜん 反対 はんたい するであろうと思 おも って訪問 ほうもん したのであるが、意外 いがい にも彼 かれ はあっさりと同意 どうい した[ 114] 。自 みずか ら統監 とうかん に就任 しゅうにん し、穏 おだ やかな手段 しゅだん で韓国 かんこく 産業 さんぎょう の育成 いくせい や教育 きょういく の発展 はってん を図 はか ろうとした伊藤 いとう であったが、穏健 おんけん な支配 しはい でも義兵 ぎへい 闘争 とうそう などの抵抗 ていこう はむしろ強 つよ まり、収 おさ まる気配 けはい がみえなかったので、辞任 じにん を考 かんが えていたのである[ 114] 。伊藤 いとう の同意 どうい によって併合 へいごう への動 うご きは加速 かそく した[ 114] 。
7月 がつ 6日 にち 、「韓国 かんこく 併合 へいごう に関 かん する件 けん 」が閣議 かくぎ 決定 けってい され、同時 どうじ に「対 たい 韓 かん 施設 しせつ 大綱 たいこう 」も策定 さくてい された[ 114] 。7月 がつ 下旬 げじゅん には、大韓 たいかん 帝国 ていこく 皇帝 こうてい を廃位 はいい して皇帝 こうてい 一族 いちぞく を東京 とうきょう に移 うつ すことや日本 にっぽん と外国 がいこく との条約 じょうやく は基本 きほん 的 てき に韓国 かんこく にも適用 てきよう することなどを記 しる した意見 いけん 書 しょ を桂 かつら に提出 ていしゅつ し、閣議 かくぎ で了承 りょうしょう された[ 114] 。
1910年 ねん 2月 がつ 28日 にち 、小村 こむら は外国 がいこく 駐在 ちゅうざい の大使 たいし に電報 でんぽう を送 おく り、韓国 かんこく 併合 へいごう に関 かん する注意 ちゅうい を促 うなが した[ 117] 。4月 がつ 5日 にち 、本野 ほんの 一郎 いちろう 駐 ちゅう 露 ろ 大使 たいし は、第 だい 二 に 次 じ 日 にち 露 ろ 協約 きょうやく 交渉 こうしょう 中 ちゅう に韓国 かんこく 併合 へいごう に関 かん するロシア側 がわ の意向 いこう を探 さぐ った[ 117] 。当初 とうしょ はイズヴォルスキー外相 がいしょう が懸念 けねん を表明 ひょうめい していたが、4月 がつ 10日 とおか 、ロシア首相 しゅしょう のピョートル・ストルイピン は、ロシアには反対 はんたい する理由 りゆう も権利 けんり もないと語 かた った[ 117] 。4月 がつ 19日 にち 、小村 こむら は本野 ほんの に訓令 くんれい を発 はっ し、適当 てきとう な時期 じき に韓国 かんこく 併合 へいごう を実施 じっし することについて理解 りかい を求 もと めるよう伝 つた えさせたが、ロシアからの反対 はんたい はその後 ご もなかった[ 117] 。
イギリスに対 たい しては、1910年 ねん 5月19日 にち 、小村 こむら 自身 じしん がマクドナルド駐 ちゅう 日大 にちだい 使 し との会談 かいだん の際 さい に韓国 かんこく 併合 へいごう 問題 もんだい について話 はな し合 あ い、日本 にっぽん の韓国 かんこく 併合 へいごう に異存 いぞん はないとの同意 どうい を得 え たが、税率 ぜいりつ の変更 へんこう については懸念 けねん 表明 ひょうめい がなされた[ 117] 。日本 にっぽん は当時 とうじ 、関税 かんぜい 自主権 じしゅけん の完全 かんぜん 回復 かいふく を目指 めざ しており、イギリスとも交渉 こうしょう 中 ちゅう であったが、イギリスが過去 かこ に韓国 かんこく と結 むす んだ条約 じょうやく について改正 かいせい 後 ご の関税 かんぜい 率 りつ を適用 てきよう されることを危惧 きぐ したのである[ 117] 。これに対 たい し、小村 こむら は関税 かんぜい をしばらく現状 げんじょう のままとし、開港 かいこう 場 じょう から馬山 まやま を除 のぞ いて新 しん 義 ぎ 州 しゅう を加 くわ えるなどの措置 そち をとったため、エドワード・グレイ 外相 がいしょう も安心 あんしん して満足 まんぞく の意 い を表 あらわ し、8月 がつ 3日 にち 、併合 へいごう に同意 どうい の意思 いし を伝 つた えた[ 117] 。
5月30日 にち 、文官 ぶんかん で併合 へいごう 反対 はんたい 派 は だった曾禰荒 あら 助 すけ に代 か えて第 だい 3代 だい 統監 とうかん として寺内 てらうち 正毅 まさき 陸相 りくしょう が選 えら ばれた[ 117] 。寺内 てらうち は7月 がつ 23日 にち に韓国 かんこく へ到着 とうちゃく して皇帝 こうてい 純 じゅん 宗 むね に挨拶 あいさつ し、8月 がつ 13日 にち 、小村 こむら に対 たい して、一 いち 週間 しゅうかん 以内 いない に併合 へいごう 条約 じょうやく を調印 ちょういん する予定 よてい であると伝 つた えた[ 117] 。併合 へいごう は既定 きてい の路線 ろせん であったため、小村 こむら は細 こま かい指示 しじ は与 あた えず、寺内 てらうち に交渉 こうしょう を委 ゆだ ねた[ 117] 。1910年 ねん 8月 がつ 22日 にち 、韓国 かんこく 併合 へいごう 条約 じょうやく が調印 ちょういん された[ 113] [ 117] 。
条約 じょうやく 改正 かいせい と第 だい 三 さん 次 じ 日 にち 英 えい 同盟 どうめい [ 編集 へんしゅう ]
内田 うちだ 康哉 こうさい 駐米 ちゅうべい 大使 たいし との間 あいだ で新 しん 日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく に調印 ちょういん したフィランダー・ノックス国務 こくむ 長官 ちょうかん
この時期 じき の日 にち 英 えい 関係 かんけい は、日 にち 露 ろ 関係 かんけい の改善 かいぜん などもあって、同盟 どうめい の有用 ゆうよう 性 せい は以前 いぜん よりも低下 ていか したと考 かんが えられるなど転機 てんき をむかえていた[ 118] 。しかし、小村 こむら はさまざまな手 て を打 う って日 にち 英 えい 同盟 どうめい 関係 かんけい の維持 いじ に意 い を注 そそ いだ[ 118] 。まず、親 しん 英 えい 派 は として知 し られる加藤 かとう 高明 こうめい を駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし とし、次 つ いで友好 ゆうこう を盛 も り上 あ げるために日 にち 英 えい 博覧 はくらん 会 かい を開催 かいさい した[ 118] 。博覧 はくらん 会 かい は1910年 ねん 5月14日 にち から10月29日 にち にかけてロンドン で開 ひら かれ、好評 こうひょう を博 はく した[ 118] 。
