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立憲りっけん政友せいゆうかい

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日本の旗 日本にっぽん政党せいとう
立憲りっけん政友せいゆうかいりっけんせいゆうかい
立憲りっけん󠄁政友せいゆうかい
立憲りっけん政友せいゆうかい本部ほんぶ
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1900ねん9月15にち[1]
前身ぜんしん政党せいとう 憲政けんせいとう
帝国ていこくとう一部いちぶ
みんとうけい諸派しょは
解散かいさん年月日ねんがっぴ 1940ねん7がつ16にち正統せいとう[2][3]
1940ねん7がつ30にち革新かくしん[2][4]
解散かいさん理由りゆう 大政たいせい翼賛よくさんかいへの合流ごうりゅうのため解散かいさん
後継こうけい政党せいとう どう交会人脈じんみゃくてきには日本にっぽん自由党じゆうとう民主みんしゅ自由党じゆうとう自由党じゆうとう自由民主党じゆうみんしゅとう
政治せいじてき思想しそう立場たちば 中道右派ちゅうどううは[5] - 右派うは[6]
保守ほしゅ主義しゅぎ[7][8][9]
自由じゆう保守ほしゅ主義しゅぎ[8]
憲法けんぽう遵守じゅんしゅ[10]
皇室こうしつ中心ちゅうしん主義しゅぎ[11]
修正しゅうせい資本しほん主義しゅぎ[12]
機関きかん政友せいゆう[13]
中央ちゅうおう新聞しんぶん[14]
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立憲りっけん政友せいゆうかい(りっけんせいゆうかい、きゅう字体じたい立憲りっけん󠄁政友せいゆうかい[15])は、明治めいじ時代じだいから昭和しょうわ時代じだい戦前せんぜん)にかけての日本にっぽん政党せいとう略称りゃくしょう政友せいゆうかい(せいゆうかい)。

立憲りっけん民政みんせいとうとともに1925ねんから1931ねんにかけて衆議院しゅうぎいんにおいてだい政党せいとうせい形成けいせいした[16][17]

当時とうじとしては議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ地方ちほう分権ぶんけんうったえるなど進歩しんぽ主義しゅぎてき側面そくめんもあった。

概説がいせつ

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1900ねん明治めいじ33ねん)、政党せいとうないかくせい確立かくりつ企図きとした伊藤いとう博文ひろぶみ議会ぎかい与党よとうとして、結党けっとうされた。結党けっとう直後ちょくごだい4伊藤いとう内閣ないかく筆頭ひっとうに、すうだいにわたって内閣ないかく組織そしきして政権せいけんになった。1939ねん昭和しょうわ14ねん)に分裂ぶんれつして革新かくしん中島なかじま)・正統せいとう久原くばら)・中立ちゅうりつ金光こんこう)の鼎立ていりつ状態じょうたいとなり[ちゅう 1]1940ねん昭和しょうわ15ねん7がつ16にち正統せいとう統一とういつ中立ちゅうりつ後身こうしん)が解散かいさんし、同年どうねん7がつ30にち革新かくしん解散かいさんしたことにより解党かいとうとなった。

政友せいゆうかい特徴とくちょうどうとう成立せいりつ趣意しゅいしょにもあるように、「とう同志どうし国家こっかたいする政党せいとう責任せきにんおもんじ、もっぱ公益こうえき目的もくてきとして行動こうどう」するのであって、「国運こくうんすす文明ぶんめい扶植ふしょく」するため与論よろん指導しどうし、地方ちほう公共こうきょう施設しせつ建設けんせつにも公益こうえきさい優先ゆうせんさせる「国家こっか公党こうとう」をうたったてんである[18]立憲りっけん政友せいゆうとうではなく「かい」をしょうしたのも、国家こっか利益りえき優先ゆうせん国家こっかとの一体いったいかん強調きょうちょうする初代しょだい総裁そうさい伊藤いとう博文ひろぶみ政党せいとうかん由来ゆらいするもので、政党せいとうたいする国家こっか優位ゆういせいあらわしている[19][20]国民こくみん私的してき利益りえき追求ついきゅうするみんとう政党せいとううならば、政友せいゆうかいはこれらをおさえる「はん政党せいとうてき政党せいとうだった[19][20]

当時とうじ次第しだい増加ぞうかしていた実業じつぎょうたちを積極せっきょくてきむことでしょう工業こうぎょうひいては国家こっか発展はってん目指めざした伊藤いとうは、従来じゅうらい地主じぬしだったが寄生きせい地主じぬしして実業じつぎょうになり都市としむようになった市議会しぎかい議員ぎいん商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう会社かいしゃ社長しゃちょう弁護士べんごし銀行ぎんこう頭取とうどりなどに入党にゅうとう勧誘かんゆうした[18]西園寺さいおんじ内閣ないかくしたでは鉄道てつどう国有こくゆう新設しんせつ築港ちっこう学校がっこう建設けんせつなど積極せっきょく政策せいさく展開てんかいし、その利権りけん投与とうよによって党員とういん周辺しゅうへん民衆みんしゅうけて党勢とうせい拡張かくちょう成功せいこう[21]三井みつい財閥ざいばつ安田やすだ財閥ざいばつ渋沢しぶさわ財閥ざいばつなどのだい財閥ざいばつ支持しじ[22]。そのうえで、個人こじん権利けんり自由じゆう保全ほぜん友好ゆうこう外交がいこう国防こくぼう充実じゅうじつ教育きょういく振興しんこう産業さんぎょう発展はってん交通こうつうもう充実じゅうじつなどをかかげた[18]とくいぬやしなえ総裁そうさい時代じだいでは経済けいざい中心ちゅうしんとする平和へいわてき対外たいがい政策せいさく産業さんぎょう立国りっこく主義しゅぎ[ちゅう 2]標榜ひょうぼうされた[23]他方たほう政友せいゆうかい主力しゅりょく支持しじ基盤きばん地方ちほう地主じぬしがいたこともあり、地方ちほう自治じち尊重そんちょう地方ちほう分権ぶんけんかかげられた[24][25]

歴史れきし

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前史ぜんし

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大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう施政しせい日本にっぽんにおいては、明治維新めいじいしんにおいて政府せいふ組織そしきした西南せいなん雄藩ゆうはんおよびその縁者えんじゃ(いわゆる藩閥はんばつ)が政権せいけん独占どくせんしていたが、帝国ていこく議会ぎかい創設そうせつ以降いこう衆議院しゅうぎいんにて多数たすう確保かくほした自由じゆう民権みんけん運動うんどう勢力せいりょくみんとう)の協賛きょうさんなしには予算よさん法律ほうりつ成立せいりつせず、実際じっさいとき藩閥はんばつないかくは、みんとう個別こべつ連携れんけい妥協だきょうおこなうか、あるいは政権せいけん運営うんえい失敗しっぱいして退陣たいじん余儀よぎなくされた。

