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伊予いよこく

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伊予いよこく

-伊予いよこく
-南海なんかいどう
別称べっしょう しゅう(よしゅう)[注釈ちゅうしゃく 1]
所属しょぞく 南海なんかいどう
相当そうとう領域りょういき 愛媛えひめけん全域ぜんいき高知こうちけんのごく一部いちぶ
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 13ぐん66さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
伊予いよ国府こくふ推定すいてい愛媛えひめけん今治いまばり
伊予いよ国分寺こくぶんじ 愛媛えひめけん今治いまばり伊予いよ国分寺こくぶんじとうあと
伊予いよ国分こくぶ尼寺あまでら 愛媛えひめけん今治いまばり伊予いよ国分こくぶ尼寺あまでらとうあと
一宮いちのみや だい山祇やまずみ神社じんじゃ愛媛えひめけん今治いまばり
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伊予いよこく(いよのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。愛媛えひめけんにあたる。

伊予いよ」の名称めいしょう語源ごげん

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伝統でんとうてきには「伊豫いよ」の名称めいしょうであり、「伊予いよ」「あずか」の表記ひょうきもちいられた。常用漢字じょうようかんじによる現代げんだいぶん表記ひょうきでは「伊予いよ」()である。

伊予いよ」の語源ごげんについては、諸説しょせつがある。

  • 温泉おんせんせつ
    「よ」は道後どうご温泉おんせんの「ゆ()」から転訛てんかしたものであり、それにはつの「い」をして「いよ」になったというせつである。一時いちじ定説ていせつとなっていたが、研究けんきゅうしゃ吉田よしだ茂樹しげきが、延喜えんぎしきに「伊予いよぐん」と「温泉おんせんぐん」の2つのぐんめいがあり、道後どうご温泉おんせんすならばべつ温泉おんせんぐんがある説明せつめいがつかないと指摘してきしたことから、今日きょう否定ひていされているとされる[1]。また、寺内てらうちひろしへんの『愛媛えひめけん不思議ふしぎ辞典じてん』も、上代じょうだい特殊とくしゅ仮名遣かなづかいからみて、一般いっぱんてきには「ゆ」は「よ(おつ)」には音韻おんいん変化へんかしないとしてこのせつ否定ひていする。
  • 湧水わきみずせつ
    研究けんきゅうしゃ志賀しがつよしせつでは、古代こだいじんは、温泉おんせん以外いがい湧水わきみずも「いゆ」とんでおり、これが「いよ」になったとする[1]古代こだいみずずるしょは、特別とくべつとしてあつかわれるようになり、これが湧水わきみず周辺しゅうへんしょう地域ちいきとしての地名ちめいから、よりひろ地域ちいき、さらには古事記こじきにいう「伊予いよめいしま」=四国しこく地名ちめいとなっていったというものである。
    坪内つぼうちひろしもこのせつ支持しじし、伊予いよ神社じんじゃ愛媛えひめけん伊予いよぐん松前まさきまち)で、どう神社じんじゃは「せいよんじょう」の朝廷ちょうていからさづけられた由緒ゆいしょただしい神社じんじゃであり、祭神さいじんあいうりいのち(えひめのみこと)と月夜つきよいのち(つきよみのみこと)とする。「あいうり」は古事記こじきに、「あいうりといひ」とあるように愛媛えひめいにしえめいである。また、同名どうめい伊予いよ上野うえの地区ちくにある神社じんじゃきゅう境内けいだい跡地あとちにはわたる光井みつい(いこい)神社じんじゃ今日きょうでは湧水わきみずあとのみ)がある。古代こだい、このはゆるやかな傾斜地けいしゃちであり、水源すいげんとぼしかったことから、みず特別とくべつ重宝ちょうほうされたと推察すいさつされていることから、わたる光井みつい神社じんじゃ語源ごげんであると主張しゅちょうする[1]
  • わたるせつ
    谷川たにがわきよしの『やまとくんしおり』にせるせつである。伊豫いよめいしゅうばれた四国しこくくに神話しんわでは淡路島あわじしまつぎまれたので、「いよ」はものかさなることをあらわす「わたる」(いや)の意味いみであるという。
  • あずかせつ
    あきら』にせつである。「天神てんじんだい六代面足惶根尊」が伊豫いよこく支配しはいするさいに「(伊豫いよこくを)かれに)あづける)」とのみことのりがあったという。しかし、「いよ」が倭語わごであったとすれば、万葉仮名まんようがなによる仮借かしゃく字義じぎ解釈かいしゃくしようとするのは無意味むいみである可能かのうせいがある。

