立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい (りっけんせいゆうかい、旧 きゅう 字体 じたい :立憲 りっけん 󠄁政友 せいゆう 會 かい [ 15] )は、明治 めいじ 時代 じだい から昭和 しょうわ 時代 じだい (戦前 せんぜん )にかけての日本 にっぽん の政党 せいとう 。略称 りゃくしょう は政友 せいゆう 会 かい (せいゆうかい)。
立憲 りっけん 民政 みんせい 党 とう とともに1925年 ねん から1931年 ねん にかけて衆議院 しゅうぎいん において二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい を形成 けいせい した[ 16] [ 17] 。
当時 とうじ としては議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ や地方 ちほう 分権 ぶんけん を訴 うった えるなど進歩 しんぽ 主義 しゅぎ 的 てき な側面 そくめん もあった。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )、政党 せいとう 内 ない 閣 かく 制 せい の確立 かくりつ を企図 きと した伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の議会 ぎかい 与党 よとう として、結党 けっとう された。結党 けっとう 直後 ちょくご の第 だい 4次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく を筆頭 ひっとう に、数 すう 代 だい にわたって内閣 ないかく を組織 そしき して政権 せいけん を担 にな った。1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )に分裂 ぶんれつ して革新 かくしん 派 は (中島 なかじま 派 は )・正統 せいとう 派 は (久原 くばら 派 は )・中立 ちゅうりつ 派 は (金光 こんこう 派 は )の鼎立 ていりつ 状態 じょうたい となり[ 注 ちゅう 1] 、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ 16日 にち に正統 せいとう 派 は と統一 とういつ 派 は (中立 ちゅうりつ 派 は の後身 こうしん )が解散 かいさん し、同年 どうねん 7月 がつ 30日 にち に革新 かくしん 派 は が解散 かいさん したことにより解党 かいとう となった。
政友 せいゆう 会 かい の特徴 とくちょう は同 どう 党 とう の成立 せいりつ 趣意 しゅい 書 しょ にもあるように、「余 よ 等 とう 同志 どうし は国家 こっか に対 たい する政党 せいとう の責任 せきにん を重 おも んじ、専 もっぱ ら公益 こうえき を目的 もくてき として行動 こうどう 」するのであって、「国運 こくうん を進 すす め文明 ぶんめい を扶植 ふしょく 」するため与論 よろん を指導 しどう し、地方 ちほう 公共 こうきょう 施設 しせつ の建設 けんせつ にも公益 こうえき を最 さい 優先 ゆうせん させる「国家 こっか 公党 こうとう 」を謳 うた った点 てん である[ 18] 。立憲 りっけん 政友 せいゆう 党 とう ではなく「会 かい 」を称 しょう したのも、国家 こっか 利益 りえき の優先 ゆうせん や国家 こっか との一体 いったい 感 かん を強調 きょうちょう する初代 しょだい 総裁 そうさい ・伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の政党 せいとう 観 かん に由来 ゆらい するもので、政党 せいとう に対 たい する国家 こっか の優位 ゆうい 性 せい を表 あらわ している[ 19] [ 20] 。国民 こくみん の私的 してき な利益 りえき を追求 ついきゅう する民 みん 党 とう を政党 せいとう と言 い うならば、政友 せいゆう 会 かい はこれらを抑 おさ える「反 はん 政党 せいとう 」的 てき な政党 せいとう だった[ 19] [ 20] 。
当時 とうじ 次第 しだい に増加 ぞうか していた実業 じつぎょう 家 か たちを積極 せっきょく 的 てき に取 と り込 こ むことで商 しょう 工業 こうぎょう ひいては国家 こっか の発展 はってん を目指 めざ した伊藤 いとう は、従来 じゅうらい は地主 じぬし だったが寄生 きせい 地主 じぬし 化 か して実業 じつぎょう 家 か になり都市 とし 部 ぶ に住 す むようになった市議会 しぎかい 議員 ぎいん ・商業 しょうぎょう 会議 かいぎ 所 しょ の会頭 かいとう ・会社 かいしゃ 社長 しゃちょう ・弁護士 べんごし ・銀行 ぎんこう 頭取 とうどり などに入党 にゅうとう を勧誘 かんゆう した[ 18] 。西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく 下 した では鉄道 てつどう の国有 こくゆう 化 か や新設 しんせつ 、築港 ちっこう 、学校 がっこう 建設 けんせつ など積極 せっきょく 政策 せいさく を展開 てんかい し、その利権 りけん 投与 とうよ によって党員 とういん や周辺 しゅうへん の民衆 みんしゅう を惹 ひ き付 つ けて党勢 とうせい 拡張 かくちょう に成功 せいこう [ 21] 。三井 みつい 財閥 ざいばつ 、安田 やすだ 財閥 ざいばつ 、渋沢 しぶさわ 財閥 ざいばつ などの大 だい 財閥 ざいばつ の支持 しじ も得 え た[ 22] 。その上 うえ で、個人 こじん の権利 けんり 自由 じゆう の保全 ほぜん や友好 ゆうこう 外交 がいこう 、国防 こくぼう 充実 じゅうじつ 、教育 きょういく 振興 しんこう 、産業 さんぎょう 発展 はってん 、交通 こうつう 網 もう の充実 じゅうじつ などを掲 かか げた[ 18] 。特 とく に犬 いぬ 養 やしなえ 総裁 そうさい 時代 じだい では経済 けいざい を中心 ちゅうしん とする平和 へいわ 的 てき な対外 たいがい 政策 せいさく 「産業 さんぎょう 立国 りっこく 主義 しゅぎ 」[ 注 ちゅう 2] が標榜 ひょうぼう された[ 23] 。他方 たほう 、政友 せいゆう 会 かい の主力 しゅりょく な支持 しじ 基盤 きばん に地方 ちほう の地主 じぬし がいたこともあり、地方 ちほう 自治 じち の尊重 そんちょう や地方 ちほう 分権 ぶんけん も掲 かか げられた[ 24] [ 25] 。
大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 施政 しせい 下 か の日本 にっぽん においては、明治維新 めいじいしん において政府 せいふ を組織 そしき した西南 せいなん 雄藩 ゆうはん およびその縁者 えんじゃ (いわゆる藩閥 はんばつ )が政権 せいけん を独占 どくせん していたが、帝国 ていこく 議会 ぎかい 創設 そうせつ 以降 いこう 、衆議院 しゅうぎいん にて多数 たすう を確保 かくほ した自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう 勢力 せいりょく (民 みん 党 とう )の協賛 きょうさん なしには予算 よさん 、法律 ほうりつ が成立 せいりつ せず、実際 じっさい に時 とき の藩閥 はんばつ 内 ない 閣 かく は、民 みん 党 とう と個別 こべつ に連携 れんけい 、妥協 だきょう を行 おこな うか、あるいは政権 せいけん 運営 うんえい に失敗 しっぱい して退陣 たいじん を余儀 よぎ なくされた。
藩閥 はんばつ の首脳 しゅのう 陣 じん である元老 げんろう の中 なか では、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 筆頭 ひっとう 元老 げんろう が、藩閥 はんばつ と政党 せいとう の対立 たいりつ を前提 ぜんてい とした方向 ほうこう 性 せい (超然 ちょうぜん 主義 しゅぎ )からの脱却 だっきゃく 、政党 せいとう 内 ない 閣 かく 制 せい への移行 いこう を模索 もさく していた。特 とく に、第 だい 2次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく で一時 いちじ 的 てき に連立 れんりつ を組 く んでいた憲政 けんせい 党 とう (旧 きゅう 自由党 じゆうとう 系 けい )との連携 れんけい を深 ふか め、1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )、時 とき の第 だい 2次 じ 山 やま 縣内 けんない 閣 かく で憲政 けんせい 党 とう が連立 れんりつ を離脱 りだつ するのと前後 ぜんご して、憲政 けんせい 党 とう の実務 じつむ を取 と り仕切 しき っていた星 ほし 亨 とおる らと連携 れんけい 、「伊藤 いとう 新党 しんとう 」の結党 けっとう 準備 じゅんび を行 おこな っていた。憲政 けんせい 党 とう の他 ほか 、帝国 ていこく 党 とう ・日吉 ひよし 倶楽部 くらぶ などの会派 かいは の賛同 さんどう を得 え て、また盟友 めいゆう の井上 いのうえ 馨 かおる 元老 げんろう の伝手 つて で実業 じつぎょう 界 かい の賛同 さんどう も得 え て、その他 た 各界 かくかい 名士 めいし への入党 にゅうとう 勧誘 かんゆう も行 おこな われた。伊藤 いとう は政府 せいふ 要職 ようしょく を辞 じ し、明治天皇 めいじてんのう からは勅許 ちょっきょ とともに、金 かね 2万 まん 円 えん が下賜 かし されている。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )9月15日 にち 、伊藤 いとう を初代 しょだい 総裁 そうさい として、立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい が結党 けっとう された(結党 けっとう 時点 じてん で衆議院 しゅうぎいん 152議席 ぎせき )。この時点 じてん の会則 かいそく では総裁 そうさい に専制 せんせい 的 てき な権限 けんげん が与 あた えられており、役員 やくいん 人選 じんせん も総裁 そうさい の一任 いちにん で行 おこな う形式 けいしき であった。