日 にち 英 えい 関係 かんけい において、小村 こむら が最 もっと も心 しん を砕 くだ いたのが条約 じょうやく 改正 かいせい 問題 もんだい であった[ 118] 。1910年 ねん 3月 がつ 以降 いこう 、関税 かんぜい 自主権 じしゅけん の完全 かんぜん 回復 かいふく を目指 めざ して日 にち 英 えい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の改定 かいてい を協議 きょうぎ していたが、協定 きょうてい 関税 かんぜい 制度 せいど の撤廃 てっぱい を求 もと める日本 にっぽん に対 たい し、イギリスはこれに反対 はんたい し、難航 なんこう していた[ 113] [ 118] 。小村 こむら は、この件 けん ではイギリス相手 あいて であっても妥協 だきょう しないことを、2度目 どめ の外相 がいしょう 就任 しゅうにん 時 じ より表明 ひょうめい していた[ 118] 。あくまで対等 たいとう な条約 じょうやく を求 もと めるのが小村 こむら の持論 じろん だったのである[ 118] 。加藤 かとう 高明 こうめい は交渉 こうしょう をまとめるために小村 こむら に譲歩 じょうほ を提案 ていあん したが、小村 こむら はそれを拒否 きょひ した[ 118] 。
小村 こむら は結局 けっきょく 、交渉 こうしょう を優先 ゆうせん すべき相手 あいて 国 こく を変 か えることで解決 かいけつ した[ 113] [ 115] 。相手 あいて に選 えら んだのはアメリカであった[ 115] 。ノックス国務 こくむ 長官 ちょうかん の満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 中立 ちゅうりつ 化 か 案 あん は、確 たし かに日 にち 露 ろ 両国 りょうこく の反対 はんたい により頓挫 とんざ したとはいえ、必 かなら ずしも日米 にちべい 関係 かんけい の悪化 あっか を意味 いみ するわけではなかった[ 115] 。ノックスはむしろ、これ以上 いじょう の日米 にちべい 関係 かんけい の悪化 あっか を怖 こわ れて日本 にっぽん の意向 いこう を以前 いぜん よりも考慮 こうりょ するようになっていた[ 115] 。小村 こむら もまた、清国 きよくに への英 えい 仏 ふつ 独 どく の借款 しゃっかん 団 だん にアメリカが加 くわ わることに反対 はんたい しなかった[ 115] 。小村 こむら は日本 にっぽん の権益 けんえき への過度 かど な介入 かいにゅう に反対 はんたい だっただけなのであり、満 まん 洲 しゅう への外国 がいこく 資本 しほん の導入 どうにゅう にはむしろ賛成 さんせい していたのである[ 115] 。小村 こむら もまた、アメリカとの関係 かんけい 調整 ちょうせい に意 い を用 もち いた[ 115] 。
日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく 改定 かいてい 交渉 こうしょう は1910年 ねん 10月19日 にち より始 はじ まった[ 118] 。交渉 こうしょう は予想 よそう 外 がい に順調 じゅんちょう で、1911年 ねん 2月 がつ 21日 にち には新 しん 条約 じょうやく が調印 ちょういん された[ 113] [ 118] 。これにより、幕末 ばくまつ 以来 いらい 、日本人 にっぽんじん にとって悲願 ひがん であった不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく の完全 かんぜん な改正 かいせい が達成 たっせい された[ 118] 。日本 にっぽん は対 たい 米 べい 移民 いみん の制限 せいげん を定 さだ めた日米 にちべい 紳士 しんし 協定 きょうてい の維持 いじ を約束 やくそく していた[ 113] [ 118] 。アメリカとの間 あいだ で関税 かんぜい 自主権 じしゅけん が回復 かいふく されると、他国 たこく との条約 じょうやく 改正 かいせい 問題 もんだい も解決 かいけつ の方向 ほうこう 性 せい がみえてきた[ 113] [ 118] 。小村 こむら は、イギリスが重視 じゅうし する輸出 ゆしゅつ 品 ひん に限 かぎ って協定 きょうてい 関税 かんぜい を残 のこ す代 か わりに日本 にっぽん のいくつかの輸出 ゆしゅつ 品 ひん が無税 むぜい になることで折 お り合 あ いをつけ、4月 がつ 3日 にち 、新 しん 日 にち 英 えい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく を結 むす んだ[ 118] 。同年 どうねん 中 ちゅう に、フランス、ドイツなど他 た の列強 れっきょう との間 あいだ でも新 しん 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく が結 むす ばれた[ 118] 。
これより先 さき 、イギリスのエドワード・グレイ 外相 がいしょう は、1910年 ねん 9月26日 にち 、加藤 かとう 駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし に日 にち 英 えい 同盟 どうめい の改定 かいてい について意向 いこう を尋 たず ねている[ 118] 。当時 とうじ 、英 えい 米 べい 両国 りょうこく では、紛争 ふんそう を仲裁 ちゅうさい 機関 きかん に委 ゆだ ねる仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく の締結 ていけつ が検討 けんとう されていた[ 118] 。そこでグレイは、日本 にっぽん に対 たい して、仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく に違背 いはい しないように日 にち 英 えい 同盟 どうめい を改定 かいてい するか、あるいは英 えい 米 べい の仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく に日本 にっぽん も加入 かにゅう するか、どちらかを選 えら ぶよう示唆 しさ した[ 118] 。