藩閥はんばつ首脳しゅのうじんである元老げんろうなかでは、伊藤いとう博文ひろぶみ筆頭ひっとう元老げんろうが、藩閥はんばつ政党せいとう対立たいりつ前提ぜんていとした方向ほうこうせい超然ちょうぜん主義しゅぎ)からの脱却だっきゃく政党せいとうないかくせいへの移行いこう模索もさくしていた。とくに、だい2伊藤いとう内閣ないかく一時いちじてき連立れんりつんでいた憲政けんせいとうきゅう自由党じゆうとうけい)との連携れんけいふかめ、1900ねん明治めいじ33ねん)、ときだい2やま縣内けんないかく憲政けんせいとう連立れんりつ離脱りだつするのと前後ぜんごして、憲政けんせいとう実務じつむ仕切しきっていたほしとおるらと連携れんけい、「伊藤いとう新党しんとう」の結党けっとう準備じゅんびおこなっていた。憲政けんせいとうほか帝国ていこくとう日吉ひよし倶楽部くらぶなどの会派かいは賛同さんどうて、また盟友めいゆう井上いのうえかおる元老げんろう伝手つて実業じつぎょうかい賛同さんどうて、その各界かくかい名士めいしへの入党にゅうとう勧誘かんゆうおこなわれた。伊藤いとう政府せいふ要職ようしょくし、明治天皇めいじてんのうからは勅許ちょっきょとともに、かね2まんえん下賜かしされている。

結党けっとう

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1900ねん明治めいじ33ねん9月15にち伊藤いとう初代しょだい総裁そうさいとして、立憲りっけん政友せいゆうかい結党けっとうされた(結党けっとう時点じてん衆議院しゅうぎいん152議席ぎせき)。この時点じてん会則かいそくでは総裁そうさい専制せんせいてき権限けんげんあたえられており、役員やくいん人選じんせん総裁そうさい一任いちにんおこな形式けいしきであった。

直後ちょくごの10がつ19にちだい4伊藤いとう内閣ないかく発足ほっそくする。これは、政党せいとうないかく印象いんしょうっていなかった山縣やまがた有朋ありとも元老げんろうが、伊藤いとう総裁そうさいへの意趣いしゅがえしとして、首相しゅしょう辞任じにん政党せいとう体制たいせいととのっていない状態じょうたい政友せいゆうかい政権せいけんけるという算段さんだんであった。内閣ないかく陸相りくしょううみしょう外相がいしょう以外いがい閣僚かくりょう政友せいゆう会員かいいん構成こうせいされていた。しかし、この政党せいとうないかく貴族きぞくいん反発はんぱつまねき、東京とうきょう疑獄ぎごく事件じけんほしが逓相を辞職じしょくするにまれたほか、1901ねん3月、義和よしかずだんらん軍費ぐんぴ捻出ねんしゅつのための増税ぞうぜいあん一時いちじ否決ひけつする(最終さいしゅうてき成立せいりつ)。結局けっきょく伊藤いとう内閣ないかくは、渡辺わたなべ国武くにたけ蔵相ぞうしょうかくない不一致ふいっちこしたことにより、1ねんらずで内閣ないかくそう辞職じしょくした。後任こうにん大命たいめい降下こうかけた井上いのうえかおる元老げんろうは、つづ政友せいゆうかい政権せいけん与党よとうとするかんがえであったが、財界ざいかい協力きょうりょくられずに断念だんねん藩閥はんばつない山縣やまがた直系ちょっけいかつら太郎たろう組閣そかくだい1かつら内閣ないかく)、政友せいゆうかい野党やとうてんじる。

桂園けいえん時代じだい

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かつら内閣ないかく成立せいりつ伊藤いとう総裁そうさいは、にち情勢じょうせい打開だかい欧米おうべい列強れっきょうとの外交がいこう交渉こうしょうおこなうために、外遊がいゆうたびる。伊藤いとう総裁そうさい筆頭ひっとう元老げんろうという立場たちばもあり、かつら内閣ないかく支援しえんする立場たちばにあったが、留守るすあずかるはらたかし松田まつだ正久まさひさ政友せいゆうかい幹部かんぶは、政府せいふ攻撃こうげきまわる。11月に外債がいさいひつじたち発生はっせいすると、政友せいゆうかいは、くまいたないかく崩壊ほうかい以来いらい犬猿けんえんなかであっただいとう憲政けんせいほんとうかつら内閣ないかく攻撃こうげき提携ていけいする。この時点じてんでは党内とうないでは政府せいふとの交渉こうしょうつづけるべしとの意見いけんおおく、党内とうないふたつにれた。連絡れんらくけた伊藤いとう総裁そうさい外遊がいゆうさきより極秘ごくひ電報でんぽうち、倒閣とうかく見合みあわせるよう訓示くんじす。藩閥はんばつ政権せいけん中枢ちゅうすうおよびとう幹部かんぶらがこれを回覧かいらんしたのち、とう幹部かんぶほこおさめることを決意けつい藩閥はんばつがわ政友せいゆうかいない反対はんたいくずし、対立たいりつ一旦いったん解消かいしょうされた[26]

1902ねん8がつ10日とおか任期にんき満了まんりょうともなだい7かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょおこなわれ、政友せいゆうかいつづだいいちとう維持いじする。選挙せんきょ議会ぎかいでは、地租ちそ増徴ぞうちょう継続けいぞくめぐり、政友せいゆうかいふたた憲政けんせいほんとう連携れんけいして対立たいりつ伊藤いとう総裁そうさいもこれをおさえられなくなる。同年どうねんまつ衆議院しゅうぎいん解散かいさんされるが、かつら内閣ないかく打開だかいじゅつとして、かつら首相しゅしょう伊藤いとう総裁そうさい直接ちょくせつ一本釣いっぽんづりにして、伊藤いとう総裁そうさい一部いちぶ予算よさんえを条件じょうけんに、増徴ぞうちょう継続けいぞく容認ようにんする。1903ねん3がつ1にちだい8かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにて、政友せいゆうかいふたただいいちとう維持いじするが、ほどなく伊藤いとう密約みつやく発覚はっかくする。政友せいゆうかい伊藤いとう地租ちそ継続けいぞく密約みつやく容認ようにんするが、代償だいしょうとしてとう規約きやく改正かいせい総裁そうさい専制せんせいからの脱却だっきゃく要求ようきゅう伊藤いとうはこれをれる。さらに7がつ12にち元老げんろうけん野党やとう総裁そうさいという伊藤いとう立場たちばあつかいづらさ、伊藤いとう党内とうないをまとめれていないという現状げんじょう解消かいしょうすべく、藩閥はんばつ首脳しゅのうとう幹部かんぶ総意そういというかたちで、伊藤いとうまつげのかたち枢密院すうみついん議長ぎちょう転出てんしゅつわりに西園寺さいおんじ公望きんもちくるるしょう政友せいゆうかい総裁そうさいむかれられる[27]