直後 ちょくご の10月 がつ 19日 にち 、第 だい 4次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく が発足 ほっそく する。これは、政党 せいとう 内 ない 閣 かく に良 よ い印象 いんしょう を持 も っていなかった山縣 やまがた 有朋 ありとも 元老 げんろう が、伊藤 いとう 総裁 そうさい への意趣 いしゅ 返 がえ しとして、首相 しゅしょう の座 ざ を辞任 じにん 、政党 せいとう の体制 たいせい が整 ととの っていない状態 じょうたい の政友 せいゆう 会 かい に政権 せいけん を押 お し付 つ けるという算段 さんだん であった。内閣 ないかく の陸相 りくしょう ・海 うみ 相 しょう ・外相 がいしょう 以外 いがい の閣僚 かくりょう が政友 せいゆう 会員 かいいん で構成 こうせい されていた。しかし、この政党 せいとう 内 ない 閣 かく は貴族 きぞく 院 いん の反発 はんぱつ を招 まね き、東京 とうきょう 市 し 疑獄 ぎごく 事件 じけん で星 ほし が逓相を辞職 じしょく するに追 お い込 こ まれたほか、1901年 ねん 3月、義和 よしかず 団 だん の乱 らん の軍費 ぐんぴ 捻出 ねんしゅつ のための増税 ぞうぜい 案 あん を一時 いちじ 否決 ひけつ する(最終 さいしゅう 的 てき に成立 せいりつ )。結局 けっきょく 伊藤 いとう 内閣 ないかく は、渡辺 わたなべ 国武 くにたけ 蔵相 ぞうしょう が閣 かく 内 ない 不一致 ふいっち を引 ひ き起 お こしたことにより、1年 ねん 足 た らずで内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく した。後任 こうにん の大命 たいめい 降下 こうか を受 う けた井上 いのうえ 馨 かおる 元老 げんろう は、引 ひ き続 つづ き政友 せいゆう 会 かい を政権 せいけん 与党 よとう とする考 かんが えであったが、財界 ざいかい の協力 きょうりょく を得 え られずに断念 だんねん 。藩閥 はんばつ 内 ない の山縣 やまがた 直系 ちょっけい の桂 かつら 太郎 たろう が組閣 そかく (第 だい 1次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく )、政友 せいゆう 会 かい は野党 やとう に転 てん じる。
桂 かつら 内閣 ないかく の成立 せいりつ 後 ご 、伊藤 いとう 総裁 そうさい は、日 にち 露 ろ 情勢 じょうせい の打開 だかい 、欧米 おうべい 列強 れっきょう との外交 がいこう 交渉 こうしょう を行 おこな うために、外遊 がいゆう の旅 たび に出 で る。伊藤 いとう 総裁 そうさい は筆頭 ひっとう 元老 げんろう という立場 たちば もあり、桂 かつら 内閣 ないかく を支援 しえん する立場 たちば にあったが、留守 るす を預 あず かる原 はら 敬 たかし や松田 まつだ 正久 まさひさ ら政友 せいゆう 会 かい 幹部 かんぶ は、政府 せいふ 攻撃 こうげき に回 まわ る。11月に外債 がいさい 未 ひつじ 達 たち が発生 はっせい すると、政友 せいゆう 会 かい は、隈 くま 板 いた 内 ない 閣 かく の崩壊 ほうかい 以来 いらい 犬猿 けんえん の仲 なか であった第 だい 二 に 党 とう の憲政 けんせい 本 ほん 党 とう と桂 かつら 内閣 ないかく 攻撃 こうげき で提携 ていけい する。この時点 じてん では党内 とうない では政府 せいふ との交渉 こうしょう を続 つづ けるべしとの意見 いけん も多 おお く、党内 とうない は二 ふた つに割 わ れた。連絡 れんらく を受 う けた伊藤 いとう 総裁 そうさい は外遊 がいゆう 先 さき より極秘 ごくひ に電報 でんぽう を打 う ち、倒閣 とうかく を見合 みあ わせるよう訓示 くんじ を出 だ す。藩閥 はんばつ 政権 せいけん 中枢 ちゅうすう および党 とう 幹部 かんぶ らがこれを回覧 かいらん したのち、党 とう 幹部 かんぶ は矛 ほこ を収 おさ めることを決意 けつい 、藩閥 はんばつ 側 がわ は政友 せいゆう 会 かい 内 ない の反対 はんたい 派 は を切 き り崩 くず し、対立 たいりつ は一旦 いったん 解消 かいしょう された。
1902年 ねん 8月 がつ 10日 とおか 、任期 にんき 満了 まんりょう に伴 ともな う第 だい 7回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ が行 おこな われ、政友 せいゆう 会 かい は引 ひ き続 つづ き第 だい 一 いち 党 とう を維持 いじ する。選挙 せんきょ 後 ご の議会 ぎかい では、地租 ちそ 増徴 ぞうちょう の継続 けいぞく を巡 めぐ り、政友 せいゆう 会 かい は再 ふたた び憲政 けんせい 本 ほん 党 とう と連携 れんけい して対立 たいりつ 、伊藤 いとう 総裁 そうさい もこれを抑 おさ えられなくなる。同年 どうねん 末 まつ 、衆議院 しゅうぎいん 解散 かいさん されるが、桂 かつら 内閣 ないかく は打開 だかい の術 じゅつ として、桂 かつら 首相 しゅしょう が伊藤 いとう 総裁 そうさい を直接 ちょくせつ 一本釣 いっぽんづ りにして、伊藤 いとう 総裁 そうさい は一部 いちぶ 予算 よさん 組 く み替 か えを条件 じょうけん に、増徴 ぞうちょう 継続 けいぞく を容認 ようにん する。1903年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、第 だい 8回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ にて、政友 せいゆう 会 かい は再 ふたた び第 だい 一 いち 党 とう を維持 いじ するが、ほどなく伊藤 いとう の密約 みつやく が発覚 はっかく する。政友 せいゆう 会 かい は伊藤 いとう の地租 ちそ 継続 けいぞく の密約 みつやく を容認 ようにん するが、代償 だいしょう として党 とう 規約 きやく の改正 かいせい 、総裁 そうさい 専制 せんせい からの脱却 だっきゃく を要求 ようきゅう 。伊藤 いとう はこれを受 う け入 い れる。更 さら に7月 がつ 12日 にち 、元老 げんろう 兼 けん 野党 やとう 総裁 そうさい という伊藤 いとう の立場 たちば の扱 あつか いづらさ、伊藤 いとう が党内 とうない をまとめ切 き れていないという現状 げんじょう を解消 かいしょう すべく、藩閥 はんばつ 首脳 しゅのう 、党 とう 幹部 かんぶ の総意 そうい という形 かたち で、伊藤 いとう は祭 まつ り上 あ げの形 かたち で枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう に転出 てんしゅつ 。入 い れ替 か わりに西園寺 さいおんじ 公望 きんもち 枢 くるる 相 しょう が政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい に迎 むか え入 い れられる。
以降 いこう 、桂 かつら 率 ひき いる藩閥 はんばつ と、西園寺 さいおんじ を総裁 そうさい に戴 いただ く政友 せいゆう 会 かい が、妥協 だきょう しつつ安定 あんてい 的 てき に政権 せいけん を運営 うんえい する時代 じだい が、約 やく 10年間 ねんかん にわたり継続 けいぞく する(桂園 けいえん 時代 じだい )。この間 あいだ 、政友 せいゆう 会 かい は原 はら の党務 とうむ の下 した 、衆議院 しゅうぎいん 第 だい 一 いち 党 とう を維持 いじ し続 つづ ける。
1904年 ねん 2月 がつ 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ 。政友 せいゆう 会 かい は、桂 かつら 内閣 ないかく の戦争 せんそう 遂行 すいこう に協力 きょうりょく したが、同年 どうねん 11月 がつ 頃 ごろ より、西園寺 さいおんじ ・原 はら ・松田 まつだ の幹部 かんぶ 3人 にん が桂 かつら とひそかに接触 せっしょく 、戦後 せんご は政友 せいゆう 会 かい に政権 せいけん を譲 ゆず る方向 ほうこう で話 はなし をまとめる。1905年 ねん 8月 がつ 28日 にち にポーツマス条約 じょうやく が締結 ていけつ されると、これに反対 はんたい する民衆 みんしゅう の暴動 ぼうどう (日比谷 ひびや 焼 や き討 う ち事件 じけん )が発生 はっせい したが、政友 せいゆう 会 かい は原 はら の引 ひ き締 し めによりこれに加 くわ わらなかった。1906年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、第 だい 1次 じ 西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく が成立 せいりつ する。
桂園 けいえん 時代 じだい の政友 せいゆう 会 かい は、西園寺 さいおんじ 公望 きんもち 、原 はら 敬 たかし 、松田 まつだ 正久 まさひさ の三 さん 名 めい による集団 しゅうだん 指導 しどう 体制 たいせい で運営 うんえい された。堂上 どうじょう 公家 くげ の生 う まれである西園寺 さいおんじ が山縣 やまがた や桂 かつら ら藩閥 はんばつ との交渉 こうしょう 窓口 まどぐち や、自身 じしん の組閣 そかく などで対外 たいがい 的 てき に党 とう を代表 だいひょう 、原 はら は西園寺 さいおんじ に代 か わって党務 とうむ を統括 とうかつ 、松田 まつだ は党内 とうない に声望 せいぼう があり、党内 とうない の不満 ふまん 分子 ぶんし の取 と りまとめを担 にな っていた。