英 えい 米 べい 間 あいだ では、国家 こっか 間 あいだ 対立 たいりつ を平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん で解決 かいけつ することを定 さだ めた仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく を結 むす んでいたため戦争 せんそう はできない状態 じょうたい である[ 118] 。条約 じょうやく 違反 いはん に陥 おちい らないためには、仮 かり に日米 にちべい 間 あいだ で戦争 せんそう が起 お きた場合 ばあい にイギリスが巻 ま き込 こ まれないためには同盟 どうめい を改定 かいてい するか日本 にっぽん も同 どう 条約 じょうやく に加入 かにゅう するほかなかったのである[ 118] 。小村 こむら は、仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく が日本 にっぽん に不利 ふり な判決 はんけつ を出 だ す傾向 けいこう を持 も っているとして批判 ひはん 的 てき 立場 たちば をとっていた[ 118] 。結局 けっきょく 、小村 こむら は1911年 ねん 1月 がつ 17日 にち 、改定 かいてい の方 ほう を選択 せんたく する旨 むね 答 こた えた[ 118] 。4月5日 にち 、日 にち 英 えい 同盟 どうめい 改定 かいてい 案 あん は閣議 かくぎ 決定 けってい された[ 118] 。
イギリスがアメリカと仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく を結 むす ぶ以上 いじょう 、アメリカを対象 たいしょう に同盟 どうめい が適用 てきよう されないのは当然 とうぜん であった[ 118] 。しかし、仮 かり にアメリカが他 た の国 くに と同盟 どうめい を結 むす んだとき、同盟 どうめい が発動 はつどう されるか否 ひ かについては意見 いけん が分 わ かれた[ 118] 。小村 こむら は、発動 はつどう されるよう強 つよ く求 もと めたが、グレイは譲 ゆず らず、加藤 かとう はイギリス側 がわ に立 た って小村 こむら の主張 しゅちょう を批判 ひはん した[ 118] 。総理 そうり 大臣 だいじん の桂 かつら は、この時 とき 、同盟 どうめい を発動 はつどう しないことに最終 さいしゅう 的 てき に同意 どうい し、小村 こむら もやむなく受 う け入 い れた[ 118] 。7月 がつ 13日 にち 、第 だい 三 さん 次 じ 日 にち 英 えい 同盟 どうめい 条約 じょうやく が調印 ちょういん された[ 118] 。
なお、小村 こむら は1911年 ねん 4月 がつ 22日 にち 、韓国 かんこく 併合 へいごう の功 こう などにより侯爵 こうしゃく に陞爵している[ 119] 。
1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )8月 がつ 25日 にち 、第 だい 2次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく し、8月 がつ 30日 にち 、第 だい 2次 じ 西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく が成立 せいりつ した[ 120] 。桂 かつら は、小村 こむら の外相 がいしょう 留任 りゅうにん を希望 きぼう していたが、原 はら 敬 たかし を中心 ちゅうしん とする与党 よとう の立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい は、桂 かつら の影響 えいきょう 力 りょく が新内 しんない 閣 かく に残 のこ るのを嫌 きら い、後継 こうけい 外相 がいしょう に内田 うちだ 康哉 こうさい を迎 むか えた[ 120] 。
外相 がいしょう を辞 じ して政界 せいかい を引退 いんたい した小村 こむら は、9月に神奈川 かながわ 県 けん 葉山 はやま 町 まち に転居 てんきょ した[ 120] 。貧乏 びんぼう 生活 せいかつ は変 か わらなかったが、好 す きな酒 さけ を飲 の み、読書 どくしょ を楽 たの しみながら生活 せいかつ した[ 120] 。腸 ちょう チフス、肺尖 はいせん カタル、肋膜 ろくまく 肺炎 はいえん と大病 たいびょう を繰 く り返 かえ していた小村 こむら だが、1910年 ねん にも肛囲炎 えん で2度 ど の手術 しゅじゅつ を受 う けて、満身 まんしん 創痍 そうい の状態 じょうたい であった[ 113] [ 120] 。
11月に入 はい り、熱 ねつ が出 で 始 はじ め、11日 にち には肺 はい に痛 いた みを感 かん じるようになったため床 ゆか に伏 ふ せるようになった[ 120] 。しかし、読書 どくしょ 熱 ねつ は衰 おとろ えずアルフレッド・テニスン の詩集 ししゅう は常 つね に傍 かたわ らに置 お いていた[ 120] 。来客 らいきゃく ともよく語 かた り、特 とく に親友 しんゆう の杉浦 すぎうら 重剛 しげたけ が見舞 みま いに来 き た際 さい には喜 よろこ んで長時間 ちょうじかん 話 はな し込 こ んだ[ 120] 。容体 ようだい が急変 きゅうへん したのは11月22日 にち のことである[ 120] 。23日 にち には脳膜炎 のうまくえん の症状 しょうじょう が現 あらわ れ、24日 にち に桂 かつら と寺内 てらうち が訪 たず ねてきたときには言葉 ことば を交 か わすことができなかった[ 120] 。25日 にち は杉浦 すぎうら ら旧友 きゅうゆう が集 あつ まったが、小村 こむら は呼吸 こきゅう 困難 こんなん な状態 じょうたい であり、やがて危篤 きとく に陥 おちい った[ 120] 。11月26日 にち 、小村 こむら 寿太郎 じゅたろう は葉山 はやま の自宅 じたく で死去 しきょ した[ 113] [ 120] 。満 まん 56歳 さい だった。12月2日 にち 、小村 こむら の外務省 がいむしょう 葬 そう が執 と り行 おこな われた[ 120] 。墓所 はかしょ は東京 とうきょう 都 と 港 みなと 区 く の青山 あおやま 霊園 れいえん にある。