以降いこうかつらひきいる藩閥はんばつと、西園寺さいおんじ総裁そうさいいただ政友せいゆうかいが、妥協だきょうしつつ安定あんていてき政権せいけん運営うんえいする時代じだいが、やく10年間ねんかんにわたり継続けいぞくする(桂園けいえん時代じだい)。このあいだ政友せいゆうかいはら党務とうむした衆議院しゅうぎいんだいいちとう維持いじつづける。

1904ねん2がつにち戦争せんそう勃発ぼっぱつ政友せいゆうかいは、かつら内閣ないかく戦争せんそう遂行すいこう協力きょうりょくしたが、同年どうねん11がつごろより、西園寺さいおんじはら松田まつだ幹部かんぶ3にんかつらとひそかに接触せっしょく戦後せんご政友せいゆうかい政権せいけんゆず方向ほうこうはなしをまとめる。1905ねん8がつ28にちポーツマス条約じょうやく締結ていけつされると、これに反対はんたいする民衆みんしゅう暴動ぼうどう日比谷ひびや事件じけん)が発生はっせいしたが、政友せいゆうかいはらめによりこれにくわわらなかった。1906ねん1がつ7にちだい1西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつする[28]

桂園けいえん時代じだい政友せいゆうかいは、西園寺さいおんじ公望きんもちはらたかし松田まつだ正久まさひささんめいによる集団しゅうだん指導しどう体制たいせい運営うんえいされた。堂上どうじょう公家くげまれである西園寺さいおんじ山縣やまがたかつら藩閥はんばつとの交渉こうしょう窓口まどぐちや、自身じしん組閣そかくなどで対外たいがいてきとう代表だいひょうはら西園寺さいおんじわって党務とうむ統括とうかつ松田まつだ党内とうない声望せいぼうがあり、党内とうない不満ふまん分子ぶんしりまとめをになっていた[29]

だい1西園寺さいおんじ内閣ないかくは、年来ねんらい主張しゅちょうであった鉄道てつどう国有こくゆうなどを実現じつげんする。1908ねん5がつ15にちだい10かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにおいて、政友せいゆうかい過半数かはんすう確保かくほする。しかしこの直後ちょくご赤旗あかはた事件じけん発生はっせい内閣ないかく社会しゃかい主義しゅぎまりの不備ふび山縣やまがた藩閥はんばつ陣営じんえいから攻撃こうげきけ、西園寺さいおんじそう辞職じしょく決意けつい後継こうけいにはかつら奏請そうせいし、7がつ12にちだい2かつら内閣ないかく発足ほっそくする。だい2かつら内閣ないかくでは、当初とうしょ野党やとう位置いちであったが、1906ねん憲政けんせいほんとう衆議院しゅうぎいんだい2とう)を中心ちゅうしん政友せいゆうかい党派とうは合同ごうどう機運きうんがると(のちに立憲りっけん国民党こくみんとう結党けっとうされる)、かつら首相しゅしょうもとめによって、政友せいゆうかい与党よとう復帰ふっきする[30]

以降いこう再度さいど政権せいけん授受じゅじゅについて、かつらはらあいだ交渉こうしょうがもたれたが、1910ねん大逆だいぎゃく事件じけんあかるみにたことにより、西園寺さいおんじ内閣ないかく攻撃こうげきした藩閥はんばつはメンツをうしない、はらかつら政界せいかい引退いんたい言質げんちる。1910ねん8がつ30にちだい2西園寺さいおんじ内閣ないかく成立せいりつする。1912ねん5がつ15にちだい11かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、つづ過半数かはんすう維持いじする。

1912ねん11月、師団しだん増設ぞうせつ問題もんだい懸案けんあんとしてがる。これが、政界せいかい復帰ふっきけたかつら内大臣ないだいじん陰謀いんぼうからんでこじれ、西園寺さいおんじ内閣ないかくそう辞職じしょくする。わって組織そしきされただい3かつら内閣ないかくは、かつら独自どくじ政党せいとう結成けっせい企図きとして政友せいゆうかいとの連携れんけい解消かいしょうしたため、桂園けいえん連携れんけいくずれる。野党やとうてんじた政友せいゆうかい立憲りっけん国民党こくみんとうとうとともに倒閣とうかくぱしり、だい3かつら内閣ないかく短期間たんきかん崩壊ほうかい西園寺さいおんじ総裁そうさい辞任じにん前後ぜんごして松田まつだ急死きゅうししたため、はら後継こうけい総裁そうさいとなる(大正たいしょう政変せいへん)。

はら総裁そうさい時代じだい

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いで成立せいりつしただい1山本やまもと内閣ないかくは、当初とうしょ閣外かくがい協力きょうりょく予定よていであったものを西園寺さいおんじのすすめにより与党よとうとして参画さんかく閣僚かくりょう全員ぜんいん政友せいゆう会員かいいんないしげん総裁そうさいちかしい人間にんげんという、事実じじつじょう政友せいゆうかい内閣ないかくとなった。

そのだい2大隈おおくま内閣ないかくでは野党やとうてんじるが、大正たいしょうデモクラシーなみにのって成長せいちょうし、1918ねんべい騒動そうどう1918ねん大正たいしょう7ねん)にはらたかし首班しゅはんとなって、日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてき政党せいとうないかく組織そしきした。

大正たいしょう時代じだい政友せいゆうかいは、はらたかしかくとして山本やまもと達雄たつお水野みずの錬太郎れんたろう高橋たかはし是清これきよ伊藤いとう博文ひろぶみけい政治せいじ山縣やまがた有朋ありともけい官僚かんりょうとう中心ちゅうしんにして当時とうじ議会ぎかい多数たすうめていただい政党せいとうであり、「積極せっきょく政策せいさく」を政策せいさく目玉めだまとし、地方ちほう利益りえき獲得かくとく党勢とうせい拡大かくだい梃子てこにしていた。ただ、はらたかし歿後ぼつご党内とうない党人とうじん総裁そうさい高橋たかはし是清これきよ尾崎おざき行雄ゆきお野田のだ卯太郎うたろう横田よこたせんこれすけ小泉こいずみさく太郎たろう小川おがわ平吉へいきち岡崎おかざきくにら)と官僚かんりょう総裁そうさい山本やまもと達雄たつお床次とこなみ竹二郎たけじろう中橋なかはし徳五郎とくごろう元田もとだはじめら)の対立たいりつ傾向けいこう先鋭せんえいはじめていた。