第 だい 1次 じ 西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく は、年来 ねんらい の主張 しゅちょう であった鉄道 てつどう 国有 こくゆう 化 か などを実現 じつげん する。1908年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、第 だい 10回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ において、政友 せいゆう 会 かい は過半数 かはんすう を確保 かくほ する。しかしこの直後 ちょくご 、赤旗 あかはた 事件 じけん が発生 はっせい 、内閣 ないかく の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 取 と り締 し まりの不備 ふび が山縣 やまがた ら藩閥 はんばつ 陣営 じんえい から攻撃 こうげき を受 う け、西園寺 さいおんじ は総 そう 辞職 じしょく を決意 けつい 。後継 こうけい には桂 かつら を奏請 そうせい し、7月 がつ 12日 にち 、第 だい 2次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく が発足 ほっそく する。第 だい 2次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく では、当初 とうしょ は野党 やとう の立 た ち位置 いち であったが、1906年 ねん に憲政 けんせい 本 ほん 党 とう (衆議院 しゅうぎいん 第 だい 2党 とう )を中心 ちゅうしん に非 ひ 政友 せいゆう 会 かい 党派 とうは の合同 ごうどう の機運 きうん が持 も ち上 あ がると(のちに立憲 りっけん 国民党 こくみんとう が結党 けっとう される)、桂 かつら 首相 しゅしょう の求 もと めによって、政友 せいゆう 会 かい は与党 よとう 復帰 ふっき する。
以降 いこう 、再度 さいど の政権 せいけん 授受 じゅじゅ について、桂 かつら と原 はら の間 あいだ で交渉 こうしょう がもたれたが、1910年 ねん に大逆 だいぎゃく 事件 じけん が明 あか るみに出 で たことにより、西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく を攻撃 こうげき した藩閥 はんばつ はメンツを失 うしな い、原 はら は桂 かつら の政界 せいかい 引退 いんたい の言質 げんち を取 と る。1910年 ねん 8月 がつ 30日 にち 、第 だい 2次 じ 西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく が成立 せいりつ する。1912年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、第 だい 11回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ では、引 ひ き続 つづ き過半数 かはんすう を維持 いじ する。
1912年 ねん 11月、二 に 個 こ 師団 しだん 増設 ぞうせつ 問題 もんだい が懸案 けんあん として持 も ち上 あ がる。これが、政界 せいかい 復帰 ふっき を賭 か けた桂 かつら 内大臣 ないだいじん の陰謀 いんぼう が絡 から んでこじれ、西園寺 さいおんじ 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく する。変 か わって組織 そしき された第 だい 3次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく は、桂 かつら が独自 どくじ の政党 せいとう の結成 けっせい を企図 きと して政友 せいゆう 会 かい との連携 れんけい を解消 かいしょう したため、桂園 けいえん 連携 れんけい は崩 くず れる。野党 やとう に転 てん じた政友 せいゆう 会 かい は立憲 りっけん 国民党 こくみんとう ら他 た 党 とう とともに倒閣 とうかく に突 つ っ走 ぱし り、第 だい 3次 じ 桂 かつら 内閣 ないかく は短期間 たんきかん で崩壊 ほうかい 。西園寺 さいおんじ も総裁 そうさい を辞任 じにん 、前後 ぜんご して松田 まつだ が急死 きゅうし したため、原 はら が後継 こうけい の総裁 そうさい となる(大正 たいしょう 政変 せいへん )。
次 つ いで成立 せいりつ した第 だい 1次 じ 山本 やまもと 内閣 ないかく は、当初 とうしょ は閣外 かくがい 協力 きょうりょく の予定 よてい であったものを西園寺 さいおんじ のすすめにより与党 よとう として参画 さんかく 。閣僚 かくりょう 全員 ぜんいん が政友 せいゆう 会員 かいいん ないし原 げん 総裁 そうさい と近 ちか しい人間 にんげん という、事実 じじつ 上 じょう の政友 せいゆう 会 かい 内閣 ないかく となった。
その後 ご 、第 だい 2次 じ 大隈 おおくま 内閣 ないかく では野党 やとう に転 てん じるが、大正 たいしょう デモクラシー の波 なみ にのって成長 せいちょう し、1918年 ねん 米 べい 騒動 そうどう 後 ご 、1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )に原 はら 敬 たかし が首班 しゅはん となって、日本 にっぽん 最初 さいしょ の本格 ほんかく 的 てき な政党 せいとう 内 ない 閣 かく を組織 そしき した。
大正 たいしょう 時代 じだい の政友 せいゆう 会 かい は、原 はら 敬 たかし を核 かく として山本 やまもと 達雄 たつお 、水野 みずの 錬太郎 れんたろう 、高橋 たかはし 是清 これきよ ら伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 系 けい の政治 せいじ 家 か や非 ひ 山縣 やまがた 有朋 ありとも 系 けい 官僚 かんりょう 等 とう を中心 ちゅうしん にして当時 とうじ 議会 ぎかい の多数 たすう 派 は を占 し めていた大 だい 政党 せいとう であり、「積極 せっきょく 政策 せいさく 」を政策 せいさく の目玉 めだま とし、地方 ちほう 利益 りえき の獲得 かくとく を党勢 とうせい 拡大 かくだい の梃子 てこ にしていた。ただ、原 はら 敬 たかし の歿後 ぼつご 、党内 とうない で党人 とうじん 派 は =総裁 そうさい 派 は (高橋 たかはし 是清 これきよ 、尾崎 おざき 行雄 ゆきお 、野田 のだ 卯太郎 うたろう 、横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ 、小泉 こいずみ 策 さく 太郎 たろう 、小川 おがわ 平吉 へいきち 、岡崎 おかざき 邦 くに 輔 ら)と官僚 かんりょう 派 は =非 ひ 総裁 そうさい 派 は (山本 やまもと 達雄 たつお 、床次 とこなみ 竹二郎 たけじろう 、中橋 なかはし 徳五郎 とくごろう 、元田 もとだ 肇 はじめ ら)の対立 たいりつ 傾向 けいこう が先鋭 せんえい 化 か し始 はじ めていた。
原 はら 総裁 そうさい のもとでは表面 ひょうめん 化 か しなかった内部 ないぶ 対立 たいりつ が後継 こうけい の高橋 たかはし 是清 これきよ 総裁 そうさい の時代 じだい になると顕在 けんざい 化 か していった。対立 たいりつ の構図 こうず は、官僚 かんりょう 系 けい メンバー(中橋 なかはし 徳五郎 とくごろう ・元田 もとだ 肇 はじめ など)と自由党 じゆうとう 系 けい メンバー(横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ ・望月 もちづき 圭介 けいすけ など)の争 あらそ いであった。また普通 ふつう 選挙 せんきょ を求 もと める立憲 りっけん 労働党 ろうどうとう や期成 きせい 同盟 どうめい 会 かい 、青年 せいねん 改造 かいぞう 連盟 れんめい 、小石川 こいしかわ 労働 ろうどう 会 かい 、博文 ひろぶみ 館 かん 、大進 たいしん 会 かい の活動 かつどう も活発 かっぱつ であり、1920年 ねん 2月 がつ 12日 にち には政友 せいゆう 会 かい 門前 もんぜん などで5万 まん 人 にん を動員 どういん した集会 しゅうかい が開催 かいさい されたこともあった[ 31] 。
第 だい 45回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい 後 ご に内閣 ないかく 改造 かいぞう を企画 きかく した高橋 たかはし 首相 しゅしょう は、1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )5月 がつ 2日 にち の閣議 かくぎ で内閣 ないかく 改造 かいぞう を提案 ていあん するも、元田 もとだ 鉄 てつ 相 しょう ・中橋 なかはし 文相 ぶんしょう の反対 はんたい にあい、更 さら に翌日 よくじつ の閣議 かくぎ では山本 やまもと 農相 のうしょう も反対 はんたい に回 まわ ったため一 いち 度 ど は断念 だんねん した。続 つづ く、6月5日 にち には政友 せいゆう 会 かい の議員 ぎいん 総会 そうかい で総裁 そうさい 一任 いちにん を決議 けつぎ して閣僚 かくりょう に辞表 じひょう を求 もと めた。山本 やまもと 農相 のうしょう ・床次 とこなみ 内相 ないしょう ・野田 のだ 逓相は辞表 じひょう 提出 ていしゅつ に同意 どうい したが、元田 もとだ 鉄 てつ 相 しょう ・中橋 なかはし 文相 ぶんしょう は内閣 ないかく 改造 かいぞう にあくまでも反対 はんたい したため高橋 たかはし 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく することとなった。高橋 たかはし や横田 よこた の内閣 ないかく 改造 かいぞう 派 は は、非 ひ 改造 かいぞう 派 は の元田 もとだ ・中橋 なかはし ・木下 きのした ・吉植 よしうえ ・田辺 たなべ ・田村 たむら の6人 にん を除名 じょめい した。除名 じょめい 者 しゃ が復 ふく 党 とう したのは半年 はんとし 後 ご の12月のことであった。