小村 こむら は、自分 じぶん の仕事 しごと は後世 こうせい の人間 にんげん が判断 はんだん すべきであるとして日記 にっき を一切 いっさい 付 つ けなかった。また、秘密 ひみつ 主義 しゅぎ を貫 つらぬ いたため、小村 こむら の手紙 てがみ もほとんど残 のこ っていない[ 121] [ 注釈 ちゅうしゃく 11] 。ポーツマス条約 じょうやく 交渉 こうしょう でも満 まん 洲 しゅう 善後 ぜんご 条約 じょうやく 交渉 こうしょう でも、小村 こむら はさんざん叩 たた かれたが、一切 いっさい 自己 じこ 弁護 べんご をしていない[ 108] 。ただし、小村 こむら が東京 とうきょう 開成 かいせい 学校 がっこう 時代 じだい に書 か いた英文 えいぶん の自叙伝 じじょでん "My Autobiography" が1997年 ねん にアメリカの大学 だいがく で見 み つかっており、開成 かいせい 学校 がっこう の英語 えいご 教師 きょうし だったグリフィスはこれについて18歳 さい の青年 せいねん が書 か いたとは思 おも えないほどの深 ふか い内容 ないよう だと褒 ほ めている[ 4] 。
小村 こむら はまた、たいへんな読書 どくしょ 家 か であり、ロシアに駐在 ちゅうざい していた時 とき には薄暗 うすぐら い室内 しつない で膨大 ぼうだい な量 りょう の書物 しょもつ を読 よ み漁 あさ っため視力 しりょく が大幅 おおはば に衰 おとろ え、医者 いしゃ からはこれ以上 いじょう 目 め を使 つか い続 つづ けると失明 しつめい するとまで警告 けいこく されたが、それでも小村 こむら の学習 がくしゅう 意欲 いよく は衰 おとろ えず、読書 どくしょ を止 と めることは終生 しゅうせい なかった[ 16] 。
小村 こむら は40歳 さい を過 す ぎても公私 こうし 共 ども に報 むく われず、翻訳 ほんやく の内職 ないしょく をして生計 せいけい を支 ささ えていたが、小村 こむら の運 うん が開 あ けたきっかけはこの内職 ないしょく にあった[ 20] 。翻訳 ほんやく という作業 さぎょう は、諸 しょ 分野 ぶんや における多様 たよう な事象 じしょう について勉強 べんきょう する機会 きかい を翻訳 ほんやく 者 しゃ にもたらす[ 20] 。上述 じょうじゅつ のとおり、翻訳 ほんやく で得 え た紡績 ぼうせき に関 かん する知識 ちしき を陸奥 むつ 宗光 むねみつ の前 まえ で披露 ひろう する機会 きかい があり、陸奥 みちのく は小村 こむら の博識 はくしき に感服 かんぷく したが、小村 こむら は陸奥 みちのく に「私 わたし は何 なに でも知 し っています。ここにいる原 はら 敬 たかし 君 くん ほど私 わたし を用 もち いてくれるなら、私 わたし も相当 そうとう のことを致 いた します」と返答 へんとう して陸奥 みちのく を驚 おどろ かせている[ 20] [ 122] 。
妻 つま のマチ(町子 まちこ ) 小村 こむら より背 せ が高 たか かったが、アメリカ留学 りゅうがく 時代 じだい 、常 つね に背 せ の高 たか い女性 じょせい に囲 かこ まれていた小村 こむら は、町子 まちこ と並 なら んで歩 ある くことは気 き にならなかった[ 11] 。
上述 じょうじゅつ のとおり、父親 ちちおや が事業 じぎょう に失敗 しっぱい して作 つく った多額 たがく の借金 しゃっきん を小村 こむら は肩代 かたが わりし、生涯 しょうがい を通 つう じてその返済 へんさい に苦労 くろう した[ 11] 。その貧乏 びんぼう 生活 せいかつ はすさまじいもので、家具 かぐ は長火鉢 ながひばち 1つと座布団 ざぶとん 2つだけ、衣類 いるい はほとんど質屋 しちや に入 い れたため、 いつも同 おな じ服 ふく を着 き ており、食 た べるものにも事欠 ことか いて、長男 ちょうなん の欣一 きんいち が夜盲症 やもうしょう (夜 よる に視力 しりょく が著 いちじる しく衰 おとろ える病気 びょうき )に罹 かか るというありさまであった[ 13] 。
債権 さいけん 者 しゃ は次々 つぎつぎ と役所 やくしょ や小村 こむら 邸 てい に押 お しかけてきたが、新婚 しんこん の妻 つま が着物 きもの を金 かね に変 か えたり、見 み るに見 み かねた有志 ゆうし が債権 さいけん 者 しゃ 全員 ぜんいん を集 あつ めて一部 いちぶ を棒引 ぼうび きにしてもらったり、小村 こむら のために減 げん 債 さい 基金 ききん が設 もう けられたりした[ 11] 。ところが当 とう の小村 こむら は借金 しゃっきん 返済 へんさい 日 び 前後 ぜんこう には外泊 がいはく し、待合 まちあ い通 がよ いをしたため、妻 つま は赤坂 あかさか や新橋 しんばし を歩 ある き回 まわ って夫 おっと の居場所 いばしょ をかぎ出 だ し、人前 ひとまえ でも平気 へいき で小村 こむら に当 あた り散 ち らしたという[ 11] [ 123] [ 124] 。
経済 けいざい 的 てき な苦境 くきょう を他人 たにん に同情 どうじょう されると、小村 こむら は常 つね に「もう苦 くる しいのは通 とお り越 こ して平気 へいき です」と答 こた えていた[ 13] 。こうしたタフでふてぶてしい神経 しんけい は、数々 かずかず の豪快 ごうかい な逸話 いつわ を生 う み出 だ すこととなった[ 13] 。たとえば、留守 るす 中 ちゅう に近所 きんじょ で火事 かじ があり、のちに自宅 じたく も被災 ひさい するところだったという話 はなし を聞 き いた小村 こむら は、焼 や けてしまえば借金 しゃっきん 引 ひ き伸 の ばしの好 よ い口実 こうじつ ができたのにと笑 わら って、周囲 しゅうい を呆 あき れさせた[ 13] 。外務 がいむ 省内 しょうない で宴会 えんかい があると、酒好 さけず きの小村 こむら は必 かなら ず出席 しゅっせき したが、いつも会費 かいひ を支払 しはら わずに人一倍 ひといちばい 飲 の み食 く いして平然 へいぜん としていた[ 13] 。また、金銭 きんせん 的 てき 援助 えんじょ を申 もう し出 で る人 ひと があっても、金 かね を借 か りると一生 いっしょう 頭 あたま が上 あ がらなくなるのがたまらないという理由 りゆう で断 ことわ っている[ 13] 。小村 こむら が有名 ゆうめい になるにともない、雌伏 しふく 時代 じだい の貧乏 びんぼう 暮 く らしも有名 ゆうめい になり、のちには国定 こくてい 教科書 きょうかしょ に掲載 けいさい されたほどであった[ 13] 。
