土居どい通夫みちお

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土居どい通夫みちお

土居どい 通夫みちお(どい みちお、1837ねん5月25にち天保てんぽう8ねん4がつ21にち) - 1917ねん大正たいしょう6ねん9月9にち)は、幕末ばくまつ宇和島うわじま藩士はんし明治めいじ時代じだい実業じつぎょう大阪おおさか財界ざいかい指導しどうしゃ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん関西かんさい法律ほうりつ学校がっこう名誉めいよこういん[1]大阪おおさか本邸ほんていあと日本銀行にっぽんぎんこう大阪おおさか支店してんになっている。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

宇和島うわじまはんでの修業しゅうぎょう時代じだい[編集へんしゅう]

大阪おおさか商工しょうこう会議かいぎしょ土居どい通夫みちおぞう

宇和島うわじまはん大塚おおつか南平みなみだいら祐紀ゆうきののろくおとことしてまれる。4さいのとき藩士はんし松村まつむら彦兵衛ひこべえ清武きよたけ養子ようしとなり保太郎やすたろう改名かいめいした。少年しょうねん時代じだいには三好みよしあまねはく書道しょどうまなび、藩校はんこう明倫めいりんかん大阪おおさか越智おちあきら弟子でしである金子かねこ春太郎はるたろう漢学かんがくまな[2]。 12さいからは、窪田くぼた清音きよねから免許皆伝めんきょかいでん許可きょかされた窪田くぼた田宮たみやりゅう剣術けんじゅつ師範しはんあじ嘉門かもん道場どうじょう入門にゅうもん竹馬たけうまともである児島こじま惟謙いけんとも剣術けんじゅつ修業しゅうぎょうはげみ、16さい正月しょうがつ初伝しょでん目録もくろく授与じゅよされた。おなじころ壱岐いき三郎さぶろう太夫たゆう越後えちごりゅう軍学ぐんがくかわあらわけん算数さんすうまな[3][4]。17さい元服げんぷく、彦六とあらためた。

このころ宇和島うわじまはん海外かいがいへの関心かんしんつよめ、高野たかの長英ちょうえいかくまって、蘭学らんがくむかえていた。やがて長英ちょうえいわり緒方おがた洪庵こうあん高弟こうていである村田むらた蔵六ぞうろく兵書へいしょ砲台ほうだい設計せっけい翻訳ほんやくさせていた。いえちかかったくらろく門人もんじんである立田たつた春江はるえしたしくなり、長英ちょうえい門人もんじんである大野おおの昌三郎しょうさぶろうとも交友こうゆうがあったことから蘭学らんがくにも関心かんしんつが、途中とちゅうあきらめる[5]

22さい窪田くぼた田宮たみやりゅう免許皆伝めんきょかいでん授与じゅよされたのち、1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん)にあじ道場どうじょう坂本さかもと龍馬りょうまがやってきて、道場どうじょう他流たりゅう試合しあいもうまれている。このとき龍馬りゅうめから「脱藩だっぱんすればいい、こんな城下じょうかなにができるのか。」とわれる。このときおどろいたがのち脱藩だっぱんする行動こうどうのきっかけとなった[6]。 23さい養家ようかり、ちち母方ははかたせいである土居どい名乗なの[7]

剣豪けんごう商人しょうにん[編集へんしゅう]

1865ねん慶応けいおう元年がんねん)、勤皇きんのうこころざして脱藩だっぱん土肥どい真一しんいち改名かいめいしてだいさかる。伯父おじ紹介しょうかい大身たいしんだい金貸かねかし・こういけ三郎兵衛さぶろべえ紹介しょうかいされ、用心棒ようじんぼうとして奉公ほうこう町内ちょうない夜景やけい一切いっさいまかされるようになるが、けんだけでなく金銭きんせん出納すいとう能力のうりょく発揮はっきする。半分はんぶん商人しょうにん剣客けんかくとして大阪おおさか評判ひょうばんになったころ宇和島うわじまかくまわれていた薩摩さつまはん中井なかいひろし再会さいかいしたことがきっかけで勤皇きんのう運動うんどうかかわる。鳥羽とば伏見ふしみたたかにおいて土佐とさはん後藤ごとう象二しょうじろう配下はいか活躍かつやくとおざからずきょう戦乱せんらんまれるから、そのとき宇和島うわじま藩邸はんていこめおくってほしいと、大津おおつべい問屋とんや依頼いらいする。たたかいののち、このこうみとめられたこと、薩摩さつまはんからの謹白きんぱくしょされたことではんする[8]

