佐竹さたけ貞義さだよし

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佐竹さたけ貞義さだよし
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 弘安ひろやす10ねん1287ねん
死没しぼつ 正平しょうへい7ねん/文和ふみかず元年がんねん9がつ10日とおか1352ねん10月18にち
別名べつめい 上総かずさ入道にゅうどう
戒名かいみょう こん山道さんどうげん
官位かんい 遠江とおとうみもり駿河するがもり上総かずさかい常陸ひたちかい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 佐竹さたけ
父母ちちはは ちち佐竹さたけ行義ゆきよしはは二階堂にかいどう頼綱よりつなむすめ
兄弟きょうだい 貞義さだよし長倉ながくらよしつな大内おおうち義高よしたか義信よしのぶ中条ちゅうじょう貞宗さだむね大塚おおつか義治よしはる高久たかく景義かげよし
つま 正室せいしつ海上かいじょうたねやすしむすめ
あつ月山がっさんあまねくるる小瀬こせ義春よしはる義直よしなおふゆよし
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佐竹さたけ 貞義さだよし(さたけ さだよし)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての武将ぶしょう佐竹さたけだい8だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅ北条ほうじょう貞時さだときよりへんいみなけて[1]貞義さだよし名乗なのる(具体ぐたいてき元服げんぷくとし不明ふめい)。

1303ねん多賀たがぐんきょうぜんてら建立こんりゅうする。

鎌倉かまくら時代じだい末期まっきにあたる1331ねん元弘もとひろ元年がんねんもととく3ねん)に、みなもと頼朝よりともによる守護しゅごしょく創設そうせつ以来いらい八田はったぞく独占どくせんされてきた常陸ひたちこく守護しゅごしょく補任ほにんされた[2]

鎌倉かまくら幕府ばくふ討幕とうばく運動うんどうはじまると、同年どうねん9がつ幕府ばくふぐん一員いちいんとして笠置山かさぎやま参加さんか[3]武功ぶこうげた。しかし、足利あしかがたかし調しらべりゃくけて討幕とうばくぐん寝返ねがえる。たてたけし2ねん1335ねん)11月には、ちゅう先代せんだいらんなどにおける足利あしかがとうとしてのぐんちゅうによって、足利尊氏あしかがたかうじからもその功績こうせきにより常陸ひたち守護しゅごみとめられた[2]。それ以来いらい佐竹さたけ世襲せしゅうとなる[2]

同年どうねん尊氏たかうじ追討ついとう勅旨ちょくしけた義良親王のりながしんのう陸奥むつまもる北畠きたばたけ顕家あきいえ軍勢ぐんぜいれて勿来なこそせき南下なんかするとの情報じょうほう足利あしかがから、貞義さだよしをはじめとする与党よとうらとともに行軍こうぐん阻止そし指令しれいけた[2]

1352ねん9がつ10日とおか、66さい死去しきょし、嫡男ちゃくなんあつしいだ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 結城ゆうきだいよんかん 古代こだい中世ちゅうせい通史つうしへん結城ゆうき、1980ねん)P.297 のせつによる。ただし、「正宗まさむね寺本てらもと 佐竹さたけ系図けいず」の貞義さだよし傍注ぼうちゅうには「貞氏さだうじいち也」と記載きさいされており(『だい日本にっぽん史料しりょう』6-17、P.16)、正確せいかくには貞時さだときへんいみなけた足利あしかがさだから「さだ」のけたものとみられる。
  2. ^ a b c d 茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん茨城新聞いばらきしんぶんしゃ、(1981)
  3. ^ 太平たいへいまきさん笠置かさぎ軍事ぐんじづけ陶山すやま小見山こみやま夜討ようちごと

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 茨城新聞いばらきしんぶんしゃへん へん茨城いばらきけんだい百科ひゃっか事典じてん茨城新聞いばらきしんぶんしゃ、1981ねん、459ぺーじ。"佐竹さたけ貞義さだよし"。