分裂ぶんれつだい1)と合同ごうどう

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はら総裁そうさいのもとでは表面ひょうめんしなかった内部ないぶ対立たいりつ後継こうけい高橋たかはし是清これきよ総裁そうさい時代じだいになると顕在けんざいしていった。対立たいりつ構図こうずは、官僚かんりょうけいメンバー(中橋なかはし徳五郎とくごろう元田もとだはじめなど)と自由党じゆうとうけいメンバー(横田よこたせんこれすけ望月もちづき圭介けいすけなど)のあらそいであった。また普通ふつう選挙せんきょもとめる立憲りっけん労働党ろうどうとう期成きせい同盟どうめいかい青年せいねん改造かいぞう連盟れんめい小石川こいしかわ労働ろうどうかい博文ひろぶみかん大進たいしんかい活動かつどう活発かっぱつであり、1920ねん2がつ12にちには政友せいゆうかい門前もんぜんなどで5まんにん動員どういんした集会しゅうかい開催かいさいされたこともあった[31]

だい45かい帝国ていこく議会ぎかい内閣ないかく改造かいぞう企画きかくした高橋たかはし首相しゅしょうは、1921ねん大正たいしょう10ねん)5がつ2にち閣議かくぎ内閣ないかく改造かいぞう提案ていあんするも、元田もとだてつしょう中橋なかはし文相ぶんしょう反対はんたいにあい、さら翌日よくじつ閣議かくぎでは山本やまもと農相のうしょう反対はんたいまわったためいち断念だんねんした。つづく、6月5にちには政友せいゆうかい議員ぎいん総会そうかい総裁そうさい一任いちにん決議けつぎして閣僚かくりょう辞表じひょうもとめた。山本やまもと農相のうしょう床次とこなみ内相ないしょう野田のだ逓相は辞表じひょう提出ていしゅつ同意どういしたが、元田もとだてつしょう中橋なかはし文相ぶんしょう内閣ないかく改造かいぞうにあくまでも反対はんたいしたため高橋たかはし内閣ないかくそう辞職じしょくすることとなった。高橋たかはし横田よこた内閣ないかく改造かいぞうは、改造かいぞう元田もとだ中橋なかはし木下きのした吉植よしうえ田辺たなべ田村たむらの6にん除名じょめいした。除名じょめいしゃふくとうしたのは半年はんとしの12月のことであった。

高橋たかはし組閣そかくしたのは加藤かとう友三郎ともさぶろうであった、政友せいゆうかい衆議院しゅうぎいんだいいちとうであるにもかかわらず政権せいけんうしなったことについてとう主導しゅどうした横田よこたへの批判ひはんたかまり、1922ねん大正たいしょう11ねん)9がつ3にちけの『神戸こうべ新聞しんぶん』には「政友せいゆうほんとう」の新党しんとう設立せつりつうごきがあることが報道ほうどうされた。加藤かとう内閣ないかくのちだい2山本やまもと内閣ないかくつづき、政友せいゆうかいには政権せいけんまわってこなかった。このため1923ねん大正たいしょう12ねん)12月からのだい47かい帝国ていこく議会ぎかい臨時りんじかい)で政友せいゆうかいない改革かいかく運動うんどうとして再度さいど紛糾ふんきゅうき、改革かいかく山本やまもと元田もとだ中橋なかはし総務そうむ委員いいんくわわることで妥協だきょうた。山本やまもと内閣ないかくについても選挙せんきょ管理かんりないかく意味合いみあいもあって枢密院すうみついん議長ぎちょう清浦きようら奎吾首班しゅはんとする清浦きようら内閣ないかく成立せいりつし、政友せいゆうかい衆議院しゅうぎいんだいいちとうのまま都合つごうさん政権せいけんのがした。清浦きようら1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ1にち大命たいめい拝受はいじゅし、2にちから組閣そかくはいり、貴族きぞくいん最大さいだい会派かいは研究けんきゅうかい協力きょうりょく要請ようせいした。当初とうしょ政友せいゆうかいでは衆議院しゅうぎいん議席ぎせき背景はいけい床次とこなみ横田よこたつうじてすうめい閣僚かくりょう要求ようきゅうすることで清浦きようら組閣そかく断念だんねんすることに期待きたいした。清浦きようら内閣ないかく組閣そかく難航なんこうするなか政友せいゆうかい改革かいかく高橋たかはし引退いんたいさせ、研究けんきゅうかいとともに清浦きようら内閣ないかく協力きょうりょくし、床次とこなみ政友せいゆうかい総裁そうさいにしてふく総理そうりかく入閣にゅうかくさせることを企画きかくした。おりしも当時とうじ高橋たかはし総裁そうさい辞任じにんする決心けっしんいちらしていたが、小泉こいずみさく太郎たろう説得せっとく翻意ほんいして清浦きようら内閣ないかくには野党やとう立場たちばをとることをめた。この高橋たかはし総裁そうさい続投ぞくとう結果けっか政友せいゆうかい分裂ぶんれつをもたらすこととなった。当初とうしょ横田よこた小泉こいずみ脱党だっとうしゃ少数しょうすう見積みつもっており、衆議院しゅうぎいんだいいちとう確保かくほされ、むしろ結束けっそくかためる機会きかいだと見込みこみをてていた。横田よこた予測よそくでは脱党だっとうしゃは20にんから30にんおおくても50にん推測すいそくしていた。政友せいゆうかい幹部かんぶなかには脱党だっとうしゃを100にん前後ぜんこう予測よそくしていたものもおり、たとえば松野まつのづるひらた脱党だっとうしゃ130にん前後ぜんこう残留ざんりゅうぐみ110にん去就きょしゅう不明ふめいしゃ37にん予測よそくした。また、小泉こいずみ脱党だっとうしゃ130にん残留ざんりゅうぐみ150にん程度ていどであり、原前はらまえ総裁そうさい後継こうけいとうであるという正当せいとうせいもあるため、たる選挙せんきょでは160~180議席ぎせき獲得かくとくして比較ひかくだいいちとう維持いじ可能かのうかんがえた。15にちには清浦きようら内閣ないかく反対はんたい決定けっていし、高橋たかはし総裁そうさい爵位しゃくいゆず平民へいみんとなって[ちゅう 3]そう選挙せんきょ出馬しゅつばすることを宣言せんげんした。これをけ、政友せいゆうかい改革かいかく分裂ぶんれつ決心けっしんし、政友せいゆうほんとう結成けっせいして清浦きようら内閣ないかく与党よとう構成こうせいした。床次とこなみ最後さいごまでまよっており、16にち午後ごご岡崎おかざきくに輔の説得せっとくによって一時いちじ政友せいゆうかいみとどまって高橋たかはし進退しんたいともにすることをちかい、脱党だっとうぐみ説得せっとくしようとしたがぎゃく再度さいど説得せっとくをうけて脱党だっとうすることとなった。16にちよる改革かいかく山本やまもと元田もとだ中橋なかはし床次とこなみ脱党だっとうとどけ高橋たかはし総裁そうさい提出ていしゅつし、結局けっきょく過半数かはんすうじょうの148にん政友せいゆうかいから分裂ぶんれつして政友せいゆうほんとう結成けっせいすることとなった。29にち帝国ていこくホテルで政友せいゆうほんとう結成けっせいしきおこなわれた。だい48かい帝国ていこく議会ぎかい開始かいしだいいちとう政友せいゆうほんとう(150議席ぎせき)であり、少数しょうすうとなっただいとう政友せいゆうかい(139議席ぎせき)は18にち三浦みうら梧楼ごろうたく憲政けんせいかい(103議席ぎせき)・革新かくしん倶楽部くらぶ(43議席ぎせき)と会談かいだんし、護憲ごけんさん形成けいせいして倒閣とうかく運動うんどう開始かいしした。清浦きようら内閣ないかくでは選挙せんきょけん拡大かくだいについて選挙せんきょほう改正かいせいんだが、独立どくりつ生計せいけいつものについて大正たいしょう17ねん(1928ねん実際じっさいには大正天皇たいしょうてんのう崩御ほうぎょにより昭和しょうわ3ねん)5がつからの施行しこう目指めざしたものであった。これが野党やとう攻撃こうげきまととなり、1924ねん大正たいしょう13ねん)1がつ31にち内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつされ議場ぎじょう極度きょくど混乱こんらんをもたらしたため、政府せいふ衆議院しゅうぎいん解散かいさんおこなった。一般いっぱんてき護憲ごけんさん普通ふつう選挙せんきょ推進すいしんしていたとされるが、個別こべつれば政友せいゆうかいでは従前じゅうぜん経緯けいいもあり普通ふつう選挙せんきょ推進すいしんしていなかったのにたいし、与党よとう政友せいゆうほんとうでは普通ふつう選挙せんきょをスローガンとしていた。[32]