王政おうせい復古ふっこ宇和島うわじま藩主はんしゅ伊達だて宗城むねなり議定ぎていしょく外国がいこくがかり大阪おおさか鎮台ちんだい外国がいこく事務じむ兼務けんむすると、外国がいこく事務じむきょく大阪おおさか運上うんじょうしょ勤務きんむする。ここで外国がいこく事務じむきょく判事はんじ就任しゅうにんした五代ごだいともあつし部下ぶかとなったことが生涯しょうがい重要じゅうよう方向ほうこうけとなる。1869ねん明治めいじ2ねん)には大阪おおさかけんしょう参事さんじとなった。1872ねん明治めいじ5ねん)、親友しんゆう北畠きたばたけおさむぼうさそわれて司法省しほうしょう出仕しゅっしして兵庫ひょうご裁判さいばんちょう大上おおがみひとし裁判さいばんちょう歴任れきにん児島こじま惟謙いけん再会さいかいする[9]退官たいかんまでに井上いのうえかおる伊藤いとう博文ひろぶみ大隈おおくま重信しげのぶ大久保おおくぼ利通としみちらとの政界せいかい人脈じんみゃくきずくと同時どうじに、住友すみとも鴻池こうのいけ大阪おおさか財界ざいかい関係かんけいふかめた[10]

1884ねん明治めいじ17ねん)、鴻池こうのいけよしみぎ衛門えもん府知事ふちじけん野郷のざとさん事業じぎょう再建さいけんのための人材じんざい紹介しょうかい懇願こんがんけん五代ごだいともあつ相談そうだんすると「土居どい通夫みちお以外いがいにありえない。」と進言しんげんされる。これにより司法省しほうしょう退官たいかん鴻池こうのいけよしみぎ衛門えもん顧問こもんとなりしょ事業じぎょう参画さんかく、「剣豪けんごう商人しょうにん」とわれた[11][12]

大阪おおさか電灯でんとう設立せつりつ大阪おおさか財界ざいかいさい有力ゆうりょく指導しどうしゃ[編集へんしゅう]

1887ねん明治めいじ20ねんごろ大阪おおさかでの本格ほんかくてき照明しょうめい東京とうきょうならってガス灯がすとうにするか、電灯でんとうにするか有力ゆうりょくしゃあいだ対立たいりつつづなか通夫みちお電灯でんとうへの斡旋あっせん調整ちょうせいおこない、1888ねん明治めいじ21ねん)、大阪おおさか電灯でんとう設立せつりつして初代しょだい社長しゃちょう就任しゅうにん、30ねんつとめる[13]日本にっぽん硝子がらす製造せいぞう長崎ながさき電灯でんとう日本生命にほんせいめい大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん大阪おおさか貯蓄ちょちく銀行ぎんこう現在げんざいりそな銀行ぎんこう源流げんりゅうひとつ)、明治めいじ紡績ぼうせきばんづる鉄道てつどうげん福知山線ふくちやません)、大阪おおさか馬車ばしゃ鉄道てつどう浪速なにわ電車でんしゃ軌道きどうげん阪堺はんかい電気でんき軌道きどう上町線うえまちせん)、宇治川うじがわ電気でんき大阪おおさか染織せんしょく大阪おおさか土地とち建物たてもの京阪電気鉄道けいはんでんきてつどうなどおおくの企業きぎょう役員やくいん就任しゅうにんした[14]堂島どうじま米穀べいこく取引とりひきしょ理事りじちょう大阪銀行おおさかぎんこう取引とりひきしょ理事りじちょう日本電気にほんでんき協会きょうかい会長かいちょう大阪おおさか実業じつぎょう協会きょうかい会長かいちょう歴任れきにんする[10]

