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小村こむら壽太郎じゅたろう

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小村こむらこむら 寿ことぶき太郎たろうじゅたろう
小村こむら 壽太郞じゅたろう
生年月日せいねんがっぴ 1855ねん10月26にち
安政あんせい2ねん9月16にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん日向ひなたこく那珂なかぐん飫肥おび現在げんざい宮崎みやざきけん日南にちなん飫肥おび地区ちく
ぼつ年月日ねんがっぴ (1911-11-26) 1911ねん11月26にち(56さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん神奈川かながわけん三浦みうらぐん葉山はやままち一色いっしょく別荘べっそう
出身しゅっしんこう 大学南だいがくみなみこうげん東京大学とうきょうだいがく
ハーバード大学だいがくロー・スクール
ぜんしょく 外交がいこうかん
称号しょうごう したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
侯爵こうしゃく
配偶はいぐうしゃ 小村こむらマチ(町子まちこ
子女しじょ 小村こむら欣一きんいち長男ちょうなん
小村こむら捷治しょうじ次男じなん
佐分利さぶりフミ(文子ふみこ長女ちょうじょ
親族しんぞく 佐分利さぶり貞男さだおむすめ婿むこ

大日本帝国の旗 だい18・23だい 外務がいむ大臣だいじん
内閣ないかく だい2かつら内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1908ねん8がつ27にち - 1911ねん8がつ30にち
内閣ないかく だい1かつら内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1901ねん9月21にち - 1906ねん1がつ7にち

選挙せんきょ 侯爵こうしゃく議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1911ねん4がつ21にち - 1911ねん11月26にち
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小村こむら 寿太郎じゅたろう(こむら じゅたろう、きゅう字体じたい小村こむら 壽太郞じゅたろう1855ねん10月26にち安政あんせい2ねん9月16にち) - 1911ねん明治めいじ44ねん11月26にち)は、日本にっぽん外交がいこうかん政治せいじ外務がいむ大臣だいじん貴族きぞくいん議員ぎいん侯爵こうしゃく終身しゅうしん)などをつとめた。イギリスアメリカロシア清国きよくに朝鮮ちょうせん韓国かんこく)の公使こうし大使たいしつとめ、とくに2外相がいしょう時代じだいにはにちえい同盟どうめい締結ていけつにち戦争せんそうポーツマス条約じょうやく締結ていけつ条約じょうやく改正かいせい完成かんせい関税かんぜい自主権じしゅけん完全かんぜん回復かいふく治外法権ちがいほうけん陸奥むつ宗光むねみつ改正かいせい)などの業績ぎょうせきをのこし、近代きんだい日本にっぽん外交がいこう体現たいげんした人物じんぶつとしてられる[1]爵位しゃくい侯爵こうしゃく

生涯しょうがい

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小村こむら寿太郎じゅたろうは、安政あんせい2ねん1855ねん9月16にち日向ひなたこく飫肥おびはん藩士はんし小村こむらひろし寛平かんぺい)(1830 - 1900)とうめ梅子うめこ)(? - 1901)の長男ちょうなんとしてまれた[2][3][注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]祖父そふ小村こむら善四郎ぜんしろう山田やまだそうただししんみぎ衛門えもん)の小村こむら善徳ぜんとく婿養子むこようしとなり、ちちひろし小倉おぐらしょひらたつまため従兄弟いとこにあたり、飫肥おびはん産物さんぶつかたぞくし、まち別当べっとうしょくにあり、町人ちょうにんまちんでいた[4]。18せきりの下級かきゅう武士ぶしいえの7にん兄弟きょうだいだい二子ふたごとしてそだった[3][4]商家しょうかまれのははうめ寿太郎じゅたろうんだのち体調たいちょうをくずし、母乳ぼにゅうあたえることができなかったため、近所きんじょ女性じょせいからちちけてもらったことがあるという[3]小村こむら成人せいじんののちもほねほそ小柄こがらだったのはそのためだったともいわれるが、うめ健康けんこうもどしてからも日々ひびらしにわれていたため、どもの面倒めんどうることがなかなかできなかった[3]だい家族かぞくのなかで寿ことぶき太郎たろうきびしくやさしくそだてたのが、寿太郎じゅたろう祖母そぼ善四郎ぜんしろうつま)のくまであった[2][3]くま毎朝まいあさきると、寿太郎じゅたろうかならほんませた[3]。また、義経よしつね弁慶べんけい故事こじ豊臣とよとみ秀吉ひでよし逸話いつわ源平げんぺい合戦かっせんなどのはなしたくみに寿太郎じゅたろうかたってかせ、あわせて武士ぶしどうてき教訓きょうくんあたえるのがつねであった[3][4]

小村こむら寿太郎じゅたろう生誕せいたん

文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)、6さい寿太郎じゅたろうたいら嶠南などが師範しはんつとめた飫肥おびはん藩校はんこうとくどうまなぶようになった[3]くま毎朝まいあさ寿太郎じゅたろう朝食ちょうしょくをとらせたのちいて校門こうもんまで見送みおくった。そのため、たいていは開門かいもんまえ登校とうこうし、最初さいしょ素読そどく指南しなんけていたという[3]寿太郎じゅたろう寡黙かもくでうつむきがちにあるき、ほんばかりんでいるような生徒せいとだったが、たゆまぬ努力どりょくけんつよさにより成績せいせきつね優秀ゆうしゅうで、また、どもらしからぬ自制心じせいしんぬしとしてもられていた[5][6]。おとなしく少女しょうじょのようで、ときにいじめられることもあったが、剣術けんじゅつ稽古けいこでは、どんな大柄おおがら強敵きょうてきたいしてもおくせずなんかったといわれている[4][6]教師きょうし評判ひょうばんは、いつも元気げんき思慮しりょふかく、何事なにごとにもよくえる精神せいしんりょくがあるので、将来しょうらいかならずひとかどの人物じんぶつになるであろうというものであった[4]

いつけをかならまも素行そこうさと抜群ばつぐん学業がくぎょう成績せいせきにより、寿太郎じゅたろうは13さいからぶりとくどうひがしりょうはいった[5]規定きていでは14さい以上いじょうかぎられていたことなので異例いれいであった[5]。また、ちちひろしねが寿太郎じゅたろうとくどうしょういのちつとめた。はたいのちとは、校内こうないがい清掃せいそう校門こうもん開閉かいへいなどの雑用ざつよういちけるわりに学費がくひ免除めんじょされるというもので、生活せいかつきびしい小村こむら事情じじょうによるものだが、品行ひんこう方正ほうせい成績せいせき優秀ゆうしゅうものかぎられていた[5]寿太郎じゅたろう入学にゅうがく以来いらい8年間ねんかん欠席けっせきとおした[4]江戸えど安井やすい息軒そくけんまなんで飫肥おびはんした小倉おぐらしょたいらとくどうおしえ、寿太郎じゅたろう才能さいのうたか評価ひょうかしていた[4]

長崎ながさき留学りゅうがく時代じだい小村こむら寿太郎じゅたろう(15さい

明治めいじ初年しょねん小倉おぐら洋学ようがくまな必要ひつようはん上層じょうそういて長崎ながさき留学生りゅうがくせいおくることを決定けっていさせた[2][7]寿太郎じゅたろうはその留学りゅうがく候補こうほせいえらばれたが、一方いっぽうでは古典こてん学習がくしゅう継続けいぞくしたい気持きもちもつよかった[7]かれ長崎ながさききを熱心ねっしんすすめたのが小倉おぐらちちひろしであった[4][7]明治めいじ2ねん1869ねん)、寿太郎じゅたろう長崎ながさきおもむいた。そこではオランダじん宣教師せんきょうしグイド・フルベッキ佐賀さがはん設立せつりつ致遠かん英語えいご政治せいじがく経済けいざいがくなどの教鞭きょうべんをとっており、寿太郎じゅたろうはそこでまな予定よていであった[7]。しかし、フルベッキはすでにしん政府せいふもとめにおうじて、このとし創設そうせつされた東京とうきょう大学南だいがくみなみこうげん東京大学とうきょうだいがく)にうつっており、致遠かん廃校はいこうとなっていた[2][7]寿太郎じゅたろうは、「英語えいご独案内ひとりあんない」という学習がくしゅうしょ購入こうにゅうしてんだり、居留きょりゅう外国がいこくじんかたぱしから英語えいごはなしかけるなどして、すうげつあいだ英語えいご独習どくしゅうつとめた[7]

明治めいじ3ねん1870ねん)、副島そえじま種臣たねおみ推挙すいきょによって文部省もんぶしょうけんだいすすむしょくにあった小倉おぐらしょたいら大学南だいがくみなみこうみつぎしんせい制度せいどもとめて国家こっか有為ゆうい人材じんざい全国ぜんこくからあつめ、郷里きょうり愛弟子まなでしである小村こむらはんより推挙すいきょさせた[2][8]上京じょうきょうした小村こむら熱病ねつびょうにかかったものの、小倉こくら看病かんびょうもあって英語えいごまなび、欠員けついんしょうじたことから、同年どうねん、15さい大学南だいがくみなみこう入学にゅうがくした[8]。これは、大学南だいがくみなみこう一時いちじ閉鎖へいさのちあらためて入学にゅうがくするかたちとなったものである[9][注釈ちゅうしゃく 3]小村こむら大学南だいがくみなみこう、また、それが改組かいそされた開成かいせい学校がっこうでは法学部ほうがくぶすすみ、どの教科きょうかでも優秀ゆうしゅう成績せいせきおさめ、成績せいせきじゅんは2(1鳩山はとやま和夫かずお)であった[8]。このときの同級生どうきゅうせい杉浦すぎうら重剛しげたけこうたいら小五郎こごろうがいる[8]

アメリカ留学りゅうがく

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ハーバード留学りゅうがく時代じだい小村こむら寿太郎じゅたろう(22さい

小村こむらつづき、東京とうきょう開成かいせい学校がっこうまなんでいたが、国内こくないでの学習がくしゅうらず、有志ゆうしつのって海外かいがい留学りゅうがくできるよう文部省もんぶしょううったえた[2][10]。かれらの熱意ねつい政府せいふうごかすところとなり、1875ねん明治めいじ8ねん)、だい1かい文部省もんぶしょう海外かいがい留学生りゅうがくせいえらばれてハーバード大学だいがく留学りゅうがくした[10]。このとき開成かいせい学校がっこうから留学生りゅうがくせいえらばれたのは11めいで、うち法学部ほうがくぶは4めい鳩山はとやま小村こむら菊池きくち武夫たけお斎藤さいとう修一郎しゅういちろう)であった[2][10][11][注釈ちゅうしゃく 4]小村こむらまなんだハーバード・ロースクールには1ねん金子かねこ堅太郎けんたろう入学にゅうがくし、2人ふたり同宿どうしゅくした[10]小村こむらはここで驚異きょういてき記憶きおくりょく発揮はっきしており、った論文ろんぶんはすべて暗唱あんしょうしていたといわれている[4]

東洋とうようからの小柄こがら留学生りゅうがくせいであった小村こむらたいし、学生がくせいたちは敬意けいいをもってせっした[4]かれうと、いちいち帽子ぼうしをとって挨拶あいさつしてくれたという[4]成績せいせき優秀ゆうしゅうであったばかりでなく、普段ふだん行動こうどう誠実せいじつでごまかしがなく、法律ほうりつろんでも筋道すじみちとおった議論ぎろん展開てんかいしていたからであった[4]

小村こむらはハーバードを1877ねん卒業そつぎょうし、さらに1年間ねんかん専修せんしゅうすすんでまなんだのちは、アメリカで3年間ねんかんまなんできた法律ほうりつ社会しゃかいでいかに活用かつようされているかをまなぶため、ニューヨークにあったべいもと司法しほう長官ちょうかんエドワーズ・ピアポント法律ほうりつ事務所じむしょはいり、訴訟そしょう実務じつむ見習みならいとして勤務きんむした[2][4][10]小村こむらは、アメリカでの学問がくもん水準すいじゅんヨーロッパ大学だいがく比較ひかくしてかならずしもたかくないと判断はんだんし、大学院だいがくいんすすんでまなぶよりも実務じつむ経験けいけんむことをえらんだのである[10]1879ねんだい警視けいし川路かわじ利良としよし警察けいさつ制度せいど視察しさつのため訪米ほうべいしたさいには通訳つうやくつとめている[10]法律ほうりつ事務所じむしょはたらいた年数ねんすうふくめると、小村こむら米国べいこく滞在たいざいは5ねんにわたり、そこでつちかった英語えいごりょくはきわめてレベルのたかいものであった[10]。なお、このあいだ小村こむらであった小倉おぐらしょへい西南せいなん戦争せんそう壮絶そうぜつ最期さいごげている[12]

司法省しほうしょうから外務省がいむしょう

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青年せいねん時代じだい小村こむら寿太郎じゅたろう
杉浦すぎうら重剛しげたけ(ジャーナリスト・思想家しそうか教育きょういくしゃ
大学南だいがくみなみこう同級生どうきゅうせいであった杉浦すぎうら小村こむら生涯しょうがい親友しんゆうであった。

1880ねん明治めいじ13ねん11月18にち小村こむら帰国きこくし、12月6にち司法省しほうしょう入省にゅうしょうした[12]条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょうのために法典ほうてん整備せいびすすめていた日本にっぽん政府せいふ外国がいこく法律ほうりつつうじた人材じんざいもとめていたからであった[12]当初とうしょ配属はいぞくされた刑事けいじきょくでは、当時とうじ日本にっぽん法律ほうりつ条文じょうぶん漢文かんぶん調しらべのものだったため、しばらく漢語かんご漢字かんじからとおざかっていた小村こむらはこれに苦労くろうした[2][12]1881ねん10月には大坂おおさか控訴こうそ裁判所さいばんしょ判事はんじ異動いどう1882ねん9月には大審院だいしんいん判事はんじとなった[12]。このあいだ、1881ねん9がつにはきゅう幕臣ばくしん朝比奈あさひな孝一こういちむすめ、マチ(町子まちこ)(1865〜1937)と結婚けっこんし、家庭かていっている[13]法務ほうむかん時代じだい小村こむらはしかし、芝居しばいきで家事かじをしないつま次第しだいなかたがいするようになり、深酒ふかざけ芸妓げいぎあそひた放蕩ほうとう生活せいかつおぼれていき、友人ゆうじん先輩せんぱいたちを心配しんぱいさせた[11][12]

こうしたとき、井上いのうえかおる外務がいむきょうけた外務省がいむしょうおおやけしん局長きょくちょう浅田あさだ徳則とくのり大学だいがく予備よびもんちょうとなっていた杉浦すぎうら重剛しげたけたいし「だれ英語えいご堪能たんのう法律ほうりつくわしいものがいないか」とこえをかけた[11][14]杉浦すぎうら当初とうしょ教授きょうじゅ学生がくせい候補こうほかんがえていたというが、結局けっきょく東京とうきょう開成かいせい学校がっこうでともにまなんだ小村こむら推挙すいきょし、井上いのうえ秘書官ひしょかんだった斎藤さいとう修一郎しゅういちろうかれした[11][14]。こうして、友情ゆうじょうささえられた小村こむら1884ねん明治めいじ17ねん)6がつ外務省がいむしょううつった[2][15][16]。29さいであった。しかし、最初さいしょおおやけしんきょく勤務きんむであり、浅田あさだもとで、もっぱら在外ざいがい公館こうかんとのあいだでわされる電報でんぽう文書ぶんしょ翻訳ほんやくおもとする地味じみ仕事しごとであった[11][14]1885ねん5月、おおやけしんきょく政務せいむきょく通信つうしんきょくかれたとき、小村こむら翻訳ほんやくきょくうつった[14]。これについては、上司じょうし批判ひはんしたために翻訳ほんやくきょくうつされたともいわれている[4]1886ねん3月、小村こむら翻訳ほんやくきょく次長じちょう昇任しょうにん局長きょくちょう鳩山はとやま和夫かずおであった[17]鳩山はとやま1888ねん9月に辞職じしょくすると小村こむら翻訳ほんやく局長きょくちょう昇進しょうしんし、1893ねん10月のはいきょくまでの5年間ねんかんそのしょくにあった[17]

小村こむら司法省しほうしょうから外務省がいむしょうてんじたころちちひろし経営けいえいしていた飫肥おび商社しょうしゃ倒産とうさんし、小村こむら莫大ばくだい借金しゃっきんをかかえた[13]。1883ねん5がつ長男ちょうなん欣一きんいち1886ねん7がつ長女ちょうじょ文子ふみこ1895ねん5月には次男じなん捷治しょうじまれて家族かぞくえ、小村こむら恩人おんじんである小倉おぐらしょひらた遺児いじ2にん養育よういくはらっていたため、生活せいかついちじるしく困窮こんきゅうした[13]自宅じたくにも職場しょくばにも借金取しゃっきんとりがしかけ、いえにある家具かぐといえばうごかない柱時計はしらどけいのぞくと、長火鉢ながひばちが1つと座布団ざぶとんが2つだけであった[13]つね一張羅いっちょうらフロックコートをまとい、かさはささず、出勤しゅっきんにも電車でんしゃ人力車じんりきしゃけっして使つかわず、かなら徒歩とほ職場しょくばかったという[13]長男ちょうなん欣一きんいち栄養えいよう不足ふそくのため夜盲症やもうしょうかかっている[13]

外務省がいむしょう時代じだい小村こむら行動こうどうとして特筆とくひつすべきこととして、条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょう反対はんたい運動うんどうにひそかに参加さんかしていたことがげられる[15][17]具体ぐたいてきには、親友しんゆう杉浦すぎうら重剛しげたけらが条約じょうやく改正かいせい反対はんたいのために結成けっせいした乾坤けんこんしゃ同盟どうめいくわわっていた[15]1879ねんから外務がいむきょう1885ねんから外務がいむ大臣だいじんつとめた井上いのうえかおる領事りょうじ裁判さいばんけん撤廃てっぱい関税かんぜい自主権じしゅけん一部いちぶ回復かいふくのため、「鹿しかかん外交がいこう」のられる欧化おうか政策せいさく積極せっきょくてきすすめており、欧米おうべいにならった法典ほうてん整備せいびすること、裁判所さいばんしょ外国がいこくじん判事はんじ採用さいようすること、および内地ないち開放かいほう条件じょうけん交渉こうしょうすすめようとしていたが、これには政府せいふ内外ないがいからの批判ひはん反対はんたいがあった[17]小村こむら場合ばあいは、みずから外務省がいむしょう勤務きんむしながらの反対はんたいなので、その立場たちばはきわめて微妙びみょうなものであったが、井上いのうえ改正かいせいあんはあまりに妥協だきょうてきすぎて、小村こむらには屈辱くつじょくてきかんじられたのであった[15]。また、それにつづいて1888ねんから外相がいしょうとなった大隈おおくま重信しげのぶ従来じゅうらい列国れっこく会議かいぎ方式ほうしき単独たんどく交渉こうしょう方式ほうしきあらためたものの、大審院だいしんいん外国がいこくじん判事はんじみとめるなど井上いのうえ条約じょうやくあん一部いちぶ踏襲とうしゅうして交渉こうしょうすすめようとしたので、やはり反対はんたい運動うんどうこった[17]小村こむらは、これにも参加さんかしているが、それは政策せいさく実現じつげんせいだいいちかんがえるのではなく、それよりも国益こくえき国家こっかほこりを優先ゆうせんさせべきとかんがえてのことであった[17][注釈ちゅうしゃく 5]