高橋 たかはし 後 ご に組閣 そかく したのは加藤 かとう 友三郎 ともさぶろう であった、政友 せいゆう 会 かい が衆議院 しゅうぎいん の第 だい 一 いち 党 とう であるにもかかわらず政権 せいけん を失 うしな ったことについて党 とう を主導 しゅどう した横田 よこた への批判 ひはん が高 たか まり、1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )9月 がつ 3日 にち 付 づ けの『神戸 こうべ 新聞 しんぶん 』には「政友 せいゆう 本 ほん 党 とう 」の名 な で新党 しんとう 設立 せつりつ の動 うご きがあることが報道 ほうどう された。加藤 かとう 内閣 ないかく の後 のち も第 だい 2次 じ 山本 やまもと 内閣 ないかく が続 つづ き、政友 せいゆう 会 かい には政権 せいけん が回 まわ ってこなかった。このため1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )12月からの第 だい 47回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい (臨時 りんじ 会 かい )で政友 せいゆう 会 かい 内 ない に改革 かいかく 運動 うんどう として再度 さいど 紛糾 ふんきゅう が起 お き、改革 かいかく 派 は の山本 やまもと ・元田 もとだ ・中橋 なかはし が総務 そうむ 委員 いいん に加 くわ わることで妥協 だきょう を見 み た。山本 やまもと 後 ご の内閣 ないかく についても選挙 せんきょ 管理 かんり 内 ない 閣 かく の意味合 いみあ いもあって枢密院 すうみついん 議長 ぎちょう の清浦 きようら 奎吾 を首班 しゅはん とする清浦 きようら 内閣 ないかく が成立 せいりつ し、政友 せいゆう 会 かい は衆議院 しゅうぎいん 第 だい 一 いち 党 とう のまま都合 つごう 三 さん 度 ど の政権 せいけん を逃 のが した。清浦 きようら は1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )1月 がつ 1日 にち に大命 たいめい を拝受 はいじゅ し、2日 にち から組閣 そかく に入 はい り、貴族 きぞく 院 いん 最大 さいだい 会派 かいは の研究 けんきゅう 会 かい へ協力 きょうりょく を要請 ようせい した。当初 とうしょ 、政友 せいゆう 会 かい では衆議院 しゅうぎいん の議席 ぎせき を背景 はいけい に床次 とこなみ と横田 よこた を通 つう じて数 すう 名 めい の閣僚 かくりょう を要求 ようきゅう することで清浦 きようら が組閣 そかく を断念 だんねん することに期待 きたい した。清浦 きようら 内閣 ないかく の組閣 そかく が難航 なんこう する中 なか 、政友 せいゆう 会 かい 改革 かいかく 派 は は高橋 たかはし を引退 いんたい させ、研究 けんきゅう 会 かい とともに清浦 きようら 内閣 ないかく に協力 きょうりょく し、床次 とこなみ を政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい にして副 ふく 総理 そうり 格 かく で入閣 にゅうかく させることを企画 きかく した。折 おり しも当時 とうじ 、高橋 たかはし は総裁 そうさい を辞任 じにん する決心 けっしん を一 いち 度 ど は漏 も らしていたが、小泉 こいずみ 策 さく 太郎 たろう の説得 せっとく で翻意 ほんい して清浦 きようら 内閣 ないかく には野党 やとう の立場 たちば をとることを決 き めた。この高橋 たかはし 総裁 そうさい 続投 ぞくとう の結果 けっか が政友 せいゆう 会 かい の分裂 ぶんれつ をもたらすこととなった。当初 とうしょ 、横田 よこた や小泉 こいずみ は脱党 だっとう 者 しゃ を少数 しょうすう と見積 みつ もっており、衆議院 しゅうぎいん 第 だい 一 いち 党 とう は確保 かくほ され、むしろ結束 けっそく を固 かた める良 よ い機会 きかい だと見込 みこ みを立 た てていた。横田 よこた の予測 よそく では脱党 だっとう 者 しゃ は20人 にん から30人 にん 、多 おお くても50人 にん と推測 すいそく していた。政友 せいゆう 会 かい 幹部 かんぶ の中 なか には脱党 だっとう 者 しゃ を100人 にん 前後 ぜんこう と予測 よそく していた者 もの もおり、例 たと えば松野 まつの 鶴 づる 平 ひらた は脱党 だっとう 者 しゃ 130人 にん 前後 ぜんこう 、残留 ざんりゅう 組 ぐみ 110人 にん 、去就 きょしゅう 不明 ふめい 者 しゃ 37人 にん を予測 よそく した。また、小泉 こいずみ は脱党 だっとう 者 しゃ 130人 にん 、残留 ざんりゅう 組 ぐみ 150人 にん 程度 ていど であり、原前 はらまえ 総裁 そうさい の後継 こうけい 党 とう であるという正当 せいとう 性 せい もあるため、来 き たる選挙 せんきょ では160~180議席 ぎせき を獲得 かくとく して比較 ひかく 第 だい 一 いち 党 とう を維持 いじ 可能 かのう と考 かんが えた。15日 にち には清浦 きようら 内閣 ないかく 反対 はんたい を決定 けってい し、高橋 たかはし 総裁 そうさい は爵位 しゃくい を子 こ に譲 ゆず り平民 へいみん となって[ 注 ちゅう 3] 総 そう 選挙 せんきょ へ出馬 しゅつば することを宣言 せんげん した。これを受 う け、政友 せいゆう 会 かい 改革 かいかく 派 は は分裂 ぶんれつ を決心 けっしん し、政友 せいゆう 本 ほん 党 とう を結成 けっせい して清浦 きようら 内閣 ないかく の与党 よとう を構成 こうせい した。床次 とこなみ は最後 さいご まで迷 まよ っており、16日 にち 午後 ごご の岡崎 おかざき 邦 くに 輔の説得 せっとく によって一時 いちじ は政友 せいゆう 会 かい に踏 ふ みとどまって高橋 たかはし と進退 しんたい を共 とも にすることを誓 ちか い、脱党 だっとう 組 ぐみ を説得 せっとく しようとしたが逆 ぎゃく に再度 さいど の説得 せっとく をうけて脱党 だっとう することとなった。16日 にち 夜 よる 、改革 かいかく 派 は の山本 やまもと ・元田 もとだ ・中橋 なかはし ・床次 とこなみ は脱党 だっとう 届 とどけ を高橋 たかはし 総裁 そうさい に提出 ていしゅつ し、結局 けっきょく 過半数 かはんすう 上 じょう の148人 にん が政友 せいゆう 会 かい から分裂 ぶんれつ して政友 せいゆう 本 ほん 党 とう を結成 けっせい することとなった。29日 にち 、帝国 ていこく ホテルで政友 せいゆう 本 ほん 党 とう の結成 けっせい 式 しき が行 おこな われた。第 だい 48回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい の開始 かいし 時 じ に第 だい 一 いち 党 とう は政友 せいゆう 本 ほん 党 とう (150議席 ぎせき )であり、少数 しょうすう となった第 だい 二 に 党 とう の政友 せいゆう 会 かい (139議席 ぎせき )は18日 にち に三浦 みうら 梧楼 ごろう 宅 たく で憲政 けんせい 会 かい (103議席 ぎせき )・革新 かくしん 倶楽部 くらぶ (43議席 ぎせき )と会談 かいだん し、護憲 ごけん 三 さん 派 は を形成 けいせい して倒閣 とうかく 運動 うんどう を開始 かいし した。清浦 きようら 内閣 ないかく では選挙 せんきょ 権 けん の拡大 かくだい について選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい に取 と り組 く んだが、独立 どくりつ 生計 せいけい を持 も つものについて大正 たいしょう 17年 ねん (1928年 ねん 、実際 じっさい には大正天皇 たいしょうてんのう 崩御 ほうぎょ により昭和 しょうわ 3年 ねん )5月 がつ からの施行 しこう を目指 めざ したものであった。これが野党 やとう の攻撃 こうげき の的 まと となり、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )1月 がつ 31日 にち に内閣 ないかく 不信任 ふしんにん 案 あん が提出 ていしゅつ され議場 ぎじょう に極度 きょくど の混乱 こんらん をもたらしたため、政府 せいふ は衆議院 しゅうぎいん の解散 かいさん を行 おこな った。一般 いっぱん 的 てき に護憲 ごけん 三 さん 派 は は普通 ふつう 選挙 せんきょ を推進 すいしん していたとされるが、個別 こべつ に見 み れば政友 せいゆう 会 かい では従前 じゅうぜん の経緯 けいい もあり普通 ふつう 選挙 せんきょ は推進 すいしん していなかったのに対 たい し、与党 よとう の政友 せいゆう 本 ほん 党 とう では普通 ふつう 選挙 せんきょ をスローガンとしていた。[ 32]
関東大震災 かんとうだいしんさい の影響 えいきょう で選挙 せんきょ 人 じん 名簿 めいぼ の整備 せいび が遅 おく れたため総 そう 選挙 せんきょ は解散 かいさん から100日 にち 後 ご の5月 がつ 10日 とおか に投票 とうひょう が行 おこな われた。総 そう 選挙 せんきょ では与党 よとう の政友 せいゆう 本 ほん 党 とう (114議席 ぎせき 、第 だい 二 に 党 とう )および護憲 ごけん 三 さん 派 は のうち政友 せいゆう 会 かい (101議席 ぎせき 、第 だい 三 さん 党 とう )と革新 かくしん 倶楽部 くらぶ (30議席 ぎせき 、第 だい 四 よん 党 とう )がともに議席 ぎせき を減 へ らし、憲政 けんせい 会 かい (153議席 ぎせき 、第 だい 一 いち 党 とう )が躍進 やくしん した。政友 せいゆう 本 ほん 党 とう では総務 そうむ の中橋 なかはし 徳五郎 とくごろう が落選 らくせん をした。政友 せいゆう 会 かい では選挙 せんきょ によって第 だい 一 いち 党 とう となるか、または革新 かくしん 倶楽部 くらぶ と合同 ごうどう することで第 だい 一 いち 党 とう を狙 ねら っていたが当 あ てが外 はず れ、高橋 たかはし 総裁 そうさい の責任 せきにん 問題 もんだい であったが後継 こうけい 者 しゃ 難 なん によって総裁 そうさい は続投 ぞくとう された。この間 あいだ に、政友 せいゆう 本 ほん 党 とう の床次 とこなみ 総裁 そうさい は5月23日 にち に密 ひそ かに松本 まつもと 剛 つよし 吉 きち と会談 かいだん を行 おこな い、80人 にん を率 ひき いて政友 せいゆう 会 かい 復帰 ふっき を果 は たしたいので横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ への交渉 こうしょう を依頼 いらい した。