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佐竹さたけ義昭よしあき

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佐竹さたけ 義昭よしあき
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん とおるろく4ねん8がつ23にち1531ねん10月3にち
死没しぼつ えいろく8ねん11月3にち1565ねん11月25にち
改名かいめい 徳寿とくじゅまる幼名ようみょう)→義昭よしあき
別名べつめい 次郎じろう佐竹さたけよししたがえ(よしより、別名べつめい)、あらわ別名べつめい
官位かんい 右京大夫うきょうのだいぶ
氏族しぞく 佐竹さたけ
父母ちちはは ちち佐竹さたけよしあつしはは小田おだ成治しげはるむすめ
兄弟きょうだい 義友よしとも義昭よしあきよししげる光明院こうみょういんそうなだめよし正宗まさむね寺僧じそうたかしあきらきく寿ことぶきまる小野崎おのざき義昌よしまさだいじょうあきらみき
女子じょし石塚いしづかよしけいしつ)、女子じょし大山おおやま義景よしかげしつ)、
つま 正室せいしつ岩城いわき重隆しげたかむすめ
継室けいしつだいじょうけいみきむすめ
義重よししげ那須なす那須なす養子ようし[1]義尚よしなお小場おば義宗よしむねとも。義成よしなりちち)、
むすめ宇都宮うつのみやひろつなしつみなみりょいん)、むすめ岩城いわきちかしたかししつかつらいつきいん
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佐竹さたけ 義昭よしあき(さたけ よしあき)は、常陸ひたち戦国せんごく大名だいみょうで、佐竹さたけだい17だい当主とうしゅ常陸太田ひたちおおたじょうおも

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

とおるろく4ねん(1531ねん)8がつ23にちだい16だい当主とうしゅ佐竹さたけよしあつし次男じなんとしてまれる。異母いぼ長兄ちょうけい義友よしとも庶子しょしのために、後継こうけいしゃさだめられた。

天文てんもん14ねん1545ねん)、ちちにより家督かとく相続そうぞくしてだい17だい当主とうしゅとなる。このころ佐竹さたけ内紛ないふん収拾しゅうしゅうして、常陸ひたち北部ほくぶ支配しはいする戦国せんごく大名だいみょう成長せいちょうしていた。このため、常陸ひたち統一とういつけて勢力せいりょく拡大かくだいはげんだ。

小田おだ政治せいじ共同きょうどうして江戸えどただしどおりたたかい、勝利しょうりした。弘治こうじ3ねん1557ねん)、宇都宮うつのみや内紛ないふん勃発ぼっぱつすると、当主とうしゅ宇都宮うつのみやひろつな宇都うと宮城みやぎへの復帰ふっき協力きょうりょくし、のちむすめとつがせている。えいろく元年がんねん1558ねん)には岩城いわき重隆しげたか常陸ひたち侵攻しんこうしてくるが、これを小里おざとやぶり、婚姻こんいん関係かんけい理由りゆう有利ゆうり和睦わぼくむすんだ。えいろく3ねん1560ねん)には結城ゆうき晴朝はるともめて勝利しょうりし、さらに白河しらかわはれつな寺山てらやましろ福島ふくしまけん棚倉たなぐらまち)をめて勝利しょうりした。えいろく5ねん1562ねん)には上杉うえすぎ輝虎てるとら上杉うえすぎ謙信けんしん)と同盟どうめいむすんで小山こやましろめた。このとし長男ちょうなん義重よししげ家督かとくゆずって隠居いんきょし、常陸ひたち府中ふちゅうじょううつったが、なおも実権じっけんにぎつづけた。

えいろく6ねん1563ねん)には須資たねたたかって勝利しょうりし、えいろく7ねん1564ねん)には北条ほうじょう氏康うじやす結城ゆうき晴朝はるともむすんだ小田おだ攻撃こうげきけるが、義昭よしあき上杉うえすぎ謙信けんしん宇都宮うつのみやひろつなむすんでぎゃく小田おだりょう侵攻しんこうして小田おだしろ奪取だっしゅし、土浦つちうらしろにまでいつめた(小田おだじょうたたか)。また、継室けいしつ実家じっかであるだいじょうんで、事実じじつじょう同氏どうし傘下さんかおさめた。

えいろく8ねん(1565ねん)11月3にち常陸ひたち統一とういつ目前もくぜんにして突如とつじょとして急死きゅうしした。享年きょうねん35。このため、佐竹さたけ常陸ひたち統一とういつこういちのところでならなかった。

人物じんぶつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • 天文てんもん15ねん1546ねん)、かわえつ夜戦やせんにて関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさ北条ほうじょう氏康うじやす大敗たいはいした。憲政けんせいは、当時とうじ常陸ひたち勢力せいりょく拡大かくだいしていきおいに義昭よしあきに、関東かんとう管領かんりょうしょくと(山内やまうち上杉うえすぎ家名かめい継承けいしょうしてもらうわりに保護ほごもとめたという(山内やまうち上杉うえすぎから佐竹さたけ義人よしひとだい12だい当主とうしゅ)を婿養子むこようしむかえて以降いこう佐竹さたけ上杉うえすぎ男系だんけい子孫しそんとなっていた)。しかし、義昭よしあき父系ふけい代々だいだい世襲せしゅうした関東かんとう管領かんりょうしょくにこそ魅力みりょくかんじたようだが、系譜けいふじょう母系ぼけい)として清和せいわはじめ義光よしみつりゅう末裔まつえいとしての佐竹さたけほこりからか、上杉うえすぎ家名かめい継承けいしょうするにはなれず、これを拒否きょひしたという(なお、これとはなしとして、義人ぎじんおいである上杉うえすぎ憲実のりざね息子むすこである佐竹さたけ実定さねさだあいだおこなわれて、実際じっさい上杉うえすぎ家中かちゅう反対はんたい内紛ないふんになったことがられている)。
  • わかくして隠居いんきょした理由りゆう不明ふめいで、35さい死去しきょしていることから、病弱びょうじゃくだったのではないかとおもわれる。

へんいみなあたえた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 鎌倉かまくら時代ときよ那須なすむらとは同姓どうせい同名どうめいべつ人物じんぶつ
  2. ^ 茨城いばらきけん 1986, p. 323.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 茨城いばらきけん編集へんしゅう委員いいんかい 監修かんしゅう茨城いばらきけん茨城いばらきけん中世ちゅうせいへん〉、1986ねん3がつ20日はつかNDLJP:9643628 (よう登録とうろく)

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]