1891ねん明治めいじ24ねん)5がつ大津おおつ事件じけんさいしても、青木あおき周蔵しゅうぞう外相がいしょうはじめ死刑しけいろん優勢ゆうせいななか、ロシアをおそれるあまり法律ほうりつげて津田つだ三蔵さんぞう死刑しけいにしてはならないと、一貫いっかんして死刑しけい反対はんたいろん立場たちばった[19][20]。また、このけんについて各国かっこく重要じゅうよう電信でんしん外務省がいむしょう回覧かいらんされたものについては、小村こむら逐一ちくいち自分じぶん批評ひひょう判断はんだんくわえて回読かいどくきょうしたといわれている[20]

なお、小村こむらはこのころ福本ふくもと一誠いっせい小沢おざわ豁郎白井しらい新太郎しんたろうの3めい発起人ほっきにんとなって1891ねん7がつ創立そうりつされたアジア主義しゅぎ団体だんたい東邦とうほう協会きょうかいにも賛同さんどうしゃ一人ひとりとしてつらねている。

外交がいこうかんとして

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ちゅうきよし代理だいり公使こうし

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小村こむら見出みいだし、ちゅうきよし代理だいり公使こうし起用きようした陸奥むつ宗光むねみつ外相がいしょう
元勲げんくん総出そうで」といわれる内閣ないかくにあって藩閥はんばつとは無縁むえんであった。
「ねずみ公使こうし」の異名いみょうをとった小村こむら寿太郎じゅたろう

翻訳ほんやくきょく廃止はいしにより、小村こむら通常つうじょうならば退官たいかんというコースをたどるところであったが、「元勲げんくん総出そうで内閣ないかくばれただい2伊藤いとう内閣ないかく外務がいむ大臣だいじん陸奥むつ宗光むねみつ見出みいだされて、1893ねん11月、清国きよくに公使館こうしかん参事官さんじかんとして北京ぺきん着任ちゃくにんした[15][18][20][21]。これが、小村こむらにとって外交がいこう初舞台はつぶたい


であった[4]はらたかしほしとおるといった異才いさい見出みいだして登用とうようする独特どくとく眼力がんりきをもっていた陸奥みちのくには、はら加藤かとう高明こうめいはやしただしの「三羽さんばガラス」とばれる側近そっきんがいた[20][22]陸奥みちのく小村こむらのことをいつったのかはさだかではないが、ある宴席えんせき小村こむら原綿げんめん生産せいさんがく貿易ぼうえき状況じょうきょう綿花めんか種類しゅるいいたるまで事細ことこまかにろんじていたのを、陸奥みちのく感心かんしんしていたことがあったという[19][20]小村こむらは、借財しゃくざい返済へんさいのために翻訳ほんやく内職ないしょくをしていて様々さまざま書籍しょせき文章ぶんしょう翻訳ほんやくして原稿げんこうりょうていたが、これによりあらゆる知識ちしきもともにていたのである[19]。ただし、体格たいかく小柄こがらなりも貧相ひんそう毒舌どくぜつ周囲しゅういからわりものばわりされてきた小村こむら外交がいこうかんとなるのを反対はんたいするこえおおかった[20]

陸奥みちのく小村こむらたいし、アメリカどおり小村こむらにとって清国きよくにきは不本意ふほんいではないかとたずねたが、小村こむらよろこんで北京ぺきん在勤ざいきんもうけるむね返答へんとうしている[20][21]小村こむら北京ぺきん到着とうちゃく、すぐにちゅうきよし臨時りんじ代理だいり公使こうし昇進しょうしんした[20][21]。いくらかは清国きよくに事情じじょうっていたつもりの小村こむらであったが、その北京ぺきんでは慮外りょがいのことばかりでわずかにあった自信じしん喪失そうしつしていた[23]小村こむらは、日本語にほんご文献ぶんけんのみならず、清国きよくにについてかれた英語えいご文献ぶんけん可能かのうかぎせ、外国がいこく公使こうしとも積極せっきょくてき交際こうさいして情報じょうほう収集しゅうしゅう奔走ほんそうした[23]。あらゆる方面ほうめんかおし、えずうごまわ小柄こがら小村こむらを、欧米おうべい外交がいこうかんたちは "rat minister"(ねずみ公使こうし)とんだ[23][24]

1894ねん2がつ朝鮮ちょうせん王国おうこくこったひがしがくとうらんへの対応たいおう小村こむらはつ仕事しごととなった[25]折衝せっしょうにあたった小村こむら報告ほうこく正確せいかく無比むひなものだったといわれている[24]寸暇すんかしんで大量たいりょう洋書ようしょみ、清国きよくに国内こくない視察しさつもおこなった小村こむらした結論けつろんは「ねむれる獅子しし」としょうされる清国きよくにかならずしも獅子ししではなく、清国きよくにぐん日本にっぽんぐん相手あいてではないというものであった[23][24]6月7にち清国きよくに政府せいふ朝鮮ちょうせん政府せいふ要請ようせいにより朝鮮ちょうせん国内こくない派兵はへいすることを日本にっぽんがわ通告つうこくした[24][25]小村こむらは、陸奥みちのく指示しじにより日本にっぽん政府せいふ派兵はへいすると通知つうちしたが、清国きよくには、朝鮮ちょうせんきよし属国ぞっこくだから派兵はへいするのであり、日本にっぽん派兵はへいとはまったく性質せいしつことなるものであると主張しゅちょうし、また、国民こくみん保護ほご目的もくてきのための派兵はへいならば極力きょくりょくしょう人数にんずうにすべきだととなえた[24][25]。これにたいして、小村こむらにちちょう修好しゅうこう条規じょうき天津てんしん条約じょうやく規定きていし、日本にっぽん朝鮮ちょうせん他国たこく属国ぞっこくであったことをみとめたことはなく、出兵しゅっぺい相互そうごめによるものであり、また、派兵はへい規模きぼ主権しゅけん国家こっか専権せんけん事項じこうであって他国たこく指示しじけるものではないと反論はんろんしている[24][25]にちしん関係かんけい極度きょくど悪化あっかたいし、ロシア帝国ていこくイギリス調停ちょうていもうたが、これについても仔細しさい陸奥みちのく報告ほうこくした[25]。なお、このとし7がつ16にちロンドンにちえい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく調印ちょういんされ、5ねん領事りょうじ裁判さいばんけん撤廃てっぱい決定けっていしている[26]

小村こむら清国きよくにたいして陸奥みちのく開戦かいせん方針ほうしん忠実ちゅうじつまもって行動こうどうし、朝鮮半島ちょうせんはんとうでのにちしん対立たいりつにおいてはあくまでも自国じこく正当せいとうせい主張しゅちょうした[15][27]小村こむら各国かっこく公使こうしまえでは日本にっぽんがあたかも戦争せんそうのぞんでいないようにい、平時へいじわらず、泰然たいぜんとしていた[24][27]。また、あくまでも清国きよくにがわがあるように、清国きよくにぐん撤退てったい要求ようきゅうし、にちしん協同きょうどうして朝鮮ちょうせん内政ないせい改革かいかくすすめるようびかけた[24][27]戦闘せんとうはじまると、7がつ31にちには国交こっこう断絶だんぜつ清国きよくにつたえ、よく8がつ1にちにははやくも北京ぺきん公使館こうしかんはらった[24][26]。これは、小村こむら独断どくだんによるもので、自身じしん処罰しょばつ覚悟かくごしての剛胆ごうたん行為こういであった[24][28]。しかし、偶然ぐうぜんながら、おな陸奥みちのく宣戦せんせん布告ふこくはっし、小村こむら行為こうい不問ふもんした[24]

にちしん戦争せんそうちゅうは、だい一軍いちぐん民政みんせい長官ちょうかんとして現地げんちもりきょうしょう安東あんどうけん)に派遣はけんされた[15][24]小村こむら日本にっぽんぐん占領せんりょう地域ちいき民心みんしん安定あんていさせるためにった施策しさくも、にかなったものであり、だい一軍いちぐん司令しれいかん山縣やまがた有朋ありともなどからたか評価ひょうかけ、だい3師団しだんちょうかつら太郎たろうとも意気投合いきとうごうした[15][29][30]

戦後せんご外務省がいむしょう政務せいむ局長きょくちょうとして、にちしん講和こうわ交渉こうしょうにおいて伊藤いとう博文ひろぶみ陸奥むつ宗光むねみつりょう全権ぜんけん補佐ほさしたが、下関しものせき条約じょうやく調印ちょういん直後ちょくごちょうチフスかかって入院にゅういんした[31][注釈ちゅうしゃく 6]。1かげつには退院たいいんしたものの、ほおはこけ、周囲しゅういはくぼんで容貌ようぼう以前いぜんとはすっかりわってしまったという[32]

ちゅうあさ公使こうしから外務がいむ次官じかん

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にちしん戦争せんそう勝利しょうりし、朝鮮ちょうせんでは親日しんにちきむひろししゅう内閣ないかく成立せいりつしたものの、1895ねん10がつ、この政権せいけん誕生たんじょうするにあたって閔妃びんび殺害さつがいされるおつ事変じへんこったため、日本にっぽん朝鮮ちょうせんでの立場たちばあやうくなった[33]日本にっぽん政府せいふは、これが国際こくさい問題もんだい発展はってんすることをおそれ、事件じけん調査ちょうさのために小村こむら朝鮮ちょうせん派遣はけんした[15][33]政府せいふちゅうあさ公使こうし三浦みうら梧楼ごろう解任かいにんし、日本にっぽん召喚しょうかんして逮捕たいほし、わりに政務せいむ局長きょくちょう小村こむらちゅうあさ弁理べんり公使こうしにんじた[15][30][33][34]小村こむらは、三浦みうららにたいしてじつ内心ないしんでは同情どうじょうてきだったというが、関与かんようたがわれるもの国外こくがい退去たいきょにするなど事態じたい収拾しゅうしゅうのために奔走ほんそうした[33][34]。なお、にちしん戦争せんそうまえ小村こむら肩書かたがき臨時りんじ代理だいり公使こうしだったので、正式せいしき公使こうしとしてははじめての赴任ふにんであった[34]。しかし、閔妃びんび殺害さつがい事件じけんによって朝鮮半島ちょうせんはんとうでは反日はんにちいきおいがつよまりし、義兵ぎへい闘争とうそう激化げきかしていた[34]。また、国王こくおうこうはじめそのひともまた強固きょうこ反日はんにち主義しゅぎしゃであって、小村こむらもその対策たいさく難渋なんじゅうした[33]

小村こむらは、11月下旬げじゅんしん親米しんべいによるクーデター事件じけん未然みぜんふせいだ(春生はるおもん事件じけん[34]。しかし、1896ねん2がつこった「かん播遷にわかかん播遷)」は、国王こくおうがロシア公使館こうしかんにうつり、そこで政務せいむるという異常いじょう事態じたいであり、小村こむらにとっては痛恨つうこんきわみであった[15][30][35]。それまできむひろししゅう内閣ないかくささえることに全力ぜんりょくそそいできた小村こむらであったが、きむひろししゅう自身じしん日本にっぽんへの亡命ぼうめいをあえてこばんだところから、民衆みんしゅうによって斬殺ざんさつされてしまった[34][35]。そして、しん反日はんにち内閣ないかく誕生たんじょうして、朝鮮半島ちょうせんはんとうにおける利権りけんおおくはロシアなどにわたってしまったのである[35]かん播遷にかんしては、ロシアにかれた責任せきにん小村こむらにあるとしてかれ批判ひはんするこえがり、暗殺あんさつするとおどしたものさえいたという[35]小村こむらは、失地しっち回復かいふくのためにうごき、ロシアと交渉こうしょうしてこうむね遷宮せんぐうする道筋みちすじをつけたうえで、1896ねん5がつざい朝鮮ちょうせんロシア総領事そうりょうじカール・ウェーバーとのあいだで小村こむら・ウェーバー協定きょうていむすんだ[15][36]国王こくおう王宮おうきゅう帰還きかんにち両国りょうこく忠告ちゅうこくするともに、朝鮮ちょうせんたいして日本にっぽん権利けんりをロシアが権利けんり同等どうとうのものとすることを相互そうごみと内容ないようであった[15]

小村こむらちゅうあさ公使こうしだったのは、わずか半年はんとしあまりのことであったが、そのあいだ経験けいけん強烈きょうれつであり、そのかれ外交がいこう政策せいさく外交がいこう姿勢しせいにあたえた影響えいきょうはきわめておおきかった[36]。なお、この1かげつにはニコライ2せい戴冠たいかんしきのためにサンクトペテルブルクおとずれた山縣やまがた有朋ありともアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー外相がいしょうとのあいだ協定きょうていむすんでいる(山縣やまがた・ロバノフ協定きょうてい[37]

ちゅう公使こうし外相がいしょうちゅうきよし公使こうし歴任れきにんした西にしいさお二郎じろう
1899ねん時点じてんにち戦争せんそうとそのにち協商きょうしょう正確せいかく予言よげんするたか見識けんしきをもっていた[38]

1896ねん6がつ11にち小村こむら日本にっぽんもどされて、はらたかしわって外務がいむ次官じかん着任ちゃくにんし、以降いこう西園寺さいおんじ公望きんもち大隈おおくま重信しげのぶ西にしいさお二郎じろう3にん外相がいしょうした外務がいむ次官じかんつとめることになる[15][30][39]陸奥むつ宗光むねみつ療養りょうよう専念せんねんするために5月30にち外相がいしょう辞職じしょくし、だい2伊藤いとう内閣ないかく文部もんぶ大臣だいじんだった西園寺さいおんじ公望きんもち兼務けんむして陸奥みちのく後任こうにん外相がいしょうとなっていた[39]かん播遷をゆるしてしまったことは、小村こむらとしてはだい失態しったいのはずであったが、陸奥みちのくはこれをめることなく、むしろその能力のうりょくたか評価ひょうかし、その外相がいしょう辞任じにん直前ちょくぜん小村こむら次官じかん抜擢ばってきしたのである[30]。その、このとしの9がつだい2松方まつかた内閣ないかく成立せいりつし、1897ねん11月6にちまでは大隈おおくま、その西にし外相がいしょうつとめ、西にしだい3伊藤いとう内閣ないかくでも留任りゅうにんした[39]西にしとくろうは、サンクトペテルブルク大学さんくとぺてるぶるくだいがくまなび、ロシア公使こうしを10ねんつとめた当代とうだいきってのロシアどおりであり、にち関係かんけいむずかしい時期じきむかえていたこの時期じき小村こむらからすれば、西にししたはたらくのは心強こころづよかっただろうとかんがえられる[39]

結果けっかてき小村こむら外務がいむ次官じかんを2ねん3かげつつとめた[39]。この時期じき小村こむらは、韓国かんこく問題もんだい列国れっこくたいしん活動かつどうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくハワイ併合へいごうなどにかんするしょ対策たいさくにあたった[20]とくちかられたのは、大韓たいかん帝国ていこくでの鉄道てつどう敷設ふせつけん獲得かくとくであった[40][注釈ちゅうしゃく 7]1898ねん4がつ25にち西にし外務がいむ大臣だいじんちゅうにち公使こうしロマン・ローゼンとのあいだで西にし・ローゼン協定きょうていむすばれたが、その内容ないようには、日本にっぽん韓国かんこくへの経済けいざい進出しんしゅつ帝政ていせいロシアにみとめさせる条文じょうぶんふくまれており、これには小村こむら進言しんげん影響えいきょうもうかがわれる[42]

駐米ちゅうべい公使こうしちゅう公使こうし時代じだい

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1898ねん明治めいじ31ねん9月13にち駐米ちゅうべい公使こうし任命にんめいされた小村こむらは、10月22にち日本にっぽん出発しゅっぱつし、11月9にちサンフランシスコ到着とうちゃくし、ワシントンD.C.着任ちゃくにんしたのは11月20にちのことであった[43]小村こむらにとっては18ねんぶりのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくである[43]当時とうじ日米にちべいあいだにはおおきな懸案けんあんはなく、小村こむら外交がいこうかん生活せいかつのなかでは比較的ひかくてき平穏へいおん時期じきであったといえる[43]。ニューヨークに出向でむいたり、旅行りょこうしたりする余裕よゆうもあったが、小村こむら熱心ねっしんんだのはフランス語ふらんすご学習がくしゅうであり、とりわけ読書どくしょ没頭ぼっとうした[43]歴史れきししょしたしみ、なかでもアメリカにかかわる書籍しょせき大量たいりょうんだ[43]。しかし、基本きほんてき社交しゃこうこのまない小村こむら人脈じんみゃく積極せっきょくてきひろげるということはしなかった[43]

1900ねん明治めいじ33ねん2がつ23にち小村こむらはロシア勤務きんむめいぜられ、4がつ12にちはなれまいして、途中とちゅうロンドンり、ロシアに到着とうちゃくした5月24にちちゅう公使こうし就任しゅうにんした[44]。ここでも小村こむらロシア学習がくしゅうつとめるが、しかし、駐米ちゅうべい公使こうし時代じだいとはことなり、きよしでは1898ねん山東さんとうしょうはじまった義和よしかずだん活動かつどう華北かほく一帯いったいへと波及はきゅうするなど、危機ききてき状況じょうきょうがいっそう深刻しんこくさをしていた[44]。1900ねん6がつ10日とおか、20まんにんふくれあがった義和よしかずだん勢力せいりょく北京ぺきん入城にゅうじょう、6がつ日本にっぽん公使館こうしかん書記官しょきかん杉山すぎやまあきらちゅうしんドイツ公使こうしクレメンス・フォン・ケーテラー英語えいごばん北京ぺきん路上ろじょう殺害さつがいされ、義和よしかずだん公使館こうしかん地域ちいき占領せんりょうした[45][46]。こうした状況じょうきょうをみて、6月21にち西にしふとしきさき中心ちゅうしんとする清国きよくに政府せいふ連合れんごうぐんたい宣戦せんせん布告ふこくし、戦争せんそう発展はってんした[30][47]小村こむらは、日本にっぽん列国れっこく共同きょうどう行動こうどうをとり、突出とっしゅつしないことを保持ほじしながらも救援きゅうえん部隊ぶたい即刻そっこく派遣はけんするよう本国ほんごく通告つうこくし、ロシアとドイツの日本にっぽん出兵しゅっぺい反対はんたいろんふうじた[30]清朝せいちょう宣戦せんせん布告ふこくによって北京ぺきん籠城ろうじょうせんはじまり、イギリスからの再三さいさん出兵しゅっぺい要請ようせいこたえてやま縣内けんないかく清国きよくにぐん派遣はけんした[46]ちゅうきよし公使こうしてんじていた西にし徳二とくじろう福島ふくしま安正やすまさひきいる救援きゅうえんぐんるまで、公使館こうしかん日本人にっぽんじん居留きょりゅうしゃをかくまい、しば五郎ごろうらと協力きょうりょくしててき襲撃しゅうげきからまもり、救援きゅうえんぐん到着とうちゃくみずか陣頭じんとう指揮しきにもあたったという。籠城ろうじょうせん8がつ14にちまでつづいた[47]