松本 まつもと は西園寺 さいおんじ 公望 きんもち と相談 そうだん のうえ、極秘 ごくひ 裏 うら のまま留保 りゅうほ することとした。このため床次 とこなみ 派 は の政友 せいゆう 会 かい 復帰 ふっき は流 なが れ、逆 ぎゃく に反 はん 床次 とこなみ 派 は による政友 せいゆう 会 かい 復帰 ふっき 運動 うんどう が起 お こった。5月25日 にち 、西園寺 さいおんじ 公望 きんもち と会談 かいだん した清浦 きようら 首相 しゅしょう は総 そう 選挙 せんきょ の結果 けっか を受 う けて議会 ぎかい 運営 うんえい が難 むずか しくなったため総 そう 辞職 じしょく を申 もう し出 で たが、西園寺 さいおんじ の助言 じょげん で選挙 せんきょ 結果 けっか =政権 せいけん 交代 こうたい が前例 ぜんれい となるのを避 さ けるために内閣 ないかく 不信任 ふしんにん 案 あん が提出 ていしゅつ されてからの総 そう 辞職 じしょく をすることとなり、辞職 じしょく は6月 がつ 7日 にち となった。この間 あいだ 、政友 せいゆう 会 かい では小泉 こいずみ 策 さく 太郎 たろう が政友 せいゆう 会 かい ・革新 かくしん 倶楽部 くらぶ ・政友 せいゆう 本 ほん 党 とう を連合 れんごう させる反 はん 憲政 けんせい 会 かい 運動 うんどう を画策 かくさく し、また清浦 きようら 内閣 ないかく 側 がわ でも大木 たいぼく 遠 とお 吉 よし が政友 せいゆう 会 かい と政友 せいゆう 本 ほん 党 とう の多数 たすう 派 は 合同 ごうどう による居座 いすわ り工作 こうさく がなされたがいずれも成功 せいこう しなかった。9日 にち 、西園寺 さいおんじ は衆議院 しゅうぎいん 第 だい 一 いち 党 とう の憲政 けんせい 会 かい 党首 とうしゅ 加藤 かとう 高明 こうめい を首相 しゅしょう に推奏した。加藤 かとう は最終 さいしゅう 的 てき に護憲 ごけん 三 さん 派 は で内閣 ないかく を構成 こうせい したが、組閣 そかく 時 じ に政友 せいゆう 会 かい のポスト要求 ようきゅう を拒 こば むために政友 せいゆう 本 ほん 党 とう との連立 れんりつ をほのめかした。政友 せいゆう 会 かい では党務 とうむ を処理 しょり していた横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ が司法 しほう 大臣 だいじん に就 つ いたため、野田 のだ 卯太郎 うたろう を新設 しんせつ の副 ふく 総裁 そうさい とした。総 そう 選挙 せんきょ で敗 やぶ れた政友 せいゆう 本 ほん 党 とう では、今 いま まで設置 せっち していなかった党首 とうしゅ ポストを設 もう け、当初 とうしょ 山本 やまもと 達雄 たつお を推戴 すいたい しようとしたが山本 やまもと が固辞 こじ したため、床次 とこなみ 竹二郎 たけじろう が総裁 そうさい に収 おさ まった。
護憲 ごけん 三 さん 派 は による加藤 かとう 高明 こうめい 内閣 ないかく が成立 せいりつ して間 あいだ もない1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )8月 がつ には政友 せいゆう 会 かい の岡崎 おかざき 邦 くに 輔 たちは加藤 かとう 内閣 ないかく で根本 こんぽん 的 てき な財政 ざいせい 整理 せいり ができない場合 ばあい にはより一層 いっそう 強力 きょうりょく な内閣 ないかく が必要 ひつよう であり、政友 せいゆう 会 かい と政友 せいゆう 本 ほん 党 とう を合同 ごうどう させて陸軍 りくぐん 大将 たいしょう の田中 たなか 義一 ぎいち を総裁 そうさい とすることを企画 きかく した。この計画 けいかく は秋 あき にも合同 ごうどう があり得 え るとの話 はなし であったが、高橋 たかはし 総裁 そうさい の反対 はんたい にあって頓挫 とんざ した。1924年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )、第 だい 50回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい では加藤 かとう 高明 こうめい 内閣 ないかく により普通 ふつう 選挙 せんきょ 案 あん が提出 ていしゅつ されると、政友 せいゆう 会 かい への復帰 ふっき が図 はか られたが政 せい 本 ほん 合同 ごうどう 運動 うんどう は破綻 はたん し、復帰 ふっき 派 は による五月雨 さみだれ 式 しき 脱党 だっとう が起 お き、12月29日 にち には鳩山 はとやま 一郎 いちろう や中橋 なかはし 徳五郎 とくごろう など22名 めい が政友 せいゆう 会 かい へ合流 ごうりゅう した。1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )1月 がつ 20日 はつか の政友 せいゆう 本 ほん 党 とう の党 とう 大会 たいかい では顧問 こもん の川原 かわはら 茂輔 もすけ などの引 ひ き締 し めもありなお、80人 にん 以上 いじょう を擁 よう してキャスティング・ボートを握 にぎ る第 だい 三 さん 党 とう 路線 ろせん を堅持 けんじ した。8月、護憲 ごけん 三 さん 派 は の連立 れんりつ が崩 くず れて憲政 けんせい 会 かい 単独 たんどく 内 ない 閣 かく (いわゆる第 だい 2次 じ 加藤 かとう 高明 こうめい 内閣 ないかく )が成立 せいりつ した後 のち は、政友 せいゆう 本 ほん 党 とう が衆議院 しゅうぎいん におけるキャスティング・ボート を握 にぎ る展開 てんかい となる。当初 とうしょ は政友 せいゆう 会 かい との合同 ごうどう の機運 きうん が高 たか まり(政 せい 本 ほん 合同 ごうどう 問題 もんだい )、田中 たなか 政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい と床次 とこなみ 政友 せいゆう 本 ほん 党 とう 総裁 そうさい の会談 かいだん により提携 ていけい の申合 もうしあわ せ書 しょ が作成 さくせい されたが、床次 とこなみ は合同 ごうどう には消極 しょうきょく 的 てき であり、12月の第 だい 51帝国 ていこく 議会 ぎかい では衆議院 しゅうぎいん の常任 じょうにん 委員 いいん 長 ちょう ポストの割 わ り振 ふ りをめぐって交渉 こうしょう が決裂 けつれつ した。こうした動 うご きの中 なか で12月29日 にち 、中橋 なかはし 徳五郎 とくごろう ・鳩山 はとやま 一郎 いちろう ほか合同 ごうどう 促進 そくしん 派 は 22名 めい が脱党 だっとう し、翌年 よくねん 2月 がつ にその多 おお くが政友 せいゆう 会 かい に復 ふく 党 とう した。1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )2月 がつ 25日 にち には憲政 けんせい 会 かい と政友 せいゆう 本 ほん 党 とう の連合 れんごう (いわゆる、憲 けん 本 ほん 提携 ていけい )が成立 せいりつ し立憲 りっけん 民政 みんせい 党 とう が政権 せいけん を取 と ったが、政友 せいゆう 会 かい は切 き り崩 くず しを行 おこな い、杉田 すぎた 定一 さだいち ・元田 もとだ 肇 はじめ ・川原 かわはら 茂輔 もすけ など30名 めい を脱党 だっとう させ政友 せいゆう 会 かい に合流 ごうりゅう させた。昭和 しょうわ 金融 きんゆう 恐慌 きょうこう がおき、第 だい 1次 じ 若槻 わかつき 内閣 ないかく が総 そう 辞職 じしょく すると、代 か わって立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい の田中 たなか 義一 ぎいち が内閣 ないかく を組閣 そかく した。田中 たなか 総裁 そうさい の頃 ころ から、在郷 ざいきょう 軍人 ぐんじん 会 かい が田中 たなか の影響 えいきょう で政友 せいゆう 会 かい の支持 しじ 団体 だんたい に加 くわ わるなど「政友 せいゆう 会 かい の親 おや 軍 ぐん 化 か 」がいわれるようになる。
1934年 ねん の首脳 しゅのう 陣 じん 。左 ひだり から時計 とけい 回 まわ りに鈴木 すずき 喜三郎 きさぶろう 、前田 まえだ 米蔵 よねぞう 、三土 みつち 忠造 ちゅうぞう 、芳澤 よしざわ 謙吉 けんきち
昭和 しょうわ に入 はい ってからの政友 せいゆう 会 かい は民政 みんせい 党 とう と交替 こうたい で数 すう 年間 ねんかん にわたって政権 せいけん を担 にな うこととなる。民政 みんせい 党 とう の浜口 はまぐち 雄幸 ゆうこう 首相 しゅしょう が1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )のロンドン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ に積極 せっきょく 的 てき な姿勢 しせい をみせたため、民政 みんせい 党 とう 追 お い落 お としを画策 かくさく して統帥 とうすい 権 けん 干犯 かんぱん 問題 もんだい を提起 ていき するが、これが軍部 ぐんぶ を勢 いきお いづけて軍部 ぐんぶ 台頭 たいとう の一因 いちいん になる[ 33] 。1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )に五 ご ・一 いち 五 ご 事件 じけん で自党 じとう の犬 いぬ 養 やしなえ 毅 あつし 首相 しゅしょう を軍人 ぐんじん に暗殺 あんさつ された後 のち 、「政党 せいとう 内 ない 閣 かく で首相 しゅしょう の死去 しきょ による内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく の場合 ばあい は後継 こうけい の与党 よとう 党首 とうしゅ に大命 たいめい が降下 こうか する」という「憲政 けんせい の常道 じょうどう 」が否定 ひてい され齋藤 さいとう 内閣 ないかく が成立 せいりつ し政権 せいけん を逃 のが す。1936年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では総裁 そうさい の鈴木 すずき 喜三郎 きさぶろう が落選 らくせん するなどの大 だい 惨敗 ざんぱい を喫 きっ し、民政 みんせい 党 とう 、社会 しゃかい 大衆 たいしゅう 党 とう の躍進 やくしん を許 ゆる した。