領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい愛媛えひめけん全域ぜんいき高知こうちけん宿毛すくも一部いちぶおきしままち母島ははじまおきしままち鵜来島うぐるしま)をくわえた区域くいき相当そうとうする。なお、高知こうち県内けんない区域くいき1876ねん明治めいじ9ねん)に土佐とさこく移管いかんされている。

沿革えんかく

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律令制りつりょうせいにおいて、あまり国造くにのみやつこ領域りょういきくわえ、ひさあじ国造くにのみやつこ風速ふうそく国造くにのみやつこいかあさ国造くにのみやつこ小市こいち国造くにのみやつこ領域りょういきわせ、成立せいりつした。

三島みしまりょうななとうばれただい山祇やまずみ神社じんじゃりょうのうち、文明ぶんめい年間ねんかんから慶長けいちょう年間ねんかんまでのあいだ下島しもじま大崎下島おおさきしもじま)と豊島としま安藝あきこく豊田とよだぐん編入へんにゅうとなる[2]

近代きんだい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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国府こくふ

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和名わみょうしょう』によれば、国府こくふ越智おちぐんにあった。現在げんざい今治いまばりであるが、いま遺跡いせきつかっていない。今治いまばり平野へいやにあったことは確実かくじつであるが、場所ばしょについては、古国分ふるこくぶ中寺なかでら町谷まちや上徳かみとくはちまちなど諸説しょせつある。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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  • 伊予いよ国分寺こくぶんじ
    今治いまばり国分こくぶの59ばん札所ふだしょ国分寺こくぶんじ東方とうほうとうあとがあり、基壇きだんうえしんいしずえふくむ12礎石そせきのこされている。
  • 伊予いよ国分こくぶ尼寺あまでら
    尼寺あまでらは、そうてら南方なんぽうやく1,300メートルにある桜井さくらい小学校しょうがっこう敷地しきちから唐草からくさぶんのきひらかわら出土しゅつどしているので、その付近ふきん想定そうていされる。

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ7小社しょうしゃ17けい24記載きさいされている。大社たいしゃ7しゃ以下いかしめすもので、すべ名神めいしん大社たいしゃである。伊予いよこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

二宮にのみや以下いかしょう

地域ちいき

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  • りつしょざんへんでは13ぐん
  • さだかん8ねん11月8にち866ねん12月18にち) - 宇和うわぐんいて喜多きたぐんき14ぐんとなる。
  • 1878ねん明治めいじ11ねん12月16にち - こおり町村ちょうそん編制へんせいほうにより18ぐん編制へんせいする。
  • 1889ねん明治めいじ22ねん12月15にち - 温泉おんせんぐん一部いちぶ市制しせい施行しこうし、温泉おんせんぐんからはなれて松山まつやまとなる。18ぐん1となる。
  • 1897ねん明治めいじ30ねん4がつ1にち - ぐんせい施行しこうのため10ぐんはいし、4ぐんく。12ぐん1となる。

こおり一覧いちらん

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さだかん8ねんから明治めいじ11ねんまでのせんねんにわたり以下いかの14ぐんであった。

