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佐竹さたけよししゅん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐竹さたけよししゅん
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん おうひさし27ねん1420ねん
死没しぼつ 文明ぶんめい9ねん11月24にち1477ねん12月29にち
改名かいめい よしよりゆきよししゅん
別名べつめい 通称つうしょう五郎ごろう右京大夫うきょうのだいぶ
官位かんい 伊予いよもり
氏族しぞく 佐竹さたけ
父母ちちはは ちち佐竹さたけ義人よしひとははみなもとひめ佐竹さたけ義盛よしもりむすめ
兄弟きょうだい おんな結城ゆうき光久みつひさ持朝もちともしつ)、よししゅん上杉うえすぎ実定さねさだ戸村とむらよしやまと[1]小野おの義盛よしもり[2]義経よしつね
つま 小山こやま大膳だいぜん大夫たいふこうあさむすめ
義治よしはる天神てんじんはやし義成よしなり宇留野うるのよしおおやけ宇留野うるのそんとら[3]戸村とむらよしえき[4]
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佐竹さたけ よししゅん(さたけ よしとし)は、室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう佐竹さたけだい13だい当主とうしゅ伊予いよもりはつよしよりゆき(よしより)。

佐竹さたけ義人よしひと嫡男ちゃくなん生母せいぼみなもとひめ佐竹さたけ義盛よしもりむすめ)。おとうと上杉うえすぎ実定さねさだ上杉うえすぎ憲実のりざね猶子ゆうし)、戸村とむらよしやまと戸村とむら)、小野おの義盛よしもり義治よしはる天神てんじんはやし義茂よしもち宇留野うるのそんとら戸村とむらよしえき[4]がいる。

略歴りゃくれき

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えいとおる9ねん1437ねん)にちち義人ぎじんから家督かとくゆずられていたが、実権じっけんちちにぎっていた。しかもおとうと実定じってい寵愛ちょうあいしたちちうとまれ、とおるとく元年がんねん1452ねん)に実定じっていんだ江戸えどどおりぼう山入やまいりゆうよしによって太田おおたじょうから追放ついほうされた。

そと叔父おじにあたる大山おおやま因幡いなば入道にゅうどうつねかねたより、大山おおやましろうつる。

おとうとちち死後しご応仁おうにん元年がんねん1467ねん)においじょう追放ついほうし、よししゅん嫡男ちゃくなん義治よしはるとも太田おおたじょうかえいた。

文明ぶんめい9ねん1477ねん)11月24にち死去しきょ

当時とうじ佐竹さたけ混乱こんらんしていたため、よししゅん本人ほんにん詳細しょうさい事績じせきにはしょうてんおおいが、佐竹さたけ本家ほんけ混乱こんらんが庶家佐竹さたけ山入やまいり跳梁ちょうりょうあらたに勃興ぼっこうした江戸えど常陸ひたち江戸えど)の台頭たいとうゆる結果けっかになる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ はじみなみせいしょうし、のち戸村とむらせいとなり、家臣かしんとなる。
  2. ^ はじ小野岡おのおかせい名乗なのり、のち小野おのせいあらためた。
  3. ^ そうめいてんおおとりおさなくして出家しゅっけしたが還俗げんぞく山入やまいりよし殺害さつがいされた。子孫しそん宇留野うるのせい名乗なのる。
  4. ^ a b 叔父おじ戸村とむらよしやまと養子ようし

参考さんこう文献ぶんけん

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