その後 ご 親 おや 軍 ぐん 的 てき 保守 ほしゅ 的 てき 性格 せいかく から反 たん ファッショ 姿勢 しせい に一時 いちじ 的 てき には転換 てんかん し1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )浜田 はまだ 国松 くにまつ のいわゆる「腹切 はらき り問答 もんどう 」に代表 だいひょう されるような事例 じれい もあったものの、盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん に端 はし を発 はっ する日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の拡大 かくだい 以後 いご は戦争 せんそう に協力 きょうりょく する姿勢 しせい に戻 もど った。さらに1939年 ねん に次期 じき 総裁 そうさい をめぐり久原 くはら 房之助 ふさのすけ と中島 なかじま 知久平 ちくへい の2派 は に分裂 ぶんれつ する(後述 こうじゅつ )。1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )に両派 りょうは とも解党 かいとう して新 しん 体制 たいせい 運動 うんどう に参加 さんか 、大政 たいせい 翼賛 よくさん 会 かい に合流 ごうりゅう した。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )、鈴木 すずき の総裁 そうさい 辞任 じにん 後 ご 、鳩山 はとやま 一郎 いちろう ・前田 まえだ 米蔵 よねぞう ・島田 しまだ 俊雄 としお ・中島 なかじま 知久平 ちくへい の4名 めい が総裁 そうさい 代行 だいこう 委員 いいん を務 つと める集団 しゅうだん 指導 しどう 体制 たいせい となったが、1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )4月 がつ 30日 にち 中島 なかじま は一方 いっぽう 的 てき に「政友 せいゆう 会 かい 革新 かくしん 同盟 どうめい 」を結成 けっせい してその総裁 そうさい となった。一方 いっぽう 、中島 なかじま 総裁 そうさい に反対 はんたい する鳩山 はとやま らは病床 びょうしょう の鈴木 すずき 前 ぜん 総裁 そうさい を動 うご かし、中島 なかじま の革新 かくしん 同盟 どうめい 総裁 そうさい 就任 しゅうにん 2日 にち 前 まえ に新 あら たに久原 くはら 房之助 ふさのすけ ・三土 みつち 忠造 ちゅうぞう ・芳澤 よしざわ 謙吉 けんきち の3名 めい を政友 せいゆう 会 かい の総裁 そうさい 代行 だいこう 委員 いいん に任命 にんめい した[ 34] 。ここに政友 せいゆう 会 かい は、
正統 せいとう 派 は - 久原 くばら 派 は とも(鳩山 はとやま ・久原 くはら ・三土 みつち ・芳澤 よしざわ ・肥田 ひだ 琢司 たくじ らが中心 ちゅうしん )
革新 かくしん 派 は - 中島 なかじま 派 は とも、正式 せいしき 名称 めいしょう は立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 革新 かくしん 同盟 どうめい (中島 なかじま ・前田 まえだ ・島田 しまだ ・田邊 たなべ 七 なな 六 ろく ・東郷 とうごう 実 みのる らが中心 ちゅうしん )
の2派 は に分裂 ぶんれつ した。この分裂 ぶんれつ を、大正 たいしょう 末期 まっき の政友 せいゆう 本 ほん 党 とう 結党 けっとう にともなう分裂 ぶんれつ (第 だい 一 いち 次 じ 分裂 ぶんれつ )との対比 たいひ で、第 だい 二 に 次 じ 分裂 ぶんれつ と呼 よ ぶこともある。
正統 せいとう 派 は は5月 がつ 20日 はつか 臨時 りんじ 党 とう 大会 たいかい を開 ひら き、鈴木 すずき 前 ぜん 総裁 そうさい の指名 しめい という形式 けいしき で久原 くはら を総裁 そうさい とすることを決定 けってい [ 34] 、一方 いっぽう の革新 かくしん 派 は は旧 きゅう 昭和 しょうわ 会 かい の望月 もちづき 圭介 けいすけ ・山崎 やまざき 達之 たつゆき 輔 ら政友 せいゆう 会 かい 出身 しゅっしん 者 しゃ を合流 ごうりゅう させた。またこの分裂 ぶんれつ の際 さい に、正統 せいとう 派 は ・革新 かくしん 派 は のどちらにも与 くみ しなかった金光 かねみつ 庸夫 みちお ・犬 いぬ 養 やしなえ 健 けん ・太田 おおた 正 ただし 孝 こう らは中立 ちゅうりつ 派 は を結成 けっせい 、翌 よく 1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )には折 おり からの斎藤 さいとう 隆夫 たかお 除名 じょめい 問題 もんだい で斎藤 さいとう 除名 じょめい を支持 しじ して正統 せいとう 派 は 内 ない で孤立 こりつ した議員 ぎいん がこの中立 ちゅうりつ 派 は に合流 ごうりゅう し、以後 いご は「統一 とういつ 派 は 」を名乗 なの った。
中立 ちゅうりつ 派 は - 金光 こんこう 派 は とも(金 きむ 光 ひかり ・犬 いぬ 養 よう ・太田 おおた らが中心 ちゅうしん )→ 統一 とういつ 派 は に発展 はってん
第 だい 二 に 次 じ 分裂 ぶんれつ 時 じ 、党 とう 機関 きかん 紙 し 『政友 せいゆう 』や党 とう 史 し の編集 へんしゅう 部門 ぶもん は革新 かくしん 派 は に握 にぎ られていた。そのため解党 かいとう 後 ご の1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )に完成 かんせい した『立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 史 し 』では、中島 なかじま を正式 せいしき な政友 せいゆう 会 かい 第 だい 8代 だい 総裁 そうさい としている。一方 いっぽう 正統 せいとう 派 は は新 あら たに党 とう 機関 きかん 誌 し 『立憲 りっけん 政友 せいゆう 』を発行 はっこう 、久原 くはら を正統 せいとう な政友 せいゆう 会 かい 第 だい 8代 だい 総裁 そうさい としてこれに対抗 たいこう した。
しかし同年 どうねん 7月 がつ 16日 にち には66名 めい を擁 よう する正統 せいとう 派 は と10名 めい を擁 よう する統一 とういつ 派 は が解党 かいとう 、7月 がつ 30日 にち には97名 めい を擁 よう する革新 かくしん 派 は も解党 かいとう して大政 たいせい 翼賛 よくさん 会 かい に合流 ごうりゅう 、ここに伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の結党 けっとう から40年 ねん の歴史 れきし を持 も つ政友 せいゆう 会 かい は名実 めいじつ 共 ども に消滅 しょうめつ するに至 いた った。
解党 かいとう 後 ご の旧 きゅう 政友 せいゆう 会 かい 所属 しょぞく 議員 ぎいん の行動 こうどう [ 編集 へんしゅう ]
解党 かいとう 1年 ねん 前 まえ の第 だい 2次 じ 分裂 ぶんれつ でほぼ二分 にぶん された政友 せいゆう 会 かい に所属 しょぞく していた議員 ぎいん の行動 こうどう は解党 かいとう 前 まえ に所属 しょぞく していたグループにより各々 おのおの 分 わ かれた。その中 なか でも親 おや 軍 ぐん 派 は である革新 かくしん 派 は 及 およ び人数 にんずう 的 てき には少数 しょうすう 派 は の中立 ちゅうりつ 派 は →統一 とういつ 派 は に所属 しょぞく していた議員 ぎいん は翼賛 よくさん 議会 ぎかい の下 した でも主流 しゅりゅう 派 は である翼賛 よくさん 議員 ぎいん 同盟 どうめい →翼賛 よくさん 政治 せいじ 会 かい →大 だい 日本 にっぽん 政治 せいじ 会 かい に所属 しょぞく し[ 35] 、戦後 せんご は日 にち 政 せい 会 かい を母体 ぼたい として結党 けっとう された日本 にっぽん 進歩 しんぽ 党 とう に参加 さんか した[ 35] 。一方 いっぽう 翼賛 よくさん 政治 せいじ に批判 ひはん 的 てき だった鳩山 はとやま 派 は と親 おや 軍 ぐん 派 は でありながら革新 かくしん 派 は への対抗 たいこう 意識 いしき から鳩山 はとやま 派 は と行動 こうどう をともにした久原 くはら 派 は からなる正統 せいとう 派 は の場合 ばあい はより複雑 ふくざつ だった。鳩山 はとやま 派 は は翼賛 よくさん 議員 ぎいん 同盟 どうめい の結成 けっせい には参加 さんか せず、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )8月 がつ 2日 にち に国勢調査 こくせいちょうさ 会 かい を結成 けっせい し[ 36] 、国勢調査 こくせいちょうさ 会 かい を母体 ぼたい として同年 どうねん 11月 がつ 10日 とおか に同 どう 交会 を結成 けっせい した[ 36] 。同 どう 交会所属 しょぞく 議員 ぎいん で翼賛 よくさん 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば した者 もの は全員 ぜんいん 翼賛 よくさん 政治 せいじ 体制 たいせい 協議 きょうぎ 会 かい の非 ひ 推薦 すいせん 候補 こうほ だったため政府 せいふ によって徹底的 てっていてき に妨害 ぼうがい を受 う け[ 37] 、当選 とうせん 者 しゃ はわずか9名 めい に終 お わり[ 38] 、翼賛 よくさん 選挙 せんきょ 後 ご の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )5月 がつ 14日 にち に解散 かいさん した[ 38] 。同 どう 交会は解散 かいさん 後 ご 親睦 しんぼく 団体 だんたい の後楽 こうらく 会 かい に衣替 ころもが えし[ 38] 、さらに思 おもえ 斉 ひとし 会 かい と改名 かいめい した後 のち [ 39] 、戦後 せんご 日本 にっぽん 自由党 じゆうとう 結党 けっとう の母体 ぼたい となった[ 40] [ 41] 。