駐韓ちゅうかん公使こうしとして韓国かんこく併合へいごうへの道筋みちすじをつけたはやし権助ごんすけ

義和よしかずだんらんは1900ねん6がつ以降いこう北京ぺきんをこえてまんしゅう方面ほうめんにも拡大かくだいし、ロシアが1896ねんしん密約みつやく敷設ふせつけんあずまきよし鉄道てつどうへの攻撃こうげきもなされ、いま建設けんせつ途上とじょうみなみ支線しせん(のちのみなみまんしゅう鉄道てつどう)も被害ひがいけた[48][49][50]。ロシアはこれに即座そくざ反応はんのうし、皇帝こうていニコライ2せい進軍しんぐん命令めいれい鉄道てつどうまもるため、15まんえる兵士へいし派遣はけんされた[48][50]。ロシアは7がつ3にち黒竜江こくりゅうこうのぞむロシアりょうブラゴヴェシチェンスクにおける軽微けいび発砲はっぽう事件じけん口実こうじつ戦闘せんとう開始かいしした[51]。ロシアぐんは8がつ3にちハルビン、8がつ27にちチチハル、9月28にちりょう、10月2にち奉天ほうてん次々つぎつぎ占領せんりょうし、やく2かげつあいだまんしゅう全土ぜんどよう制圧せいあつした[48][49]。ロシアのまんしゅう占領せんりょうたいし、ちゅう公使こうし小村こむら駐韓ちゅうかん公使こうしはやし権助ごんすけらは、韓国かんこく問題もんだいのみをロシアと交渉こうしょうしてきた従来じゅうらい方針ほうしん転換てんかんし、まんしゅう問題もんだい韓国かんこく問題もんだい不可分ふかぶんのものとして把握はあくしたうえで、相互そうごまんしゅう韓国かんこく完全かんぜん確保かくほみとう「まんかん交換こうかん」という方針ほうしん採用さいようかんがえるようになった[52]

7がつ19にち駐韓ちゅうかんロシア公使こうしアレクサンドル・イワノヴィッチ・パヴロフロシアばんが、日本にっぽんはやし駐韓ちゅうかん公使こうしたいし、韓国かんこく義和よしかずだん事件じけんのような騒擾そうじょう発生はっせいした場合ばあいそなえて、にち両国りょうこくによる勢力せいりょく範囲はんい画定かくていと、勢力せいりょく範囲はんいないでの秩序ちつじょ保全ほぜんについてたがいに責任せきにんつという内容ないよう協定きょうてい提案ていあんした[53]ちゅうにちロシア公使こうしアレクサンドル・イズヴォリスキー青木あおき周蔵しゅうぞう外務がいむ大臣だいじん同様どうよう提案ていあんをおこなったが、伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえかおるもこの提案ていあんたいしては好意こういてきであった[53]小村こむらは、この提案ていあんには反対はんたいであり、ロシアのまんしゅう占領せんりょう西にし・ローゼン協定きょうていみとめられた日本にっぽん韓国かんこくにおけるしょう工業こうぎょう優越ゆうえつおびやかすものとかんがえ、7がつ22にちまんかん交換こうかんろんもとづく意見いけんしょ提出ていしゅつし、青木あおき外相がいしょう賛意さんい[15][53]首相しゅしょう山縣やまがた有朋ありともは、ロシアのまんしゅう占領せんりょう既成きせい事実じじつしつつある状況じょうきょうでは小村こむら意見いけんはロシアのけるところにはならないだろうとの見通みとおしをて、どちらの意見いけんしりぞけた[53]。10月2にちセルゲイ・ウィッテ蔵相ぞうしょう会談かいだんした小村こむらは、みずからのまんしゅう韓国かんこく勢力せいりょく範囲はんい分割ぶんかつあん提起ていきしたが、ウィッテは韓国かんこく独立どくりつ維持いじおびやかすような合意ごういはできないとして、これに反対はんたいした[53]同日どうじつ奉天ほうてん占領せんりょうしたロシアにとっては、いまさら日本にっぽん保証ほしょうけるまでもなかったのである[53]

ちゅうきよし公使こうしとして

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1900ねん10月23にち小村こむらちゅうきよし公使こうしへの転任てんにんめいじられた[54]清国きよくに列強れっきょう講和こうわ交渉こうしょうは、10月15にちにははじめられていたが、混乱こんらん収拾しゅうしゅうにはほどとお状況じょうきょうであった[47][54]日本にっぽん陸軍りくぐんでは、西にし徳二とくじろう公使こうし列強れっきょうたい協調きょうちょうてきすぎてたよりにならないとの不平ふへいたかまっており、西にし自身じしんやく2かげつつづいた籠城ろうじょう体調たいちょうくずしていた[54]。そこで、かつて代理だいり公使こうしとしてにちしん開戦かいせんにあたって交渉こうしょうし、民政みんせいちょう長官ちょうかん経験けいけんもあり、しのつよさを期待きたいできる小村こむら白羽しらはったのである[54]小村こむら11月8にちにロシアをはなれ、ロンドン、ニューヨーク、バンクーバー12月19にち帰国きこくし、このをもってちゅうきよし公使こうし就任しゅうにんし、12月27にち日本にっぽん出発しゅっぱつして1901ねん1がつ6にち北京ぺきん着任ちゃくにんした[54]

これに前後ぜんごしてちゅうにちロシア公使こうしのイズヴォリスキーが1900ねん12がつ20日はつかと1901ねん1がつ7にちの2にわたって加藤かとう高明こうめい外相がいしょう会談かいだんし、日本にっぽんたいし、韓国かんこく中立ちゅうりつ提案ていあんもうれてきた[55]。これは、井上いのうえかおるがそれを支持しじしているとの情報じょうほうをつかんでいたからであったが、もっと強固きょうこ反対はんたいしたのが小村こむらであり、北京ぺきん着任ちゃくにん直後ちょくご1がつ11にち意見いけんしょおくっている[15][55]。その理由りゆうは、韓国かんこくにおける日本にっぽん地位ちいまんしゅうにおけるロシアの行動こうどう多少たしょうなりとも抑制よくせいしており、なおかつ、すでに日本にっぽん韓国かんこくにおいて政治せいじてきにもしょう工業こうぎょうめんでも最大さいだい利益りえき保持ほじしようと決意けついし、共通きょうつう認識にんしきとなっているのに、これを放棄ほうきする理由りゆうはなく、放棄ほうきすれば日本にっぽん威信いしんにかかわるというものであった[55]小村こむら意見いけんまんかん同時どうじ中立ちゅうりつないしまんかん交換こうかんであり、まんしゅう問題もんだい韓国かんこく問題もんだいはあくまでも連関れんかんさせて解決かいけつはかるべきというものであった[15]加藤かとう外相がいしょう自身じしん韓国かんこくのみの中立ちゅうりつ提案ていあんには反対はんたいだったので、1がつ17にち西にし・ローゼン協定きょうてい理由りゆうに、イズヴォリスキーの提案ていあん公式こうしき拒否きょひした[55]

小村こむらは、ちゅうきよし公使こうし赴任ふにん当初とうしょより義和よしかずだん事件じけん講和こうわ会議かいぎ全権ぜんけんとして事後じご処理しょりにあたった[30][54]。ただし、和平わへい交渉こうしょうそのものは1900ねん12月30にちにはすで大枠おおわくさだまり、一定いってい妥結だけつをみていた[49][56]。10かこく以上いじょうかかわる国際こくさい会議かいぎ清国きよくにとの個別こべつ交渉こうしょう不可能ふかのう判断はんだんしたふつ両国りょうこく見解けんかい日本にっぽん賛成さんせいし、清国きよくにもまた合同ごうどう協定きょうてい内容ないよう同意どういしていたからであった[56]。とはいえ、処罰しょばつ程度ていど賠償金ばいしょうきんがくなど議論ぎろんしなければならない議題ぎだい多岐たきにわたり、諸国しょこく利害りがい関係かんけい多様たよう複雑ふくざつからっていたため、会議かいぎ長期ちょうきした[56]。1901ねん3がつ小村こむらえいふつどく公使こうしとともに清国きよくに財源ざいげん調査ちょうさのための委員いいんかい委員いいんとなり、清国きよくに関税かんぜい収入しゅうにゅう詳細しょうさい調査ちょうさして緻密ちみつ覚書おぼえがき提出ていしゅつし、賠償ばいしょうがく交渉こうしょう進展しんてん寄与きよした[56]。さらに小村こむらはアメリカのウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒルちゅうきよし公使こうしとともに清国きよくに外交がいこう改革かいかく尽力じんりょくした[56]。ここでの小村こむらちゅうきよし公使こうし活躍かつやくはめざましく、「日本にっぽん外交がいこう小村こむらあり」のこえ世界せかいでもささやかれるようになった[30]

きたきよし事変じへん最終さいしゅう議定ぎていしょ調印ちょういんしき
ひだりから2番目ばんめ小村こむら寿太郎じゅたろうみぎから2番目ばんめ鴻章こうしう

一方いっぽう、ロシアのまんしゅう占領せんりょうという事態じたいについては、しん両国りょうこくまんしゅう現地げんちぐん相互そうご密約みつやくがあり、ほん調印ちょういんはなされなかったものの清国きよくに主権しゅけんはおおいにそこなわれたままであった[51]小村こむら加藤かとう外相がいしょう逐一ちくいち清国きよくに情報じょうほう提供ていきょうしたほか、3月には鴻章こうしう会談かいだんして密約みつやくには日本にっぽん断固だんことして反対はんたいであると圧力あつりょくをかけた[51][56]加藤かとう外相がいしょうもイギリス・ドイツの両国りょうこく協力きょうりょく要請ようせいし、その賛意さんいたうえで、1901ねん3がつ20日はつかちゅうにちしんこく公使こうしもりまねいて会談かいだんひらき、にちえいどく意向いこうつたえてロシアがわ要求ようきゅう拒絶きょぜつするよう勧告かんこくし、ロシアにたいしても、珍田ちんだ捨巳すてみちゅう公使こうしでんくんし、ロシアのたいしん要求ようきゅうまんしゅう保有ほゆうするロシアの権利けんり防衛ぼうえい必要ひつよう限度げんどえたものであり、列国れっこく代表だいひょうしゃ会議かいぎ提案ていあんして協定きょうていすべき問題もんだいであると通告つうこくした[51]。ところがロシアは、4がつ5にちづけ官報かんぽうにおいてしん交渉こうしょうりを宣言せんげんし、どう内容ないよう通牒つうちょう関係かんけい各国かっこくしめした[51]加藤かとう外相がいしょうは4がつ16にち公使こうしあて書簡しょかん小村こむら尽力じんりょくについて感謝かんしゃし、そのろうあつくねぎらったが、ロシアのまんしゅう撤兵てっぺい問題もんだいちゅういたままとなった[51]小村こむら講和こうわ会議かいぎ席上せきじょうでもロシア全権ぜんけんウラジーミル・ラムスドルフ外相がいしょうまんしゅう撤兵てっぺいつよ要求ようきゅうしている[56]

1901ねん9月7にち清国きよくにおよび11かこくとのあいだでようやく北京ぺきん議定ぎていしょからしうし条約じょうやく)が調印ちょういんされ、義和よしかずだん戦争せんそう戦後せんご処理しょりほん議定ぎていしょによってなされることとなった[46][49][57][58][59]小村こむらにとっては、まんしゅう占領せんりょう問題もんだいこそ解決かいけつできなかったものの、賠償金ばいしょうきんられ、北京ぺきん駐在ちゅうざいする国民こくみん生命せいめい財産ざいさんまもるための駐兵ちゅうへいけんみとめられたことは、とりあえず満足まんぞくすべき結果けっかだったろうとかんがえられる[57]。なお、議定ぎていしょ内容ないよう清国きよくににとって苛酷かこくなものとなったが、窮地きゅうちおちいった清国きよくに内情ないじょうられるにつけ、列強れっきょうがわ清国きよくにたいする圧迫あっぱく手控てびかえ、清国きよくに政府せいふ主権しゅけん領土りょうど支持しじするなかで自国じこく権益けんえきまも姿勢しせいへと態度たいど修正しゅうせいしていった[60]小村こむらは、講和こうわ会議かいぎ交渉こうしょうちゅうの6がつ日本にっぽんからおもわぬらせをけていた。それは、しん首相しゅしょうかつら太郎たろうからの外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにん要請ようせいであった[57]

2外務がいむ大臣だいじん

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だい18だい外務がいむ大臣だいじん

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1901ねん6がつ小村こむらにちしん戦争せんそう以来いらい小村こむらたかっていたかつら太郎たろうまねかれ、だい1かつら内閣ないかく外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんすることとなった[61]かれ友人ゆうじんたちは、かつら内閣ないかく発足ほっそくには3かげつ短命たんめい政権せいけんわるだろうとの憶測おくそくったので、入閣にゅうかくそんだからやめたほうがよいと小村こむら忠告ちゅうこくしている[62]。しかし、小村こむらは3かげつもあればイギリスとの同盟どうめいもまとめられるし、これはなにとしてもやらなければならないとして周囲しゅうい忠告ちゅうこくかずに入閣にゅうかくした[62]

ただ、小村こむら北京ぺきん議定ぎていしょ調印ちょういんのため清国きよくにはなれることができなかったため、そのあいだ曾禰あらすけ蔵相ぞうしょう外相がいしょうねた[61]一方いっぽう、1901ねん7がつ15にち、イギリスに帰国きこくちゅうクロード・マクドナルドちゅうにち公使こうし日本にっぽんはやしただしちゅうえい公使こうしたいし、恒久こうきゅうてきにちえい同盟どうめいについて打診だしんしたことからにちえい提携ていけいうごきが活発かっぱつし、7がつ31にちはやしはイギリス外相がいしょうランズダウン侯爵こうしゃく協議きょうぎはいった[63][64]

にちえい同盟どうめい
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にちしん戦争せんそうのとき以来いらい小村こむらたか評価ひょうかしてきた首相しゅしょうかつら太郎たろう
にちえい同盟どうめい交渉こうしょう推進すいしんしたはやしただし

にちえい交渉こうしょうがなされているさなか、にち協商きょうしょう模索もさくしていた伊藤いとう博文ひろぶみがヨーロッパに旅立たびだったのとちがいに小村こむら帰国きこくし、9月21にち正式せいしき外相がいしょう任命にんめいされた[61]。したがって、イギリスとは同盟どうめい交渉こうしょうを、ロシアとは将来しょうらい連携れんけい見据みすえての意見いけん交換こうかんを、それぞれ併行へいこうしてすすめるという9月11にち会合かいごう小村こむら出席しゅっせきしていなかった[61]。10月8にち小村こむらはやし公使こうし同盟どうめい交渉こうしょう開始かいし訓令くんれいし、交渉こうしょうのための正式せいしき権限けんげんあたえた[63]

11月にはいり、イギリスがわから具体ぐたいてき同盟どうめい条約じょうやく草案そうあんしめされたが、同時どうじにイギリスからはダブル·ディーリング、すなわち二股ふたまた交渉こうしょうへの警告けいこくおもいかけずもはっせられた[61][65]日本にっぽん政府せいふないではにちえい同盟どうめいにち協商きょうしょう相互そうご対立たいりつするものではなかった[65]。しかし、イギリスからの警告けいこくは、山縣やまがたかつらを9がつ時点じてんでの二兎にと発想はっそうからにちえい同盟どうめいさい優先ゆうせん発想はっそうへと傾斜けいしゃさせた[61]

12月7にちかつら葉山はやま別邸べっていで、伊藤いとう大山おおやまいわおのぞく、山縣やまがた井上いのうえ西郷さいごう従道つぐみち松方まつかた正義まさよしの4にん元老げんろうかつら小村こむらくわえた元老げんろう会議かいぎひらかれた[66]。ここで小村こむらは「にちえい協約きょうやくかんする意見いけん」を提出ていしゅつし、韓国かんこく問題もんだい日本にっぽん希望きぼうどおりに解決かいけつするためにはロシアとのあいだ単純たんじゅんこくあいだ交渉こうしょうだけでは到底とうてい無理むりであり、交戦こうせんさずの決心けっしんしめすか、さもなくば第三国だいさんごくむすび、その共同きょうどう勢力せいりょく利用りようして、ロシアにやむを日本にっぽん要求ようきゅうおうじさせるかのどちらかしかないとろんじた[66]。そして小村こむらは、にち協商きょうしょうかり成功せいこうしても利点りてんすくないと主張しゅちょうした[67]。その理由りゆうとして、にち協商きょうしょう東洋とうよう平和へいわ維持いじしても一時いちじてきなものにとどまってしまうこと、経済けいざいじょう利益りえきすくないこと、清国きよくにじん感情かんじょうがいすること、イギリスの感情かんじょうがいし、結果けっかとして同国どうこく海軍かいぐんりょく拮抗きっこうする必要ひつようしょうじることの4てんげた[67]。これは、小村こむら自身じしんのロシアへの不信ふしんかんあらわしたものではあったが、一方いっぽうにちえい同盟どうめいのメリットとして、恒久こうきゅうてき東洋とうよう平和へいわ清国きよくににおける門戸もんこ開放かいほう韓国かんこく問題もんだい解決かいけつ財政ざいせいじょう便益べんえき通商つうしょうじょう利益りえき防衛ぼうえい負担ふたん軽減けいげんなど7てんげている[61][67]小村こむらがこのような二者択一にしゃたくいつてき問題もんだい設定せっていおこなったのは、9月11にち決定けっていしばられず自由じゆう立場たちばにあったうえに、イギリスからの警告けいこくおもくみたためとかんがえられる[61]。ただし、小村こむらはこのとき、むしろロシアとの戦争せんそうけるためににちえい同盟どうめいろん展開てんかいしていた[67]かつら元老げんろう会議かいぎ先立さきだって根回ねまわしをしており、11月30にち山縣やまがた、12月2にち西郷さいごう、12月5にち松方まつかた同意どういていた[67]。これに小村こむら意見いけんしょ奏功そうこうして、伊藤いとうによるにちえい同盟どうめい締結ていけつ延期えんき具申ぐしんがあったにもかかわらず、結果けっかてきには元老げんろう会議かいぎでは全会ぜんかい一致いっちというかたちでにちえい同盟どうめい締結ていけつあん可決かけつしたのであった[61][67]

元老げんろう会議かいぎ終了しゅうりょう小村こむら反対はんたいなしでにちえい同盟どうめい推進すいしん路線ろせん可決かけつされたことをはやしただしちゅうえい公使こうし報告ほうこくし、つづいて閣議かくぎ決定けっていされた日本にっぽんがわによる協約きょうやく修正しゅうせいあんつたえた[68]。12月12にちと16にちはやし・ランズダウン会談かいだんひらかれ、その都度つど小村こむらはやし公使こうし指示しじをあたえたが、現地げんち交渉こうしょうかならずしも順調じゅんちょうとはいえなかった[68]。しかし、そのあいだ、ロシアとの交渉こうしょうおこなっていた伊藤いとう博文ひろぶみが、あまりに妥協だきょうてきなロシアの態度たいどごうやしてにち協商きょうしょうそのものを断念だんねんしてしまった[69]1902ねんはいるとイギリスの姿勢しせい軟化なんかしてランズダウン侯爵こうしゃくはやし公使こうし修正しゅうせいあんしめされ、1がつ18にちはやし・ランズダウン会談かいだんののち、イギリスがわ閣議かくぎ修正しゅうせいあんが1がつ24にちはやし公使こうし提出ていしゅつされ、それをけて1がつ29にち日本にっぽんがわ閣議かくぎ決定けっていおこなってどう修正しゅうせいあん受諾じゅだくよく1がつ30にちにちえい同盟どうめい条約じょうやくロンドン調印ちょういんされたのである[61][69]