関東大震災かんとうだいしんさい影響えいきょう選挙せんきょじん名簿めいぼ整備せいびおくれたためそう選挙せんきょ解散かいさんから100にちの5がつ10日とおか投票とうひょうおこなわれた。そう選挙せんきょでは与党よとう政友せいゆうほんとう(114議席ぎせきだいとう)および護憲ごけんさんのうち政友せいゆうかい(101議席ぎせきだいさんとう)と革新かくしん倶楽部くらぶ(30議席ぎせきだいよんとう)がともに議席ぎせきらし、憲政けんせいかい(153議席ぎせきだいいちとう)が躍進やくしんした。政友せいゆうほんとうでは総務そうむ中橋なかはし徳五郎とくごろう落選らくせんをした。政友せいゆうかいでは選挙せんきょによってだいいちとうとなるか、または革新かくしん倶楽部くらぶ合同ごうどうすることでだいいちとうねらっていたがてがはずれ、高橋たかはし総裁そうさい責任せきにん問題もんだいであったが後継こうけいしゃなんによって総裁そうさい続投ぞくとうされた。このあいだに、政友せいゆうほんとう床次とこなみ総裁そうさいは5月23にちひそかに松本まつもとつよしきち会談かいだんおこない、80にんひきいて政友せいゆうかい復帰ふっきたしたいので横田よこたせんこれすけへの交渉こうしょう依頼いらいした。松本まつもと西園寺さいおんじ公望きんもち相談そうだんのうえ、極秘ごくひうらのまま留保りゅうほすることとした。このため床次とこなみ政友せいゆうかい復帰ふっきながれ、ぎゃくはん床次とこなみによる政友せいゆうかい復帰ふっき運動うんどうこった。5月25にち西園寺さいおんじ公望きんもち会談かいだんした清浦きようら首相しゅしょうそう選挙せんきょ結果けっかけて議会ぎかい運営うんえいむずかしくなったためそう辞職じしょくもうたが、西園寺さいおんじ助言じょげん選挙せんきょ結果けっか=政権せいけん交代こうたい前例ぜんれいとなるのをけるために内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつされてからのそう辞職じしょくをすることとなり、辞職じしょくは6がつ7にちとなった。このあいだ政友せいゆうかいでは小泉こいずみさく太郎たろう政友せいゆうかい革新かくしん倶楽部くらぶ政友せいゆうほんとう連合れんごうさせるはん憲政けんせいかい運動うんどう画策かくさくし、また清浦きようら内閣ないかくがわでも大木たいぼくとおよし政友せいゆうかい政友せいゆうほんとう多数たすう合同ごうどうによる居座いすわ工作こうさくがなされたがいずれも成功せいこうしなかった。9にち西園寺さいおんじ衆議院しゅうぎいんだいいちとう憲政けんせいかい党首とうしゅ加藤かとう高明こうめい首相しゅしょうに推奏した。加藤かとう最終さいしゅうてき護憲ごけんさん内閣ないかく構成こうせいしたが、組閣そかく政友せいゆうかいのポスト要求ようきゅうこばむために政友せいゆうほんとうとの連立れんりつをほのめかした。政友せいゆうかいでは党務とうむ処理しょりしていた横田よこたせんこれすけ司法しほう大臣だいじんいたため、野田のだ卯太郎うたろう新設しんせつふく総裁そうさいとした。そう選挙せんきょやぶれた政友せいゆうほんとうでは、いままで設置せっちしていなかった党首とうしゅポストをもうけ、当初とうしょ山本やまもと達雄たつお推戴すいたいしようとしたが山本やまもと固辞こじしたため、床次とこなみ竹二郎たけじろう総裁そうさいおさまった。

