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岡崎おかざきくに

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岡崎おかざき くに
岡崎おかざきくに輔の肖像しょうぞう写真しゃしん
生年月日せいねんがっぴ 1854ねん4がつ12にちよしみひさし7ねん3月15にち
ぼつ年月日ねんがっぴ 1936ねん昭和しょうわ11ねん7がつ22にち
所属しょぞく政党せいとう 自由党じゆうとう憲政けんせいとう立憲りっけん政友せいゆうかい

内閣ないかく 加藤かとう高明こうめい内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1925ねん大正たいしょう14ねん4がつ17にち - どう8がつ2にち
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岡崎おかざき くに(おかざき くにすけ、1854ねん4がつ12にちよしみひさし7ねん3月15にち) - 1936ねん昭和しょうわ11ねん7がつ22にち[1])は、日本にっぽん政治せいじ実業じつぎょうごうばんこう

自由党じゆうとうて、立憲りっけん政友せいゆうかい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん加藤かとう高明こうめい内閣ないかく農林のうりん大臣だいじん貴族きぞくいん議員ぎいん歴任れきにんする。陸奥むつ宗光むねみつ配下はいかとして活躍かつやくし、政界せいかい寝業師ねわざし策士さくしとしてられた。

経歴けいれき

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よしみひさし7ねん1854ねん3月15にち衆議院しゅうぎいん提出ていしゅつした履歴りれきによる。よしみなが6ねん1853ねんせつもあり)、紀州きしゅうはん長坂ながさかまなぶわたる(がくや)[2]としてまれる。まご岡崎おかざきひさによれば、長坂ながさか長坂ながさかやり九郎くろう末裔まつえいであるという[注釈ちゅうしゃく 1]江戸えど旗本はたもと直参じきさん長坂ながさか本家ほんけとの関係かんけいは、系図けいずあきらかでなく、大坂おおさかなつじん元和がんわ年間ねんかん徳川とくがわ頼宣よりのぶしたがって紀州きしゅうりしたときにあたえられた1,000せきのお墨付すみつきのこるのみという[3]。また、くに輔の母親ははおや陸奥むつ宗光むねみつ母親ははおや姉妹しまいで、陸奥むつ宗光むねみつ岡崎おかざきくに輔は従兄弟いとこ関係かんけいにある。

慶應けいおう4ねん1868ねん)、かぞどしで16さいのとき、鳥羽とば伏見ふしみたたか初陣ういじん[4][5][6]維新いしん1873ねん明治めいじ6ねん)に従兄弟いとこ陸奥みちのくたよ上京じょうきょう1888ねん明治めいじ21ねん)、駐米ちゅうべい特命とくめい全権ぜんけん公使こうしとなった陸奥みちのくしたが渡米とべいする。アメリカで岡崎おかざきミシガン大学だいがくまなび、この時期じき南方みなかた熊楠くまぐす出会であっている。1890ねん明治めいじ23ねん)に帰朝きちょうし、よく1891ねん明治めいじ24ねん)、陸奥みちのく議員ぎいん辞職じしょくにともなうだい1かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ補欠ほけつ選挙せんきょ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん当選とうせんする[7]。このとき、当時とうじ制限せいげん選挙せんきょ被選挙権ひせんきょけんるため、当時とうじ紀州きしゅう素封そほう岡崎おかざき名目めいもくうえだけで養子ようしとなってせいあらためた[8]以後いご当選とうせん回数かいすう10かい1897ねん明治めいじ30ねん)、自由党じゆうとう入党にゅうとうする。陸奥むつ宗光むねみつ没後ぼつごは、自身じしんおなじく陸奥みちのくてをけたほしとおる接近せっきんし、ほし懐刀ふところがたなとしてくまいたないかく倒閣とうかく立憲りっけん政友せいゆうかい結成けっせいなどに活躍かつやくする。1900ねん明治めいじ33ねん)、だい4伊藤いとう内閣ないかく逓信ていしん大臣だいじんとなったほしとおるのもとで逓信ていしん大臣だいじん官房かんぼうちょうつとめたが、よく1901ねん明治めいじ34ねん)にほし刺殺さしころされてしまう。

1912ねん大正たいしょう元年がんねん)、立憲りっけん国民党こくみんとういぬやしなえあつし政友せいゆうかい尾崎おざき行雄ゆきおらとともにだい3かつら内閣ないかく倒閣とうかくうごき、憲政けんせい擁護ようご運動うんどう展開てんかいする。1915ねん大正たいしょう4ねん)、政友せいゆうかい総務そうむ委員いいん就任しゅうにんする。西園寺さいおんじ公望きんもち政友せいゆうかい総裁そうさい辞任じにんは、自身じしんおなじく陸奥むつ宗光むねみつてをけたはらたかしささえ、1918ねん大正たいしょう7ねん)に原内はらうちかく誕生たんじょうした。

1921ねん大正たいしょう10ねん)、はら東京とうきょうえき遭難そうなん政友せいゆうかい刷新さっしん支持しじし、だい2護憲ごけん運動うんどう活躍かつやく清浦きようら内閣ないかく倒閣とうかくと、憲政けんせいかい総裁そうさい加藤かとう高明こうめい首班しゅはんとする護憲ごけんさん内閣ないかく成立せいりつうごいた。1925ねん大正たいしょう14ねん)、加藤かとう高明こうめい内閣ないかく農林のうりん大臣だいじんとして入閣にゅうかくする。1928ねん昭和しょうわ3ねん)4がつ4にち貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせんされ[9]研究けんきゅうかい所属しょぞくして死去しきょするまで在任ざいにんした[1]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)、田中たなか義一ぎいち首相しゅしょう政友せいゆうかい総裁そうさい退任たいにん後継こうけいしゃえらびでは影響えいきょうりょく発揮はっきし、引退いんたいしていたいぬやしなえあつし復帰ふっき総裁そうさい就任しゅうにん一役ひとやくった。