小村こむらにちえい同盟どうめい締結ていけつこうにより男爵だんしゃく授与じゅよされ華族かぞくれっ[70][71]勲一等くんいっとう賜金しきん1まんえんあたえられた[70][72]各地かくちひらかれたにちえい同盟どうめい祝賀しゅくがかい小村こむらなんまねかれており、政権せいけんないでのかつら小村こむら威信いしんたかまった[71][72]

まんしゅう還付かんぷ条約じょうやく
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一方いっぽう義和よしかずだん事件じけん外交がいこう決着けっちゃくとして北京ぺきん議定ぎていしょ調印ちょういんされたことにより、ロシアとしてもまんしゅう占領せんりょう問題もんだいについてなんらかの決着けっちゃくはからなければならなくなった[73]。1901ねん10月5にちちゅうしんロシア公使こうしパーヴェル・ミハイロヴィチ・レサールロシアばん清国きよくにたいし、3年間ねんかん完全かんぜんぜんまんしゅうからへいげるという内容ないよう付帯ふたい条件じょうけんけたしん提案ていあんをおこなったが、条件じょうけん以前いぜんよりいくらか緩和かんわされていた[73]。しかし、これらの条件じょうけんによってまんしゅう軍事ぐんじてきにロシアの統制とうせいけることは明白めいはくであった[73]

ロシアのウラジーミル・ラムスドルフ外相がいしょう

これにたいし、小村こむら外相がいしょう積極せっきょくてきうごいた。小村こむらはまず、ちゅうきよし代理だいり公使こうし日置ひおきえきでんくん発令はつれいし、清国きよくにたいし、重要じゅうよう交渉こうしょう開始かいしする場合ばあい日本にっぽん政府せいふ相談そうだんすべきことを、外交がいこう担当たんとうしゃであるけい親王しんのう奕劻つたえた[51]10月21にちには、けい親王しんのうたいし、今回こんかい以前いぜんより改善かいぜんされているとはいえ、なお清国きよくに主権しゅけんそこねる条項じょうこうふくみ、改変かいへんようするとして、10月31にちけい親王しんのう調印ちょういんまえかなら日本にっぽんがわ協議きょうぎすることを確約かくやくした[51]小村こむらは、これをただちにえいべいりょう政府せいふにもつたえ、にちえいべいさんこくでその成立せいりつ阻止そししようとした[73]。さらに小村こむらは、ちゅう代理だいり公使こうしつうじてラムスドルフ外相がいしょう日本にっぽん政府せいふ見解けんかいつたえ、11月8にちまんしゅう駐屯ちゅうとんしんぐんへいすうまえもってロシアがわらせることは予防よぼうてき措置そちとしてはみとめられるものであっても、清国きよくにうべき生命せいめい財産ざいさん保護ほご秩序ちつじょ維持いじによる国際こくさいてき義務ぎむ履行りこうさまたげることにつながる条件じょうけん一切いっさいけるべきではないともうれた[51]。これにたいし、ラムスドルフは「ロシアの必要ひつよう清国きよくに事情じじょう」を熟考じゅっこうしてめた中庸ちゅうよう条件じょうけんであり、どくふつ両国りょうこく首脳しゅのう同意どういしたものであるとこたえ、日本にっぽん国内こくない新聞しんぶん論調ろんちょうがあまりにはんてきなので緩和かんわしてもらいたいとの希望きぼうえた[51]小村こむら新聞しんぶん報道ほうどうにち関係かんけいには影響えいきょうおよぼさないと通告つうこくした[51]

のちに通算つうさん在職ざいしょく期間きかん最長さいちょう外相がいしょうとなる内田うちだ康哉こうさい

11月7にち鴻章こうしう死去しきょ清国きよくにではけい親王しんのうもっぱらレサール公使こうしとの折衝せっしょうにあたることとなった[51]12月9にちけい親王しんのう新任しんにん内田うちだ康哉こうさいちゅうきよし公使こうし会談かいだんし、ロシアがわ提示ていじ協約きょうやくあんけい親王しんのうによる修正しゅうせいあんとを内示ないじして日本にっぽんがわ意向いこうもとめた[51]しん双方そうほう協約きょうやくあんについて内田うちだより報告ほうこくけた小村こむらは、それが調印ちょういんされた場合ばあい清国きよくに主権しゅけん侵害しんがいされるこわれがあるとし、逐一ちくいち日本にっぽんがわかんがえをしめしてこれにアドバイスした[51]。しかし、その過程かてい質疑しつぎ応答おうとうで、清国きよくに政府せいふしん銀行ぎんこうとのあいだ鉱山こうざんなどの企業きぎょうたいする重大じゅうだい特権とっけん譲与じょうよ事項じこう懸案けんあんとなっており、12月14にちにはしん銀行ぎんこう優先ゆうせんけんあたえるいち契約けいやくどう銀行ぎんこう支配人しはいにんとのあいだ折衝せっしょうちゅうであることも露見ろけんした[51][73]小村こむらは1902ねん1がつ25にちしん銀行ぎんこう特権とっけんかんする条項じょうこうは、諸国しょこく条約じょうやくじょう権利けんり侵害しんがいするものであり、まんしゅう撤兵てっぺい問題もんだいとは無関係むかんけいのものであるから拒絶きょぜつすべきであると内田うちだ公使こうしかいしてけい親王しんのうつたえた[51]。これにたいしてけい親王しんのうは、まんしゅう回復かいふくする機会きかいのがさないためには、多少たしょう利権りけんをロシアに譲与じょうよしてもすみやかな撤兵てっぺい優先ゆうせんすべきとのかんがえをしめし、小村こむら理解りかいもとめた[51]。しかし、小村こむらはあくまでも従来じゅうらい方針ほうしん堅持けんじし、しん銀行ぎんこうけん撤兵てっぺい先決せんけつ要件ようけんにはなりえず、これをいますのはあらたに補償ほしょう性質せいしつ条件じょうけんくわえるものになるとうったえた[51]。そして、ここで妥協だきょうすることは、清国きよくに貴重きちょう特権とっけんをロシアに一方いっぽうてき付与ふよするものであるのみならず、あきらかに他国たこく条約じょうやくじょう権利けんり無視むししており、機会きかい均等きんとう原則げんそくにもはんするとの見解けんかい内田うちだ公使こうしつうじて清国きよくにがわつたえ、そのうえで、えいべい両国りょうこくにもこのけん連絡れんらくした[51][73]。イギリス政府せいふはこれをけて、ロシアが北京ぺきん議定ぎていしょさだめた賠償金ばいしょうきん以上いじょうがく清国きよくにからようとするのは、諸国しょこく協定きょうてい趣旨しゅしそむくとしてロシアを批判ひはんし、清国きよくにには、きよししん銀行ぎんこう特権とっけんあたえるならば、イギリスとしても同等どうとう利権りけん要求ようきゅうするむね通告つうこくした[73]。アメリカもしん交渉こうしょうには憂慮ゆうりょねんをいだいているとして両国りょうこく政府せいふたいつよ抗議こうぎ意思いし表明ひょうめいした[73]

列国れっこく反響はんきょう背中せなかされたけい親王しんのう内田うちだ公使こうしたい日本にっぽん好意こうい謝意しゃいしめし、毅然きぜんとしてロシアの要求ようきゅうれない態度たいどてんじた[51]。レサールもこれにはなすすべがなく、2がつ8にち、あらためて提案ていあんしなおした[51]にちえい同盟どうめい締結ていけつは、けい親王しんのうはこれにおおきなちからて、しん銀行ぎんこう契約けいやくあんには調印ちょういんしないことをふたた明言めいげんした[51]以後いご、レサールとけい親王しんのう数次すうじにわたって交渉こうしょうかさねたが、ロシアがわ徐々じょじょ軟化なんか姿勢しせいをみせ、1902ねん4がつ8にち北京ぺきんにおいてまんしゅう還付かんぷ条約じょうやく締結ていけつされた[74]まんしゅう進駐しんちゅうのロシアぐんだい1からだい3までの3かいけ、それぞれ半年はんとしずつの期間きかんもうけてけい1ねんはんかけてみなみからじゅんまんしゅう全土ぜんどから撤兵てっぺいし、最終さいしゅうてきには同地どうち清国きよくに主権しゅけん返還へんかんすることが決定けっていしたのである[74]

にち戦争せんそうへのみち
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ハーバードに留学りゅうがくして法学ほうがくまなんだ栗野くりの慎一郎しんいちろう

にちえい同盟どうめい締結ていけつされるまえの1902ねん1がつ20日はつか小村こむら外相がいしょう栗野くりの慎一郎しんいちろうちゅう公使こうしたいし、将来しょうらいにち協商きょうしょうけた予備よび交渉こうしょう訓令くんれいした[75]。イギリスの警告けいこくによってダブル·ディーリングは放棄ほうきしたものの、にちえい同盟どうめい交渉こうしょうにち協商きょうしょう予備よび交渉こうしょう並行へいこうしてすすめるのは政府せいふ既定きてい方針ほうしんだったからである[75]ぎゃくに、にちえい同盟どうめい調印ちょういん日本にっぽん立場たちばつよめ、にち協商きょうしょう締結ていけつ機会きかいをもたらすことさえ期待きたいされた[75]事実じじつ、ロシアは清国きよくにまんしゅう還付かんぷ条約じょうやくむすんで、まんしゅうからの撤退てったいめたのであり、小村こむらはこれをロシア政府せいふないでの穏健おんけん勢力せいりょく回復かいふくととらえていたのである[76]

1902ねん7がつ7にち小村こむら栗野くりの公使こうしたいし、清国きよくに韓国かんこくにおけるにち勢力せいりょく範囲はんいさだめるあらたなにち協商きょうしょう締結ていけつするための秘密ひみつ交渉こうしょう打診だしんするよう指示しじした[76]栗野くりの一個人いっこじん資格しかくで7がつ23にちと9がつ14にちの2かい、ラムスドルフと会談かいだん機会きかい[76]小村こむらは11月1にち協商きょうしょう骨子こっしとして5じょうからあん内示ないじしたが、じつ栗野くりのが9月時点じてん独自どくじ協商きょうしょう私案しあんをロシアがわ提出ていしゅつしていた[76]栗野くりのあん小村こむらあんくらべるとロシアがわ譲歩じょうほしたものであったが、小村こむらしてしまった栗野くりのあん撤回てっかいさせることはせず、ロシアがわ出方でかた一方いっぽう以後いご独断どくだんでの妥協だきょうをおこなわないようめいじた[77]。ロシアではこののち1903ねん2がつ7にち会議かいぎひらかれ、栗野くりのあんれる方向ほうこうせいしめされたが、協商きょうしょうむすびたがっていることを日本にっぽんがわさとらせないために、つぎ日本にっぽんがわ提案ていあんった[77]一方いっぽう栗野くりの先年せんねんの9がつ以来いらい、ずっとロシア政府せいふからの回答かいとうがないことを悲観ひかんし、かれ自身じしん交渉こうしょう再開さいかい希望きぼうしなかったので、この交渉こうしょう自然しぜんえとなった[77]みのらなかったものの、この時期じき小村こむらにち関係かんけい改善かいぜんのぞんでいたことは間違まちがいない[77]

ところが、ロシアはまんしゅう還付かんぷ条約じょうやくさだめられた1903ねん4がつ8にちだい撤兵てっぺい期限きげんまもらず、ぎゃく増派ぞうはしたうえで7箇条かじょう撤兵てっぺい条件じょうけん清国きよくににせまったことにより、事態じたい急変きゅうへんする[75][78]日本にっぽん国民こくみんはんロシア感情かんじょう急速きゅうそくたかまり、軍部ぐんぶ警戒けいかいかんをいだいて、りゅういわうら事件じけんがそれに拍車はくしゃをかけた[75][79]

4がつ21にち京都きょうと鄰菴山縣やまがた別邸べってい)に伊藤いとう·山縣やまがた·かつら·小村こむらの4にんあつまり、「日本にっぽん有利ゆうりまんかん交換こうかん」を最終さいしゅうてき提議ていぎし、最低さいていでも「対等たいとうまんかん交換こうかん」という交渉こうしょう方針ほうしん、いいかえれば「朝鮮ちょうせん如何いかなる困難こんなん逢着ほうちゃくするともだんじてはなさざること」をロシアにみとめさせる方針ほうしん確認かくにんし、元老げんろう·ないかく意思いし統一とういつはかった[78]。ここにいたっても小村こむらには開戦かいせん意思いしはなかった[78]。しかし、撤兵てっぺい違約いやくから2かげつ以上いじょう経過けいかしても事態じたいがいっこうに進展しんてんしなかったことを心配しんぱいした明治天皇めいじてんのうは、6がつ20日はつかかつら小村こむらたいして御前ごぜん会議かいぎ召集しょうしゅうめいじた[80]

1903ねん6月23にち、これをけて御前ごぜん会議かいぎ開催かいさいされた[80]内閣ないかくからはかつら小村こむら山本やまもと権兵衛ごんべえうみしょう寺内てらうち正毅まさき陸相りくしょう元老げんろうからは伊藤いとう山縣やまがた井上いのうえ松方まつかた大山おおやまいわお参加さんかした[75][80]。この御前ごぜん会議かいぎ小村こむらは「たい交渉こうしょうかんするけん」とだいする4てんから意見いけんしょ提出ていしゅつした[80]。その基本きほんは、あらためて韓国かんこく日本にっぽん安全あんぜん保障ほしょうにとってきわめて重要じゅうようであるとの認識にんしきつものであり、井上いのうえ若干じゃっかん異議いぎていしただけで終始しゅうし小村こむら意見いけん会議かいぎをリードし、「日本にっぽん有利ゆうりまんかん交換こうかん」をめざし、最終さいしゅうてき譲歩じょうほするとしても「対等たいとうまんかん交換こうかん」をくずさないという小村こむら意見いけんしょをもとににち協商きょうしょうあん要領ようりょう策定さくていされた[75][80]。この決定けっていにもとづき、7がつ28にち小村こむら栗野くりのにロシアとの交渉こうしょう再開さいかいするよう訓令くんれいおくり、栗野くりのは8がつ5にち、このことをロシアがわ報告ほうこくし、8がつ12にち栗野くりのはロシアがわ交渉こうしょう基礎きそあん提出ていしゅつしてにち交渉こうしょうふたた開始かいしされた[81]

ちゅうにち公使こうしロマン・ローゼン

8がつはじまったにち交渉こうしょうは、9月7にち場所ばしょ東京とうきょううつして小村こむらちゅうにちロシア公使こうしロマン・ローゼン全権ぜんけん委員いいんえらばれた[82]。9月まつから10がつにかけて小村こむらとローゼンは4にわたって会談かいだんひらいたが、ローゼンは、まんしゅう問題もんだいしんこくあいだ関係かんけい事案じあんであるとして日本にっぽん介入かいにゅうけっしてゆるさない一方いっぽう韓国かんこく問題もんだいについてはロシアの権利けんり主張しゅちょうするので、まんかん交換こうかんというせん事態じたい打開だかいさせたい小村こむらとはかみわず、議論ぎろん平行へいこうせんをたどるばかりであった[75]。ローゼンはまた、あらたに大韓たいかん帝国ていこくにおける北緯ほくい39以北いほく中立ちゅうりつ地帯ちたいとする提案ていあんもおこない、小村こむらおどろかせている[82]会談かいだんによってむしろにち双方そうほう対立たいりつてん明瞭めいりょうになった[82]

交渉こうしょう開始かいしまえの8がつ時点じてんではロシアがわ開戦かいせん意思いしはなかったが、10月にはむしろ日本にっぽんとの対決たいけつさずという強硬きょうこうなものとなっていた[82]。これは、ロシアがわからすれば日本にっぽんあん協商きょうしょう準備じゅんび交渉こうしょうでの日本にっぽんあんとくらべても敵対てきたいてきとみられたからでもあった[82]当初とうしょはロシアに宥和ゆうわてき栗野くりのあんだっただけに強硬きょうこう小村こむらあんたいするロシアがわいかりもつのっていたのであり、日本にっぽんとの対立たいりつ極力きょくりょくけようとしてきたセルゲイ・ウィッテ蔵相ぞうしょう解任かいにんされていたこともすくなからず影響えいきょうしていた[82]。10月30にちには小村こむらがローゼンにロシアの修正しゅうせいあんへの対案たいあん提出ていしゅつしたが、その内容ないようは、日本にっぽん韓国かんこくたい依然いぜんとして軍事ぐんじじょう助言じょげん指導しどうをおこなうとしながらも軍事ぐんじ施設しせつもうけないこと、中立ちゅうりつ地帯ちたい韓国かんこくまんしゅう国境こっきょう両側りょうがわ設定せっていすることなど、ロシアにたいして相当そうとう妥協だきょうしたものであった[82]12月11にち、ロシアがわ回答かいとうせられたが、北緯ほくい39以北いほく中立ちゅうりつ地帯ちたいけん日本にっぽん韓国かんこくでの「優越ゆうえつなる利益りえき」も民政みんせいじょうかぎるなど、10月提出ていしゅつのロシアあんおおきな変更へんこうはなく、返事へんじおそかったこともあって日本にっぽんがわ失望しつぼうさせた[82]じつは、ロシアがわまんしゅう日本にっぽん利益りえき範囲はんいないであることをわずかにみとめる譲歩じょうほおこなっており、それにイギリスがづいて日本にっぽん指摘してきしたのだったが、日本にっぽんはこれを重視じゅうししなかった[82]12月20にち小村こむららは交渉こうしょうそのものが無意味むいみではないかとかんがえるようになっており、伊藤いとう博文ひろぶみでさえ開戦かいせん意識いしきするようになっていた[82]12月23にち、ロシアに再考さいこううなが日本にっぽんあん提出ていしゅつされたが、1904ねん1がつ6にちのロシアがわ回答かいとう前回ぜんかいとほぼわらなかった[82]

ここにいたって小村こむら交渉こうしょうによる解決かいけつのぞみを完全かんぜんて、海軍かいぐん準備じゅんびととの次第しだい正式せいしき交渉こうしょう断絶だんぜつたい開戦かいせんすべしとの意見いけんしょ提出ていしゅつし、これは1がつ12にち元老げんろう会議かいぎ御前ごぜん会議かいぎ原案げんあんとされたが、結局けっきょく小村こむら起草きそう修正しゅうせいあん決定けっていされた[75]。これをけて小村こむら1がつ16にち韓国かんこく全土ぜんど日本にっぽん勢力せいりょくけん提案ていあんおこない、参加さんかしゃ賛意さんい[82]伊藤いとう博文ひろぶみ山縣やまがた有朋ありともはこのせきで、韓国かんこくへ2師団しだん程度ていど派遣はけんしてこうむね身柄みがら確保かくほし、そのうえでにち交渉こうしょう継続けいぞくしてまんかん交換こうかん実現じつげんしていくあんしめしたが、かつら小村こむら山本やまもとうみしょうは、韓国かんこく出兵しゅっぺい戦争せんそうにつながり、しかも宣戦せんせん布告ふこくまえ韓国かんこく占領せんりょう列国れっこく支持しじうしない、なおかつ、日本にっぽん制海権せいかいけんていないために危険きけんさくであるとして反対はんたいした[83]。これについては、内閣ないかくがわ主張しゅちょうとおった[83]2がつ3にち、ロシア旅順りょじゅん艦隊かんたい出港しゅっこうしたとの情報じょうほうしば領事りょうじからもたらされた[75]小村こむら2がつ4にち御前ごぜん会議かいぎ閣僚かくりょう元老げんろうとともにたい開戦かいせん決定けってい、5にち動員どういんくだされ、2がつ10日とおかには宣戦せんせん布告ふこくはっせられた[82][注釈ちゅうしゃく 8]