護憲ごけんさんによる加藤かとう高明こうめい内閣ないかく成立せいりつしてあいだもない1924ねん大正たいしょう13ねん)8がつには政友せいゆうかい岡崎おかざきくにたちは加藤かとう内閣ないかく根本こんぽんてき財政ざいせい整理せいりができない場合ばあいにはより一層いっそう強力きょうりょく内閣ないかく必要ひつようであり、政友せいゆうかい政友せいゆうほんとう合同ごうどうさせて陸軍りくぐん大将たいしょう田中たなか義一ぎいち総裁そうさいとすることを企画きかくした。この計画けいかくあきにも合同ごうどうがありるとのはなしであったが、高橋たかはし総裁そうさい反対はんたいにあって頓挫とんざした。1924ねん大正たいしょう14ねん)、だい50かい帝国ていこく議会ぎかいでは加藤かとう高明こうめい内閣ないかくにより普通ふつう選挙せんきょあん提出ていしゅつされると、政友せいゆうかいへの復帰ふっきはかられたがせいほん合同ごうどう運動うんどう破綻はたんし、復帰ふっきによる五月雨さみだれしき脱党だっとうき、12月29にちには鳩山はとやま一郎いちろう中橋なかはし徳五郎とくごろうなど22めい政友せいゆうかい合流ごうりゅうした。1926ねん大正たいしょう15ねん)1がつ20日はつか政友せいゆうほんとうとう大会たいかいでは顧問こもん川原かわはら茂輔もすけなどのめもありなお、80にん以上いじょうようしてキャスティング・ボートをにぎだいさんとう路線ろせん堅持けんじした。8月、護憲ごけんさん連立れんりつくずれて憲政けんせいかい単独たんどくないかく(いわゆるだい2加藤かとう高明こうめい内閣ないかく)が成立せいりつしたのちは、政友せいゆうほんとう衆議院しゅうぎいんにおけるキャスティング・ボートにぎ展開てんかいとなる。当初とうしょ政友せいゆうかいとの合同ごうどう機運きうんたかまり(せいほん合同ごうどう問題もんだい)、田中たなか政友せいゆうかい総裁そうさい床次とこなみ政友せいゆうほんとう総裁そうさい会談かいだんにより提携ていけい申合もうしあわしょ作成さくせいされたが、床次とこなみ合同ごうどうには消極しょうきょくてきであり、12月のだい51帝国ていこく議会ぎかいでは衆議院しゅうぎいん常任じょうにん委員いいんちょうポストのりをめぐって交渉こうしょう決裂けつれつした。こうしたうごきのなか12月29にち中橋なかはし徳五郎とくごろう鳩山はとやま一郎いちろうほか合同ごうどう促進そくしん22めい脱党だっとうし、翌年よくねん2がつにそのおおくが政友せいゆうかいふくとうした。1927ねん昭和しょうわ2ねん2がつ25にちには憲政けんせいかい政友せいゆうほんとう連合れんごう(いわゆる、けんほん提携ていけい)が成立せいりつ立憲りっけん民政みんせいとう政権せいけんったが、政友せいゆうかいくずしをおこない、杉田すぎた定一さだいち元田もとだはじめ川原かわはら茂輔もすけなど30めい脱党だっとうさせ政友せいゆうかい合流ごうりゅうさせた。昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこうがおき、だい1若槻わかつき内閣ないかくそう辞職じしょくすると、わって立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい田中たなか義一ぎいち内閣ないかく組閣そかくした。田中たなか総裁そうさいころから、在郷ざいきょう軍人ぐんじんかい田中たなか影響えいきょう政友せいゆうかい支持しじ団体だんたいくわわるなど「政友せいゆうかいおやぐん」がいわれるようになる。

だい政党せいとう時代じだい

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1934ねん首脳しゅのうじんひだりから時計とけいまわりに鈴木すずき喜三郎きさぶろう前田まえだ米蔵よねぞう三土みつち忠造ちゅうぞう芳澤よしざわ謙吉けんきち

昭和しょうわはいってからの政友せいゆうかい民政みんせいとう交替こうたいすう年間ねんかんにわたって政権せいけんになうこととなる。民政みんせいとう浜口はまぐち雄幸ゆうこう首相しゅしょう1930ねん昭和しょうわ5ねん)のロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ積極せっきょくてき姿勢しせいをみせたため、民政みんせいとうとしを画策かくさくして統帥とうすいけん干犯かんぱん問題もんだい提起ていきするが、これが軍部ぐんぶいきおいづけて軍部ぐんぶ台頭たいとう一因いちいんになる[33]1932ねん昭和しょうわ7ねん)にいち事件じけん自党じとういぬやしなえあつし首相しゅしょう軍人ぐんじん暗殺あんさつされたのち、「政党せいとうないかく首相しゅしょう死去しきょによる内閣ないかくそう辞職じしょく場合ばあい後継こうけい与党よとう党首とうしゅ大命たいめい降下こうかする」という「憲政けんせい常道じょうどう」が否定ひていされ齋藤さいとう内閣ないかく成立せいりつ政権せいけんのがす。1936ねんそう選挙せんきょでは総裁そうさい鈴木すずき喜三郎きさぶろう落選らくせんするなどのだい惨敗ざんぱいきっし、民政みんせいとう社会しゃかい大衆たいしゅうとう躍進やくしんゆるした。そのおやぐんてき保守ほしゅてき性格せいかくからたんファッショ姿勢しせい一時いちじてきには転換てんかん1937ねん昭和しょうわ12ねん浜田はまだ国松くにまつのいわゆる「腹切はらき問答もんどう」に代表だいひょうされるような事例じれいもあったものの、盧溝橋ろこうきょう事件じけんはしはっするにちちゅう戦争せんそう拡大かくだい以後いご戦争せんそう協力きょうりょくする姿勢しせいもどった。さらに1939ねん次期じき総裁そうさいをめぐり久原くはら房之助ふさのすけ中島なかじま知久平ちくへいの2分裂ぶんれつする(後述こうじゅつ)。1940ねん昭和しょうわ15ねん)に両派りょうはとも解党かいとうしてしん体制たいせい運動うんどう参加さんか大政たいせい翼賛よくさんかい合流ごうりゅうした。

分裂ぶんれつだい2)と解党かいとう

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1937ねん昭和しょうわ12ねん)、鈴木すずき総裁そうさい辞任じにん鳩山はとやま一郎いちろう前田まえだ米蔵よねぞう島田しまだ俊雄としお中島なかじま知久平ちくへいの4めい総裁そうさい代行だいこう委員いいんつとめる集団しゅうだん指導しどう体制たいせいとなったが、1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ30にち中島なかじま一方いっぽうてきに「政友せいゆうかい革新かくしん同盟どうめい」を結成けっせいしてその総裁そうさいとなった。一方いっぽう中島なかじま総裁そうさい反対はんたいする鳩山はとやまらは病床びょうしょう鈴木すずきぜん総裁そうさいうごかし、中島なかじま革新かくしん同盟どうめい総裁そうさい就任しゅうにん2にちまえあらたに久原くはら房之助ふさのすけ三土みつち忠造ちゅうぞう芳澤よしざわ謙吉けんきちの3めい政友せいゆうかい総裁そうさい代行だいこう委員いいん任命にんめいした[34]。ここに政友せいゆうかいは、

  • 正統せいとう - 久原くばらとも(鳩山はとやま久原くはら三土みつち芳澤よしざわ肥田ひだ琢司たくじらが中心ちゅうしん
  • 革新かくしん - 中島なかじまとも、正式せいしき名称めいしょう立憲りっけん政友せいゆうかい革新かくしん同盟どうめい中島なかじま前田まえだ島田しまだ田邊たなべななろく東郷とうごうみのるらが中心ちゅうしん

の2分裂ぶんれつした。この分裂ぶんれつを、大正たいしょう末期まっき政友せいゆうほんとう結党けっとうにともなう分裂ぶんれつだいいち分裂ぶんれつ)との対比たいひで、だい分裂ぶんれつぶこともある。