  • 宇摩うまぐん - 山田やまだ山口やまぐち津根つね御井みい(みい、きん(ちかい))・余戸ようご(あまるべ)
  • 新居にのいぐん - 新居しんきょ丹上たんじょう井上いのうえ(いのへ))・しまさんはな立花りっか)・加茂かも神部かんべ
    大同だいどう4ねん9がつ22にち(809ねん11月3にち)、同年どうねん4がつ13にち(809ねん5がつ30にち)に即位そくいした嵯峨天皇さがてんのういみなれるため神野かんのぐん新居にのいぐんあらためた(嵯峨天皇さがてんのういみな乳母うばである神野かんのぐん出身しゅっしん神野かみの采女うねめせいつとめたことにより命名めいめい)。
  • しゅうじきぐん - 田野でんや池田いけだ井出いで吉田よしだ石井いしい神戸こうべ余戸ようご
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。周桑しゅうそうぐん一部いちぶとなる。
  • 桑村くわむらぐん - 籠田かごた(こた)・御井みい津宮つのみや(つのみや)
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。周桑しゅうそうぐん一部いちぶとなる。
  • 越智おちぐん - 朝倉あさくら高市たかいち(たけち)・桜井さくらい新屋あらや(にひや)・拝志はいし(はやし)・きゅう(こほり)・高橋たかはし鴨部かべ日吉ひよし立花たちばな
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。越智おちぐん一部いちぶとなる。
  • 野間のまぐん - たくよろずえい(あがた)・大井おおいしょう(さがた)・神戸こうべ
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。越智おちぐん一部いちぶとなる。
  • 風早かざはやぐん - ぐり河野こうの高田たかだ難波なんば那賀なが
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。温泉おんせんぐん一部いちぶとなる。
  • 和気わきぐん - 高尾たかお吉原よしはら姫原ひめばら大内おおうち
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。温泉おんせんぐん一部いちぶとなる。
  • 温泉おんせんぐん - 桑原くわばら埴生はぶ(はぶ)・立花たちばな井上いのうえ(いのへ)・味酒みさけ(まさけ)
    1889ねん明治めいじ22ねん)12月15にち温泉おんせんぐん一部いちぶ松山まつやまとなる。
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にち温泉おんせんぐんはいする。温泉おんせんぐん一部いちぶとなる。
  • 久米くめぐん - 天山あまやま吉井よしい石井いしい神戸こうべ余戸ようご
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。温泉おんせんぐん一部いちぶとなる。
  • 浮穴うけなぐん - 井門いもん(いど)・拝志はいし荏原えばら(えばら)・(いづべ)
    1878ねん明治めいじ11ねん)12月16にち上浮穴かみうけなぐんした浮穴うけなぐん編制へんせいする。
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちした浮穴うけなぐんはいする。温泉おんせんぐん伊豫いよぐんかく一部いちぶとなる。
  • 伊予いよぐん - 神前かみまえ(かむざき)・吾川あがわ(あがわ)・石田いしだ岡田おかだ神戸こうべ余戸ようご
    1897ねん明治めいじ30ねん)4がつ1にちはいする。温泉おんせんぐん伊豫いよぐんかく一部いちぶとなる。
  • 喜多きたぐん - 矢野やの久米くめ新屋あらや
    さだかん8ねん11月8にち(866ねん12月18にち)、宇和うわぐんいてぐんく。
  • 宇和うわぐん - 石野いしの(いはの)・石城せきじょう(いはき)・さんあいだ三門さんもん)・立間たちまだてもん
    1878ねん明治めいじ11ねん)12月16にち西宇和にしうわぐん東宇和ひがしうわぐん北宇和きたうわぐん南宇和みなみうわぐん編制へんせいする。

さとめいは『和名わみょうしょう』による。

江戸えど時代じだいはん

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人物じんぶつ

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国司こくし

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伊予いよもり

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伊予いよかい

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伊予いよじょう

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守護しゅご

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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出典しゅってんは『愛媛えひめけん 人物じんぶつ[3]

室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく大名だいみょう

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豊臣とよとみ政権せいけん大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての伊予いよもり

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伊予いよこく合戦かっせん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 伊豆いずこくまめしゅう)や伊勢いせこくいきおいしゅう)と区別くべつするため2文字もじもちいる。「しゅう」は伊賀いがこく

出典しゅってん

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  1. ^ a b c こうむくいよし2006ねん1がつごう
  2. ^ 山口やまぐちけい広島ひろしまけんくれ大崎下島おおさきしもじま大長おおちょう宇津うつ神社じんじゃとうさつ」(PDF)『広島大学ひろしまだいがく総合そうごう博物館はくぶつかん研究けんきゅう報告ほうこく -(3)』、広島大学ひろしまだいがく総合そうごう博物館はくぶつかん、2011ねん2022ねん1がつ5にち閲覧えつらん 
  3. ^ 愛媛えひめけんへんさん委員いいんかい へん愛媛えひめけん 人物じんぶつ愛媛えひめけん、1989ねん2がつ28にち、699ぺーじNDLJP:9776235(よう登録とうろく)

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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