戦時せんじ外交がいこう
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開戦かいせん2がつ8にち日本にっぽんぐん仁川にがわを、9にちにはかんじょうげんソウル特別とくべつ)を占領せんりょうした[84]2がつ12にち、ロシア公使館こうしかん韓国かんこくより撤収てっしゅう日本にっぽんはこれを接収せっしゅうした[84]たいかん政策せいさくなによりも重視じゅうしする小村こむらは、すでに秘密ひみつ交渉こうしょうすすめていたはやし権助ごんすけめいじて2がつ13にち議定ぎていしょあん大韓たいかん帝国ていこく外部がいぶ大臣だいじんしょ提出ていしゅつ2がつ23にち韓国かんこく協力きょうりょく最大限さいだいげんす、圧倒的あっとうてき日本にっぽん有利ゆうりなかたちでにちかん議定ぎていしょむすんだ[84]

米国べいこく留学りゅうがく時代じだい以来いらい親友しんゆう金子かねこ堅太郎けんたろう

小村こむらはまた、国内外こくないがい広報こうほう活動かつどうにもちかられた。日本にっぽんはやむなく戦争せんそう突入とつにゅうしたことをうったえるべく、ロシアとの交渉こうしょう経緯けいい公表こうひょうし、それが『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』などの新聞しんぶんメディアが連載れんさいされることによって、国民こくみん一致いっち団結だんけつ国民こくみんからの戦争せんそう協力きょうりょく役立やくだてようとしたのである[85]えいべい両国りょうこくたいしては特使とくし派遣はけんして広報こうほう外交がいこう展開てんかいした[85]特使とくしえらばれたのは、「伊藤いとう博文ひろぶみ門下もんか四天王してんのう」といわれた末松すえまつ謙澄けんちょう金子かねこ堅太郎けんたろうであった[85][注釈ちゅうしゃく 9]伊藤いとう女婿じょせいでもある末松すえまつケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく卒業そつぎょう経歴けいれきわれて2がつ10日とおかにイギリスに、留学りゅうがく時代じだい以来いらい小村こむら親友しんゆうである金子かねこセオドア・ルーズベルトとも旧知きゅうちなかであることも考慮こうりょされて2がつ24にちにアメリカに、それぞれ出発しゅっぱつした[85]。それに先立さきだち、小村こむらは、2人ふたりにロシアがわ妥協だきょうてき交渉こうしょう態度たいど今次こんじ戦争せんそうまねいたことをうったえることと、えいべい両国りょうこくにおける黄禍こうかろんひろがりをめることを訓令くんれいした[85]

日本にっぽんまんかん交換こうかんもとめて交渉こうしょう失敗しっぱいした結果けっかにち開戦かいせんったため、開戦かいせん直後ちょくごまんしゅうたいする構想こうそう白紙はくしちかかった[86]まんしゅうからロシアぐん駆逐くちくしたとして、戦後せんごまんしゅう保全ほぜん担保たんぽする手立てだてとしてまずかんがえられたのはまんしゅう中立ちゅうりつ構想こうそうであった[86]。ところが、日本にっぽんぐん予想よそう以上いじょう勝利しょうりつづけ、日本にっぽんぐん占領せんりょうきた拡大かくだいするという展開てんかい小村こむら敏感びんかん反応はんのうしていった[86]小村こむらが7がつかつら太郎たろう首相しゅしょう提出ていしゅつした意見いけんしょでは、戦争せんそう結果けっか韓国かんこく事実じじつじょう日本にっぽん主権しゅけん範囲はんいにすることにともない、まんしゅうもある程度ていどまで日本にっぽん勢力せいりょく範囲はんいとすべきことを主張しゅちょうしている[86]

韓国かんこく支配しはい強化きょうかは、こうしたうごきと併行へいこうしてすすめられた[87]。5月まつには「たいかん方針ほうしんかんする決定けってい」と「たいかん施設しせつ要領ようりょう」が閣議かくぎ決定けっていされると、小村こむらはやし駐韓ちゅうかん公使こうし一時いちじ帰国きこくめいじ、6がつ中旬ちゅうじゅんから7がつ中旬ちゅうじゅんにかけてたいかん政策せいさくはやし協議きょうぎ検討けんとうし、それをまえてはやし韓国かんこくがわ外交がいこう担当たんとうしゃ交渉こうしょうさせた[87]。その結果けっか8がつ22にちはやし権助ごんすけ駐韓ちゅうかん公使こうし外部がいぶ大臣だいじんいん致昊あいだだいいちにちかん協約きょうやく調印ちょういんされた[88]。これをけて、大韓たいかん帝国ていこく財務ざいむ顧問こもん賀田よした種太郎たねたろうが、外交がいこう顧問こもんにはアメリカじんダーハム・W・スティーブンスがそれぞれ日本にっぽん政府せいふ推薦すいせんけて就任しゅうにんした[88]小村こむらはさらに1905ねん2がつ丸山まるやま重俊しげとし警務けいむ顧問こもんとして韓国かんこく派遣はけんした[88]。1905ねん4がつ8にち閣議かくぎ決定けっていされた「韓国かんこく保護ほごけん確立かくりつけん」は、小村こむら原案げんあん作成さくせいおおきく関与かんよしていたものであり、これにより韓国かんこく保護ほごこく日本にっぽん政府せいふ外交がいこう目標もくひょうにすえられた[89]。ただし、これは欧米おうべい諸国しょこくからの承認しょうにん必要ひつようであった[89]

だいにちえい同盟どうめい調印ちょういん記念きねんはがき(三越みつこし百貨店ひゃっかてん

このような理由りゆうから、日本にっぽんがわにちえい同盟どうめいのいっそうの強化きょうかねがい、小村こむらも1905ねん2がつ12にちにちえい同盟どうめい3周年しゅうねん記念きねん式典しきてん同盟どうめいたか評価ひょうかし、強化きょうかのぞ演説えんぜつをおこなった[90]一方いっぽうのイギリスは、にち戦争せんそう極東きょくとうにち和解わかいした結果けっか、イギリスが孤立こりつすることを危惧きぐして同盟どうめい強化きょうかねがっていた[90]チャールズ・ハーディングちゅう大使たいしとマグドナルド駐日ちゅうにち公使こうし報告ほうこくったイギリス外相がいしょうのランズダウンこう同盟どうめい改定かいてい必要ひつようかんじ、3月24にちはやしただし公使こうしんで改定かいてい交渉こうしょう打診だしんした[90]。3月16にち奉天ほうてん会戦かいせん日本にっぽん勝利しょうりしたことからランズダウンは日本にっぽん軍事ぐんじりょく期待きたいをいだき、アーサー・バルフォアえい首相しゅしょうわたりえいちゅう末松すえまつ同盟どうめい強化きょうか意欲いよくてき発言はつげんをおこなった[90]。しかし、イギリスは同盟どうめい強化きょうか同盟どうめい適用てきよう範囲はんい拡張かくちょうととらえており、それにづいた小村こむらは3がつ27にちはやし公使こうしたいし、イギリスがわとの意見いけん交換こうかん許可きょかしながらも日本にっぽんがわには同盟どうめい拡張かくちょう意図いとはないとし、イギリスに主導しゅどうけんにぎられないよう注意ちゅういうながした[90]

4がつ8にちにちえい同盟どうめい継続けいぞく交渉こうしょう開始かいしかんする閣議かくぎ決定けっていて、4がつ16にち小村こむら同盟どうめい交渉こうしょう方針ほうしんはやし公使こうし訓令くんれいしたが、その要点ようてん韓国かんこく保護ほごこく承認しょうにん英国えいこくにはもとめながらもイギリスが期待きたいする同盟どうめい範囲はんい拡張かくちょうにはあくまで同意どういしないというものであった[90]4がつ19にちはやし・ランズダウン会談かいだん友好ゆうこうてき雰囲気ふんいきのなかでおこなわれたが、慎重しんちょうはやし韓国かんこく保護ほごこく要求ようきゅう時期じき尚早しょうそうとしてさず、有効ゆうこう期限きげんは7ねんにしたいという希望きぼうつたえ、ただし、改定かいていのポイントは同盟どうめい範囲はんい拡張かくちょうではないとイギリスがわくぎした[90]5月17にち正式せいしき会談かいだんでは、ランズダウンのがわから、純粋じゅんすい軍事ぐんじ同盟どうめいへの強化きょうか同盟どうめい範囲はんいをインドまで拡張かくちょうすることの2てんがイギリスあんとして提起ていきされた[90]はやしはそのでは返答へんとうしなかったが、小村こむらたいしてイギリスあんれるよう要請ようせいした[90]5月24にち小村こむら意見いけんしょにもとづいてにちえい同盟どうめい継続けいぞくかんする閣議かくぎひらかれたが、ここで小村こむら従来じゅうらい方針ほうしん転換てんかんして基本きほんてきにイギリス政府せいふ意向いこう沿うものを骨子こっしとした[91]。すなわち、同盟どうめい範囲はんいインド以東いとう拡張かくちょうし、いちこくからの攻撃こうげきによっても同盟どうめい発動はつどうされることをみとめたのである[91]。ただし、韓国かんこくとインドをめぐってはにちえい双方そうほう見解けんかいはなかなか一致いっちせず、ここで小村こむらはやし公使こうし意見いけんもしりぞけて強硬きょうこう姿勢しせいをくずさなかった[91]途中とちゅうから、小村こむらはポーツマス講和こうわ会議かいぎ出席しゅっせきするために離日りにちし、かつら首相しゅしょう臨時りんじ外相がいしょう兼任けんにんしている)。8がつ12にちだいにちえい同盟どうめい条約じょうやくロンドンにて調印ちょういんされた[91]。これにより、日本にっぽん韓国かんこく保護ほごこくはイギリスによって承認しょうにんされ、清国きよくににおける機会きかい均等きんとう門戸もんこ開放かいほう維持いじされ、また、同盟どうめい有効ゆうこう期限きげんは10年間ねんかんとされた[91]

日本にっぽんたいかん政策せいさくかんしては、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、とりわけルーズベルト大統領だいとうりょうつね好意こういてきであり、1905ねん1がつ23にち高平たかひら・ルーズベルト会談かいだんでも韓国かんこく日本にっぽん勢力せいりょくけんくことに賛意さんいしめした[92]5月28にち日本海にほんかい海戦かいせんでの日本にっぽん勝利しょうりによってアメリカの支持しじ決定的けっていてきとなり、ルーズベルトはフィリピンきの用事ようじがあったウィリアム・タフト陸軍りくぐん長官ちょうかんたいし、日本にっぽんって韓国かんこく支配しはいみとめるよう指示しじした[92]7がつ25にち日本にっぽんいたタフトは27にちかつら首相しゅしょうけん臨時りんじ外相がいしょう会談かいだんし、その内容ないようを29にちエリフ・ルート国務こくむ長官ちょうかん打電だでん7がつ31にち、ルーズベルトはタフトに合意ごうい意思いしつたえた[92]8がつ7にちにはタフトからかつら大統領だいとうりょう同意どういつたえ、かつら・タフト協定きょうてい成立せいりつした[92]。これは日本にっぽん韓国かんこく支配しはいとアメリカのフィリピン支配しはい相互そうごみとめあう内容ないようであった[92]。ただ、この同意どういだけでアメリカが日本にっぽん韓国かんこく保護ほごこくみとめるかどうかに、日本にっぽんがわはやや不安ふあんのこしていた[92]。そこで、ポーツマス条約じょうやく締結ていけつ小村こむらはルート国務こくむ長官ちょうかんと、また、高平たかひら駐米ちゅうべい大使たいし同席どうせきさせてルーズベルト大統領だいとうりょうとも会談かいだんし、かれらの同意どういて、日本にっぽん完全かんぜん韓国かんこく保護ほごについてのアメリカの承認しょうにんけたのであった[92]

ポーツマス条約じょうやく
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駐米ちゅうべい公使こうしにち講和こうわ会議かいぎでは次席じせき全権ぜんけんつとめたこうたいら小五郎こごろう

1905ねん5月27にちから28にちにかけての日本海にほんかい海戦かいせんでの完全かんぜん勝利しょうりは、日本にっぽんにとって講和こうわへの絶好ぜっこう機会きかいとなった[93]5月31にち小村こむらは、開成かいせい学校がっこう時代じだい同級生どうきゅうせいでもあるこうたいら小五郎こごろう駐米ちゅうべい公使こうしにあてて訓電くんでんはっし、中立ちゅうりつこくアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領だいとうりょうに「直接ちょくせつかつ全然ぜんぜん一己いっこ発意はついにより」にち両国りょうこくあいだ講和こうわ斡旋あっせんするようもとめ、いのちけた高平たかひら翌日よくじつ中立ちゅうりつ友誼ゆうぎてき斡旋あっせん」を大統領だいとうりょうもうれた[93][94]かつら首相しゅしょう日本にっぽん全権ぜんけん代表だいひょうとして最初さいしょ打診だしんしたのは伊藤いとう博文ひろぶみであったが、側近そっきん反対はんたいして伊藤いとう辞退じたいした[95]結局けっきょくにち講和こうわ会議かいぎ全権ぜんけん委員いいんには小村こむら高平たかひら駐米ちゅうべい大使たいしえらばれ、7がつ4にち2人ふたり全権ぜんけん委任いにんじょう手渡てわたされた[93]小村こむら全権ぜんけんけたのは、外相がいしょう就任しゅうにんのときとおなじで、自分じぶんにとってそんとくかについては一顧いっこだにしなかった[62]。ロシアがわ全権ぜんけんは、もと蔵相ぞうしょうセルゲイ・ウィッテ駐米ちゅうべい大使たいしぜん駐日ちゅうにち公使こうし)のロマン・ローゼンであった[93]

日本にっぽんにち戦争せんそう勝利しょうりしたものの、この戦争せんそうやく180まん将兵しょうへい動員どういんし、死傷ししょうしゃやく20まんにん戦費せんぴやく20おくえんたっしていた。満州まんしゅうぐんそう参謀さんぼうちょう児玉こだま源太郎げんたろうは、1年間ねんかん戦争せんそう継続けいぞく想定そうていした場合ばあい、さらに25まんにんへいと15おくえん戦費せんぴようするとして、続行ぞっこう不可能ふかのう結論けつろんづけていた[96]。とくに専門せんもんてき教育きょういく年月としつきようする下級かきゅう将校しょうこうクラスが勇敢ゆうかん前線ぜんせんひきいて戦死せんしした結果けっかすでにその補充ほじゅう容易よういでなくなっていた[97]一方いっぽう、ロシアは、海軍かいぐんうしなったもののシベリア鉄道てつどう利用りようして陸軍りくぐん増強ぞうきょうすることが可能かのうであり、あらたに増援ぞうえん部隊ぶたいくわわって、日本にっぽんぐん圧倒あっとうする兵力へいりょくあつめつつあった[96]

1905ねん6月30にちかつら内閣ないかく閣議かくぎにおいて小村こむら高平たかひら両全りょうぜんけんたいしてあたえる訓令くんれいあん決定けっていした[98]。その内容ないようは、「かぶと絶対ぜったいてき必要ひつよう条件じょうけん」として(1)韓国かんこく日本にっぽん自由じゆう処分しょぶんにゆだねること、(2)にちりょうぐん満州まんしゅう撤兵てっぺい、(3)遼東りゃおとん半島はんとう租借そしゃくけんハルビン旅順りょじゅんあいだ鉄道てつどう譲渡じょうとの3てん、そして、「おつ比較的ひかくてき必要ひつよう条件じょうけん」として(1)軍費ぐんぴ賠償ばいしょう、(2)中立ちゅうりつこうんだロシア艦艇かんてい引渡ひきわたし、(3)樺太からふとおよび付属ふぞく諸島しょとう割譲かつじょう、(4)沿海州えんかいしゅう沿岸えんがん漁業ぎょぎょうけん獲得かくとくの4てん、さらに、「へい付加ふか条件じょうけん」として(1)ロシア海軍かいぐんりょく制限せいげん、(2)ウラジオストクこう武装ぶそう解除かいじょの2てんであった[98]7がつ5にち訓令くんれいあん裁可さいかされた[93]

当時とうじ日本にっぽん世論せろんは、連戦れんせん連勝れんしょう報道ほうどうて、多額たがく賠償金ばいしょうきん領土りょうど割譲かつじょう熱狂ねっきょうてきさけんでおり、7がつ8にち小村こむら日本にっぽん出発しゅっぱつするさい新橋しんばし停車場ていしゃじょうたかった群衆ぐんしゅうだい歓声かんせいげてこれをおくったが、小村こむらはそばをあるかつら首相しゅしょうに「帰国きこくするときには、人気にんきまったぎゃくでしょうね」とかたったといわれる[86][96][97]井上いのうえかおるは、小村こむらたいなみだながして「きみじつどく境遇きょうぐうった。いままでの名誉めいよ今度こんどだいなしになるかもしれない」とかたったといわれている[99]小村こむらは、戦勝せんしょう興奮こうふんささえられた世論せろん納得なっとくさせることがいかにむずかしいことなのかをよくっていた[86]7がつ20日はつかシアトル上陸じょうりくした小村こむら東部とうぶかい、ニューヨークには7がつ25にち到着とうちゃくワシントンD.C.でルーズベルト大統領だいとうりょう表敬ひょうけい訪問ほうもんして、仲介ちゅうかいけてくれたことに謝意しゃい表明ひょうめいした[97][100]講和こうわ交渉こうしょうのおこなわれるポーツマスには8がつ8にち到着とうちゃくした[100]

ニューヨークにいたウィッテはジャーナリストたいしては愛想あいそ対応たいおうして、洗練せんれんされた話術わじゅつユーモアにより、米国べいこく世論せろんたくみに味方みかたにつけていったのにたいし、小村こむらは「われわれはポーツマスへ新聞しんぶんたねをつくるためにたのではない。談判だんぱんをするためにたのである」とそっけなくこたえた[97][101]小村こむらはまた、マスメディアたい秘密ひみつ主義しゅぎったため、現地げんち新聞しんぶんにはロシアがわ提供ていきょうした情報じょうほうのみが掲載けいさいされることとなった[101][注釈ちゅうしゃく 10]

ポーツマス会議かいぎのようす。
こうがわひだりからコロストウェツ、ナボコフ、ウィッテローゼン、プランソン、手前てまえひだりから安達あだち落合おちあい小村こむら高平たかひら佐藤さとう