妻 つま のマチ(町子 まちこ )は、明治 めいじ 女学校 じょがっこう で高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けており、留学 りゅうがく から帰国 きこく したばかりの彼 かれ にはまぶしい存在 そんざい であったが、結婚 けっこん 後 ご 、自 みずか らは裁縫 さいほう もしなければ料理 りょうり もせず、実家 じっか からの仕送 しおく りで女中 じょちゅう を雇 やと い、家事 かじ 一切 いっさい をやらせるような女性 じょせい であったことに小村 こむら は愕然 がくぜん としたらしい[ 11] 。マチは、多分 たぶん に感情 かんじょう が激 げき することが多 おお く、小村 こむら といいになると暴言 ぼうげん を吐 は いたり物 もの を投 な げたりして、近所 きんじょ に住 す む実家 じっか の両親 りょうしん のもとに行 い って泣 な いて訴 うった えることもあった[ 11] 。彼女 かのじょ の唯一 ゆいいつ の趣味 しゅみ は芝居 しばい 見物 けんぶつ で、子供 こども たちを女中 じょちゅう に託 たく して実家 じっか の母 はは などと一緒 いっしょ に外出 がいしゅつ することも少 すく なくなかったという[ 11] 。
黒田 くろだ 内閣 ないかく のとき、外相 がいしょう 大隈 おおくま 重信 しげのぶ はしばしば元老 げんろう ・大臣 だいじん ・次官 じかん ・局長 きょくちょう を晩餐 ばんさん に招 まね いたことがあり、小村 こむら も何 なん 度 ど か呼 よ ばれている[ 16] 。ある晩 ばん 、三遊亭円朝 さんゆうていえんちょう が落 お とし噺 ばなし を一席 いっせき 披露 ひろう した後 のち 、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ が床 ゆか の間 あいだ の席 せき から円 えん 朝 あさ に盃 さかずき をとらせると手招 てまね きをした[ 16] 。かしこまるだけで一向 いっこう に前 まえ に進 すす まない円朝 えんちょう に対 たい し、小村 こむら は開口 かいこう し、「このなかで一番 いちばん 偉 えら いのは円朝 えんちょう だ。元老 げんろう や大臣 だいじん たちは死 し んだあとにいくらでも立派 りっぱ な後継 あとつ ぎが控 ひか えている。しかし、円朝 えんちょう ほどの名人 めいじん ともなると後継 あとつ ぎがいようはずもない。だから、それほどかしこまらなくてよい」と大声 おおごえ で声 こえ をかけたという[ 16] 。大病 たいびょう をくり返 がえ し、風采 ふうさい の上 あ がらない小村 こむら は実 じつ は毒舌 どくぜつ と放胆 ほうたん な行動 こうどう 力 りょく の持 も ち主 ぬし であった[ 28] 。
ポーツマス条約 じょうやく の日 にち 露 ろ 両国 りょうこく 全権 ぜんけん とT.ルーズベルト 左 ひだり より、セルゲイ・ウィッテ、ロマン・ローゼン、ルーズベルト、小村 こむら 、高平 たかひら
小村 こむら は小柄 こがら で、ハーバード大学 だいがく 留学 りゅうがく 時 じ に取得 しゅとく したパスポート には「五 ご 尺 しゃく 一 いち 寸 すん 」(約 やく 156センチ)との記載 きさい がある[ 4] 。また、日本 にっぽん 近代 きんだい 史 し ・日本 にっぽん 政治 せいじ 外交 がいこう 史 し の片山 かたやま 慶 けい 隆 たかし は身長 しんちょう は150センチメートルに満 み たないとしており[ 125] 、小説 しょうせつ 家 か の吉村 よしむら 昭 あきら もその著書 ちょしょ の中 なか で小村 こむら は4尺 しゃく 7寸 すん (約 やく 143センチ)と記述 きじゅつ している[ 126] 。容貌 ようぼう は、下関 しものせき 条約 じょうやく 交渉 こうしょう 時 じ に腸 ちょう チフスを患 わずら った後 のち は一変 いっぺん し、かつて眉目 びもく 秀麗 しゅうれい と言 い われた小村 こむら も、頭 あたま だけが大 おお きく、鼻 はな の下 した から口 くち の辺 あた りに垂 た れ下 さ がる貧相 ひんそう な髭 ひげ を生 は やした顔 かお は「やつれ相 しょう 」となった[ 28] [ 32] [ 123] [ 124] 。目 め はくぼんで頬 ほお は落 お ち、太 ふと い眉 まゆ は垂 た れ下 さ がり、それでいてすばしっこく行動 こうどう 力 りょく があることなどから、北京 ぺきん では口 くち さがない外交 がいこう 団 だん から「ねずみ公使 こうし 」と仇名 あだな され、同輩 どうはい や邦人 ほうじん からも「小村 こむら チュー公 こう 」と呼 よ ばれたという[ 24] [ 28] [ 123] [ 124] 。
日 にち 露 ろ 講和 こうわ 会議 かいぎ のためポーツマスに向 む けて出発 しゅっぱつ する際 さい のエピソード(上述 じょうじゅつ )からも、大国 たいこく ロシアは必 かなら ずしも戦争 せんそう に負 ま けたとは考 かんが えていないことを小村 こむら はよく理解 りかい しており、そのため交渉 こうしょう は難航 なんこう するであろうこと、そしてロシアから引 ひ き出 だ せる代償 だいしょう も一般 いっぱん の日本 にっぽん 国民 こくみん が期待 きたい するものからは程遠 ほどとお いものになるだろうことを当初 とうしょ から予見 よけん していた[ 122] [ 124] 。ロイター 通信 つうしん や『タイムズ』紙 し が日本 にっぽん 寄 よ りのニュースを配信 はいしん していたこともあって、1905年 ねん 当時 とうじ のアメリカでは日本 にっぽん びいきの世論 せろん が醸成 じょうせい されていた。そこで手練 しゅれん 手管 てくだ の政治 せいじ 家 か ウィッテは、日 にち 露 ろ 間 あいだ で秘密 ひみつ とすることで合意 ごうい している交渉 こうしょう の途中 とちゅう 経過 けいか をアメリカの新聞 しんぶん 記者 きしゃ にリークして恩 おん に着 き せるという瀬戸際 せとぎわ の世論 せろん 工作 こうさく を繰 く り広 ひろ げたが、律儀 りちぎ な小村 こむら は最後 さいご まで合意 ごうい を守 まも って口 くち を閉 と ざした。