正統せいとうは5がつ20日はつか臨時りんじとう大会たいかいひらき、鈴木すずきぜん総裁そうさい指名しめいという形式けいしき久原くはら総裁そうさいとすることを決定けってい[34]一方いっぽう革新かくしんきゅう昭和しょうわかい望月もちづき圭介けいすけ山崎やまざき達之たつゆき政友せいゆうかい出身しゅっしんしゃ合流ごうりゅうさせた。またこの分裂ぶんれつさいに、正統せいとう革新かくしんのどちらにもくみしなかった金光かねみつ庸夫みちおいぬやしなえけん太田おおたただしこうらは中立ちゅうりつ結成けっせいよく1940ねん昭和しょうわ15ねん)にはおりからの斎藤さいとう隆夫たかお除名じょめい問題もんだい斎藤さいとう除名じょめい支持しじして正統せいとうない孤立こりつした議員ぎいんがこの中立ちゅうりつ合流ごうりゅうし、以後いごは「統一とういつ」を名乗なのった。

  • 中立ちゅうりつ - 金光こんこうとも(きむひかりいぬよう太田おおたらが中心ちゅうしん)→ 統一とういつ発展はってん

だい分裂ぶんれつとう機関きかん政友せいゆう』やとう編集へんしゅう部門ぶもん革新かくしんにぎられていた。そのため解党かいとうの1943ねん昭和しょうわ18ねん)に完成かんせいした『立憲りっけん政友せいゆうかい』では、中島なかじま正式せいしき政友せいゆうかいだい8だい総裁そうさいとしている。一方いっぽう正統せいとうあらたにとう機関きかん立憲りっけん政友せいゆう』を発行はっこう久原くはら正統せいとう政友せいゆうかいだい8だい総裁そうさいとしてこれに対抗たいこうした。

しかし同年どうねん7がつ16にちには66めいようする正統せいとうと10めいようする統一とういつ解党かいとう、7がつ30にちには97めいようする革新かくしん解党かいとうして大政たいせい翼賛よくさんかい合流ごうりゅう、ここに伊藤いとう博文ひろぶみ結党けっとうから40ねん歴史れきし政友せいゆうかい名実めいじつども消滅しょうめつするにいたった。

解党かいとうきゅう政友せいゆうかい所属しょぞく議員ぎいん行動こうどう

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解党かいとう1ねんまえだい2分裂ぶんれつでほぼ二分にぶんされた政友せいゆうかい所属しょぞくしていた議員ぎいん行動こうどう解党かいとうまえ所属しょぞくしていたグループにより各々おのおのかれた。そのなかでもおやぐんである革新かくしんおよ人数にんずうてきには少数しょうすう中立ちゅうりつ統一とういつ所属しょぞくしていた議員ぎいん翼賛よくさん議会ぎかいしたでも主流しゅりゅうである翼賛よくさん議員ぎいん同盟どうめい翼賛よくさん政治せいじかいだい日本にっぽん政治せいじかい所属しょぞく[35]戦後せんごにちせいかい母体ぼたいとして結党けっとうされた日本にっぽん進歩しんぽとう参加さんかした[35]一方いっぽう翼賛よくさん政治せいじ批判ひはんてきだった鳩山はとやまおやぐんでありながら革新かくしんへの対抗たいこう意識いしきから鳩山はとやま行動こうどうをともにした久原くはらからなる正統せいとう場合ばあいはより複雑ふくざつだった。鳩山はとやま翼賛よくさん議員ぎいん同盟どうめい結成けっせいには参加さんかせず、1941ねん昭和しょうわ16ねん)8がつ2にち国勢調査こくせいちょうさかい結成けっせい[36]国勢調査こくせいちょうさかい母体ぼたいとして同年どうねん11がつ10日とおかどう交会結成けっせいした[36]どう交会所属しょぞく議員ぎいん翼賛よくさん選挙せんきょ出馬しゅつばしたもの全員ぜんいん翼賛よくさん政治せいじ体制たいせい協議きょうぎかい推薦すいせん候補こうほだったため政府せいふによって徹底的てっていてき妨害ぼうがい[37]当選とうせんしゃはわずか9めいわり[38]翼賛よくさん選挙せんきょの1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ14にち解散かいさんした[38]どう交会は解散かいさん親睦しんぼく団体だんたい後楽こうらくかい衣替ころもがえし[38]、さらにおもえひとしかい改名かいめいしたのち[39]戦後せんご日本にっぽん自由党じゆうとう結党けっとう母体ぼたいとなった[40][41]おなじく正統せいとう所属しょぞくしゃでも久原くはら議員ぎいん鳩山はとやま議員ぎいんおも参加さんかしたどう交会を母体ぼたいとする自由党じゆうとう結党けっとうにも革新かくしん統一とういつ議員ぎいんおも参加さんかしたせいかい母体ぼたいとする進歩しんぽとう結党けっとうにも参加さんかせず[42]敗戦はいせんした日本にっぽん政治せいじみずからの政治せいじ責任せきにんあきらかにしないなか政党せいとう再建さいけんすすむことは妥当だとうではない[43]むし衆議院しゅうぎいん議員ぎいん敗戦はいせん責任せきにんってそう辞職じしょくすべきであるとのかんがえから護国ごこく同志どうしかい所属しょぞくしていた議員ぎいんつばさたけし議員ぎいん同志どうしかい所属しょぞくしていた議員ぎいんらとともに院内いんない会派かいは無所属むしょぞく倶楽部くらぶ結成けっせい参加さんかした[43]

幹部かんぶ人事じんじ

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歴代れきだい総裁そうさい一覧いちらん

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立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい
だい 総裁そうさい 在任ざいにん期間きかん
1 伊藤いとう博文ひろぶみ 1900ねん明治めいじ33ねん)9がつ - 1903ねん明治めいじ36ねん
2 西園寺さいおんじ公望きんもち 1903ねん明治めいじ36ねん) - 1913ねん大正たいしょう2ねん
3 はらたかし 1914ねん大正たいしょう3ねん) - 1921ねん大正たいしょう10ねん
4 高橋たかはし是清これきよ 1921ねん大正たいしょう10ねん) - 1925ねん大正たいしょう14ねん
5 田中たなか義一ぎいち 1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ - 1929ねん昭和しょうわ4ねん)9がつ
6 いぬやしなえあつし 1929ねん昭和しょうわ4ねん)10がつ - 1932ねん昭和しょうわ7ねん)5がつ
7 鈴木すずき喜三郎きさぶろう 1932ねん昭和しょうわ7ねん)5がつ - 1937ねん昭和しょうわ12ねん)2がつ
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい代行だいこう委員いいん
だい 総裁そうさい代行だいこう委員いいん 在任ざいにん期間きかん
- 鳩山はとやま一郎いちろう 1937ねん昭和しょうわ12ねん)2がつ - 1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ30にち
前田まえだ米蔵よねぞう
島田しまだ俊雄としお
中島なかじま知久平ちくへい
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい中島なかじま革新かくしん
だい 総裁そうさい 在任ざいにん期間きかん
1 中島なかじま知久平ちくへい 1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ30にち - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ30にち
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい久原くばら正統せいとう代行だいこう委員いいん
だい 総裁そうさい代行だいこう委員いいん 在任ざいにん期間きかん
- 久原くはら房之助ふさのすけ 1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ30にち - 1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ20日はつか
三土みつち忠造ちゅうぞう
芳澤よしざわ謙吉けんきち
立憲りっけん政友せいゆうかい総裁そうさい久原くばら正統せいとう
だい 総裁そうさい 在任ざいにん期間きかん
1 久原くはら房之助ふさのすけ 1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ20日はつか - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ16にち

