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佐竹さたけよし

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佐竹さたけ よし(さたけ よしみち、ひろし2ねん7がつ3にち1742ねん8がつ3にち[1] - 寛政かんせい3ねん10月7にち1791ねん11月2にち))は、出羽でわ久保田くぼたはん重臣じゅうしん佐竹さたけ東家あずまや12代目だいめ当主とうしゅ先代せんだい佐竹さたけよしさとし次男じなん当初とうしょ久保田くぼたはん重臣じゅうしん宇都宮うつのみやいで宇都うと宮武みやたけつな(うつのみや たけつな)、通称つうしょう帯刀たいとうしょうしていたが、のち実家じっか佐竹さたけ東家あずまやもどり、いみな通称つうしょうはたかん山城やましろあらためる。あね岩崎いわさきはんしゅ嗣子しし佐竹さたけ義敏よしとししつあに義武よしたけみなもと六郎ろくろう)。いもうと多賀たがたにあつしけいしつ茂木もき若狭わかさしつほか。おとうと多賀たがたにあつしこう下総しもうさあつしけい養子ようし)。正室せいしつ石塚いしづかよしひねむすめ継室けいしつ六郷ろくごう政長まさなが長女ちょうじょ継室けいしつ飛鳥井あすかいまさしげるいもうと子女しじょよし長男ちょうなん)、戸村とむらよしどおりしつひさしゆかり次男じなん)。

経歴けいれき

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はじ宇都宮うつのみやたかしつな(帯刀たいとう)の養子ようしとなり、その家督かとく相続そうぞくして宇都宮うつのみや帯刀たてわきたけつなしょうす(「あに義武よしたけより1けたものか)。たかられき8ねん(1758ねん)に相手あいてばん就任しゅうにん

あに義武よしたけちち先立さきだって早世そうせいしたために宇都宮うつのみや家督かとく戸村とむらからの養子ようしであるあきらつなゆずり、佐竹さたけ東家あずまやもどる。のち佐竹さたけ東家あずまや家督かとく相続そうぞく安永やすなが元年がんねん(1772ねん)、はんたいし、京都きょうと公家くげ高倉たかくらはちせんまるとの養子ようし縁組えんぐみねがうものの、年齢ねんれいとう理由りゆう却下きゃっかされる。安永やすなが7ねん1778ねん)に700せき加増かぞう寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)5がつ7にち隠居いんきょし、長男ちょうなんよし家督かとくゆずる。寛政かんせい3ねん10がつ7にち1791ねん11月2にち死去しきょ、50さい

文化ぶんか2ねん(1805ねん)、長男ちょうなんよし将監しょうげん)は飲酒いんしゅうえひと殺傷さっしょうし、隠居いんきょめいじられて、おとうとあつしこう多賀たがたにやしき幽閉ゆうへいされた。藩主はんしゅ一族いちぞく佐竹さたけよしあつし舎弟しゃてい佐竹さたけ義方よしえとみ佐竹さたけ東家あずまや家督かとく相続そうぞくした。そうした不祥事ふしょうじのため、系譜けいふるい当主とうしゅからのぞかれていることがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 新編しんぺん佐竹さたけ系図けいず』(加賀谷かがや書店しょてん、1973ねん)p.150

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 三浦みうらけんわらわへん秋田あきた武鑑ぶかん」(無明むみょうどう出版しゅっぱん、1981ねん初版しょはん原著げんちょは「久保田くぼた家中かちゅう分限ぶげんちょう」の著者ちょしゃ)