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佐竹さたけよし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
佐竹さたけ よし
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 寛永かんえい10ねん7がつ24にち1633ねん8がつ28にち[1]
死没しぼつ 寛文ひろふみ5ねん9月21にち1665ねん10月29にち
別名べつめい 所化しょけまる四郎しろう三郎さぶろう通称つうしょう
戒名かいみょう 本源ほんげんいん殿どのおうむねせいだい居士こじ
官位かんい したがえ式部しきぶしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 佐竹さたけ義隆よしたか
氏族しぞく 佐竹さたけ
父母ちちはは ちち佐竹さたけ義隆よしたかははりゅうきよしいん多羅尾たらお
兄弟きょうだい しょ義長よしなが亀子かめこ黒田くろだちょうきょう継室けいしつ
つま 正室せいしつ佐竹さたけよしとなりむすめ
よし
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佐竹さたけ よし(さたけ よしおき)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき久保田くぼたはん佐竹さたけ式部しきぶしょう輔家の初代しょだい

生涯しょうがい

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寛永かんえい10ねん1633ねん)、出羽でわこく久保田くぼたはん2だい藩主はんしゅ佐竹さたけ義隆よしたか長男ちょうなんとして誕生たんじょうした。生母せいぼ側室そくしつ多羅尾たらお

庶子しょしのために長男ちょうなんながら嫡子ちゃくしになれず、本家ほんけぐことはできなかった。一時期いちじき佐竹さたけ家中かちゅうあしめい旧臣きゅうしんからあし名家めいか再興さいこうするための人物じんぶつとして候補こうほげられていた。慶安けいあん2ねん1649ねん)6がつ20日はつか江戸えど幕府ばくふ3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ拝謁はいえつする。うけたまわおう3ねん1654ねん)12月28にちしたがえ五位下式部少輔に叙任じょにんされる。

寛文ひろふみ5ねん(1665ねん)9がつ21にち死去しきょした。享年きょうねん33。のち長男ちょうなんよしは、久保田新田くぼたしんでんはんだてはんした。

子孫しそん寘の官位かんいから式部しきぶしょう輔家しょうされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 新編しんぺん佐竹さたけ系図けいず』(加賀谷かがや書店しょてん、1973ねん)p.55