講和こうわ会議かいぎは8がつ10日とおかからはじまったが、8がつ12にちだい2かいほん会議かいぎにおいてロシアのウィッテ全権ぜんけんは、韓国かんこく日本にっぽん勢力せいりょくくことについて、にち両国りょうこく盟約めいやくによっていち独立どくりつこくほろぼしては列強れっきょうからのそしりをけるとして反対はんたいした[102]。しかし、強気つよき小村こむらはこれにたいし、今後こんご日本にっぽん行為こういによって列国れっこくからなにわれようと、それは日本にっぽん問題もんだいであるとべ、国際こくさいてき批判ひはんかいせずとの姿勢しせいしめした[102]。ウィッテもがんとしてゆずらず、交渉こうしょう初手しょてから暗礁あんしょうげた[97][102]。これをみてとったロマン・ローゼンは、この議論ぎろん一部始終いちぶしじゅう議事ぎじろくにとどめ、ロシアが日本にっぽん抵抗ていこうした記録きろくのこし、韓国かんこく同意どういたならば、日本にっぽん保護ほごけん確立かくりつすすめてもよいのではないかという妥協だきょうあんをウィッテにしめした[102]小村こむらもまた、韓国かんこく日本にっぽん承諾しょうだくがなければ、他国たこく条約じょうやくむすぶことができない状態じょうたいであり、すでに韓国かんこく主権しゅけん完全かんぜんなものではないとべた[102]。ウィッテは小村こむら主張しゅちょういて、ローゼンの妥協だきょうあんれた[102]

ウィッテらはその賠償金ばいしょうきん支払しはらいや領土りょうど割譲かつじょうについては論外ろんがいであるとの強硬きょうこう姿勢しせいをくずさず、交渉こうしょう難航なんこうした[86]一時いちじ双方そうほう交渉こうしょうって帰国きこくすることまで覚悟かくごしたが、最終さいしゅう段階だんかいみなみ樺太からふとのみの割譲かつじょう妥結だけつした[86]。ルーズベルトの助言じょげんもあって日本にっぽんぐん樺太からふと全島ぜんとう占領せんりょうしていたが、そのうち北緯ほくい50せん以北いほくについては無償むしょう返還へんかんするかたちになったので、これは小村こむらにとっても失敗しっぱいかんじられるものであっただろうとかんがえられる[86]外務省がいむしょう後輩こうはいにあたる石井いしい菊次郎きくじろうによれば、その小村こむら樺太からふとについてくちにすることをいやがったという[86]

とはいえ、樺太からふと賠償金ばいしょうきん以外いがいについては、絶対ぜったいてき必要ひつよう条件じょうけんはすべてたし、比較的ひかくてき必要ひつよう条件じょうけんの(2)(4)についてもまれており、これらは日本にっぽんぐん朝鮮半島ちょうせんはんとうまんしゅう南部なんぶ占領せんりょうしたうえで休戦きゅうせんしたという状況じょうきょううえったものではあった[86][103]現実げんじつてきにみて、日本にっぽん政府せいふ立場たちばからは講和こうわ交渉こうしょう結果けっか成功せいこうおさめたといえたが、日本にっぽん民衆みんしゅうには条約じょうやく内容ないよう不満ふまんをもつものおおかった[103]にち戦争せんそうおおくの負担ふたんいられてきた民衆みんしゅういかりは日比谷ひびや事件じけんとして爆発ばくはつし、当日とうじつ参加さんかしゃのなかには「小村こむら斬首ざんしゅせよ」とさけものもあったという[86][103]条約じょうやく不満ふまんをいだくひとびとのなかには、小村こむら家族かぞく脅迫きょうはくしたり、襲撃しゅうげきしようとしたりするものさえあった[103]

小村こむら条約じょうやく調印ちょういんした翌日よくじつ9月6にち、ニューヨークで体調たいちょうをくずし、肺尖はいせんカタルかかって治療ちりょう専念せんねんした[103]健康けんこうがある程度ていど回復かいふくしたとみられた9月27にち、アメリカをち、バンクーバー経由けいゆして日本にっぽん帰国きこくした[103]ふねちゅう小村こむらは、「かんみつる施設しせつ綱領こうりょう」をき、韓国かんこく日本にっぽん主権しゅけん範囲はんいまんしゅう南部なんぶ日本にっぽん勢力せいりょく範囲はんいかえしたという情勢じょうせい判断はんだんにもとづき、その韓国かんこくまんしゅう政策せいさく指針ししんとした[86]

大陸たいりくへの進出しんしゅつ
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10月16にち横浜よこはまこう到着とうちゃくした小村こむらは、さっそく韓国かんこくでの支配しはいけん確立かくりつすすめた[104]韓国かんこく保護ほごこくについては、だいにちえい同盟どうめいによりイギリスの、かつら・タフト協定きょうていによりアメリカの、ポーツマス条約じょうやくによりロシアの承認しょうにんたこの時期じき好機こうきとみられた[104]10月27にち韓国かんこく保護ほごけん確立かくりつ実行じっこうかんする閣議かくぎ決定けっていにもとづき、4かじょうより協約きょうやくぶんがつくられ、11月18にち深夜しんやだいにちかん協約きょうやくむすばれた[104]韓国かんこく外交がいこうけん剥奪はくだつされて日本にっぽん保護ほごこくとなった[86]かんじょうには韓国かんこく統監とうかんかれることとなり、初代しょだい統監とうかんには伊藤いとう博文ひろぶみ就任しゅうにんした[104]

鴻章こうしうあと清国きよくに外交がいこうになったけい親王しんのう奕劻

小村こむらは、韓国かんこくだけでなく、まんしゅうでも日本にっぽん権益けんえきまもることに熱意ねついかたむけた[105]小村こむら滞米たいべいちゅう8がつ3にち、アメリカの鉄道てつどうおうエドワード・ヘンリー・ハリマン来日らいにちし、9月12にち日本にっぽん政府せいふたい韓国かんこく鉄道てつどうみなみまんしゅう鉄道てつどう連結れんけつさせ、そこでの鉄道てつどう炭坑たんこうなどにたいする共同きょうどう出資しゅっし経営けいえい参加さんか提案ていあんした[105]。ハリマンの提案ていあんを、日本にっぽん政府せいふ好意こういてきめ、元老げんろう伊藤いとう井上いのうえ山縣やまがたはこのあん承認しょうにんかつら太郎たろう首相しゅしょうみなみまんしゅう鉄道てつどう共同きょうどう経営けいえいあんかぎって賛成さんせいし、かり契約けいやくのかたちで予備よび協定きょうてい覚書おぼえがきむすんだ(「かつら・ハリマン協定きょうてい」)[105]。しかし、帰国きこくした小村こむらはこれに反対はんたいかつら元老げんろうたちを説得せっとくして10月23にち、これを破棄はきした[105][106]小村こむらがハリマン提案ていあん反対はんたいした理由りゆうひとつは、小村こむら井上いのうえかおるなどとちがってまんしゅうでの鉄道てつどう経営けいえい日本にっぽん国益こくえきにつながるとかんがえていたためであり、もうひとつは、金子かねこ堅太郎けんたろう情報じょうほうによって、ハリマンのライバルであるモルガンけい企業きぎょうから多額たがく融資ゆうしける目途もくとっていたためである[105]

さらに小村こむらは、清国きよくににポーツマス条約じょうやく決定けってい事項じこうみとめさせるために、11月12にちみずか特派とくは全権ぜんけん大使たいしとなって北京ぺきんんだ[86][107][108]11月17にちから内田うちだ康哉こうさいとともに北京ぺきん会議かいぎのぞんだ小村こむらであったが、たいする清国きよくにがわ全権ぜんけんけい親王しんのう奕劻瞿鴻禨中国語ちゅうごくごばん袁世凱であった[107]。ロシアがいなくなったまんしゅう日本にっぽん勢力せいりょくあらたにはいってくることについて、清国きよくにがわ頑強がんきょう抵抗ていこうした[107]清国きよくには、ロシアのまんしゅう利権りけん日本にっぽんわたすことについては同意どういしたものの、日本にっぽんがわあらたな要求ようきゅうたいしては容易ようい納得なっとくせず、交渉こうしょうはポーツマス講和こうわ会議かいぎ以上いじょう難航なんこうした[86][107][108]。ロシアの介入かいにゅうふせぐためににちしん両国りょうこく会議かいぎ内容ないよう極秘ごくひとして一切いっさい公開こうかいしなかったが、そのため、日本にっぽん譲歩じょうほせまられているのではないかとの憶測おくそくをまねき、小村こむらはまたも国内こくないからのつよいバッシングをけた[108]

小村こむらは、もりきょうしょう沿岸えんがん漁業ぎょぎょうけん要求ようきゅうしていたがこれを放棄ほうきし、一方いっぽうでは、吉林きつりんしょうでは日本にっぽん以外いがいくにたいして鉄道てつどう敷設ふせつけんあたえないと約束やくそくさせた[107]。また、みなみまんしゅう鉄道てつどう並行へいこうする線路せんろ敷設ふせつ禁止きんしさせた[107]交渉こうしょうは1かげつ以上いじょうにおよび、12月22にちまんしゅう善後ぜんご条約じょうやく北京ぺきん条約じょうやく)がむすばれた[107]。これにより、遼東りゃおとん半島はんとう先端せんたん旅順りょじゅん大連たいれんは25年間ねんかん期限きげん日本にっぽん租借そしゃくとなり、のちに「関東かんとうしゅう」とばれた[107]小村こむらは、北京ぺきんでも脳貧血のうひんけつたおれた[107][108]清国きよくにはなれた小村こむら1906ねん1がつ1にち横浜よこはま到着とうちゃくした[107]。それに先立さきだ12月20にち首相しゅしょうかつら辞表じひょう提出ていしゅつしていた[107]。これにともないだい1かつら内閣ないかくそう辞職じしょくし、1がつ7にちだい1西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつ小村こむら外相がいしょう退任たいにんした[107]

枢密すうみつ顧問こもんかんちゅうえい大使たいし

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その治世ちせいの10年間ねんかんにちえい同盟どうめいえいふつ協商きょうしょうえい協商きょうしょうむすんだことで「ピースメーカー」といわれたエドワード7せい

だい1かつら内閣ないかくそう辞職じしょくにともない、外相がいしょうめた小村こむらは、1906ねん1がつ9にち枢密すうみつ顧問こもんかんにんじられた[86][109]。これによりひさしぶりに外交がいこうだい一線いっせんより退しりぞくこととなったが、それもながくはなかった[109]ちゅうえい大使たいしだったはやしただし外相がいしょう就任しゅうにんにともない、6月6にち小村こむら後任こうにん大使たいしとしてイギリスに赴任ふにんするよう指示しじけたのである[109]。7月18にち日本にっぽんち、アメリカを経由けいゆして8がつ16にちにロンドンに着任ちゃくにんした[109]

西園寺さいおんじ内閣ないかくは、にちふつ協約きょうやくにち協商きょうしょうなど、強国きょうこくとなった日本にっぽん地盤じばんかためとにちせん外交がいこう関係かんけい充実じゅうじつつとめ、小村こむらはやし外相がいしょうみずからの意見いけん一度いちどならず具申ぐしんした[110]にちふつ協商きょうしょうかんしては、フランスはロシアとのふつ同盟どうめいさい優先ゆうせんし、そのためにはすべてを犠牲ぎせいにすることはあきらかで、また、にちふつあいだにはとく懸案けんあんもないことから、その締結ていけつには消極しょうきょくてき見解けんかいべた[86][110]一方いっぽうにち協商きょうしょうは、将来しょうらいてきまんしゅうでの日本にっぽん利権りけん進展しんてんするものとなり、ロシアの関心かんしん東欧とうおうバルカン半島ばるかんはんとう方面ほうめんけば日本にっぽんがそれによって享受きょうじゅする利益りえきすくなくないという見地けんちにもとづいて積極せっきょくろんった[86][110]。ただし、韓国かんこくまんしゅうにかかわる具体ぐたいてきめをむことには反対はんたいで、ごくだいたいの内容ないようにとどめるべきとの意見いけんであった[86][110]

とはいえ、全体ぜんたいてきにみれば、小村こむら影響えいきょうりょく日本にっぽん政府せいふないにとどまり、イギリスの世論せろん政府せいふうごかすにはいたらなかった[110]ちゅうえい大使たいしとしての小村こむらは、イギリスでは人気にんきのない外交がいこうかんであった[110]ひとつにはかれ社交しゃこうせいがあり、エドワード7せい時代じだいのイギリスが派手はでパーティー舞踏ぶとうかいがさかんであったため、派手はでなものをきら小村こむらはいっそう社交しゃこううとんじるようになった[110]。もうひとつは、かれ秘密ひみつ主義しゅぎであり、『タイムズ記者きしゃも「コムラの秘密ひみつ主義しゅぎにはがたいものがあった」となげいている[110]小村こむらはまたしても読書どくしょ熱中ねっちゅうし、今回こんかいはイギリスの外交がいこう政策せいさくかんする書籍しょせき中心ちゅうしんに、必要ひつようおうじて経済けいざい問題もんだい社会しゃかい問題もんだいかんする著述ちょじゅつんだ[110]

なお、ちゅうえい大使たいし時代じだい1907ねん9月、小村こむらは、ポーツマス条約じょうやく締結ていけつなど一連いちれん功績こうせきみとめられて伯爵はくしゃくに陞爵している[111]

だい23だい外務がいむ大臣だいじん

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セルゲイ・ウィッテ

1908ねん6がつ西園寺さいおんじ公望きんもち首相しゅしょう辞意じい表明ひょうめいし、7がつ14にち内閣ないかくそう辞職じしょくし、かつら太郎たろうだい2かつら内閣ないかく組織そしき小村こむらふたた外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんした[112]小村こむらはロンドンからウィーンサンクトペテルブルクて、シベリア鉄道てつどうもちいて日本にっぽん帰国きこくした[112]。ウィーンではバルカン半島ばるかんはんとう情勢じょうせい理解りかいするために見聞けんぶんひろめることにつとめ、サンクトペテルブルクではかつての好敵手こうてきしゅであったセルゲイ・ウィッテ再会さいかいした[112]小村こむらはウィッテに、敵対てきたいしたにち両国りょうこくはいまや友好国ゆうこうこくであり、ポーツマス会議かいぎのこともかえればゆめのようであるとべたのにたいし、ウィッテは、会議かいぎ当時とうじ自分じぶん交渉こうしょうだい成功せいこうともてはやされ、小村こむら国民こくみんからおおきな批判ひはんけたが、しかし、いまや評価ひょうか逆転ぎゃくてんしているとべた[112]

帰国きこくした小村こむらは、かつら首相しゅしょう具申ぐしんして「帝国ていこく対外たいがい政策せいさく方針ほうしん」を提出ていしゅつ9月25にち、これにもとづいて閣議かくぎ決定けっていがなされた[112][113]。それは、ドイツ帝国ていこくのぞ列国れっこくとの多角たかくてき同盟どうめい協商きょうしょうもう維持いじ目指めざすというものであった[113]小村こむらは、にちえい同盟どうめいこそ「帝国ていこく外交がいこう骨髄こつづい」としながらも、アメリカとの関係かんけい良好りょうこうたらしめる必要ひつようがあり、排日はいにち移民いみん問題もんだい緩和かんわしつつ、協商きょうしょう関係かんけいむす必要ひつようありとした[112]たいしん外交がいこうについては従来じゅうらい利権りけん関係かんけい複雑ふくざつかならずしも進展しんてんしなかったこともあったが、小村こむら間島まじま問題もんだいなど解決かいけつの6案件あんけん一括いっかつしてパッケージ・ディールをおこなうべしとの方針ほうしん明確めいかくした[112][113]

高平たかひら・ルート協定きょうてい
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1908ねん10月18にち世界せかい周航しゅうこうちゅうのアメリカ艦隊かんたい横浜よこはま到着とうちゃくすると、民衆みんしゅう提灯ちょうちん行列ぎょうれつでこれをむかえ、25にちまでの滞在たいざいちゅう日本にっぽんでは政府せいふ民間みんかん主催しゅさい式典しきてん数多かずおおひらかれ、メディアも大々的だいだいてき報道ほうどうして親米しんべいてき雰囲気ふんいきかもされた[114][114]小村こむらは、このたいべい関係かんけい調整ちょうせいはかるべく、艦隊かんたい離日りにちの25にち高平たかひら小五郎こごろう駐米ちゅうべい大使たいし日米にちべい協商きょうしょう交渉こうしょう指示しじし、それをけ、高平たかひらよく26にちにルーズベルトに小村こむら協商きょうしょうあん提出ていしゅつした[114]大統領だいとうりょうはこれに賛意さんいしめし、11月7にちより高平たかひらとルート国務こくむ長官ちょうかんにより交渉こうしょうはじまった[114]11月30にち日米にちべい両国りょうこく高平たかひら・ルート協定きょうてい調印ちょういんした[113][114]条約じょうやくかたちをとらなかったのは、孤立こりつ主義しゅぎ伝統でんとうつよアメリカ上院じょういん反対はんたいおそれたアメリカがわ事情じじょうによるものであった[114]内容ないようは、太平洋たいへいよう現状げんじょう維持いじ日米にちべい領土りょうどたいする相互そうご不可侵ふかしん通商つうしょう自由じゆう清国きよくに領土りょうど保全ほぜん門戸もんこ開放かいほう機会きかい均等きんとうであり、その文言もんごんだけをみると、かつら・タフト協定きょうてい門戸もんこ開放かいほう原則げんそくふたた確認かくにんしたにすぎないようにもみえるが、悪化あっかしつつあったアメリカとのあいだあらたな協定きょうてい成立せいりつさせた意義いぎおおきかった[113][114]、このころ小村こむら外交がいこうかん堀口ほりぐち九萬一くまいちたいし、「こん当分とうぶんあいだ自分じぶんえいべいとの関係かんけいおだやかにしてくということを基準きじゅんにして、日本にっぽん外交がいこうをやるつもりだ」とかたっている[113]小村こむらはまた、渋沢しぶさわ栄一えいいち実業じつぎょうかい主要しゅよう人物じんぶつ協力きょうりょくもとめ、日米にちべい実業じつぎょうだん相互そうご訪問ほうもん実現じつげんさせた[113]

まんしゅう協約きょうやく間島まじま協約きょうやく
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にちしん関係かんけいについては、小村こむらは、あたらしくちゅうきよし公使こうしにんじられた伊集院いじゅういん彦吉たいし、懸案けんあん事項じこう協議きょうぎはいるようめいじ、パッケージ・ディールの方針ほうしんつたえたが、清国きよくににとっては主権しゅけんにかかわる問題もんだいとして絶対ぜったいゆずれない間島まじま問題もんだいふくまれていたため、交渉こうしょう暗礁あんしょうげた[113]。これには、1909ねん5がつ小村こむら自身じしん肋膜ろくまく肺炎はいえんかかり、一時いちじ職務しょくむ遂行すいこうできないほど病状びょうじょう悪化あっかしていたことともふかくかかわっていた[113][115]一時いちじ清国きよくにがわ紛争ふんそう常設じょうせつ仲裁ちゅうさい裁判所さいばんしょへの付託ふたく提議ていぎし、日本にっぽんがわつよ反発はんぱつする場面ばめんもあったが、最終さいしゅうてきには間島まじま協約きょうやくまんしゅう協約きょうやくまんしゅう案件あんけんかんするにちしん協約きょうやく)が1909ねん9月4にち締結ていけつされて当面とうめん決着けっちゃくをみた[113][115]