ポーツマス条約 じょうやく が結 むす ばれた深夜 しんや 、ホテル の一室 いっしつ から妙 みょう な泣 な き声 ごえ が聞 き こえてくるのを不審 ふしん に思 おも った警備 けいび 員 いん がその部屋 へや を訪 たず ねると、泣 な きじゃくっていたのは誰 だれ あろう小村 こむら 全権 ぜんけん その人 ひと だった。小村 こむら にとってこの条約 じょうやく に調印 ちょういん することはそれほど苦渋 くじゅう の決断 けつだん だったのである。予想 よそう 通 どお り、帰国 きこく した小村 こむら を待 ま ち構 かま えていたのは怒 いか り狂 くる う群衆 ぐんしゅう だった[ 127] 。家族 かぞく 全員 ぜんいん で帰国 きこく する小村 こむら を横浜 よこはま まで迎 むか えにいこうとすると、身 み の安全 あんぜん が保障 ほしょう できないとして、誰 だれ も迎 むか えに行 い かないでほしいと憲兵 けんぺい に言 い われ、小村 こむら を迎 むか えに行 い けなかった[ 104] [ 128] 。結局 けっきょく 、長男 ちょうなん の欣一 きんいち だけが横浜 よこはま に行 い くことを許 ゆる され、小型 こがた 船 せん に乗 の り込 こ み、船室 せんしつ の小村 こむら と対面 たいめん することができた。小村 こむら は、欣一 きんいち の顔 かお を見 み るなり「おお、無事 ぶじ だったか」と言 い ってつくづくと顔 かお をながめたという[ 127] [ 128] 。外相 がいしょう 官邸 かんてい が襲撃 しゅうげき され、小村 こむら の家族 かぞく は斬殺 ざんさつ されたという噂 うわさ が流 なが れたので、実際 じっさい に息子 むすこ の顔 かお をみてようやく安堵 あんど したのであった[ 128] 。新橋 しんばし 駅 えき では、「速 すみ やかに切腹 せっぷく せよ」「日本 にっぽん に帰 かえ るよりロシアに帰 かえ れ」などという散々 さんざん な罵声 ばせい を浴 あ びせられた小村 こむら を、出迎 でむか えた首相 しゅしょう の桂 かつら と海 うみ 相 しょう の山本 やまもと 権兵衛 ごんべえ は両 りょう 脇 わき を挟 はさ むようして歩 ある き、爆 ばく 弾 だん でも投 な げつけられたら共倒 ともだお れの覚悟 かくご で首相 しゅしょう 官邸 かんてい まで彼 かれ を護衛 ごえい している[ 127] 。その後 ご も小村 こむら 邸 てい への投石 とうせき などの騒乱 そうらん は収 おさ まらず、妻 つま のマチは精神 せいしん 的 てき に追 お い詰 つ められ、小村 こむら はしばらくの間 あいだ 家族 かぞく と別居 べっきょ することを余儀 よぎ なくされた[ 127] 。
小村 こむら の特徴 とくちょう としてはまず、アメリカ留学 りゅうがく で鍛 きた えた抜群 ばつぐん の語学 ごがく 力 りょく があげられる[ 121] 。外交 がいこう 官 かん となってからも仕事 しごと の合間 あいま に大量 たいりょう の洋書 ようしょ を読 よ みこなすなど、小村 こむら の外交 がいこう 政策 せいさく の基盤 きばん として高度 こうど な語学 ごがく 力 りょく に支 ささ えられた情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう 能力 のうりょく があったことは疑 うたが いない[ 121] 。
そして、小村 こむら は在外 ざいがい 公使 こうし ・領事 りょうじ が本国 ほんごく に送信 そうしん した電報 でんぽう を、実 じつ に丁寧 ていねい に、様々 さまざま な角度 かくど から自身 じしん で読 よ み、そのため、非常 ひじょう に時間 じかん はかかったものの内容 ないよう をよく覚 おぼ えており、それを基 もと にみずから判断 はんだん し、返電 へんでん や訓電 くんでん も必 かなら ず小村 こむら の意 い を受 う けたものであったという[ 121] 。小村 こむら はしばしば病気 びょうき を患 わずら ったが、職務 しょくむ にあって小村 こむら はその姿勢 しせい を貫 つらぬ いたのである[ 121] 。
小村 こむら がひじょうに秘密 ひみつ 主義 しゅぎ に徹 てっ していたことも特筆 とくひつ に値 あたい する[ 121] 。機密 きみつ を守 まも るのは、外交 がいこう 官 かん の資質 ししつ としてきわめて大切 たいせつ な要素 ようそ ではあるが、人 ひと との距離 きょり を遠 とお ざける原因 げんいん ともなっていた[ 110] 。また、小村 こむら はたいへんな社交 しゃこう 嫌 きら いでもあったため、駐米 ちゅうべい 公使 こうし 時代 じだい と駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし 時代 じだい は不人気 ふにんき な外交 がいこう 官 かん であり、同盟 どうめい 国 こく ・友好国 ゆうこうこく で人脈 じんみゃく を広 ひろ げることはできなかった[ 110] 。大使 たいし や公使 こうし としての勤務 きんむ が向 む いていなかったわけではないが、小村 こむら はむしろ乱世 らんせい で力 ちから を発揮 はっき するタイプであった[ 110] 。なお、小村 こむら はしばしばマスコミ嫌 ぎら いと思 おも われがちであるが、必 かなら ずしもそうではなく、利用 りよう できると踏 ふ んだときはおおいにメディアを活用 かつよう している[ 85] 。
さらに、小村 こむら の特徴 とくちょう としては、議会 ぎかい や政党 せいとう に対 たい する低 ひく い評価 ひょうか がある[ 121] 。この点 てん は陸奥 むつ 宗光 むねみつ や加藤 かとう 高明 こうめい とも異 こと なっており、超然 ちょうぜん 内 ない 閣 かく がかろうじて成立 せいりつ しえた明治 めいじ 時代 じだい 後半 こうはん であったからこそ小村 こむら は充分 じゅうぶん に力 ちから を発揮 はっき できたという側面 そくめん がある[ 121] 。小村 こむら は、一 いち 国 こく の外交 がいこう の権限 けんげん は外務 がいむ 大臣 だいじん と内閣 ないかく にあると考 かんが えていた[ 129] 。そのため、外交 がいこう 方針 ほうしん に伊藤 いとう 博文 ひろぶみ や山縣 やまがた 有朋 ありとも などの元老 げんろう が影響 えいきょう 力 りょく を及 およ ぼすことにも強 つよ く反対 はんたい した[ 129] 。藩閥 はんばつ 政府 せいふ にも反発 はんぱつ していたため、まずは桂 かつら 首相 しゅしょう の支持 しじ を取 と りつけ、時 とき に桂 かつら をリードしながら外政 がいせい での主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ることで元老 げんろう の関与 かんよ を限定 げんてい 的 てき なものにとどめた[ 129] 。