ふく総裁そうさい

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幹事かんじちょう

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  • はらたかし (1900ねん明治めいじ33ねん)12月19にち - 1900ねん明治めいじ33ねん)12月22にち[44]
  • 末松すえまつ謙澄けんちょう (1903ねん明治めいじ36ねん)5がつ1にち - 1903ねん明治めいじ36ねん)12月3にち[44]
  • 久我くがとおるひさ (1903ねん明治めいじ36ねん)12月3にち - 1904ねん明治めいじ37ねん)3がつ31にち[44]
  • はらたかし (1904ねん明治めいじ37ねん)3がつ31にち - 1905ねん明治めいじ38ねん)3がつ1にち[44]
  • 菊亭きくていおさむ (1905ねん明治めいじ38ねん)3がつ1にち - 1905ねん明治めいじ38ねん)10がつ8にち在任ざいにんちゅう死亡しぼう[44]
  • 児玉こだまあつし一郎いちろう (1906ねん明治めいじ39ねん)3がつ31にち - 1907ねん明治めいじ40ねん)3がつ29にち[44]
  • 元田もとだはじめ (1907ねん明治めいじ40ねん)3がつ29にち - 1908ねん明治めいじ41ねん)3がつ28にち[44]
  • 長谷場はせば純孝すみたか (1908ねん明治めいじ41ねん)3がつ28にち - 1908ねん明治めいじ41ねん)12月24にち[44]
  • 杉田すぎた定一さだいち (1908ねん明治めいじ41ねん)12月24にち - 1910ねん明治めいじ43ねん)3がつ15にち[44]
  • 伊藤いとう大八だいはち (1910ねん明治めいじ43ねん)3がつ25にち - 1911ねん明治めいじ44ねん)3がつ24にち[44]
  • おくしげる三郎さぶろう (1911ねん明治めいじ44ねん)3がつ24にち - 1912ねん明治めいじ45ねん)3がつ25にち[44]
  • 野田のだ卯太郎うたろう (1912ねん明治めいじ45ねん)3がつ29にち - 1913ねん大正たいしょう2ねん)3がつ29にち[44]
  • 松田まつだ正久まさひさ (1913ねん大正たいしょう2ねん)3がつ29にち - 1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつ5にち在任ざいにんちゅう死亡しぼう[44]
  • 村野むらのつねみぎ衛門えもん (1913ねん大正たいしょう2ねん)3がつ29にち - 1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつ27にち[44]
  • 永江ながえ純一じゅんいち (1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつ27にち - 1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつ15にち[44]
  • 小川おがわ平吉へいきち (1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつ15にち - 1916ねん大正たいしょう5ねん)3がつ1にち[44]
  • 江藤えとうあきらぞう (1916ねん大正たいしょう5ねん)3がつ1にち - 1917ねん大正たいしょう6ねん)6がつ19にち[44]
  • 横田よこたせんこれすけ (1917ねん大正たいしょう6ねん)6がつ19にち - 1918ねん大正たいしょう7ねん)10がつ1にち[44]
  • 望月もちづき圭介けいすけ (1918ねん大正たいしょう7ねん)10がつ1にち - 1920ねん大正たいしょう9ねん)7がつ31にち[44]
  • 広岡ひろおか宇一郎ういちろう (1920ねん大正たいしょう9ねん)7がつ31にち - 1922ねん大正たいしょう11ねん)3がつ27にち[44]
  • 横田よこたせんこれすけ (1922ねん大正たいしょう11ねん)3がつ27にち - 1922ねん大正たいしょう11ねん)6がつ15にち[44]
  • 望月もちづき圭介けいすけ (1922ねん大正たいしょう11ねん)6がつ15にち - 1924ねん大正たいしょう13ねん)2がつ1にち[44]
  • 岩崎いわさきいさお (1924ねん大正たいしょう13ねん)2がつ1にち - 1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ1にち[44]
  • 前田まえだ米蔵よねぞう (1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ1にち - 1926ねん大正たいしょう15ねん)3がつ27にち[44]
  • 鳩山はとやま一郎いちろう (1926ねん大正たいしょう15ねん)3がつ27にち - 1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ16にち[44]
  • やま本条ほんじょう太郎たろう (1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ16にち - 1927ねん昭和しょうわ2ねん)7がつ19にち[44]
  • はた豊助とよすけ (1927ねん昭和しょうわ2ねん)7がつ19にち - 1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ25にち[44]
  • 島田しまだ俊雄としお (1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ25にち - 1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ28にち[44]
  • もりつとむ (1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ28にち - 1931ねん昭和しょうわ6ねん)3がつ29にち[44]
  • 久原くはら房之助ふさのすけ (1931ねん昭和しょうわ6ねん)3がつ29にち - 1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ27にち[44]
  • 山口やまぐち義一ぎいち (1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ27にち - 1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ27にち[44]
  • 若宮わかみや貞夫さだお (1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ27にち - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)3がつ28にち[44]
  • 松野まつのづるひらた (1935ねん昭和しょうわ10ねん)3がつ28にち - 1936ねん昭和しょうわ11ねん)5がつ28にち[44]
  • 安藤あんどう正純まさずみ (1936ねん昭和しょうわ11ねん)5がつ28にち - 1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ11にち[44]
  • 松野まつのづるたいら (1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ11にち - 1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ28にち[44]
  • 砂田すなだ重政しげまさ (1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ28にち - 1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ1にち[44]
  • 政友せいゆうかい革新かくしん 田辺たなべななろく (1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ[44]
  • 政友せいゆうかい革新かくしん 東郷とうごうみのる (1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ[44]
  • 政友せいゆうかい正統せいとう 岡田おかだ忠彦ただひこ (1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ[44]

総務そうむ委員いいん

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最高さいこう顧問こもん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただ中立ちゅうりつ少数しょうすうで、実質じっしつてきには多数たすうめる革新かくしん正統せいとう並立へいりつ状態じょうたいであった。
  2. ^ いぬようによって「平和へいわ精神せいしん平和へいわ行為こういとをもっ四方しほう発展はってんし、如何いかなる弱国じゃっこくたいしてもだんじて武力ぶりょくたよらず、だんじて侵略しんりゃく野心やしんはさまず、平和へいわなる商人しょうにん平和へいわなるこうじん平和へいわなる農民のうみんとして四隣しりん闊歩かっぽし、もっ世界せかい同胞どうほうげんとほっするものである」と宣言せんげんされたとう指導しどう精神せいしんである[23]
  3. ^ 当時とうじ華族かぞく当主とうしゅには衆議院しゅうぎいん議員ぎいん被選挙権ひせんきょけんがなかった。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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