だいにち協約きょうやく
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アメリカでは、2大統領だいとうりょうつとめたセオドア・ルーズベルトにわっておな共和党きょうわとうウィリアム・タフト大統領だいとうりょうとなり、従来じゅうらいとはことなり、「ドル外交がいこう」とばれるアメリカの経済けいざいりょく背景はいけいとする政策せいさく転換てんかんした[115]。タフト政権せいけん国務こくむ長官ちょうかんフィランダー・ノックス英語えいごばんは、1909ねん11月と12月に「まんしゅう鉄道てつどう中立ちゅうりつあん」をヨーロッパ諸国しょこく日本にっぽんたいし、提案ていあんした[113][115]。それは、まんしゅう鉄道てつどう列強れっきょう買収ばいしゅうして共同きょうどう管理かんりするか、まんてつ並行へいこうせんとなるにしきしゅう璦琿げん黒河くろかわあいだ鉄道てつどう建設けんせつ支持しじするかをもとめるというもので、えいふつどく打診だしんされたのち、日本にっぽんには12月20にちトーマス・オブライエン英語えいごばんちゅうにち大使たいしつうじてつたえられた[115]

もとより小村こむらは、この提案ていあんにはだい反対はんたいであり、1910ねん1がつ18にち小村こむら主導しゅどう中立ちゅうりつあん拒否きょひ閣議かくぎ決定けっていがなされた[116]1がつ21にちには日本にっぽんとロシアが共同きょうどう拒否きょひ通告つうこくはっした[113][116]。イギリスとフランスも、それぞれの同盟どうめいこくにならって反対はんたい表明ひょうめいし、アメリカのこころみは失敗しっぱいかえした[115]。そして、これにより、日本にっぽんにはロシア・フランスとの親密しんみつがもたらされた[113][116]。1909ねん12月24にちニコライ・マレフスキー=マレーヴィチロシアばんちゅうにちロシア大使たいしたいし、小村こむらにち協約きょうやくいちすすめるべきと提案ていあんしたのにたいし、1がつ21にちにはイズヴォリスキー外相がいしょう賛意さんいしめし、3月2にち閣議かくぎ決定けっていしん協約きょうやく交渉こうしょうはじまった[116]交渉こうしょう順調じゅんちょうすすみ、7がつ4にち、サンクトペテルブルクでだいにち協約きょうやく成立せいりつした[116]

韓国かんこく併合へいごう
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小村こむら寿太郎じゅたろう

ぜん内閣ないかくむすんだだいさんにちかん協約きょうやくによって日本にっぽん韓国かんこく支配しはいはさらに強化きょうかされたが、小村こむらはさらにそれをすすめて韓国かんこく日本にっぽん領土りょうど方針ほうしんであった[114]。1909ねん4がつ10日とおか小村こむらかつら首相しゅしょうとともに、一時いちじ帰国きこくちゅう伊藤いとう博文ひろぶみ韓国かんこく統監とうかんのもとをたずね、併合へいごう方針ほうしんしめした[114]伊藤いとう併合へいごう反対はんたいとしてられていたので、当然とうぜん反対はんたいするであろうとおもって訪問ほうもんしたのであるが、意外いがいにもかれはあっさりと同意どういした[114]みずか統監とうかん就任しゅうにんし、おだやかな手段しゅだん韓国かんこく産業さんぎょう育成いくせい教育きょういく発展はってんはかろうとした伊藤いとうであったが、穏健おんけん支配しはいでも義兵ぎへい闘争とうそうなどの抵抗ていこうはむしろつよまり、おさまる気配けはいがみえなかったので、辞任じにんかんがえていたのである[114]伊藤いとう同意どういによって併合へいごうへのうごきは加速かそくした[114]

7がつ6にち、「韓国かんこく併合へいごうかんするけん」が閣議かくぎ決定けっていされ、同時どうじに「たいかん施設しせつ大綱たいこう」も策定さくていされた[114]。7がつ下旬げじゅんには、大韓たいかん帝国ていこく皇帝こうてい廃位はいいして皇帝こうてい一族いちぞく東京とうきょううつすことや日本にっぽん外国がいこくとの条約じょうやく基本きほんてき韓国かんこくにも適用てきようすることなどをしるした意見いけんしょかつら提出ていしゅつし、閣議かくぎ了承りょうしょうされた[114]

1910ねん2がつ28にち小村こむら外国がいこく駐在ちゅうざい大使たいし電報でんぽうおくり、韓国かんこく併合へいごうかんする注意ちゅういうながした[117]4がつ5にち本野ほんの一郎いちろうちゅう大使たいしは、だいにち協約きょうやく交渉こうしょうちゅう韓国かんこく併合へいごうかんするロシアがわ意向いこうさぐった[117]当初とうしょはイズヴォルスキー外相がいしょう懸念けねん表明ひょうめいしていたが、4がつ10日とおか、ロシア首相しゅしょうピョートル・ストルイピンは、ロシアには反対はんたいする理由りゆう権利けんりもないとかたった[117]4がつ19にち小村こむら本野ほんの訓令くんれいはっし、適当てきとう時期じき韓国かんこく併合へいごう実施じっしすることについて理解りかいもとめるようつたえさせたが、ロシアからの反対はんたいはそのもなかった[117]

イギリスにたいしては、1910ねん5月19にち小村こむら自身じしんがマクドナルドちゅう日大にちだい使との会談かいだんさい韓国かんこく併合へいごう問題もんだいについてはない、日本にっぽん韓国かんこく併合へいごう異存いぞんはないとの同意どういたが、税率ぜいりつ変更へんこうについては懸念けねん表明ひょうめいがなされた[117]日本にっぽん当時とうじ関税かんぜい自主権じしゅけん完全かんぜん回復かいふく目指めざしており、イギリスとも交渉こうしょうちゅうであったが、イギリスが過去かこ韓国かんこくむすんだ条約じょうやくについて改正かいせい関税かんぜいりつ適用てきようされることを危惧きぐしたのである[117]。これにたいし、小村こむら関税かんぜいをしばらく現状げんじょうのままとし、開港かいこうじょうから馬山まやまのぞいてしんしゅうくわえるなどの措置そちをとったため、エドワード・グレイ外相がいしょう安心あんしんして満足まんぞくあらわし、8がつ3にち併合へいごう同意どうい意思いしつたえた[117]

5月30にち文官ぶんかん併合へいごう反対はんたいだった曾禰あらすけえてだい3だい統監とうかんとして寺内てらうち正毅まさき陸相りくしょうえらばれた[117]寺内てらうち7がつ23にち韓国かんこく到着とうちゃくして皇帝こうていじゅんむね挨拶あいさつし、8がつ13にち小村こむらたいして、いち週間しゅうかん以内いない併合へいごう条約じょうやく調印ちょういんする予定よていであるとつたえた[117]併合へいごう既定きてい路線ろせんであったため、小村こむらこまかい指示しじあたえず、寺内てらうち交渉こうしょうゆだねた[117]。1910ねん8がつ22にち韓国かんこく併合へいごう条約じょうやく調印ちょういんされた[113][117]

条約じょうやく改正かいせいだいさんにちえい同盟どうめい
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内田うちだ康哉こうさい駐米ちゅうべい大使たいしとのあいだしん日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく調印ちょういんしたフィランダー・ノックス国務こくむ長官ちょうかん

この時期じきにちえい関係かんけいは、にち関係かんけい改善かいぜんなどもあって、同盟どうめい有用ゆうようせい以前いぜんよりも低下ていかしたとかんがえられるなど転機てんきをむかえていた[118]。しかし、小村こむらはさまざまなってにちえい同盟どうめい関係かんけい維持いじそそいだ[118]。まず、しんえいとしてられる加藤かとう高明こうめいちゅうえい大使たいしとし、いで友好ゆうこうげるためににちえい博覧はくらんかい開催かいさいした[118]博覧はくらんかいは1910ねん5月14にちから10月29にちにかけてロンドンひらかれ、好評こうひょうはくした[118]

にちえい関係かんけいにおいて、小村こむらもっとしんくだいたのが条約じょうやく改正かいせい問題もんだいであった[118]。1910ねん3がつ以降いこう関税かんぜい自主権じしゅけん完全かんぜん回復かいふく目指めざしてにちえい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく改定かいてい協議きょうぎしていたが、協定きょうてい関税かんぜい制度せいど撤廃てっぱいもとめる日本にっぽんたいし、イギリスはこれに反対はんたいし、難航なんこうしていた[113][118]小村こむらは、このけんではイギリス相手あいてであっても妥協だきょうしないことを、2度目どめ外相がいしょう就任しゅうにんより表明ひょうめいしていた[118]。あくまで対等たいとう条約じょうやくもとめるのが小村こむら持論じろんだったのである[118]加藤かとう高明こうめい交渉こうしょうをまとめるために小村こむら譲歩じょうほ提案ていあんしたが、小村こむらはそれを拒否きょひした[118]

小村こむら結局けっきょく交渉こうしょう優先ゆうせんすべき相手あいてこくえることで解決かいけつした[113][115]相手あいてえらんだのはアメリカであった[115]。ノックス国務こくむ長官ちょうかんまんしゅう鉄道てつどう中立ちゅうりつあんは、たしかににち両国りょうこく反対はんたいにより頓挫とんざしたとはいえ、かならずしも日米にちべい関係かんけい悪化あっか意味いみするわけではなかった[115]。ノックスはむしろ、これ以上いじょう日米にちべい関係かんけい悪化あっかこわれて日本にっぽん意向いこう以前いぜんよりも考慮こうりょするようになっていた[115]小村こむらもまた、清国きよくにへのえいふつどく借款しゃっかんだんにアメリカがくわわることに反対はんたいしなかった[115]小村こむら日本にっぽん権益けんえきへの過度かど介入かいにゅう反対はんたいだっただけなのであり、まんしゅうへの外国がいこく資本しほん導入どうにゅうにはむしろ賛成さんせいしていたのである[115]小村こむらもまた、アメリカとの関係かんけい調整ちょうせいもちいた[115]

日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく改定かいてい交渉こうしょうは1910ねん10月19にちよりはじまった[118]交渉こうしょう予想よそうがい順調じゅんちょうで、1911ねん2がつ21にちにはしん条約じょうやく調印ちょういんされた[113][118]。これにより、幕末ばくまつ以来いらい日本人にっぽんじんにとって悲願ひがんであった不平等ふびょうどう条約じょうやく完全かんぜん改正かいせい達成たっせいされた[118]日本にっぽんたいべい移民いみん制限せいげんさだめた日米にちべい紳士しんし協定きょうてい維持いじ約束やくそくしていた[113][118]。アメリカとのあいだ関税かんぜい自主権じしゅけん回復かいふくされると、他国たこくとの条約じょうやく改正かいせい問題もんだい解決かいけつ方向ほうこうせいがみえてきた[113][118]小村こむらは、イギリスが重視じゅうしする輸出ゆしゅつひんかぎって協定きょうてい関税かんぜいのこわりに日本にっぽんのいくつかの輸出ゆしゅつひん無税むぜいになることでいをつけ、4がつ3にちしんにちえい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやくむすんだ[118]同年どうねんちゅうに、フランス、ドイツなど列強れっきょうとのあいだでもしん通商つうしょう航海こうかい条約じょうやくむすばれた[118]

これよりさき、イギリスのエドワード・グレイ外相がいしょうは、1910ねん9月26にち加藤かとうちゅうえい大使たいしにちえい同盟どうめい改定かいていについて意向いこうたずねている[118]当時とうじえいべい両国りょうこくでは、紛争ふんそう仲裁ちゅうさい機関きかんゆだねる仲裁ちゅうさい裁判さいばん条約じょうやく締結ていけつ検討けんとうされていた[118]。そこでグレイは、日本にっぽんたいして、仲裁ちゅうさい裁判さいばん条約じょうやく違背いはいしないようににちえい同盟どうめい改定かいていするか、あるいはえいべい仲裁ちゅうさい裁判さいばん条約じょうやく日本にっぽん加入かにゅうするか、どちらかをえらぶよう示唆しさした[118]えいべいあいだでは、国家こっかあいだ対立たいりつ平和へいわてき手段しゅだん解決かいけつすることをさだめた仲裁ちゅうさい裁判さいばん条約じょうやくむすんでいたため戦争せんそうはできない状態じょうたいである[118]条約じょうやく違反いはんおちいらないためには、かり日米にちべいあいだ戦争せんそうきた場合ばあいにイギリスがまれないためには同盟どうめい改定かいていするか日本にっぽんどう条約じょうやく加入かにゅうするほかなかったのである[118]小村こむらは、仲裁ちゅうさい裁判さいばん条約じょうやく日本にっぽん不利ふり判決はんけつ傾向けいこうっているとして批判ひはんてき立場たちばをとっていた[118]結局けっきょく小村こむらは1911ねん1がつ17にち改定かいていほう選択せんたくするむねこたえた[118]。4月5にちにちえい同盟どうめい改定かいていあん閣議かくぎ決定けっていされた[118]

イギリスがアメリカと仲裁ちゅうさい裁判さいばん条約じょうやくむす以上いじょう、アメリカを対象たいしょう同盟どうめい適用てきようされないのは当然とうぜんであった[118]。しかし、かりにアメリカがくに同盟どうめいむすんだとき、同盟どうめい発動はつどうされるかかについては意見いけんかれた[118]小村こむらは、発動はつどうされるようつよもとめたが、グレイはゆずらず、加藤かとうはイギリスがわって小村こむら主張しゅちょう批判ひはんした[118]総理そうり大臣だいじんかつらは、このとき同盟どうめい発動はつどうしないことに最終さいしゅうてき同意どういし、小村こむらもやむなくれた[118]7がつ13にちだいさんにちえい同盟どうめい条約じょうやく調印ちょういんされた[118]

なお、小村こむらは1911ねん4がつ22にち韓国かんこく併合へいごうこうなどにより侯爵こうしゃくに陞爵している[119]

政界せいかい引退いんたい死去しきょ

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1911ねん明治めいじ44ねん)8がつ25にちだい2かつら内閣ないかくそう辞職じしょくし、8がつ30にちだい2西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつした[120]かつらは、小村こむら外相がいしょう留任りゅうにん希望きぼうしていたが、はらたかし中心ちゅうしんとする与党よとう立憲りっけん政友せいゆうかいは、かつら影響えいきょうりょく新内しんないかくのこるのをきらい、後継こうけい外相がいしょう内田うちだ康哉こうさいむかえた[120]

外相がいしょうして政界せいかい引退いんたいした小村こむらは、9月に神奈川かながわけん葉山はやままち転居てんきょした[120]貧乏びんぼう生活せいかつわらなかったが、きなさけみ、読書どくしょたのしみながら生活せいかつした[120]ちょうチフス、肺尖はいせんカタル、肋膜ろくまく肺炎はいえん大病たいびょうかえしていた小村こむらだが、1910ねんにも肛囲えんで2手術しゅじゅつけて、満身まんしん創痍そうい状態じょうたいであった[113][120]

11月にはいり、ねつはじめ、11にちにははいいたみをかんじるようになったためゆかせるようになった[120]。しかし、読書どくしょねつおとろえずアルフレッド・テニスン詩集ししゅうつねかたわらにいていた[120]来客らいきゃくともよくかたり、とく親友しんゆう杉浦すぎうら重剛しげたけ見舞みまいにさいにはよろこんで長時間ちょうじかんはなんだ[120]容体ようだい急変きゅうへんしたのは11月22にちのことである[120]。23にちには脳膜炎のうまくえん症状しょうじょうあらわれ、24にちかつら寺内てらうちたずねてきたときには言葉ことばわすことができなかった[120]。25にち杉浦すぎうら旧友きゅうゆうあつまったが、小村こむら呼吸こきゅう困難こんなん状態じょうたいであり、やがて危篤きとくおちいった[120]11月26にち小村こむら寿太郎じゅたろう葉山はやま自宅じたく死去しきょした[113][120]まん56さいだった。12月2にち小村こむら外務省がいむしょうそうおこなわれた[120]墓所はかしょ東京とうきょうみなと青山あおやま霊園れいえんにある。

人物じんぶつ逸話いつわ

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読書どくしょ翻訳ほんやく

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小村こむらは、自分じぶん仕事しごと後世こうせい人間にんげん判断はんだんすべきであるとして日記にっき一切いっさいけなかった。また、秘密ひみつ主義しゅぎつらぬいたため、小村こむら手紙てがみもほとんどのこっていない[121][注釈ちゅうしゃく 11]。ポーツマス条約じょうやく交渉こうしょうでもまんしゅう善後ぜんご条約じょうやく交渉こうしょうでも、小村こむらはさんざんたたかれたが、一切いっさい自己じこ弁護べんごをしていない[108]。ただし、小村こむら東京とうきょう開成かいせい学校がっこう時代じだいいた英文えいぶん自叙伝じじょでん "My Autobiography" が1997ねんにアメリカの大学だいがくつかっており、開成かいせい学校がっこう英語えいご教師きょうしだったグリフィスはこれについて18さい青年せいねんいたとはおもえないほどのふか内容ないようだとめている[4]

小村こむらはまた、たいへんな読書どくしょであり、ロシアに駐在ちゅうざいしていたときには薄暗うすぐら室内しつない膨大ぼうだいりょう書物しょもつあさっため視力しりょく大幅おおはばおとろえ、医者いしゃからはこれ以上いじょう使つかつづけると失明しつめいするとまで警告けいこくされたが、それでも小村こむら学習がくしゅう意欲いよくおとろえず、読書どくしょめることは終生しゅうせいなかった[16]

小村こむらは40さいぎても公私こうしどもむくわれず、翻訳ほんやく内職ないしょくをして生計せいけいささえていたが、小村こむらうんけたきっかけはこの内職ないしょくにあった[20]翻訳ほんやくという作業さぎょうは、しょ分野ぶんやにおける多様たよう事象じしょうについて勉強べんきょうする機会きかい翻訳ほんやくしゃにもたらす[20]上述じょうじゅつのとおり、翻訳ほんやく紡績ぼうせきかんする知識ちしき陸奥むつ宗光むねみつまえ披露ひろうする機会きかいがあり、陸奥みちのく小村こむら博識はくしき感服かんぷくしたが、小村こむら陸奥みちのくに「わたしなにでもっています。ここにいるはらたかしくんほどわたしもちいてくれるなら、わたし相当そうとうのことをいたします」と返答へんとうして陸奥みちのくおどろかせている[20][122]

借金しゃっきんつま

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つまのマチ(町子まちこ
小村こむらよりたかかったが、アメリカ留学りゅうがく時代じだいつねたか女性じょせいかこまれていた小村こむらは、町子まちこならんであるくことはにならなかった[11]

上述じょうじゅつのとおり、父親ちちおや事業じぎょう失敗しっぱいしてつくった多額たがく借金しゃっきん小村こむら肩代かたがわりし、生涯しょうがいつうじてその返済へんさい苦労くろうした[11]。その貧乏びんぼう生活せいかつはすさまじいもので、家具かぐ長火鉢ながひばち1つと座布団ざぶとん2つだけ、衣類いるいはほとんど質屋しちやれたため、 いつもおなふくており、べるものにも事欠ことかいて、長男ちょうなん欣一きんいち夜盲症やもうしょうよる視力しりょくいちじるしくおとろえる病気びょうき)にかかるというありさまであった[13]