同 おな じく正統 せいとう 派 は 所属 しょぞく 者 しゃ でも久原 くはら 派 は の議員 ぎいん は鳩山 はとやま 派 は の議員 ぎいん が主 おも に参加 さんか した同 どう 交会を母体 ぼたい とする自由党 じゆうとう の結党 けっとう にも革新 かくしん 派 は ・統一 とういつ 派 は の議員 ぎいん が主 おも に参加 さんか した日 ひ 政 せい 会 かい を母体 ぼたい とする進歩 しんぽ 党 とう の結党 けっとう にも参加 さんか せず[ 42] 、敗戦 はいせん した日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か が自 みずか らの政治 せいじ 責任 せきにん を明 あき らかにしない中 なか で政党 せいとう の再建 さいけん に進 すす むことは妥当 だとう ではない[ 43] 、寧 むし ろ衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん は敗戦 はいせん の責任 せきにん を負 お って総 そう 辞職 じしょく すべきであるとの考 かんが えから護国 ごこく 同志 どうし 会 かい に所属 しょぞく していた議員 ぎいん や翼 つばさ 壮 たけし 議員 ぎいん 同志 どうし 会 かい に所属 しょぞく していた議員 ぎいん らとともに院内 いんない 会派 かいは ・無所属 むしょぞく 倶楽部 くらぶ の結成 けっせい に参加 さんか した[ 43] 。
立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい (中島 なかじま 派 は ・革新 かくしん 派 は )
代 だい
総裁 そうさい
在任 ざいにん 期間 きかん
1
中島 なかじま 知久平 ちくへい
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )4月 がつ 30日 にち - 1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ 30日 にち
立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい (久原 くばら 派 は ・正統 せいとう 派 は )代行 だいこう 委員 いいん
代 だい
総裁 そうさい 代行 だいこう 委員 いいん
在任 ざいにん 期間 きかん
-
久原 くはら 房之助 ふさのすけ
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )4月 がつ 30日 にち - 1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )5月 がつ 20日 はつか
三土 みつち 忠造 ちゅうぞう
芳澤 よしざわ 謙吉 けんきち
立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい 総裁 そうさい (久原 くばら 派 は ・正統 せいとう 派 は )
代 だい
総裁 そうさい
在任 ざいにん 期間 きかん
1
久原 くはら 房之助 ふさのすけ
1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )5月 がつ 20日 はつか - 1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ 16日 にち
原 はら 敬 たかし (1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )12月19日 にち - 1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )12月22日 にち )[ 44]
末松 すえまつ 謙澄 けんちょう (1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )5月 がつ 1日 にち - 1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )12月3日 にち )[ 44]
久我 くが 通 とおる 久 ひさ (1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )12月3日 にち - 1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )3月 がつ 31日 にち )[ 44]
原 はら 敬 たかし (1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )3月 がつ 31日 にち - 1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )3月 がつ 1日 にち )[ 44]
菊亭 きくてい 修 おさむ 季 き (1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )3月 がつ 1日 にち - 1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )10月 がつ 8日 にち 、在任 ざいにん 中 ちゅう 死亡 しぼう )[ 44]
児玉 こだま 淳 あつし 一郎 いちろう (1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )3月 がつ 31日 にち - 1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )3月 がつ 29日 にち )[ 44]
元田 もとだ 肇 はじめ (1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )3月 がつ 29日 にち - 1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )3月 がつ 28日 にち )[ 44]
長谷場 はせば 純孝 すみたか (1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )3月 がつ 28日 にち - 1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )12月24日 にち )[ 44]
杉田 すぎた 定一 さだいち (1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )12月24日 にち - 1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )3月 がつ 15日 にち )[ 44]
伊藤 いとう 大八 だいはち (1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )3月 がつ 25日 にち - 1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )3月 がつ 24日 にち )[ 44]
奥 おく 繁 しげる 三郎 さぶろう (1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )3月 がつ 24日 にち - 1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )3月 がつ 25日 にち )[ 44]
野田 のだ 卯太郎 うたろう (1912年 ねん (明治 めいじ 45年 ねん )3月 がつ 29日 にち - 1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )3月 がつ 29日 にち )[ 44]
松田 まつだ 正久 まさひさ (1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )3月 がつ 29日 にち - 1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )3月 がつ 5日 にち 、在任 ざいにん 中 ちゅう 死亡 しぼう )[ 44]
村野 むらの 常 つね 右 みぎ 衛門 えもん (1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )3月 がつ 29日 にち - 1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )3月 がつ 27日 にち )[ 44]
永江 ながえ 純一 じゅんいち (1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )3月 がつ 27日 にち - 1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )5月 がつ 15日 にち )[ 44]
小川 おがわ 平吉 へいきち (1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )5月 がつ 15日 にち - 1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )3月 がつ 1日 にち )[ 44]
江藤 えとう 哲 あきら 蔵 ぞう (1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )3月 がつ 1日 にち - 1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )6月 がつ 19日 にち )[ 44]
横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ (1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )6月 がつ 19日 にち - 1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )10月 がつ 1日 にち )[ 44]
望月 もちづき 圭介 けいすけ (1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )10月 がつ 1日 にち - 1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )7月 がつ 31日 にち )[ 44]