1894ねん明治めいじ27ねん)3がつだい3かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ大阪おおさかだい2より立候補りっこうほして当選とうせんしたが、半年はんとしだい4かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ議席ぎせきうしなっている。1895ねん明治めいじ28ねん)より大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとうに22年間ねんかん在任ざいにん近代きんだい大阪おおさか財界ざいかい基盤きばんかためた五代ごだいともあつきあとの大阪おおさか財界ざいかいさい有力ゆうりょく指導しどうしゃとして活躍かつやくした。

とくに1903ねん明治めいじ36ねん)のだい5かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい誘致ゆうちにおいて、東京とうきょうとのはげしい招致しょうち合戦かっせん勝利しょうり、パリにパリ万国博ばんこくはく仕組しくみを詳細しょうさい調査ちょうさして成功せいこうみちびいた功績こうせきおおきい。この博覧はくらんかい跡地あとちつくられたしん世界せかいルナパークに、周囲しゅういもう反対はんたいってパリのエッフェル塔えっふぇるとう真似まね通天閣つうてんかく建設けんせつする。藤沢ふじさわ南岳みなみだけによって命名めいめいされた通天閣つうてんかくは、ルナパーク開発かいはつ会社かいしゃである大阪おおさか土地とち建物たてもの社長しゃちょうであった土居どい名前なまえれる意図いとふくまれているとされる[15]

1892ねん明治めいじ45ねん)、日本電気にほんでんき協会きょうかい関西かんさい支部しぶが、東京とうきょう中心ちゅうしん運営うんえい反発はんぱつして1913ねん大正たいしょう2ねん分離ぶんり独立どくりつし、日本にっぽん中央ちゅうおうであるとして、土居どい大阪おおさかに「中央ちゅうおう電気でんき協会きょうかい」を設立せつりつした。1914ねん大正たいしょう3ねん)11月6にち土居どい中心ちゅうしんに、電灯でんとう電力でんりょく電鉄でんてつ電機でんき電線でんせん会社かいしゃとう主体しゅたいとなって、社交しゃこう組織そしきである関西かんさい電気でんき倶楽部くらぶ創立そうりつ翌年よくねん1914ねん大正たいしょう4ねん)、中央ちゅうおう電気でんき倶楽部くらぶ名称めいしょう変更へんこうした。「中央ちゅうおう」というに、東京とうきょうたいする当時とうじ大阪おおさか財界ざいかいじん気概きがいかんじさせるといまつたえられている[16]。1915ねん大正たいしょう4ねんあきくんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう受章じゅしょう[17]

1917ねん大正たいしょう6ねん)、京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう社長しゃちょう大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう在任ざいにんのまま死去しきょ大阪おおさか商工しょうこう会議かいぎしょまえには「大阪おおさか財界ざいかい中興ちゅうこう」として、初代しょだい会頭かいとう五代ごだいともあつし、10代会頭かいとういねはた勝太郎かつたろうとともに、土居どい銅像どうぞう設置せっちされている[17]

児島こじま惟謙いけんらとともに関西かんさい法律ほうりつ学校がっこう関西大学かんさいだいがく前身ぜんしん)の創立そうりつにもかかわるなど、教育きょういく文化ぶんかめんでも活躍かつやくしている[18]浄瑠璃じょうるり竹本たけもと摂津せっつだいじょう師事しじ南画なんが囲碁いごじょうあんもも兮にまなんだ俳句はいく熟達じゅくたつしており、松木まつき淡淡たんたんいだ名門めいもん俳流「はちせんぼう」のはちせいはちせんぼういだ時期じきがあるなど、けん以外いがいにも多芸たげい多才たさいられた。[19]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

家族かぞく[編集へんしゅう]