債権さいけんしゃ次々つぎつぎ役所やくしょ小村こむらていしかけてきたが、新婚しんこんつま着物きものかねえたり、るにかねた有志ゆうし債権さいけんしゃ全員ぜんいんあつめて一部いちぶ棒引ぼうびきにしてもらったり、小村こむらのためにげんさい基金ききんもうけられたりした[11]。ところがとう小村こむら借金しゃっきん返済へんさい前後ぜんこうには外泊がいはくし、待合まちあがよいをしたため、つま赤坂あかさか新橋しんばしあるまわっておっと居場所いばしょをかぎし、人前ひとまえでも平気へいき小村こむらあたらしたという[11][123][124]

経済けいざいてき苦境くきょう他人たにん同情どうじょうされると、小村こむらつねに「もうくるしいのはとおして平気へいきです」とこたえていた[13]。こうしたタフでふてぶてしい神経しんけいは、数々かずかず豪快ごうかい逸話いつわすこととなった[13]。たとえば、留守るすちゅう近所きんじょ火事かじがあり、のちに自宅じたく被災ひさいするところだったというはなしいた小村こむらは、けてしまえば借金しゃっきんばしの口実こうじつができたのにとわらって、周囲しゅういあきれさせた[13]外務がいむ省内しょうない宴会えんかいがあると、酒好さけずきの小村こむらかなら出席しゅっせきしたが、いつも会費かいひ支払しはらわずに人一倍ひといちばいいして平然へいぜんとしていた[13]。また、金銭きんせんてき援助えんじょもうひとがあっても、かねりると一生いっしょうあたまがらなくなるのがたまらないという理由りゆうことわっている[13]小村こむら有名ゆうめいになるにともない、雌伏しふく時代じだい貧乏びんぼうらしも有名ゆうめいになり、のちには国定こくてい教科書きょうかしょ掲載けいさいされたほどであった[13]

つまのマチ(町子まちこ)は、明治めいじ女学校じょがっこう高等こうとう教育きょういくけており、留学りゅうがくから帰国きこくしたばかりのかれにはまぶしい存在そんざいであったが、結婚けっこんみずからは裁縫さいほうもしなければ料理りょうりもせず、実家じっかからの仕送しおくりで女中じょちゅうやとい、家事かじ一切いっさいをやらせるような女性じょせいであったことに小村こむら愕然がくぜんとしたらしい[11]。マチは、多分たぶん感情かんじょうげきすることがおおく、小村こむらといいになると暴言ぼうげんいたりものげたりして、近所きんじょ実家じっか両親りょうしんのもとにっていてうったえることもあった[11]彼女かのじょ唯一ゆいいつ趣味しゅみ芝居しばい見物けんぶつで、子供こどもたちを女中じょちゅうたくして実家じっかははなどと一緒いっしょ外出がいしゅつすることもすくなくなかったという[11]

毒舌どくぜつ

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黒田くろだ内閣ないかくのとき、外相がいしょう大隈おおくま重信しげのぶはしばしば元老げんろう大臣だいじん次官じかん局長きょくちょう晩餐ばんさんまねいたことがあり、小村こむらなんばれている[16]。あるばん三遊亭円朝さんゆうていえんちょうとしばなし一席いっせき披露ひろうしたのち伊藤いとう博文ひろぶみゆかあいだせきからえんあささかずきをとらせると手招てまねきをした[16]。かしこまるだけで一向いっこうまえすすまない円朝えんちょうたいし、小村こむら開口かいこうし、「このなかで一番いちばんえらいのは円朝えんちょうだ。元老げんろう大臣だいじんたちはんだあとにいくらでも立派りっぱ後継あとつぎがひかえている。しかし、円朝えんちょうほどの名人めいじんともなると後継あとつぎがいようはずもない。だから、それほどかしこまらなくてよい」と大声おおごえこえをかけたという[16]大病たいびょうをくりがえし、風采ふうさいがらない小村こむらじつ毒舌どくぜつ放胆ほうたん行動こうどうりょくぬしであった[28]

かお体格たいかくかんする逸話いつわ

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ポーツマス条約じょうやくにち両国りょうこく全権ぜんけんとT.ルーズベルト
ひだりより、セルゲイ・ウィッテ、ロマン・ローゼン、ルーズベルト、小村こむら高平たかひら

小村こむら小柄こがらで、ハーバード大学だいがく留学りゅうがく取得しゅとくしたパスポートには「しゃくいちすん」(やく156センチ)との記載きさいがある[4]。また、日本にっぽん近代きんだい日本にっぽん政治せいじ外交がいこう片山かたやまけいたかし身長しんちょうは150センチメートルにたないとしており[125]小説しょうせつ吉村よしむらあきらもその著書ちょしょなか小村こむらは4しゃく7すんやく143センチ)と記述きじゅつしている[126]容貌ようぼうは、下関しものせき条約じょうやく交渉こうしょうちょうチフスをわずらったのち一変いっぺんし、かつて眉目びもく秀麗しゅうれいわれた小村こむらも、あたまだけがおおきく、はなしたからくちあたりにがる貧相ひんそうひげやしたかおは「やつれしょう」となった[28][32][123][124]はくぼんでほおち、ふとまゆがり、それでいてすばしっこく行動こうどうりょくがあることなどから、北京ぺきんではくちさがない外交がいこうだんから「ねずみ公使こうし」と仇名あだなされ、同輩どうはい邦人ほうじんからも「小村こむらチューこう」とばれたという[24][28][123][124]

ポーツマス交渉こうしょう小村こむら

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にち講和こうわ会議かいぎのためポーツマスにけて出発しゅっぱつするさいのエピソード(上述じょうじゅつ)からも、大国たいこくロシアはかならずしも戦争せんそうけたとはかんがえていないことを小村こむらはよく理解りかいしており、そのため交渉こうしょう難航なんこうするであろうこと、そしてロシアからせる代償だいしょう一般いっぱん日本にっぽん国民こくみん期待きたいするものからは程遠ほどとおいものになるだろうことを当初とうしょから予見よけんしていた[122][124]ロイター通信つうしんや『タイムズ』日本にっぽんりのニュースを配信はいしんしていたこともあって、1905ねん当時とうじのアメリカでは日本にっぽんびいきの世論せろん醸成じょうせいされていた。そこで手練しゅれん手管てくだ政治せいじウィッテは、にちあいだ秘密ひみつとすることで合意ごういしている交渉こうしょう途中とちゅう経過けいかをアメリカの新聞しんぶん記者きしゃにリークしておんせるという瀬戸際せとぎわ世論せろん工作こうさくひろげたが、律儀りちぎ小村こむら最後さいごまで合意ごういまもってくちざした。

ポーツマス条約じょうやくむすばれた深夜しんやホテル一室いっしつからみょうごえこえてくるのを不審ふしんおもった警備けいびいんがその部屋へやたずねると、きじゃくっていたのはだれあろう小村こむら全権ぜんけんそのひとだった。小村こむらにとってこの条約じょうやく調印ちょういんすることはそれほど苦渋くじゅう決断けつだんだったのである。予想よそうどおり、帰国きこくした小村こむらかまえていたのはいかくる群衆ぐんしゅうだった[127]家族かぞく全員ぜんいん帰国きこくする小村こむら横浜よこはままでむかえにいこうとすると、安全あんぜん保障ほしょうできないとして、だれむかえにかないでほしいと憲兵けんぺいわれ、小村こむらむかえにけなかった[104][128]結局けっきょく長男ちょうなん欣一きんいちだけが横浜よこはまくことをゆるされ、小型こがたせんみ、船室せんしつ小村こむら対面たいめんすることができた。小村こむらは、欣一きんいちかおるなり「おお、無事ぶじだったか」とってつくづくとかおをながめたという[127][128]外相がいしょう官邸かんてい襲撃しゅうげきされ、小村こむら家族かぞく斬殺ざんさつされたといううわさながれたので、実際じっさい息子むすこかおをみてようやく安堵あんどしたのであった[128]新橋しんばしえきでは、「すみやかに切腹せっぷくせよ」「日本にっぽんかえるよりロシアにかえれ」などという散々さんざん罵声ばせいびせられた小村こむらを、出迎でむかえた首相しゅしょうかつらうみしょう山本やまもと権兵衛ごんべえりょうわきはさむようしてあるき、ばくだんでもげつけられたら共倒ともだおれの覚悟かくご首相しゅしょう官邸かんていまでかれ護衛ごえいしている[127]。その小村こむらていへの投石とうせきなどの騒乱そうらんおさまらず、つまのマチは精神せいしんてきめられ、小村こむらはしばらくのあいだ家族かぞく別居べっきょすることを余儀よぎなくされた[127]

外政がいせい小村こむら

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小村こむら特徴とくちょうとしてはまず、アメリカ留学りゅうがくきたえた抜群ばつぐん語学ごがくりょくがあげられる[121]外交がいこうかんとなってからも仕事しごと合間あいま大量たいりょう洋書ようしょみこなすなど、小村こむら外交がいこう政策せいさく基盤きばんとして高度こうど語学ごがくりょくささえられた情報じょうほう収集しゅうしゅう能力のうりょくがあったことはうたがいない[121]

そして、小村こむら在外ざいがい公使こうし領事りょうじ本国ほんごく送信そうしんした電報でんぽうを、じつ丁寧ていねいに、様々さまざま角度かくどから自身じしんみ、そのため、非常ひじょう時間じかんはかかったものの内容ないようをよくおぼえており、それをもとにみずから判断はんだんし、返電へんでん訓電くんでんかなら小村こむらけたものであったという[121]小村こむらはしばしば病気びょうきわずらったが、職務しょくむにあって小村こむらはその姿勢しせいつらぬいたのである[121]

小村こむらがひじょうに秘密ひみつ主義しゅぎてっしていたことも特筆とくひつあたいする[121]機密きみつまもるのは、外交がいこうかん資質ししつとしてきわめて大切たいせつ要素ようそではあるが、ひととの距離きょりとおざける原因げんいんともなっていた[110]。また、小村こむらはたいへんな社交しゃこうきらいでもあったため、駐米ちゅうべい公使こうし時代じだいちゅうえい大使たいし時代じだい不人気ふにんき外交がいこうかんであり、同盟どうめいこく友好国ゆうこうこく人脈じんみゃくひろげることはできなかった[110]大使たいし公使こうしとしての勤務きんむいていなかったわけではないが、小村こむらはむしろ乱世らんせいちから発揮はっきするタイプであった[110]。なお、小村こむらはしばしばマスコミぎらいとおもわれがちであるが、かならずしもそうではなく、利用りようできるとんだときはおおいにメディアを活用かつようしている[85]

さらに、小村こむら特徴とくちょうとしては、議会ぎかい政党せいとうたいするひく評価ひょうかがある[121]。このてん陸奥むつ宗光むねみつ加藤かとう高明こうめいともことなっており、超然ちょうぜんないかくがかろうじて成立せいりつしえた明治めいじ時代じだい後半こうはんであったからこそ小村こむら充分じゅうぶんちから発揮はっきできたという側面そくめんがある[121]小村こむらは、いちこく外交がいこう権限けんげん外務がいむ大臣だいじん内閣ないかくにあるとかんがえていた[129]。そのため、外交がいこう方針ほうしん伊藤いとう博文ひろぶみ山縣やまがた有朋ありともなどの元老げんろう影響えいきょうりょくおよぼすことにもつよ反対はんたいした[129]藩閥はんばつ政府せいふにも反発はんぱつしていたため、まずはかつら首相しゅしょう支持しじりつけ、ときかつらをリードしながら外政がいせいでの主導しゅどうけんにぎることで元老げんろう関与かんよ限定げんていてきなものにとどめた[129]

そのスタイルは、たしかに民主みんしゅ主義しゅぎてきでエリート主義しゅぎてきなものといえたが、一方いっぽうでは、外交がいこう政争せいそうにしないという長所ちょうしょがあった[129]小村こむら外交がいこう政策せいさくには一貫いっかんせいがあり、遂行すいこうにあたってもけっしてぶれなかったが、これはけっして小村こむら個人こじんてき性格せいかくだけにかえせられるものではない[129]。また、小村こむら民主みんしゅ主義しゅぎぎらいも、交渉こうしょう対象たいしょうこく政治せいじ体制たいせいいかんによってイデオロギーによって外国がいこく評価ひょうかしたり、政策せいさく決定けっていしたりという風潮ふうちょうには無縁むえんで、純粋じゅんすいパワー・ポリティクス視点してんから国際こくさい政治せいじかんがえ、そのなかでの国益こくえきさい優先ゆうせんかんがえたため、柔軟じゅうなん現実げんじつてき外交がいこう政策せいさくられるという利点りてんがあった[129]。イギリス・アメリカ・ロシア・清国きよくに朝鮮ちょうせん韓国かんこく)といった重要じゅうよう国々くにぐにでの外交がいこうかん歴任れきにんし、海外かいがい経験けいけん豊富ほうふわりには、特定とくていくにへのおもれが外交がいこう政策せいさく影響えいきょうしなかったてん小村こむら特徴とくちょうで、どのくにとも適度てきど距離きょりをとって公平こうへい冷静れいせい判断はんだんくだしている[129]

モットー

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小村こむら寿太郎じゅたろうはか

わか(もし)、万一まんいちにもるべきものがあるとしたならば、おっと(そ)れはただまこと」のいちつくされる」[1]。これは、小村こむらが1911ねん青少年せいしょうねんけに発表はっぴょうした自叙伝じじょでんふう手記しゅきまこといち』のいちせつである[4]

外交がいこうかん時代じだい小村こむらは、外交がいこうにたずさわるものとしての心得こころえ教示きょうししてほしいという秘書官ひしょかんもとめにたいし、だいいちうそいつわりをくちにしないことだとべた[4]外交がいこうかん相手あいて信頼しんらい獲得かくとくすることが肝要かんようであり、そのためには正直しょうじきであることがなによりも大切たいせつだとの意味いみであった[4]。ただし、ときには国家こっかのためにだいぼらをかなくてはならないことは小村こむら自身じしんみとめていて、「普段ふだんからうそおおやつは、こんなにききめくなります」とくわえるのをわすれなかった[4]

まこと」の大切たいせつさを小村こむら伝授でんじゅしたのは、祖母そぼくまだったといわれている[4]。1906ねん小村こむら県立けんりつ宮崎みやざき中学校ちゅうがっこうげん宮崎みやざき県立けんりつ宮崎みやざき大宮おおみや高等こうとう学校がっこう)で講演こうえんをおこなう機会きかいがあったとき、ポーツマス会議かいぎはなしなどを期待きたいした生徒せいとまえにして、小村こむらは「諸君しょくん正直しょうじきであれ。正直しょうじきということはなにより大切たいせつである」とだけべて演壇えんだんりた[4]。このみじかすぎる講演こうえん雄弁ゆうべんかたりを期待きたいした生徒せいとには期待きたいはずれではあったが、一方いっぽうでは聴衆ちょうしゅう強烈きょうれつ印象いんしょうをあたえ、「伝説でんせつの1分間ふんかん訓話くんわ」としてかたがれている[4]

家族かぞく

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栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょう
爵位しゃくい
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

記念きねんかん

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宮崎みやざきけん日南にちなん飫肥おび小村こむらちや業績ぎょうせき紹介しょうかいする「国際こくさい交流こうりゅうセンター小村こむら記念きねんかん」がある[168]

伝記でんき評伝ひょうでん

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えんじた俳優はいゆう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 飫肥おびはんは、現在げんざい宮崎みやざきけん日南にちなんのほぼ全域ぜんいき宮崎みやざき南部なんぶはんいきとする江戸えど時代じだいはん領主りょうしゅ外様とざま大名だいみょう伊東いとう石高こくだか5まん1,000せき
  2. ^ おなじく藩閥はんばつ外交がいこうはたけから政党せいとう政治せいじすすんだはらたかしより1さい年長ねんちょうである[2]
  3. ^ 小倉おぐらしょたいら明治めいじ3ねん5がつ大学だいがく別当べっとう松平まつだいら慶永よしながより大学南だいがくみなみこうしょうしゃちょう任命にんめいされている[9]
  4. ^ 鳩山はとやまコロンビア大学ころんびあだいがく菊池きくち斎藤さいとうボストン大学だいがくすすんだ。鳩山はとやまはコロンビアだい卒業そつぎょうののちイェール大学だいがくすすみ、博士はかせごう取得しゅとくした[10]
  5. ^ 陸奥むつ外相がいしょうのもとで、外交がいこうかん試験しけん制度せいど改革かいかくすすめられ、実力じつりょく本位ほんい任用にんようがなされることになったが、翻訳ほんやく局長きょくちょう小村こむらは、この改革かいかくにおいて栗野くりの慎一郎しんいちろう政務せいむ局長きょくちょうとともに立案りつあん担当たんとうはらたかし通商つうしょう局長きょくちょうささえた[18]
  6. ^ にちしん講和こうわ条約じょうやくさいして、小村こむら講和こうわ条件じょうけんとして、すななど開港かいこうじょう増設ぞうせつ北京ぺきん天津てんしんあいだ鉄道てつどう敷設ふせつけん汽船きせん航路こうろ拡張かくちょうの3てん骨子こっしとする意見いけんしょ提出ていしゅつした。鉄道てつどう敷設ふせつかんする意見いけん以外いがいの2つについては、小村こむら意見いけん反映はんえいされた[15][31]
  7. ^ 小村こむら外務がいむ次官じかん在任ざいにんちゅうの1897ねん8がつ24にちかれにとってだいおんある陸奥むつ宗光むねみつ死去しきょしている[30][41]
  8. ^ ロシアは日本にっぽんとの関係かんけい修復しゅうふくするため、2がつ2にち中立ちゅうりつ地帯ちたいあん削除さくじょし、日本にっぽん韓国かんこく軍事ぐんじじょう目的もくてき使用しようすることをみとめる妥協だきょうあん決定けっていしたが、電文でんぶんが2がつ7にちだったため、開戦かいせんわなかった[82]
  9. ^ 伊藤いとう門下もんか四天王してんのう」のうちのあとの2人ふたり伊東いとう巳代治みよじ井上いのうえあつしである[85]
  10. ^ このことは、日本にっぽん国内こくないでも条約じょうやく締結ていけつの10がつに「小村こむら新聞しんぶん操縦そうじゅう失敗しっぱい」として『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』で批判ひはん記事きじ掲載けいさいされた[95]
  11. ^ 研究けんきゅうしゃ千葉ちばいさおは、小村こむら書簡しょかんは1つうしかみたことがなく、それも時候じこう挨拶あいさつといったまったく政治せいじてきなものであったという。千葉ちばは「小村こむら外交がいこう」の研究けんきゅうはあっても、小村こむら伝記でんきてき研究けんきゅうがほとんどないのは小村こむらわたし文書ぶんしょをまったくのこさなかったからだとしている[121]

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  153. ^ 官報かんぽう』1899ねん4がつ27にち叙任じょにん及辞れい
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
侯爵こうしゃく
小村こむら壽太郎じゅたろう初代しょだい
1911ねん
次代じだい
小村こむら欣一きんいち
先代せんだい
陞爵
伯爵はくしゃく
小村こむら壽太郎じゅたろう初代しょだい
1907ねん - 1911ねん
次代じだい
陞爵
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
小村こむら壽太郎じゅたろう初代しょだい
1902ねん - 1907ねん
次代じだい
陞爵