広岡 ひろおか 宇一郎 ういちろう (1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )7月 がつ 31日 にち - 1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )3月 がつ 27日 にち )[ 44]
横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ (1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )3月 がつ 27日 にち - 1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )6月 がつ 15日 にち )[ 44]
望月 もちづき 圭介 けいすけ (1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )6月 がつ 15日 にち - 1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )2月 がつ 1日 にち )[ 44]
岩崎 いわさき 勲 いさお (1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )2月 がつ 1日 にち - 1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )4月 がつ 1日 にち )[ 44]
前田 まえだ 米蔵 よねぞう (1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )4月 がつ 1日 にち - 1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )3月 がつ 27日 にち )[ 44]
鳩山 はとやま 一郎 いちろう (1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )3月 がつ 27日 にち - 1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )4月 がつ 16日 にち )[ 44]
山 やま 本条 ほんじょう 太郎 たろう (1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )4月 がつ 16日 にち - 1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )7月 がつ 19日 にち )[ 44]
秦 はた 豊助 とよすけ (1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )7月 がつ 19日 にち - 1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )5月 がつ 25日 にち )[ 44]
島田 しまだ 俊雄 としお (1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )5月 がつ 25日 にち - 1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )4月 がつ 28日 にち )[ 44]
森 もり 恪 つとむ (1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )4月 がつ 28日 にち - 1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )3月 がつ 29日 にち )[ 44]
久原 くはら 房之助 ふさのすけ (1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )3月 がつ 29日 にち - 1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )3月 がつ 27日 にち )[ 44]
山口 やまぐち 義一 ぎいち (1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )3月 がつ 27日 にち - 1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )3月 がつ 27日 にち )[ 44]
若宮 わかみや 貞夫 さだお (1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )3月 がつ 27日 にち - 1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )3月 がつ 28日 にち )[ 44]
松野 まつの 鶴 づる 平 ひらた (1935年 ねん (昭和 しょうわ 10年 ねん )3月 がつ 28日 にち - 1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )5月 がつ 28日 にち )[ 44]
安藤 あんどう 正純 まさずみ (1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )5月 がつ 28日 にち - 1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )5月 がつ 11日 にち )[ 44]
松野 まつの 鶴 づる 平 たいら (1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )5月 がつ 11日 にち - 1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )3月 がつ 28日 にち )[ 44]
砂田 すなだ 重政 しげまさ (1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )3月 がつ 28日 にち - 1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )5月 がつ 1日 にち )[ 44]
政友 せいゆう 会 かい 革新 かくしん 派 は 田辺 たなべ 七 なな 六 ろく (1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )5月 がつ - 1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )3月 がつ )[ 44]
政友 せいゆう 会 かい 革新 かくしん 派 は 東郷 とうごう 実 みのる (1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )3月 がつ - 1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ )[ 44]
政友 せいゆう 会 かい 正統 せいとう 派 は 岡田 おかだ 忠彦 ただひこ (1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )5月 がつ - 1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ )[ 44]
伊藤 いとう 総裁 そうさい 期 き
西園寺 さいおんじ 総裁 そうさい 期 き
原 はら 総裁 そうさい 期 き
高橋 たかはし 総裁 そうさい 期 き
野田 のだ 卯太郎 うたろう 、岡崎 おかざき 邦 くに 輔、山本 やまもと 悌二郎 ていじろう 、床次 とこなみ 竹二郎 たけじろう 、川原 かわはら 茂輔 もすけ 、小川 おがわ 平吉 へいきち 、三土 みつち 忠造 ちゅうぞう 、元田 もとだ 肇 はじめ 、中橋 なかはし 徳五郎 とくごろう 、富安 とみやす 保太郎 やすたろう など[ 45] [ 46]
田中 たなか 総裁 そうさい 期 き
総裁 そうさい 空位 くうい ・森 もり 恪 つとむ 幹事 かんじ 長期 ちょうき
犬 いぬ 養 やしなえ 総裁 そうさい 期 き
鈴木 すずき 総裁 そうさい 期 き
総裁 そうさい 代行 だいこう 委員 いいん 期 き
分裂 ぶんれつ 期 き 革新 かくしん 派 は
分裂 ぶんれつ 期 き 正統 せいとう 派 は
安藤 あんどう 正純 まさずみ 、植原 うえはら 悦二郎 えつじろう 、若宮 わかみや 貞夫 さだお 、松野 まつの 鶴 づる 平 たいら など[ 45]
^ 但 ただ し中立 ちゅうりつ 派 は は少数 しょうすう で、実質 じっしつ 的 てき には多数 たすう を占 し める革新 かくしん 派 は と正統 せいとう 派 は の並立 へいりつ 状態 じょうたい であった。
^ 犬 いぬ 養 よう によって「平和 へいわ の精神 せいしん と平和 へいわ の行為 こうい とを以 もっ て四方 しほう に発展 はってん し、如何 いか なる弱国 じゃっこく に対 たい しても断 だん じて武力 ぶりょく に頼 たよ らず、断 だん じて侵略 しんりゃく を野心 やしん を挟 はさ まず、平和 へいわ なる商人 しょうにん 、平和 へいわ なる工 こう 人 じん 、平和 へいわ なる農民 のうみん として四隣 しりん を闊歩 かっぽ し、以 もっ て世界 せかい 同胞 どうほう の実 み を挙 あ げんと欲 ほっ するものである」と宣言 せんげん された党 とう の指導 しどう 精神 せいしん である[ 23] 。
^ 当時 とうじ 華族 かぞく の当主 とうしゅ には衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん の被選挙権 ひせんきょけん がなかった。
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^ 現 げん 内閣 ないかく を攻 せ める時期 じき は既 すで に過 す ぎ去 さ った大阪 おおさか 朝日新聞 あさひしんぶん 記事 きじ 1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )4月 がつ 17日 にち
保守党 ほしゅとう 派 は (有産 ゆうさん 政党 せいとう )
自由党 じゆうとう 系 けい 改 あらため 進 しん 党 とう 系 けい その他 た
革新党 かくしんとう 派 は (無産 むさん 政党 せいとう )
国粋 こくすい 主義 しゅぎ 政党 せいとう
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