実業じつぎょうとしては、渋沢しぶさわ栄一えいいちらとともに京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう創立そうりつくわわり、発足ほっそく役員やくいんつとめ、1917ねん大正たいしょう6ねん)にだい3だい社長しゃちょうとなった。岡崎おかざきみずからの政界せいかい人脈じんみゃく利用りようするかたち京阪けいはん事業じぎょう拡大かくだいはかり、社長しゃちょう在任ざいにんちゅうしん京阪けいはん鉄道てつどう免許めんきょ獲得かくとく設立せつりつみずからの故郷こきょうである和歌山わかやまけんへの進出しんしゅつなどをがけている。農林のうりん大臣だいじんへの就任しゅうにんともない1925ねん社長しゃちょう辞任じにんした。また京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう設立せつりつ参加さんかした電力でんりょく会社かいしゃ大同だいどう電力でんりょく初代しょだい社長しゃちょう福澤ふくさわももかい)にもかかわり、1919ねん大正たいしょう8ねん)11月から1925ねん3がつまで同社どうしゃ取締役とりしまりやくつとめた[10]

1936ねん昭和しょうわ11ねん7がつ22にち死去しきょ。82さい墓所はかしょ和歌山わかやままもるねんてら

評価ひょうか

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岡崎おかざきくに輔胸ぞう和歌山わかやま

海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろうは、そのちょ武将ぶしょう列伝れつでん」(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)の竹中たけなか半兵衛はんべえしょうで、「東洋とうよう策士さくしは(中略ちゅうりゃくさくそのものをたのしんで、利得りとくねんにはあわひとおおいのである」とべたうえで、「大正たいしょう年代ねんだい政界せいかい策士さくし岡崎おかざきくに輔の生涯しょうがいがそうであったし、現代げんだいでも三木みき武吉たけよし晩年ばんねんがそうであった」といにしている。

親族しんぞく

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ちゅうタイ大使たいし外交がいこう評論ひょうろん岡崎おかざきひさまごたる。ひさ彦が『陸奥むつ宗光むねみつ』をいたさいには、くに輔と陸奥みちのくえんから材料ざいりょう種々しゅじゅもちいている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、がくわたる自身じしんおな紀州きしゅう藩士はんし宮地みやじから養子ようしりしている。 岡崎おかざき陸奥むつ宗光むねみつ上巻じょうかん)』49-50ぺーじ

出典しゅってん

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  1. ^ a b 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』108ぺーじ
  2. ^ 岡崎おかざき陸奥むつ宗光むねみつ上巻じょうかん)』49ぺーじ
  3. ^ 岡崎おかざき陸奥むつ宗光むねみつ上巻じょうかん)』48ぺーじ
  4. ^ 岡崎おかざき陸奥むつ宗光むねみつ上巻じょうかん)』124ぺーじ
  5. ^ 岡崎おかざきひさ戦後せんごとはなにであったか --『村田むらた良平りょうへい回想かいそうろく』におもう」岡崎おかざき研究所けんきゅうじょ
  6. ^ 特集とくしゅう立党りっとう50ねん企画きかく 明治めいじ気骨きこつまな月刊げっかん自由じゆう民主みんしゅ 2005ねん4がつごう
  7. ^ 官報かんぽうだい2482ごう明治めいじ24ねん10がつ6にち
  8. ^ 岡崎おかざき陸奥むつ宗光むねみつ上巻じょうかん)』47ぺーじ
  9. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい、37ぺーじ
  10. ^ 大同だいどう電力でんりょくしゃ編纂へんさん事務所じむしょへん)『大同だいどう電力でんりょく株式会社かぶしきがいしゃ沿革えんかく』、大同だいどう電力でんりょくしゃ編纂へんさん事務所じむしょ、1941ねん、63ぺーじほか

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • 岡崎おかざきひさ彦『陸奥むつ宗光むねみつ上巻じょうかん)』PHP研究所けんきゅうじょ〈PHP文庫ぶんこ〉、1990ねん

関連かんれん書籍しょせき

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自叙伝じじょでん

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  • 憲政けんせい回顧かいころく

伝記でんき

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  • ばんこう岡崎おかざきくに輔』小池こいけ龍吉りゅうきちちょ
  • 岡崎おかざきくに輔伝』平野ひらの嶺夫みねおちょ
  • 岡崎おかざきくに関係かんけい文書ぶんしょ解説かいせつ小伝しょうでん伊藤いとうたかし酒田さかた正敏まさとし共著きょうちょ自由民主党じゆうみんしゅとう和歌山わかやまけん連合れんごうかい刊行かんこう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
高橋たかはし是清これきよ
農林のうりん大臣だいじん
1925ねん4がつ17にち - 8がつ2にち
次代じだい
早速さっそくせいなんじ
先代せんだい
土居どい通夫みちお
京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう社長しゃちょう
1917 - 1925
次代じだい
太田おおたひかり