そのスタイルは、確 たし かに非 ひ 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき でエリート主義 しゅぎ 的 てき なものといえたが、一方 いっぽう では、外交 がいこう を政争 せいそう の具 ぐ にしないという長所 ちょうしょ があった[ 129] 。小村 こむら の外交 がいこう 政策 せいさく には一貫 いっかん 性 せい があり、遂行 すいこう にあたっても決 けっ してぶれなかったが、これは決 けっ して小村 こむら の個人 こじん 的 てき 性格 せいかく だけに帰 かえ せられるものではない[ 129] 。また、小村 こむら の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 嫌 ぎら いも、交渉 こうしょう 対象 たいしょう 国 こく の政治 せいじ 体制 たいせい いかんによってイデオロギー によって外国 がいこく を評価 ひょうか したり、政策 せいさく を決定 けってい したりという風潮 ふうちょう には無縁 むえん で、純粋 じゅんすい にパワー・ポリティクス の視点 してん から国際 こくさい 政治 せいじ を考 かんが え、そのなかでの国益 こくえき を最 さい 優先 ゆうせん に考 かんが えたため、柔軟 じゅうなん で現実 げんじつ 的 てき な外交 がいこう 政策 せいさく が採 と られるという利点 りてん があった[ 129] 。イギリス・アメリカ・ロシア・清国 きよくに ・朝鮮 ちょうせん (韓国 かんこく )といった重要 じゅうよう な国々 くにぐに での外交 がいこう 官 かん を歴任 れきにん し、海外 かいがい 経験 けいけん も豊富 ほうふ な割 わり には、特定 とくてい の国 くに への思 おも い入 い れが外交 がいこう 政策 せいさく に影響 えいきょう しなかった点 てん も小村 こむら の特徴 とくちょう で、どの国 くに とも適度 てきど な距離 きょり をとって公平 こうへい で冷静 れいせい な判断 はんだん を下 くだ している[ 129] 。
小村 こむら 寿太郎 じゅたろう の墓 はか
「若 わか (もし)、万一 まんいち にも余 よ に採 と るべきものがあるとしたならば、夫 おっと (そ)れは唯 ただ 「誠 まこと 」の一 いち 字 じ に尽 つく される」[ 1] 。これは、小村 こむら が1911年 ねん に青少年 せいしょうねん 向 む けに発表 はっぴょう した自叙伝 じじょでん 風 ふう 手記 しゅき 『誠 まこと の一 いち 字 じ 』の一 いち 節 せつ である[ 4] 。
外交 がいこう 官 かん 時代 じだい の小村 こむら は、外交 がいこう にたずさわる者 もの としての心得 こころえ を教示 きょうし してほしいという秘書官 ひしょかん の求 もと めに対 たい し、第 だい 一 いち に嘘 うそ 偽 いつわ りを口 くち にしないことだと述 の べた[ 4] 。外交 がいこう 官 かん は相手 あいて の信頼 しんらい を獲得 かくとく することが肝要 かんよう であり、そのためには正直 しょうじき であることが何 なに よりも大切 たいせつ だとの意味 いみ であった[ 4] 。ただし、時 とき には国家 こっか のために大 だい ぼらを吹 ふ かなくてはならないことは小村 こむら 自身 じしん も認 みと めていて、「普段 ふだん から嘘 うそ が多 おお い奴 やつ は、こんな時 じ にき目 きめ が無 な くなります」と付 つ け加 くわ えるのを忘 わす れなかった[ 4] 。
「誠 まこと 」の大切 たいせつ さを小村 こむら に伝授 でんじゅ したのは、祖母 そぼ の熊 くま だったといわれている[ 4] 。1906年 ねん 、小村 こむら が県立 けんりつ 宮崎 みやざき 中学校 ちゅうがっこう (現 げん ・宮崎 みやざき 県立 けんりつ 宮崎 みやざき 大宮 おおみや 高等 こうとう 学校 がっこう )で講演 こうえん をおこなう機会 きかい があったとき、ポーツマス会議 かいぎ の話 はなし などを期待 きたい した生徒 せいと を前 まえ にして、小村 こむら は「諸君 しょくん は正直 しょうじき であれ。正直 しょうじき ということは何 なに より大切 たいせつ である」とだけ述 の べて演壇 えんだん を降 お りた[ 4] 。この短 みじか すぎる講演 こうえん は雄弁 ゆうべん な語 かた りを期待 きたい した生徒 せいと には期待 きたい 外 はず れではあったが、一方 いっぽう では聴衆 ちょうしゅう に強烈 きょうれつ な印象 いんしょう をあたえ、「伝説 でんせつ の1分間 ふんかん 訓話 くんわ 」として語 かた り継 つ がれている[ 4] 。
位階 いかい
勲章 くんしょう
爵位 しゃくい
外国 がいこく 勲章 くんしょう 佩用 はいよう 允許 いんきょ
宮崎 みやざき 県 けん 日南 にちなん 市 し 飫肥 おび に小村 こむら の生 お い立 た ちや業績 ぎょうせき を紹介 しょうかい する「国際 こくさい 交流 こうりゅう センター小村 こむら 記念 きねん 館 かん 」がある[ 168] 。
^ 飫肥 おび 藩 はん は、現在 げんざい の宮崎 みやざき 県 けん 日南 にちなん 市 し のほぼ全域 ぜんいき と宮崎 みやざき 市 し 南部 なんぶ を藩 はん 域 いき とする江戸 えど 時代 じだい の藩 はん 。領主 りょうしゅ は外様 とざま 大名 だいみょう の伊東 いとう 氏 し 。石高 こくだか 5万 まん 1,000石 せき 。
^ 同 おな じく非 ひ 藩閥 はんばつ で外交 がいこう 畑 はたけ から政党 せいとう 政治 せいじ 家 か に進 すす んだ原 はら 敬 たかし より1歳 さい 年長 ねんちょう である[ 2] 。
^ 小倉 おぐら 処 しょ 平 たいら も明治 めいじ 3年 ねん 5月 がつ に大学 だいがく 別当 べっとう の松平 まつだいら 慶永 よしなが より大学南 だいがくみなみ 校 こう の少 しょう 舎 しゃ 長 ちょう に任命 にんめい されている[ 9] 。
^ 鳩山 はとやま はコロンビア大学 ころんびあだいがく 、菊池 きくち と斎藤 さいとう はボストン大学 だいがく に進 すす んだ。鳩山 はとやま はコロンビア大 だい 卒業 そつぎょう ののちイェール大学 だいがく に進 すす み、博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく した[ 10] 。
^ 陸奥 むつ 外相 がいしょう のもとで、外交 がいこう 官 かん 試験 しけん 制度 せいど 改革 かいかく が進 すす められ、実力 じつりょく 本位 ほんい の任用 にんよう がなされることになったが、翻訳 ほんやく 局長 きょくちょう の小村 こむら は、この改革 かいかく において栗野 くりの 慎一郎 しんいちろう 政務 せいむ 局長 きょくちょう とともに立案 りつあん 担当 たんとう の原 はら 敬 たかし 通商 つうしょう 局長 きょくちょう を支 ささ えた[ 18] 。
^ 日 にち 清 しん 講和 こうわ 条約 じょうやく に際 さい して、小村 こむら は講和 こうわ 条件 じょうけん として、沙 すな 市 し など開港 かいこう 場 じょう の増設 ぞうせつ 、北京 ぺきん ・天津 てんしん 間 あいだ の鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 権 けん 、汽船 きせん 航路 こうろ の拡張 かくちょう の3点 てん を骨子 こっし とする意見 いけん 書 しょ を提出 ていしゅつ した。鉄道 てつどう 敷設 ふせつ に関 かん する意見 いけん 以外 いがい の2つについては、小村 こむら の意見 いけん が反映 はんえい された[ 15] [ 31] 。