五代ごだいともあつしさんじょ芳子よしこ養女ようじょとし、1896ねん明治めいじ29ねん)、故郷こきょうである宇和島うわじまはん藩主はんしゅ伊達だて宗徳むねのり五男いつおつよし吉郎よしろう(1870 - 1949)を婿むこにして結婚けっこんさせて土居といがせた[21][22]。そのため、伊達だて宗徳むねのりはじめ、おおくの伊達だて一族いちぞくが、土居どいてい大阪おおさか定宿じょうやどにしていた。南方みなかた熊楠くまぐすによると、おいざいえい美術びじゅつしょう片岡かたおか政行まさゆき[23]。ロンドンの中心地ちゅうしんちハノーヴァー・スクエア東洋とうよう美術びじゅつ骨董こっとうてん手広てびろいとなんでいたが[24][23]、のちに詐欺さぎにより日本にっぽん逮捕たいほされた[25][26]浦島うらしま太郎たろう英訳えいやく「Urashima: A Japanese Rip Van Winkle」でもられる[25]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 関西大学かんさいだいがく創立そうりつななじゅうねん編集へんしゅう委員いいんかい関西大学かんさいだいがくななじゅうねん』 1956ねん、21-22ぺーじ
  2. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』24ぺーじ
  3. ^ さん百藩家臣人名事典』451ぺーじ
  4. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』24、43ぺーじ
  5. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』25ぺーじ
  6. ^ 司馬しばりょう太郎たろう街道かいどうをゆく14 みなみ伊予いよ西土佐にしとさみち』186-187ぺーじ
  7. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』28-29ぺーじ
  8. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』42-56ぺーじ
  9. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』83-86ぺーじ
  10. ^ a b 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』118ぺーじ以下いか
  11. ^ 司馬しばりょう太郎たろう歴史れきし世界せかいから』103ぺーじ以下いか
  12. ^ なにわ人物じんぶつでん 大阪おおさかにちにち新聞しんぶん
  13. ^ 電力でんりょく人物じんぶつ: 電力でんりょく産業さんぎょうそだてたじゅうさんにん』35-38ぺーじ
  14. ^ 近代きんだい大阪おおさか経済けいざい』233-235ぺーじ
  15. ^ 資料しりょうかん - 通天閣つうてんかく。なお、通天閣つうてんかく命名めいめいしゃである藤沢ふじさわ南岳みなみだけは、大阪おおさか商工しょうこう会議かいぎしょ建立こんりゅうされた土居どい銅像どうぞうされた碑文ひぶん撰者せんじゃにもなっている(外部がいぶリンクを参照さんしょう)。
  16. ^ 中央ちゅうおう電気でんき倶楽部くらぶ 小史しょうし
  17. ^ a b 大阪おおさか商工しょうこう会議かいぎしょビルまえ銅像どうぞうについて
  18. ^ 関西大かんさいだい学年がくねん編纂へんさんしつ
  19. ^ なにわ人物じんぶつでん 大阪おおさかにちにち新聞しんぶん
  20. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1915ねん11がつ10日とおか
  21. ^ 市川いちかわさとしさとし、「土居どい通夫みちお五代ごだいともあつし」『関西大かんさいだい学年がくねん紀要きようだい12ごう p.18-54, 2000.03.31, 関西大かんさいだい学年がくねん編纂へんさん委員いいんかい, ISSN 02894009
  22. ^ 通天閣つうてんかく: だいななだい大阪おおさか商業しょうぎょう会議かいぎしょ会頭かいとう土居どい通夫みちお生涯しょうがい』90ぺーじ、207ぺーじ以下いか
  23. ^ a b 南方みなかた熊楠くまぐす 履歴りれきしょ矢吹やぶき義夫よしおあて書簡しょかん)(口語こうごやく6)ロンドンでったひとminakatella.ne
  24. ^ Kataoka Masayuki (片岡かたおか政行まさゆき) (Biographical details) British Museum
  25. ^ a b はやしあきらひらめ片岡かたおか政行まさゆき英訳えいやく『うらしま』覚書おぼえがき」『苫小牧とまこまい駒澤大学こまざわだいがく紀要きようだい4ごう、73–94ぺーじ、2009-09-00。 オリジナルの2010ねん12月26にち時点じてんにおけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20101226110056/http://www.t-komazawa.ac.jp/university/bulletin/pdf/kiyou04.pdf 
  26. ^ 松居まついりゅう、「南方みなかた熊楠くまぐす海外かいがいでの活動かつどうかんする資料しりょう収集しゅうしゅう分析ぶんせき」『国際こくさい社会しゃかい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きようだい13ごう p.147-159 2011ねん, 龍谷大りゅうこくだいがく国際こくさい社会しゃかい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ, ISSN 18800807

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]


先代せんだい
田辺たなべ貞吉さだきち
京阪電気鉄道けいはんでんきてつどう社長しゃちょう
1912 - 1917
次代じだい
岡崎おかざきくに