^ 小村 こむら 外務 がいむ 次官 じかん 在任 ざいにん 中 ちゅう の1897年 ねん 8月 がつ 24日 にち 、彼 かれ にとって大 だい 恩 おん ある陸奥 むつ 宗光 むねみつ が死去 しきょ している[ 30] [ 41] 。
^ ロシアは日本 にっぽん との関係 かんけい を修復 しゅうふく するため、2月 がつ 2日 にち 、中立 ちゅうりつ 地帯 ちたい 案 あん を削除 さくじょ し、日本 にっぽん が韓国 かんこく を軍事 ぐんじ 上 じょう の目的 もくてき に使用 しよう することを認 みと める妥協 だきょう 案 あん を決定 けってい したが、電文 でんぶん が2月 がつ 7日 にち だったため、開戦 かいせん に間 ま に合 あ わなかった[ 82] 。
^ 「伊藤 いとう 門下 もんか の四天王 してんのう 」のうちのあとの2人 ふたり は伊東 いとう 巳代治 みよじ と井上 いのうえ 毅 あつし である[ 85] 。
^ このことは、日本 にっぽん 国内 こくない でも条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご の10月 がつ に「小村 こむら の新聞 しんぶん 操縦 そうじゅう の失敗 しっぱい 」として『大阪 おおさか 朝日新聞 あさひしんぶん 』で批判 ひはん 記事 きじ が掲載 けいさい された[ 95] 。
^ 研究 けんきゅう 者 しゃ の千葉 ちば 功 いさお は、小村 こむら の書簡 しょかん は1通 つう しかみたことがなく、それも時候 じこう の挨拶 あいさつ といったまったく非 ひ 政治 せいじ 的 てき なものであったという。千葉 ちば は「小村 こむら 外交 がいこう 」の研究 けんきゅう はあっても、小村 こむら の伝記 でんき 的 てき 研究 けんきゅう がほとんどないのは小村 こむら が私 わたし 文書 ぶんしょ をまったく残 のこ さなかったからだとしている[ 121] 。
日本 にっぽん の爵位 しゃくい
先代 せんだい 陞爵
侯爵 こうしゃく 小村 こむら (壽太郎 じゅたろう )家 か 初代 しょだい 1911年 ねん
次代 じだい 小村 こむら 欣一 きんいち
先代 せんだい 陞爵
伯爵 はくしゃく 小村 こむら (壽太郎 じゅたろう )家 か 初代 しょだい 1907年 ねん - 1911年 ねん
次代 じだい 陞爵
先代 せんだい 叙爵 じょしゃく
男爵 だんしゃく 小村 こむら (壽太郎 じゅたろう )家 か 初代 しょだい 1902年 ねん - 1907年 ねん
次代 じだい 陞爵
外国 がいこく 事務 じむ 総裁 そうさい
外国 がいこく 事務 じむ 総督 そうとく 外国 がいこく 事務 じむ 局 きょく 督 とく 外国 がいこく 官 かん 知事 ちじ 外務 がいむ 卿 きょう 外務 がいむ 大臣 だいじん
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全権 ぜんけん 公使 こうし 全権 ぜんけん 大使 たいし 在外 ざいがい 事務所 じむしょ 長 ちょう 全権 ぜんけん 大使 たいし
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在 ざい ロシア帝国 ていこく 全権 ぜんけん 公使 こうし 在 ざい ロシア帝国 ていこく 全権 ぜんけん 大使 たいし
本野 ほんの 一郎 いちろう 1908-1916
内田 うちだ 康哉 こうさい 1916-1918
国交 こっこう 断絶 だんぜつ (ロマノフ朝 あさ の崩壊 ほうかい から日 にち ソ基本 きほん 条約 じょうやく 締結 ていけつ まで、日本 にっぽん は反 はん 革命 かくめい の白 しろ 系 けい ロシア人 じん 勢力 せいりょく を支援 しえん してソビエト連邦 れんぽう と対立 たいりつ )
在 ざい ソビエト連邦 れんぽう 全権 ぜんけん 大使 たいし 在 ざい ロシア連邦 れんぽう 全権 ぜんけん 大使 たいし
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在 ざい スウェーデン
日本 にっぽん 全権 ぜんけん 公使 こうし (1900
年 ねん )
全権 ぜんけん 公使 こうし (サンクトペテルブルク駐在 ちゅうざい )全権 ぜんけん 公使 こうし (ストックホルム駐在 ちゅうざい )在外 ざいがい 事務所 じむしょ 長 ちょう (ストックホルム駐在 ちゅうざい )全権 ぜんけん 公使 こうし (ストックホルム駐在 ちゅうざい )全権 ぜんけん 大使 たいし (ストックホルム駐在 ちゅうざい )
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代理 だいり 公使 こうし ・弁理 べんり 公使 こうし 特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 在外 ざいがい 事務所 じむしょ 長 ちょう 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし
a 外務 がいむ 少 しょう 輔・外務 がいむ 卿 きょう 代理 だいり を一時期 いちじき 兼 か ねる b 再任 さいにん c 遣 や アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし (在 ざい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし の野村 のむら に加 くわ えての大使 たいし ) d 1941年 ねん 12月の日米 にちべい 開戦 かいせん 後 ご に大使館 たいしかん が閉鎖 へいさ されたため実質 じっしつ 的 てき に失職 しっしょく 、両 りょう 名 な は翌年 よくねん 8月 がつ の抑留 よくりゅう 者 しゃ 交換 こうかん 船 せん で帰朝 きちょう
外務 がいむ 次官 じかん 外務 がいむ 総務 そうむ 長官 ちょうかん 外務 がいむ 次官 じかん 外務 がいむ 事務次官 じむじかん
在 ざい 朝鮮 ちょうせん 国 こく 全権 ぜんけん 公使 こうし 在 ざい 大韓 たいかん 帝国 ていこく 全権 ぜんけん 公使 こうし 在 ざい 大韓民国 だいかんみんこく 全権 ぜんけん 大使 たいし
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